目次
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」草稿の段落ごとの解読(21-1)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」草稿の段落ごとの解読(21-2)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-3)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-5)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-6)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-7)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-8)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-9)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-10)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-11)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-12)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-13)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-14)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-15)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-16)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-17)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-18)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-19)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-20)
『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-21)

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『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」草稿の段落ごとの解読(21-1)

『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」草稿の段落ごとの解読

 

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  追悼! 大谷禎之介氏
 
 去る4月29日、大谷禎之介氏が亡くなられました。

 兼ねてから肺ガンを患い闘病中であることは、友人から知らされていました。にもかかわらず、2016年にはそれまでの20数年にわたる『資本論』第3部第5篇草稿研究の集大成ともいうべき『マルクスの利子生み資本論』全4巻を上梓され、さらに昨年11 月には『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』を出版、その次の著書として恐慌と再生産の問題を論じる本を準備中だと聞きました。だからまだまだと思っていたのですが、突然の訃報に驚き、悲しみと共に残念な思いが込み上げてきます。あるいは新しい著書の準備に体力を使い果たされてしまったのかも知れません。

 私自身は大谷氏とは直接の面識はなく、ただ師弟関係にある友人を通してその研究の動向や諸成果を紹介されて来ただけでした。しかしこの『マルクス研究会通信』というブログを見ていただいても分かるように、そのほとんど言ってもいいほど大谷氏が翻訳されたマルクスの草稿の解読などからなっており、大谷氏の研究に大きく依拠しています。

 大谷氏はコツコツとマルクスの草稿を解読・翻訳されて、その研究成果を発表されてきました。学者のなかにはそうした研究姿勢を、“ただの解釈学だ”と揶揄する人たちもいますが、しかし大谷氏の業績ほどマルクス経済学の研究を深め前進させる上で、大きく寄与するものはないのではないかと私は考えています。

  マルクスを深く研究もせずに、アレコレと自分勝手な解釈や思いつきを書き散らしたものを印刷物にして、その“業績”を誇る学者の余りにも多いなかで、あくまでもマルクスの書いたものをとにかく忠実に理解しようとすることに徹底的に拘っていくその姿勢は、師の久留間鮫造氏から受け継いだものだと思いますが、私たちが引き継ぐべき重要な姿勢であろうと考えています。

 これまで公表されてきたエンゲルス版ではなくて、マルクス自身の草稿にもとづいて『資本論』を研究する道を切り開いてくださった最大の功労者ではないかと考えています。しかもミミズの這ったようなマルクスの筆跡を直接読むことのできた数少ない日本の学者の一人でもありました。

 私は今後も大谷氏の業績に依拠して、マルクスの草稿の解読を続けたいと考えています。

 私たちのために、マルクス研究の新たな道を切り開いてくださった大谷禎之介氏に、深甚の感謝の念を捧げます。

   安らかにお眠りください。

 

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  以下、今回から、いよいよ本論の第5篇の草稿の解読にとりかかる。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。まずマルクスの草稿を、大谷氏による翻訳文を利用させていただき、パラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示し、その上でその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆきたい。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 

 [411]   |①286上|第5章
利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本。

1)〔利子生み資本〕

 ① 〔異文〕「286」← 「285」〉 (167頁)

 【これは表題だから、特に平易に書き下ろす必要はないであろう。
 なお念のために書いておくと、第5章の表題はマルクス自身によるものだが、次の〈1)〔利子生み資本〕〉という表題は、大谷氏によれば、草稿ではただ〈1)〉と番号だけが書かれており、よって〈〔利子生み資本〕〉というのはエンゲルス版の表題でもあるものを、大谷氏による表題として書かれたものだということである。
  ついでに少し気になったことを書いておこう。ここではマルクスは「利子」に「企業利得」を対置し、それらは「利潤」が分裂したものだと書いている。ところが「企業利得」に括弧をつけて「産業利潤または商業利潤」ともしている。つまり企業利得とは産業資本の利潤や商業資本の利潤のことだというのである。だからそもそも分裂する前の「利潤」というのはより一般的な、その限りではより本質的な、ものであり、それに対してその具体的な形態として産業資本の利潤や商業資本の利潤があり、それらは「利潤」が利子と企業利得とに分裂した時点で、企業利得を構成すると捉えることができるという関係を見ることができる。
  またこの表題について大谷氏が解説していることに、私はノートの中で少し異論を唱えたので、それをここに再論しておこう。
  まず大谷氏はこの表題を説明して、次のように述べている。

  〈この表題のうち前半の「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂」という部分は,第3部の他の多くの部分の表題と同様に,分配形態かつ収入形態である,剰余価値の転化形態,すなわち剰余価値が受けとる「具体的形態」に即してこの章の主題を示しており,後半の「利子生み資本」は,同じ主題を資本の「具体的形態」に即して示している。これをさらに簡潔に言い表わせば,第5章の主題は,剰余価値の分配形態に即して言えば「利子と企業利得」であり,資本に即して言えば「利子生み資本」である。〉 (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第1巻149頁、以下、頁数のみを記す場合は同じ、あるいは「大谷本①○○頁」とも略す。)

  これに対して私は次のようなコメントをノートに記したのである。

 こうした大谷氏の説明はそれほど問題にすべきことはないように思うが、しかし少し問題を提起すれば、このように考えるべきではないだろうか。大谷氏は多分に宇野の「分配論」を意識してこれを書いている嫌いがある。しかし果たしてそれは妥当だろうか。マルクスが第3部で収入の諸形態を問題にしていることは、その最終章で三位一体的形式を批判的に論じていることから、ブルジョア社会の三大階級、資本、賃労働、土地所有のそれぞれの収入形態とその経済的基礎を暴露することが一つの課題であることはあきらかであるが、しかし宇野のように図式的にだから第3部は「分配論」だなどとすることは果たして正しいかどうかである。『資本論』はあくまでも資本主義的生産様式の内在的な諸法則を一般的に解明することを目的にしたものであり、だから第3部でもやはりより具体的な諸形態を展開するものとはいえ、やはり資本主義の諸法則が展開されているものと考えるべきである。単に「分配論」を問題にしているのではないのである。最初の利潤論にしても、それは決して分配論の問題ではない。むしろ第1部、第2部で剰余価値として解明されたものが資本主義のより表層においては(直接的な形象としては)利潤として現れ、しかもその利潤という直接的な形象こそが資本にとってはより決定的な意味をもつことを暴露することにある。そしてそこから資本主義的生産はその諸法則のより具体的な新たな展開をするのであって、それが第1篇~第3篇の内容をなしている。それは決して単に「分配」が問題になっているのではないのである。
 そうした『資本論』の実際の展開に則して考えるならば、この第5章の表題も次のように捉えるべきではないだろうか。この第5章で解明されるのは「利子生み資本」であるが、それは資本主義的生産様式においては、「利潤」が「利子」と「企業利得」とに分裂することを基礎として解明されるべきだということである。つまり資本主義以前の利子生み資本、すなわち高利資本等は、この意味では決して利潤が利子と企業利得とに分裂することを前提にはしていないのである。つまり第5章の表題「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」」の意味として考えるべきなのは、利潤が利子と企業利得とへ分裂した結果もたらされる利子生み資本(つまり資本主義的生産に従属した利子生み資本)を主題とするというマルクスの意図を示していると考えるべきなのである。この点、大谷氏の説明は若干の疑問とするものである。】

