目次
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-1)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-2)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-3)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-6)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-7)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-9)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-10)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-11)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-12)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-13)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-14)
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第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-12)

【39】

 〈|299上|借り手〔borrowers〕が差し出す担保〔securities〕の種類によって, 利子率そのものが絶えず違っているということは,たしかに正しい。しかし,これらの種類については,利子率は一様である。だから,このような相違は利子率の固定した一様な姿態をそこなうものではないのである。〉 (242-243頁)

 〈借り手が差し出す担保の種類によって、利子率そのものが絶えず違っているということは、確かに正しい。しかし、これらの種類ごとについては、やはり利子率は一様です。だから、こうした相違そのものは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないのです。〉

 【これは利子率というのは〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉と述べてたことに対して、考えられる異論に対して、前もって反論を加えるというもののようである。つまり担保の違いによって利子率も違うではないか、だから利子率は一様だというのはおかしい、という反論に対して、マルクスは確かに担保の違いによって利子率も違うというのは正しいが、しかしその担保の種類ごとに決まってくる利子率というのは、そのかぎりでは一様なのだと反論している。だからこのことは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないし、それに異論を唱える根拠にはならないと言いたいのである。
 ただここでマルクスは〈利子率の固定した一様な姿態〉と述べているが、その前にも紹介したように、利子率が〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉というのはいいものの、それが〈固定した〉ものというのは果たしてどうなのであろうか。利子率がたとえその平均率であっても、利子生み資本の需給によって変化するし、その需給こそが利子率を規定するものだから、それが固定したものというのは言い難いように思えるのである。だからこの〈利子率の固定した一様な姿態〉というのは、利子率というのは、その時その時に、ある決まった数値として一様に明瞭に決まってくる状態を表していると考えるべきではないだろうか。】

 

【40】

 中位の利子率は,どの国でも,かなり長い期間について,不変の大きさとして現われる。なぜならば,一般的利潤率は--特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらず,といっても一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのではあるが--ただかなり長い期間に変動するだけだからである。そして,一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率〔d.average rate〕または普通の利子率common rate of interest〕)の多少とも不変な性格に現われるのである。

  ①〔異文〕「相対的な」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「多少とも」--書き加えられている。〉 (243頁)

 〈中位の利子率は、どの国でも、かなり長い期間について、不変の大きさとして現れます。なぜなら、一般的利潤率はただかなり長い期間に変動するだけだからです。もちろん、特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらずにです。といってもそうした特殊的利潤率の変動は、一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのですが。そして一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率または普通の利子率)の多少とも不変な性格に現れるのです。〉

 【先のパラグラフでは利子率の「固定性」に疑問を呈したが、ここでは中位の利子率の固定性が言われている。中位の利子率、あるいは平均利子率については、【20】パラグラフで次のように言われていた。

(利子の平均率を見いだすためには,1)回転循環のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を計算しなければならない。2)資本がかなり長い期間にわたって前貸される投資での利子率を計算しなければならない。) 〉 (228頁)

  つまりマルクスがここで問題にしている中位の利子率(平均利子率)というのは、一つの産業循環を通して平均した利子率のことを意味しているのである。確かにこうしたものなら一定の固定性を持っていることは明らかであろう。一つの回転循環のあいだにおいて、一般的利潤率は傾向的に低下するが、それ自体は、恐慌時を除いては、急激に変化するようなものではない。そうしたことが平均利子率の多少とも不変な性格として現れるのだ、というわけである。】


【41】

 しかし,絶えず動揺する利子の市場率について言えば,それは,商品の市場価格と同様に,各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられている。なぜならば,貨幣市場〔money market〕ではすべての貸付可能な資本〔loanable capital〕がつねに総量として機能資本に対立しており,したがって,一方では貸付可能な資本〔loanable Capital〕の供給の割合,他方ではそれにたいする需要が,そのつどの利子の市場価格を決定するからである。ますますそういうことになってくるのは,信用制度の発達とそれに結びついたその集積とが貸付可能な資本〔1oanable Capital〕に一般的社会的な性格を与えるようになるからである。これに反して,一般的利潤率はいつでもただ傾向として,特殊的諸利潤率の均等化の運動として,存在するだけである。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動である--とは,ここでは,利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって,利潤が平均〔1evel〕よりも高い[439]部面に④資本を投じていくということである。あるいはまた,追加資本〔additional Capital〕がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということである。それは,それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動である。

  ①〔異文〕「市場率について」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「すべての」alles←das gesammte
  ③〔異文〕「,……〔全体〕として〔als das〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「追加」と書いたのち,消している。〉(243-244頁)

