目次

閉じる


1

 ドミートリィ・ドミートリェヴィチ・ショスタコーヴィチ*の交響曲第七番を聴くと思い出す。ある東洋学者のことを。

 

 

 

 彼の名はレフ・アレクサンドロヴィチ・ヘタグーロフ。1901年、北オセチア自治共和国のツミという村(アウル)で生まれた。

 兵役を終えてからレニングラード国立大学言語学・物質文化史学部東洋学科(現サンクト=ペテルブルグ国立大学東洋学部)でイラン言語学を学んだ。卒業後は東洋学とはあまり縁のない授業を教える教員になったものの働きながら大学院で研究を続け、1936年に合格した学位論文のテーマは「イラン系諸言語**における性のカテゴリ」であった。

 その年の秋からレニングラード大で恩師フレイマンの講座「イラン言語学概論」の学生を引き受けた。教育活動を続けながら38年にはソ連科学アカデミー東洋学研究所附属の博士課程に進み、40年に終了すると、東洋学研究所の正職員に迎え入れられた。

 1941年6月22日、ドイツがわが国(ソ連)に侵攻したときには、近世ペルシア語、具体的には『集史』の研究に取り組んでいた。

 

 『集史(ジャーミ・ウッ=タワーリーフ)』。

 それはモンゴル帝国の、ひいてはロシアなどその版図となった地域にある国々・諸民族の歴史を研究する上で欠かすことのできない根本史料である。モンゴル諸政権の一つイル=ハン国で編纂され、近世ペルシア語で書かれている。

 

 

 

 

 


* ロシア人の名前は、名前・父称・姓の三つの要素からなる。父称は父親の名前に男子ならオヴィチ(またはエヴィチ)女子ならオヴナ(またはエヴナ)を付けて作るミドルネーム。男の子で父親がアレクサンドルならアレクサンドロヴィチ、ドミートリィならドミートリェヴィチ。ソ連人は非ロシア人でもこれに倣った名乗りをしている場合が多い。名前+父称で日本語の「さん」付け程度の敬意を払った呼び方となる。

 

** ペルシア語、パシュトー語、オセット語など、インド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属する諸言語。なお、イランのペルシア語、タジキスタンのタジク語、アフガニスタンのダリー語は文字や語彙に違いはあるものの同一の言語。


2

 モンゴルの騎馬軍団を率いてユーラシアの大半を征服し、モンゴル帝国を築いたチンギス=ハン。その孫フビライは日本にも遠征軍を送り込んだから、日本の皆さんにもお馴染みだろう(文永・弘安の役、1274年・1281年)。

 

 初代イル(国)=ハン(王)となるフレグはフビライの弟である。彼らの兄モンケがモンゴルの皇帝だった時、フレグをイランに派遣してその国を治めさせたのである。フレグを始祖とする一族が君臨する国なのでフレグ=ウルスと呼ばれることもある。ウルスとはモンゴル語で国の意だが、本来は「人々の集まり」を意味する。民を集め束ねたものがモンゴル的な概念では「国」なのである。

 

 フビライが兄モンケを継いでモンゴル第五代皇帝に即位した後もフレグは彼の宗主権を認め、双方の関係は良好であったのだが、フビライの即位に疑問を投げかける第二代皇帝オゴデイの孫ハイドゥが中国とイランとの交通を遮断したためにイル=ハン国は自立を余儀なくされた(ハイドゥの乱、1260~1301年)。

 

 こうした状態のまま数十年が過ぎ何世代か経るうちにモンゴルの人々の現地化は急速に進み、チンギス=ハンの血統を誇り、祖先の勲(いさおし)を代々語り伝えてきたハン家の人でさえ、学ばなければモンゴル語がわからないようになっていったのである。

 

 さて、元朝で皇帝の位を巡って一族の者が殺し合い、実力のある家臣が皇族の誰を担いで権力を握ろうかと権謀術数を巡らしたように、イル=ハン国でも激しい内訌が続いていた。

 こうした状況を憂えた第七代イル=ハンのガザンは、宰相ラシード・ウッ=ディーンに命じてモンゴルの歴史を調べて史書を編纂させることにした。家臣たちがイル=ハンを軽んじて命令に従わなかったり、ハンの一族の者を権力掌握の道具に使って極端な場合には弑殺したりするのは、彼らが自分たちのルーツを忘れ歴史を忘れ、祖先の立てた勲功、チンギス=ハンに受けた恩義を忘れてしまったからだと考えたのである。

 

 ラシードがイル=ハンの許可を得て国家の書庫に厳重に保管されていた書物を調べ、各部族の故事来歴に詳しい古老に聴取して、西暦で言えば1303年頃までにペルシア語で書き上げたのが『集史』である。執筆の際には、元朝から派遣されてイル=ハン国に来ていたプラド丞相(チンサン)、イル=ハン支配の正当性の根拠としてモンゴル帝国の起こりを詳しく知っていたガザン自身からも親しく話を聞いたという。  


3

 『集史』は、ロシアでは伝統的に『Сборник Летописей(ズボールニク・レータピセイ)(年代記集成)』と呼ばれ、イリヤー・ニコラエヴィチ・ベレジンのロシア語訳が既にある(1858年発行)。

 しかし、ベレジンの翻訳は『集史』の第一部(部族篇)と第二部のうちチンギス=ハン紀まで。そのうえ翻訳の底本として用いられた写本は16世紀に書写されたもので、著者のラシード本人が監修して作成された写本により近いと見られるタシケント写本やイスタンブル写本等古写本とは大きく異なる部分がある。20世紀に入ってからのモンゴル研究の進展もめざましく、ベレジンの翻訳・注釈では時代遅れな点も目立ってきた。

 