 

【2】

 

 一般的利潤率およびそれに対応する平均利潤を最初に考察したときには(この部の第2章では),平均利潤率はまだ,その完成した姿態ではわれわれの前に現われていなかった。というのは,均等化はさまざまの部面に投下された生産的資本の均等化として現われていただけだっただからである。この点は前章で補足されたのであって,そこでは均等化への商業資本の参加が(同時に商業利潤についても)論究された。いまでは一般的利潤率または平均利潤は,前よりも狭い限界のなかで現われている。これ以降の展開では,われわれが一般的利潤率または平均利潤と言う場合には,それはこのあとのほうの意味で言っているのだと,つまりただ平均率の完成した姿態だけについて言っているのだと解されなければならない。このような言葉の使い方では,平均率は産業資本にとっても商業資本にとっても同じなのだから,この平均利潤だけが問題となるかぎりでは,産業利潤と商業利潤とを区別することももはや必要ない。資本は,生産部面のなかで産業的に投下されようと,流通部面のなかで商業的に投下されようと,同じ年間平均利潤をもたらすのである。

 ①〔異文〕bietenという書きかけが消されている。〔bieten_darと書・こうとしたのであろう。〕
 ②〔異文〕「均等化は」--書き加えられている。この語のあとにsichと書いたのち,消している。
 ③〔異文〕「として〔als〕」は,解読に確信がもてない。
 ④〔異文〕「ただ… … だけ」一書き加えられている。
 ⑤ 異文〕「このような言葉の使い方では」--書き加えられている。〔はじめ「この場合には〔hier〕」と書いたのち,それをこのように変更した。〕
⑥〔異文〕「生産部面のなかで産業的に投下されようと,流通部面のなかで商業的に投下されようと」← 「生産部面のなかで産業資本として投下されようと,流通部面のなかで商業資本として投下されようと」← 「生産部面のなかで投下されようと,流通部面のなかで投下されようと」〉 (167-169頁)
 

  〈私たちは第2章(エンゲルス版では第2篇)で、一般利潤率の形成とそれに対応する平均利潤を考察しました。しかし実は、そこで考察した平均利潤率は、いまだ完成した姿態を示しているものではなかったのです。というのは、以前の考察では、同じ額の貨幣資本でも、それがさまざまな生産部門に投じられるならば、それぞれの生産資本の有機的構成が異なるために、まったく違った剰余価値を得、よってまたまったく互いに違った特殊的利潤率が生じることが明らかになりました。しかし諸資本の競争は、それらの異なる利潤率を均等化するように作用し、そこから一般的利潤率が形成されることが明らかになったのでした。しかし、そこで想定されていた資本は、実は生産資本に限定されていたのです。しかし私たちは今では、第4章(エンゲルス版では第4篇)での考察を前提とすることができます。つまり先の章ではこの均等化への商業資本の参加と商業利潤について論及されたのです。だからいまでは一般利潤率または平均利潤はより具体的な形で、つまりより限定された形で現れています。だからこれ以降の展開では一般利潤率または平均利潤という場合には、それはこうした前よりも狭い限界のなかで現れているものの意味で言っているのだということです。つまり平均利潤率の完成した姿態だけについて言っているのだと解されなければなりません。いまでは一般利潤率は産業資本にも商業資本にも同じようにその前提として現れているのですから。平均利潤だけが問題になる限りでは、産業利潤と商業利潤とを区別する必要はもはやないのです。資本は、生産部面の中で産業的に投下されようと、流通部面で商業的に投下されようと、同じ年間平均利潤をもたらすものと考えることができるのです。〉

 

  【このパラグラフは先の表題の前半部分、すわなち「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂」の解説と考えることができる。つまりこの第5章以降でわれわれが一般的利潤率や平均利潤を問題にする時には、それが問題となった第2章(篇)の時のものとはやや異なるということを言いたいのである。つまり第2章で論じられた一般的利潤率やそれに対応した平均利潤、あるいは一般利潤率をいいかえた平均利潤率は、その意味ではまだ完成したものではなかったのだということである。なぜなら、われわれがそこで問題にしたのは生産資本がその有機的構成の異なるに応じて、それが生み出す利潤率に相違が生じるが、しかし資本はその投下資本の大きさ応じた利潤を求めること、だから競争はさまざまな分野の特殊的な利潤率を平均化して、一般利潤率の形成をもらたすと論じられていたからである。その結果、諸商品の市場価格は、その価値ではなく、生産価格を中心に変動することになる。つまり以前の第2章の考察では、商業資本の存在は捨象されていたのである。だからそこで考察された一般利潤率やそれに対応した平均利潤は、まだその完成した姿態で捉えられたわけではなかったというのである。しかしすでにこの第5章(篇)は第4章(篇)における商業資本の考察を前提としており、だからこれからわれわれが論じるなかで問題にする一般利潤率や平均利潤は完成した姿態について言っているのだということである。だからこそ第5章(篇)の表題には〈産業利潤または商業利潤〉という文言が入っているのだ、ということである。】


『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」草稿の段落ごとの解読(21-2)