 〈しかし、絶えず動揺する利子の市場率についていえば、それは商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられています。なぜなら、貨幣市場では、すべての貸付可能な資本がつねに総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給の割合、他方ではそれにたいする需要が、その都度の利子の市場価格を決定するからです。ますますそういうことになってくるのは、信用制度の発達とそれに結びついた利子生み資本の集積とが貸付可能な資本に一般的社会的な性格を与えるようになるからです。これに反して、一般的利潤率はいつでもただ傾向として、特殊的諸利潤率の均等化の運動として、存在するだけです。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動ですが--とは、ここでは、利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって、利潤が平均より高い部面に資本を投じていくということです。あるいはまた、追加資本がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということです。それは、それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動です。〉

 【先のパラグラフでは中位の利子率(平均利子率)というものの固定性が一般的利潤率の変動の緩慢さの表現であるという指摘があったが、今度は、一転してむしろ両者の違いが指摘されている。
  つまり利子の市場率は絶えず動揺するが、しかしそれぞれの各瞬間にはある固定的な大きさとして常に与えられている。しかし一般的利潤率というのは、そうではなく、ただ一つの傾向として存在するだけだというのである。利子の市場率が、各瞬間には一定の固定的な率として決まってくるというのは、貸付可能な資本が一つの総量として、機能資本家に対立して、その需要と供給によって決定されるからである。信用制度の発展とそれに結びついた貸付可能な資本の集積とがそれに一般的社会的な性格を与えることになるとも指摘されている。
  一般的利潤率が特殊的利潤率の均等化の運動として、一つの傾向として存在しているだけだ、という指摘も重要である。またここでの一般的利潤率を形成する資本家たちの競争についても詳しい説明がある。それは特殊的利潤率がかなりながいあいだ平均よりも低い部面から資本家たちが資本を引き揚げて、高い部面へと投じていく運動のことであり、あるいは追加資本がこれらの部面に配分される割合が違ってくるということだ、つまりそれらのいろいろな部面への資本の供給が変動することだ、という説明がある。】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-13)

【42】

 すでに見たように,利子生み資本は,商品とは絶対的に違った範疇であるにもかかわらず,独特な種類の商品Waare sui generis〕となるのであって,それゆえに利子は,〔すなわち〕これはまたこれで〔商品の〕価格とはまったく違っている利子生み資本の価格は,商品の場合にその市場価格がそうであるように,需要と供給によってそのつど確定されるのである。それだから,それ〔利子〕の市場率は,絶えず変動する〔variiren〕にもかかわらず,商品のそのつどの市場価格とまったく同様に,つねに確定した一様なものとして現われる。貨幣資本家たち〔monied Capitalisten〕はこの商品を供給し,機能資本家たちはそれを買い,それにたいする需要を形成するのである。このようなことは,一般的利潤率への均等化の場合には生じない。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合,それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視する),その均等化は,生産の拡大または縮小によって,すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって,均等化が生じるのであり,この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介される。そのようにして引き起こされる,諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって,一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的諸利潤率の偏倚は修正される。この過程は,利子生み資本とはちがって,生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現われないし,またけっしてそういうように現われることはできない。この過程が現われるかぎりでは,それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化とのうちに現われるだけであって,平均利潤の確定として現われるのではない。一般的利潤率は,実際には,総資本が生産する剰余価値によって,生産的資本の価値にたいするこの剰余価値の割合によって,そして競争によって,といってもここでは,ただ,特殊的生産諸部面に投下された資本がそれそれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争によって,規定されている--つまり一般的利潤率は,実際には,需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った,それよりもずっと複雑な諸原因からその規定を汲み出す〔--〕のであり,したがって,一般的利潤率は,けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではない。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は,それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないもの〔matter of guessing〕である。しかし,それらの利潤率が現われるかぎりでは,現わ[449]れるものはそれらの利潤率の一様性ではなくて多様性なの||300上|である。ところが,一般的利潤率そのものは,ただ利潤の最低限界〔Minimum limit〕として現われるだけで,現実の利潤率の経験的な姿態としては現われないのである。

  ①〔異文〕「一般的利潤率への均等化の場合には」←「……の確定の場合には〔bei der Festsetzung der〕」
  ②〔異文〕「縮小」Verkürzung←Contrac[tion]
  ③〔異文〕「そのようにして引き起こされる,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「特殊的諸利潤率は絶え[ず]」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「修正される〔rectificirt」」 ←「縮小される〔reducirt〕」
  ⑥〔異文〕「や商業資本」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「市場価格の」--書き加えられている。
  ⑧〔異文〕「る。そしてこれは,ただ……ような,絶えざる過程である。」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「平均利潤の確定として現われるのではない」--書き加えられている。
  ⑩〔異文〕「……規定されているのではない」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「生産的」--書き加えられている
  ⑫〔異文〕「ここでは,」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「の経験的な姿態」--書き加えられている。〉 (244-246頁)

