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付記

付記 その1 

・戸口 枝幸郡の戸数人口を調査すると、明治30年、31年は不漁の余波で減少したが、32年以降増加した。これは全く砂金の影響である。 

 明治30年戸数771人口3,112、31年戸数678人口3,080、32年戸数786人口4,044、33年戸数829人口5,874 

 次に枝幸4ケ村の人口は枝幸村4,010、頓別村64、歌登村348、礼文村341で、アイヌ人は全郡を通じて32戸129人である。 

・学事 枝幸村には尋常高等小学校があり、1郡4ケ村の児童を教育している。教員は4人、学齢児童は831人だが就学児童は265人である。同小学校には米国トッド博士の寄贈した英文書籍千余部があるが、これを開く者は無く誠に惜しむべき事である。 

・衛生 同地で開業する医師は5人で従来から開業していたのが2人、試験及第者は3人である。同地及び砂金採取地で風土病と言うべきものは無いが、採取地では脚気症、マラリア病があり採取夫は売薬を服する。重症の時は直ちに枝幸で加療するので、山中で死亡する者は少ない。 

・物価 枝幸に運ばれる全ての米、塩、雑貨は小樽から来るもので、その価格は小樽より2割~3割高価である。 

・交通 

(一)枝幸から札幌や小樽に行くには陸路と海路がある。 

 陸路 枝幸から湧別まで(海岸通)116㎞、湧別から永山まで(中央道路)139㎞永山駅から札幌駅まで(汽車)148㎞、札幌駅から小樽駅まで(汽車)33㎞ 

 馬1頭1里20~25銭、汽車賃下等で小樽~永山間1.98円 

 海路小樽港まで328㎞ 都丸は定期船で枝幸寄港後は稚内に寄港し30時間で小樽着。その他の汽船は諸処に寄港し40時間を要す。旅客運賃は下等で3.8円。 

(二)枝幸と各砂金事務所、各事務所間の交通路 

 枝幸からウソタンナイ廣谷、輪島事務所に至るには海岸に沿ってメナシに達し、ウバトマナイを上って馬道左の沢を下り馬道落合事務所に至る。行程26㎞。 

 枝幸からペーチャン小川廣谷、長内事務所に行くにはホロベツ下原野を過ぎ、パンケナイ支流を遡り山上を過ぎて小川落合に下る。行程28㎞。 

 ペーチャン鹿野事務所へ行くにはパンケナイ支流を上り山上に達した後左折して下る。 ウソタンナイ事務所からペーチャン事務所に行くには中の川を上り、ペーチャン上流に出て流れに沿って下る。行程28㎞。 

 枝幸からパンケナイ廣谷事務所に行くには海岸を通りトイマキ川左俣を辿って山上に出て下る。行程20㎞。 

 パンケナイ事務所からウソタンナイ事務所へ行くには、パンケナイ上流からウソタンナイ上流に出て下るべし。 

 枝幸からケマモナイ事務所に至るには、新設のウエンナイ道路を通りウエンナイ支流を上りケマモナイ支流ヨハルナイを下り本流に出て少し上る。行程12㎞。 

 ケマモナイ事務所からパンケナイ事務所に行くには支流を遡る。山を越えパンケナイ谷に下って上る。行程12㎞。 

・通信 枝幸には三等郵便電信局があり通信事務を取り扱っている。郵便物は陸路と海路があり、札幌から発する郵便物は4日で到着する。電信線路は海岸を通って湧別に至り、中央道路を軽便鉄道に沿って走るものと、天塩海岸に出て南下するものと二路ある。 

・金融機関 銀行は無く取引は不便が多い。郵便為替によるものの外は、人を使って輸送するか船便に託して送る。 

・漁業 枝幸は農耕に適さないが早くから市街があり多くの住民が住んでいる。これは北見沿岸が漁業に適しているからである。このため漁業の盛衰によって枝幸の運命が左右される。27~32年の収穫高は次のとおりであるが、近年この地が如何に不漁に苦しんでいたかを示すものである。27年3,432万石、28年3,502万石、29年4,556万石、30年2,975万石、31年1,073万石、32年466万石。 

 上記の収穫高は鰊絞粕、身欠鰊、胴鯟、大鮃、絞粕、煎海鼠、長切昆布、藍切鱒、藍切鮭の各収穫石数の総計である。これによれば枝幸の漁業は29年から衰退し、32年には産額が29年の10分の1に減った。このため漁業で生活していた住民は衣食に窮し、漁業生活は一転して砂金生活となった。仮に漁業が挽回して数年前と同じになればこの両業が成り立つかは疑問だが、元来この地の漁業は鰊や鮭で、鰊漁期は4~6月、鮭漁は9~11月である。そして砂金採取業は天候や停止期間の結果、多くはこの期間採取を行う事ができず漁期に全く関係が無いので、両業の期間は衝突するものではない。 

