閉じる


<<最初から読む

3 / 7ページ

第Ⅱ編

第Ⅱ編 地質

 枝幸郡を構成する岩類は、水底に堆積して成層した水成岩及び地下から噴出した溶岩による火成岩及び鉱床で、これを分類すれば以下のとおりである。

A水成岩 古生紀層、中生紀層、第三紀層、第四紀層(洪積層、沖積層)

B火成岩 古火成岩(輝緑岩、蛇紋岩)、新火成岩(安山岩、流紋岩)

C鉱床

 この分布について、古成岩は頓別川~幌別川間の大部分を占め、その北端はウバトマナイで海岸に達する。中生紀層は頓別川上流に分布する。第三紀層は古生紀層の周囲に発達し、洪積層は頓別幌別両渓谷及び海岸の原野を構成し、沖積層は諸河川の流れに沿って今なお成生している。輝緑岩、蛇紋岩は古生紀層の所々に露出し、安山岩、流紋岩は第三紀層に存する。

第1章 水成岩

古生紀層 この地層は最も砂金に関係が深く、主たる産金地は皆この地層の渓間にある。その構造は複雑で層向きは一定ではない。この地層を構成する岩類は粘板岩、砂岩、石灰岩、輝緑凝灰岩、珪岩で、角閃岩は斜内岬に見られる。理学士福地信世氏は地学雑誌第94号で枝幸に発達した古生紀層の順序を以下の様に記している。

 Ⅲ 砂岩及び粘板岩(輝緑凝灰岩及び珪岩砂岩及び粘板岩)

 Ⅱ 粘板岩(少しの砂岩を含む)

 Ⅰ 輝緑凝灰岩(石灰岩砂岩、粘板岩及び珪岩)

 そしてⅠをペーチャン層、Ⅱをパンケナイ層、Ⅲをオネンカラマップ層と名付け、秩父層の中部と類似するとしているが、私の調査は以下のとおりである。

 Ⅲ 粘板岩及び砂岩(少しの石灰岩珪岩及び輝緑凝灰岩を含む)

 Ⅱ 砂岩粘板岩珪岩(輝緑凝灰岩石灰岩)

 Ⅰ 珪岩

 Ⅰはエトルシュオマップの上流、フーレピラウンナイの上流、オネンカラマップの上流に発達し、Ⅱはウソタンナイ、ペーチャンの大部分及びパンケナイの上流に発達し、Ⅲはペーチャンの一部とパンケナイの大部分に分布している。

第三紀層 この層は古生紀層の両側に発達し、オチキリ、トイマキ、ウエンナイ及び幌別川の本支流を横切り、頓別川を貫通している。この層を構成するのは粘板岩、頁岩、砂岩、蛮岩、角蛮岩、凝灰岩、凝灰質砂岩である。

第四紀層 洪積層は頓別川や幌別川の原野を作っている。岩種は砂礫壌土、泥炭等で、幌別原野には泥炭層が発達している。沖積層は現河床に生成しつつある砂礫泥層及び河岸段丘で古生紀層及び第三紀層が削られたものである。特に注意すべきは古生紀層に発達する沖積層は砂金を多く含むという事で、これについては後編で詳述する。

第2章 火成岩

古火成岩 輝緑岩は古生紀層中に輝緑凝灰岩を伴って現れる。蛇紋岩は岩脈が古生層を貫いて現れ、色は淡緑色、暗緑色の光沢があるものと曇ったものが見られる。

新火成岩 流紋岩や安山岩は溶岩状や岩脈で現れる。流紋岩はチカヘノソ海岸オイキリや幌別原野の東方にある丘陵の道路側に露出するもので、淡赤色や淡褐色の部分が明らかに流紋状を呈して所々に石英の粒が見られる。

 安山岩は枝幸町から斜内岬に至る所々に現れ、層向きに従って海中に延び岩礁を作っている。シュマオトマリの岩礁は、淡灰色で角閃石や長石の結晶が見られる。枝幸町の海岸にあるものは暗黒色で光沢があり長石や輝石が見受けられる。輝石はやや分解し、その跡に鉛色の石英が充填したものがあり、トイマキでは板状構造のものも見られる。

第3章 鉱床

 枝幸地方で発見された鉱床は金、マンガン、石油、水銀、砂金等であるが、ここでは金鉱脈について述べる。金鉱脈は多数あるが、未だ有望と認められるものは発見されていない。鉱脈は石英脈、珪灰脈、灰質脈の3種であるが、これらは輝緑凝灰岩を貫き又はその近くで発見される。

石英脈 ペーチャン小川の合点で石川貞治氏が試掘した場所は、輝緑凝灰岩が硫化鉄で染まり、脈石は石英で硫化鉄を含み、盤際では地山の破片を含んでいる。その坑内と露頭で採取したものを調べると、石英は燧石質で塊状、乳白色で青黒色の点があるもの、結晶質で赤色を帯びるもの、一旦壊れた破片が再結合したもの等がある。そして赤色を帯びたものは肉眼で見える金粒を含むが、その金粒には窪みがありその長さは0.9㎜である。またある金粒は粒状に見える事がある。露頭から採取された石英は一部赤黄色のものに金粒を含む。小川の流れはこの露頭の下にあり、流れが鉱脈と一致するので、小川の落口に砂金が豊富なのはこの鉱脈と関係があると言う者がいる。

ウソタンナイ秋山事務所の上流は脈幅が30㎝あり、地山は輝緑凝灰岩、石英は淡い鉛色を帯び、乳白色の方解石が混入し硫化鉄を散見する。ウソタンナイ中の川は、白色結晶質で一部分破片の再結合した状態で方解石が混入しその幅は15㎝である。同川の下流は白色結晶質で中央は石英の結晶が犬牙状でその幅は3㎝である。パンケナイ廣谷事務所の上流は、地山が輝緑岩で石英は割裂し、下盤は粘土層で上盤には石英の細線がある。その幅は3~6㎝、地質調査所で分析したところ、金の含有は無くわずかに銀の痕跡があると言う。

珪灰脈 ウソタンナイ中の川は対称構造で中央は乳白色の石英が晶洞をなし、その両側は灰白色の方解石、外側は緑泥質物を含む方解石でその幅は15㎝である。

灰質脈 ウソタンナイの下流は、方解石の緑泥質物を含むものと乳白色を帯びるものとが相対し、外側には石英が薄く存在している。支流馬道の落合から数百m上は、塊状又は暗灰結晶質で少し硫化鉄が見られる。ウソタンナイ秋山事務所の上は暗灰色微粒状の石灰質で、白色の方解石及び硫化鉄の結晶が見られる。工科大学採鉱治金学科で分析した結果、ペーチャン小川における石英脈は金0.0023、銀0.0015を含み、その他の石英脈も金の痕跡と1万分の1以下の銀を有している。 

 


第Ⅲ編

第Ⅲ編 砂金 

第1章 砂金の存在する場所

 枝幸砂金地で、砂金の根源は何処かと聞けば、頓別川の右岸、幌別川の左岸に位置するポロヌプリ山(860m)であると答える。砂金地として有名なウソタンナイ、ペーチャン、パンケナイはいずれもポロヌプリ山を水源とし、同山は付近の山より高いのでその様な想像を抱かせるのだと思う。神保氏及び福地氏は、ポロヌプリ山は輝緑岩や輝緑凝灰岩から成るが、特に砂金の根源と認める事実を発見できないと言う。砂金はどの様な場所に存在するかという問題を解決するには、まず砂金と地質との関係を研究しなければならず以下これを述べる。 

(1)砂金の分布と地質との関係 

・ウソタンナイ 支流赤井川から上流は砂金が多く下流は少ないが、上流は古紀生層が広がり下流は第三紀層となっている。 

・ペーチャン 支流ニセイパオマップから上流は砂金が多く下流は少ないが、地質は上流が古生紀層で、支流モービルカナイの合点は第三紀層であるところを見ると、ニセイパオマップとの間に地質の変遷があると思われる。 

・パンケナイ 古生紀層と第三紀層の境界は支流ポンパンケナイの合点付近であり、砂金が多いのはその境界より上流の古生紀層域である。 

・ケマモナイ 上流に砂金が多いがそこは古生紀層地帯である。 

・ウエンナイ 第三紀層地帯を流れているが少しの砂金はあると言う。 

・トイマキ及びオチキリ 砂金は第三紀層域では少ないが、古生紀層域には豊富である。 

 この様に古生紀層域に砂金が豊富なので、私はその状況を問わず砂金の根源は古生紀層域にあると信じて疑わない。次にこの古生紀層が砂金の根源たるべき金鉱床を保有したのは何時かとなると、この古生紀層は変質したものであるので、地層成層時に鉱物を含んでいたかは不明である。しかし今日諸岩類に金の存在を認めず、金の鉱脈と思われるものを散見するのみで、仮にこの鉱脈を砂金の根源とし、ここに発達する古生紀層から新しい地層を見ると、沖積層中に砂金が存する場所は各川筋に認められ、洪積層の砂礫層中に存するものは頓別川河口で見られ、福地氏はオチキリに露出する第三紀の蛮岩を破砕して洗浄し僅かの金粒を発見したと言う。この様に古生紀層以降の層に砂金が存在する様子を見れば、古生紀層が金を保有した時期は古生紀層の成層以降で第三紀層成層以前である事は明らかである。 

 古生紀層が発達した地域は一様に砂金が豊富かと言うとそうではなく、明治32年以来の操業状況から見ると、ウソタンナイでは赤井川に産金地が多く、本流を上りババ殺し(川岸の巨木の下に産金が著しく無我夢中で掘ってその木が倒れ、婦人が亡くなった事からこの名が付く)の近くまでは少ないが、それより上流は非常に豊富で馬道では32~33年に盛況を極めた。また、エトルシュオマップは砂金が採れずナイ川とさえ呼ばれたが、33年9月769gの塊金を産出した。 

 中の川は32年以来好況である。ペーチャン上流では豊富だが、そこから小川までの間は悪く、小川は32年非常に採れ33年も盛況だったが34年はほとんど皆無であった。小川合点からニセイケショマップまでは常にそこそこの収穫がある。パンケナイの上流は32年以来産出が多い。トイマキ上流やケマモナイ上流も33年に盛んに採取された場所である。要するに砂金の豊富な場所は一部に集中しており、赤井川、ウソタンナイ、パンケナイ、ペーチャンの各上流、小川、ニセイケショマップ、ケマモナイ、トイマキの上流である。 