 〈すでに見ましたように、利子生み資本は、商品とは絶対に違った範疇です。にもかかわらず、それは独特な商品となるのです。だから利子は、これはこれで商品の価格とはまったく違っているのですが、利子生み資本の価格となり、商品の場合にその市場価格がそうであるように、需要と供給によってそのつど確定されるのです。だから、それらの利子の市場率は、絶えず変動するにもかかわらず、商品のそのつどの市場価格とおなじように、つねに確定した一様なものとして現れるのです。
  貨幣資本家たちはこの商品を供給し、機能資本家たちはそれを買い、それに対する需要を形成するのです。
  しかしこのようなことは一般的利潤率への均等化の場合には生じません。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合、それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視します)、その均等化は、生産の拡大または縮小によって、すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって、均等化が生じます。この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介されます。そのようにして引き起こされる、諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって、一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的利潤率の偏倚は修正されるのです(つまりそれらは生産価格で販売することによって平均利潤を得るようになるわけです)。この過程は、利子生み資本とは違って、生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現れないし、またけっしてそういうように現れることはできません。この過程が現れるかぎりでは、それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化ということのうちに現れるだけで、平均利潤の確定として現れるのではないのです。一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する剰余価値によって、そして競争によって、規定されています。もっともここで競争によって、というのは特殊的生産諸部面に投下された資本がそれぞれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争を意味しますが。--つまり一般的利潤率は、実際には、需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った、それよりずっと複雑な諸原因からその規定をくみ出すのです。だから一般的利潤率は、けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではないのです。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は、それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないものです。しかし、それらの利潤率が現れるかぎりでは、現れるものはそれらの利潤率の一様性ではなく多様性なのです。ところが、一般的利潤率そのものは、ただ利潤の最低限界として現れるだけで、現実の利潤率の経験的な姿態としては現れないのです。〉

 【このパラグラフは結構長いものにとなっている。しかし全体としては一般的利潤率の性格を明らかにするところに主眼があるように思える。
 それを明らかにするために、まずマルクスは利子生み資本の場合を取り上げる。それは商品とは絶対に違った範疇なのに、商品となるのであり、だから利子も商品の価格とはまったく違ったものであるのに、利子生み資本の価格になることを指摘し、商品の市場価格がそうであるように、利子生み資本の価格である利子も、そのつどの需要と供給によって確定された、一様なものとして現れる。貨幣資本家たちがこの商品(利子生み資本)を供給し、機能資本家たちがそれを買い、需要を形成する、と。ここまではいわば一般利潤率を論じるための、その比較のための考察である。
 だからそこからマルクスは話を一転させて、一般的利潤率への均等化の場合には、こうしたことは生じないと論を転じている。ここで「こうしたこと」とは何を指すのかというと、(1)一つは貨幣資本家が利子生み資本を供給し、機能資本家がその需要を形成するいうようなことである。(2)あるいはそうした過程を経て、利子率が一様なものとして確定されるというようなことである。こうしたことが一般利潤率の均等化では生じないとマルクスは指摘するわけである。
 (1)だからまず一般利潤率の均等化の場合はそれはどのようにして生じるかが説明される。その均等化は、ある部面の商品の価格が生産価格よりも高ければ、その部面の生産が拡大され、低ければ縮小されるということを通じて、商品の供給が調整されて、その部面の商品の市場価格が生産価格へ均等化されることによってである。このことによって、その部面の特殊的利潤率の平均利潤率あるいは一般的利潤率からの偏倚が修正されるわけである。だからこの過程は、利子生み資本のように貨幣資本家と機能資本家という二つの資本家が対峙して、一方が売り手、他方が買い手として現れるようなものではない。この過程は、ただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化というかたちで現れるだけである。
 (2)よってこのことから言えることは、一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する総剰余価値を、生産的資本の、それぞれの相対的大きさに比例して配分を受け取るというような競争によって、形成され規定されているのである。だから一般的利潤率というのは、その需要と供給によって規定される利子とは違って、それよりずっと複雑な諸原因から規定されているわけである。だからこそ、一般的利潤率は、利子率のような一様で明白なかたちで与えられるような事実ではないのである。それぞれの生産部面の特殊的利潤率も、そのかぎりでは推測の域を出ないものではあるが、しかしそれらの利潤率は一つの経験的な事実としては多様ものとして現れてくる。しかし一般的利潤率の場合は、そうした現実の経験的姿態としては現れないのである。それは諸資本にとって現れてくる場合は、利潤の最低限界としてに過ぎない、とまあざっとこういうことが述べられているわけである。
 ここで注目すべきは、マルクスは一般的利潤率は「現れる」ことそのものを否定していないことである。それは「現れる」ということは何らかの形で資本家たちによって経験的・感覚的につかまえられるわけである。それはどういう場合かをマルクスは述べている。それは利潤の最低限界としてだ、というのである。つまり資本家たちにとって一般的利潤率は自分たちの獲得しなければならない最低限界の利潤率として意識されているということである。もちろん、部分的にはそれよりも低い利潤率で生産する資本家も存在するだろうし、それよりも高い利潤率で生産する資本家もあるだろうが、しかしそれは資本家たちが彼らの生産を維持しつづけるために必要最低限の利潤率として意識されるというのである。そうでないと彼らはその生産を積極的に続ける動機がなくなるわけである。】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-14)

