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ウンドウはすべてエレクトリック。

 

エイゾウ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 

 

 ロクサツめのジチョをだすことになった。イッサツめとくらべると、ブツリガクテキなセツがふえたとおもう。どうも、わたしのキョウミがそちらのホウにむいているからだ。これらはまとめ、ふゆあたりにイッサツにしようとおもっている。ブツリガクテキなはなしだけをよみたいというのであれば、てにとっていただきたい。

 

 ことしは、レイカであろう。あまりあつくない。しかし、わたしがこどものころをおもいだしみると、そんなにあついひがあったというキオクがない。こんなかんじだったかもしれない。

 

 いよいよコウレイカがシンテンし、ニホンケイザイがためされるキョクメンにさしかかっている。ここでニジュウネンばかりこらえられたら、そのあとまぁうまくいくかもしれない。キョウ、にじがみえた。シゼンはニンゲンのツゴウとはベツにうごく。むずかしいシャカイジョウキョウであるが、いいしごとができればとおもう。

 

 

 

               ニセンジュウキュウネン シチガツ ニジュウシチニチ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イチ

 

 

 

ケイエイカツドウでは、くろじがよしとされる。しかし、だれもがくろじというのはありえない。くろじがでるなら、どこかであかじがでているはずである。

 

ヒャクエンのジュースでかんがえよう。そのうちサンジュウエンがリエキブンとしよう。これをななジュウエンでうれば、うるホウも、かうホウもあかじはでない(くろじもでない。)。しかし、ヒャクエンでうりかいすると、うるホウはサンジュウエンのくろじ、かうホウはサンジュウエンのあかじがでる。

 

フツウはこれをあかじといったりしない。しかし、そういうことである。かうホウは、そうやって、あかじ(くろじのもと)をキョウキュウする。ケイキがわるいときは、うるホウがあかじをキョウキュウしたりする。ただかうだけだったら、フケイキのホウがあかじはすくなくなるだろう。しかし、どこかではたらいていたりするから、あかじじゃこまるとなる。カイシャがつぶれてしまってはこまるし、キュウリョウがさがってもこまるからだ。そうやって、くろじはゼニンされる。

 

また、ロウドウもあかじである。イッセンマンエンブンしごとをして、ゴヒャクマンエンをうけとったりする。そういうわけだから、あかじはつきものともいえる。あかじがないシャカイをめざしたくにはあるが、それがセイコウしたとはきかない。

 

 

 

 

 

 

チホウからひとがダイトシのホウにイドウするという。そのために、ダイトシは、ますますおおきくなり、チホウはさびれる。なぜそういうことがおこるか。

 

ケイザイテキにいえば、ダイトシにはかねがあつまるからだろう。トクにシュトとなれば、ゼイキンがあつまるから、それにむらがるといえるだろう。チョクセツもらうのではなく、しごとをしてそれをもらうと。

 

しかし、ベツのみかたもある。これは、どちらかというとシャカイガクテキなみかただ。ひとには、ニシュルイのひとがいるかもいれない。ひとつは、チュウオウのホウをむくひとだ。なにかというと、チュウオウのホウをみる。チュウオウでは、なにがリュウコウしているのかなどをきにする。チュウオウというと、やはりダイトシだろう。

 

もうひとつは、ヘンキョウのホウをむくひとだ。いなかでは、なにがはやっているかなどをきにする。チュウオウのホウがいまはひとがあつまっているから、さびしくもなくなるかもしれない。しかし、いなかでノウギョウをしていなければ、たべていけない。だから、ノウサンブツをてにいれるために、トシでは、ニンゲンカンケイがジュウシされているといえる。そうやって、チュウオウのホウをむくひとがおおいから、ノウギョウがさかんになるというのはむずかしいかもしれない。

 

 

 

サン

 

 

 

クラシックオンガクのコウキョウキョクなんかはすごい。タクサンのパートにわかれて、タクサンのおとをひいている。それでトクにうまいひとは、「ソリスト」とよばれる。ヴァイオリンもあれば、チェロもある、トランペットもあろう。いってみれば、タクサンのソロがまじりあって、キョクをコウセイしている。

 

そのテン、ニホンのオンガクは、わりとタンジュンだったりする。ガッショウなどもやるひとはやっているが、よんパートにわかれてのうたをうたいだしたのは、サイキンのことであろう。ニホンジンもそういう「ソロ」のあつまりになれてきたかもしれない。それがすすむと、いまはあまりしないのではとおもうが、「おチャにしますか、コーヒーにしますか。」などと、センタクをさせるバメンがふえるかもしれない。つまり、そのひとが「なんの」ソリストかをシュチョウしなければならないというバメンができるということだ。

 

ニホンはタンイツブンカなどというが、やはりそういうヘンカがでてきてもおかしくない。セイショウもいいが、やはり、「ソリスト」のカツヤクもダイジとおもうわけである。わたしにいわせれば、ニホンのゲンダイのうたは、みっつのソロでできている。ひとつはうた。ひとつはカウンターメロディ、ひとつはコードだ(もうひとついえば、ベースフレーズ。)。

 

クラシックだともっとフクザツだが、いまのうたは、そんなかんじである。だから、うりあげはどうあれ、ギジュツテキには、クラシックにおよばないとおもう。そうやって、モンクをいうならジブンでもっとフクザツなものをつくればいい。しかし、ギジュツがヒツヨウなのである。そうカンタンではない。まだまだクラシックからまなぶことはあろう。

 

 

 

よん

 

 

 

なぜ、ニホンジンのめはダイタイくろいのか。それは、そのいろがよくあるシゲンなんだろう。モクザイをもやすと、くろくなる。カンタンにいうと、そのいろをつかえばいい。ガイジンなら、うみのいろとか、ショクブツのいろをつかえばいいだろう。

 

しかし、なぜウチュウがくろいのか。ひょっとしたら、もえかすがタクサンただよっているのかもしれない。わたしのカイソウセツ(●『スーペリアーをみつけた。』[イカ、『ス』]ゴジュウキュウ、ヒャクニジュウロク、ヒャクサンジュウロク)では、ウチュウがおおわれているから、くろいのであろう。まえに、ブヒンがよければ、カンセイヒンがよくなる(●『オンガクイチエンのジダイ』[イカ、『オ』]ヒャクサンジュウイチ、『ス』ヒャクサンジュウ)。とかいた。

 

しかしである、モーツァルトのオンガクをまねてみた。おとそのものも、(ガッキをひいたわけでない。ガッキをひいたおとをつかった。)わるくない。それなら、「わるくない」オンガクができるはずである。

 

だが、ケッカはなれていないおとのシュウゴウになった。そのキョクは、いわゆるソロのあつまりのようなキョクである。それで、ブヒンもタイセツだが、シキ(くみたてギジュツ)もダイジだとおもった。いいハーモニーにしなければならないと。だから、ソロがおおいようなオンガクのばあいは、シキシャがセンゾクでヒツヨウなのであろう。ひとつのギジュツである。

 

ニンゲンシャカイもそうなのだろう。シャカイブヒンをまとめるリーダーがヒツヨウなのかもしれない。トクにソロがつよいところではそうだろう。そういうメンでは、まだニホンはソロがつよくないといえるかもしれない。あまり、リーダーのはなしにならないからだ。セイゾウギョウでは、ブヒンをつくるのは、ニホンジンはつよいだろう。しかし、くみたてギジュツは、あまりやらなくなったブン、チュウゴクがつよくなっただろう。ハンエイするのは、ブヒンがつよいくにと、くみたてギジュツがつよいくにかもしれない

 

 

 

 

 

 

「でるくいはうたれる。」という。しかし、ですぎたくいをうつのはむずかしい(●『よろこぶゲンシジン』[イカ、『よ』]ななジュウゴ)。まえのホンでギロンしたいじめのモンダイ(●『ス』ヒャクロクジュウゴ、ヒャクロクジュウサン)も、くいをたたけばいいわけではないというケツロンである。なぜなら、フコウヘイがショウずるからだ。

 

つまり、ひとりのできをかえるのでは、そのひとのフタンがおおきい。だから、コウヘイなリョウだけ、ゼンインのできをかえればいい。それはどういうことかというと、でたくいはちょっとたたき、でてないくいはちょっとひっぱるということである。そうすると、それぞれのドリョクがキントウで、あらたなフコウヘイカンがうまれないということである。

 

 

 

ロク

 

 

 

このごろ、わたしは、うたのカシュのカンジョウヒョウゲンがきになる。たまにヒョウゲンがゆたかなカシュがいる。まえは、メロディにかしがのっていれば、リッパなうただとおもっていたかもしれない。まえに、ドのおとだけでなく、レのおとも、ミのおともくわえてはなせば、カンジョウがヒョウゲンできるとかいた(●『よ』サン)。

 

たしかにそういうメンもあるが、それだけではない。こえのおおきさもそうだろうし、こえのシツカンもある。サイキンは、コンピューターにカショウさせたり、ブンをよみあげさせたりするが、まだまだそういうイミでジツヨウテキではないとおもえる。もっともそのギジュツがジツヨウカノウになってしまうと、コンピューターにだまされるということになってしまう。ゲンジョウのままでいいのかもしれない。

 

 

 

なな

 

 

 

ちょっとまえまでは、「コクサイキョウリョク」とか「キョウチョウ」とかいっていたが、サイキンでは、ナショナリズムがはやっているかのようだ。それについてギロンもあるだろう。

 

しかし、セカイジュウのみなのしあわせがダイジというイケンも、わたしたちのくにのしあわせがダイジというイケンも、サイキンはあまりきかれなくなったことばだが、「イデオロギー」である。

 

つまり、ゲンジョウではそうではないが、モクヒョウとしてコウドウしたいというおもいである。それが、「ジコクユウセン」にかわってきているとすれば、(そのまえにいっていた)コクサイキョウチョウは、あるテイドタッセイされたということかもしれない。そのうえで、ジコクをダイジにするだったら、そんなにわるいはなしでもないようなきがする。それでまたジコクがうるおえば、また、コクサイキョウチョウにむくかもしれないからだ。

 

シャカイもダイジだが、コジンもダイジである。ニホンでは、「シャカイジン」といい、シャカイニンゲンがソンチョウされるようだが、そういうタサイボウのいきもののようではなく、タンサイボウのいきものもいる。つまり、コジンニンゲンでもいいはずだ。むかしだったら、「いえ」ごとにかんがえていたんだろう。「シャカイジン」というかんがえは、そうふるくはないのだろう。それはともかく、サイキンは、モクヒョウがかわってきていると、そういうことだろう。タブン、どちらもタイセツだ。

 

 

 

ハチ

 

 

 

デンシキキのあるヨウシキのことを、「ドダイ」というようなことばであらわしたりする。「それはもっともフキュウしている『ドダイ』だ。」というようにである。しかし、これはレトリックというか、セイヒンのイメージをよくさせるために、えらんだことばではないかともおもう。

 

それは、だれでもがその「ドダイ」にのれるわけではないからだ。トクに「ニュウジョウセイゲン」はもうけていないようだが、おかねがなければ、その「ドダイ」にはのれない。さらに、「タイジョウセイゲン」ももうけていないだろうが、イジするのにそこそこのシキンリョクがいる。それなら、「つりわ」とよんだホウがいいのではないか。タイリョク(シキンリョク)のないひとは、かってにそこからおちるイメージである。しかし、「つりわ」はイダイである。それだけあいされているわけだから。

 

 

 

キュウ

 

 

 

