目次
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-1)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-2)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-3)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-6)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-7)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-9)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-10)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-11)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-12)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-13)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-14)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-15)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-16)

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第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-9)

【31】

 〈[435]/297下/〔原注〕g)すでにマッシーもこの点については十分に正当に次のように言っている。--「この場合にだれかが疑問とするかもしれないただ一つのことは,これらの利潤のどれだけの割合が正当に借り手のものであり,どれだけが貸し手のものであるかという問題である。そして,これを決定するには,一般の借り手と貸し手との意見によるほかにはなんの方法もない。なぜならば,正も不正も,この点では,ただ一般的な同意が正とし不正とするものでしかないからである。」(同前,49ページ。)〔原注g)終わり〕|〉 (238頁)

  【これは原注であるが、ほぼマッシーからの抜粋なので、平易な書き下し文は不要であろう。これは〈一国で支配的な利子の--利子率の--中位的な率または平均率は,どんな法則によっても全然規定することのできないものである。利子の自然的な率a natural rate of interest〕というものは,たとえば利潤の自然的な率〔a natural rate of profit〕または賃金の自然的な率〔a natural rate of wages〕が存在するというようなこういう仕方では,存在しない〉という部分に対する原注であり、同じことはすでにマッシーによって指摘されているというものである。】


【32】

 [436]298下|〔原注〕a)たとえば,オプダイク,アルント,等々を見よ。--G.オプダイク経済学に関する一論』,ニューヨーク,1851年,は,5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとする,極度に失敗した試みをやっている。それよりもはるかに素朴なのは,『独占精神と共産主義とに対立する自然的国民経済,云々』,ハーナウ,1845年,のなかでのカール・アルント氏である。そこには次のようなことが書いてある。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことか!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」(同上,124,125ページ。)これは,「森林起源的利子率」と名づけられるのに値いする。そして,その発見者はここに引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「畜犬税の哲学者」の名にも値いさせているのである[420.421ページ]。〔原注a)終わり〕

  ①〔注解〕マルクスはここで,ジョージ・オプダイクの著書『経済学に関する一論』,86-87ページでの次の章句をほのめかしているのかもしれない。--「ある個人が貨幣を他人に貸し付けるとき,よく知られていることであるが,彼はそれのサーヴィスまたは使用にたいして,利子と呼ばれる報酬を受け取る。この報酬は,通常,貸し付けられた額にたいする年率で3%から9%のあいだ--ときとして異常な事情がこの率を短期間のあいだこれらの限度を越えさせることもあるが--のどこかにある。だから,その中間点は約6%である。だが,租税や損失の危険にたいしてさらに1%を差し引けば,貨幣の形態にある資本の平均的な純収入として,年率5%が残る。さて,貨幣と,生産的資本のその他のあらゆる形態とは,それらの所有者たちによって随意に,互いに等しい諸部分が交換されることができるし,また交換されているので,このことから,年率5%は,あらゆる種類の生産的資本の中間的純収入だ,ということになる。また生産的資本と土地とは等しい諸部分が相互に交換されるのだから,このことから,土地の純年間収入はほぼ5%だ,ということになる。」
  ②〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1502.23-27)から取られている。〉 (238-239頁)

 〈衒学または妄想だけが偶然的なものを何か必然的なものとして説明しようとする例としてあげることができるのは、たとえば、オプダイク、アルント等々です。オプダイクは5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとして、極度に失敗した試みをしています。それよりはるかに素朴なのは、アルント氏の次のような説明です。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことでしょう!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」これは「森林起源的利子率」と名づけられるのに値するものです。そしてその発見者はここの引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「蓄犬税の哲学者」の名にも値させているのです。〉

 【これは〈競争そのものが決定する場合には,規定はそれ自体として偶然的であり,純粋に経験的であって,ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのである〉という一文につけらた原注である。つまり〈衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができる〉例としてオプダイク、とくにアルントの主張を滑稽なものとして紹介している。
  オプダイクについては、注解①が詳しくその主張を紹介している。
  アルントについて、最後にマルクスが〈「畜犬税の哲学者」〉と紹介している文言について、大谷氏は訳者注で、次のように説明している。

  〈「「畜犬税の哲学者」」--アルントはその著書の420-421ページで,犬は,放たれていると人間の交通の余地を狭くし,吠えたり噛んだりすることで公衆を困らせ,狂犬となって人間生活を脅かし,そのエサの消費で人間の食物を制限するのだから,有用な目的なしに犬を飼う人びとに畜犬税を課すのが道理である,と書いている。マルクスはこれを皮肉っているのである。〉 (239頁)

