目次
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-1)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-2)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-3)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-6)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-7)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-9)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-10)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-11)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-12)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-13)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-14)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-15)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-16)

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第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-14)

【43】

 このような利子率利潤率との相違を強調するにあたっては,われわれ自身二つの事情を無視している。すなわち,1)利子生み資本と伝統的に受け継がれた一般的利子率との歴史的先在,2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は,利潤率〔に及ぼす影響〕に比べればずっと大きいということ,この二つである。xx)/

  ①〔異文〕「一般[的]〔allgemei[nen]〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「直接的」--書き加え.られている。
  ③〔異文〕改行して書かれた「これまで述べたところから次のことが明らかになる。第1に」という書きかけが消されている。〉 (246-247頁)

 〈このような利子率と利潤率との相違を強調するにあっては、私たちは二つの事情を無視しています。すなわち、1)利子生み資本そのものが歴史的に資本主義に先行する存在であったことや、一般的利子率もその意味では歴史的に伝統的に受け継がれたものが先行していたという事情です。2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は、それが利潤率に及ぼす影響と比べればずっと大きいということです。この二つが無視されているのです。〉

 【このパラグラフでは、これまで利子率と一般的利潤率との相違を論じてきたことについて、一つの前提を論じておくべきとマルクスが考えたのであろうか。一つは利子生み資本そのものが資本主義以前のはるか昔から存在したものであったこと、そしてそのために一つの伝統的な一般的利子率というようなものも存在していたという事情を無視しているというわけである。もう一つは世界市場の影響の無視である。とくに利子率への影響は、本当は利潤率へのその影響に比べればずっと大きいのだが、そうしたこともわれわれは無視して論じてきたのだというのである。】


【44】

 /300下/xx)①②2%とか3%とか5%とかをあげるということは,1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係になる。平均利潤は,直接に与えられたものとしては現われないで,矛盾する諸変動の平均結果として現われる。利子率はそうではない。利子率は,その一般性においては毎日確定されている事実であって,この事実は,産業資本や商業資本にとっては,彼らの操作のさいの計算上の前提および項目〔item〕として役立ちさえもするものなのである。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも,取引所報告が,あれこれの資本についてではなく,貨幣市場にある資本すなわち貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのである。

  ①〔異文〕挿入されたこのパラグラフは手稿のこのページの末尾に書かれており,xx)によってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔注解〕このパラグラフの以下の部分は,もろもろの変更を加えて,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1461.5-19,35-38 und l462.40-1464.2)から取られている。〉 (247-248頁)

 〈2%とか3%とか5%とかの利子をあげるということは、1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係です。しかし平均利潤は、直接に与えられたものとしては現れないで、矛盾する諸変動の平均結果として現れます。利子率はそうではありません。利子率は、その一般性においては毎日確定されている事実であって、この事実は、産業資本や商業資本にとっては、彼らの操作のさいの計算上の前提および項目として役立ちさえもするものです。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも、取引所報告が、あれこれの資本についてではなく、貨幣市場にある資本、つまり貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのです。〉

 【このパラグラフは、そしてそれは【46】パラグラフまで続くのだが、【43】パラグラフの最後に「xx」なる記号を付けて関連づけられて、書かれたもののようである。これは草稿の300原頁の下段の途中から始まっている。MEGAの注記によれば300頁の末尾に書かれているということである(末尾に書かれているにしては、やや長いのだが)。ということは、マルクスは明らかに300頁の下段に原注を書くスペースを開けた上で、補足を書いているということである。そして原注は書かれなかったわけである。
 このパラグラフはその関連づけられた【43】パラグラフそのものが、その前に展開してきた利子率と利潤率との相違を強調した記述に対して、いわばその前提をなすものとしてわれわれの論述の限定を論じたという、やや補足的な記述であるのに対して、それに関連して論じられたものであり、利子率と平均利潤率の相違をさらに論じたものになっている。つまり利子率というのは、その一般性において毎日確定されている事実であり、その正確さは気象報告の気圧や温度を記録する正確さをも上回るほどのものである。しかし平均利潤率というのは、直接与えられたものとしては現れないで矛盾する諸変動の平均的な結果として現れるだけである。利子率の場合は、産業資本や商業資本にとっては、彼らが運動する上での前提であり、計算上の項目として常に意識しているものである。しかし平均利潤率というのは、彼らがより高い利潤を求めて運動する結果として、その彼らの一連の競争の背後に形成されるものであり、直接的なものとして彼らが意識できるようなものではないのである。彼らがそれを意識するのは、常に自分があげる利潤率が平均的なそれよりも低いもの、彼らにとってはもはや生産を維持するにカツカツの利潤率として意識されるものである。だから彼らにとっては最低限界としてのそれなのである。】