【3】

 [412]貨幣(すなわちここでは貨幣はある価値額の自立的表現と見なされているのであって,この価値額が貨幣のかたちで存在するか商品のかたちで存在するかにはかかわりない)は資本主義的生産様式の基礎の上では資本に転化させられることができるのであり,そしてこの転化によって,貨幣は或る与えられた価値から,自分自身を増殖する,増加させる価値になり,利潤を生産する能力,すなわち資本家に,労働者から一定分量の不払労働,剰余価値,そして剰余生産物を引き出して取得する能力を与えるので,貨幣は,それが貨幣としてもっている使用価値のほかに,一つの追加的使用価値,すなわち資本として機能するという使用価値を受け取る。貨幣の使用価値とは,ここではまさに,それが資本に転化して生産する利潤にある。このような,可能的資本としての,利潤を生産するための手段としての属性において,貨幣は商品に,といっても一つの独特な種類の商品〔Waare sui generis〕になる。または,同じことに帰着するが,資本としての資本商品になるのである。a)/

  ①〔異文〕「自身」書き加えられている。
  ②〔異文〕「,増加させる」書き加えられている。
  ③〔異文〕「利潤」← 「ある利潤」
  ④〔異文〕「貨幣の使用価値とは,ここではまさに,それが資本に転化して生産する利潤にある。」一書き加えられている。この補足は,草稿では〔MEGAの〕412ページ13行のあと〔このパラグラフのあと〕に書かれており,T字様の記号によってこの箇所を指示している。
  ⑤〔異文〕「資本に転化して生産する」← 「資本に転化して生産するであろう」← 「資本として支出され[る]」〉 (169-170頁)

 

 〈資本主義的生産様式の基礎のもとでは、貨幣は資本に転化可能であることは、私たちはすでに第1部「資本の生産過程」や第2部「資本の流通過程」で明らかにしてきたところです。つまりこの転化によって、貨幣はある与えられた価値から、自分自身を増殖する価値に、あるいは増加させる価値になり、利潤を生産する能力、すなわち資本家たちに、労働者から一定分量の不払労働、つまり剰余価値、そして剰余生産物を引き出して取得する能力を与えるのです。ただしここで私たちが貨幣としているのは、ある価値額の自立的表現としてのそれであり、それが貨幣の形で存在するかあるいは商品のかたちで存在するかにはかかわりはありません。こうして貨幣は、それが貨幣としてもっている使用価値、つまりその所持者に彼にとって有用な諸商品を取得させるという使用価値以外に、別の追加的な使用価値を、すなわち資本として機能するという使用価値を受けとることになります。つまりここで分析しているところでは,貨幣の使用価値とは、それが資本に転化して生産する利潤にあるのです。このような可能的な資本としての属性、利潤を生産する手段としての属性において、貨幣は商品になるのです。しかしこの商品は一つの独特な特性をもった商品なのです(それは後に明らかになるでしょう)。また同じことに帰着しますが、こうして資本としての資本が商品になるのです。〉

 

【ここから利子生み資本の概念の考察が始まるのであるが、マルクスはそれをまず次のパラグラフの原注a)で〈経済人たち〔Oekonomen〕が事柄をこのように考えている二三の箇所をここに引用すべきである〉と書いているように、まさに現実の貨幣市場におけるもっとも直接的な表象から開始しているのである。つまり貨幣市場では貨幣が商品として売買されている現実がある。あるいは資本という商品を彼らは扱っているという自覚がある。この現実からマルクスは出発しているのである。そしてそこからなぜ、貨幣が、あるいは資本が商品として取り引きされるのかを明らかにしようとしている。そしてまず貨幣が資本主義的生産様式のものでは資本に転化させられうることを指摘する。これは第1部や第2部の考察で明らかにされたものをただ振り返って確認しているだけである。ただしマルクスは、貨幣を説明して〈ここでは貨幣はある価値額の自立的表現と見なされているのであって,この価値額が貨幣のかたちで存在するか商品のかたちで存在するかにはかかわりない〉と述べている。つまり一定の価値額が資本主義的生産様式の基礎のものとに資本として投下されれば、自分自身を増殖する価値、利潤を生産する能力を有すること、資本家に労働者から不払労働を取得する能力を与えることを指摘する。それを貨幣の使用価値に追加された新たな使用価値だと述べている。つまりこうした資本として機能するという属性にもとづく使用価値こそが貨幣を商品として売買せしめているものだと指摘しているわけである。ただ貨幣は商品になるといっても、独特な種類の商品だとも述べている。その独特な種類としての特性、それが一般の商品と如何なる点で異なるかについては、後に明らかにされていくことになる。さらにマルクスは〈または,同じことに帰着するが,資本としての資本が商品になるのである〉とも述べている。つまり貨幣が商品になるということは、資本が商品になるということに帰着すると述べているわけである。マルクスがここで〈資本としての資本〉と述べているのは「利子生み資本」のことである。
 だからマルクスが資本が商品として売買されるというのに対して、宇野弘蔵のように貨幣が商品になるのであって、資本が商品になるのではないと批判するものは問題を厳密に正しく理解しているとは言い難いであろう。マルクス自身は貨幣が商品になることを指摘した上で、同じことに帰着するものとして、資本が商品になると述べているのである。
 ついでに言っておけば、マルクスは宇野が主張するような「純粋の資本主義」を想定して問題を論じているのではないということである。あくまでも現実の貨幣市場のなかで経済実務家たちの表象に捉えられるものから出発して、その概念化を試みようとしているということである。それが宇野と根本的に違うところである。マルクスの方法はその唯物論的な立場を示すものであるが、宇野の純粋資本主義なるものは、ただ彼が観念論者でしかないことを示すものに過ぎない。】

 

【4】

 |286下|〔原注〕a)経済人たち〔Oekonomen〕が事柄をこのように考えている二三の箇所をここに引用すべきである。第1194号あなたがた(イングランド銀行)は,資本という商品を取り扱う非常に大きな商人〔very large dealers in the commodity of capital〕ですね?」(『銀行法委員会報告』,1857年)〔原注a)終わり〕|

  ①〔注解〕『銀行法特別委員会報告… … 。1857年』,第1部,104ページ,では次のようになっている。「あなたがたが市場で主役を演じている〔you lead the market〕のは,ただ,資本という商品を取り扱う非常に大きな商人であるという意味においてだけですね?」〔証言1194号。証人ウェゲリンにこの質問をしたのはウィルスンである。〕〉 (170頁)

 〈経済人たちが事柄をこのように、つまり貨幣を商品として売買したり、資本という商品をとり扱っていると考えていることを示す引用をすべきでしょう。(以下、引用は略)なおここで「あなたがた」と言われているのはイングランド銀行のことです。ウェゲリンはイングランド銀行総裁。〉

 