  なお注解②によれば、このアルントについての抜粋は61-63草稿からとられているということだから、その原文も見ておこう(しかしMEGAの注解等は省略)。

  〈「われわれの科学」を「用心深く」発展させるこの同じ人(アルントのこと--引用者)は、次のようなおもしろい発見をしている。
 「財貨生産の自然的な行程では、利子率を--まったく開拓された国々において--ある程度まで調整するべく定められているように見えるただ一つの現象がある。--それは、ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によって増加する割合であって--この生長は、まったくその交換価値にはかかわりなしに(樹木の生長を「交換価値にかかわりなしに」調整するとは、なんとこっけいなことだろう!) 3%ないし4%の割合で行なわれる。--だから、これによれば {というのは、たとえ樹木の交換価値がどんなにその生長によって定まろうとも、その生長はその「交換価値にはかかわりがない」のだから!} 現在それ(利子率)が貨幣の最も豊富な国々で到達している高さよりも低く下がることは、期待できないであろう。」(同前、124、125ページ)
  これは「森林から発生した利子率」と名づけるに値する。そして、その発見者は、はこに引用した「われわれの科学」に関する著作のなかで「畜犬税」の哲学者としても世の注目を浴びたのである。〉 (草稿集⑦483頁)】


【33】

 〈〔原注〕b)イングランド銀行は,バンク・レートbankrate〕を,(もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらであるとはいえ),地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりする。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕『為替の理論,云々』,113ページ。)〔原注b)終わり〕/〉 (239-240頁)

 〈イングランド銀行は、バンク・レートを、もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらではありますが、地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりします。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕〉

 【これは〈イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者〔Country Bankers〕や職業的理論家たちが,月並みな文句〉や〈きまり文句〔platitudes〕から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっている〉という一文につけらた原注である。本文では議会報告の〈サミュエル・ジョーンズ・ロイドの証言〉が取り上げられていたが、しかし現実の利子率、つまりイングランド銀行のバンクレートそのものは、貨幣市場での支配的な利子率を顧慮しながらも、地金の流出入によって上下させていることを指摘し、これによって利子率の変動を予想しての割引投機が、ロンドンの巨頭たちの取り引きの半分を占めるようになったというヘンリ・ロイの一文が紹介されている。
  イングランド銀行が地金の流出入に応じてバンクレートを上下させたというのは、1844年のピール銀行条例によって、1400万ポンド以上のイングランド銀行券の発行については同銀行の地金保有高に応じて発行するように発行高の上限が制限されたからである。同行の銀行部は他の市中銀行と同じように貸し付け業務を行っていたが、当時の貸し付け業務の主要な内容は、手形の割引業務であり、その割引率を規定するのがバンクレートである。だから銀行業者たちは民間業者が持ち込む手形の割引率をどうするかについて、その時々の利子率の変動を見越して投機的な取り引きを行い、将来利子率が下がると予想すれば、今の相対的に高い利率での割引数を増やし、その反対であれば、今の低い利率での割引を控えようとする等々の操作を行い、それで儲けようとしたということである。そうした投機による取り引きが、取り引きの半分を占めるほどになったというわけである。しかしそれが投機の対象になることを考えても、利子率の変動に何か一定の法則性があるわけではないということである。】


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-10)

【34】

 〈[437]/298上/3)「商品の価格は絶えざる変動のなかにある。商品にはすべてそれぞれ特殊的な用途がある。貨幣はどんな目的にも役立つ。商品は,同じ種類のものでも,品質が違っている。正貨numéraire〕はいつでも同じ価値をもっているか,もっているはずである。それだから,われわれが利子という言葉で表わす貨幣の価格は,他のどんな物の価格よりも大きい固定性大きい一様性とをもちうることになるのである。」c)以上は,わが友ステューアト。/〉  (240頁)

 【このパラグラフは本文であるが、ほぼ引用文だけなので、平易な書き下し文は省略した。これは冒頭に「3)」とあることから類推するに、これまでの1)と2)との関連で言うなら、利子率が利潤率の変動とは関わりなしに低下する傾向がある第三の理由として挙げられているのだろうと考えることができる。だからこれまでの理由をもう一度、おさらいをしておくと。
  1)は金利生活者の増大であった。それが大きくなれば貨幣の貸し手も大きくなるということから、富裕な国では利子率は低下する傾向があるとされていた。
  2)は信用システムの発展。それによってあらゆる社会のあらゆる階級の貨幣貯蓄が集積されるから。貸付可能な貨幣資本の増大によって利子率は低下する傾向が生じるということであった。
  そしてさらなる理由として3)なのである。しかしここでは利子率が低下する傾向というよりも、むしろ利子率の固定性が言われているように思える。ステューアトは貨幣の価格と商品の価格とを同じようなものとして比較しているが、もちろん、これは正しくない。また彼が貨幣の価格は大きい固定性と大きい一様性をもつというが、そもそも他の一般の商品の価格と比較していることそのものが正しいとはいえないし、利子率が固定性もつというのも正しいとはいえず、一様性をもつということそのものはよいとしても、その理由としているものも正しいとは言い難い。いずれせよ、この「3)」はこれまでの「1)」や「2)」とは違ったものといわざるをえない。大谷氏は訳者注で次のように述べている。

