目次
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-1)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-2)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-3)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-6)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-7)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-8)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-9)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-10)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-11)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-12)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-13)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-14)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-15)
第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-16)

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第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-1)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読

 

 今回からエンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその上でその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  【これはマルクス自身による表題なので、特に平易な書き下しは不要であろう。その内容については特に言及することはないが、この章が終わってまた何か書くことがあれば書くことにしよう。】


【2】

 {この§の対象(ならびに,のちに,信用について言うべきすべてのこと)は,ここではけっして,細目にわたって取り扱うことはできない。明らかなのは,1)貸し手と借り手とのあいだの競争およびその結果としての貨幣市場の短期的変動〔Oscillationen〕は,われわれの考察範囲の外にあるということ,2)産業循環〔industrial cycle〕のあいだに利子率が通る円環〔Cirkel〕は,それを叙述するためにはこの〔産業〕循環〔cycle〕の叙述を前提するのであるが,これもまた同じくここではすることができないということ,3)世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化等々も,同様であるということである。われわれがここでしなければならないのは,ただ,一方で利子生み資本の姿態を展開することと,〔他方で〕利潤にたいする利子の自立化を展開することだけである。}

  ①〔異文〕「貸し手」Verleiher←Leiher
  ②〔異文〕「これ〔was〕」← 「この叙述〔die〕」〉 (219-220頁)

 〈この部分で、そして後に信用について言うべきことについても同じですが、私たちは決して細目にわたって取り扱うことはできません。明らかに、次のような問題についても私たちの考察の範囲の外にあります。1)貸し手と借り手とのあいだの競争、およびその結果としての貨幣市場の短期的変動、2)産業循環のあいだに利子率が通る円環、これを述べるためには産業循環の叙述を前提しなければならないから、3)世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化。だから私たちがここでしなければならないのは、ただ一方で利子生み資本の姿態を展開することと、他方で利潤にたいする利子の自立化を展開することだけです。〉

 【このパラグラフ全体が{  }で括られており、マルクスが「§」を考察するための前提、あるいは問題の限定化が述べられている。では「§」は一体何を指しているのであろうか。これは「セクションの記号」との説明があるが、やはり、この「2)」と番号が打たれた部分を指していると考えるべきであろう。そしてマルクスは、ここでの課題を次のように述べている。

 〈われわれがここでしなければならないのは,ただ,一方で利子生み資本の姿態を展開することと,〔他方で〕利潤にたいする利子の自立化を展開することだけである。〉 (220頁)

  マルクスがこうした考察の前提として問題を限定しているのだが、まずそれを次のように述べている。

 〈この§の対象(ならびに,のちに,信用について言うべきすべてのこと)は,ここではけっして,細目にわたって取り扱うことはできない。〉 (219頁)

  つまり利潤の分割や利子率、あるいは利子の自然率といった問題は細目にわたって取り扱うことはできないというのである。同時にマルクスは信用についていうべきことも、やはり細目にわたって取り扱えないとしている。これは実際、第25章該当部分の草稿の冒頭でマルクスが問題を限定して論じているのに対応しているといえる(それについては当該部分の段落ごとの解読で取り上げる)。そしてマルクスは、次の三項目についても、やはりわれわれの考察の範囲の外にあると述べている。すなわち……

  (1)〈貸し手と借り手とのあいだの競争およびその結果としての貨幣市場の短期的変動〔Oscillationen 〕は,われわれの考察範囲の外にある〉 (219頁)
  (2)〈産業循環〔industrial cycle〕のあいだに利子率が通る円環〔Cirkel〕は,それを叙述するためにはこの〔産業〕循環〔cycle〕の叙述を前提するのであるが,これもまた同じくここではすることができない〉 (同)
  (3)〈世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化等々も,同様である〉 (同)

  このようにマルクスは問題を限定して論じているのであるが、総じて宇野はマルクスがこのように問題を限定して論じているものに対して、そうした限定を無視して、やれ産業循環を論じていないからどうのこうのと難癖をつけるのが彼の「批評」なるものの常套手段なのである。】


【3】

 利子は,利潤のうちの,(われわれのこれまでの前提によれば,)機能資本家から貨幣資本家〔manied capitalist〕に支払われるべき一部分でしかないのだから,利子の最高限界Maximumlimit〕として現われるのは利潤そのものであって,その場合には機能資本家のものになる部分はゼロに等しい。(利子が実際に〔faktisch〕利潤よりも大きく,したがってまた利潤から支払われることもできないような)個々の場合を別にすれば,もしかすると,利潤のうち監督賃金〔wages of superintendence〕に分解できるものとしてもっとあとで展開されるべき部分を利潤全体から引き去ったものを,あるいは利子の最高限界〔Maxlmumlimit〕とみなすことができるかもしれない。ところで,利子の最低限の率Minimumrate〕は全然規定することのできないものであって,利子はどんな低さにでも下がることができる。とはいえ,つねにやがてまた反作用する事情が現われて,利子をふたたびこの最低の水準よりも高く引き上げる。