だれかがリエキをだすと、ものがやすくなるはなしをした(●『オ』ヒャクサンジュウゴ、『ス』サンジュウハチ)。だから、ブッカをアンテイさせたかったら、リエキをあげるのをやめればよい。しかし、それをするというはなしはきかない。

 

ブランドもののよさは、ものがたりとかにあるのではないかもしれない。たかいカカクがいいのではないか。たかいカカクでかわれれば、ケッコウなリエキがでる。そうすると、そのリエキのブン、だれかがうっているもののねだんをさげるのである。ブッカがやすくなるから、あえてブランドものをかうのかもしれない。

 

 

 

ジュウ

 

 

 

よくケイキがいいだの、わるいだのいう。コウケイキかフケイキかである。ショウバイをしていれば、コウケイキのホウがいいだろう。それとおなじように、「シャカイ」にもいい、わるいがないか。

 

ものがスムースにとりひきできるのは、いいシャカイ(コウシャカイ)だろう。イッポウ、ショウヒンセツメイが、いいカゲンだったり、フリョウヒンをうりつけたりするのは、アクシャカイだ。ケイキ、ケイザイのジュンカンもダイジだが、シャカイのジョウタイもダイジだとおもうのである。

 

 

 

ジュウイチ

 

 

 

ニホンのガッコウでまなぶショドウは、ハンシのおおきさにかきあげる。しかし、そこにかいたなんモジかは、ジツヨウテキなブンといえるだろうか。タブン、ジツヨウセイはすくないだろう。つかえるとしたら、スローガンにだろう。そういうのは、ネンにイッカイかけばいいぐらいだろう。それなのに、マイシュウイッカイはかく。

 

たしかに、おおきなジでかけば、こまかいはらいや、はねにこだわるだろう。だが、ちいさいモジで、ブンショウをかいたホウがいいのではないか。どうもそんなきがする。いってみれば、いまのニホンのショドウキョウイクはゲイジュツテキなのだ。

 

 

 

ジュウニ

 

 

 

ひかりはネツをもっていたりもする。ちょっとまえにはやったシンガタデンキュウは、あえて、ネツをへらして、あかるさをふやしたかたなのだろう。タイヨウケイのワクセイは、そとがわをまわっているものほど、オンドがひくいとされる。ジッカンとしてもそうだ。

 

たいたひのちかくにいればあついが、はなれるとあつくなくなる。だから、タンジュンにいうと、ダブリュエー(あたたかさ)イコール エルアイ(ひかり) わる ディ(キョリ)となる(ただし、ヒョウジュンテキなひかりのばあいだ。)。

 

しかし、あるキョリをすすむことにより、あたたかさがうしなわれるかはうたがわしい。ひかりがあたたかさをうしなわないでとどくとするなら、ダブリュエー イコール エルアイだということになる。とおくのワクセイだと、ひかりのとどくヒンドがひくいというみかただ。ジッカンとしてはゼンシャだろうか。しかし、ネツのコウカン(すすむさきのブッシツと)とかんがえれば、コウシャといえるだろうか。また、ひかりのシュルイのモンダイもある。

 

 

 

ジュウサン

 

 

 

わたしのおやじとおふくろは、センソウをタイケンしたセダイだからか、かなりシッソだ。あたらしいものなんか、メッタにかってこない。わたしは、いまのところ、それをまねできていない。

 

おやじなんかは、ものをショユウしたところで、なにかがおこれば、なくなってしまうぐらいにかんがえていたのかもしれない。ただ、いまのところ、「トチ」はなくならない。だから、フドウサンがねあがりしたりしたのだろうが、またねさがりした(ジンコウゲンショウのため。)。おやじとおふくろがあじわったムジョウカンは、ジッサイにタイケンしてみないとわからないかもしれない。

 

 

 

ジュウよん

 

フケイキのときには、シツギョウがふえるという。そこでショクをうしなったひとはどうすればまたかせげるだろう。

 

ニンゲンのこのむものをみれば、それはタッセイできるかもしれない。パソコンがはやったジダイなら、パソコンみたいなニンゲンになればいいし、ケイタイデンワがはやったのなら、ケイタイデンワみたいなニンゲンになればいい。それはよくうれるのだから、まちがいないだろう。

 

 

 

ジュウゴ

 

 

 

ものエーと、ものビーをみたときに、ニンゲンは、それを「おなじ」か「ちがう」とハンダンするだろう。ニホンでは、コクミンドウシが「おなじ」だと、キンシツテキだといわれることがある。しかし、よくみると、ちがいはあるだろう。そういうなかでは、「ちがう」とイシキしたら、「ちがう」となる。

 

イッポウでガッシュウコクには、「ちがう」ひとたちがあつまっていたりする。そういうなかでは、「ちがう」とニンシキしなくても、「ちがう」だろう。へたすると、「ちがう」ドウシでケンカになるから、「おなじ」とおもわせるしかけがヒツヨウとなるだろう。

 

そうやって、カンネンテキに「おなじ」にしていく。しかし、いまのはやりは、「ちがう」であるかもしれない。しかし、それをすすめると、ドンドン「ちがう」になってしまうので、「おなじ」といえるしくみをキョウカしたりするだろう。そうやって、くにやシャカイはやっていくんだとおもう。いまのところ、サイジョウの「おなじ」はグローバリズムだろう。しかし、「ちがう」のではと。

 

 

 

ジュウロク

 

 

 

「でるくいはうたれる。」という(●ホンチョ[イカ、ムヒョウキ]。しかし、それではサギョウリョウがふえる。だから、でるくいをほおっておくと、もっともコウリツテキとえるかもしれない。たとえば、しごとなどでだ。エイギョウのエフさんはうりあげが、ほかのひとのニバイある。それをうってしまったら、コウリツがおちるだろう。それではしょうがない。

 

 

 

ジュウシチ

 

 

 

「チームワーク」がいいなどという。ひとがそれぞれしごとしているよりも、ダンケツしてしごとをしたホウがいいようにおもえるかもしれない。それはただしいかもしれないが、モンダイもある。

 

それは、まとまることがモクヒョウになったり、まとまることにおおくのロウリョクをさくばあいである。たとえば、それぞれのひとが、ニタンイジカンをついやして、イチずつのしごとをしたとする。それをチームワークよくやるばあいに、ひとびとがまとまるのに、ニタンイジカンをついやしたら、それぞれのばあいにニタンイおとるし、まとまるのに、イチタンイジカンをつやしても、イチタンイ、それぞれのばあいにおとる。だから、それぞれがしごとをしたホウがコウリツはよいとなる。

 

 

 

ジュウハチ

 

 

 

わるいことをすると、バツをうけるというのがある。そのホウがひとはわるいことをしないといわれる。しかし、わるいことをつぶしているだけで、ケンセツテキといえるだろうか。

 

ハンタイにいいことをしたことに、ショウをあたえるというのもある。そのどちらもあるのがフツウだろうが、ニチジョウテキに、トクにコジンとしてはたらいているばあいには、ショウをもらうというのはあまりないとおもわれる。だから、うまくショウをうけられるようにすれば、もっとしごとがハッテンするかもしれない。

 

 

 

ジュウキュウ

 

 

 

ミンエイカは、ハチジュウネンダイから、カッパツになった。ソレンのシッパイとドウヨウ、ケイエイのしかたのモンダイともいえる。しかし、そのほかにも、モンダイがある。それは、まえにシテキした、コウリツのモンダイである(●ジュウシチ、『オ』ゴジュウロク)。

 

 つまり、まとまりをジュウシするゆえに、ココのはたらきがよわくなってしまうということだ。それなら、ココのちからをいかせばよい。それだけであろう。

 

 

 

ニジュウ

 

もう、バブルゴのセダイがそだっている。そのセダイは、そのまえのセダイとはかんがえがちがうであろう。だから、「センゴ」のジダイのつぎのジダイがはじまってよさそうである。しかし、センゴのセイサンがおわらないために、なかなかそういうこえはきかれない。センゴのセイサンがすすまないためかもしれないし、そもそもセンソウがおわっていないからかもしれない。ショクミンチへのサクシュへのトウソウなどである。

 

 まだまだヘイワとはいえなそうなのである。

 

 

 

ニジュウイチ

 

 

 

ダブリュエー(あたたかさ)イコール エルアイ(ひかり)わる ディ(キョリ)とかいた(ただし、コウセイがハッするようなである。●ジュウニ)。これがただしければ、ウチュウのそとがわは、つめたいはずである(●『ス』ゴジュウキュウ)。

 

 それで、わたしは、ウチュウのそとがわは、コタイだとかんがえる。つまり、なかからみたチキュウのようにである。それとドウヨウに、チキュウのうちがわにも、ウチュウのようなものがひろがるとかんがえる(●『ス』ヒャクニジュウロク)。イチブンでいえば、ウチュウとは、カイソウコウゾウになっている。ということである。

 

 

 

ニジュウニ

 

 

 

ケイザイののびは、みぎかかたあがりがよいとされる。しかし、にもかかわらず、キュウなハッテンをカンゲイしたりする。そのリユウのひとつは、かぶぬしのリエキのためであろうが、まぁ、それをキタイしたりする。

 

 そうではなくて、ケンジツなのび(ネンリツイッパーセントのうりあげゾウなど)をめざすのがよいのではないか。「ながいきケイエイ」といっておく。

 

 

 

ニジュウサン

 

 

 

ダイエイテイコクは、かつてのセカイイチのようにおもわれているかもしれない。そのゴに、ガッシュウコクがさかえたからだ。「アメリカジンによるヘイワ」なんてことばもある。

 

 しかし、ジョウキキカンなどをカイハツしたギジュツリョクは、ゲンザイでもいきているだろう。また、レンポウのくにもおおい。そういうくにが、「チキュウカ」などといい、がんばっている。

 

 このさきは、ガシュウコクとチュウゴクだといういいかたをするが、ベツのセンもあるのだ。トクに、チュウゴクがたくわえたセイゾウギジュツ(もはや、ニホンジンがつくれなくなったセイヒンもおおいだろう。)と、ダイエイテイコクのギジュツがくみあわされれば、もっともつよいケイエイタイといえるだろう。

 

 

 

ニジュウよん

 

 

 

フリョウショウネンがひざをまげて、おしりはつけずにすわるというビョウシャがある。わシキベンジョは、そういうつかいかたをする。このすわりかたには、ほとんどのニホンジンがこころえているだろう。

 

 ところが、キュウジュウネンダイに、おしりをヂメンにつけてすわりこむわかものがふえたという。それはタイドとしてのリラックスであろう。ヨウシキベンジョがふえたためかもしれない。それにタイオウして、サイキンは、わシキベンジョがへっている。

 

 ニホンジンのドウサにリラックスがふえたようだが、どこにすわるでもなく、いすにすわるでもなく、そういう「わシキずわり」のシセイは、ファイティングポーズのようにダイジだとおもう。

 

 

 

ニジュウゴ

 

 

 

モジをかくのに、おおいシュルイですくなくかくか、すくないシュルイでタクサンかくかというセンタクがある。ゼンシャはカンジをかくようにであり、コウシャはエイゴをかくようにである。

 

 どっちのホウシキでもよいが、ゼンシャのばあいだと、ひとつひとつのモジをおぼえることがカンタンでなない。

 

 そういうモンダイがあってか、サイキンは、コウシャをシジするひとがおおいようにおもう。ニホンゴは、そのチュウカンである。ヘイキンからみると、カンジはくろうとむけだろう。

 

 

 

ニジュウロク

 

 