  〈この「3)」は,形式的には,既出の「1)」および「2)」に続くものと見るほかはないのであるが,「1)」および「2)」は「利子率が利潤率の変動にはかかわりなしに低落する傾向」についてのものであったのにたいして,この「3)」は,利子率の一様性,固定性,確定性について述べようとしているのであって,内容的には,「1)」および「2)」に続くものではないように思われる。エンゲルス版でこの「3)」を削除しているのもそのためであろう。〉 (240頁)

  だからわれわれもとりあえずはこの「3)」については、正確な解釈は保留しておこう。
  ついでにマルクスはこの引用の最後に〈以上は,わが友ステューアト〉と書いている。エンゲルスは編集の段階でこの部分を削除しているが、これはマルクス特有の皮肉なのであろうか。それともステューアトへの親しみを表現したものなのであろうか。この点、『資本論辞典』によれば「マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる」とある。これを見るかぎりではステュアートを積極的に評価していたといえるだろう。だからこの一文は親愛の情を表したものと考えてもよいように思えるのだが……。しかしこの判断も保留しておこう。

  以下、ついでに参考のために『資本論辞典』のステュアートの項目を紹介しておこう(ただし、最初の経歴などの部分はカット)。
 
 〈ステュアート ジェイムズ Sir James Steuart (1712-1780) イギリスの経済学者.……(中略)……
 彼の主著《経済学原理》は,その当時の時論として,また商業資本家あるいは産業資本家の日常的経験を理論化するにとどまっていた重金主義,あるいは重商主義の理論を体系化して,はじめて経済学をつくりあげた地位を占めている,《原理》は一方では,生産様式の歴史的差異に注目した特徴をもつとともに,他方では,時代に制約されて‘重金主義または重商主義の科学的再生産'それらの'合理的表現'にとどまっている.すなわち,彼は,生産様式の歴史的差異を労働の諸形態にもとめ,近代資本主義社会の特徴を,交換価値を生む労働と規定し,このような労働形態は労働者たちが生産手段や生活手段にたいする所有権を失い,これらのものが労働者にあらざるひとつの財産としてその労働者に対立することによっで発生すること,ことに農業におけるそれが,工業における資本主義的生産の前提条件であることをあきらかにした.そしてこのような観点から労働の古代的および中世的形態に対立する労働の近代的形態をあきらかにした.マルクスは,ステュアートのこの側面での経済学への寄与を‘資本の把握のための彼の功績は,一定階級の所有物としての生産諸条件と労働力とのあいだの分離過程が,どのようにしておこなわれるかをしめした点にある' (MWI-9;青木1-48)と高く評価している.しかし彼の交換価値の規定は,明瞭でなく,労働時間による規定のほかに,賃銀・原料も一役演じており,価値と素材内容との分離が完全におこなわれていない.そしてこのことは,価値・剰余価値の発生を生産過程の分析を通じておこなうことを妨げた.彼は,剰余価値を流通過程=交換から,すなわち,資本家がその商品を価値を超えた価格で販売するところから生ずる,という重商主義的見解にとどまっていた.ただしこの通俗的見解は,このような交換から生ずる剰余価値は,なお富の積極的増加であると解釈していたが,ステュアートは,それは商品の販売者の側における利得が購買者の側における損失によって相殺されるために,相対的利潤にすぎず,なんら富の積極的な増加を意味するものでないと解釈した.このことは,当時の支配的な通俗的見解を批判し,それから一歩抜けでていることを示している.他方,ステュアートはこのような相対的利潤のほかに,なにびとにも損失とならず,社会全体にとって,ひとつの価値増加となるような積極的な剰余価値の存在を認めていた.しかしステュアートはこのような剰余価値の性質をそれ以上は研究しなかった.マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる.ステュアートはまた,貨幣の分析においては,‘観念的度量単位説'をとり,その空想的見解はマルクスによって批判されているが,しかし同時に,流通界にある貨幣の数量が商品の価格によって規定されるものであるか,それとも商品の価格が流通貨幣の数量によって規定されるかという問題をはじめて提出し,そして貨幣の‘種々なる本質的な形態規定と貨幣流通に関する一般的法則を発見した'功績もあわせて強調されている.(大野精三郎)〉(505頁) 】