【45】

 〈貨幣市場ではただ貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers)とが相対するだけである。商品は同じ形態を,すなわち貨幣という形態をとっている。資本がそれぞれ特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてとるすべての特殊的姿態は,ここでは消えてしまっている。資本は,ここでは,自立的な交換価値の,貨幣の,無差別な,自分自身と同一な姿態で存在する。特殊的諸部面の競争はここではなくなる。すべての部面が貨幣の借り手Geldleiher〕としてみなひとまとめにされており,また資本も,すべての部面にたいして,その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対している。資本はここでは,生産的資本がただ特殊的諸部面のあいだの運動と競争とのなかでだけ現われるところのものとして,階級の共同的な資本として,現実に,重みに従って,資本への需要のなかで現われるのである。(?) 他方,貨幣資本(貨幣市場での資本)は現実に次のような姿態をもっている。すなわち,その姿態で貨幣資本は共同的な要素として,その特殊的な充用にはかかわりなしに,それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに,資本家階級のあいだに,配分されるのである。そのうえに,大工業の発展につれてますます貨幣資本は,それが市場に現われるかぎりでは,個別資本家,すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によって代表されるのではなくて,集中され組織されて,現実の生産とはまったく違った仕方で,①社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現われるのである。したがって,需要の形態から見れ[441]ば,この資本には一階級の重みが相対しており,同様に供給から見ても,この資本は,大量にまとまったen masse〕貸付可能な資本として〔現われる〕のである。

  ①〔異文〕「社会的」--書き加えられている。〉 (248-249頁)

 〈貨幣市場では、ただ貸し手と借り手とが相対するだけです。ここでは商品は同じ形態を、つまり貨幣という形態をとっています。資本がそれぞれの特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてそのすべての特殊的姿態は、ここでは消えてしまっています。資本は、ここでは、自立的な交換価値の、貨幣の、無差別な、自分自身と同一な姿態で存在します。特殊的諸部面の競争はここではなくなります。すべての部面が貨幣の借り手としてみなひとまとめにされており、また利子生み資本も、すべての部面にたいして、その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対しています。利子生み資本はここでは、階級の共同的な資本として、生産部面のあいだの運動と競争とのなかでだけあらわれるところのものとして、現実の重みに従って、資本への需要のなかで現れるのです。(?)
 他方、貨幣市場での貨幣資本(moneyed capital)は、現実には次のような姿態を持っています。すなわち、その姿態で貨幣資本(moneyed capital)は共同的な要素として、その特殊的な充用にはかかわりなしに、それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに、資本家階級のあいだに、配分されるのです。そのうえに、大工業の発展につれてますます貨幣資本は、それが市場に現れるかぎりでは、個別資本家、つまり市場にある資本のあれこれの断片の所有者にとって代表されるのではなくて、集中され組織されて、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現れるのです。だから、需要の面から見れば、この資本には一階級の重みが相対しており、同様に供給の面から見ても、この資本は、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるのです。〉

 【これは【42】パラグラフで利子率と比較しての一般利潤率の特徴が述べられていたが、それに関連して、この両者の相違の強調には一定の限られた前提があるという【43】パラグラフに関連して、展開されているものである。そしてその関連したものとしては、今度は【44】パラグラフも今回の【45】パラグラフもむしろ利子率の特徴が述べられているように思える。
  今回のパラグラフでは、貨幣市場では貸し手と借り手が相対するだけで、その背後にある事情はそこでは消えてしまっていることが指摘されている。だからそこでは貨幣資本は社会的資本を代表する銀行業者によって統制されたものとして、需要の形態では一階級の重みが相対し、供給からみれば、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるわけである。】