(2)砂金の分布と地形との関係 

 地形の変化が砂金の分布にどう影響するかを調査すると 

(一)二つの流れが合流する場所は水勢が変化し、ある部分はお互いの勢いで緩やかとなり、ある部分は急になる。前者の場合には流れる砂礫が沈殿しこれに伴って砂金も集積する。例えばペーチャン本流と小川との合点から2~300mの間、ウソタンナイ本流と馬道の合点の下流に砂金が多い。 

(二)狭い水路を流れる川が急に広くなる場所は、流れが穏やかになり砂礫、砂金を沈積する事が多い。ウソタンナイ中の川中流や、オチキリ河口から少し上った所がそうである。

(三)滝壺に砂金は少なく、滝の落ち口上部に豊富な事がある。例えばペーチャン小川やトイマキである。またウソタンナイ中の川の滝では、滝壺より少し下流には砂礫はほとんど無いが、砂金は底盤の割れ目に挟まっていると言う。 

(四)川が方向を変える場所は、川裏に当たる所に砂礫の沈殿が多く砂金が多い。ペーチャン小川は本流に合流する300m程上流で直角に曲がり、その曲がり角以下が特に豊富である。ウソタンナイ馬道支流合点はほとんど直角に曲がっているところがあるが、その下に砂金の豊富な場所がある。しかしその場所は川裏に当たらず、川の衝突した側即ち川表に当たる、これは川水が一旦衝突して跳ねた為に、衝突した側に緩流を生じたのではないか。あるいは昔、川が衝突した岸を縫って流れ砂礫は川裏に沈積していたが、その後川筋が曲がり今日の様に川表に沈積が多い状態になったかもしれない。要するに、川の流路はその変遷が時々刻々であり、砂金の沈殿する事情も時々変化するので、単に今日の状況で砂礫中の砂金の分布を推測するのは難しい。 

(3)砂金の分布の位置 

 ポセプニー氏がウラル地方の砂金鉱床を研究した結果、砂金は次の場所に存在すると言う。(一)風化によって生じた土砂中では鉱床の上。(二)現在の川の砂礫。(三)川底の割れ目。(四)川筋の不透質物の中。(五)擬底又は擬底盤の上。(六)真の底盤の上。(七)分解した底盤の上。 

 私は枝幸における砂金の位置について(イ)川床にある砂金、(ロ)川岸の土地にある砂金、(ハ)山の斜面にある砂金の3点に分けてポセプニー氏の説と比較して述べる。 

(イ)川床(流水の部分、砂礫の部分)にある砂金 

 流し堀や樋流しの結果、底盤に達しない途中の砂礫中にも砂金は存在するので、浅い部分を洗浄しても相当の収穫がある。一般には底盤に近い程砂金は豊富なのだが、ナイ川で産した大金塊も底盤上ではなかったと言う。樋流しの方法で川床を露出し土砂を洗浄した後の盤を見ると、砂金はその窪みや砂中に豊富である。そして、底盤の割れ目や地層の間も砂金が豊富なので、良く破壊して洗浄すると目視可能な金がある事は珍しくない。 

(ロ)川岸の土地(河岸段丘)にある砂金 

 地表は表土で覆われ樹木が繁茂しているが、その厚さは0.3~2mである。その下は砂層、礫層が重層している。表土にはほとんど砂金が無いが、砂層、礫層の上部には少しの砂金がある。そして下部の酸化鉄で赤色の部分は砂金が豊富で、底盤に近づく程収穫が多い。ここは過去に流水によって生じた土地なので、底盤の岩石の表面は分解しつつあるため、道具を用いれば容易に採取することができる。 

(ハ)山の斜面に存在する砂金 

 砂金は山の斜面にも存するがその量は少しで山麓に下る程豊富になる。赤井川で33年に多く産出した場所を見ると、川岸は岩石が3mの高さで、その上にある表土は山の斜面と同一の傾斜があり、河岸段丘の土砂の様に外から来て堆積した様には見えない。表土を掘って見ると、川床や段丘で見る丸みを帯びた砂礫は無く、土壌の中には砂金の含有が多く塊金も採取された。この露出岩石面では鉱床と認められるものは見られないが、砂金はカリフォルニアの台上砂金、豪州の漂流砂金ではなく、明らかに現地砂金鉱床に属すべきものと認められる。この例はウソタンナイ上流、中の川下流、ペーチャン小川において見られる。ペーチャン上流とウソタンナイ上流の水源や小川の水源は厚い土壌に覆われ、そこの砂金には松葉金と称する檜葉形をしたものが多い。 

 以上、特に山の斜面の場合には、樹木の根部において結核状塊金の産出が多く、これは最も注意すべき事実である。これらの砂金は流水に運ばれ樹根に遮られたため、又は根の無い部分は流されて根の部分だけ豊富になったと言う者があるが、その説はいずれもおかしい。何故ならば、根の部分の土砂とその近傍の土砂とは同時期に堆積したと認められ、土砂が堆積した後に樹木が生えたのであり、後に運ばれた金が停滞したと認めるべきではないからである。なおこのことについては後に詳述する。

第2章 砂金の含有量 

 枝幸砂金地において、元々どれ程の砂金があったかは調べようもないが、密採時代、良い場所を見つけても他人に横取りされるため、川にテントを張り巡らして占領し、小川合点付近は密採者のテントで覆い尽くされたという。合点から4~500m上流のテント内で多量の産金があるという噂が流れ、近くの婦人がバケツ1杯の土砂を貰って洗浄すると60gの砂金が採れたという。これを基に計算すれば、土砂6㎥当たり66㎏の砂金がある事になるが、この様な事は大して珍しい事ではなかったという。 

 砂金は新たに供給される場合もあるが、一旦底盤まで掘った場所では、僅かの年月で再び稼業に耐える含有量になる事はない。朝鮮では毎年同じ場所でほぼ同じ量の砂金が採れると言うが、これは前年採取した跡に新たに供給されたのではなく、前の採取が雑だったという事に他ならない。枝幸でも一旦採取した跡から砂金が採れた例は少なくなく、昨年トイマキで再三繰り返し洗浄した土砂を洗って45gの塊金を得た事があるが、これは前の採り残しにすぎない。このため多量の収穫があるのは新規の場所であり、全体的に見れば砂金の含有量が年々減少する事は当然である。 

 次に採取の成績によって調査した土砂6㎥当たりの砂金の含有量を記す。 

・明治33年度 ウソタンナイ本流ババ殺し20g、同所より100m上16g、馬道落合近傍川の曲がり角5g、上流二股の右沢3g、同所より2~300m上3g 中の川本流と落ち口より2~300m上199g、上流の二股地5g 馬道落合4~500m上88g、上流二股の辺59g、二股の右沢4g ペーチャン小川滝上の部分64g、同35g、上流55g、同178g、ペーチャン本流小川の落合付近70g、同46g、ニセイケショマップの落合より200m上9g、ニセイパオマップの落合より500m上4g 

・明治34年度 ウソタンナイ本流馬道落合より100m上4g、二股の左沢12g、同300m上5g 中の川中部22g、同数百m上7g、二股より100m下2g ペーチャン本流小川落合より2㎞下3g 

 この様に、34年の含有量は33年に及ばず、32年に比べれば尚一層の差がある。このため初年度に収量の多い場所も次年度はほとんど採れないので、採取者は他の場所や量が少なくて掘らなかった場所を掘る事になる。例えば馬道では川の中は32年に堀り、33年は川辺の平地を掘り、34年ではほとんど採れなくなっている。ペーチャン小川は31年来有名な産地であるが、落合付近は31~32年に盛んに掘られ、33年は川岸と上流を掘り、34年はほとんど採れず他の場所に移動する事になる。そして砂金が豊富な場所は次第に衰退し、総採取額は減少するが、採取技術が進歩したため一人当たりの採取量は良好であり、尚有利な事業として稼業されるのである。ちなみに世界の有名な砂金地における6㎥当たりの含有量は次のとおりである。 

西部サイベリヤ7~11g、トボルスク4~8g、北エニサイ10g、南エニサイ10g、ネルチンスク22~35g、レナ51~241g、ドールキン5g、カイカキット7g、支那境界1g、オレクマ2~3g、ウイチム6~10gウラル地方ボゴスロースク1g、エカチリンブルグ2g、南ウラルコッチュカル1g、豪州セメント27g、ニュージーランドの海岸1~18g、北米カリフォルニア1~399g、ノーム岬アンビル渓谷366~732g、センター渓谷上層73~122g、同下層366g、ノームより西5マイル366~854g、同東北1.5マイル36g・台湾基隆川2~10g 

 この様に、枝幸地方の含金量はノーム地方には及ばないが、その他と比べれば遙かに豊富である。

第3章 砂金の流下 

 砂金が流水で移動する事は珍しくないが、ここでは砂金の移動が激しい事について述べる。ウソタンナイの激流が岩にぶつかる所で、水面のコケを摘めば非常に微細な砂金を見るだろう。この様な金の細粒は浮き金となって浮遊する事は良く知られており、一旦浮くとなかなか沈まず遠くまで流れ下るのである。私は10年前甲州の金山に行ったが、そこでは搗鉱は搗鉱器の前板を流れ、沈殿池やセットラーを通り、毛布を敷いた樋を45m流れる。この様な装置で浮き金があれば早々に沈殿するはずなのだが、ようやく樋の末尾に落ち着くのを見た。この様に枝幸でも砂礫をネコに流す時、ネコの砂を揺り板で扱う時はもちろん、樋流しで扱う時にも金の微片は浮き金となって流出するのである。 

 馬道川とウソタンナイの合点は、32年に採取したところであるが、33年に2組の採取者が掘っていた。当時、枝幸では1人1日3分~9分の収穫があったが、この2組はいずれも頑健で採取に熟練した者なので、ここが不利だと思えば他に良い場所を探す事はたやすいのに、頑としてここに止まったのは、この場所が他に比べて有利だという事に他ならない。当時ここの入場料は1人2匁で、食料は1人16銭を要するので、仮に人数を10人として計算すると入場料=2×10=20匁、食費0.16×10×30=48円÷4=12匁で、彼らが必要となる経費は月32匁となり、その他の費用を計算すれば、実際の収穫は経費の倍以上になると見るべきである。仮に月32匁のみとしても、この区域に7ヶ月も滞在して相応の収穫があるのはおかしな事である。これは上流が攪拌されて動きやすくなった土砂が砂金と共に流され、その水勢が弱められ、この地に多量の沈殿を生じさせたものであろう。34年においてもペーチャン小川の合点で操業する者は少なくなく、これらの砂金は上流から流下したものと考えられる。