 

モジがハツメイされ、キロクがカノウになる。そのゴ、そのモジがくずされ、キロクしやすくなっていく(ショウケイモジから、ゲンダイのモジのように。)そうすると、キロクのリョウがふえる。それをブンカというのだろう。

 

 キンネンでは、デンシテキにキロクされる。まだまだブンカのジダイはつづくかもしれない。

 

 

 

ニジュウシチ

 

 

 

ハチジュウ、キュウジュウネンダイは、ニホンはセカイでニバンのケイザイタイコクといっていた。コクナイソウセイサンガクが、セカイダイニイだったからだ。いまは、セカイサンイといっている。

 

 しかし、ホントウにそうなのか。ホントウのところは、イーユーとエイレンポウにつづくセカイダイゴイである。それをわすれてはならない。

 

ニジュウハチ

 

 

 

ミライをヨキしたシナリオエーとビーがあるとする(シーもあるかもしれない。)。それをだれがきめるのか。シジョウがきめるのならば、それはミンシュシュギだろう。かみがきめるというのもあるだろうし、セイジカがきめるというのもあるだろう。それで、セイジというかのシュルイがクベツできる。わたしは、いまのところ、それぞれがきめているるとおもっている。

 

 

 

ニジュウキュウ

 

 

 

もし、ミライのシナリオをシジョウがきめるのなら、そのシジョウをソウサしてしまえというかんがえもでることがかんがえられる。それができるとなると、もはやシジョウがきめているとはいえないであろう。そういうのをソウサされたシジョウということにする。

 

 だれがソウサされたシジョウをつくるのか。ひとつは、セイジカだろう。そうすると、そのカイニュウがおおいほど、シジョウを(ミンイを)ソウサするわけだから、チョウキセイケンができやすいだろう(だから、「ちいさなセイフ」がはやらない。)。ドクサイになるかもしれない。

 

 このようにコウセイなセイドのようでも、きびしいウンヨウになるカノウセイがあることをショウチしていなければならない。コジンがシナリオのセンタクケンをもてるシャカイがよいシャカイかもしれない。

 

 

 

サンジュウ

 

 

 

いまごろでは、あまりヒョウカされるニホンセイヒンはすくない(ニホンキギョウはカイガイでもつくったりもしている。)。ユイイツのレイガイは、くるまであろう。

 

 なぜヒョウカされないか。わたしは、それは、ニホンキギョウが「ブツリョウ」にはしったからだとおもう。ブツリョウとはどういうことか。タクサンうるということではない。セイヒンのシツがブツリョウなのだ。

 

 ハチジュウネンダイからのエンだかになるまえは、すくないエネルギーでうごくようにセイヒンがつくられていた。しかし、エンだかにふれてからは、いろいろとユニュウできるようになったからか、ブツリョウにはしりだした。カセットテープレコーダーは、デンチがジュウジカンもつが、シーディプレイヤーは、ゴジカンしかもたない。コウシャのホウが、おとはよいといわれるが、そういうケッテンがある。シゲンのすくないくににすむイジョウ、それではいけないのではとおもう。

 

 

 

サンジュウイチ

 

 

 

サギョウのコウリツカなどという。それをするためになにをするか。サギョウにかけるジカンをきめるのか。それもできるだろうが、タンジュンにいうと、サギョウにシャクドをつくればよい。コンピューターをドウニュウしているのならカンタンだろう。

 

 

 

サンジュウニ

 

 

 

あるセイヒンがあるとする。それがベンリなら、シジョウにのこる(つかわれつづける)だろう。こどもをうむうまないのかんがえかたはあるが、やはり、ベンリなら、シジョウにのこるだろう。そうかんがえると、センシンコクのニンゲンは、やくにたっていないことになる。どうなのだろう。

 

 

 

サンジュウサン

 

 

 

ケイキがいいだのわるいだのいう。おかねがよくまわっているかどうかをあらわすことばなのだろう。ケイキがわるいと、ケイキタイサクといって、コウキョウコウジをはじめる。そうすると、セイフのあかじがふえる。それでいいのだろうか。

 

 センゼンからそうだが、ニホンはユニュウがあって、なりたっている。だから、ボウエキシュウニュウがダイジなはずである。どうも、それをわすれてしまっているかのようだ。

 

 

 

サンジュウよん

 

 

 

ダブリュエー(あたたかさ) イコール エルアイ(ひかり)わる ディ(キョリ)とかいた(●ニジュウイチ、ジュウニ)。

 

 しかし、ひかりがすすんでいくことにおとろえがないとすれば、ダブリュエー イコール エルアイとなる。だとすると、ひかりのとどかないところは、ダブリュエー イコール レイとなる。そういうわけで、そういうところにはコタイがあるだろう。

 

 

 

サンジュウゴ

 

 

 

キュウジュウネンダイに、「トレンディ」なブンカがはやった。テレビバングミによるエイキョウあっただろうし、ザッシによるエイキョウもあったろう。

 

 なぜか、クリスマスには、デートをしてといったぐあいに、コウドウレイがしめされる。そうしたブンカのエイキョウがあったからか、ふと、そういうブンカをおもいだしたりする。そういうことをしなければという、なかばギムカンのようなカンカクにおちいることがある。ベツにジブンはジブン、タニンはタニンなのだから、それにかならずしもしたがうヒツヨウはないが、それをしないと、「まけ」をセンコクされるようなきがする。

 

 なにかそういう「トレンディ」とはちがうブンカをみつけなければならないかもしれない。

 

 

 

サンジュウロク

 

 

 

わたしがコウコウセイのころ、かよったシィディやは、ルイケイでイチマンニセンゴヒャクエンブンかうと、ニセンゴヒャクエンブンのシィディがもらえた。リツにすると、ニワリである。そういうサービスがあったのでよくいった。

 

 いまはそういうみせはみられなくなった。ベツのいいかたをすれば、それは、まずしくなっただ。ひょっとしたら、ニンゲンもそうかもしれない。「コセイ」とはいうけれども、コウリツがユウセンされ、コセイはへっていく。

 

 

 

サンジュウなな

 

 

 

キュウジュウネンダイコウハンから、ニホンでは、パソコンブームになった。それからパソコンがフキュウした。トウジ、ニホンのメーカーはニホンでつくっていた。いまは、チュウゴクセイがおおい。

 

 それはともかくとして、パソコンをつくることで、だれがもうかるのか、タブン、ニホンジンももうかるが、チュウゴクジンがイチバンもうかるだろう。なぜか。オウベイがアルファベットのブンカなのにタイして、チュウゴクは、カンジのブンカだからである。グタイテキには、モジニュウリョクでラクになる。カンジがもっともカクスウがおおい。それを、ジブンではかけなくてもつかえるのだ。そのメリットはおおきいだろう。

 

 

 

サンジュウハチ

 

 

 

 ウチュウのそとがわに、コタイのかたまりがあるかもしれないというはなしをした(●サンジュウよん『ス』ヨンジュウハチ、ゴジュウキュウ)。

 

 ひかりすらもこおりつくほどのテイオンではないか。そこにたまったひかりのコタイが、あたらしくトウタツするひかりによってねっせられ、エキタイ、キタイとなるのではないか。そのケッカ、ウチュウのうちがわにむかって、コウセイのネンリョウとなれば、ウチュウは、またジュンカンする。

 

 

 

サンジュウキュウ

 

ウチュウのそとがわから「ガスカしたひかり」が、ウチュウのうちがわにながれているかもしれない。とかいた(●サンジュウハチ、『ス』ヒャクジュウゴ、ヒャクキュウ、ヒャクハチ)。なぜ、そういうことがおこるか。わたしは、ブッシツのうごきは、キホンテキに「コウカン」だとおもうからである。いってみれば、エル(うごき) イコール イーエックス(コウカン)である。

 

 さきのレイでいうと、ひかりとガスカしたひかり(ダークライトということにする。)が、コウカンされる。それによって、ウチュウがながもちするのではないか。

 

 

 

よんジュウ

 

 

 

エル(うごき) イコール イーエックス(コウカン)とかいた(●サンジュウキュウ)。そうであれば、まえにかいた(●『ス』ヒャクよんジュウよん、『よ』サンジュウニ)ように、エル イコール ティ(ジカン)である。これから、ティ イコール イーエックスとなる。

 

 つまり、ティをセイリツさせるためには、ティ イコール イー(エネルギー)わる ダブリュ(おもさ)ゆえに、エネルギー、オモサがヒツヨウで、ティとコウカンはトウカとなる。

 

 ニンゲンのことばのおもさは、あまりはかられないが、カガクブッシツとすると、なんグラムかだろう。そこにエネルギーがあり、コウカンカノウだとすると、ジカンのカンネンができるだろう。ニンゲンは、エネルギーをもっているし、ことばをコウカン(たべることもだ。)するから、ジカンをニンシキすることがカノウだったのだろう。

 

 ジカンがないと、シンポすることがないから、コウカンしないようなセイブツはほろびただろう。

 

 

 

よんジュウイチ

 

 

 

 ジカンとコウカンについてかいた(●よんジュウ)が、これは、セイブツであるためのジョウケンかもしれない。つまり、イチ、エネルギーがあって、ニ、おもさがあって、サン、コウカンがカノウであること。ジリツテキなコウカンができるところが、ほかのものとちがうだろう。

 

 ニのおもさがあっては、みたせるものがおおいだろう。しかし、イチのエネルギーは、ほかからちからがかかるばあいもあるが、なかなかみたせるものはすくない。サンのコウカンカノウとなると、もうめずらしい。

 

 エーアイののっているパソコンも、それにちかいがジョウホウをコウカンするだけだ。だから、セイブツをテイギするには、「エネルギーセイのもの」をコウカンするといったホウがいいかもしれない。

 

 このジョウケンをセイリしていくと、「あなたは、ティ(ジカン)イコール キュウジュウイチ(ジュミョウがキュウジュウイッサイ)ですよといえるかもしれない。

 

 

 

よんジュウニ

 

 

 

 デスクワークばかりしているジブンに、ジブンとエーアイとのサをといかけたとき、どうちがうのか、イッシュンではセツメイできなかった。まえからいっているように(●『オ』ジュウ、サンジュウ、サンジュウイチ、サンジュウよん、サンジュウゴ、サンジュウロク、ななジュウハチ、ヒャクよんジュウイチ、ヒャクロクジュウサン)、ジムサギョウはエーアイにうばわれてしまうだろうから、あせりもひとしおだった。

 

それなら、うごきまわればいいのかであるが、それは、イッポまちがえると、「ボウドウ」とまちがえられるかもしれない。そんなことをかんがえると、はたけをイジすることをわすれているときづく。ジンルイのハツメイだったはずだ。そんなことをわすれているようじゃしょうがない。

 

 

 

よんジュウサン

 

 

 

 ひとのセイカツには、しごともあったホウがいいだろうし、シュミもあったホウがいいかもしれない。また、なにかのサギョウは、しごとだとおもしろくない。もし、すべてのサギョウが、しごとだったらどうだろう。たのしいはずのリョコウも、たのしくないかもしれない。

 

 わたしは、ガッキをみてさがすのがシュミだが、これがしごとだとすると、みたとしてもかいたくない。シュミといっても、ケイサンすれば、つかわれるカイスウはかぎられる。シュミだと、やらないこともセンタクシのひとつだが、しごとだと、やらないしごとはムダである。

 

 そういうめでみると、あまりつかわないものはかおうとはおもわなくなる。わたしのおやじも、おふくろもあまりムダなものはかわなかった。そういうみかたがわたしはできなかったのだとおもう。