 ある漁業家によれば、砂金業勃興以来その販路が大いに拡大され、今日では却って網数が増えたと言う。また鮭鱒保護のため毎年9~4月は採取業を停止するので、産卵に被害を与えるものではない。故に枝幸における砂金採取業は操業期間と漁期は衝突せず、採取方法について十分研究し、水産業と共に永遠の事業とすべきものである。 

・農業 海岸には耕作に適する土地は無く、幌別下原野は泥炭地で開墾に適さない。幌別上原野は32年開拓に着手され、檜垣農場、佐賀農場、片岡農場があるが、開始後日が浅く小規模なものである。農場開始と砂金発見の時期はほぼ同じなので、農業が砂金業のために如何に影響を被ったかは察するに余りある。 

 檜垣農場は明治30年54万坪の貸付を受け、31年小作13戸により開墾を開始した。そしてその年の7月交恍川支流から砂金が発見され、枝幸住民挙げて稼業する勢いであったが、農場小作人は砂金採取を行わない様説得した。32年には砂金の産出益々多く、農場内の支流でも砂金が発見された。ペーチャン発見の時、農場はこの通路に当たり毎日数百人の採取者が通行し窃盗に及ぶ者も現れた。農場から採取地までの物資の運搬は白米2斗に付き4円を得る割合なので、やがて小作人は砂金採取や物品運搬夫に転じ、砂金業は幌別原野開拓に影響を及ぼしたのである。そしてこれまで開墾した10万坪が荒野に帰す事を憂慮し、善後策を検討するに至った。また農場の付近で貸付を受けた者は、砂金採取業が盛況な間は開拓の実を挙げる事ができないと思い、その土地を返還する者もあったと言う。 

・労銀 枝幸市街における労銀 

大工80銭、左官80銭、畳職1円、木挽職80銭、屋根職70銭、出面60銭、臨時雇いの人夫は1円~1.2円の労銀が普通だが、常雇の者は通常50銭と食料(20銭)を給す。枝幸から各砂金地への運賃は次のとおり。但し1人の運搬量は通常30㎏~37㎏である。33年、ペーチャン2~3円、ウソタンナイ1円~1.5円、パンケナイ1.2円、34年、ペーチャン1.2円、ウソタンナイ0.8円 

・住居 枝幸市街地は勿論、沿岸漁村にある家屋は角材板等で作る完全なものだが、採金地は仮住まいに過ぎず、事務所や付属売店を除き雨露を凌ぐ粗雑なものである。その構造は樹木を切り掘っ立て小屋を作り、屋根には天竺、木綿、木葉を敷き、周囲は樹皮熊笹を使い、床には厚く熊笹を敷いたものである。大きさは小さいものは1坪半、大きいものは数十坪になるものもある。 

・木材 枝幸郡の山林は官有林で、枝幸には森林看守駐在所があり、検査員1人と看守3人が駐在する。木材熊笹蕗を必要とする者は、同所で払い下げを出願し、吏員が実見して許可されるがその払い下げ額は、燃料1棚35銭ナラ、ガンビ、ハンノキ、イタヤの類、建築用尺〆15銭ナラ、ガンビ、ハンノキ、イタヤ、同21銭セン、シコロ、カツラ、同22銭トドマツ、エゾマツ、倒木燃料1棚18銭、建築用尺〆17.5銭、副産物熊笹三尺〆0.5銭、蕗三尺〆0.5銭。砂金採取許可人の多くは、その区域内の樹木はあらかじめ払い下げを受けておき、採取の際や小屋掛けに便利にしておく。 

・警察取締 砂金地取締のため33年警官が配置され、採取許可人も誓願巡査を雇い許可地を取締った。これらの主な任務は密採者を警戒し捜査処分を行う。次に同年中配置箇所員数を示す。枝幸出張所警部1巡査5、ウソタンナイ出張所警部1巡査7、ペーチャン出張所警部1、巡査5、誓願巡査は、ウソタンナイ派出所誓願員7、請願者廣谷季太郎外2、パンケナイ派出所誓願員5、請願者廣谷季太郎外2、ウソタンナイ派出所誓願員2請願者秋山源蔵、ペーチャン派出所請願員8、請願者輪島仙太郎。 

34年には採金景況が衰えたため、密採者が少なく請願巡査は無くなり官設出張所のみとなった。枝幸出張所警部1巡査4、ウソタンナイ出張所警部1巡査2、ペーチャン出張所警部1巡査1。 

付記 その2 

 引用書目 本編を草する私は、遠い場所に居て参照すべき書籍に乏しく、公務は正誤の暇を与えず、早々に稿を成したため杜撰を危惧する。 

 西山正吾氏編北海道鉱床調査報文、石川貞治氏著北海道鉱物調査報文、神保小虎氏著北海道地質図説明書、北海道庁拓殖公報、渡邊渡氏著鉱床学大意、日本鉱業会誌、地質学雑誌、地質要報、富士図幅地質説明書、明宗応星著天工開物、外洋書15冊略 

 


この本の内容は以上です。


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