【35】

 /298下/〔原注〕c)経済学原理』,フランス語訳。第4巻,1789年,27ページ〔小林昇監訳『J.ステユアート 経済の原理--第3・第4・第5編--』,名古屋大学出版会,1993年,230ページ〕。〔原注c)終わり〕/

  ① 〔注解〕ジェイムズ・ステユーアト『経済学原理… … 』,第4巻パリ,1789年。〉 (240頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで引用されたステューアトの一文の典拠を示すだけなので、とくに解説も不要であろう。ただ少し気づいたことだが、小林昇訳や『資本論辞典』では「ステュアート」となっているが、本書では「ステューアト」になっている。どっちが本来の呼び方に近いのであろうか。】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-11)

【36】

 /298上/これまでに述べたことから,利子の自然的な率というものがないということは明らかである。しかし一方で,ただ総利潤〔gross profit〕を二人の資本所持者のあいだに違った名目で分けることだけが問題なのだから,(絶えず変動する利子の市場率〔fluctuating market rates of interest〕とは区別される)中位の利子率または利子の平均率average rate of interest〕は,一般的利潤率とは反対に,その限界〔limits〕をどんな一般的法則によっても確定できないものであるのにたいして,〔他方では〕逆に,利子率は,中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと,一般的利潤率とはまったく違って,一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる。利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である。

  ①〔異文〕 「ただ……だけ」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「反対に」← 「異なって」〉 (241頁)

 〈これまで述べたことから、利子の自然的な率というようなものはないということは明らかです。しかし利子率を一般的利潤率と比較しますと、一方では、ただ総利潤を二人の資本所持者のあいだで違った名目で分けることだけが問題なのですから、絶えず変動する利子の市場率とは区別される、中位の利子率または利子の平均率は、一般的利潤率とは反対に、その限界をどんな一般的法則によっても確定できないものです。また他方では、逆に、利子率は、中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと、一般利潤率とはまったく違って、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるのです。利潤率に対する利子率の関係は、ここでは、商品の価値に対する市場価格の関係と同様です。〉

 【このパラグラフは〈これまでに述べたことから〉という文言から始まる。しかしここで〈これまでに〉というのはどこからどこまでを指しているのであろうか。展開からするなら、マルクスが【23】パラグラフで〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉と述べて、「1)」、「2)」、「3)」と展開して、それを受けたものになっているから、そうした記述を指しているように思えなくもない。しかし内容的にはいま一つ納得できない。そしてそうした目で見ると、【30】パラグラフからは問題がさらに展開されて深められているような気がするのである。われわれは【34】パラグラフに「3)」と番号が打たれているために、どうしてもこの「1)」~「3)」が一続きのものと考えざるを得ないのであるが、しかし「1)」、「2)」と「3)」は明らかに同じ問題を論じているとはいえないのである。だから【23】パラグラフで提起された問題は、「1)」、「2)」で終わっており、だから「3)」を無視すれば(だから【34】、【35】パラグラフをないものとすれば)、むしろ全体の展開ははっきりしてくるように思える。そしてそうした展開として考えれば、【30】パラグラフからは新しい問題が論じられ、それはこの【36】パラグラフに繋がっていると考えることができるのである。
  このパラグラフそのものは平易な書き下ろしで容易に理解できる。ただ最後にマルクスが述べていること〈利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である〉というのはどういうことを言いたいのであろうか。これは利子率というのは、その平均率であろうがその都度の市場率であうが、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるが、一般的利潤率は決してそうしたものとしては現れないという関係を見ているわけである。そしてそれは価値の市場価格との関係と同じだと述べているわけである。価値も一見してその大きさといったものは明らかなものとしては現れない。それは本質的なものであって、われわれの目に見えないものである。同じように、利潤率も決して一定の率として見えているようなものではない。とくに一般的利潤率というものは諸資本の競争によって形成されるが、それはさまざまな資本家が直接目にできるものではない。しかし商品の市場価格というものは、常に一定量のものとして、値札として表れ、一見して明瞭なものである。こうした関係をマルクスは同じと見ているわけである。】


【37】

 [438]利子率利潤率によって規定されているかぎりでは,それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって,特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率がどうであれ,それらによって規定されているのではなく,まして個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらない。d) それだからこそ,一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである。といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではないのであるが。|

  ①〔異文〕「独自な」--書き加えられている。〉 (241-242頁)

 〈利子率が利潤率によって規定されているかぎりでは、それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊的産業部門で行われている独自な諸利潤率がどうであれ、それらによって規定されているのではありません。ましてや個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらないのです。それだからこそ、一般的利潤率は、実際に経験的な事実として、ふたたび平均利子率のかたちで現れるのです。といっても、後者は決して前者の純粋な、また確実な表現ではないのですが。〉