 【これは先のパラグラフ(われわれのパラグラフ番号では【3】)の最後につけられた原注である。これはパラグラフの最後に付けられているが、しかしその直前の文言への原注というよりパラグラフ全体への原注であろう。つまりこれは先のパラグラフの考察はこうした現実の貨幣市場における経済人たちの表象から出発して問題を考えているのだというマルクスの方法上の特徴を明らかにしていると考えるべきなのである。】

 


『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-3)

【5】

 

 /286上/年間平均利潤率が20%であると仮定しよう。その場合には,100ポンド・スターリングの価値額を平均的条件のもとで,また平均程度〔Durchschnittsmaß〕の知能と合目的性とをもって資本として支出すれば,それは20ポンド・スターリングの利潤をあげるであろう。つまり,100ポンド・スターリングを自分の手中で自由に使うことができる人は,100ポンド・スターリングを120ポンド・スターリングにする力,すなわち20ポンド・スターリングの利潤を生産する力を自分の手中にもつわけである。彼は自分の手中に100ポンド・スターリングの可能的資本をもっている。この人がこの100ポンド・スターリングを,現実にそれを資本として充用する別の人の手に1年間任せておくならば,前者は後者に,20ポンド・スターリングの利潤を生産する力,つまり自分にとって費用もかからなければ自分が等価を支払いもしない剰余価値を生産する力を与えることになる。後者が100ポンド・スターリングの所有者に年末に5ポンド・スターリングほどを支払うとすれば,すなわち生産された利潤の一部分を支払うとすれば,これによって彼はこの100ポンド・スターリングがもっている使用価値に,つまり資本として機能するという,だからまた20ポンド・スターリングの利潤を生産するという,それの使用価値に,支払うわけである。利潤のうちの彼が前者に支払う部分は利子と呼ばれるのであって,だから利子というのは,機能資本が自分のふところに入れないで資本の所有者に||287上|支払ってしまわなければならない,利潤のうちの一部分を表わす特殊な名称,特殊な項目にほかならないのである。

  ①〔異文〕「20」← 「30」
  ②〔異文〕「生産する」← 「実現する」
  ③〔異文〕「の利潤」書き加えられている。
  ④ 異文〕「100ポンド・スターリングの所有者〔Eigner〕に」← 「100ポンド・スターリングの所持者〔Besitzer〕に」← 「彼に」
  ⑤〔異文〕「20ポンド・スターリングの」一書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「利潤のうちの彼が前者に支払う部分は」← 「この部分は」
  ⑦〔異文〕「あって,」← 「ある。」
  ⑧〔異文〕「287」← 「286」〉 (170-172頁)

 

 〈先に、貨幣は資本として機能するという使用価値によって商品になると指摘しましたが、今、年間の平均利潤率を20%と仮定しましょう。そうすると100ポンド・スターリングという価値額は平均的な条件もとで、平均程度の知能と合目的性をもって資本として支出されるのでしたら、それは20ポンド・スターリングの利潤をあげるでしょう。つまり100ポンド・スターリングという貨幣を自分で自由に使えることができる人は、100ポンド・スターリングを120ポンド・スターリングにする力、つまり20ポンド・スターリングの利潤を生産する力を自分の手に持つことになります。彼は自分の手に100ポンド・スターリングという可能的資本をもっているのです。この人が、しかし自分でそれを資本として投下する代わりに、現実にそれを資本として充用する別の人に一年間任せておくならば、前者は後者に、20ポンド・スターリングの利潤を生産する力を与えることになります。つまり後者は自分にとってまったく費用もかからず、それに対して等価を支払うわけでもない剰余価値を生産する力を得ることになるのです。後者が100ポンド・スターリングの所有者に年末に5ポンド・スターリングほどを支払うとすれば、それは彼が生産した利潤の一部分を支払うわけですが、彼はこれによって100ポンド・スターリングがもっている使用価値、つまり資本として機能するという、20ポンド・スターリングの利潤を生産するという、その使用価値に支払うわけです。このような利潤のうちの彼が前者に支払う部分を利子と称するわけです。だから利子は、機能資本が自分のふところに入れないで資本の所有者に支払わなければならない、利潤の一部分を表す特殊な名称、あるいは特殊な項目にほかならないのです。〉

 

 【ここでは「利子」の考察がなされている。利子の存在もありふれた現実である。しかし利子が何故に貨幣の貸付にともなって貸主に支払われるのか、支払われねばならないのかは明らかではない。そこから中世では利子をとることを罪悪視することもあったぐらいである。しかしマルクスは最初に資本主義的生産様式を基礎とするという前提のもとに分析を開始している。そしてこうした前提の下では利子は何にもとづくかを明らかにしようとしているのである。そのためにマルクスは先のパラグラフ(【3】)では貨幣はそれが資本として機能するという属性から商品になることを指摘したが、それにもとづいてもし平均利潤率が20%と仮定して、100ポンド・スターリングが資本として機能するなら、それは20ポンド・スターリングの利潤をあげるだろうと指摘する。だから100ポンド・スターリングを自分の手で自由に使うことができる人は、100ポンド・スターリングを120ポンド・スターリングにする力を自分の手にもっていることになる。もし彼がその100ポンド・スターリングをそれを資本として充用する別の人の手に1年間任せるなら、前者は後者に、20ポンド・スターリングの利潤を生産する力、それは後者にとっては何の費用もかからなければ、自分が等価を支払もしない剰余価値を生産する力であるが、それを与えることになる。後者がそれで得た20ポンド・スターリングのうち5ポンド・スターリングほどを前者に支払うなら、彼は100ポンド・スターリングという資本として機能する使用価値に支払うわけである。この後者が前者に支払う部分は利子と呼ばれる。だから利子は機能資本が資本の所有者に支払わねばならない、彼の利潤の一部分を表す特殊な名称であり、特殊な項目にほかならないのである。