第4章 砂金の大きさ 

 砂金は、前章で述べた様に微粒や細片もあるが、大きいものは数百匁になるものもありそれを称してナゲットと言う。私は人工の金製品と区別して、自然塊の意義を適切に表す語として塊金という用語を用い金塊とは言わない。 

 支那においては、山石中の大きいものを馬蹄金、中位のものを橄欖金、帯袴金、小さいものを瓜子金と呼び、水沙中の大きいものを狗頭金、小さいものを麩麥金、糠金と呼ぶ。枝幸地方においては、川の中から得られるものは小さいものが多く、両岸を掘ればやや大きいものもある。川では下流で産するもの程小さく、ウソタンナイはババ殺しより下は粒が小さい。ペーチャンでは小川から2㎞下れば小さくなる。 

世界の有名な砂金地の大塊金の主なものを次のとおり紹介する。 

北米カリフォルニア州1854年72㎏、カラベラス郡カルソンヒル1854年59㎏ 1850年56㎏、オーストラリア1858年70㎏、バララットウエルカムストレンジャー同68㎏ 同ウエルカム1857年54㎏、エグレストン氏著「治金書」(1890年版)によれば、南豪においては1850年にサラーサンズより83㎏、それより大きい塊金がメロー川から出たと書かれている。しかしシュマイセル氏著「豪州の金田」は1895年に渡豪して調査した結果を1896年に出版したものなので前者より正確と考える。ロシアウラル不詳35㎏、サイベリヤ1842年35㎏、1899年B.uH.Zeitungに南米チリで採取した152㎏の世界一の塊金が掲載された。しかし、他にチリで塊金を産したとの記事を見ないのでこれには疑問を持っている。北米アラスカにおける塊金は前者と比較するには足りないが、クロンダイク933g、ノーム岬611g~766g 

 日本においては昔から北上川、吉野川、甲州早川、最上川等の砂金地があるが、過去に大塊金が出た事はない。ただ、明治20年駿河国阿倍郡日陰沢金山の渓流で発見された382gの塊金が日本の塊金発見の始まりである。その塊金は小判形をして9㎝×4.5㎝×1.2㎝で56gの白色珪石を噛んでいたという。枝幸で一昨年ウソタンナイ支流ナイ川合点200m上流の砂礫から採れたものは、重さ768gで、我が国における未曾有の大塊金である。その塊金は楕円形で短径の一端が欠け、10.5㎝×6㎝×2㎝で表面は角が無く全体に丸みを帯びている。所々緩やかな窪みがあるが、生成の際どの様な原因で生じたか調査する由も無い。この塊金の品質は不明だが一匁4.7円で売買された。その他、昨年夏ウソタンナイ秋山採取地で1,125gの塊金が出て4人の人夫が4分して売ったという噂があるが信用できない。 

 塊金はパンケナイ、ウソタンナイは多いがペーチャンは少なく、以下枝幸から出た75g以上の塊金を記す。33年9月768gウソタンナイのナイ川、32年8月738gパンケナイ、34年8月562g同、34年6月510g同、34年8月459gウソタンナイ中の川、33年6月450gパンケナイ、34年7月401gウソタンナイ中の川、34年8月378g同、32年5月281gウソタンナイ、33年5月277gウソタンナイ、33年6月266gウソタンナイ、同225gケマモナイ、33年7月217g同、同198gウソタンナイ馬道、32年7月187gパンケナイ、33年8月187gペーチャン小川、34年8月187gウソタンナイ、33年7月180gパンケナイ、33年8月161g同、33年6月150gウソタンナイ赤井川、33年9月142gオチキリ、32年6月138gパンケナイ、32年8月112gトイマキ、33年8月105gペーチャン小川、32年7月103gトイマキ、同101gパンケナイ、35年3月93gトイカンベツ、34年9月90gペーチャン小川、33年10月82gトイマキ通称炭釜の沢、33年7月78gパンケナイ、33年6月75gウソタンナイ赤井川。

第5章 砂金の形状 

 枝幸で産する砂金は、滑らかで丸みがあるもの、結核状、角があるもの、角のある細粒が集合した様なもの、ゴマの種の様なもの、植物の繊維の様なもの、檜の葉の様なもの、細長く先のとがったもの、コケの様に細線が錯綜したもの、小さな鱗片の様なもの等がある。また277gの塊金は表面がうねり大脳のひだの様である。ウソタンナイのものは丸みを帯びて滑らかで、緻密な粒状のもの、板状のもの、鱗状のものがある。そして、下流に産するものは小さな鱗片状のものが多い。ペーチャン上流では奇形の砂金を産し、小川合点200m上流は角があるもの、折れた様なもの、石英粒を含むものがある。小川合点下流1,500mは鱗片状、板状で粒状又は丸みを帯びたものがあり、小川では粒状で角のあるもの、折れた様なもの、コケ状のもの、繊維状、木の葉状のものもある。ニセイケショマップでは滑らかな細片、板状のものが多く、折れた様なものもある。ペーチャンの砂金はウソタンナイに比べれば粗造なものが多い。パンケナイは丸みがあり角のあるものはほとんど無い。ケマモナイは板状で丸みがあるもの、折れた様なものもある。オチキリ、トイマキは丸いものが多い。木の葉状の松葉金と称するものは、ペーチャン小川、ペーチャン中の川、ウソタンナイ中の川、パンケナイ中の川で見た。私がトイマキで見たものは外部が滑らかな卵形で一部分隙間があり、その縁はギザギザして木の葉状のものに酷似している。これは木の葉状のものが折れ曲がり表面が摩滅されて生じたものではないだろうか。だとすれば木の葉状のものは小川だけではなく、枝幸砂金地の各河川の上流でも発見できると思われる。

第6章 砂金の品質及び色 

 砂金は山金に比べれば純度が高く、深い場所にある砂金は上層にあるものより品位が高い。これは砂金が各種の塩化物を含んだ水に触れたためであるが、枝幸ではここで言う深い場所に埋蔵された砂金は無く、皆浅い砂中に存するものである。枝幸の砂金を分析すると次に示す様に区々だが、表面だけは微量の塩化物に作用され、純粋な金に覆われているため甲乙付けがたい。ペーチャンの砂金は美しい金色であるが、溶解すれば白みを帯びて真鍮色となる。これは明らかに表面の品位が高められている事を示すものである。 

次に各地の砂金の分析結果を示す。(1000分中) 

ウソタンナイババ殺し金836銀137、同支流ナイ川金889銀84、同中の川金807銀142、同馬道金799銀81、同赤井川金903銀65、パンケナイ上流金854銀112、ペーチャン小川金793銀179、同松葉金金792銀192、トイマキ金868銀82、オチキリ金881銀95、ケマモナイ金825銀148、ピラカナイ金849銀113、オネンカラマップ金922銀29。以上工科大学採鉱治金学科分析 

ウソタンナイ川筋から得たもの各種 金855銀105、金869銀81、金858銀96、金864銀110、ペーチャン金878銀118。以上造幣局分析 

これを内外の砂金と比較すると ウラル950、北米カリフォルニア774~985、豪州900~960、英領ダイアナ882~960、クロンダイク750~900、ノーム岬924、サイベリヤ金894銀103、朝鮮金741銀243、台湾金723銀250、夕張川金858銀117、空知川金884銀75、新十津川金888銀105。 

 枝幸地方の砂金はほぼ800以上であり、各地の砂金と比較しても上質である。

第7章 随伴鉱物 

 砂金地からは自然金のみならず、各種の貴金属、鉱石や宝石を随伴する。これらの鉱物は自然金属では白金、パラジウム、ビスマス、自然銅、自然合金ではイリドスミン、酸化金属では金紅石、ブルーカイト、錫石、磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱、硫化物では硫砒鉱、硫化鉄、宝石類では金剛石、青玉石、紅賓石、黄玉石、風信子鉱、尖晶石、緑柱石、柘榴石等である。枝幸においては磁鉄鉱が多量にあるのと、白金族や馬道の辰砂は色が美しいので早くに知られていたが、33年頃風信子鉱が発見された。これらを列記すれば次のとおりである。 

 () 磁鉄鉱は土砂中では砂鉄となって存する。この中には少しのクロムを含む。 

(二)硫化鉄はペーチャン川筋で認められる。 

 (三)酸化鉄は砂礫の上で殻をなし馬道で産する。 

(四)辰砂は深紅色の細粒で金剛光を放ち馬道で産する。 

(五)風信子鉱は粟粒の様で硝子光があり、無色のもの、淡い飴色、淡いスミレ色のものがあり、外形が摩耗して硬度は7馬道で産する。 

(六)白金属は馬道ペーチャンに多く、その形は粟状のものと扁平のものとがあり、前者は光沢が鈍く少し黄色を帯びる銀色で、後者は金属光があり鉛白色である。硬度は前者が6後者は7で、その性質から前者は白金、後者はイリドスミンと思われる。大きさは1.5㎜以下のものが多く、最大は白金では馬道産で0.68g、7㎜×4.5㎜×2.4㎜の丸みのある不規則な形をし、イリドスミンはペーチャン産で1.9g、10.5㎜×7㎜×1.8㎜のやや平坦で、側面は不規則で樹木を切断した板に似ており、平面には円形、馬蹄形の陥没があり、詳しく見ると柔らかいものが固まった様な襞がある。

第8章 砂金の生成 

 砂金には石片を包有するものがありこれを石喰いと言う。私は今まで数百を超える石喰いを見てきたが、その包有する石の多くは石英である。しかし、ペーチャン本流で採取した2.5㎜の砂金は、まるで石に金が付着した様なもので、その石は輝緑凝灰岩であり、ウソタンナイでもより大きなものを見た事から石は全て石英という訳ではない。また、石英にも色々あり、あるものは脈石状でその割れ目に金が固着したもの、石英と金とが共生した様なもの、角がある乳白色の石英粒が金で結着された様なもの、柱錐状の結晶に不規則な金が付着したもの等がある。 

 石喰いの石は多くが石英であることから、枝幸砂金の根源は石英質の金鉱脈で、この鉱脈が風化して川水の作用によって運搬陶太され、今日我らが見る砂金鉱床を作ったという者がいる。例えばペーチャン石川氏の試掘地では、鉱脈露頭から得られる金粒は下流の砂金と同じ性質である。このため、その砂金は直接鉱脈から出たものだとするのも疑いなく、他にもこれと類似した例は多い。ロシア人はこれらの鉱床を基根鉱床と名付けたが、これは砂金鉱床生成の唯一の成因ではない。また、石喰いの石は石英に限らないだけではなく石英の性質も色々なので、鉱脈が砂金鉱床の根源だとする説を安易に肯定できない。 