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-15)

【46】

 以上は,なぜ一般的利潤率は,固定した利子率と並んで,消えかかるまぼろしのようなものとして現われるのか,ということのいくつかの理由である。この利子率は,その大きさから見ればたしかに変動しはするが,しかしこのことは,それがすべての借り手にとって一様に変動し,それゆえにまた借り手にたいしてつねに,固定した与えられたものとして相対することを妨げないのであって,それは,ちょうど,貨幣の価値変動が,すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同様である。商品の市場価格が毎日変動しても,このことは市場価格が日々値付けされることを妨げないが,利子率も同様であって,それは同様に規則正しく貨幣の価格として値付けされるのである。なぜならば,ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからであり,したがってその価格の確定は①他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからであり,したがって利子率はつねに一般的利子率として,これこれの貨幣にたいしてこれこれとして,現われるからであるが,これにたいして,利潤率は,同じ部面のなかでも,また諸商品の市場価格が同じでも,違っていることがありうるのである。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って〔違いうる〕。というのは,特殊的利潤率は,商品の市場価格によって決まるのではなく,市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからである。)そして,利潤率はさまざまの部面のなかで,ただ不断の変動,諸過程によってのみ均等化されるのである。〔「xx)」による追記部分終わり〕|

  ①〔異文〕「他の」--書き加えられている。〉 (249-250頁)

 〈以上、私たちは一般利潤率は、どうして固定した利子率とは違って、消えかかるまぼろしのようものとして現れるのか、ということの幾つかの理由を見てきました。確かに利子率は、その大きさはいろいろと変動はしますが、しかしこのことは、すべての借り手にとって一様に変動し、それゆえにまた借り手に対してつねに、固定した与えられたものとして相対することを妨げないのです。それはちょうど、貨幣の価値の変動が、すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同じです。商品の市場価格が日々変動したとしても、このことは市場価格が日々値付けされることを妨げません。同じように利子率も、日々変動しますが、そのことは規則正しく貨幣の価格としてそれが値付けされることを妨げないのです。というのは、ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからです。だからその価格の確定は、他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからです。だから利子率はつねに一般的利子率として、これこれの貨幣にたいしてはこれこれとして現れます。
  これに対して、利潤率は、同じ部面のなかでも、また諸商品の市場価格が同じであっても、違っていることがありえます。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って利潤率は違いうるのです。というのは、特殊的利潤率は、商品の市場価格によって決まるのではなく、市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからです。)そして、利潤率のさまざまな部面のなかで、ただ不断の変動、諸過程によってのみ均等化されるのです。〉

 【これも追記部分の最後の部分であるが、ここでは利子率は日々変動しても、つねに一定の率として確定され、一様に固定的に貨幣の借り手に相対していること、しかし利潤率はそうではなく、それは例え市場価格が同じ場合でも、あるいは同じ商品を生産する部面でも違う場合がありうること、そしてそうした利潤率がさまざまな部面のなかでの不断の変動や諸過程を通じて均等化されることが指摘されている。】

 

【47】

 〈/300上/{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}{第2に,債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になる。}{第3に,債務権原の相殺が貨幣の代わりをする。}/

  ①〔異文〕改行して書いた「第1に」という書きかけが消されている。/〉 (250-251頁)

 〈以上のことから、次のようなことが明らかになる。
  第一に、信用の一証明、あるいは一形態。私たちが知っているように、貨幣が購買手段とてではなく支払手段として機能する場合には、商品は譲渡されるがその価値はあとからはじめて実現されます。もし商品が売られてからはじめて支払がなされるとすれば、販売は購買の結果として現れるのではなくて、販売によって購買が実現されるのです。そして、販売が購買の手段になるのです。
  第二に、債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になります。
  第三に、債務権原の相殺が貨幣の代わりをします。〉