【43】

 このような利子率利潤率との相違を強調するにあたっては,われわれ自身二つの事情を無視している。すなわち,1)利子生み資本と伝統的に受け継がれた一般的利子率との歴史的先在,2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は,利潤率〔に及ぼす影響〕に比べればずっと大きいということ,この二つである。xx)/

  ①〔異文〕「一般[的]〔allgemei[nen]〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「直接的」--書き加え.られている。
  ③〔異文〕改行して書かれた「これまで述べたところから次のことが明らかになる。第1に」という書きかけが消されている。〉 (246-247頁)

 〈このような利子率と利潤率との相違を強調するにあっては、私たちは二つの事情を無視しています。すなわち、1)利子生み資本そのものが歴史的に資本主義に先行する存在であったことや、一般的利子率もその意味では歴史的に伝統的に受け継がれたものが先行していたという事情です。2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は、それが利潤率に及ぼす影響と比べればずっと大きいということです。この二つが無視されているのです。〉

 【このパラグラフでは、これまで利子率と一般的利潤率との相違を論じてきたことについて、一つの前提を論じておくべきとマルクスが考えたのであろうか。一つは利子生み資本そのものが資本主義以前のはるか昔から存在したものであったこと、そしてそのために一つの伝統的な一般的利子率というようなものも存在していたという事情を無視しているというわけである。もう一つは世界市場の影響の無視である。とくに利子率への影響は、本当は利潤率へのその影響に比べればずっと大きいのだが、そうしたこともわれわれは無視して論じてきたのだというのである。】


【44】

 /300下/xx)①②2%とか3%とか5%とかをあげるということは,1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係になる。平均利潤は,直接に与えられたものとしては現われないで,矛盾する諸変動の平均結果として現われる。利子率はそうではない。利子率は,その一般性においては毎日確定されている事実であって,この事実は,産業資本や商業資本にとっては,彼らの操作のさいの計算上の前提および項目〔item〕として役立ちさえもするものなのである。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも,取引所報告が,あれこれの資本についてではなく,貨幣市場にある資本すなわち貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのである。

  ①〔異文〕挿入されたこのパラグラフは手稿のこのページの末尾に書かれており,xx)によってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔注解〕このパラグラフの以下の部分は,もろもろの変更を加えて,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1461.5-19,35-38 und l462.40-1464.2)から取られている。〉 (247-248頁)

 〈2%とか3%とか5%とかの利子をあげるということは、1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係です。しかし平均利潤は、直接に与えられたものとしては現れないで、矛盾する諸変動の平均結果として現れます。利子率はそうではありません。利子率は、その一般性においては毎日確定されている事実であって、この事実は、産業資本や商業資本にとっては、彼らの操作のさいの計算上の前提および項目として役立ちさえもするものです。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも、取引所報告が、あれこれの資本についてではなく、貨幣市場にある資本、つまり貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのです。〉

 【このパラグラフは、そしてそれは【46】パラグラフまで続くのだが、【43】パラグラフの最後に「xx」なる記号を付けて関連づけられて、書かれたもののようである。これは草稿の300原頁の下段の途中から始まっている。MEGAの注記によれば300頁の末尾に書かれているということである(末尾に書かれているにしては、やや長いのだが)。ということは、マルクスは明らかに300頁の下段に原注を書くスペースを開けた上で、補足を書いているということである。そして原注は書かれなかったわけである。
 このパラグラフはその関連づけられた【43】パラグラフそのものが、その前に展開してきた利子率と利潤率との相違を強調した記述に対して、いわばその前提をなすものとしてわれわれの論述の限定を論じたという、やや補足的な記述であるのに対して、それに関連して論じられたものであり、利子率と平均利潤率の相違をさらに論じたものになっている。つまり利子率というのは、その一般性において毎日確定されている事実であり、その正確さは気象報告の気圧や温度を記録する正確さをも上回るほどのものである。しかし平均利潤率というのは、直接与えられたものとしては現れないで矛盾する諸変動の平均的な結果として現れるだけである。利子率の場合は、産業資本や商業資本にとっては、彼らが運動する上での前提であり、計算上の項目として常に意識しているものである。しかし平均利潤率というのは、彼らがより高い利潤を求めて運動する結果として、その彼らの一連の競争の背後に形成されるものであり、直接的なものとして彼らが意識できるようなものではないのである。彼らがそれを意識するのは、常に自分があげる利潤率が平均的なそれよりも低いもの、彼らにとってはもはや生産を維持するにカツカツの利潤率として意識されるものである。だから彼らにとっては最低限界としてのそれなのである。】