 砂金鉱床には前章で述べた様に原地砂金鉱床というものがある。この場合土壌は雨水等で流れるが、砂金は依然としてその場所に留置するのである。このことはウラル地方では、既にホンコッタ氏やポセプニー氏の研究により疑いがなく、エーエールングウイッツ氏も英領グイヤナにて実見している。また、陶太濃集する作用は必ずしも流水に限られず、シュマイセル氏によれば豪州では風雨雪氷等の為に鉱脈が崩壊され又は成層すると言う。これは枝幸では見られない現象であるが、生成の方法としては見過ごせないものである。 

 鉱脈論者は砂金が豊富なのは常に下底であり、特に底盤に多い事は何故なのか疑わないが、ポセプニー氏の実験によれば、比重の重いものは水が緩んだ際、浸透水によって軽い部分を通過して下降するのである。例えばプチープラムの精鉱場で鉱泥を堆積すれば方鉛鉱は下底に集積する。金や白金精鉱場では、金属は床板や搗鉱機の木造の部分に沈むので、木材を焼いて金属を回収するのである。これについては水の浸透が如何に金の下降に有力であるかを知らしめるのに十分である。 

 次に鉱脈論者の説の様に、砂金鉱床は必ず水の力で陶太され生成されるとすれば、砂金を包有する土砂は川床の砂礫層の様に、大小軽重均等なものが集まって成層するはずである。この様な状態は川水によって成立する砂金鉱床には見られるが、学者によれば砂金鉱床は全層を通じて不同な砂礫が集合しており、砂金が包有される土砂は緩んだ土砂で、かつて一度も水で動かされず互いに相寄って堆積したものだと言う。以上述べたのは基根鉱床があって生成した鉱床について論じたものだが、鉱床の全てが基根鉱床が風化崩壊した物質によって生成したか否かは、以前から学者の難問に属するところであり、私もいささか考究する必要があると感じている。 

(一)枝幸砂金地を視察した人は75~112g以上の塊金が少ないと言うが、37~45gの塊金は至る所で発見される。そしてこの現象は枝幸砂金地特有のものではなく、他の地方でも同じである。しかし、金鉱脈においては如何に豊富な鉱脈でも肉眼で見える自然金を出す事すら稀である。 

(二)鉱山から発見された金塊は、砂金地から発見された塊金より大きいものは無い。砂金地から出た大塊金は、カリフォルニアの72㎏、豪州の70㎏を主として世界各地で発見されている。対して金鉱山においては、大金塊が発見される事は非常に珍しく、かつてカリフォルニアのシーラブートのモニューメンタル鉱山で39㎏の金塊を得た事がある。また、1851年豪州ビクトリア州メロー川近傍で原住民が同重量で石英を包有する金塊を発見した事がある。そして、今日まで地球上で得られた大金塊はこの2個のみだという。 

(三)塊金の形状は多くが乳房結核状である。この形状が摩擦によるものだとすれば、その摩擦面は外部のみであり、内部の窪所はそれが鉱脈を分離したときの様子が残り、稜角も鋭いはずであるのに、塊金においてはその様な事は無く一種独特な丸みを帯びる。 

(四)砂金の品位は多くの場合山金より高い。砂金が金鉱脈から分離したものだとすれば、その分離後水中にある溶液のために作用される事があるとしても、二者の品位は一致すべきである。現に佐渡の相川において、山金は金568銀411で、鉱脈崩壊によって生じた浜金は金581銀418とその性質はほとんど同じである。そして、水中に存する溶液が砂金に及ぼす影響を見ると、枝幸地方では砂金の表面は僅かに品位が高められるが、その作用は深く内部に及んではいない。ポセプニー氏によればウラル砂金の品位は910~990なのに山金は860~866であるという。次に山金には砂金に比べ多くの銀分を有するという事に注意すべきである。例えば豪州塊金は960~966で、同州バララットの塊金は992である。そしてトランシルバニアの山金は金600銀399、ネバダの山金は金554銀429であり、砂金と山金とはその性質が全く異なるものである。 

(五)枝幸における砂金の状態は先に述べたが、これらの砂金が金鉱脈から来たとすればその鉱床は豊富であるはずなのに、同地で発見された鉱脈の中に有望なものは無い。ノルテンショルド氏がクロンダイク砂金地を調査した際、最も豊富なエルドラドの山地では鉱床の痕跡も発見できなかったと言う。また、石川貞治氏は日高国シビチャリ川の砂金地調査に際し、古生紀層にある石英脈の標本30余個について乾式分析を行ったが、一つも含金の証拠が得られず、これもこの問題を解く恰好の材料である。 

 人類が今日まで到達した範囲は、高さ8.8㎞(ヒマラヤの高さ)深さ1.5㎞(竪坑の深さ)の10㎞余りで、これを地球の直径12,754㎞に比べてみるとごく僅かに過ぎない。そして地球の変遷は人類の年代では推測し難い長い時間であり、その蝕剥された地層は僅か10㎞の厚さに過ぎず、仮にその10㎞の間に2塊だけだとしても、これを10倍の範囲に求めるとすればその数も10倍となるのである。人類が見聞した範囲は10㎞余りであるが、地球の大きな力のためになされた蝕剥再生の事業は観察推理する事が不可能ではなく、砂金鉱床のみがそうではないという理屈はないので、これが私の納得できない理由である。以上鉱脈崩壊説は、金は王水以外には溶けないという考えに帰するが、金は全く不溶解のものではなく、各砂金地においても金溶解液から金を沈殿させる力のある有機物が存在し、大いに学者の注意を惹起させるところである。

次にエグレストン氏等の研究に基づく金の溶解及び沈殿の現象について記述する。 

 金の溶解度を調査する為に純金の海綿状のものを用意し、様々な溶液に入れ、あるものは空気中に置き、あるものは3~6ヶ月常温常圧中に密閉し、その他のものは一定期間温度を保持した場所に置いて、色々な状況で熱や酸を加えその結果を見ると、食塩、硫酸アンモニア、塩化アンモニウム、カリの塩化物、臭化物の溶液は8ヶ月経っても反応がなく、5時間200℃で熱しても反応がないが、臭化カリだけは強い反応を示した。また、密閉管に硝酸を数滴加えた食塩溶液は金に反応した。ヨードカリは即時の反応はないが、これを蒸発して得た紫色の残滓は臭素に溶け金に反応した。これを170℃に熱したが金に対する反応は熱する前に比べ強くならなかった。工業用硝酸アンモニアを不純物として含むものを常温常圧で4ヶ月半開放した管に蓄えたところ、溶液は黄色を帯び強く金に反応した。そして蒸留水200ml中に硝酸アンモニア5g、塩化アンモニア0.5gを入れた溶液2個を作り、1個を開放場に置き、他を暗所に入れ11日間放置したところ、両者共に金に対して強く反応した。海綿状純金を取り、常温常圧で密閉管中に3ヶ月放置したところ、硫化アンモニアでは変化が無く、硫化カリでは黒色の沈殿物を作り金に対して強い反応を示した。硫化ソジウムは黒い沈殿物を生じ金に強く反応した。青酸カリは黄色溶液となって褐色沈殿物を生じ、アンモニア臭を放ち金に強く反応した。塩化苦土は3ヶ月後に樹脂状の沈殿物を生じたが金には作用しなかった。硫酸ソーダは同期間変化が無く反応もなかった。硫酸銅は2.5ヶ月の後でも変化がなかった。海綿状の金を溶液に入れ、6.5時間145~180℃の熱を加えると、硫化アンモニアは変化が無いが金に強く反応した。硫化カリは強くガラスを犯して緑色を帯び、液は金に反応し黒色の沈殿物を作る。硫化ソジウムは僅かにガラスを犯して緑色となり淡紅色の膜がガラス上に現れ僅かな沈殿物を作る。この膜は僅かに反応するが溶液は金に対して強く反応する。塩化苦土は強くガラスを犯すが金を溶解せず。硫酸ソーダは凝結する沈殿物を生じるが金に反応せず、工業用硫酸カリ鉄とマンガン硫酸塩の溶液は白色の鱗片を生ずるが金に作用しない。ソーダの硫酸塩、硝酸塩は変化反応なし。過マンガン酸カリは反応なし。青酸カリは褐色沈殿物を生じた。硝酸銀と硫酸の混合物は2ヶ月後でも変化なし。カリ鉄、マンガンの硫酸塩類と工業用硫酸との混合物は2ヶ月後変化を生じず。過マンガン酸カリと硫酸は黒色沈殿物を生じ、液は淡紅色となるがその中に金を含まず。以上の試験によって金は不溶解性のものではない事を証明して余りあるのである。 

 次に自然に行われていると思われる方法で金を溶解しようと試みた。この目的のため濾過物として30gの砂を備え、一つに海綿状の金1.16gと砂を投入、もう一つに0.5gずつの金と砂とを混入し、前者に10Lの蒸留水(食塩30g、硝酸ソーダ5gを含む)を入れて2ヶ月間浸出するが変化は起こらなかった。後者にクロトン河水6L(硝酸アンモニア9g、塩化アンモニア1gを含む)を1ヶ月間濾過したが金は溶解せず。第三に硝酸アンモニア1g塩化アンモニア9gを溶解したクロトン河水6Lを用いるが金は溶解しなかった。以上の試験は多少遺憾だが、これら短時間に得られる量は海水中に存在する金の量より微量であり、検出することが困難なのは勿論である。尚、実験室中に細かい埃塵が存在する事は大きな妨害であり、これらの実験を地質学上の年代に比べるべき長時間行えば、十分な結果を得ることは疑いのない事である。現に金は溶解して海水中に存在する。その量は海水1tに付き0.06gである。エーリーバーシッジ氏によれば、豪州海岸の海水中には1tに付き0.03~0.06g即ち海水一立方哩中に130~260tの金が存在する事になる。これは沃化石灰が海水中に分解し、ヨードの為に金は溶解されて存在するものである事はソンスタット氏が既に論じ、また金は第一硫酸鉄に溶解される事もウルツ氏やルコント氏によって研究されている。実験によれば、塩素は単独でも金に対して一試材であることを失わないが、塩素の存在する区域は海水湖水に止まらず、豪州西部の砂漠地方の金鉱山から出る水は常に黒色を帯び含有食塩の量が海水より多い事がある。同州カルグーリー地方では食塩の量が100分の9で多量の塩化苦土が存在するという。次に興味ある事は石英がこれらの溶金剤で溶解する事であり、砂金に石英が随伴する事についても考えを及ぼすべきではないか。 