 ここでマルクスは100ポンド・スターリングを借りる後者が〈自分にとって費用もかからなければ自分が等価を支払いもしない剰余価値を生産する力を与えることになる〉としていることについて、そんなことは現実にはありえないと宇野はいうのである。何の資本も持たない人が、貨幣を借りて、機能資本家になり利潤を生産するという想定は、およそあり得ない想定であり、現実には機能資本家はすでに自己資本を持ちながら、それに加えて一定額の貨幣を借り入れて自己資本と一緒にして資本として投下するのだというのである。確かに経済過程の現実を考えるなら、宇野の指摘するようなケースの方が多いかもしれない。しかしわれわれはそうした現実のなかから利子生み資本をそれ自体として取り出して考察を加えようとしているのである。そうした場合には、一定の貨幣額が機能資本家が本来もっているものに加えられて資本として投下されるのかどうかなどということは問題を複雑にするだけのものでしかなく、対象を純粋に--宇野の好きな言葉ではあるが--考察するためには、そうしたものを捨象して考える必要があるのである。宇野は、マルクスの「利子論」というのは、「地代論」などと違って、純粋の資本主義を想定したものになっていないとクレームをつけているのであるが、対象を純粋に取り出し対象をそれ自体として考察するというマルクスの方法(というより科学一般の方法でもある)がわかっていないのである。宇野はさまざまなところであれこれの対象を複雑にする要因をそのまま乱雑に付け加えて問題を論じ、それがマルクスと違った自分独自の考察だと自惚れているだけに過ぎないことが多い。】

 

【6】

 

 100ポンド・スターリングをもっているということがそれの所有者に,利子を,すなわち自分の資本によって生産された利潤のいくらかの部分を,代償として要求する力〔Macht〕を与えるのだということは,明らかである。もし彼が100ポンド・スターリングを他の人に渡さなければ,この人は20ポンド・スターリングの利潤を生産することはできないであろうし,そもそも資本家として機能することはできないであろう。a)/

  ① 〔異文〕「だから,前者は… … できる」という書きかけが消されている。〉 (172頁)

 〈このように、100ポンド・スターリングを持っているということは、その所有者に、「利子」を要求する力を与えることは明らかです。それは自分の資本によって生産された利潤のいくらかの部分を、自分がそれをやれば得られるはずの利潤を得る権利を譲り渡す代償として要求する力でもあります。そして確かに100ポンド・スターリングの所有者が、それを他の人に渡さなければ、その人は20ポンド・スターリングの利潤を生産することはできなかっただろうし、そもそも資本家として機能することもできないでしょう。〉

 【ここでは資本主義的生産様式のもとでは、一定額の貨幣は資本として機能する使用価値を持つが、それゆえにそれは「利子」を要求する力をもつことになると指摘されている。そしてそれは資本として機能しうる使用価値を持つものを一定期間委ねる代償だとも指摘されている。
 ここで「利子」は「代償」だという説明がある。何に対する「代償」なのか。「代償」という文言を調べると、次のような説明がある。

《デジタル大辞泉の解説》
1 本人に代わってつぐなうこと。代弁。
2 他人に与えた損害に対して、金品や労力でつぐないをすること。「かけた迷惑の代償を支払う」
3 目的を達するために、犠牲にしたり失ったりするもの。「命を代償として勝利を手にする」
4 欲求などが満たされないとき、代わりのもので欲求を満たそうとすること。「代償行為」

 利子の場合は、2か3がもっとも近いように思える。つまり100ポンド・スターリングの貨幣の所有者は、それを資本として投下するなら、20ポンド・スターリングの利潤を生産しうるのに、あるいは100ポンド・スターリングの使用価値は、20ポンド・スターリングを生産する能力を持っているのに、それを他の人に委ねたのだから、生産された20ポンド・スターリングのうち5ポンド・スターリングぐらいは受け取ってもいいだろう、というようなニュアンスではないだろうか。】

 


『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4)

 

【7】

 

 |287下|〔原注〕a)「利潤をあげるという意図をもって貨幣を借りる人は利潤の一部分を貸し手に与えなければならない,ということは自然的公正の自明な原理である。」(J.W.ギルバト銀行業の歴史と原理』,ロンドン,1834年,163ページ。)〔原注a)終わり〕|

  ① 〔注解〕ギルバトでは次のようになっている。--「貨幣によって利潤をあげるという意図をもって貨幣を借りる人は,自分の利潤のうちのいくらかの部分を貸し手に与えなければならない… … 。」--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』から取られている。(MEGAIII/3.5,S.1556.36-38.)〉 (172頁)

 

 【これは引用だけでなので、平易な書き下しは不要であろう。MEGAの注解では61-63草稿から一部分が紹介されているが、参考のために関連する部分全体を紹介しておこう。

 利子についてギルバート(J・W・)『銀行業の歴史と原理』ロンドン1834年、は次のように述べている。
 「利潤をあげるという意図で貨幣を借りる人が利潤の一部分を貸し手に与えるべきだということは、自然的公正の自明な一原理である。ある人が利潤をあげるのは、通常、商取引〔traffick〕によってである。しかし、中世では人口はまったく農業に従事していた。そして、その場合には、封建的統治のもとでのことだから、わずかな商取引しか、したがってまたわずかな利潤しかありえない。それだから、高利を取り締まる法律が中世には是認されるのである。【163、164ページ。】そのうえ、農業国では、不幸にして貧困や災難に陥らないかぎり、人は貨幣を借り入れる必要に迫られることはめったにない。」(163ページ。)

  ①〔注解〕以下、この引用文のうち「利潤をあげる」、「しかし、中世では人口はまったく農業に従事していた。そして、その場合には、封建的統治のもとでのことだから、」、「不幸にして」の各部分は、ギルバートの原文ではそれぞれ次のようになっている。--「貨幣によって利潤をあげる」、「しかし、まったく農業的な国においては、そして、封建体制だったような統治のもとでは、」、「運が悪く」
  ②〔注解〕「それだから……是認されるのである」--この一文は、ギルバートが163/164ページで述ベている考えをマルクスが要約したものである。〉 (『資本論』草稿集⑧26頁)

 これを見ると「利子」は利潤の一部分だということは当時の経済人にも自明だったといえる。】

 

【8】

 

 /287上/ここで「自然的公正」(注aを見よ)を云々することは無意味である。生産当事者たちのあいだで行なわれる取引の公[413]justice der transactions〕は,これらの取引が生産関係から自然的帰結として生じるということにもとついている。法律的諸形態では,これらの経済的取引は意志行為として,彼らの共通の意志の発現--また個々の当事者にたいして国家によって強制されうる契約--として現われるのであるが,このような法律的諸形態は,たんなる形態である以上,この内容そのものを規定することはできない。このような形態はただこの内容を表現するだけである。この内容は,それが生産様式に対応し,適合しているときには公正gerecht〕なのである。生産様式と矛盾しているときには,それは不公正ungerecht〕である。たとえば,奴隷制は資本主義的生産様式の基礎の上では不公正である。商品の質についてのごまかしもそうである。