 【先のパラグラフからは利子率の特性を一般的利潤率との比較によって明らかにしようとしているように思える。ここでは利子率が利潤率によって規定されているという場合には、それは一般的利潤率によって規定されているのであって、それ以外の利潤率によってではないことが言われている。
  ただそれを受けて言われていることはいま少し検討が必要なように思える。マルクスは上記の指摘をしたあと、それを受けて〈それだからこそ〉と述べて、〈一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである〉と述べている。〈ふたたび……現われる〉というのもいま一つよく分からないのあるが、これは一体どういうことをマルクスは言いたのであろうか。
  〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉などは少なくともそれぞれの資本家たちには経験的な事実としてとらえられるものであろう。一般的利潤率はそうしたものが諸資本の競争によってそれらを平均するものとして形成されるものである。だから一般的利潤率というのは、直接には経験的に捉えることのできないものである。それは特殊な産業部門の独自な利潤率や個別資本の超過利潤という個々別々の特殊な利潤率を平均したものとして一般的なのである。だからそれは本質的なものとして内在的なものであり、経験的な事実としてとらえることはできない。それに対して利子率というのは直接的なものである。利子率が究極的には一般的利潤率に規定されているというのはこれまでにも述べられてきた。一般的利潤率というのは資本主義的生産が発展すれば傾向的に低落するのであるが、同じように利子率も資本主義的生産が高度に発展している国々では低くなる傾向があった。だから利子率はそのかぎりでは一般的利潤率を目に見えるかたちで、経験的な事実として、表現しているものなのだ、とマルクスは述べているわけである。そうした一般的利潤率の表現としての利子率というものは、〈実際に経験的な事実〉として存在しており、そうしたものとしては、〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉がそうであったのと同じだから、だからそれは〈ふたたび……現われる〉ものとマルクスは述べているわけである。もっとも、マルクスは最後に〈といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではない〉とも断ってはいる。】


【38】

 /298下/〔原注〕d)「とはいえ,このような利潤分割の規則rule〕は,それぞれの貸し手や借り手に個々に適用されるべきではなく,貸し手と借り手とに一般的に適用されるべきである。……著しく大きい利得や小さい利得は,巧妙さへの報酬かまたは知識の不足の結果であって,貸し手にはおよそかかわりのないことである。というのは,彼らは一方によって損をするのではないのだから,他方によって得をする必要もないからである。同じ事業に携わる個々の人びとについて述べたことは,事業のいろいろな種類にもあてはまる。もしある事業部門に携わる商人や事業家が,自分たちの借りたものを使って,同じ国の他の商人や事業家があげる普通の利潤よりもたくさん儲けるならば,その特別な儲けは,それを得るのには普通の巧妙さと知識だけで足りたとしても,彼らのものであって,彼らに貨幣を提供した貸し手のものではない。……というのは,貸し手は,普通の利子率の支払いも許さないような悪条件のもとでなにか事業部門を営むために自分たちの貨幣を貸したのではなかったであろうし,したがってまた,自分たちの貨幣からどんな利益が引き出されたとしても,普通の利子率よりも多くを受け取るべきではないからである。」(マッシー,同前,50-51ページ。)〔原注d)終わり〕|

  ①〔注解〕この引用のうち,〔7行目の〕「事業のいろいろな種類にもあてはまる。」までは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.2125.22-28)から取られている。〉 (242頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで利子率が一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊な産業部門の諸利潤率や個別の超過利潤等々によって規定されいるのではないというところにつけられた原注であり、マッシーからの抜粋なので、平易な書き下しは省略した。この抜粋では、利子率は個別の事業者の個々の儲けによって規定されているのではないというマッシーの言明であり、マルクスはそれを肯定的に抜粋・紹介している。一部は61-63草稿からとられているらしいから、その本文を見ておくことにしよう。この部分はすでに【5】パラグラフの解読のなかで紹介したので、それを再録しておこう(但し今回再録するにあたり、MEGAの注解等は煩雑になるので省略)。

 〈利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものは、その借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オラン、ダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)〉 (草稿集⑨363-364頁)】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-12)

【39】

 〈|299上|借り手〔borrowers〕が差し出す担保〔securities〕の種類によって, 利子率そのものが絶えず違っているということは,たしかに正しい。しかし,これらの種類については,利子率は一様である。だから,このような相違は利子率の固定した一様な姿態をそこなうものではないのである。〉 (242-243頁)

 〈借り手が差し出す担保の種類によって、利子率そのものが絶えず違っているということは、確かに正しい。しかし、これらの種類ごとについては、やはり利子率は一様です。だから、こうした相違そのものは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないのです。〉