 次に有機物がどの様に金を溶液から還元させるのかについて述べる。塩化金0.5gを含む溶液50mlを五つに分けて第1は1mlの石油、第2はコルク0.25g、第3は泥炭0.25g、第4は柔皮0.5g、第5は木の葉0.5gを入れて暗所に置き、3ヶ月間見ると、第1の液は色が減退し、器上下に微細で狭長な金の結晶が浮び、動かすとその結晶は器の底に落下した。コルク、柔皮、木の葉を入れた液は無色となり、金はそれらの物質中の有機物と入れ替わって仮像となった。泥炭を入れた液は無色となり、金は塊金の形状を想わせる極小な乳房状の塊となった。これは、有機物の金溶液に対する働きが砂金地の金の生成の状態と類似している事を思わせるものである。塩化金0.5gをクロトン河水2Lに溶かし、これを二つに分けて一つを日光に晒して一週間置くと金の全量は沈殿した。もう一つは暗所に置いたところ、8ヶ月後に少量の金が沈殿した。もしこの瓶に有機物を入れれば金の沈殿は迅速となり、これを日光に触れさせればおよそ48時間で金の全量が沈殿する。各種の土砂が溶液に及ぼす影響を研究するため、濾過したクロトン河水10Lに0.5gの塩化金を溶解し、次の三種を通して滴々硫化して濾過する装置を設けた。第1は石英砂30g、第2は砂20gと土壌10g、第3は磁鉄砂30gと石英砂10gである。初め濾過物を室内の塵埃煙に晒して放置したところ、2日で金の大部分は濾過物中に沈殿し液は緑色となった。次に塩化物0.5gを蒸留水10L中に溶解し、前記と同じ濾過物を用い塵埃を避けたところ、2ヶ月後石英砂のみと磁鉄砂と石英砂のもので金が少量還元して結核状となり、その量は前者より後者に多いが、作用が急なため十分固まらず指で押せば潰れる状況である。土壌を含むものは金が全部還元し微細の粉末となった。これを砂中に散布したが前の様に結核状のものは無い。これは土壌には有機物が存在するため、金を還元することが早くなり結核状に至らず粉末状になったのではないか。 

 エッチエートムソン氏は、豪州バララットの海岸砂金地に生える植物の枝根の周辺に含金硫化鉄があるのを見た。また、エーエールングウイッツ氏が英領グイヤナオマイ砂金地から得た樹木の灰は少しの金を含む。その分布は、幹の枝に近い部分が下部より多いという。エグレストン氏は植物を稀薄な金溶液で培養したところ、その灰から金を発見したが、これらは植物が金溶液から金を沈殿させた実例であり、枝幸地方の樹根から結核状の塊金が多く発見される事も了解される。 

 以上述べた様に、砂金の一部及び塊金の成因は科学的作用であり、溶解された金が土砂中の有機物の為に還元されるという事は妥当と信ずる。現に枝幸地方では未だ豊富な金鉱脈の発見が無く僅かな細脈を発見するのみである。これについて考えても鉱脈に存する金分は様々な物質を含んだ地水の循環によって溶解され、地表において様々な有機物に接して還元したものである。故に砂金は石英と共生し、石英又は岩片に付着して現れ、または結晶形をなし、あるときは有機体の充填仮像をなし、もしくは結核状に集合して乳房状の塊金となり、樹木の根株等で多く発見されるのである。 

 松葉金と称する奇形の砂金は良く枝幸地方で発見されその数は少なくない。一見植物の化石と想像されるものであり、あるものはビャクシンにある様な鱗片があり、あるものはアサヒカズラの様なものもあるが、コケには多く類似する点があって、ヒプヌムコンシンヌムやヒプヌムデリカッルムの様に見えるものもある。これら松葉金には結晶面が見えるものがあるが、前記の様にコケに酷似するだけではなく、樹枝状結晶や摩滅によって変形したとは考え難く、金の充填仮像と思えるものもある。要するに私は、枝幸では生成の原因が異なる各種の砂金鉱床があるのだと思う。これを列記すれば。 

第一 金鉱脈の破壊によって生じた原地砂金鉱床 

第二 金鉱脈が蝕剥されて自然の力によって運搬された砂金鉱床 

第三 科学的作用によって金溶液から沈殿し、第一のものと混在するもの 

第四 第三によって生じたものが自然の力によって第二と共に搬送されたもの 

とりわけ、第三や第四によって生じたものが主で、塊金はことごとく第三の科学的作用によって生じたものと考える。


4
最終更新日 : 2019-05-25 10:51:19

第Ⅳ編

第Ⅳ編 砂金採取

 第1章 採取の方法 

 枝幸での採取方法は内地と同じだが、明治33年北米カリフォルニアの人が樋流しを行って以降、これを真似、改良し、新しい用具が考案された。 

第一 本邦法 

(イ)流し掘り 

 川に堰を設け、片方に水を流して大きい石を積み重ねて水門の様にする。堰の中の砂礫を小さいものだけにしたら、人数分のネコを敷き、ネコの下を水が流れない様にする。堰を少し開き水加減を調整した後に、カッチャで砂礫をネコに流し、流し終わったら上手の石を除き更に作業を繰り返すのである。昼と終業時にネコを揺り板の上で洗い、揺り板の両短辺に手をかけて前後に揺すり、両長辺を持って前後に揺すり、砂鉄が見えたら水を少し入れ、一方の短辺を軽打して砂金を分離する。これは2~15人で行う方法である。ネコはワラ製で長さ72㎝、幅42㎝で価格は50銭~1円。カッチャは鉄製で木の柄を付け大小2丁で一組とし価格は2円。揺り板は長さ70㎝、幅36㎝で金を揺り出すのに便利な様に、板の面に小さい窪みを作る者も居る。価格は80銭である。この方法で1人1日に処理する土砂は平均3.5㎥で、労賃を1日70銭とすれば6㎥の土砂を処理する費用は1円18銭となる。 

(ロ)岡掘 

 川岸等で表面の土砂を除き、その下の砂礫をバケツでネコ場に運ぶ。盤が出たら水で面を洗うがこれを盤叩きと言う。砂金粒があれば竹棒の先に付けたモチに押し込み、その後モチを焼いて金を回収する。ネコ場は近くの水流がある所に設け、上流に棒を2本渡して樹皮をはぎ取ったものを敷き、これにバケツの土砂を乗せ、1人は上流を向いてネコを跨ぎ、片手にエビザル、片手に小カッチャを持って樹皮上の土砂をエビザルに搔き入れ、ネコ上の流水で前後に動かせば、小さい土砂はネコの上で陶太される。昼食時と終業時にネコの砂を揺り板に移して処理するのは流し堀りの時と同じである。バケツは鉄製で大中小の3種あり、カッチャは流し堀りと同じく大小の2種である。エビザルは熊笹で自ら作るが、大小2種あって土砂の大きさにより適宜用いる。モチは松脂を油と混ぜたものである。この方法は2~9人1組で行うが、1人1日に処理する土砂は平均0.72㎥で、6㎥の土砂を処理する費用は5円72銭となる。 

 トンネル掘りは川岸や河岸段丘に坑道を掘って含金砂礫を採取する方法であるが、水が多いときはバケツや樋で抜き、木製アーキメデス螺旋ポンプを使用する者もいる。 

 私が33年調査したところ、 

第一 稼業中のネコを見ると、砂金は流し堀りではネコの上の方、岡堀ではエビザルの真下に多いが、ネコの長さが短い様に感じられる。流し堀では土砂はネコ全体に転流するが、岡堀ではネコの半分に留まり、砂金はネコの面に留まらず流れ去る疑いがある。水勢は土砂を流し去る力があることが必要で、力が弱いとネコの上に土砂が留って陶太し難い。このためネコを3枚縦に並べ砂金沈殿の状況を見た。 

第一試ウソタンナイで流し掘 

第1ネコ2.58g、第2ネコ0.056g、第3ネコ微粒1個 

第二試ペーチャン小川で流し掘 

第1ネコ3.94g、第2ネコ0.075g、第3ネコ無 

第三試ウソタンナイ中の川岡堀 

第1ネコ3.56g、第2ネコ0.0075g、第三ネコ微粒5個 

第四試同所にて2枚のネコを並べて岡堀 

第1ネコ22.5g、第2ネコ0.56g 

第三試を除いて比較すると、 

(a)第2ネコの砂金の割合は流し堀りと岡堀とに大きな差はない。 

(b)第2ネコの量は第1に比べ40分の1以下である。

(c)第3ネコの砂金は微量である。

  なお、この外に浮き金として流れ去るものがあり、今のネコでは短いので改良する必要がある。 

第二 土砂は揺り板で陶太し、最後に砂鉄から砂金を取り出すが、その砂鉄は捨てるのが常である。そこで砂鉄の中に砂金が残っているのではないかと思い、ペーチャン小川で調べてみると微細な金粒を発見した。よって私は許可人に砂鉄を捨てずアマルガムを作って金を回収すべきであると勧めた。そして西洋人が水銀で砂鉄を処理して以降、砂鉄を保存してアマルガム法を試みる者があるが、多くは従来の様に顧みず、甚だ遺憾に感じるのである。 

(ハ)ガラス取り 

 この方法は流し掘りができない場所や、流し堀りを行った後に行う方法である。まずカナテコで大石を転がし、ツルハシやカッチャで土砂を掘り、盤に達すればメガネを水中に入れ、水底の砂礫を扇いで砂金を発見する。岩盤の上の砂礫を掃くときは箒を用いる。砂金を発見したときは、サオの先に付けたモチで絡め取るのである。カナテコは長さ1.2mの鉄製で価格は1円。カッチャは岡堀の時と同じだが小カッチャの柄は1mである。ツルハシの柄は1m、価格は1.5銭である。メガネは四角錐を底にして平行に切った様な木箱で、底は16㎝角、高さ19㎝で底にガラス板を填め、水が入らない様に漆喰で目張りする。アオリは鉄製の葵葉様で長さ80㎝である。モチザオは熊笹の幹で長さ1m、モチの製法は岡堀の時と同じ、箒は熊笹の細いもの十数本をシナの皮で括って作る。この方法は1~2人で気長に行う方法で、多人数で行うべきものではない。 