 

 

 

よんジュウよん

 

 

 

サイキン、テレビをみて、ふとおもった。ガメンにうつっているニホンジンのこどもは、めぐまれているなと。タブンガッコウにいっているのだろうが、シュミもやっている。わたしがそれくらいのネンレイのころにも、やはりシュミをやっていた。プールにいくとか、テレビゲームをするとかである。

 

そういうゆたかさがおわっていないすると、まぁここサンジュウネンほどは、あまりケイザイなどがアッカしていないのだろう。よくはなっていないかもしれないが、わるくもなっていない。まぁ、わたしは、それで、わかいセダイに、ゆたかさをひきわたせたのだとアンドした。「バブル」というのもあったが、またおきるとはカクシンしていない。

 

 

 

よんジュウゴ

 

エル(ウンドウ) イコール イーエックス(コウカン)とかいた(●サンジュウキュウ)。ニンゲンもエルがカノウで、したがって、なにかをコウカンしてうごいているだろう。たべものやガスなどである。

 

これらは、カガクブッシツといえるだろうし、ばあいによっては、デンキシンゴウショリだろう。もし、そうであるなら、エル イコール イーエル(デンキ)である。それから、デンキをもつものはうごくとなる。シィディプレイヤーもうごいているし、テレビもヒョウジをかえる。

 

もし、ワクセイのカツドウをデンキでとらえれば、デンキがあるゆえにうごくともかんがえられる。つまり、ジュウリョクはデンキというわけである。ジー(ジュウリョク) イコール イーエルだ。また、ジー イコール エルでもある。これは、ジュウリョクにひかれるというはなしだから、わかりやすいであろう。

 

 

 

よんジュウロク

 

 

 

ちいさいおもいものをもってから、おなじおもさのおおきなものをもつ。すると、おおきなホウが、おなじおもさであるにもかかわらず、かるくかんじる。これは、タブン、シンリガクでいうサッカクであろう。ニンゲンはタイセキにあわせて、おもさをスイソクするチセイがそなわっているのだろう。

 

 

 

よんジュウなな

 

 

 

タイヨウには、ジュウリョクがあるといわれる。わたしはそれをうずまきリョクといった(●『ア』ヒャクロクジュウサン、『オ』ヒャクゴジュウロク)。そのかわりに、そとがわへむかってひかりをだす。ということは、ジー(ジュウリョク)とエルアイ(ひかり)のコウカンといえそうだ。

 

しかし、ジーがつよまれば、エルアイもつよまるわけではない。もえつきたあとのように、ひかりをださないこともあるだろう。だから、ジーがつよまれば、イーエル(デンキ)がつよまるとはいえそうだが(●よんジュウゴ、ジーがつよまれば、エルアイもつよまるとはいえなそうである。

 

 

 

よんジュウハチ

 

 

 

タイヨウは、ジュウリョクをもち、かわりにひかりをだすとかいた(●よんジュウなな、『ス』ヒャコジュウゴ)。そのようにひかりはジュウリョクからリダツするセイノウをもつ。それならば、ひかりをつかって、ジュウリョクからリダツするなにかもつくれるだろう。

 

 

 

よんジュウキュウ

 

 

 

 ガッシュウコクで、あまりシャカイシュギシャがいるとはきかないが、タブン、シャカイシュギシャもうけいれるんだろう。イッポウ、ロシア(ソレン)やチュウゴクは、シャカイシュギコクだったが、シホンシュギテキなケイザイカツドウをはじめている。

 

たまに、ガッシュウコクとチュウゴクのニタイコクが、チキュウシャカイをきめるなどというが、それがなぜなのか、あまりセツメイされない。わたしはこれをつぎのようにおもう。

 

ガッシュウコクなどのにしがわショコクは、シャカイシュギをみとめるシホンシュギコクである。かれらと、(ロシア、)チュウゴクなどのひがしがわショコク、シホンシュギをみとめるシャカイシュギコクとのトウソウではないか。おなじようかもしれないが、ちがうともいえる。そういうことではないか。

 

 

 

ゴジュウ

 

 

 

いまのニホンやこれからを、コウレイショウシカといっている。としよりがふえて、こどもがへるということだ。ひとがおいるとどうなるか。からだがうごかせなくなったり、ぼけたりする。わたしのおやじもそうなった。ジテンシャにのってころぶくらいだったのが、やがてねたきりになった。そうすると、ヨウもたせないから、おむつとなる。

 

たまに、わかいひとがナンニンで、としよりをひとりささえるというはなしがでるが、まぁそれだけロウリョクがかかるといえる。そのブン、フツウのしごとができなくなるといってもよい。そのように、おむつカするニホンであるが、フツウのしごとだけでなく、ボウエイなどもタイヘンであろう。いまは、ガッシュウコクがたすけてくれるからいいが、ニホンジンがおかねをもっていないとなると、そうもいかない。

 

チョキンがあって、おかねをあまりつかわないというと、ケイキがわるくなるといって、だれかがおこりだしそうだが、チョキンというのは、「ホケン」であろう。フツウのホケンは、だれかにおかねのウンヨウをまかせるが、チョキンはジブンでウンヨウする。ウンヨウにかかわるコストもおさえられるから、フツウのホケンよりいいかもしれない。

 

そうしたジコホケンがあれば、なんとかなるだろう。ニホンジンがおむつカしたときに、ホケンなしではセイカツできないであろう。セイフは、ジコセキニンとはいわないが、やはりそういうメンがあるだろう。

 

 

 


2

 

ゴジュウイチ

 

 

 

ジュウネンほどまえに、パソコンソフトのカイゾクバンをつかまされたことがある。それは、パッケージのシツがわるいソアクヒンだった。なかみはみなかったのでわからないが、チュウゴクからおくられてきたわかりやすいレイだ。

 

サンネンまえにもまたつかまされた。それは、パッケージはまぁまぁでうごかしてみてきづいた。フツウのものとはうごきがちがうからである。このまえもつかまされたが、サイキンのものは、みためでクベツがつきにくい。なかみも、トウロクバンゴウなどをパターンブンセキして、ホンモノとおなじものをつかうから、ほんものとおなじつかいかたができる。そういうパターンブンセキのギジュツがここゴネンであがってきたようだ。

 

シジョウをみわたすと、そういうソフトがかなりうられている。そういう「ゾンビ」ソフトをあつかうように、シジョウもゾンビカしているのである。こういうジョウタイがつづけば、セイキヒンをあつかうメーカーのリエキをそこなうのだ。ばあいによっては、そのシジョウから、てをひくということもかんがえられるであろう。ニホンのコンピュータソフトシジョウは、あまりうわさにならないが、そのようにかなりひどいのである。

 

ゴジュウニ

 

 

 

ジー(ジュウリョク) イコール イーエル(デンキ)のはなしをした(●よんジュウゴ)。もし、それがただしければ、ジュウリョクをつかったヒコーキができることになる。デンキでとぶヒコーキはまだすくないが、リクツのうえではそうなる。しかしながら、ジュウリョクはそれなりのシゲンである。だれかがチキュウからはじきとばされるのでは、しょうがない。だから、これはギジュツテキにはカノウかもしれないが、シャカイテキなモンダイをはらんでいるといえるだろう。

 

 

 

ゴジュウサン

 

 

 

イーエル(デンキ) イコール ジー(ジュウリョク)のはなしをした(●ゴジュウニ、よんジュウゴ)。コウセイで、ジュウリョクがひきよせて、ひかりがはなたれるから(●よんジュウハチ、よんジュウなな、『ス』ヒャコジュウゴ)、イーエルとエルアイ(ひかり)は、ヒョウリのカンケイといえそうだ。たとえば、デンキが、ビーからエーホウコウにはしれば、ひかりがエーからビーホウコウにはしるとすることができそうだ。まぁ、セッケイによるだろう。

 

ジッサイ、タイヨウコウハツデンキもつくられているし、デンキュウもつくられている。イーエル イコール ジーだから、ウチュウのごみをソウジするのに、デンキをつかえばいいかもしれない。ジーでごみをあつめるわけである。なにかのセイヒンにつかえるギジュツだろう。

 

 

 

ゴジュウよん

 

 

 

センゴ、トウキョウはたてなおされ、セカイユウスウのダイトシとなった。むかしからあるトシは、せいぜいチカテツをつくり、くるまとヘイヨウしてはしらせるのがフツウだが(むかしはバシャがはしっていたであろう。)。トウキョウは、センソウのケッカやけたため、ダイタンなトシケイカクがカノウとなった。それで、シテツ、キュウコクテツカクシャが、トウキョウのチュウシンからホウシャジョウにロセンをはしらせた。ケッカ、コウガイにジュウタクがたち、テツドウでツウキンするようになった。

 

くるまでもツウキンカノウだが、それでツウキンするひとはすくないようだ。しかしながら、センゼンは、くるまは、かねもちののりものだったが、センゴフッコウをへて、ニホンジンはくるまをもつようになった。それであるならば、トウキョウにくるまツウキンすることは、ケイザイテキにゴウリテキなセンタクといえよう。しかしながら、コウガイからのカンセンドウロはせまいし、トウキョウでチュウシャジョウをみつけるのはむずかしい。つまり、トウキョウは、くるまでツウキンをするセッケイにはなっていないのである。

 

もっというと、セッケイシャは、くるまをニホンジンがもつとはおもっていなかったのであろう。しかしながら、もってしまったものはしょうがない。セッケイをてなおしするヒツヨウがあるとおもわれる。くるまでかよったホウがやすいからだ。それなら、チュウシャジョウトウをつくればよいが、あまりのこっているトチはない。ワンガンがあるが、ウォーターフロントだから、ひとがすみたがる。そこのところをどうかんがえるべきだろうか。

 

 

 

ゴジュウゴ

 

 

 

イデンシはジョウホウのチクセキである。タンジュンにタンパクシツをつくるともいわれる。ひょっとしたら、そのセイブツのレキシがかかれているかもしれない。トツゼンヘンイというのは、そのセイブツのなにかがかわったケッカだろう(ギャクのカノウセイもある。)。

 

どのレベルのことから、ヘンイがハッセイするだろうか。わたしがおもうには、タブン、コウドウがかわったばあいである。そうすると、つかうキンニクがかわってくるからだ。そのためにつくるタンパクシツもかわってくるだろう。だから、あたらしいスポーツができたり、あたらしいセイヒンができたりして、つかいはじめると、イデンシがヘンカするだろう。

 

イゼン、わたしは、「あたらしい」ノウができるとかいたが(●『よ』ヒャクななジュウ、ヒャクジュウサン)、イデンシレベルでヘンカがおこるようにおもう。ふるいブジュツがのこっているとすれば、ふるいイデンシものこっているだろう。だれかがうけついだ、やすんでいるそれをみれば、ふるいブジュツがフクゲンできるかもしれない。

 

 

 

ゴジュウロク

 

 

 

カブケンならびにカブシキシジョウがデンシカされてしばらくたつ。むかしのトリヒキジョウは、ひとがあつまっていいとおもうが、タイリョウのチュウモンをこなすにはコンピューターのホウがツゴウがよいのだろう。

 

しかし、そのリテンはそれだけではないだろう。タイリョウのチュウモンが、イッキにショリされるから、シジョウがアンテイするわけだ。だから、トウキカにはおもしろくないが、チョウキでトリヒキするにはむいているだろう。あれてもすぐもどるというわけだ。

 

 

 