  ①〔異文〕「この形態によっては」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「対応し,適合している」← 「対応している」〔「対応している〔entspricht〕」の上部に並べて「適合している〔adäquat ist〕」と書かれている。〕
  ③〔異文〕「質についての〔uber d. Quahtät〕」← 「質における〔in d. Qualität〕」〉 (172-173頁)

 〈利子を論じるうえで、ギルバートのように「自然的公正」を云々することは無意味です。なぜなら、生産当事者のあいだで行われる取り引きの公正というのは、これらの取り引きが生産関係から自然的な帰結として生じることにもとづいているからです。法律的な諸形態では、これらの経済的な取り引きは、その当事者の意志行為として、あるいは彼らの共通の意志の発現として現れます。あるいは個々の当事者にとっては国家によって強制されうる契約として現れるわけです。しかしこのような法律的な形態は、単なる形態である以上、内容を規定することはできず、ただ表現するだけです。そしてその内容は、それが生産様式に対応し、適合しているときは公正なのです。しかしそれが生産様式と矛盾しているときには不公正になります。例えば奴隷制は資本主義的生産様式の基礎のうえでは不公正です。商品の質のごまかしについてもそうです。〉

 

 【これは原注aで引用されているギルバートの著書からの引用で、〈利潤をあげるという意図をもって貨幣を借りる人は利潤の一部分を貸し手に与えなければならない,ということは自然的公正の自明な原理である〉と述べていることを直接受けて書かれている。つまりギルバートは利子は自然的公正なものであると述べているのであるが、それに対して、マルクスは利子について「自然的公正」を云々するのは無意味だと主張している。そしてそれに続く一文では、そもそも生産当事者の間で行われる取り引きの公正というのはどういうことか、ということから説き起こしているが、だから「利子」の取得は、「自然的公正」とはいえないのだ、と積極的に論じているわけでもない。やはり資本主義的生産様式に従属した利子生み資本という存在は、資本主義的な生産関係にもとづいたものといえるし、だからまた貨幣の貸し借りやそれに伴う利子の支払は、資本主義的生産関係からくる自然的帰結のように思えるからである。ただどれだけの利子を支払うのが公正かということは内容にかかわることであり、それは問題にはならない。だからマルクスがギルバートに対して利子について自然的公正を云々することは無意味だと述べているのは、資本主義的生産様式のもとでは利子生み資本の利子は生産関係にもとづいたものだから、それを敢えて「公正」か否かを論じること自体が無意味だという意味ではないかと思う。

  ついでに参考のために、『世界大百科事典』の「利子」の項目で、[ヨーロッパ]の部分を紹介しておこう。

  [ヨーロッパ] 貸付けにともなう利子の取得は,すでに古代バビロニアにおいて普及しており,ギリシア・ローマにおいても一般的であった。しかし,貸付けはもっぱら消費貸借契約として把握されており,前5~前4世紀にアテナイの海上交易が発展し,さかんに海上貸付けが行われて年20~100%の利子が徴収されていた時代においても,利子は疑惑の眼で見られていた。アリストテレスは〈貨幣が貨幣を生むことは自然に反している〉という趣旨のことを述べている(《政治学》1巻10章)。古代イスラエル人の間では,厳しい徴利禁止の教えがあり,これが旧約聖書に反映している(《出エジプト記》22:25,《申命記》23:19)。この教説は,旧約聖書を共通の聖典とするユダヤ教徒,キリスト教徒,イスラム教徒に大きな影響を与えた。少なくとも信仰を同じくする者から利子を取り立てることには心理的に大きな抵抗が存在した。とくに中世のヨーロッパにおいてはスコラの教義によって利子の取得は禁じられた。利子付き貸付けは〈神に属する時間を売買するもの〉とみなされ,不法とされた。 しかし,商業の発展は信用の供与と利子の取得を必然的なものとした。そのためさまざまな形態の偽装的な利子取得が行われるようになった。貸借の証書にあらかじめ利子分を含めた金額を記載しておくというのが最も一般的であった。債権者が債務者の土地を担保とし,地代(レント)の形で利子を得る方法や,一度買った土地を当の相手に売るという偽装売買の方法もしばしば用いられた。後者の場合,土地の買値と売値の差が利子に相当することになる。また定められた期限に返済が行われなかったとして,損害補償金の名目で利子が取得されることもあった。このような方法のうちで商業活動にとって最も重要であったのは,為替(外国為替)であった。これは,現地の貨幣を受け取ったものが外地において外国貨幣で返済するものであり,利子は両通貨の換算率の中に含まれる。為替は送金のためにも,外国の市場へ商品を送るものが前もって両替商(銀行業者)から資金の貸付けを受けるためにも用いられた。神学者たちはこれを貨幣の交換とみて,利子付き貸付けではないとしたのである。
 このように,教会の禁止にもかかわらず,現実には利子の取得は一般化していた。中世末期のイタリアでは一般に年7~15%程度の利子の取得が行われていた。ユダヤ教徒の場合は,異教徒たるキリスト教徒に貸付けを行う際にかぎり利子を公然と要求した。しかし,実質的に大規模な金融活動を行っていたのはイタリア商人をはじめとするキリスト教徒であった。以上のような徴利禁止の原則は,宗教改革によってくつがえされた。カルバンは利子取得を容認し,サルマシウスClaudius Salmasius(1588‐1653)が徴利禁止の理論的基礎を批判した。イギリスではヘンリー8世が1545年に年10%以内の利子取得を認める法令を発布した。カトリック教会も19世紀前半に至って利子を容認するようになった。(清水広一郎)〉
   ヨーロッパでは利子の取得が「自然的公正」か否かはそれなりに重要な問題だったことがわかる。】

 

 

【9】

 

 100ポンド・スターリングが20ポンド・スターリングの利潤を生産するのは,それが産業資本としてであろうと商業資本としてであろうと,とにかく資本として機能するということによってである。しかし,資本としてのこの機能に欠くことのできない条件〔sine qua non〕は,それが資本として支出されるということ,つまり,貨幣が生産手段の購入(産業資本の場合)かまたは商品の購入(商業資本の場合)に支出されるということである。だが,貨幣を支出するためには,貨幣がそこになければならない。もしも100ポンド・スターリングの所有者Aがそれを自分の個人的消費のために支出するとか蓄蔵貨幣として手もとにおくとかすれば,その100ポンド・スターリングは機能資本家Bによって資本として支出されることはできないであろう。Bは,自分の資本を支出するのではなく,Aの資本を支出するのである。だが,彼はAの意志にかかわりなしにAの資本を支出することはできない。だから,はじめに〔in the first instance〕100ポンド・スターリングを資本として支出するのは,実際はAなのである。といっても,彼の資本家としての全機能はこのように100ポンド・スターリングを資本として支出することだけに限られているのではあるが。(この100ポンド・スターリングに関する限りでは,)Bが資本家として機能するのは,ただ,AがBに100ポンド・スターリングを任せ,したがってまたそれを資本として支出するからにほかならないのである。