  ①〔異文〕「機能資本家」← 「生産的資本家」
  ②〔異文〕「監督賃金に分解できる」der in wages of superintendence auflösbar←der sich in wages of superintendence aufgelöst〉 (220-221頁)

 〈利子は、私たちのこれまでの前提によれば、機能資本家から貨幣資本家に支払われるべき利潤の一部分でしかないのですから、利子の最高限界は利潤そのものです。そしてその場合には機能資本家のものになる部分はゼロに等しくなります。利子が実際には利潤よりも大きく、したがって利潤から支払われることもできないような個々の場合を別にすると、もしかすると、利潤のうち監督賃金に分解できるものとしてもっとあとで展開されるべき部分を利潤全体から引き去ったものを、あるいは利子の最高限界とみなすことかできるかもしれません。
 ところが、利子の最低の率は全然規定することはできません。利子はどんな低さにも下がることはできるからです。とはいっても、つねにやがてはまた反作用が生じる事情が現れて、利子をふたたびこの最低の水準よりも高く引き上げることになります。〉

 【ここでは利子の最高限界と最低限界を明らかにしている。最高は利潤全部、最低はゼロであるが、最近ではマイナス金利なるものもあるからゼロとはいい得ないのかもしれない。
 マルクスはここで興味深い指摘をしている。利子が最高限界にまで達したなら、機能資本家の利得はゼロになってしまう。それならそもそも彼らが利子生み資本を借りてそれを機能させる意味がない。だからマルクスは、利子の最高限界を、機能資本家の利潤がゼロになるところではなく、本来は利潤の一部が分解したものに過ぎないのに、現象的には賃金として現れる、監督賃金を差し引いたものが利子の最高限界と見なすことができるかもしれないと述べている。
 つまりここでは明らかに、マルクスは機能資本家(経営者あるいはマネージャー等々)に支払われる監督賃金は賃金の形態をとってはいるが、その原資は利潤であるという認識を示しているわけである。これが後の監督賃金の説明と果たして整合するのかどうか、それが問題である。しかしそれは少し先走りすぎるので、ここでは注意を促すだけにしておこう。】

 

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-2)

【4】

 〈①「資本の使用にたいして支払われる金額とこの資本との関係は,貨幣で計った利子の率を[432]表わしている。」(『エコノミスト』,1853年1月22日。)

  ①〔注解〕この引用は次のものから取られている。--「利子率と貴金属の過剰ないし欠乏との関係」。所収:『エコノミスト』,ロンドン,第491号。1853年1月22日。90ページ。「貸付資本を表わし移転するのに必要な貨幣額が大きくなれば,それに比例して,貸付資本の使用にたいして支払われる利子を表わす貨幣額が大きくなるであろう。そこで,貨幣で測った利子の率を表わす,この両者の関係は……」〉 (221頁)

 【これは引用だけなので、平易な解説は省略した。次のパラグラフも引用だけだが、しかし二つとも原注ではなく本文である。マルクスは本文として二つの引用をしているわけである。ここではマルクスは利子率の規定として『エコノミスト』の抜粋をもってしているわけだが、それは利子率については当時においても少なくとも直接的な表象においてその内容が捉えられているものとして紹介しているわけである。すでに利子率については、前の章(「1)」)のわれわれのパラグラフでは【68】で次のように明らかにされていた。

 〈資本としての資本が自分を表明するのは,その価値増殖によってである。その価値増殖の程度は,それが資本として(量的に)実現される程度を表現している。この剰余価値または利潤--その率または高さ--は,ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができる。したがってまた,利子生み資本の価値増殖の大小も,利子の高さ(総利潤のうちからその資本のものになる部分)を,前貸資本の価値と比較することによってのみ,測ることができる。〉 (205頁)

 つまり、こうした利子率の概念そのものは通常の経済人にとってもつかまれていたということである。】


【5】

 〈①利子率は,1)利潤率によって,2)総利潤が貸し手と借り手とのあいだで分割される割合によって,定まる。」(同前。)「自分が借りたものの使用にたいして利子として支払うものは,借りたもので生産することのできる利潤の一部分なのだから,この利子はいつでもそれらの利潤によって左右されるよりほかはないのである。」a)/

  ①〔注解〕この引用は『エコノミスト』では次のようになっている。--「…… 通常の産業における利子率…… 。これは,二つの事情によって定まる。すなわち,第1に,利潤率によって,第2に,総利潤が貸し手と借り手とのあいだで分割される割合によって。」--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3,5,S.1863.2-4)から取られている。
  ②〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.2125.16-18)から取られている。〉 (221頁)

 【これも引用だけになっているが、しかし利子率が明確に捉えられている。しかもそれが総利潤の分割されたものだということも認識されており、よってまた利子は利潤によって左右されるとも明確に語られている。マルクスはこうした当時の雑誌の一文を引用することによって、こうした認識は一般の経済人によっても捉えられていたことを示しているわけである。これらは61-63草稿からとられているということだから、その原文を見ておくことにしよう(ただしMEGAの注解等については煩雑になるので省略した)。