第二 樋流し 

 この方法は川を堰き止めて、川床を干しその土砂をリッフルと称する格子がある樋に流して採取するものである。最初ウソタンナイ秋山許可地でカリフォルニアのユーゼンスコイヤ氏によって行われ、以後各地で盛んに行われる様になった。堰は川の水量や水勢によって、一つの場合もあるが二重に設ける事もある。単堰の時は二つの樋を用意し、その一つは流し樋で操業に不要な水を流し、もう一つは格子樋又は洗い樋と称し、格子は樋の全部か必要な部分だけに入れる。土砂を投入する場所が樋の各所にあるときは全部に格子を入れ、一箇所から投入する場合は、投入点の下の部分に4~5本の格子を入れるのである。付近が平地で溝を掘って放流することができるのであれば、流し樋を作らず格子樋のみを作る。樋の傾斜は3.7mにつき10~13㎝で、二重に堰を作るときは上の堰に水門を作って水を加減する。採取場は72m~96mで、その間の水を止め川床を枯渇させて、砂礫をショベルで格子に投じる。盤に達したときはスクレーパーで岩面を搔き、割れ目があれば掻き出して砂金を取り出す。1日の業が終わるときは、樋の水を減らして流れを弱め、樋に水銀を入れ、小さい箒で掃いてスコープで受け、バケツに収めて小屋に運ぶ。小屋では円形のパンで砂礫を取り去り、大小のフラットパンでアマルガムを取り出し、これを熱して水銀を蒸発させ金を得るのである。 

 山側や河岸段丘から採取する時は、麓の渓流に格子樋を備え、上で掘った土砂は長方形の箱樋を置いて、すぐに格子樋中に落ち込む様にする。そして盤に達すれば水で洗い前記の様にする。 

堰 木材や岩石で幅1.5mとし、粘土や砂を充填して水が浸透しない様にする。高さは川の水量によって異なる。 

流し樋 二重堰の時は長さ3.7m、内幅56㎝、深さ46㎝とし、単堰の時は内幅38㎝、深さ30㎝とする。そして現場に応じて適宜連結させる。 

格子樋 長さ3.7m、内幅38㎝、深さ30㎝で12個連結する。 

格子 縦のものと横のものとがありそれらを交互に入れる。縦のものは幅36㎝で中に6㎝角の格子を3㎝の間隔で4本設置し、格子樋1個に付き3個ずつ入れる。横のものは3㎝の桟19本を並列しその間隔は3㎝である。 

 この方法による秋山氏許可地における状況について、同許可地は秋山氏名義だが、操業は横浜のセール商会が行い、事務長ピータージョス氏(英人)、技師スコイヤ氏(米人)と通訳3人が管理している。この5人は日中人夫を監督し、夕方2人の外人が陶太物、アマルガムを処理する。人夫30人は仙台から来た者で、賃金は1日50銭食事は雇い主が支給する(費用1人20~30銭、他に往復渡航費として1人30円)。作業は西洋風で、労働者は当初困惑していたが今は慣れたという。事務所は許可地中程に有り、人夫小屋は事務所の傍と上流の二カ所で、事務所側は57坪、上流は35坪である。人夫小屋の内部には縦横に通路があり、二段に棚を設け寝台にしている。なお、これらの建築費は2,100円だという。事業の成績について質問しても、外国人は要領を得ないので、自ら調査した事実について述べる。彼らが事業に着手したのは33年5月で、軌道に乗ったのは7月下旬である。途中雨天洪水等で稼業できない日もあったが、10月25日までの就業日は計157日で、この間に処理した土砂は33,630㎥である。そして1人1日の処理量は7.14㎥で、これを流し掘りの3.55㎥や岡掘りの0.73㎥と比較すれば非常に多く、6㎥の土砂を処理する費用は、人夫賃を70銭とすれば66銭となる。そして採取高は、同地でジョス氏が売却した量が渡邊米四郎氏に13.1㎏、長村秀氏に5.6㎏で、直接横浜に送ったものも加えれば相当の量になる。当時枝幸の総量は28.3㎏と言われているが、実際はもっと多いと思われる。砂金の含有量は6㎥当たり5gで、上流の6.4gや馬道落合の5.3gに比べても劣るものではない。以上によれば、平均採取高は1日180gになるが、本邦と樋流との経費を比較すれば次のとおりである。 

流し掘り 1人1日処理量3.5㎥、6㎥当たり処理費用1.18円 

岡堀          0.7㎥、         5.72円 

樋流し         7.1㎥          0.67円 

第三 改良及び変更の方法 

(一)エビザルに代えネコの上に鉄線製1㎝角の格子を置く。これはエビザルより便利である。 

(二)ワラネコの改良として板ネコを用いる。幅30~34㎝で全長90㎝。底板に犬牙状の切れ目を入れる。ワラネコり成績が良い。 

(三)石川氏陶太器。33年ペーチャンで試み、装置は篩と板ネコを合体した様なもの。篩は楕円形で長径1m、鉄線で1㎝の目を編み、高さ75㎝の長方形の枠に置く。篩の下にはズックの袋を置き、その端は2枚の流し板に垂らす。その下に板ネコを置き、底に流れと直角に犬牙状の窪みを作る。土砂は篩で洗われ1㎝以下は袋に入って板ネコを流下し、残ったものを揺り板で陶太するのである。この方法は通常の岡掘りより成績が良いが処理量はほとんど変わらない。 

(四)大里氏陶太器。高さ1.3m、長辺2m、短辺90㎝の箱で上に漏斗を備える。土砂は篩に落ち1.2㎝以下は流しに落ちる。その後板ネコを流れ、底にある鋸目の板を流れる。そして側に設けた歯車仕掛けのカムで振動する。この機械は33年7月ウソタンナイで遠藤某によって使用された。欠点は、水を1.5m以上の高さから導かなければならない事。土砂をその高さまで上げなければならない事。絶えず取手を回して篩を動かす必要がある事。篩はカムで押されるが動力が無いので篩の作用が不足する事。以上により34年には使われなくなった。 

(五)人夫を雇用して採取する時、その監督に便利な様に作った長方形の箱(長さ90㎝、幅36㎝、深さ36㎝)。底にネコを敷きその一方に小さな穴を空け、上に鉄と熊笹で作った篩を乗せて鍵を付けた装置。これは効果が無く使用されなかった。 

(六)クロンダイクで操業した藤井某が34年ペーチャンで試したのは揺り箱の変形である。75㎝の方形で高さ75㎝、取っ手は側面から上に向き、底には丸みを付けた板がある。箱の上には鉄網を置き、目を通ったものは二段のズックを流れ底板を流れて流出する。実収率や処理量が少なく歓迎されなかった。 

(七)白仁某発明機械。これは機械としての価値はないが、枝幸砂金地の歴史には欠くことのできないものである。この機械は34年朝倉アツムなる者が北見砂金採取社の名を語り、採取希望者を募って渡航させた際に4.5円で売り付けたものである。東京の多摩川で実習を受け、2円で渡航割引券を買い、4月頃から千人が続々渡航した。しかし、当時枝幸には数mの積雪があり、寒冷と厳しい労働を見てまず驚き、採取許可人が渡航者に便宜を図るとの約束は一つも行われず、備えた用具は全く実用に適さず漫然と日々を過ごすのみであった。やがて用意した蓄えは底をつき、進退極まって服を売ったり親類知人を頼って旅費を工面し帰国した者が8~9割に上る。残留した者は採金事務所に雇われたり、新たにネコカッチャを求めて採取に従事するものもあった。この様な辛酸をなめたものが非常に多く、その扱いが当時枝幸の大問題となったのである。 

 この機械はどの様なものかと言うと、鉄網と陶太器の2種一組で、鉄網は長方形で餅焼網の様で、陶太器は円錐状の鉄製で上部に穴があり、中央の鉄棒に羽が3枚付いている。使い方は土砂を鉄網で篩い、水を注いで羽を回し土砂は上の穴から流出させる。そして下に集まった金を穴から出すという。しかしこの機械はいかにも脆弱で全く実用に耐えないものである。 

第四 冬期間の操業 

 北海道は降雪期になれば、野外の事業はほとんど行うことができない。クロンダイクでは冬期は坑を掘り火を焚いて凍った含金砂礫を溶かし、これを抗外に搬出し融雪まで貯蔵するという。枝幸では数mの雪を掘り下げて、採取地が新しい時は良い結果を得たこともあるが、夏期に掘り荒らした跡では行う価値が無い。山側や川辺の岸に横穴を掘る時は、凍った水面に穴を空け、エビザルに長い柄を付けて洗浄陶太する。また水源地等表土が厚い所では、融雪の大水を利用して川岸の土砂を崩壊流失させ、夏期の利便を図る者もあるという。 

第2章 採金事務所 

(一)事務所 

 金は高価なものなので人夫が砂金を窃取する事を防ぐのは困難である。32年廣谷組合はウソタンナイの許可地を自ら稼業するため、漁場人夫200人を雇って採取を始めたが収支が合わず中止となった。このため、多くの許可人は自ら行わず入場料を徴して採取させ、密採者が入り込むのを警戒する方が安全だと考える様になった。そして、許可人は事務所を設け、事務員や看守を置いて入区料の徴収や密採者の警戒を行ったのである。これら採金事務所の所在地を掲げれば 

・ウソタンナイ川筋、馬道落合には廣谷組合事務所、輪島組合事務所、赤井川には輪島組合出張所、鹿野組合出張所、中の川上流には輪島組合出張所、松本廣谷共同出張所、上流には秋山源蔵採金事務所 

・ペーチャン川筋、小川落口に廣谷組合事務所、長内組合事務所、33年には輪島組合事務所があったがペーチャンにおける許可地は廣谷組合所有になり事務所を撤収。 

・ニセイケショマップの落合は鹿野組合事務所 

・ニセイパオマップの落合は河井愛次郎氏事務所と平手喜三郎氏事務所があったが34年に閉鎖 

・パンケナイ川筋、上流には廣谷組合事務所秋山源蔵氏上の事務所があり、下流ポンパンケナイ落合は秋山氏下の事務所と帝国砂金株式会社の事務所があったが34年に閉鎖した。中の川には堀川組合の事務所がある。 