  ① 〔異文〕「産業」← 「生産」
  ② 〔異文〕「ということ,」← 「ということである。」
  ③ 〔異文〕「A」--書き加えられている。〉 (173-174頁)

 〈100ポンド・スターリングが20ポンド・スターリングの利潤を生産するのは、それが資本として機能するということによってです。それが産業資本に投じられるか、それとも商業資本として投じられるかは問いません。とにかく資本として機能するということが条件です。しかしこの資本としての機能に欠くことのできない条件は、それが資本として支出されるということ、つまりその貨幣が生産手段の購入(生産資本の場合)かまたは商品の購入(商業資本の場合)に支出されるということです。しかし貨幣をそのように支出するためには、貨幣がそこになければなりません。もし100ポンド・スターリングの所有者Aがそれを自分の個人的消費のために支出するか、あるいはそのまま蓄蔵貨幣として手元におくかすれば、その100ポンド・スターリングは機能資本家Bによって資本として支出されることはできません。Bは、自分の資本を支出するのではなく、Aの資本を支出するのです。そしてそれはAの意志にかかわりなしにはできません。だから、はじめに100ポンド・スターリングを資本として支出するのは、実際にはAなのです。といっても、彼の資本家としての機能はただ100ポンド・スターリングを資本として支出することだけに限られているのではありますが。この100ポンド・スターリングに関する限りでは、Bが資本家として機能するのは、ただAがBに100ポンド・スターリングを任せ、よってまたそれを資本として支出するからにほかなりません。〉

 

 【このパラグラフはその直前のパラグラフを受けたものといえる。というより一連の問題を論じていると考えられる。先のパラグラフではギルバートの〈利潤をあげるという意図をもって貨幣を借りる人は利潤の一部分を貸し手に与えなければならない,ということは自然的公正の自明な原理である〉と述べていることを直接受けるかたちで、〈ここで「自然的公正」(注aを見よ)を云々することは無意味である〉と述べていた。そこでマルクスはそもそも生産当事者の間での取り引きの公正というのは、それらの取り引きが生産関係から自然的帰結として生じているということにあると論じていた。つまり利子が生産された利潤の一部として貨幣の所有者に支払われることは生産関係の自然的帰結だから、それを公正だ何だということは意味がない、というのがマルクスがいいたことであろう。そして今回のパラグラフでは、100ポンド・スターリングの所有者Aとそれを借り受けて資本として支出するBとの関係、つまりこの生産当事者間の関係が、生産関係の自然的帰結と言いうることを論じているように思えるのである。
 そこでマルクスは100ポンド・スターリングというのは、そもそもそれが資本として支出されなければ資本として機能しないし、利潤を生産することもできない、それを資本として支出するのはそれを借り受けたBであるが、しかしAがBが100ポンド・スターリングを資本として支出することを承認して、そうした意志のもとにBにそれを任せることなくしてそうした関係は生じないことも指摘する。だから実際には100ポンド・スターリングを資本として支出するのはAであること、しかしAの資本家としての機能は、ただそれを資本として支出する(貸し付ける)ということに限られているのだと指摘している。実際にそれを資本とし支出するのはBであり、資本家として機能するのはBなのである。
 つまりこのパラグラフは、貨幣の貸し借りとそこから生じる利子は生産当事者の取り引きとしては自然的帰結なのだ、それらの経済的取り引きは当事者の意志行為として行われている。だからそれを敢えて公正か否かを論じることは無意味だということを言いたかったのだと思う。
 ただここでは100ポンド・スターリングを最初に資本として支出するのはAであり、よってAもその限りでは資本家であるとの指摘もある。ただその資本家としての機能は、100ポンド・スターリングを実際に資本として機能させるBに任すということに限定されているとも指摘している。ここではまだ機能資本家や所有資本家という概念は出てきていないし、それを直接論じているものと考えるべきではないであろう。】

 


『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-5)

 

【10】

 

 〈まず,利子生み資本の特有な流通を考察しよう。次いで第2には,それが商品として売られる独特な仕方,すなわち売られる代わりに貸し付けられる,という独特な仕方に言及しなければならない。〉 (174頁)

 〈まず、利子生み資本の特有な流通について考察しましょう。そしてその次には、利子生み資本が商品として売られる独特な仕方、売られる代わりに貸し付けられる、という独特な仕方について論じることにしましょう。〉

 【ここから利子生み資本に特有な流通が考察されている。それが貨幣が商品として売買されるという形式をとりながら、実際には貸し借りされているというものである。貨幣が商品として売買されているという現実は、貨幣市場の直接的な表象であり、銀行が資本という商品を取り扱っているということも、経済人が常に自覚していることである。つまりそれらは利子生み資本の流通の直接的表象ということができる。しかし商品の流通と言っても、それは独特な種類の商品であり、だから独特な流通の仕方があるのだというのである。それをこれから考察するというわけである。】

 

【11】

 

 〈①第1。出発点は,AがBに前貸する貨幣である。{この前貸は,担保つきでも,無担保でも行なわれうる。とはいえ,担保つきという形態は,商品を担保として,あるいは手形等々のような債務証書を担保として行なわれる前貸の場合を別とすれば,古風なものである。これらの特殊な形態はここではわれわれに関係がない。われわれが取り扱うのは普通の形態の利子生み資本である。}Bの手でこの貨幣は現実に資本に転化させられ,運動G-W-G’をすませてから,G'として,G+△Gとして,Aに直接に帰ってくる。この△Gは利子を表わす。(それがかなり長いあいだBの手にとどまっていて,Bは一定の期日ごとに利子を支払うだけであり,資本はかなり長い期間を経たのちにはじめて,最後に支払われるべき利子とともに還流してくる〔returniren〕,ということもありうる。ここでは,簡単にするために,このような場合もしばらく問題にしないことにする。)

   ①〔異文〕「第1。」--書き加えられている。
   ②〔異文〕「この貨幣」← 「貨幣」
   ③〔異文〕「直接に」書き加えられている。
   ④〔異文〕「すべてのこと〔AUes〕」という書きかけが消されている。〉 (174-175頁)