 利子率について『エコノミスト』は次のように述べている。
 「利子率は、1、利潤率によって、2、総利潤が貸し手と借り手とのあいだに分けられる割合によって、定まる。」(『エコノミスト』、同前。)『エコノミスト』は、すべてのイギりスの経済学者たちと同じように、当然、利潤を総剰余価値-地代と等置する。利子はただそれの一部分でしかない。「貴金属の多寡、現行の一般的物価水準の高低は、他のあらゆる種類の交換を行なう場合と同様に、ただ、借り手と貸し手とのあいだの交換を行なうのに必要な貨幣量の多少を決定するだけである。……相違は、ただ、貸付けられた資本を代表し引き渡すのに、より大きな額の貨幣が必要とされるということだけである。……資本の使用にたいして支払われる額と資本との関係は貨幣で計られた利子率を表わす。」(89/90ページ)〉 (草稿集⑧544頁)

 これをみると、先の【4】パラグラフの引用も、MEGAの注記はなかったが、ここからとられていることがわかる。続く引用の原文は、すでに「1)」の【62】パラグラフに関連して紹介したので、それをそのまま再度紹介しておこう。

  利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものはその借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オランダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなわちその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)

  ①〔注解〕以下、四つのパラグラフでの強調はマルクスによる。
  ⑤〔訳注〕「その借り入れるものが生み出すことのできる利潤の一部分」--|強調は二重の下線による。
  ⑥〔訂正〕「(50ページ。)」--手稿では「(50、51ページ。)」となっている。
  ⑦〔注解〕以下の三つの文は、マッシーの原文では次のようになっている。「なぜイングランドでは利子は100年前には8%で、現在は4%でしかないのか、また、なぜオランダでは利子は、この期間中にイングランドで利子が低下したのとほぼ同じ比率で低下したのか、と問われれば、その答えはこうである。すなわち、商人たちと事業家たちは、一般に……、その当時は、彼らが現在得ている利潤の倍儲けていたからである、と。
 あるいは、なぜ利子は、オランダでは3%フランスドイツおよびポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは7、8および9%、トルコでは10-12%であって、すべての交易国において同一でないのか、と関われれば、その答えはこうである。」〉 (草稿集⑨363-365頁)】


【6】

 〈|295下|〔原注〕a)マッシー,同前。(49ページ。)〔原注a)終わり〕|〉 (221頁)

 【これは上記の引用がマッシーの『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論。この命題に関するサー・W・ペティおよびロック氏の意見の検討』ロンドン、1750年からの抜粋であることを示している。但しこの著書は匿名で書かれている。】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-3)

【7】

 /295上/はじめにまず,総利潤と,そのうちの利子として貨幣資本家〔monied Capitalist〕に支払われるべき部分とのあいだに,ある固定した割合〔Proportion〕があるものと仮定してみよう。この仮定のもとでは,明らかに,利子は総利潤につれて上がり下がりするであろう。そして,総利潤は平均利潤率(とこの平均利潤率の変動と)によって規定されている。たとえば,平均利潤率が20%で利子が利潤の1/4ならば,〔利子率は〕5%であろう。平均利潤率が16%ならば利子は4%であろう,等々。(第1の場合に利子が8%に上がることもありうるであろうが,この場合にもやはり産業資本家は,〔利潤〕率が16%で利子が4%の場合と同じ利潤,すなわち12p./c.をあげるであろう。もし利子が6%か7%に上がれば,彼はやはり,平均利潤率が16%で利子が4%であるような場合よりも,利潤のより大きい部分を確保するであろう。){もし利子が平均利潤の不変の部分に等しいならば,その場合には,一般的利潤率が高ければ高いほど,総利潤と利子との||296上|絶対的差額はそれだけ大きく,したがって,総利潤のうちから機能資本家のものになる部分もそれだけ大きいということになり,また逆の場合は逆になるであろう。10の1/5は2であり,総利潤と利子を引いたのちの利潤との差額は8である。20の1/5は4であり,差額は20-4=16である。25の1/5は5で,差額は25-5=20である。30の1/5は6で,差額は30-6=24である。35の1/5は7で,差額は35-7=28である。4%,5%,6%,7%といういろいろに違った利子率が,ここではつねに総利潤のただ1/5だけを,すなわち20%だけを表わすであろう。利潤率がいろいろに違えば,いろいろに違った利子率総利潤の同じ可除部分または総利潤からの同じ百分比的分けまえを表わすことができるのである。利子の割合がこのように不変な場合には,産業利潤(総利潤と利子との差額)は,一般的利潤率が高ければ高いほどますます大きくなり,逆ならば逆であろう。}

  ①〔異文〕ここに,「16%で利子が総利潤の%ならば,利子は3%であろう。平均利潤が20%であれば,」と書いたのち,消している。
  ②〔異文〕ここに「)」と書いたのち,消している。
  ③〔異文〕「もし分母が同じままであれば」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「20%」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「利子の」--書き加えられている。〉 (222-223頁)