・ケマモナイには松本組合の事務所 

・トイマキ川二股には伊勢谷組合の事務所があったが34年に閉鎖 

・トイマキ及びオチキリの許可地はトイマキ河口に事務所があったが34年に近くの住民等に貸付した。 

(二)入区料 

 33年に自ら稼業したのはウソタンナイ秋山源蔵氏のみで、他は入区料を徴して採取させた。同年の入区料は次のとおり。 

・ウソタンナイ 廣谷組合12円、輪島組合6.4円 

・ペーチャン 輪島組合6.4円、長内組合4円、鹿野組合、河井氏許可地同 

・パンケナイ 秋山氏許可地4円、伊勢谷氏許可地3.6円、梅津三之助氏許可地3.2円、廣谷組合10円、長内組合同 

・ケマモナイ 松本組合1日10銭 

・オムルシュペツ 梅津三之助許可地2円 

・トイマキ 伊勢谷氏許可地3.6円 

 34年自ら稼業したのは秋山氏のウソタンナイ、パンケナイの許可地、パンケナイ中の川堀川泰宗氏許可地である。その他における入区料は次のとおり。 

・ウソタンナイ 廣谷組合10.5円(河床、陸地)、3円(陸地のみ)、輪島組合4.5円、実澤喜作氏許可地4.5円 

・ペーチャン 廣谷組合6円(河床、陸地)、4円(陸地のみ)、鹿野組合3.6円 

・パンケナイ 広谷組合4円 

・ケマモナイ 松本組合1日10銭 

(三)採取地における物品の供給 

 事務所には付属売店がある。例えば広谷組合では北見屋商店があり、輪島組合には田中商店がある。その営業品目は米噌等の食料品はもちろん、採取用具や草鞋等揃わないものはない。最も売れるのは米噌、酒、缶詰、ワラジである。物価は市街に比べ2割程高い。ペーチャン小川は市街地の様で、蕎麦屋、豆腐屋、銭湯等がある。ポロベツのパンケナイ落合では販売店が軒を並べ、入山する者の必要品を供給する。ウソタンナイ、パンケナイ、トイマキ、オチキリ、ケマモナイは枝幸や漁村から行商する者が多い。ウソタンナイ馬道落合は34年に盛んになり、蕎麦屋、餅屋、時計修繕屋の看板を掲げるものも現れた。 

第3章 採取夫 

(一)採取夫の数 

 32年ペーチャンの砂金が世に知られ、当時は密採時代であり、北海道庁はその取り締まりに警官を派遣したが、密採者の数は5千人以上と噂される。33年に多数の採取地が許可され、警官の取り締まりも厳しくなったので、密採者だった者も入区料を払って採取する様になった。33年の数はウソタンナイ570人、ペーチャン500人、パンケナイ320人、オムルシュベツ100人、ケマモナイ200人、合計1,760人で、この他所々に出没する密採者は2~300人居り、山中で採取する者の総数は2千人に上る。 

 34年には砂金の含有量が減少し、新しく発見された石狩国樺戸郡新十津川に行く者も居たが、枝幸砂金地に留まった数はウソタンナイ442人、ペーチャン242人、オチキリ67人、トイマキ36人、ケマモナイ22人、合計1,022人で、これらの出身地について33年にウソタンナイ、ペーチャンで調べた都道府県別入込数は次のとおりである。 

ウソタンナイ廣谷事務所、北海道93、山形96、青森17、秋田11、東京9、大阪5、新潟3、宮城2、石川2、静岡2、神奈川1、岩手1、栃木1、福島1、茨城1、合計245。ペーチャン輪島事務所、北海道52、山形2、青森6、秋田3、東京2、新潟11、宮城3、石川2、岩手14、福島5、茨城1、富山2、鹿児島1、兵庫1、合計116。 

 これによれば山形県が多く、彼らは最上川で採取の経験があり、流し堀りはその特徴で枝幸砂金地において成功した採取夫は同県人に多いと言う。 

(二)一人当たり採取高 

 33年はペーチャン小川、ウソタンナイババ殺し等で採取高が多いのは当然であるが、技術が未熟なため十分に採取できなかった者も多くその成績は次のとおりである。 

ウソタンナイ廣谷事務所の下1.8g岡堀、同2.6g流堀、ババ殺し2.6g流掘、第五支流の下1.2g流掘、赤井川2.7g岡堀、馬道3.7g、中の川二股6.7g流掘、同3.3g流掘、ペーチャン上流1.3g岡堀、小川筋1.5g、小川落合下1.1g流掘、ニセイケショマップ0.7g、ニセイパオマップ0.2g、トイマキ0.9g。 

 34年は有望と言われた場所は荒廃し、新十津川の新産地に多数の採取夫が移動したが、依然として稼業する者の成績は次のとおりである。 

オチキリ下流1.1g岡堀、中流2.2g岡堀、ウソタンナイナイ川落口の下1.8g樋流、上流二股左渓1.1g岡堀、同0.6g岡堀、中の川1.8g岡堀、中の川上流0.9g岡堀、中の川二股1.8g流掘、ペーチャン小川落合の下流1.8g流掘、同2.1g流掘、同1.1g流掘、トイマキ1.1g岡堀。 

 採取高は33年に比べれば少いが、1人1日の採取量は大差がない。仮に平均1.5gと見ても1日1.6円になり、枝幸の物価に比べて不利な事業ではない。 

 第4章 採取高 

 パンケナイで砂金発見以降、今までの採取高は不明である。採取許可地が境を接して操業する今日、採取許可人といえども自分の許可地からどれだけの産出があったか解らないのである。砂鉱については鉱産税が課せられないので、1年に1回鉱山監督署に提出する明細も正確ではない。初めは実際に産出した額より少く、近年では許可地の価値を高めようと実際より多く記載している。枝幸全部の採取高は明細表では、32年449㎏、33年866㎏だが、実際に枝幸で販売した額は33年に675㎏あり、商人を経由せず直接輸送し、又は持ち帰った量は少なくなく、全量は遙かに多大である。私は各種資料によりその額を次のとおり推測する。32年1,012㎏、33年525㎏、34年262㎏、合計1,800㎏。発見当初からの量を加算して合計1,875㎏、200万円の産出があったとするのも大げさな数字ではない。 


5
最終更新日 : 2019-06-15 21:41:53

第Ⅴ編

第Ⅴ編 砂金採取地 

第1章 砂金採取願 

出願手続 砂金を採取しようとする者は、砂鉱採取法に従って採取願、実測図に手数料を添え、所轄鉱山監督署長を経由して農商務大臣の許可を受けなければならない。その手数料は明治33年までは1件10円で河床は20㎞まで、その他は60万坪までとされている。砂鉱採取法は小規模な砂鉄採取のために制定されたものなので、今日の様な砂金採取業が勃興するという事は想定されておらず、枝幸砂金業が始まって以降出願が殺到した。このため33年に許可地増区願に係る手数料を規定し、砂鉱採取願10円採取許可地増区訂正願10円採取出願中増区訂正願10円とし、出願は河床については延長8㎞まで、その他は10万坪毎に1件分の手数料を納める事とした。 

土地所有者の承諾書 採取を出願する際、その土地が他人のものであれば、所有者の承諾を得なければならない。しかし河川や堤防山林原野等の国公有地は承諾書の添付を要さず、河川は延長により、堤防予定地は区域として出願する者が多く、帯状の許可地が多く出現する事になった。 

譲渡 砂鉱採取地を譲渡する時は手数料1件10円を添えて出願する。 

第2章 砂金採取許可地 

 枝幸で砂金が発見されて以降、砂金採取の出願は全道に及び、札幌鉱山監督署は多忙を極める事となった。 

・明治33年  

 流域 許可地78カ所892㎞、出願地125カ所2,216㎞ 

  区域 許可地49カ所1,355万坪、出願地587カ所3億386万坪 

・明治34年 

 流域 許可地240カ所1,600㎞、出願地84カ所1,024㎞ 

 区域 許可地573カ所1億8,108万坪、出願地424カ所2億3,249万坪 

 この様に、枝幸砂金業が有望である事を覗うことができるが、許可地の中で操業されたものは33年44カ所224㎞、面積630万坪で、34年90カ所184㎞、面積1,018万坪であり、操業中のものは許可地に対し33年では流域の4分の1、区域の2分の1であり、34年は流域の9分の1、区域の16分の1に過ぎない。 

第3章 義務 

 砂鉱採取法は出願料も他の鉱物に比べて低く、収穫高にも鉱産税を課さなかった。しかし枝幸では採取許可人に対し収入の100分の5、採取夫に対し人頭税1円を課した。採取許可人はその収入を届けて税を納めたが、秋山源蔵氏許可地では外国人を含めた多数が稼業したにも関わらず、収入額を届け出ず、枝幸役場では使用人1人月40銭を賦課する事にした。また、採取夫に対する徴税に苦しみ、しばしば吏員を派遣したが収支が合わず中止となった。秋山氏許可地で操業する外国人は町村の課税に従順でなく、秋山氏に対しても大いに戒める必要がある。 

第4章 許可地の価格 

 許可地の売買で注目を集めたものは、明治33年2月堀川泰宗氏がパンケナイ27.5㎞を9千円で譲渡。4月廣谷順吉氏がペーチャン19.1㎞を5千円で譲渡。5月廣谷順吉氏がウソタンナイ1.2㎞を7千円で譲渡。9月廣谷組合、輪島組合がウソタンナイ、ペーチャン、ピラカナイに散在する許可地20カ所、125㎞の100分の27を1万800円で譲り受けたもの等がある。 

第5章 公害予防条件 

 枝幸での土地保安の条件は、土砂復旧、川の流域変更禁止、河岸採取禁止、堤防決壊禁止、樹木加害禁止で、鮭鱒等の保護のため次の箇所は9月1日~4月30日まで砂金採取を禁止した。頓別川河口からトレオロマップ川の合点まで。幌別川は河口からポンポロベツの合点まで。トプシュベツは河口からタッカルウシュナイの合点まで。支流オフンタルマナイは下流から1番目の滝まで。現在採取されている箇所は、禁止区域の外にあるので大きな影響はないが、土地保安条件は採金業に大きな影響を及ぼし、河床、川岸、堤防予定地を掘ってはならないとの条件は非常に厳しいものである。この地方は海岸に寂しい漁村を見る以外、未だ開拓の手が入らない山林原野に過ぎず、この様な厳重な条件は適当ではない。当局は34年から次の様な条件を加える意向である。 