ゴジュウなな

 

 

 

「コウレイカ」といわれてひさしい。このあと、ジンコウがイチバンおおいセダイがコウレイカし、ホンカクテキなコウレイカシャカイがはじまる。

 

ゲンザイのニホンジンのコジンキンユウシサンはおおいが、セイフのフサイがおおいため、それでセイサンされれば、ニホンジンはキンユウシサンなしとなる。コンネンドのセイフヨサンがヒャクチョウエンほど。これはゼイシュウのほかにゴジュッチョウエンほどのアカジコクサイがハッコウされる。このままザイセイカイカクをしないとなると、イチバンジンコウのおおいセダイのすがたがみえなくなるころ、ニセンサンジュウハチネンには、やはりセンチョウエンのコクサイザンダカがのこる。

 

これはニホンジンにはらえるかわからないガクだ(コクミンが、ただばたらきをすれば、はらえる。ニヒャクマンエンブンをロクセンマンニンがジュウネンはたらけばセンニヒャクチョウエンになる。)。

 

またそのゴもコウレイカはつづく。だから、さきにのべた、ただばたらきをしたくなければ、ザイセイなり、コジンのサイフのひきしめなどがヒツヨウであろう。ニセンサンジュウキュウネンでセンチョウエンだから、ニセンニジュウキュウネンでゴヒャクチョウエン。

 

もうすでに、ゴヒャクチョウエンキボの、ようするに、ニヒャクマンエンブンをサンゼンマンニンがはたらくただばたらきがはじまっていてもおかしくない。しかし、ほかにもホウホウがあるとことわっておく。

 

 

 

ゴジュウハチ

 

 

 

ガッシュウコクでキンユウギョウがハッテンしたといわれる。なぜおかねをふやすヒツヨウがあるのか。それはケイエイをやってみないとわからないメンがあるが、ジツブツにくらべると、ツウカそのものにはカチがない。それでもつかえそうだというかんがえがあろう。

 

むかしみたいにキンでホショウすれば、ツウカもホショウされる。しかし、そのセイドはつづいていないようだ。あまりツウカダカだと、ユシュツがむずかしくなる。だから、それをとっぱらうために、キンをつかうのをやめて、ユシュツしようとしたのだろう。そうすれば、ほかのくにのひとがやすくかえる。それがホントウにやすいかはなんともいえないが、かうコウホになるだろう。

 

ニホンもハチジュウゴネンにエンダカになることをショウニンした。それでユシュツがフシンにおちいったともいえるが、モンダイはコヨウのホウだ。ニホンセイヒンのカカクキョウソウリョクがよわまったわけだから、うれなくなる。それで、ヒセイキコヨウをふやした。

 

ようするに、シツギョウシャみたいなひとがふえたわけだ。ガッシュウコクでもそうだったのだろう。シツギョウシャをセイキコヨウするには、おかねがかかる。それをかせぐのがキンユウギジュツだったわけだ。ウンヨウエキがでれば、それでやとえる。ガンポンワレだとあとにひびくが。ウンヨウエキのブブンでやればソンはない。

 

ニホンでは、フリョウサイケンショリイコウ、キンリがあがっていないが、オウベイではちがう。ニホンでは、セイフのサイムがあったから、ミンカンがチョウシよくとも、セイサクキンリをあげられない。オウベイでは、そのキンリによって、シツギョウシャをささえられた。ニホンではおなじようなモンダイがあるにもかかわらず、それができていない。キンリがひくいから、カブシキシジョウにながれるだろう。わりだかといわれるくらいであぶないが、そういうことをしないと、シツギョウシャをささえきれない。そういうモンダイがある。

 

 

 

ゴジュウキュウ

 

 

 

さきに、ニホンジンが、ただばたらきをするようになる(●ゴジュウなな)とかいた。これは、コウレイカのシンテンなどで、セイフフサイがふえるためである。それはなにかであなうめしなければならない。タンジュンにフサイをださなければいいだけだが、いまのところ、カイゼンするケハイはない。だが、だれかががんばれば(おかねをだせば)、そうならないカノウセイもある。

 

しかし、むかしはロウエキがあったわけだから、けっしてめずらしいケースではない。ゲンジョウ、ただばたらきのロウドウシャがいるところを、だれかがかねをだしているから、そうなっていないというところだろう。

 

おおきなおかねがあると、キンリだけでケッコウなかずのロウドウシャをやしなえる。たとえばゴヒャクチョウエンあれば、ネンカンジュウゴチョウエンくらいでる。それなら、サンゼンマンニンのただばたらきのひとにゴジュウマンエンをはらうことができる。こづかいがでるわけである。しかし、そういうおかねがなくなると、ただばたらきのニンズウがふえ、こづかいもでにくくなる。セイフフサイがでつづけるとなると、そうなるみこみがおおきい。

 

タンジュンにケイサンすると、セイフフサイがネンカンゴジュッチョウエンでるわけだから、イチネンカンにネンシュウゴヒャクマンエンのロウドウシャイッセンマンニンが、ただばたらきしなければならないとなる。それがつづいて、だれもかねをださないとなると、キギョウのいきおいにあわせて(キギョウはブジである。しかし、キョウソウにさらされる。)、フツウのシャインのかずもゾウゲンするだろう。

 

キギョウは、コクサイキョウソウもそうだが、コクナイでタクサンのただばたらきがふえるわけだから、かなりのキョウソウにさらされる。ということは、シャインのチンギンがさがるか、やとうひとをへらすとなるだろう。そうなると、セイヒンをつくってもそんなにはうれない。かうひとにそんなにおかねがないからだ。

 

ゲンザイでもそういわれたりする。ということは、セイヒンのカカクがさがって、はたらくひとのキュウリョウもさがる。いわゆるケイキがわるいだ。それをどうやってのりこえていくかがカダイだろう。タンジュンにかなりチンギンをさげれば、ながつづきするだろうが、それをするためのキセイはきめにくいだろう。

 

 

 

ロクジュウ

 

 

 

そこらをあるいていると、くるまがよくめにつく。あるカンテンからいうと、それだけかねもちがおおい。そんなにかもちがいるのか。となる。

 

ニホンのユシュツニュウのトウケイからいうと、せいぜいニジュッチョウエンのくろじ(それでもすごい。)だから、そのギョウカイにつとめるジュウギョウインはかえてもおかしくない(くるまはシゼンブツではないのだ。テッコウセキをユニュウするヒツヨウがある。つまり、ゲンリョウはユニュウだ。)。ニジュッチョウエンをキュウリョウとしてハイブンすると、ネンシュウサンビャクサンジュウサンマンエンのガイカをもつジュウギョウインがロッピャクマンニンいることになる。くるまのネダンがサンビャクマンエンとしても、そのひとたちは、くるまをかえるだろう(ジュウネンローンでもいい。)。だとすると、ロウドウジンコウのジュウブンのイチテイドがクルマをかえることになる。つまり、ジュウニンにひとり、ジンコウでいうと、ニジュウニンにひとりとなる。

 

だから、そのケイサンでかんがえると、くるまはそんなにはしっていないはずなのだ。かねもちがおおいというジッカンもそこそこまとをえているだろう。しかし、くるまはタクサンはしっている。それはなぜなのか。

 

さきにのべたように、ニホンのガイカシュウニュウはせいぜいニジュッチョウエンである。そのガイカシュウニュウのハンブンはあぶら、ガスをかうだろう。のこりハンブンのハンブンはセイゾウにヒツヨウなゲンリョウをかうとして、そのこりのハンブンのハンブンでくるまをかうとする。ゴチョウエンだから、ヒャクゴジュウマンダイかえる。かいかえがあったとしても、センゴロクジュウネン(ややフッコウしてから。センキュウヒャクロクジュウネンから、それがつづいたとすると、ななジュウネンでハッセンロッピャクマンダイかったことになる。

 

それなら、なぜかはセツメイできる。ところが、このケイサンだと、くるまイガイのユニュウヒンテキなものは、かえていないことになる。ガイカシュウニュウのよんブンのイチをくるまのコウニュウにあてたということだからだ。

 

つまり、センゴフッコウしてユシュツできるようニホンジンはがんばったが、コクナイにあるものイガイは、くるましかてにはいらなかったことになる(「くるまが」といったホウがいいかもしれない。)。わたしがバブルをケイケンしたセダイなのでそういうが、ななジュウよネンカンのドリョクのケッカが、ニホンジンがくるまをもったということになる。ベツにくるまでなくともよかっただろうが、そとをあるいてみると、どうもそのようだ。

 

それがいわゆるななジュウよネンカンのニホンのケイザイセイチョウである。キュウジュウネンダイから、ユニュウヒンがふえはじめたが、それらをかうとなると、くるまをかうにはたりなくなってくる。それをどうかんがえるか。ひとつは、くるまをダイジにながくつかえばいいのである。しかし、ゼイセイ、キセイがチョウバツテキだから、カンタンではない。しかし、シュウリしてつかえばいいだろう。そうすれば、ほかのなにかもかえるかもしれないのである。

 

 

 

ロクジュウイチ

 

 

 

ニホンジンのジッシツテキなシュウニュウというと、ネンカンニジュッチョウエンほどのガイカシュウニュウにすぎない(●ロクジュウ)。そのほかはニホンジンドウシで、ぐるぐるまわしているにすぎない。そのまわしたリョウはコクナイソウセイサンではかられる。シュウニュウがニジュッチョウエンだから、ひとりあたりニジュウマンエンテイドだ。このハンイで、ユニュウヒンをかわないとあかじになる。あぶらとガスはユニュウである。デンキもダイタイあぶらやガスからつくられるので、ユニュウだ。

 

あなたのいえのコウネツヒはいくらか。ネンカンジュウマンエンでおさまっていたらまぁいいだろう。あとジュウマンエンのこることになる。わたしはキョネンユニュウヒンをゴマンエンぐらいかった。そうすると、ゴマンエンのこるが、タブンショクヒにきえただろう。ギュウニクとこむぎである。そうすると、そうすると、あたたかいおもいと、いいからだつきと、かったテチョウとマンネンヒツがのこる。

 

そうかんがえると、そんなにゼイタクはできないとわかってくる。ショクリョウも、さかなや、とりにくをたべればガイカをつかわない。ラーメンでなくて、そばなどにしてもいい。それがカンペキにできれば、ゴマンエンチョキンできる。そうやって、ガイカをチョキンすれば、なにかのときにやくにたつだろう。もし、これがあかじだと、ニホンジンはまずしくなるということだ。

 

 

 

ロクジュウニ

 

 

 

ただばたらきのひとがふえそうだとかいた(●ゴジュウキュウ、ゴジュウなな)。コウレイカとシャカイセッケイのシッパイからそうなるんだろう。いまのところは、セイフフサイよりもミンカンのチョキンがおおいから、それはヒョウメンカしない。

 

セイフフサイののびは、まいとしゴジュッチョウエン。これがミンカンのチョキンにおいついてしまうと、セイフはどこからか、かねをもってこないとならなくなるから、ゾウゼイやキュウリョウをテンビキすることがかんがえられる。そのはてが、ただばたらきである。イッセイにテンビキするか、ショクギョウにあわせてテンビキするか、そこはわからない。

 

しかし、おかねがまったくないわけではない。あるところにはあるはずである。だから、うまくそういうひとたちとしごとをすればよい。おおむかしに、ひとはシュリョウしていたという。しかし、コンドは、ひとのよいシュリョウであろう。ブツブツなんかをいうより、すなおにしごとをするホウがこのまれる。そうやってめしをかせげばいいのである。そのためには、こだわりをすてるのもダイジであろう。