 〈まず最初は、総利潤とそのうち利子として貨幣資本家に支払われるべき部分とのあいだに、ある固定した割合があるものと仮定しましょう。この仮定のもとでは、明らかに、利子は総利潤につれて上がり下がりします。総利潤は平均利潤率とその変動に規定されています。例えば平均利潤率が20%で利子がその1/4ならば利子率は5%です。平均利潤率が16%ならば利子は4%でしょう、等々。(第1の場合に利子が8%に上がることもありうるでしょうが、その場合は、産業資本家は、平均利潤率が16%と利子が4%とした場合と同じ12%の産業利潤率をあげます。しかしその場合は、われわれの仮定はなくなり、利子は利潤の2/3になります。同じように、もし利子が6%か7%に上がれば、産業資本家はそれぞれ14%、13%の産業利潤率をあげ、これは平均利潤率が16%と利子が4%とした場合の産業利潤率12%よりも大きく、平均利潤のより大きい部分を確保することなります。){もし利子が平均利潤に対して不変の割合であるならば、一般利潤率が高ければ高いほど、総利潤と利子との絶対的な差額はそれだけ大きく、したがって、総利潤のうちから機能資本家のものになる部分もそれだけ大きくなるということになります。逆の場合は逆になります。例えば今その不変の割合を1/5としますと、10の1/5は2ですから、総利潤と利子を引いたのちの利潤との差額は8になります。同じように20の1/5は4であり、差額は20-4=16です。25の1/5は5で、差額は25-5=20です。30の1/5は6で、差額は30-6=24です。35の1/5は7で、差額は35-7=28です。2%、4%、5%、6%、7%といういろいろに違った利子率が、ここではつねに総利潤の1/5だけを、つまり20%だけを表します。利潤率がいろいろに違えば、いろいろ違った利子率が総利潤の同じ加除部分または総利潤からの同じ百分比的分け前を表すことができるのです。利子の割合がこのように不変な場合には、産業利潤(総利潤と利子との差額)は、一般利潤率が高ければ高いほどますます大きくなり、逆ならば逆になります。}〉

 【このパラグラフは数字がごちゃごちゃ出てきてややこしいので、少し補足しながら平易な解読を試みた。
 マルクスは突然ここから総利潤と利子とその差額(産業利潤)の量的分析を開始している。この背景には、後に展開されるであろう、総利潤の利子と産業利潤とへの量的分割が質的分割に転化するという認識がマルクスにあるからである。つまりこれまでの考察では質的な考察のあとに量的考察が来たが、今回はそれが逆転して展開されるわけである。
 それではその内容について少し吟味してみよう。
 まず最初にマルクスは総利潤と利子との固定した割合(1/4)を仮定する。その場合は、利子率は利潤率の上下につれて上下する。利潤率が20%なら利子率は5%。16%なら4%、等々。もちろん、利子が総利潤の固定した割合をなし、後者の増減につれて増減するなどいうことはない。むしろ利子は産業資本にとっては所与であり、彼がどれだけの総利潤をあげようが、利子はそこから控除されるべき対象として存在しているというのが本当の関係である。しかしマルクスはこうしたことを承知のうえで、仮にこのように仮定するなら、利子は総利潤の増減に応じて増減することを確認しているわけである。
  しかしマルクスは丸カッコのなかでは、この仮定をはずして、利潤率が20%のまま、利子率が8%に上がった場合、あるいは6%や7%の場合を考え、しかしそのばあいでも最初の仮定のときの平均利潤率が16%に下がった時の利子率4%の場合よりも、産業資本家が手にする産業利潤は同じか大きくなることを示す。すなわち、8%の場合は12%、6%の場合は14%、7%の場合は13%である。これは何を見ているのかというと、平均利潤率が高い場合、少々利子率が高くても、平均利潤率が低い場合に比べれば、産業利潤率は高くなるということである。もちろん、ここでマルクスが仮定しているような総利潤と利子とが固定した割合になるという必然性はないし、両者に内的関連があるわけでもない。マルクスはただ現象的に両者の数値的関連を見ているということができるだろう。
  つぎにマルクスが{ }で括った部分では、最初の仮定にもどって利子率を平均利潤率の1/5に固定した場合を考えている。しかしその場合にマルクスが見ているのは、産業資本家が手にする利潤の絶対額である。平均利潤率が変動して、10%、20%、25%、30%、35%になった場合、利子率はその1/5だから2%、4%、5%、6%、7%になるが、しかし産業利潤の率は8、16、20、24、28になるということである。そしてマルクスはその結論として利子の総利潤に対する割合が不変な場合には、産業利潤は、一般的利潤率が高ければ高いほど大きくなり、逆ならば逆になるとする。
  こうした一連の考察は、利潤率と利子率との相対的な関連を見ていることになる。利潤率が高い場合、利子率も高いとは必ずしもいえず、利潤率が低ければ利子率も低いともまたいえないのだが、しかし利子と産業利潤が総利潤の分割したものであるかぎり、一方が大きくなれば、他方はそれだけ少なくなるという関連があることは明らかである。いずれにせよ、こうしたマルクスの考察がどういう意味があるのかはもう少し読み進めてからもう一度考え直してみることにしよう。】