 〈第1。出発点は、AがBに前貸しする貨幣です。この場合、担保付きでも、無担保でも行われます。しかし、担保付きというのは、商品を担保にする場合や手形等の債務証書を担保にする場合を除くと、古風なものです。だからここではそうした特殊なケースは考慮に入れないことにします。私たちが取り扱うのは普通の利子生み資本だからです。Bの手で貨幣は現実に資本に転化させられ、運動G-W-G'をすませます(つまりそれはBの手で生産手段と労働力の購入のために支出され、生産過程でW'、つまり剰余価値を含んだ商品資本を生産します。そしてそれが販売されてG'としてBの手に還流してきます。ただしここではΔGは利潤)。そしてG'は、さらにG+ΔGとして、Aに帰ってきます。Aに帰ってくる場合のΔGは利子を表します。もちろん、この場合も、Bの手に長い間とどまっていて、Bは一定期間ごとに利子を支払うだけで、元の貸付られた資本自体はながい期間を経たのちにはじめて、最後にAに利子とともに支払われるということもありえます。しかしこうしたことは、問題を簡単にするために考慮の外に置くことにします。〉

 【ここでは最初に〈第1〉とあり、MEGAの〔異文〕によれば書き加えられたもののようである。しかしそれに対応する「第2」というのがどこか見当たらない。マルクスの場合、こうした例が多いのだが、その場合は結局、内容で考えるしかない。そのヒントになるのは、われわれのパラグラフ番号では【42】の次のような文言である。

 〈第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手〔Leiher〕に手放す。第2の補足的終結行為では借り手〔Leiher〕が資本を貸し手に返す。〉 (192頁)

 つまりここで〈第1〉とあるのは、AがBに貨幣を前貸しすることである。そして第2というのは、今度は逆にBがAに貨幣を返済することを意味するわけである。このように貸付と返済を第1と第2の行為として論じるのは、少なくともこの第21章該当部分全体で一貫しているうように思える。
 マルクスは出発点はAがBに前貸しする貨幣Gだとする。そしてこのGはBの手で現実に資本に転化させられ、G-W-G'を済ませてから、G'としてAに直接帰ってくるとするのであるが、この場合のG'をG+ΔGとしてΔGを「利子」としているのである。だからここには実際の貨幣資本の運動しては大幅な省略がある。Bの手でそれが資本として現実に機能させられる過程、つまりG-W…P…W’-G’が省略されているわけである。しかもこの場合のG’はG+ΔGと書くなら、ΔGは利子ではなく利潤である。Bは利潤(ΔG)の一部を利子(Δg)として最初のGとともにAに返済するわけである。マルクスはそうした過程を一切省略して、Bの手でG-W-G'を済ますと書いている。
 またここでは実際には行われている担保付き貸付についてもわれわれの考察では考慮しないことや、返済も一つの循環を終えれば資本も利子も一括して返済されると仮定して論じるとしている。要するに利子生み資本の運動をそれ自体として純粋に考察するためには、こうした簡略化は必要なのであ。】

 

【12】

 

 〈[414]つまりこの運動はG_G_W_G'_G'である。〉 (175頁)

 〈つまりこの運動はG-G-W-G'-G'です。G-GはAのBへの貨幣の前貸しであり、G'-G'はBによるAへのもとの貨幣の利子をともなった返済です。〉

 【これが利子生み資本の循環を示す図である。ここで大谷氏の翻訳ではGの上に「vv」というものか書かれている。大谷氏はそれに注をつけているが、それはMEGAでは省かれているというだけでマルクスはどういう意図でそういう記号をつけたのかについては何も述べていない。この記号はGだけではなく、別のところではWにもついており、マルクスの何らかの意図を示すものと考えられるが、とりあえずは分からないのでその意味の解明は保留しておこう。】

 

【13】

 

  〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である。〉 (175頁)

 〈ここで二重に現れているのは、一つは資本としての貨幣の支出であり、もう一つは実現された資本としての、G'またはG+ΔGとしての、その還流です。〉

 【ここで〈二重に現われている〉とマルクスは述べている。何が二重なのか。恐らく「G_G」と「G'_G'」というのは、前者はまったく同じGが二回、後者もまったく同じG'が二回現れているという意味であろう。そこには資本としての現実的な転換はなにもないわけである。ただ持ち手が変わっているだけだということであろうか。】

 

【14】

 

 商業資本〔mercantiles Capita1〕の運動G_W_G'では同じ商品が二度,または(最初の売り手と最後の買い手とのあいだに何人もの商人〔がはいる〕場合には)何度も,持ち手を取り替える。しかし,同じ商品のこのような場所変換は,そのそれぞれがその商品の一つの変態,その購買または販売を示しているのであって,その商品の最終的な販売までにこの過程が何度繰り返されようとも,そうなのである。

   ①〔異文〕「同じ商品が」← 「商品が」〉 (175-176頁)

 〈商業資本の運動G-W-G'では、同じ商品が二度持ち手を変えます。まずその商品の生産者の手から、商業資本の手へ、そして商業資本の手から、その商品の購買者の手へと。もちろん最初の売り手と最後の買い手とのあいだに何人もの商人が入る場合もあり、その場合は何度も持ち手を取り替えます。しかしいずれもこの同じ商品のこのような場所変換は、それぞれがその商品の変態を表しています。つまりその購買または販売を示しているのです。その商品が最終的に販売されるまで、この過程が何度繰り返されようと、そうなのです。〉

 【このパラグラフは、【12】パラグラフで示した利子生み資本の運動の特徴を明らかにするために、まずはその前提として、あるいはその特徴をとらえるための比較として、同じように同じ価値額の持ち手の変換が生じる事象として、今回のパラグラフでは商業資本の運動、そして次のパラグラフ(【15】)では商品の流通のそれぞれの特徴をまず確認しておこうということであろう。
 商業資本の運動では〈同じ商品が二度……持ち手を取り替える〉と指摘されている。ここで〈二度……持ち手を取り替える〉というのは、利子生み資本の先の運動の特徴として〈二重に現われている〉と述べていたことに対応している。つまり商業資本の運動でも同じ商品が二度持ち手を取り替えるが、しかしそれぞれには商品の変態が対応しているのだ、つまりその購買または販売を示しているのだ、というのである。それに対して利子生み資本のG-GやG'-G'のように、まったく同じGやG’が持ち手を取り替えているのに、そこには何の変換や変態をも示すものはないというのがマルクスの言いたいことであろう。】



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