【45】

 〈貨幣市場ではただ貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers)とが相対するだけである。商品は同じ形態を,すなわち貨幣という形態をとっている。資本がそれぞれ特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてとるすべての特殊的姿態は,ここでは消えてしまっている。資本は,ここでは,自立的な交換価値の,貨幣の,無差別な,自分自身と同一な姿態で存在する。特殊的諸部面の競争はここではなくなる。すべての部面が貨幣の借り手Geldleiher〕としてみなひとまとめにされており,また資本も,すべての部面にたいして,その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対している。資本はここでは,生産的資本がただ特殊的諸部面のあいだの運動と競争とのなかでだけ現われるところのものとして,階級の共同的な資本として,現実に,重みに従って,資本への需要のなかで現われるのである。(?) 他方,貨幣資本(貨幣市場での資本)は現実に次のような姿態をもっている。すなわち,その姿態で貨幣資本は共同的な要素として,その特殊的な充用にはかかわりなしに,それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに,資本家階級のあいだに,配分されるのである。そのうえに,大工業の発展につれてますます貨幣資本は,それが市場に現われるかぎりでは,個別資本家,すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によって代表されるのではなくて,集中され組織されて,現実の生産とはまったく違った仕方で,①社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現われるのである。したがって,需要の形態から見れ[441]ば,この資本には一階級の重みが相対しており,同様に供給から見ても,この資本は,大量にまとまったen masse〕貸付可能な資本として〔現われる〕のである。

  ①〔異文〕「社会的」--書き加えられている。〉 (248-249頁)

 〈貨幣市場では、ただ貸し手と借り手とが相対するだけです。ここでは商品は同じ形態を、つまり貨幣という形態をとっています。資本がそれぞれの特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてそのすべての特殊的姿態は、ここでは消えてしまっています。資本は、ここでは、自立的な交換価値の、貨幣の、無差別な、自分自身と同一な姿態で存在します。特殊的諸部面の競争はここではなくなります。すべての部面が貨幣の借り手としてみなひとまとめにされており、また利子生み資本も、すべての部面にたいして、その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対しています。利子生み資本はここでは、階級の共同的な資本として、生産部面のあいだの運動と競争とのなかでだけあらわれるところのものとして、現実の重みに従って、資本への需要のなかで現れるのです。(?)
 他方、貨幣市場での貨幣資本(moneyed capital)は、現実には次のような姿態を持っています。すなわち、その姿態で貨幣資本(moneyed capital)は共同的な要素として、その特殊的な充用にはかかわりなしに、それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに、資本家階級のあいだに、配分されるのです。そのうえに、大工業の発展につれてますます貨幣資本は、それが市場に現れるかぎりでは、個別資本家、つまり市場にある資本のあれこれの断片の所有者にとって代表されるのではなくて、集中され組織されて、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現れるのです。だから、需要の面から見れば、この資本には一階級の重みが相対しており、同様に供給の面から見ても、この資本は、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるのです。〉

 【これは【42】パラグラフで利子率と比較しての一般利潤率の特徴が述べられていたが、それに関連して、この両者の相違の強調には一定の限られた前提があるという【43】パラグラフに関連して、展開されているものである。そしてその関連したものとしては、今度は【44】パラグラフも今回の【45】パラグラフもむしろ利子率の特徴が述べられているように思える。
  今回のパラグラフでは、貨幣市場では貸し手と借り手が相対するだけで、その背後にある事情はそこでは消えてしまっていることが指摘されている。だからそこでは貨幣資本は社会的資本を代表する銀行業者によって統制されたものとして、需要の形態では一階級の重みが相対し、供給からみれば、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるわけである。】


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-15)

【46】

 以上は,なぜ一般的利潤率は,固定した利子率と並んで,消えかかるまぼろしのようなものとして現われるのか,ということのいくつかの理由である。この利子率は,その大きさから見ればたしかに変動しはするが,しかしこのことは,それがすべての借り手にとって一様に変動し,それゆえにまた借り手にたいしてつねに,固定した与えられたものとして相対することを妨げないのであって,それは,ちょうど,貨幣の価値変動が,すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同様である。商品の市場価格が毎日変動しても,このことは市場価格が日々値付けされることを妨げないが,利子率も同様であって,それは同様に規則正しく貨幣の価格として値付けされるのである。なぜならば,ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからであり,したがってその価格の確定は①他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからであり,したがって利子率はつねに一般的利子率として,これこれの貨幣にたいしてこれこれとして,現われるからであるが,これにたいして,利潤率は,同じ部面のなかでも,また諸商品の市場価格が同じでも,違っていることがありうるのである。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って〔違いうる〕。というのは,特殊的利潤率は,商品の市場価格によって決まるのではなく,市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからである。)そして,利潤率はさまざまの部面のなかで,ただ不断の変動,諸過程によってのみ均等化されるのである。〔「xx)」による追記部分終わり〕|