【8】

 他の事情はすべて変わらないとすれば(あるいは同じことになるが,利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば),機能資本家は,利潤率の高さに正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるであろうし,また支払うことを辞さないであろう。a)すでに見たように,利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反[433]比例するのだから,したがってまた一国の利子率の高低も産業的発展の高さにたいしてやはり反比例するということになる--利子の相違が現実に利潤率の相違を表わすかぎりではそうである。そうなるとかぎらないことは,もっとあとで見るであろう。この意味では,利子は利潤によって,より詳しくは一般的利潤率によって,規制されている,と言うことができる。そして,このような利子の規制の仕方は,利子の平均にさえもあてはまるのである。/

  ①〔異文〕「[……]の一般的な率〔general rate of〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「割合」ratio←relation
  ③〔異文〕「比例して」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「できるであろう〔wird…fahig…sein〕」← 「できる〔kann〕」
  ⑤〔異文〕「利子率が」という書きかけが消されている。〉 (223-224頁)

 〈他の事情はすべて変わらないものと仮定すれば(あるいは同じことですが、利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば)、機能資本家は、利潤率の高さに正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるでしょうし、また支払うことを辞さないでしょう。すでに見たように、利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのですから、よってまた一国の利子率の高低も産業的発展の高さに対してやはり反比例するということになります。--利子の相違が現実に利潤率の相違を表すかぎりではそうでしょう。そうなるとかぎらないことは、もっとあとで見るでしょう。この意味では、利子は利潤によって、より詳しくは一般利潤率によって、規制されていると言うことができます。そして、このような利子の規制の仕方は、利子の平均にさえも当てはまるのです。〉

 【ここでの展開は次のようになっている。
 (1)利子と総利潤の割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば、機能資本家は利潤率の高さに正比例してより高いかまたは低い利子を支払うことができる。またそれを辞さないことになる。
 (2)利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのだから、一国の利子率の高さも産業的発展の高さに対して反比例する。利子の相違が利潤の相違を表すかぎりではそうなる。
 (3)こうしたことから一般的にいえることは、利子は利潤によって、より詳しくは一般利潤率によって、規制されているということである。このような利子の規制の仕方は平均利子についてもあてはまる。
 つまりここでは(1)と(2)のことから(3)を導き出すという展開になっている。(1)と(2)はある意味ではまったく違った問題である。しかし利子は利潤によって規制されるという一般的な結論としては、上記の二つのことからそれが導き出されるとマルクスは考えているわけである。】


【9】

 |296下|〔原注〕a)「利子の自然的な率は個々人の事業の利潤によって左右される。」(マッシー,同前,51ページ。〉〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3,6,S.2125.28-29)から取られている。〉 (224頁)

  【これは原注でマッシーからの抜粋だけなので平易な書き直しは不要であろう。このマッシーの一文は、すでに【5】パラグラフの解読のなかで紹介した61-63草稿からの抜粋のなかに含まれている。】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)

【10】

 〈/296上/とにかく,利潤の平均率は,利子を窮極的に調整する限界ultimate regulating limit〕とみなされるべきである。〉 (224頁)

 〈以上のように、とにかく利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界と見なされるべきです。〉

 【これはこれまでのすなわち【7】~【9】パラグラフのいわば結論である。現実には利子は機能資本家にとっては、一つの所与であり、前提として現れるが、しかし本質的には利子は総利潤の分割されたものなのだから、それは利潤によって規制される、あるいは限界づけられているわけである。】


【11】

 〈利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情は,すぐあとでもっと詳しく考察するであろう。|〉 (224頁)

 〈利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察します。〉

 【利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情とは何を指すのであろうか。実際の産業循環の過程をみると、必ずしもそういう関連はみられない。中位の活気、繁栄、過熱、恐慌、停滞、中位の活気という循環の過程でみるなら、中位の活気の場合は、利潤率は高いが信用はまだまだ安定しており、その分、利子生み資本への需要はそれほど高くないから、利子もまだ低いままである。繁栄の状態では、利潤率は傾向的に低下しつつあるが、資本は利潤量の絶対的拡大のために蓄積を旺盛に行い、それだけ利子生み資本への需要も活発になる。そして突然の崩壊、恐慌においては利潤率は突然低下するが、しかし支払手段への需要から利子率はむしろ高騰する。停滞、利潤率は低く低調であり、利子生み資本への需要も停滞して利子率は低い状態であろう。このように利潤率と利子率とは必ずしも一方が高ければ高いなどという関係にないことは明らかなのである。しかしもちろん、ここでのマルクスの考察はこうした具体的な運動の背後にある関係であり、もっと本質的な関係なのである。そしてそうした関係としては利潤の平均率は、利子を究極的に限界づけるとみなされるべきなのである。】