 【これは利子率というのは〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉と述べてたことに対して、考えられる異論に対して、前もって反論を加えるというもののようである。つまり担保の違いによって利子率も違うではないか、だから利子率は一様だというのはおかしい、という反論に対して、マルクスは確かに担保の違いによって利子率も違うというのは正しいが、しかしその担保の種類ごとに決まってくる利子率というのは、そのかぎりでは一様なのだと反論している。だからこのことは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないし、それに異論を唱える根拠にはならないと言いたいのである。
 ただここでマルクスは〈利子率の固定した一様な姿態〉と述べているが、その前にも紹介したように、利子率が〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉というのはいいものの、それが〈固定した〉ものというのは果たしてどうなのであろうか。利子率がたとえその平均率であっても、利子生み資本の需給によって変化するし、その需給こそが利子率を規定するものだから、それが固定したものというのは言い難いように思えるのである。だからこの〈利子率の固定した一様な姿態〉というのは、利子率というのは、その時その時に、ある決まった数値として一様に明瞭に決まってくる状態を表していると考えるべきではないだろうか。】

 

【40】

 中位の利子率は,どの国でも,かなり長い期間について,不変の大きさとして現われる。なぜならば,一般的利潤率は--特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらず,といっても一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのではあるが--ただかなり長い期間に変動するだけだからである。そして,一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率〔d.average rate〕または普通の利子率common rate of interest〕)の多少とも不変な性格に現われるのである。

  ①〔異文〕「相対的な」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「多少とも」--書き加えられている。〉 (243頁)

 〈中位の利子率は、どの国でも、かなり長い期間について、不変の大きさとして現れます。なぜなら、一般的利潤率はただかなり長い期間に変動するだけだからです。もちろん、特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらずにです。といってもそうした特殊的利潤率の変動は、一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのですが。そして一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率または普通の利子率)の多少とも不変な性格に現れるのです。〉

 【先のパラグラフでは利子率の「固定性」に疑問を呈したが、ここでは中位の利子率の固定性が言われている。中位の利子率、あるいは平均利子率については、【20】パラグラフで次のように言われていた。

(利子の平均率を見いだすためには,1)回転循環のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を計算しなければならない。2)資本がかなり長い期間にわたって前貸される投資での利子率を計算しなければならない。) 〉 (228頁)

  つまりマルクスがここで問題にしている中位の利子率(平均利子率)というのは、一つの産業循環を通して平均した利子率のことを意味しているのである。確かにこうしたものなら一定の固定性を持っていることは明らかであろう。一つの回転循環のあいだにおいて、一般的利潤率は傾向的に低下するが、それ自体は、恐慌時を除いては、急激に変化するようなものではない。そうしたことが平均利子率の多少とも不変な性格として現れるのだ、というわけである。】


【41】

 しかし,絶えず動揺する利子の市場率について言えば,それは,商品の市場価格と同様に,各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられている。なぜならば,貨幣市場〔money market〕ではすべての貸付可能な資本〔loanable capital〕がつねに総量として機能資本に対立しており,したがって,一方では貸付可能な資本〔loanable Capital〕の供給の割合,他方ではそれにたいする需要が,そのつどの利子の市場価格を決定するからである。ますますそういうことになってくるのは,信用制度の発達とそれに結びついたその集積とが貸付可能な資本〔1oanable Capital〕に一般的社会的な性格を与えるようになるからである。これに反して,一般的利潤率はいつでもただ傾向として,特殊的諸利潤率の均等化の運動として,存在するだけである。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動である--とは,ここでは,利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって,利潤が平均〔1evel〕よりも高い[439]部面に④資本を投じていくということである。あるいはまた,追加資本〔additional Capital〕がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということである。それは,それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動である。

  ①〔異文〕「市場率について」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「すべての」alles←das gesammte
  ③〔異文〕「,……〔全体〕として〔als das〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「追加」と書いたのち,消している。〉(243-244頁)

 〈しかし、絶えず動揺する利子の市場率についていえば、それは商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられています。なぜなら、貨幣市場では、すべての貸付可能な資本がつねに総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給の割合、他方ではそれにたいする需要が、その都度の利子の市場価格を決定するからです。ますますそういうことになってくるのは、信用制度の発達とそれに結びついた利子生み資本の集積とが貸付可能な資本に一般的社会的な性格を与えるようになるからです。これに反して、一般的利潤率はいつでもただ傾向として、特殊的諸利潤率の均等化の運動として、存在するだけです。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動ですが--とは、ここでは、利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって、利潤が平均より高い部面に資本を投じていくということです。あるいはまた、追加資本がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということです。それは、それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動です。〉