 

 

 

ロクジュウサン

 

 

 

ひとりあたり、ネンカンニジュウマンエンが、ニホンのケイザイセイセイチョウといった(●ロクジュウイチ)。このニジュウマンエンは、いまのところつかっていないなにかをてにいれるのにつかえる。ネンカンニジュウマンエンだから、よんジュウネンそれをためてもハッピャクマンエンである。

 

いま、いえをもっていなかったとしたら、いえをたてたいかもしれない。しかし、このばあいたててはだめである。ハッピャクマンエンではたたないだろうからだ。ともばたらきでセンロッピャクマンエンとすれば、ズイブンなコウガイにたてられるかもしれない。しかし、ゼイタクするのなら、そのセンロッピャクマンエンがねべりするからやめたホウがいい。

 

いますんでいるチンタイアパートがつきジュウマンエンなら、ネンカンヒャクニジュウマエン。ジュウネンでセンニヒャクマンエンだ。ずっとすむつもりだったら、よんジュウネンで、よんセンハッピャククマンエンになる。それなら、はたらきだしてすぐにいえをかえばいいだろうが、そういうひとはすくない。よんジュウダイになって、ニジュウネンブンのヤチンのニセンよんヒャクマンエンとチョキンでかうかというハンダンになろう。

 

ゼイタクをしていなければ、さきのケイザイセイチョウブン、よんヒャクマンエンためているんだろう。それでニセンハッピャクマンエンである。コウガイにかえる。こんなところが、ニホンジンにできることでないか。タブン、ケンジツでないとむずかしいだろう。

 

 

 

ロクジュウよん

 

 

 

エル(ウンドウ) イコール イーエル(デンキ)のはなしをした(●よんジュウゴ)。うごくということは、デンキカツドウというわけだ。もうショウメイされているが、デンキをつかえば、ロボットはうごく。ギャクもまたたしかなのだろう。フウシャがうごくと、デンキがたまるというぐあいにである。もっとキョクタンにいうと、ニンゲンのうごきもデンキになるだろうし(そもそもデンキでうごいている。)、ゲンジョウ、てまわしハツデンがおおいが、ふることでハツデンもできるだろう。

 

 

 

ロクジュウゴ

 

 

 

イーエル(デンキ)のはなしをした(●ロクジュウよん)。イーエルをつかうと、ひかりがでるソウチがある。イッパンにデントウといわれる。シキにすると、イーエル たす ○○(なんといえばよいだろう。) イコール エルアイ(ひかり)となる。つまり、○○があれば、デンキは、ひかりにかえられるし、ひかりも、○○があれば(エルアイ ひく ○○ イコール イーエル)、デンキになる。それは、ジッサイにタイヨウコウハツデンがある。

 

つまり、エル(ウンドウ) イコール イーエル(●ロクジュウよん、よんジュウゴ)だから、エル イコール エルアイ ひく ○○ となるわけである。ようするに、○○があれば、ひかりは、ウンドウにかえられるということだ。ギャクに、○○があれば、ウンドウもひかりにかえられる。その○○とはなんだろうか。またかんがえてみたい。

 

 

 

ロクジュウロク

 

 

 

エル(ウンドウ) イコール イー(エネルギー) わる ダブリュ(シツリョウ)とかいた(●『ス』よんジュウサン、『よ』サンジュウニ)。このシキからいえることは、あるウンドウをおおきくするには、ふたつのやりかたがあるということだ。ひとつは、エネルギーをふやすことだ。たとえば、ロケットにタクサンネンリョウをつめばいい。もうひとつは、シツリョウをへらすことだ。ロケットでいえば、キタイをかるくすればいい。

 

ところで、エル イコール イーエル(デンキ)だから(●ロクジュウゴ、よんジュウゴ)、マンガンをつかったデンキもウンドウがカノウだろう。フツウは、あるキョクへむかうという。こうしたウンドウをたかめたければ、さきにいったように、エネルギーをたかめるか、つまりエネルギーのおおきいブッシツをつかうか、シツリョウをかるくすれば(かるいブッシツをつかえば)よい。

 

つまり、スイソがあるシュルイのブッシツでは、もっともかるいらしいから、そのなかではもっともウンドウがおおきくなるかもしれない(エネルギーがおおきいものもある。)。そうしたホウが、ウンドウをふやすにはコウリツテキだろう。たとえば、コンピューターのケイサンである。そういうのをコウセイノウカしようとおもったら、もっとシツリョウのちいさなブッシツをつかったホウがいいかもしれない。だからそういうもののケンキュウがすすむ。それがセンタンのブツリガクであろう。

 

 

 

ロクジュウなな

 

チュウゴクは、シンコウコクのようにおもわれている。しかしながら、チュウゴクはブンメイコクである。かつていろいろなものをカイハツ、フキュウさせた。だから、チュウゴクをシンコウコクとみると、みあやまることになる。あたらしいものがいいとはかならずしもいえないからである。

 

インカンもチュウゴクジンがハツメイしたひとつであろう。コウテイがつかっていたときく。コウテイヨウはともかく、イッパンにもリヨウがひろがったのであろう。インカンとカンジのくみあわせはいまでもつかわれている。ニホンでは、きをほることがおおいが、チュウゴクでは、いしをつかう。いしをつかうのは、ニホンではめずらしいだろうが、わたしもほったことがある。

 

トクにいいザイリョウは、かざりとしてチョウコクがほられている。そのギジュツはすごい。ニホンでは、ブツゾウなどをほっていたジダイもあっただろうが、いまムメイのショクニンが、すばらしいチョウコクをしているとはきかない。そもそもそんなにかずがいないのであろうか。

 

まねのイキをでないが、きのインカンにアニメノキャラクターをチョウコクしたっていいだろうが、どうも、そういうのはみない。そもそもアニメのキャラクターのチョウコクをしているひともしらない。ひょっとすると、ニホンジンはそういうギジュツをあきらめてしまったかもしれない。そうだとすると、ニホンジンは、チュウゴクジンにくらべて、キソギジュツもおとるし、センタンギジュツでもおとることになるかもしれない。やはり、まじめにやるひとがつよい。

 

 

 

ロクジュウハチ

 

 

 

まえにいったように(●よんジュウ、『ス』ヒャクよんジュウよん、『よ』サンジュウニ)、ティ(ジカン) イコール エル(ウンドウ)である。ということは、ウンドウをマイナスにすれば、カコへのジカンリョコウがカノウになるとなる。タンジュンにいえば、むかしいたところにもどればいいわけである。

 

しかし、それを「カコにいった。」というひとはいない。ほかのなにかがマイナスになっていないからだろう。たとえば、ビーさんもつきあって、むかしいたところにもどれば、カコへのリョコウといえるかもしれない。そうやって、「ジカンリョコウ」というのは、ひとりのイシでなく、タクサンのなにかのキョウリョクがなければ、タッセイできないといえそうだ。

 

ロクジュウキュウ

 

 

 

まえにデッドロックのはなしをした(●『ス』ヒャクなな、ヒャクよん、ニジュウ)。デッドロックとはまわりからのジュウリョクがつりあって、うごかないほしである。

 

そこでは、エル(ウンドウ) イコール レイ、エル イコール ティ(ジカン)(●ロクジュウハチ、よんジュウ、『ス』ヒャクよんジュウよん、『よ』サンジュウニ)ゆえに、ティ イコール レイである。

 

つまり、ジカンがながれないほしである。そこをしらべれば、かつてのいきもののゲンケイなどがみつかるかもしれない。ジカンがながれないからだ。また、そこにはいっていけば、ニンゲンやドウブツなども、いつまでもホゾンされるとおもわれる。

 

 

 

ななジュウ

 

 

 

うみにはなみがある。それは、あまりとまったりしない。うごきつづけている。つまり、エル(ウンドウ)なわけだ。ハツデンをねらうたちばからは、それはカッコウのうごきである。つまり、なみがたつブンは、デンキにかえられるということだからだ。しかし、それをダイダイテキにやると、サーフィンができなくなる。そういうモンダイもある。

 

 

 

ななジュウイチ

 

 

 

ウンドウとはひとにとっては、はじめられることだろうが(おどりをおどれるだろう。)、イッポウで、はじまりだったかもしれない。わたしにいわせれば、エル(ウンドウ) イコール イーエル(デンキ)だ(●ロクジュウロク、ロクジュウゴ、よんジュウゴ)。つまり、ウチュウか、もっとおおきななにかのはじまりには、デンキがおこった。それによって、ウンドウがはじまったといえそうなのである。

 

トウショのウンドウはガスやいしなどのイドウであっただろう。つまり、デンキやウンドウがカクサンした。それがつづき、チキュウでウンドウするようなセイタイができた。それは、ウンドウのもと、「モデル」があったからであろう。ちがういいかたをすれば、チキュウにセイメイをはじめさせるためのブッシツとウンドウ(デンキ)があつまったからだろう。 つまり、セイメイをハッテンさせるには、デンキがヒツヨウだということだ。

 

そういうシゲンとデンキがあつまるほしをみれば、セイブツのようなものがカンソクできるかもしれない。セイブツはウンドウをみて、ウンドウをはじめたと。

 

 

 

ななジュウニ

 

 

 

ウンドウは、エル(ウンドウ) イコール イー(エネルギー) わる ダブリュ(シツリョウ)ではかれるとかいた(●ロクジュウロク、『ス』よんジュウサン、『よ』サンジュウニ)。それがただしいとすれば、ウンドウのおおきさをきめるのに、ふたつのホウホウがある(●ロクジュウロク

 

ひとつはウンドウするもののシツリョウをへらすことである。だから、よりちいさなブッシツをさがす。これはわかるはなしだ。イッポウ、もうひとつは、エネルギーをふやすことである。よりおおきなエネルギーをつかえば、ひかりよりもはやいウンドウがカノウになるかもしれない。

 

たとえば、ひかりは、ヤクサンジュウマンキロメートルを、イチビョウですすむという。かりに、サンジュウマン イコール ロクジュウマン わる ニとする。そのエネルギーのブブンをヒャクニジュウマンにすれば、ニバイのウンドウになるだろう。

 

ただそのエネルギーをどうするかというモンダイはある。エル イコール イーエル(デンキ)だから(●ななジュウイチ、ロクジュウロク、ロクジュウゴ、よんジュウゴ)、タンジュンにデンキをつよめればともいえる。しかし、それによって、エル イコール ジー(ジュウリョク)(●よんジュウゴ)のジーをハッセイさせてしまうカノウセイはある。だから、カンタンではないだろう。いってみれば、タイヨウケイなどをぶっこわさないようにやるべきだろう。

 

 

 

ななジュウサン

 

 

 

トシにいくと、ひとがあふれている。なれていないと、ぶつかってしまうだろう。しかし、いなかにいくと、そんなにひとがいない。だから、ひとよりものをみるだろう。わたしは、イゼンはトシがすきだったが、いまではいなかのホウがすきになった。とりなんかがとんでいたホウがいい。

 

トシだと、ひとをあいてにしごとをすることがおおいだろうが、いなかだとものをカコウしていれば、しごとがなりたったりする。どうも、わたしもものをカコウするホウがすきなようだ。

 

それでも、わかかいころは、ひとをあいてに、しごとをしていたことがある。きらいではなかったが、ものをあいてにするホウがこのみかもしれない。そうやって、ひとをみるのか、ものをみるか、えらんでみるのもいいとおもう。