【12】

 {一つの全体--利潤のような--が二人のあいだに分割されなければならない場合には,もちろんまず問題になるのは,この分割されるべきものの大きさであり,そしてこの①利潤の大きさは,利潤の平均率によって規定されているのである。}

  ①〔異文〕「利潤の大きさ」← 「利潤」〉 (224頁)

 〈一つの全体が二人のあいだに分割されなければならない場合、問題になるのは、この分割されるべきものの大きさです。そして、われわれが今問題にしている分割されるべき全体というのは利潤ですが、利潤の大きさは、利潤の平均率によって規定されているのです。〉

 【このパラグラフは全体が{ }に括られている。つまり上記の記述に関連して、論じられているが、しかし本論とはやや外れるものと考えるべきであろう。ここでは一つの全体を二人に分割しなければならないときに問題なるのは、というようにかなり一般的な問題の立て方をしている。全体を二人で分けようとするなら、その全体の大きさがまず問題になるというある意味では当たり前のことが確認されて、利潤の場合その全体は利潤の平均率によって規定されているということが確認されているわけである。これがどんな意味があるのかはもう少し展開をみてから考えるべきであろう。】

 

【13】

 一般的利潤率,つまりたとえば100という与えられた大きさの資本にとっての利潤の大きさを,不変なものとして,与えられたものとして前提すれば,利子の変動は,明らかに,利潤のうちの①機能資本家の手に残る部分に反比例する。彼が借入資本で仕事をするかぎりは,そうである。言い換えれば,これら二つの種類の資本家が剰余価値または剰余生産物(不払労働が物質化している生産物)を自分たちのあいだで分割する比率に反比例する。そして,分割されるべき利潤の大きさを規定する事情は,この二つの種類の資本家のあいだへの利潤の分割を規定する事情とは非常に違うのであって,しばしばまったく反対の方向に作用するのである。

  ① 〔異文〕「産[業]〔indus[triellen]〕」という書きかけが消されている。〉 (224-225頁)

 〈一般的利潤率を不変なものとして、与えられたものとして前提しましょう。例えば100という与えられた資本にとっての利潤の大きさを、不変なもの、与えられたものと前提すれば、利子の変動は、明らかに、利潤のうちの機能資本家の手に残る部分に反比例します。彼が借入資本で仕事をするかぎりではそうでしょう。言い換えれば、これらの二つの種類の資本家が剰余価値または剰余生産物(不払労働が物質化している生産物)を自分たちのあいだで分割する比率に反比例します。そして分割されるべき利潤の大きさを規定する事情は、この二つの種類の資本家のあいだへの利潤の分割を規定する事情とは非常に違うのです。むしろそれはしばしばまったく反対の方向に作用するのです。〉

 【ここでは分割されるべき総利潤の大きさを規定する事情と、それを二つの種類の資本家--機能資本家と貨幣資本家へに分割する事情とは非常に違うことが確認されている。あるいはそれはまったく反対の方向に作用するとも述べられている。つまり総利潤が高くなる事情、つまり繁栄期において、では利子率は高いかというと必ずしもそうではない。むしろそうした場合は資本の循環は順調であり、貨幣資本の還流も安定しているから、機能資本家は追加的な貨幣資本の必要をそれほど感じないために、利子生み資本への需要もそれほど増大しないので利子率はむしろ低いのである。この場合、分割されるべき全体である総利潤は高いが、しかしそれは利子として分割されるものを高くするとは必ずしもいえず、反対に作用するといえるだろう。】

 

【14】

 〈①Nb.この2)が進むなかで明らかになってくるのは,やはり,利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい,ということだ。§1からこの点に〔dazu〕移行するために必要なのは,--以前に行なった展開のあとでは平均利潤率と平均利潤とが与えられているのだから〔--〕さしあたり利子を,この〔平均〕利潤のうちの任意の, それ以上詳しくは規定されていない部分と等しいと置くこと,等しいと前提することだけである。〔「Nb」として書かれた部分終わり〕

  ①〔異文〕このパラグラフは,左の欄外につけられた弓括弧〔{〕によって特別に強調されている。
  ②〔異文〕「そのさい」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「等しいと」--書き加えられている。〉 (225-226頁)

 〈ここで、この叙述の展開で気づいたことをメモ書きしておくと、この2)が進むなかで明らかになってくるのは、やはり、利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって、この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいいということです。1)からこの点に移行するために必要なのは、以前行った展開のあとでは平均利潤率と平均利潤とは与えられているのですから、さしあたり利子を、この平均利潤のうちの任意の、それ以上は詳しく規定されていない部分と等しいと置くこと、等しいと前提することだけです。〉

 【このパラグラフは「Nb.」という記号から始まっているが、この「Nb.」については、大谷氏は訳者注で次のように書いている。

 〈この「Nb.」で始まる1パラグラフは,エンゲルス版では,「原稿にはここに次のような覚え書がある。--」という前置きとともに,脚注に収められている。
 なお草稿では,「Nb.」を除いてこのパラグラフは二つの文から成っているが,第1の文の左側に,インクでやや弓なりの縦線が引かれており,さらにそれに追加するように,第2の文の左側にも同様の縦線がつけられている。「Nb.」という文字は,前者の縦線の左側の上部に書かれている。こうして,このパラグラフの全体が前後から区別される「Nb.」の部分となっていることが示されている。この縦線の状態から見ると,「Nb.」として第1の文を書いたのち,すぐにそれに第2の文をつけ加えたのかもしれない。〉 (225頁)