 【このパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクスがついでに関連して、書いたものかもしれない。大谷氏はこのパラグラフについて次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では,このすぐまえに,「以上のところから,次のことが明らかになる。〔Es ergiebt sich aus dem Bisherigen Folgendes:〕」と書き,改行してその下に「第1に。〔Erstens:〕」と書いたのちに,この両方を消している。この「第1に」は,すぐあとの「第2に」に対応するものであろう。MEGAはこの異文を記載していない。なお,このパラグラフへのMEGAの異文での,消されている「第1に」は,この「第1に」とは別に,このパラグラフの次行に書かれているものである。つまり,このパラグラフの直前に「第1に」という消されている行があり,さらにこのパラグラフの直後にもう一度,「第1に」という消されている行があるのである。
  エンゲルス版では,このパラグラフのまえに,区切りを示す横線が引かれている。そしてこのパラグラフの最初に,「(あとの仕上げのための覚え書)」と書き入れている。〉 (251頁)

  こうしたマルクスの記述のあとをみると、「第1に」には、〈{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}全体が含まれるようである。最初に考えたのは、〈信用の一証明形態〉として、第一に、第二に、第三に、と続くと思えたのであるが、どうもそうでないらしい。
  また、この〈信用の一証明形態〉についても、大谷氏は次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では「信用の一証明Ein Beweis d.Credits〕」のうちのBeweis d.の上に,挿入記号なしにFormと書かれている。MEGAはこれをBeweisformと読み,EinをEineに変更している(草稿ではEinのままになっている)。だから,このFormの書き加えは,「信用の一証明〔Ein Beweis d.Credits〕」に「信用の一形態〔Eine Form d.Credits〕」を並記した,と見ることも可能であろう。〉 (251頁)

  これは大谷氏のように、並記したと理解する方が正しいような気がする。そもそも「一証明形態」などという用語を読んだ時にすぐに?(ハテナ)と疑問に感じたからである。証明の形態などというのは一体何を言いたいのかと思わざるを得ない。むしろ信用の一つの証明、あるいは信用の一つの形態としてまず第一が論じられ、そのあと第二と第三の問題が論じられていると理解する方がすんなりと理解できるのである。
  しかしこのパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクス自身も最初、〈以上のところから,次のことが明らかになる〉と書き出したものの、それを消しているということはことさらこれまでの展開と関連づけてこのパラグラフの内容を書いたとは言えないと考えたからであろう。マルクス自身はそうした展開としてこれを書いたわけではないのである。ただこれまで書いてきたことと関連して、思いついたことをメモしたという程度のものと理解すべきではないかと思う。】

  以上で「2)」(エンゲルス版第22章該当個所)の草稿のテキストは終わりである。だからもう一度、全体を見渡して、マルクスがこの「2)」をどのように展開しているのかを見ていくことにしよう。

 

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-16)

エンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」(草稿では「2) 利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。」)全体の構成

 

  この「2)」全体の構成を考えるために、全体を幾つかの部分にわけて、便宜的に番号を打って、それぞれのテーマを書き出してみよう。

  (1) まず表題を確認しておこう。

  〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  これはマルクス自身によって書かれている。つまりここでは三つのことが考察されることが示されている。(1)利潤の分割。(2)利子率。(3)利子の自然的な率である。ここで(2)と(3)がどのように違うのか、それを区別する意義は何か、そうしたことも問題であろう。

  (2) 【2】--ここではこれから考察する対象についての限定、前提が語られている。

  (3) 【3】~【13】--ここではまず〈われわれのこれまでの前提によれば〉とこれまで考察してきた「1)」(第21章該当部分)を前提すれば、利子は利潤のうちの機能資本家から貨幣資本家に支払われる一部分であるというもっとも直接的な表象にもとづいて利子の規定が行われ、そこからだから利子の最高限界として現れるのは利潤そのものだ、といきなり利子の量的考察に入っている。そしてマッシーからの抜粋を本文として紹介して、こうした利子の規定は、当時のエコノミスト達にとっても表象としてつかまれていたものであることを示唆している。そして利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界とみなされるべきとし、利子は平均利潤に関連づけて説明すべきという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察するとしている。そして一般的利潤率を100と与えられた大きさとして仮定するなら利子の変動は機能資本家の手に残るものと反比例するが、しかし両者はまったく違った事情によって変動することを指摘する。