一、河川の沿岸とは堤防敷地として徐地した全幅員内 

二、川底は深さ60㎝以上の部分。但し川岸が5.4m以上の場所は除くが採取土砂は原形に復する。 

三、山腹丘陵の傾斜15度以内の場所は5.4m以内 

四、河川に沿った山腹を掘る場合、土砂の流出を防止し、土砂を川に投棄してはならない。 

 これでは枝幸どころか、北海道中でほとんど操業ができなくなる。カリフォルニアでは鉱農の利害が衝突し砂鉱業が停止された事がある。その結果、農産物の需要が激減し、農民は困り果て遂に操業の再興を促す事になった。同州北西部には有名な砂金地が多いが、いずれも制限がなく、クラマックス川では未だその沿岸の開墾地に害を及ぼしていない。枝幸河川は流路40㎞に及ぶが、無人の山間幽谷を流れるものなので、カリフォルニアの様に広大なものと同様に論じてはいけない。 

 

 


6
最終更新日 : 2019-06-15 21:23:52

付記

付記 その1 

・戸口 枝幸郡の戸数人口を調査すると、明治30年、31年は不漁の余波で減少したが、32年以降増加した。これは全く砂金の影響である。 

 明治30年戸数771人口3,112、31年戸数678人口3,080、32年戸数786人口4,044、33年戸数829人口5,874 

 次に枝幸4ケ村の人口は枝幸村4,010、頓別村64、歌登村348、礼文村341で、アイヌ人は全郡を通じて32戸129人である。 

・学事 枝幸村には尋常高等小学校があり、1郡4ケ村の児童を教育している。教員は4人、学齢児童は831人だが就学児童は265人である。同小学校には米国トッド博士の寄贈した英文書籍千余部があるが、これを開く者は無く誠に惜しむべき事である。 

・衛生 同地で開業する医師は5人で従来から開業していたのが2人、試験及第者は3人である。同地及び砂金採取地で風土病と言うべきものは無いが、採取地では脚気症、マラリア病があり採取夫は売薬を服する。重症の時は直ちに枝幸で加療するので、山中で死亡する者は少ない。 

・物価 枝幸に運ばれる全ての米、塩、雑貨は小樽から来るもので、その価格は小樽より2割~3割高価である。 

・交通 

(一)枝幸から札幌や小樽に行くには陸路と海路がある。 

 陸路 枝幸から湧別まで(海岸通)116㎞、湧別から永山まで(中央道路)139㎞永山駅から札幌駅まで(汽車)148㎞、札幌駅から小樽駅まで(汽車)33㎞ 

 馬1頭1里20~25銭、汽車賃下等で小樽~永山間1.98円 

 海路小樽港まで328㎞ 都丸は定期船で枝幸寄港後は稚内に寄港し30時間で小樽着。その他の汽船は諸処に寄港し40時間を要す。旅客運賃は下等で3.8円。 

(二)枝幸と各砂金事務所、各事務所間の交通路 

 枝幸からウソタンナイ廣谷、輪島事務所に至るには海岸に沿ってメナシに達し、ウバトマナイを上って馬道左の沢を下り馬道落合事務所に至る。行程26㎞。 

 枝幸からペーチャン小川廣谷、長内事務所に行くにはホロベツ下原野を過ぎ、パンケナイ支流を遡り山上を過ぎて小川落合に下る。行程28㎞。 

 ペーチャン鹿野事務所へ行くにはパンケナイ支流を上り山上に達した後左折して下る。 ウソタンナイ事務所からペーチャン事務所に行くには中の川を上り、ペーチャン上流に出て流れに沿って下る。行程28㎞。 

 枝幸からパンケナイ廣谷事務所に行くには海岸を通りトイマキ川左俣を辿って山上に出て下る。行程20㎞。 

 パンケナイ事務所からウソタンナイ事務所へ行くには、パンケナイ上流からウソタンナイ上流に出て下るべし。 

 枝幸からケマモナイ事務所に至るには、新設のウエンナイ道路を通りウエンナイ支流を上りケマモナイ支流ヨハルナイを下り本流に出て少し上る。行程12㎞。 

 ケマモナイ事務所からパンケナイ事務所に行くには支流を遡る。山を越えパンケナイ谷に下って上る。行程12㎞。 

・通信 枝幸には三等郵便電信局があり通信事務を取り扱っている。郵便物は陸路と海路があり、札幌から発する郵便物は4日で到着する。電信線路は海岸を通って湧別に至り、中央道路を軽便鉄道に沿って走るものと、天塩海岸に出て南下するものと二路ある。 

・金融機関 銀行は無く取引は不便が多い。郵便為替によるものの外は、人を使って輸送するか船便に託して送る。 

・漁業 枝幸は農耕に適さないが早くから市街があり多くの住民が住んでいる。これは北見沿岸が漁業に適しているからである。このため漁業の盛衰によって枝幸の運命が左右される。27~32年の収穫高は次のとおりであるが、近年この地が如何に不漁に苦しんでいたかを示すものである。27年3,432万石、28年3,502万石、29年4,556万石、30年2,975万石、31年1,073万石、32年466万石。 

 上記の収穫高は鰊絞粕、身欠鰊、胴鯟、大鮃、絞粕、煎海鼠、長切昆布、藍切鱒、藍切鮭の各収穫石数の総計である。これによれば枝幸の漁業は29年から衰退し、32年には産額が29年の10分の1に減った。このため漁業で生活していた住民は衣食に窮し、漁業生活は一転して砂金生活となった。仮に漁業が挽回して数年前と同じになればこの両業が成り立つかは疑問だが、元来この地の漁業は鰊や鮭で、鰊漁期は4~6月、鮭漁は9~11月である。そして砂金採取業は天候や停止期間の結果、多くはこの期間採取を行う事ができず漁期に全く関係が無いので、両業の期間は衝突するものではない。 

 ある漁業家によれば、砂金業勃興以来その販路が大いに拡大され、今日では却って網数が増えたと言う。また鮭鱒保護のため毎年9~4月は採取業を停止するので、産卵に被害を与えるものではない。故に枝幸における砂金採取業は操業期間と漁期は衝突せず、採取方法について十分研究し、水産業と共に永遠の事業とすべきものである。 

・農業 海岸には耕作に適する土地は無く、幌別下原野は泥炭地で開墾に適さない。幌別上原野は32年開拓に着手され、檜垣農場、佐賀農場、片岡農場があるが、開始後日が浅く小規模なものである。農場開始と砂金発見の時期はほぼ同じなので、農業が砂金業のために如何に影響を被ったかは察するに余りある。 

 檜垣農場は明治30年54万坪の貸付を受け、31年小作13戸により開墾を開始した。そしてその年の7月交恍川支流から砂金が発見され、枝幸住民挙げて稼業する勢いであったが、農場小作人は砂金採取を行わない様説得した。32年には砂金の産出益々多く、農場内の支流でも砂金が発見された。ペーチャン発見の時、農場はこの通路に当たり毎日数百人の採取者が通行し窃盗に及ぶ者も現れた。農場から採取地までの物資の運搬は白米2斗に付き4円を得る割合なので、やがて小作人は砂金採取や物品運搬夫に転じ、砂金業は幌別原野開拓に影響を及ぼしたのである。そしてこれまで開墾した10万坪が荒野に帰す事を憂慮し、善後策を検討するに至った。また農場の付近で貸付を受けた者は、砂金採取業が盛況な間は開拓の実を挙げる事ができないと思い、その土地を返還する者もあったと言う。 

・労銀 枝幸市街における労銀 

大工80銭、左官80銭、畳職1円、木挽職80銭、屋根職70銭、出面60銭、臨時雇いの人夫は1円~1.2円の労銀が普通だが、常雇の者は通常50銭と食料(20銭)を給す。枝幸から各砂金地への運賃は次のとおり。但し1人の運搬量は通常30㎏~37㎏である。33年、ペーチャン2~3円、ウソタンナイ1円~1.5円、パンケナイ1.2円、34年、ペーチャン1.2円、ウソタンナイ0.8円 

・住居 枝幸市街地は勿論、沿岸漁村にある家屋は角材板等で作る完全なものだが、採金地は仮住まいに過ぎず、事務所や付属売店を除き雨露を凌ぐ粗雑なものである。その構造は樹木を切り掘っ立て小屋を作り、屋根には天竺、木綿、木葉を敷き、周囲は樹皮熊笹を使い、床には厚く熊笹を敷いたものである。大きさは小さいものは1坪半、大きいものは数十坪になるものもある。 

・木材 枝幸郡の山林は官有林で、枝幸には森林看守駐在所があり、検査員1人と看守3人が駐在する。木材熊笹蕗を必要とする者は、同所で払い下げを出願し、吏員が実見して許可されるがその払い下げ額は、燃料1棚35銭ナラ、ガンビ、ハンノキ、イタヤの類、建築用尺〆15銭ナラ、ガンビ、ハンノキ、イタヤ、同21銭セン、シコロ、カツラ、同22銭トドマツ、エゾマツ、倒木燃料1棚18銭、建築用尺〆17.5銭、副産物熊笹三尺〆0.5銭、蕗三尺〆0.5銭。砂金採取許可人の多くは、その区域内の樹木はあらかじめ払い下げを受けておき、採取の際や小屋掛けに便利にしておく。 

・警察取締 砂金地取締のため33年警官が配置され、採取許可人も誓願巡査を雇い許可地を取締った。これらの主な任務は密採者を警戒し捜査処分を行う。次に同年中配置箇所員数を示す。枝幸出張所警部1巡査5、ウソタンナイ出張所警部1巡査7、ペーチャン出張所警部1、巡査5、誓願巡査は、ウソタンナイ派出所誓願員7、請願者廣谷季太郎外2、パンケナイ派出所誓願員5、請願者廣谷季太郎外2、ウソタンナイ派出所誓願員2請願者秋山源蔵、ペーチャン派出所請願員8、請願者輪島仙太郎。 

34年には採金景況が衰えたため、密採者が少なく請願巡査は無くなり官設出張所のみとなった。枝幸出張所警部1巡査4、ウソタンナイ出張所警部1巡査2、ペーチャン出張所警部1巡査1。 

付記 その2 

 引用書目 本編を草する私は、遠い場所に居て参照すべき書籍に乏しく、公務は正誤の暇を与えず、早々に稿を成したため杜撰を危惧する。 

 西山正吾氏編北海道鉱床調査報文、石川貞治氏著北海道鉱物調査報文、神保小虎氏著北海道地質図説明書、北海道庁拓殖公報、渡邊渡氏著鉱床学大意、日本鉱業会誌、地質学雑誌、地質要報、富士図幅地質説明書、明宗応星著天工開物、外洋書15冊略 

 


この本の内容は以上です。


読者登録

へるふねさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について