 【先のパラグラフでは中位の利子率(平均利子率)というものの固定性が一般的利潤率の変動の緩慢さの表現であるという指摘があったが、今度は、一転してむしろ両者の違いが指摘されている。
  つまり利子の市場率は絶えず動揺するが、しかしそれぞれの各瞬間にはある固定的な大きさとして常に与えられている。しかし一般的利潤率というのは、そうではなく、ただ一つの傾向として存在するだけだというのである。利子の市場率が、各瞬間には一定の固定的な率として決まってくるというのは、貸付可能な資本が一つの総量として、機能資本家に対立して、その需要と供給によって決定されるからである。信用制度の発展とそれに結びついた貸付可能な資本の集積とがそれに一般的社会的な性格を与えることになるとも指摘されている。
  一般的利潤率が特殊的利潤率の均等化の運動として、一つの傾向として存在しているだけだ、という指摘も重要である。またここでの一般的利潤率を形成する資本家たちの競争についても詳しい説明がある。それは特殊的利潤率がかなりながいあいだ平均よりも低い部面から資本家たちが資本を引き揚げて、高い部面へと投じていく運動のことであり、あるいは追加資本がこれらの部面に配分される割合が違ってくるということだ、つまりそれらのいろいろな部面への資本の供給が変動することだ、という説明がある。】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-13)

【42】

 すでに見たように,利子生み資本は,商品とは絶対的に違った範疇であるにもかかわらず,独特な種類の商品Waare sui generis〕となるのであって,それゆえに利子は,〔すなわち〕これはまたこれで〔商品の〕価格とはまったく違っている利子生み資本の価格は,商品の場合にその市場価格がそうであるように,需要と供給によってそのつど確定されるのである。それだから,それ〔利子〕の市場率は,絶えず変動する〔variiren〕にもかかわらず,商品のそのつどの市場価格とまったく同様に,つねに確定した一様なものとして現われる。貨幣資本家たち〔monied Capitalisten〕はこの商品を供給し,機能資本家たちはそれを買い,それにたいする需要を形成するのである。このようなことは,一般的利潤率への均等化の場合には生じない。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合,それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視する),その均等化は,生産の拡大または縮小によって,すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって,均等化が生じるのであり,この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介される。そのようにして引き起こされる,諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって,一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的諸利潤率の偏倚は修正される。この過程は,利子生み資本とはちがって,生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現われないし,またけっしてそういうように現われることはできない。この過程が現われるかぎりでは,それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化とのうちに現われるだけであって,平均利潤の確定として現われるのではない。一般的利潤率は,実際には,総資本が生産する剰余価値によって,生産的資本の価値にたいするこの剰余価値の割合によって,そして競争によって,といってもここでは,ただ,特殊的生産諸部面に投下された資本がそれそれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争によって,規定されている--つまり一般的利潤率は,実際には,需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った,それよりもずっと複雑な諸原因からその規定を汲み出す〔--〕のであり,したがって,一般的利潤率は,けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではない。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は,それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないもの〔matter of guessing〕である。しかし,それらの利潤率が現われるかぎりでは,現わ[449]れるものはそれらの利潤率の一様性ではなくて多様性なの||300上|である。ところが,一般的利潤率そのものは,ただ利潤の最低限界〔Minimum limit〕として現われるだけで,現実の利潤率の経験的な姿態としては現われないのである。

  ①〔異文〕「一般的利潤率への均等化の場合には」←「……の確定の場合には〔bei der Festsetzung der〕」
  ②〔異文〕「縮小」Verkürzung←Contrac[tion]
  ③〔異文〕「そのようにして引き起こされる,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「特殊的諸利潤率は絶え[ず]」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「修正される〔rectificirt」」 ←「縮小される〔reducirt〕」
  ⑥〔異文〕「や商業資本」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「市場価格の」--書き加えられている。
  ⑧〔異文〕「る。そしてこれは,ただ……ような,絶えざる過程である。」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「平均利潤の確定として現われるのではない」--書き加えられている。
  ⑩〔異文〕「……規定されているのではない」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「生産的」--書き加えられている
  ⑫〔異文〕「ここでは,」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「の経験的な姿態」--書き加えられている。〉 (244-246頁)