  (4) 【14】--ここに〈Nb.〉で始まる一つのパラグラフが挿入される。そして〈利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉という自己了解の事項が書かれている。

  (5) 【15】~【22】--ここから産業循環の諸局面に応じて利子率がどのように変化するかが論じられている。そしてそれに幾つかの原注がつけられ、補足的な説明も本文として加えられている。

 (6) 【23】~【29】--ここではまず〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉というテーマが掲げられている。そしてそうした問題として(1)、(2)、(3)と番号を打って抜粋が紹介されているように見えるのだが、しかしテキストの考察でも紹介したが、【34】パラグラフにある(3)は必ずしも同じ問題を論じているとは言いがたい。だからこの(3)はとりあえずは無視して、われわれは論じることにしたい。そうするとこの傾向として語られているのは、一つは金利生活者の増大、もう一つは信用システムの発展である。こうした結果、貸付可能な貨幣資本の増大が生じ、利子率は低落する傾向があるということである。

 (7) 【30】~【33】--この部分は大変長い【30】パラグラフとそれにつけられた原注からなっている。【30】パラグラフでは、まず利子の平均率とか中位的な率というようなものはどんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。だから利子の自然率というようなものは、利潤の自然な率とか賃金の自然な率というような意味では存在しないと指摘する。だから貸付可能な資本の供給とそれに対する需要のみが利子率を規定するのだということである。そしてどうして利子率の限界を一般的な法則から展開できないのか、というとそれは利子の性質のうちにあるとしている。貸付資本も資本であるが、それが現実に資本として機能するのは、一度だけであり、生産資本においてであること、だからその結果として生産された利潤に対する要求権をもつ二人の人物がそれをどのように分けるのかは経験的な事実でしかないからだというのである。そこから質的な分割が、剰余価値の純粋に量的な分割から出てくると結論づける。あとはこれのパラグラフにつけられた原注が続くだけである。

 (8) 【34】~【35】--この部分は、冒頭に「(3)」と番号が打たれ、スチュアートの『経済学原理』からの抜粋があり、一見すると(6)の続きのように思えるのだが、すでに述べたように、論じられている問題が必ずしも同じとは言い難いものである。ここではマルクスは貨幣の価格、すなわち利子率は大きな固定性と大きい一様性をもっているということを肯定的に引用している。そしてこの利子率の固定性と一様性は、あとの展開でも言及されているから、この抜粋部分はまったくどうでもよいものとは言い難いのである。

 (9) 【36】~【46】--ここでは利子率と利潤率(一般的利潤率)との違い、両者の比較検討を通じて、利子率の性質を明らかにし、また同時に利潤率(一般的利潤率)の性質をも明らかにすることが課題とされているように思える。

  (10) 【47】--この最後の部分は、これまでの展開を踏まえて、思いついたことをメモ書きしたもののように思える。だから全体の論旨とは必ずしも関連させて考える必要はないように思える。

  このように全体を見渡すと、いろいろなことが論じらているのであるが、もう少し対象を絞って論じられている重要な項目を挙げてみよう。

  (1) 利子は利潤の分割されたものであり、よって究極的には利潤によって規定されていること、そうした利子の規定は、直接的なものであり、一般的に表象として、当時の経済人や経済実務家、あるいはブルジョア的な理論家によっても捉えられてきたこと。