 そこで、ソ連科学アカデミー東洋学研究所が新しい『集史』の校訂本を作成する事になった。レフ・アレクサンドロヴィチもこの校訂本作成に携わった一人である。同時にガザンが『集史』編纂を命じた動機と深く関わる『集史』第一部のロシア語訳も行っていた。

 

 

 

 そんな折に大祖国戦争(第二次世界大戦のソ連での呼び方)が始まったのだ。

 

 

 

 怒濤の勢いでドイツ軍はレニングラードをめざして突き進んだ。背後にはフィンランド軍。革命の聖地レニングラードは、いとも簡単に包囲されてしまったのである。


4

 レフ・アレクサンドロヴィチはレニングラードに留まった。バクーに疎開しては、という話もあったが断った。ドイツ軍が攻めてこようが砲撃してこようが我々にとっては屁でもない、と殊更にいつも通りの生活を続けようとするインテリゲンツィヤの意地だったのか。革命の父レーニンの名を冠したこの街を地上から消し去ろうと目論むファシストの思い通りにさせてなるものかというソ連人の負けじ魂だったのか。あるいは『集史』の翻訳を完成させようとする執念だったのか。

 

 『集史』研究にかける情熱は、レフ・アレクサンドロヴィチ自らのルーツに深く関わっていると思われる。しかし、私は彼がそれに強い関心を抱くきっかけが何だったのか、はっきり聞いたわけではない。ソ連で少数民族問題は極めてセンシティヴな問題であり、率直に語る事が憚られる一面もある。しかし、たとえそうでなくとも、多数派民族ロシア人に理解してもらえるまで説明するのはなかなか難しいし煩わしいものだ。

 

 

 

 レフ・アレクサンドロヴィチはオセット人だが、オセットは自称をイロンといい、史書にはアラン、アス等の名で現れる。スキタイを駆逐したサルマタイの一部族アランの後裔といわれ、言語の面から見ればそれはほぼ間違いない。とはいえ、アランの王国がモンゴル西征軍に破られた後、山岳地帯に移り住んだその遺民が周辺のカフカース系民族と交流して現在に直結するオセット民族が徐々に形成されていったと考える方が自然だ。モンゴルとアラン王国との戦いは、『集史』の他にも、モンゴル語の歴史書『元朝秘史』*、明で編纂された漢文の『元史』のいずれにも記されている。アランの一部はモンゴルに仕え、皇帝の近衛軍にアラン人の長が率いる阿速(アス)衛が編成されたくらいだから、モンゴルが一目置くほど有能な戦士集団だったのだろう。その勇猛さはヨーロッパにも鳴り響いたと見え、ハンガリー王に招致されたアランの子孫は今もハンガリーに住んでいる(ヤースと自称している)。

 

 

 

 

 


* 漢字音写モンゴル語で記されたチンギス=ハンの一代記。翻字の特徴からもともとはウィグル文字で書かれていたと見られる。1228年頃の成立。作者不明。『集史』には『元朝秘史』に酷似した箇所があり、ラシードが執筆の際参考にした『アルタン=デプテル』と『元朝秘史』には密接な関係があるらしい。


5

 補給路が断たれたレニングラードでは、1941年11月から42年3月にかけての冬に多くの人が餓死した。食料備蓄を極端に集中させていたために開戦初期の爆撃でほとんどが焼失して、早い段階からわずかなパンしか配給できなくなった。人々は爆撃で死んだ軍馬を食べ、ペットの犬猫を食べ、爆撃された砂糖倉庫の焼け残りの土を食べ、果ては人間の死体から腿肉を切り取ったり、生きた子供を掠って食べる事件も起きたと聞く。

 

 マイナス30度を下回る寒気にレニングラードの北東にあるラドガ湖が固く凍り付いた42年2月の末に、症状が重篤だと診断されたレフ・アレクサンドロヴィチもレニングラードから運び出されたのだが、手遅れだった。移送途中のサラトフで飢餓による衰弱のために死亡した。

 

 

 

 開戦前のレニングラードの人口は250万人を超えていた。43年時点で(封鎖が解かれたのは44年)、それは70万人程度になっていた。その差分の中には、兵士として前線に行った者、疎開した者も含まれてはいる。しかし、レニングラード戦線での死亡率は恐るべきものであったし、開戦当初は軍事情報の欠如から、ドイツ軍の進撃してくる方向に疎開列車を走らせてしまい、疎開児童数千人が死亡する事故さえあった。ラドガ湖氷上道路が開通してからも疎開計画は杜撰で道中の宿所も食料も用意されておらず、加えて吹きさらしの湖上で避難民を乗せたトラックはドイツ軍機の格好の標的となった。レニングラードっ子は、何が「生命の道」だ、「死の道」ではないかと陰口を叩いたものである。

 

 そういったわけで、この冬のレニングラードにおける正確な死者の数は今でもわからない。

 

 

 

 包囲されたレニングラードに捧げられたショスタコーヴィチの交響曲第七番は、このもっとも困難な冬が終わろうとしていた1942年3月5日、ショスタコーヴィチの疎開先クイブィシェフ(現サマラー)*で初めて演奏された。大きな反響を呼んだこの交響曲のスコアはマイクロフィルム化され、テヘラン経由で同盟国に送られた。レニングラードでの演奏会はその年の8月9日、ドイツ軍包囲の下で開催されたのだった。

 

 

 

 

 


* クイブィシェフでの初演はサムイル・サモスード指揮、ボリショイ劇場管弦楽団。レニングラード初演は、カルル・エリアスベルグ指揮、放送交響楽団であるが、飢餓のために演奏できる楽団員は27名しか残っておらず(演奏には80名必要)、市内ばかりでなく前線やバルト艦隊の軍楽隊の中からも奏者がかき集められた。



読者登録

ぼりさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について