  ①〔異文〕「他の」--書き加えられている。〉 (249-250頁)

 〈以上、私たちは一般利潤率は、どうして固定した利子率とは違って、消えかかるまぼろしのようものとして現れるのか、ということの幾つかの理由を見てきました。確かに利子率は、その大きさはいろいろと変動はしますが、しかしこのことは、すべての借り手にとって一様に変動し、それゆえにまた借り手に対してつねに、固定した与えられたものとして相対することを妨げないのです。それはちょうど、貨幣の価値の変動が、すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同じです。商品の市場価格が日々変動したとしても、このことは市場価格が日々値付けされることを妨げません。同じように利子率も、日々変動しますが、そのことは規則正しく貨幣の価格としてそれが値付けされることを妨げないのです。というのは、ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからです。だからその価格の確定は、他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからです。だから利子率はつねに一般的利子率として、これこれの貨幣にたいしてはこれこれとして現れます。
  これに対して、利潤率は、同じ部面のなかでも、また諸商品の市場価格が同じであっても、違っていることがありえます。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って利潤率は違いうるのです。というのは、特殊的利潤率は、商品の市場価格によって決まるのではなく、市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからです。)そして、利潤率のさまざまな部面のなかで、ただ不断の変動、諸過程によってのみ均等化されるのです。〉

 【これも追記部分の最後の部分であるが、ここでは利子率は日々変動しても、つねに一定の率として確定され、一様に固定的に貨幣の借り手に相対していること、しかし利潤率はそうではなく、それは例え市場価格が同じ場合でも、あるいは同じ商品を生産する部面でも違う場合がありうること、そしてそうした利潤率がさまざまな部面のなかでの不断の変動や諸過程を通じて均等化されることが指摘されている。】

 

【47】

 〈/300上/{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}{第2に,債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になる。}{第3に,債務権原の相殺が貨幣の代わりをする。}/

  ①〔異文〕改行して書いた「第1に」という書きかけが消されている。/〉 (250-251頁)

 〈以上のことから、次のようなことが明らかになる。
  第一に、信用の一証明、あるいは一形態。私たちが知っているように、貨幣が購買手段とてではなく支払手段として機能する場合には、商品は譲渡されるがその価値はあとからはじめて実現されます。もし商品が売られてからはじめて支払がなされるとすれば、販売は購買の結果として現れるのではなくて、販売によって購買が実現されるのです。そして、販売が購買の手段になるのです。
  第二に、債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になります。
  第三に、債務権原の相殺が貨幣の代わりをします。〉

 【このパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクスがついでに関連して、書いたものかもしれない。大谷氏はこのパラグラフについて次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では,このすぐまえに,「以上のところから,次のことが明らかになる。〔Es ergiebt sich aus dem Bisherigen Folgendes:〕」と書き,改行してその下に「第1に。〔Erstens:〕」と書いたのちに,この両方を消している。この「第1に」は,すぐあとの「第2に」に対応するものであろう。MEGAはこの異文を記載していない。なお,このパラグラフへのMEGAの異文での,消されている「第1に」は,この「第1に」とは別に,このパラグラフの次行に書かれているものである。つまり,このパラグラフの直前に「第1に」という消されている行があり,さらにこのパラグラフの直後にもう一度,「第1に」という消されている行があるのである。
  エンゲルス版では,このパラグラフのまえに,区切りを示す横線が引かれている。そしてこのパラグラフの最初に,「(あとの仕上げのための覚え書)」と書き入れている。〉 (251頁)

  こうしたマルクスの記述のあとをみると、「第1に」には、〈{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}全体が含まれるようである。最初に考えたのは、〈信用の一証明形態〉として、第一に、第二に、第三に、と続くと思えたのであるが、どうもそうでないらしい。
  また、この〈信用の一証明形態〉についても、大谷氏は次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では「信用の一証明Ein Beweis d.Credits〕」のうちのBeweis d.の上に,挿入記号なしにFormと書かれている。MEGAはこれをBeweisformと読み,EinをEineに変更している(草稿ではEinのままになっている)。だから,このFormの書き加えは,「信用の一証明〔Ein Beweis d.Credits〕」に「信用の一形態〔Eine Form d.Credits〕」を並記した,と見ることも可能であろう。〉 (251頁)

  これは大谷氏のように、並記したと理解する方が正しいような気がする。そもそも「一証明形態」などという用語を読んだ時にすぐに?(ハテナ)と疑問に感じたからである。証明の形態などというのは一体何を言いたいのかと思わざるを得ない。むしろ信用の一つの証明、あるいは信用の一つの形態としてまず第一が論じられ、そのあと第二と第三の問題が論じられていると理解する方がすんなりと理解できるのである。
  しかしこのパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクス自身も最初、〈以上のところから,次のことが明らかになる〉と書き出したものの、それを消しているということはことさらこれまでの展開と関連づけてこのパラグラフの内容を書いたとは言えないと考えたからであろう。マルクス自身はそうした展開としてこれを書いたわけではないのである。ただこれまで書いてきたことと関連して、思いついたことをメモしたという程度のものと理解すべきではないかと思う。】