 

 

 

ななジュウよん

 

 

 

なんとなく、パソコンでブンショでもつくっていれば、しごとをしたようなきになるかもしれない。しかし、しごとがあるのは、ガメンのそとである。ガメンをのぞきこんでもヤサイはとれないし、コウギョウセイヒンもできない。ケッキョク、パソコンでできるのは、イチブのサービスギョウではないか。それだって、パソコンは、にもつをはこんでくれない。そこのところをわすれてしまうと、いいしごとができないとおもう。しごとがあるのは、ガメンのそとということだ。

 

 

 

ななジュウゴ

 

コンピューターネットワークでリエキをだすのはむずかしい。あるカカクをセッテイしても、ほかのみせのホウがやすかったりするからだ。それでも、ユウイにたとうとすれば、タクサンしいれるなどして、イッコあたりのしいれねをさげるようだ。そうすれば、カカクキョウソウでユウリになる。あとは、どこかとおくからしいれないで、ちかくでいいものを、からだをつかってしいれることだ。それなら、ソウリョウブンやすくできる。しかし、そうやってリエキをだすのもカンタンではないだろう。

 

 

 

ななジュウロク

 

 

 

ゲンザイのニホンはキンリがひくい。だから、だれかにあずけて、キンリをかせぐのはむずかしい。しかし、ほかのセンシンコクでは、キンリをあげるかもしれない。ニホンでは、それをおっかけて、キンリをあげるのはむずかしいだろう。セイフフサイがあるからだ。これがキョガクだから、キンリをあげると、りばらいでザイセイをアッパクする。しかし、ホウホウがなくはない。

 

イチオウキンリはあげて、そのブンすべてにカゼイをすればいいわけである。つまり、キンリをゴパーセントにするならば、そのゴパーセントブンをゼイキンとしてチョウシュウすればよい。それなら、セイフのりばらいでザイセイをアッパクすることはすくないだろう。

 

 

 

ななジュウなな

 

 

 

むかしとくらべて、すしやがふえた。ふえたのは、カイテンずしやであろう。やすいものだと、ものはよくないが、そこそこたべられる。おもいだすと、わたしがこどものころにたべていたのは、せいぜいテッカマキだったとおぼえている。

 

おやじはチュウリュウのサラリーマンだったが、きゅうりをまいたのりまきや、カンピョウをまいたのをよくたべていた。それをかんがえれば、さかなののったすしがたべられるというのは、ゆたかになったということだ。そのジキはバブルまえで、まだ、ニホンがケイザイセイチョウしていた。

 

わたしは、そんなにすしはたべていないが、そういうすしをわすれて、いいものをたべるようになってから、ニホンのケイザイセイチョウがなくなったとおもう。また、がんばりたかったら、そういうショシンをわすれないことである。

 

ななジュウハチ

 

 

 

「クヨウ」ということばがある。センゾをクヨウするが、もっともつかわれることばだろうか。ほかにも、はり(サイホウでつかう。)をクヨウしたりするらしい。そういうおもいがあれば、なにをクヨウしてもよいのだろうか。しかし、それがいきすぎると、「ゴミヤシキ」になる。そこのジュウニンは、あまりそういうことをいわないようだが、わたしにいわせれば、クヨウのモンダイがあるとおもう。すてるかみあれば、ひろうかみあり。であろう。

 

 

 

ななジュウキュウ

 

 

 

キンダイのセンソウでは、ヘイはたまをうつ。むかしはゆみやだったろうが、いまはテッポウだ。そういうわけだから、たたかおうとおもったら、たまをタクサンヨウイしなければならない。たたかいはじめると、ドンドンたまをショウヒする。これは、いまのショウヒセイカツにもいえるだろう。

 

コーヒーをのめば、あきカンがゴミとしてでる。ジブンのカップをもちあるいて、そこにいれてもらえば、ゴミはでないが、いまのところそういうサービスセッケイになっていない。ベントウもたべれば、ヨウキのごみがでる。それをリサイクルするかもしれないが、ドンドンすてる。これもセンソウであろう。

 

センソウがおわって、ななジュウネンイジョウたつが、そういうなごりがのこっている。わたしがおもうには、ショクヒンなどのヨウキに、リサイクルのむずかしさ、コウジョウからのキョリでスウジをつけて、なるべくスウジのちいさなものをセンタクできるようにすればとおもう。

 

 

 

ハチジュウ

 

 

 

レイネンダイに、シホンキンがイチエンでもカイシャをつくれるようになり、あまりシホンキンということばをきかなくなった。しかし、シホンキンはダイジだとおもう。

 

むかしは、キギョウをするといったって、なにかベツのしごとで、ナンネンかがんばって、チョキンして、それから、ジギョウをはじめたときく。シホンキンがあれば、そのおかねでしごとができるわけだ。シホンキンがおおきければ、リソクだけでもしごとができるかもしれない。いまは、テイキンリだから、あまりそういうかんがえにならないだろうか。はじめから、やりたいことをやるジダイである。

 

 

 

ハチジュウイチ

 

 

 

みずとあぶらという。なにかのヨウキにみずとあぶらをいれても、それらは、ブンリする。

 

つまり、おたがいがむかうホウにいくわけだ。それでいえば、「ひかり」はどこへいくのだろう。やはり、いくべきところへいくのではないか。

 

それをオウヨウすると、スイシンキカンができる。たとえば、ウチュウで、みずのなかにスイソをいれれば、スイソは、はなれようとしてそとにでようとしないか。それをうまくセッケイすれば、スイシンキカンであろう。なるべく、ウチュウでもチョウタツできるブッシツでそれをやればいいいだろう。

 

 

 

ハチジュウニ

 

 

 

タイム イズ マネーという。なにかベンリなドウグをかって、しごとをしようとおもっていたとする。それをかわなければ、なにもヘンカなしだが、おかねをだして、それをかうと、しごとがすすむ。しごとがすすむというより、ミライにあったしごとが、ゲンザイにひきよせられたといえるかもしれない。

 

そうやってたしかにおかねをジカンとコウカンできるわけだ。わたしはわかいころ、シィディをよくかった。オンガクをたのしむことをそのときひきよせた。ひとによっては、それがしごとになるだろうが、わたしにとっては、タンなるキョウラクだったようだ。

 

そういうハンセイがあるからか、サイキンはあまりシュミのものをかわなくなった。いい「ジカン」をひきよせたホウがいいだろうから。

 

 

 

ハチジュウサン

 

 

 

なにかリョウリをたべると、ひとは、「おいしい」とおもうことがあるだろう。なぜ、「おいしい」とかんじるのか。それは、それをたべるまえに、エネルギーをつかって、なにかをするからだろう。ひとことでいえば、そのひとにマイナスがでたからだ。

 

いきるということは、マイナスとプラスのレンゾクである。ずっとマイナスだとしんでしまうし、プラスばかりでもからだがうけつけない。マイナスがでてから、なにかリョウリをたべると、エネルギーがホテンされる。そのブン、「おいしい」、「よかった」とおもうのだろう。

 

めしがまずいというのなら、エネルギーがそんなにマイナスになっていないのかもしれない。そういうときは、そんなにたべなくてもいいかもしれない。

 

 

 

ハチジュウよん

 

 

 

まえに、ひとりのツゴウではおかねがたまらないというはなしをした(●『ス』ジュウシチ、『オ』ニジュウハチ)。ワイ(チョキン、ガッコウにいくシキン) イコール エー(ジキュウ) かける エックス(ロウドウジカン) マイナス ビー(セイカツヒ)といったはなしだ。

 

うまくしごとのジカンをふやせば、チョキンはふえる。しかし、それはひとりのツゴウだけではきまらない。ほかのドウリョウや、キョウゴウキギョウのうごき、ケイキにもサユウされる。だから、そのタンジュンなイチヘンスウモデルでは、うまくいかないということがわかった。それでヘンスウをふやしたらどうかといった(●『ス』ジュウシチ)。

 

しかし、このモデルのいいところもある。それは、ケイサンがカンタンだからだ。それはさきにのべたようなケッカンがあるが、サイキン、ゲームとしてまたやりはじめた。ベツにキュウリョウとかをケイサンするわけではない。こづかいをニュウリョクして、チョキンがふえるようにもっていけないかとおもっている。

 

どこかからゲームをかってくれば、いくらかかかる。しかし、そのチョキンゲームはおかねがかからないし、うまくいけばチョキンがふえる。ガクセイのときにはじめたケイサンをまたやっている。

 

 

 

ハチジュウゴ

 

 

 

キョネンのふゆはかぜがつよかった。いつもふいていたようにおもう。なぜ、かぜがふくのか。それは、クウキにオンドサがあるためだろう。

 

あたたかいクウキと、つめたいクウキがぶつかって、やがてヘイキンカする。そのプロセスだろう。それがなぜおこるかといえば、カイスイのオンドがたかいところと、ひくいところがあるから、そのエイキョウで、クウキにもオンドサができるのだろう。だから、フウリョクハツデンをするひとにはメイワクだろうが、カイスイのオンドをなんらかのホウホウでイッテイにしてしまえば、かぜはあまりふかなくなるだろう。

 

そういうわけだから、タイフウのヒガイをへらすことはカノウだろう。カイスイのオンドをあげてチョウセイすれば、タイフウができたとしても、チョクゲキしないようにできる。ただ、それによってフウリョクハツデンがフアンテイになるから、かならずしもいいとはいえない。ヒヨウもかかるであろう。

 

 

 

ハチジュウロク

 

 

 

パソコンのガメンをみていると、いつのまにか、ショウヒンのえをみていることがある。パソコンがテレビゲームとちがうのは、ショウテンのガメンがあるかないかであろう。

 

テレビでもたまにツウシンハンバイのバングミがあるが、パソコンのばあいは、ムリヤリショウテンにひっぱろうとしているところがある。だから、うかつにパソコンをいじっていると、いつのまにかかいものをすることになる。

 

しかし、きがるにものをかえるというのは、パソコンのいいところでもある。しかし、ガマンをするには、クフウがヒツヨウであろう。だから、そういうかいものあそびだけでなく、さきにいったような(●ハチジュウよん)チョキンあそびとか、ケイエイあそびをするのである。

 

 

 

ハチジュウなな

 

 

 

まえに、オンガクやエイガなどが、ひとりイチジカンあたりイチエンでたのしめるとかいた(●『オ』ヒャクサンジュウハチ)。そのかんがえかたをすすめると、コンピューターのプログラムもやはり、ひとりイチジカンあたりイチエンとなるだろう。ジッサイにそのくらいでテイキョウしていたりする。

 

そうだとすると、アイティブームで、コンピューターカンレンのジュウギョウシャがふえたが、やがてはへっていくだろうともいえそうである。ひとりイチジカンあたりイチエンだから、ヒャクニンのコテイユーザーがいないと、ネンカンヒャクマンエンもかせげない。だから、あなたがプログラマーになろうとしたら、ヒャクニンのコテイユーザーをカクトクできるかがめやすとなる。ヒャクニンのユーザーつかまえられないなら、くえないからやめたホウがいいとなる。チュウリュウっぽくセイカツしたければ、ゴヒャクニンのユーザーがヒツヨウだろう。

 

これをいいかえれば、あなたがプログラマーになれるかはヒャクブンのイチとなる。チュウリュウのセイカツをしたければ、ゴヒャクブンのイチだ。ヘンサチでカンサンすると、プログラムのヘンサチがななジュウテイドないと、くえないとなる。チュウリュウなみにだと、ハチジュウとかがヒツヨウだろう。