 こうした原稿の状況からみても、このパラグラフが全体の続きとは区別されるものであり、マルクス自身の叙述上の覚書のようなものであろう。
 つまりマルクスは、これまでの展開から明らかなように、まず〈利潤の分割の諸法則を研究する〉という意図のもとに叙述を進めてきたわけである。しかしここにきて、その前に、〈この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉と思ったということであろう。
 もう一つの覚書としては、前の「1)」(21章該当部分)から、この点--これははっきりとはしないが、恐らく〈量的な分割が質的な分割になる次第を展開〉する点ということであろうか--に移行するために必要なのは、利子を平均利潤のうちの任意の部分として前提することだけだと述べている。つまり利子をそうした平均利潤の任意の部分として前提するだけで、そうした量的分割が質的分割になる次第を展開したうえで、利潤の分割の諸法則を次ぎに研究するという順序の方がよいだろうというのが、ここでのマルクスの覚書の内容ではないかと思える。】

 


第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)

【15】

 現代産業がそのなかで運動する回転循環--沈静状態,活気増大,繁栄,過剰生産,恐慌,停滞,沈静,等々〔state of quiescence,growing animation,prosperity,overproduction,crisis,stagnation,quiescence etc〕--(この循環の詳しい分析はわれわれの考察の圏外にある)を考察してみれば,そこで見いだされることは,利子の低い状態はたいていは繁栄または特別利潤の時期に対応し,①利子の上昇は②繁栄とその転換との分かれ目に対応するが,極度の高[434]利にもなる利子の最高限は恐慌に対応するということであろう。b)③「1843年の夏からは明瞭な繁栄が始まった。1842年の春には4[1/4]%だった利子率が,1843年の||297上|春と夏には2%に下がり」a),9月には1[1/2]%にさえ下がった。b)やがて④1847年の恐慌中には8%,そしてそれ以上に上がった。/

  ①〔異文〕「他方で〔während〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「〔……の〕瀬戸際で〔auf der Kippe〕」という書きかけが消されている。
  ③〔注解〕この引用は,トゥクでは次のようになっている。--「同様に,1842年の春には4[1/2]%だった利子率が1843年の春と夏にはほぼ2%にまで急速に下がり……」
  ④〔注解〕「1847年の恐慌」--40年代半ばに不作が生じたのち,イギリスの食糧輸入は増大し,イングランド銀行からの金流出が始まった。1847年4月には貨幣市場でのパニックが生じた。同時に,穀物市場の充溢が貨幣と信用とへの大きな需要を引き起こした。1847年〔MEGAは「1846年」と誤記〕10月には恐慌は頂点に達した。1844年のピール銀行法の停止によって,イングランド銀行は行動のための新たな余地を得たので,恐慌の本来の原因である過剰生産は残されたままだったが,貨幣恐慌は急速に克服されることができた。〉 (226-227頁)

 〈現代の産業がそのなかで運動する回転循環--沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々(この循環の詳しい分析は、すでに述べましたが、私たちの考察の圏外にあります)--を考えてみますと、そこで見いだされることは、利子の低い状態はたいてい繁栄または特別利潤の時期に対応し、利子の上昇は繁栄とその転換との分かれ目に対応しますが、極度の高利になる利子の最高限は恐慌に対応するということです。「1843年の夏からは明瞭な繁栄が始まった。1842年の春には4[1/4]%だった利子率が,1843年の春と夏には2%に下がり」、9月には1[1/2]にさえ下がりましたし、やがて1847年の恐慌中には8%、そしてそれ以上に上がりました。〉

 【ここでは突然、産業循環の詳しい考察は圏外にあるとしながらも、産業循環と利子率の対応が考察されている。利子の低い状態は繁栄または特別利潤の時期としている。繁栄はよいとしても「特別利潤の時期」とは何であろうか。これはあたらしい生産力を導入した資本が、その新技術が一般化するまでの間に手にする特別な利潤のことであろう。つまり新しい生産方法がどんどん導入されて社会的な生産が発展していくような状況を意味している。そうした時代には資本の循環も順調で、貸付資本への需要も低いということである。利子が上昇してくるのは、繁栄とその転換との分かれ目に対応するとされている。こうした生産力の発展と拡大は他方で利潤率を傾向的に低下させ、やがて過剰生産へと導く、しかし資本は利潤率の低下を利潤量の絶対的拡大によって補うために、一層の蓄積と拡大を推し進める、それは一方では貨幣資本への需要を増大させ、利子率の上昇を招く、他方で労働力を生産過程に吸収して、その枯渇を招くまでに死に物狂いの拡大を行うように競争の笞が打たれる、そしてその行き着く先が奈落の底であり、恐慌なのである。恐慌時には信用も動揺あるいは崩壊し支払手段への需要が極度に高まり、利子も最高限まで高騰する、等々である。マルクスは1847年の恐慌への過程がそれを示しているとして、トゥクから引用している。こうした恐慌時の支払手段への激しい需要については、1847年恐慌ではないが1825年恐慌時の状況について第28章の解読のなかで詳しい紹介をしたことがある。】