  以上で「2)」(エンゲルス版第22章該当個所)の草稿のテキストは終わりである。だからもう一度、全体を見渡して、マルクスがこの「2)」をどのように展開しているのかを見ていくことにしよう。

 

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-16)

エンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」(草稿では「2) 利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。」)全体の構成

 

  この「2)」全体の構成を考えるために、全体を幾つかの部分にわけて、便宜的に番号を打って、それぞれのテーマを書き出してみよう。

  (1) まず表題を確認しておこう。

  〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  これはマルクス自身によって書かれている。つまりここでは三つのことが考察されることが示されている。(1)利潤の分割。(2)利子率。(3)利子の自然的な率である。ここで(2)と(3)がどのように違うのか、それを区別する意義は何か、そうしたことも問題であろう。

  (2) 【2】--ここではこれから考察する対象についての限定、前提が語られている。

  (3) 【3】~【13】--ここではまず〈われわれのこれまでの前提によれば〉とこれまで考察してきた「1)」(第21章該当部分)を前提すれば、利子は利潤のうちの機能資本家から貨幣資本家に支払われる一部分であるというもっとも直接的な表象にもとづいて利子の規定が行われ、そこからだから利子の最高限界として現れるのは利潤そのものだ、といきなり利子の量的考察に入っている。そしてマッシーからの抜粋を本文として紹介して、こうした利子の規定は、当時のエコノミスト達にとっても表象としてつかまれていたものであることを示唆している。そして利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界とみなされるべきとし、利子は平均利潤に関連づけて説明すべきという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察するとしている。そして一般的利潤率を100と与えられた大きさとして仮定するなら利子の変動は機能資本家の手に残るものと反比例するが、しかし両者はまったく違った事情によって変動することを指摘する。

  (4) 【14】--ここに〈Nb.〉で始まる一つのパラグラフが挿入される。そして〈利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉という自己了解の事項が書かれている。

  (5) 【15】~【22】--ここから産業循環の諸局面に応じて利子率がどのように変化するかが論じられている。そしてそれに幾つかの原注がつけられ、補足的な説明も本文として加えられている。

 (6) 【23】~【29】--ここではまず〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉というテーマが掲げられている。そしてそうした問題として(1)、(2)、(3)と番号を打って抜粋が紹介されているように見えるのだが、しかしテキストの考察でも紹介したが、【34】パラグラフにある(3)は必ずしも同じ問題を論じているとは言いがたい。だからこの(3)はとりあえずは無視して、われわれは論じることにしたい。そうするとこの傾向として語られているのは、一つは金利生活者の増大、もう一つは信用システムの発展である。こうした結果、貸付可能な貨幣資本の増大が生じ、利子率は低落する傾向があるということである。

 (7) 【30】~【33】--この部分は大変長い【30】パラグラフとそれにつけられた原注からなっている。【30】パラグラフでは、まず利子の平均率とか中位的な率というようなものはどんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。だから利子の自然率というようなものは、利潤の自然な率とか賃金の自然な率というような意味では存在しないと指摘する。だから貸付可能な資本の供給とそれに対する需要のみが利子率を規定するのだということである。そしてどうして利子率の限界を一般的な法則から展開できないのか、というとそれは利子の性質のうちにあるとしている。貸付資本も資本であるが、それが現実に資本として機能するのは、一度だけであり、生産資本においてであること、だからその結果として生産された利潤に対する要求権をもつ二人の人物がそれをどのように分けるのかは経験的な事実でしかないからだというのである。そこから質的な分割が、剰余価値の純粋に量的な分割から出てくると結論づける。あとはこれのパラグラフにつけられた原注が続くだけである。

 (8) 【34】~【35】--この部分は、冒頭に「(3)」と番号が打たれ、スチュアートの『経済学原理』からの抜粋があり、一見すると(6)の続きのように思えるのだが、すでに述べたように、論じられている問題が必ずしも同じとは言い難いものである。ここではマルクスは貨幣の価格、すなわち利子率は大きな固定性と大きい一様性をもっているということを肯定的に引用している。そしてこの利子率の固定性と一様性は、あとの展開でも言及されているから、この抜粋部分はまったくどうでもよいものとは言い難いのである。

 (9) 【36】~【46】--ここでは利子率と利潤率(一般的利潤率)との違い、両者の比較検討を通じて、利子率の性質を明らかにし、また同時に利潤率(一般的利潤率)の性質をも明らかにすることが課題とされているように思える。

  (10) 【47】--この最後の部分は、これまでの展開を踏まえて、思いついたことをメモ書きしたもののように思える。だから全体の論旨とは必ずしも関連させて考える必要はないように思える。