 

だから、プログラムでたべていくのは、コンゴはむずかしくなるとおもう。ちなみに、オンガクやエイガでケイサンすると、ヒャクマンブンのイチ、ゴヒャクマンブンのイチである。オンガクやエイガよりはいいだろう。

 

 

 

ハチジュウハチ

 

 

 

チュウゴクのサンゴクジダイに、しにそうになった、ショクのショカツコウメイは、ブカにサクをいいわたし、かれがしんだときに、それにジョウじておそってきた、ギのシバチュウタツをハイソウさせたという。

 

そのことを、「しせるコウメイ、いけるチュウタツをはしらす。」という。だれかのソウシキでもにたメンがある。たとえば、ユイゴンでうみにサンコツせよと、コジンがしていたばあいは、やはり、「いけるチュウタツ」がはしらされる。コジンのイタイをやいて、うみまではこばなければならないからだ。

 

ただ、ユイゴンについて、のこされたカゾクがもめてしまうと、やっぱりいえのはかにはこんでとか、やっぱりうみになど、コジンがはしらされてしまうこともあるかもしれない。それだと、しせるコウメイ、いけるチュウタツにはしらされるである。

 

 

 

ハチジュウキュウ

 

 

 

ドウブツなどは、タクサンのサイボウでコウセイされているという。ガッコウのジュギョウで、ケンビキョウをのぞいたことがあるとおもうが、まぁ、みえないおおきさではない。もっともおおきいサイボウは、なんかのたまごだろうか。しかし、それイジョウのおおきさのサイボウはなかなかないとおもわれる。

 

それはなぜだろう。ひとつかんがえられるのが、サイボウのおおきさに、ゲンカイがあるということである。もっというと、それイジョウのシゲンがあつまると、ブンレツしてしまう。

 

これは、シャカイについてもいえるのではないか。ベイチュウでボウエキコウショウをやったり、エイコクがイーユーからリダツしそうだったりするが、あるおおきさにタツすると、わかれてしまう。それは、シゼンなのではないかということだ。だから、リセイテキに、ひとつとかんがえても、ジツはタクサンなのではないかといえるようなきがする。

 

 

 

キュウジュウ

 

 

 

コウセイはもえて、ひかりをはなっている。あるはなしによると、「スイソ」がもえている。それなら、ひかりというのは、スイソがらみでハッセイするものだということになるだろう。

 

イッポウ、デンキと、てつなどをつかうとデンキュウがひかる。だとしたら、ひかりは、デンキと、てつでできるともかんがえられる(●ロクジュウゴ。シキをかえると、デンキは、ひかりからてつをひいたものといえるかもしれない。ようするにコウタクのないひかりがデンキであるということだ。そういうことなら、ひかりからデンキがつくれるであろう。もっというと、ひかりからデンキをぬくと、てつができるのではないか。

 

 

 

キュウジュウイチ

 

 

 

ニホンはセンゴフッコウしたという。コジンがくるまをもてるようにもなった(●ロクジュウ)。むかし、くるまはコウキュウヒンだったにもかからわずである。だから、「ケイザイセイチョウ」といわれると、そうかとなるが、そのかわりに、うしなったものもある。それは、うしとかうまである。

 

むかしは、ノウカには、うしとかうまがいたらしいが(おふくろのははおやのジッカは、そうだったらしい。)、いまは、あまりみかけられなくなった。ということは、うしとうまとくるまをコウカンしただけとなる。それは、ケイザイセイチョウといえないだろう。タンなるコウカンだ。

 

コンゴ、ヒコーキをかえるとはかんがえていないが、「ケイザイセイチョウ」がカノウとすればそういうことだろう。

 

キュウジュウサン

 

 

 

ニホンはかつてセンソウをして、うしやうまをきりくずした。センゴ、フッコウさせて、かわりにくるまをてにいれた(●キュウジュウニ)。

 

キタチョウセンはどうだろう。ケイザイセイサイをうけて、なにかをきりくずしているのではないか。つまり、たたかいのないセンソウである。そこまでして、カクヘイキをホジしたいのかわからないが、とにかくそうしている。やはり、そのゴ、うしやうまはいなくなるであろう。それがただしいセンタクなのかはわからないが、カクヘイキは、たべられそうにない。やはり、おわったあと、くるまがふえるんだろうか。

 

 

 

キュウジュウよん

 

 

 

とりはきらくである。ザイサンはないかもしれないが、ゼイキンをはらわなくていいし、どこにすんでもかまわない。たまに、リソウテキなシャカイのはなしがあるが(サイキンはきかないが、)、そういうくらしかたも、ひとつのリソウシャカイであろう。

 

どこにすんでもいいとしたって、ショクリョウがあるのは、ノウソンだろうから、ひとはそっちのホウにいく。そうすると、やがてトシはハイキョになるだろう。むしろ、ノウソンのホウにたてものがヒツヨウかもしれない。

 

ただ、それをつくったって、「どこにすんでもいい。」わけだから、もうからない。だから、たてものをヨブンにつくらないだろう。シユウザイサンセイドはただしかったのか。それがあったから、カガクとかがハッテンしたんだろう。

 

 

 

キュウジュウゴ

 

 

 

むかしのジュウタクは、にわにきをうえたりしている。わたしのいえもそうだ。それをデントウがたジュウタクとよぶことにする。

 

しかし、いまのジュウタクは、よくて、にわにしばをうえるテイドではないか。にわにしばをうえるジュウタクはガッシュウコクガタだとおもう。ガッシュウコクでそういうジュウタクをみた。しかし、それはサイキンのジュウタクのなかではいいホウで、そもそも、にわがないというセッケイもある。

 

ハチジュウネンダイ、キュウジュウネンダイに、ガッシュウコクがたのいえがはやったのか、そういういえをつくるようになったのだろう。だが、にわがホソウされているよりはいいが、ちょっとさびしい。そして、にわがないいえである。これはどういうことか。

 

ダンダン、シゼンではなくて、キョジュウキノウがジュウシされるようになったのだろう。ジュウタクのトシカといってもいい。そうなると、シゼンとキョウゾンするかんがえはうすれ、シゼンはガイブカされるだろう。でもそれはニンゲンらしいのか。ただのコンテナにすむでは、あじけないようにおもうのである。

 

 

 

キュウジュウロク

 

 

 

ここ、ニネンは、あまりにわをいじらなかった。イチニチハチジカンはたらくが、のこりジュウロクジカンあっても、なかなか、にわをいじるのはむずかしいらしい。そうだとしたら、サイキンのいえに、きやヤサイをうえないのは、しかたないともいえる。しかし、それでいいのか。

 

そういうハチジカンはたらくブンカはジュウヨウだろうが、シゼンをハイジョするとなれば、モンダイだ。トシカといってもいいかもしれないが、それがすすむ。しかし、トシではうえない。そういうわけで、そういうゲンダイニホンのタブン、シハイテキなケイザイメカニズム(コンゴはケイザイメカとよぶ。)からはなれて、ノウギョウもジュウシしようとかんがえている。

 

グタイテキにいうと、ノウサギョウをしたジカンも、キンムジカンにサンニュウするのである。それで、メカブンカをカイゼンできるかというはなしである。まぁ、ことしからはそうしたいとおもっている。

 

 

 

キュウジュウなな

 

 

 

なかなか、ニホンケイザイメカ(●キュウジュウロク)のハンチュウでは、トシのホウのロウドウシャが、ノウギョウをするのもむずかしいであろう。かといってカイシャをはなれるわけにもいかない。シュウマツだけノウギョウをやるてもあるが、そうカンタンではないだろう。

 

それなら、ニブンのセイキというはたらきかたはどうか。カイシャでのロウドウとノウギョウをやることをジョウケンに、セイシャインのハンブンのタイグウをみとめるというものである。ニブンのセイキだから、ヒセイキシャインよりはタイグウがうえである。まぁ、そういうしくみなどをつくってノウギョウシンコウなり、シゼンにしたしむことができればとおもうのである。

 

 

キュウジュウハチ

 

 

 

いまのひとは、エンキンホウでなにかをかくのがただしいとおもっていないか。センジツ、ヘヤのはしらをみていると、まがってみえた。ホントウにまがっているかというと、まがっていないだろう。しかし、みるはしらのイチによっては、キョリがあるから、ひっこんでみえてもフシギではない。だから、ズ イチのようなえになる。

 

 

 

これもイッシュのエンキンホウだろうが、あまりこういうえはみない。

 

なぜか。タブン、オブジェクト(タイショウブツ)のセイシツをえがこうとするからだろう。つまり、「はしら」はまがっていないと。だから、ズ ニのようになる。

 

 

イチは、サブジェクト(シュカン)をジュウシしたえである。ダイタイが、ズ ニのえのようなるのは、オブジェクトをジュウシしようというブンカがあるからだろう。いいかたをかえれば、カガクテキなシセイである。

 

サブジェクトにこりだすと、ひとのかずほどあるだろうから、オブジェクトでいきましょうというゴウイである。そういうゴウイがあるだろうから、ズ イチのようにみえたとしても、ズ ニのようにホセイする。つまり、みえるものは、カガクのチケンやキョウイクなどによってホセイされてみることがおおいのではということだ。

 

そのホセイする、カガクやキョウイクをうけなかったひとは、ズ イチのようにかくかもしれない。しかし、ダイタイキュウネンカンは、ガッコウキョウイクをうけるから、ズ ニのようになるだろう。そういうホセイもダイジであろう。それではなしがつうじるからである。

 

 

 

キュウジュウキュウ

 

 

 

カガクはきることでなりたつとかいた(●『オ』よんジュウロク)。エイゴのエスシーアイは、きることなのである(サイエンスのつづり)。そうやってこまかくしていろいろハッケンするわけである。

 

しかし、きることばかりで、よのなかがなりたっているわけでない。シュジュツでからだのどこかをきれば、いとでぬってつなげようとする。きることばかりなら、バラバラシャカイができるだろう。それはどうなのかである。

 

だから、あるひとは、つなげようとする。なにがいいたいのかといえば、カガクがハッテンするシャカイというのは、そのブン、つなげることもうまいシャカイなのではないかということだ。セイヨウのばあいだと、カガクがなにかをバラバラにしても、キリストキョウのちからテイドにカガクはハッテンできたのではないかということだ。ニホンでは、ザンネンながら、そういったダイキボのシュウキョウはないかもしれない。そのブンカガクのハッテンはよわいだろうということだ。

 

しかし、まわりにめぐまれたひとが、ハッテンさせるだろう。コジンのリキリョウということになるかもしれない。そういうカガクシャのへいがあるのではないか。

 

 

 

ヒャク

 

 

 

まえにかいたように、イーエル(デンキ) イコール エル(ウンドウ)(●ななジュウニ、ななジュウイチ、ロクジュウロク、ロクジュウゴ、よんジュウゴ)、イーエル イコール ジー(ジュウリョク)である(●ゴジュウサン、ゴジュウニ、よんジュウゴ)。ウンドウは、デンキにできるということだ(デンキカツドウのケッカともいえるかもしれない。)。

 

つまり、ほしからデンキをとることもカノウであろう(うごきがあるなら。)。ゲンシもよくみると、コウセイとワクセイのようなコウゾウになっているらしい。それなら、ゲンシからデンキをとることもかのうだろう。ただアンゼンセイをかんがえなくてはならないかもしれない。

 

 

 

つづきは、

https://note.mu/ryusaku/n/nb4bd180673b6

 


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