【16】

 /296下/〔原注〕b)「不況〔Pressure〕直後の第1の時期には,投機がなくて貨幣は豊富である。第2の時期には貨幣は豊富で投機も盛んである。第3の時期には投機は衰え始めて貨幣が求められる。第4の時期には貨幣が払底して不況が始まる。」(W.ギルバト〔『銀行実務論』,第5版,ロンドン,1849年〕,第1巻,149ページ。)〔原注b)終わり〕|

  ① 〔注解〕この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートIII(MEGAIV/7,S.137.6-10)から取られている。
  ② 〔訂正〕「ギルバト」--草稿では「ギルバト,同前」と書かれている。〉 (227頁)

 【これは先のパラグラフにおいて、産業循環と利子の関連を見たあとに付けられた原注である。ギルバトからの抜粋だけなので平易な書き直しは省略した。ギルバトは産業循環を四つの時期に区分している。それをマルクスの産業循環と対応させてみると、第1の時期--活気増大、第2の時期--繁栄、過剰生産、第3の時期--恐慌、第4の時期--沈静状態、であろうか。】


【17】

 |297下|〔原注〕a)トゥクはこの低落を「その前の数年間は有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積によって,蓄蔵貨幣の放出によって,また商業上の見通しにおける信頼の回復によって」説明している。(①『物価史,1839年から1847年まで』,ロンドン,1848年,54ページ〔藤塚知義訳『物価史』,第4巻,東洋経済新報社,1981年,64ページ〕。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕トマス・トゥクの『物価史』は,1838年から1857年にかけて刊行された六つの巻からなっている。第1巻と第2巻は,『1793年から1837年にいたる物価および通貨流通状態の歴史… …』,全2巻,ロンドン,1838年,である。第3巻のタイトルは『1838年および1839年における物価および通貨流通状態の歴史,あわせて,穀物法についての,およびわが国の銀行制度にかんして提起されている改革案の若干についての,評言を付す。1793年から1837年に至る物価の歴史の続編をなす』,ロンドン,1840年,である。第4巻は『1839年から1847年に至る(両年を含む)物価および通貨流通状態の歴史,通貨問題の一般的論評およびヴィクトリア治世第7・8年法律第32号の作用についての評言を付す。1793年から1839年にいたる物価の歴史の続編をなす』,ロンドン,1848年,となっている。最後に,1857年に第5巻および第6巻が,『1848年から1856年に至る9年間における物価および通貨流通状態の歴史… … 』,全2巻,というタイトルのもとで刊行されたが,この2巻の著者は,トマス・トゥクとウィリアム・ニューマーチである。〉 (227頁)

 〈トゥクは1847年の春と夏の利子の2%への低下を「その前の数年間は有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積によって,蓄蔵貨幣の放出によって,また商業上の見通しにおける信頼の回復によって」と説明しています。〉

 【これも原注であるが、トゥクが1847年の春と夏の利子の低下を何によって説明しているかをただ紹介しているだけである。それに対するマルクスの評価は何もない。ここでトゥクが〈有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積〉と言っているのは、恐らくいわゆるプレトラを指しているのであろう。だからこの春から夏の時期というのは産業循環でいえば繁栄と過剰生産の時期である。利潤率の傾向的低下が一定程度進むことによってもはや小資本や新芽の資本がその低下した利潤率では生産を維持できず、破綻するか、投資先を失う。だからそれらはただの貨幣資本として遊休し、その一部は投機に走り、あるいは大資本への融通という形で吸収されるのだが、しかし過剰な貨幣資本(いわゆるプレトラ)の存在は、利子率を押し下げることになる。だからこの時点では、まだ過剰生産そのものは潜在化しており、崩落は一部の小資本や新芽の資本に留まっていて、信用はむしろしっかりしているように見えるし、利潤率の低下を利潤量の増大によって補おうとする大資本による強蓄積が激しい競争によって行われる時期でもある。だから〈商業上の見通しにおける信頼の回復〉も依然としてしっかりしているように見える時期でもあるのである。】


【18】

 /297下/〔原注〕b)①ギルバト,同前,第1巻,166ページ。〔原注b)終わり〕/

  ①〔注解〕ジェイムズ・ウィリアム・ギルバト『銀行実務論』,第5版,全2巻,第1巻,ロンドン,1849年。〉  (227-228頁)

【この原注はマルクスが〈9月には1[1/2]%にさえ下がった〉と書いた部分に付けられたものである。つまりその数字の根拠としてギルバトの著書の叙述をあげているだけである。】

 



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