 〈すでに見ましたように、利子生み資本は、商品とは絶対に違った範疇です。にもかかわらず、それは独特な商品となるのです。だから利子は、これはこれで商品の価格とはまったく違っているのですが、利子生み資本の価格となり、商品の場合にその市場価格がそうであるように、需要と供給によってそのつど確定されるのです。だから、それらの利子の市場率は、絶えず変動するにもかかわらず、商品のそのつどの市場価格とおなじように、つねに確定した一様なものとして現れるのです。
  貨幣資本家たちはこの商品を供給し、機能資本家たちはそれを買い、それに対する需要を形成するのです。
  しかしこのようなことは一般的利潤率への均等化の場合には生じません。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合、それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視します)、その均等化は、生産の拡大または縮小によって、すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって、均等化が生じます。この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介されます。そのようにして引き起こされる、諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって、一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的利潤率の偏倚は修正されるのです(つまりそれらは生産価格で販売することによって平均利潤を得るようになるわけです)。この過程は、利子生み資本とは違って、生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現れないし、またけっしてそういうように現れることはできません。この過程が現れるかぎりでは、それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化ということのうちに現れるだけで、平均利潤の確定として現れるのではないのです。一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する剰余価値によって、そして競争によって、規定されています。もっともここで競争によって、というのは特殊的生産諸部面に投下された資本がそれぞれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争を意味しますが。--つまり一般的利潤率は、実際には、需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った、それよりずっと複雑な諸原因からその規定をくみ出すのです。だから一般的利潤率は、けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではないのです。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は、それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないものです。しかし、それらの利潤率が現れるかぎりでは、現れるものはそれらの利潤率の一様性ではなく多様性なのです。ところが、一般的利潤率そのものは、ただ利潤の最低限界として現れるだけで、現実の利潤率の経験的な姿態としては現れないのです。〉

 【このパラグラフは結構長いものにとなっている。しかし全体としては一般的利潤率の性格を明らかにするところに主眼があるように思える。
 それを明らかにするために、まずマルクスは利子生み資本の場合を取り上げる。それは商品とは絶対に違った範疇なのに、商品となるのであり、だから利子も商品の価格とはまったく違ったものであるのに、利子生み資本の価格になることを指摘し、商品の市場価格がそうであるように、利子生み資本の価格である利子も、そのつどの需要と供給によって確定された、一様なものとして現れる。貨幣資本家たちがこの商品(利子生み資本)を供給し、機能資本家たちがそれを買い、需要を形成する、と。ここまではいわば一般利潤率を論じるための、その比較のための考察である。
 だからそこからマルクスは話を一転させて、一般的利潤率への均等化の場合には、こうしたことは生じないと論を転じている。ここで「こうしたこと」とは何を指すのかというと、(1)一つは貨幣資本家が利子生み資本を供給し、機能資本家がその需要を形成するいうようなことである。(2)あるいはそうした過程を経て、利子率が一様なものとして確定されるというようなことである。こうしたことが一般利潤率の均等化では生じないとマルクスは指摘するわけである。
 (1)だからまず一般利潤率の均等化の場合はそれはどのようにして生じるかが説明される。その均等化は、ある部面の商品の価格が生産価格よりも高ければ、その部面の生産が拡大され、低ければ縮小されるということを通じて、商品の供給が調整されて、その部面の商品の市場価格が生産価格へ均等化されることによってである。このことによって、その部面の特殊的利潤率の平均利潤率あるいは一般的利潤率からの偏倚が修正されるわけである。だからこの過程は、利子生み資本のように貨幣資本家と機能資本家という二つの資本家が対峙して、一方が売り手、他方が買い手として現れるようなものではない。この過程は、ただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化というかたちで現れるだけである。
 (2)よってこのことから言えることは、一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する総剰余価値を、生産的資本の、それぞれの相対的大きさに比例して配分を受け取るというような競争によって、形成され規定されているのである。だから一般的利潤率というのは、その需要と供給によって規定される利子とは違って、それよりずっと複雑な諸原因から規定されているわけである。だからこそ、一般的利潤率は、利子率のような一様で明白なかたちで与えられるような事実ではないのである。それぞれの生産部面の特殊的利潤率も、そのかぎりでは推測の域を出ないものではあるが、しかしそれらの利潤率は一つの経験的な事実としては多様ものとして現れてくる。しかし一般的利潤率の場合は、そうした現実の経験的姿態としては現れないのである。それは諸資本にとって現れてくる場合は、利潤の最低限界としてに過ぎない、とまあざっとこういうことが述べられているわけである。
 ここで注目すべきは、マルクスは一般的利潤率は「現れる」ことそのものを否定していないことである。それは「現れる」ということは何らかの形で資本家たちによって経験的・感覚的につかまえられるわけである。それはどういう場合かをマルクスは述べている。それは利潤の最低限界としてだ、というのである。つまり資本家たちにとって一般的利潤率は自分たちの獲得しなければならない最低限界の利潤率として意識されているということである。もちろん、部分的にはそれよりも低い利潤率で生産する資本家も存在するだろうし、それよりも高い利潤率で生産する資本家もあるだろうが、しかしそれは資本家たちが彼らの生産を維持しつづけるために必要最低限の利潤率として意識されるというのである。そうでないと彼らはその生産を積極的に続ける動機がなくなるわけである。】

 



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