  (2) 産業循環の諸局面で利子率の変動があること。マルクスは産業循環の諸局面として、沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々をあげているが、利子率は最初の沈静状態では低く、活気増大でもやはり信用はしっかりしており、商品資本の実現とそれが貨幣資本として循環してくることも順調だから、貨幣資本(moneyed capital)への需要がそれほど多くないために低いままである。繁栄に至って、ようやく利子率は徐々に高まり、過剰生産に至って、諸資本は低下した一般的利潤率を利潤量の絶対的増大によって補おうとして加速度的な蓄積と拡大を行うために、貨幣資本(moneyed capital)への強い需要が生じ利子率は高くなる。そして恐慌時には、今度は産業は行き詰まるが、諸資本は諸支払への必要から支払手段の融通を銀行に求め(また支払い手段としての銀行券の退蔵も生まれるから)、利子率は異常に高騰する。そしてまた沈静に至り経済活動は不活発になるがゆえに、利子率も低下する等々である。

  (3) 利子率はどんな法則によっても全然規定できないものである。それは利子の性質にもとづいている。貨幣資本も資本であり、それが貸し出される機能資本も資本である。しかし資本が資本として利潤を生むのは後者の局面だけである。だから利潤を二つの資本家によって分け合う必要があるが、これはただ経験的にやるしかやりようがない。だから利子率は何か法則的に決まってくるというようなものではないのである。ここでは需給の一致は何も意味しない。貨幣資本(moneyed capital)の供給者と需要者による競争がそれを決定するのである。競争そのものが決定するということは、それによって規定されるものは、それ自体として偶然的であり、純粋に経験的であるということ意味する。

  (4) 利子率と一般的利潤率との違いと両者のそれぞれの性質。利子率は貨幣資本(moneyed capital)の需要と供給とによって、貨幣資本家と機能資本家とが相対することによって、その時々に経験的に捉えられる事実であり、確定されたものとして、あまねく一様であり、固定的であるが、一般的利潤率はもっと複雑な過程を経て形成されるものである。それは諸商品の市場価格が生産価格へ平均化される過程を通して、諸資本がある部面から他の部面へと移動することによって、あるいは追加資本の配分が変化することによって、総剰余価値をそれぞれの資本の大きさに応じて按分比されて分割されるように、諸資本が互いに競争する結果として決まってくるものであり、それは諸資本の現実の運動の背後で形成され、けっして経験的にとらえられるものではない。それが経験的に知られるのは資本にとっての利潤の最低限界として意識されるときだけである。

  まあ、ざっとこうしたことが論じられている。ここでは全体としては利子率というものの性質があまねく明らかにされているということができる。

 では全体の流れとして、マルクスはどのように問題を展開しようとしているのであろうか。
 まずマルクスは利子とは何かを直接的な表象として捉え、それは当時の経済実務家たちによっても把握されていたものであることを指摘する。つまり利子とは何か、それは利潤から分割されたものだというのは、直接的な表象としても把握できることなのである。
 そこからマルクスは次ぎに利子率の変化を現実の経済過程のなかに見ている。最初は分析の前提として産業循環のあいだに利子率が通る円環については、産業循環の叙述を前提することはできないといいながら、しかしここで産業循環の諸局面で利子率はどのように変化するかを見ているのである。しかしこれは必ずしも産業循環の考察を踏まえたものというより、そうした産業循環の諸局面における利子率の変化をただ辿っているということに過ぎない。つまりそれぞれの局面に対する利子率の対応を見ているだけで、なぜそうなのかについては一切論じていないといえる。
 そしてこうしてみたように産業循環の諸局面に対応して利子率が変化することを見るなら、利子率は何らかの法則にもとづいてそのように変化しているのかという問題に次ぎにマルクスは移行しているわけである。そしてマルクスは、利子率にはそうした法則性というようなものは何もないのだと喝破している。そしてそれは利子の性質そのものにもとづくものだというのである。そして利子率というのは結局は競争そのものによってただ経験的に決まってくるだけだとしている。
 このように利子率の特性を明らかにしたあと,マルクスはこうした点で利子率は一般的利潤率とは違うということを指摘して、両者を比較・検討して、それぞれの特性をさらに明らかにしようとしている。利子率とは異なり、一般的利潤率は法則的に決まってくるものだとマルクスは考えているわけである。
 だいたい以上が、この章でマルクスが展開しているものである。


この本の内容は以上です。


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