  このように全体を見渡すと、いろいろなことが論じらているのであるが、もう少し対象を絞って論じられている重要な項目を挙げてみよう。

  (1) 利子は利潤の分割されたものであり、よって究極的には利潤によって規定されていること、そうした利子の規定は、直接的なものであり、一般的に表象として、当時の経済人や経済実務家、あるいはブルジョア的な理論家によっても捉えられてきたこと。

  (2) 産業循環の諸局面で利子率の変動があること。マルクスは産業循環の諸局面として、沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々をあげているが、利子率は最初の沈静状態では低く、活気増大でもやはり信用はしっかりしており、商品資本の実現とそれが貨幣資本として循環してくることも順調だから、貨幣資本(moneyed capital)への需要がそれほど多くないために低いままである。繁栄に至って、ようやく利子率は徐々に高まり、過剰生産に至って、諸資本は低下した一般的利潤率を利潤量の絶対的増大によって補おうとして加速度的な蓄積と拡大を行うために、貨幣資本(moneyed capital)への強い需要が生じ利子率は高くなる。そして恐慌時には、今度は産業は行き詰まるが、諸資本は諸支払への必要から支払手段の融通を銀行に求め(また支払い手段としての銀行券の退蔵も生まれるから)、利子率は異常に高騰する。そしてまた沈静に至り経済活動は不活発になるがゆえに、利子率も低下する等々である。

  (3) 利子率はどんな法則によっても全然規定できないものである。それは利子の性質にもとづいている。貨幣資本も資本であり、それが貸し出される機能資本も資本である。しかし資本が資本として利潤を生むのは後者の局面だけである。だから利潤を二つの資本家によって分け合う必要があるが、これはただ経験的にやるしかやりようがない。だから利子率は何か法則的に決まってくるというようなものではないのである。ここでは需給の一致は何も意味しない。貨幣資本(moneyed capital)の供給者と需要者による競争がそれを決定するのである。競争そのものが決定するということは、それによって規定されるものは、それ自体として偶然的であり、純粋に経験的であるということ意味する。

  (4) 利子率と一般的利潤率との違いと両者のそれぞれの性質。利子率は貨幣資本(moneyed capital)の需要と供給とによって、貨幣資本家と機能資本家とが相対することによって、その時々に経験的に捉えられる事実であり、確定されたものとして、あまねく一様であり、固定的であるが、一般的利潤率はもっと複雑な過程を経て形成されるものである。それは諸商品の市場価格が生産価格へ平均化される過程を通して、諸資本がある部面から他の部面へと移動することによって、あるいは追加資本の配分が変化することによって、総剰余価値をそれぞれの資本の大きさに応じて按分比されて分割されるように、諸資本が互いに競争する結果として決まってくるものであり、それは諸資本の現実の運動の背後で形成され、けっして経験的にとらえられるものではない。それが経験的に知られるのは資本にとっての利潤の最低限界として意識されるときだけである。

  まあ、ざっとこうしたことが論じられている。ここでは全体としては利子率というものの性質があまねく明らかにされているということができる。

 では全体の流れとして、マルクスはどのように問題を展開しようとしているのであろうか。
 まずマルクスは利子とは何かを直接的な表象として捉え、それは当時の経済実務家たちによっても把握されていたものであることを指摘する。つまり利子とは何か、それは利潤から分割されたものだというのは、直接的な表象としても把握できることなのである。
 そこからマルクスは次ぎに利子率の変化を現実の経済過程のなかに見ている。最初は分析の前提として産業循環のあいだに利子率が通る円環については、産業循環の叙述を前提することはできないといいながら、しかしここで産業循環の諸局面で利子率はどのように変化するかを見ているのである。しかしこれは必ずしも産業循環の考察を踏まえたものというより、そうした産業循環の諸局面における利子率の変化をただ辿っているということに過ぎない。つまりそれぞれの局面に対する利子率の対応を見ているだけで、なぜそうなのかについては一切論じていないといえる。
 そしてこうしてみたように産業循環の諸局面に対応して利子率が変化することを見るなら、利子率は何らかの法則にもとづいてそのように変化しているのかという問題に次ぎにマルクスは移行しているわけである。そしてマルクスは、利子率にはそうした法則性というようなものは何もないのだと喝破している。そしてそれは利子の性質そのものにもとづくものだというのである。そして利子率というのは結局は競争そのものによってただ経験的に決まってくるだけだとしている。
 このように利子率の特性を明らかにしたあと,マルクスはこうした点で利子率は一般的利潤率とは違うということを指摘して、両者を比較・検討して、それぞれの特性をさらに明らかにしようとしている。利子率とは異なり、一般的利潤率は法則的に決まってくるものだとマルクスは考えているわけである。
 だいたい以上が、この章でマルクスが展開しているものである。


この本の内容は以上です。


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