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第Ⅳ編

第Ⅳ編 砂金採取

 第1章 採取の方法 

 枝幸での採取方法は内地と同じだが、明治33年北米カリフォルニアの人が樋流しを行って以降、これを真似、改良し、新しい用具が考案された。 

第一 本邦法 

(イ)流し掘り 

 川に堰を設け、片方に水を流して大きい石を積み重ねて水門の様にする。堰の中の砂礫を小さいものだけにしたら、人数分のネコを敷き、ネコの下を水が流れない様にする。堰を少し開き水加減を調整した後に、カッチャで砂礫をネコに流し、流し終わったら上手の石を除き更に作業を繰り返すのである。昼と終業時にネコを揺り板の上で洗い、揺り板の両短辺に手をかけて前後に揺すり、両長辺を持って前後に揺すり、砂鉄が見えたら水を少し入れ、一方の短辺を軽打して砂金を分離する。これは2~15人で行う方法である。ネコはワラ製で長さ72㎝、幅42㎝で価格は50銭~1円。カッチャは鉄製で木の柄を付け大小2丁で一組とし価格は2円。揺り板は長さ70㎝、幅36㎝で金を揺り出すのに便利な様に、板の面に小さい窪みを作る者も居る。価格は80銭である。この方法で1人1日に処理する土砂は平均3.5㎥で、労賃を1日70銭とすれば6㎥の土砂を処理する費用は1円18銭となる。 

(ロ)岡掘 

 川岸等で表面の土砂を除き、その下の砂礫をバケツでネコ場に運ぶ。盤が出たら水で面を洗うがこれを盤叩きと言う。砂金粒があれば竹棒の先に付けたモチに押し込み、その後モチを焼いて金を回収する。ネコ場は近くの水流がある所に設け、上流に棒を2本渡して樹皮をはぎ取ったものを敷き、これにバケツの土砂を乗せ、1人は上流を向いてネコを跨ぎ、片手にエビザル、片手に小カッチャを持って樹皮上の土砂をエビザルに搔き入れ、ネコ上の流水で前後に動かせば、小さい土砂はネコの上で陶太される。昼食時と終業時にネコの砂を揺り板に移して処理するのは流し堀りの時と同じである。バケツは鉄製で大中小の3種あり、カッチャは流し堀りと同じく大小の2種である。エビザルは熊笹で自ら作るが、大小2種あって土砂の大きさにより適宜用いる。モチは松脂を油と混ぜたものである。この方法は2~9人1組で行うが、1人1日に処理する土砂は平均0.72㎥で、6㎥の土砂を処理する費用は5円72銭となる。 

 トンネル掘りは川岸や河岸段丘に坑道を掘って含金砂礫を採取する方法であるが、水が多いときはバケツや樋で抜き、木製アーキメデス螺旋ポンプを使用する者もいる。 

 私が33年調査したところ、 

第一 稼業中のネコを見ると、砂金は流し堀りではネコの上の方、岡堀ではエビザルの真下に多いが、ネコの長さが短い様に感じられる。流し堀では土砂はネコ全体に転流するが、岡堀ではネコの半分に留まり、砂金はネコの面に留まらず流れ去る疑いがある。水勢は土砂を流し去る力があることが必要で、力が弱いとネコの上に土砂が留って陶太し難い。このためネコを3枚縦に並べ砂金沈殿の状況を見た。 

第一試ウソタンナイで流し掘 

第1ネコ2.58g、第2ネコ0.056g、第3ネコ微粒1個 

第二試ペーチャン小川で流し掘 

第1ネコ3.94g、第2ネコ0.075g、第3ネコ無 

第三試ウソタンナイ中の川岡堀 

第1ネコ3.56g、第2ネコ0.0075g、第三ネコ微粒5個 

第四試同所にて2枚のネコを並べて岡堀 

第1ネコ22.5g、第2ネコ0.56g 

第三試を除いて比較すると、 

(a)第2ネコの砂金の割合は流し堀りと岡堀とに大きな差はない。 

(b)第2ネコの量は第1に比べ40分の1以下である。

(c)第3ネコの砂金は微量である。

  なお、この外に浮き金として流れ去るものがあり、今のネコでは短いので改良する必要がある。 

第二 土砂は揺り板で陶太し、最後に砂鉄から砂金を取り出すが、その砂鉄は捨てるのが常である。そこで砂鉄の中に砂金が残っているのではないかと思い、ペーチャン小川で調べてみると微細な金粒を発見した。よって私は許可人に砂鉄を捨てずアマルガムを作って金を回収すべきであると勧めた。そして西洋人が水銀で砂鉄を処理して以降、砂鉄を保存してアマルガム法を試みる者があるが、多くは従来の様に顧みず、甚だ遺憾に感じるのである。 

(ハ)ガラス取り 

 この方法は流し掘りができない場所や、流し堀りを行った後に行う方法である。まずカナテコで大石を転がし、ツルハシやカッチャで土砂を掘り、盤に達すればメガネを水中に入れ、水底の砂礫を扇いで砂金を発見する。岩盤の上の砂礫を掃くときは箒を用いる。砂金を発見したときは、サオの先に付けたモチで絡め取るのである。カナテコは長さ1.2mの鉄製で価格は1円。カッチャは岡堀の時と同じだが小カッチャの柄は1mである。ツルハシの柄は1m、価格は1.5銭である。メガネは四角錐を底にして平行に切った様な木箱で、底は16㎝角、高さ19㎝で底にガラス板を填め、水が入らない様に漆喰で目張りする。アオリは鉄製の葵葉様で長さ80㎝である。モチザオは熊笹の幹で長さ1m、モチの製法は岡堀の時と同じ、箒は熊笹の細いもの十数本をシナの皮で括って作る。この方法は1~2人で気長に行う方法で、多人数で行うべきものではない。 

第二 樋流し 

 この方法は川を堰き止めて、川床を干しその土砂をリッフルと称する格子がある樋に流して採取するものである。最初ウソタンナイ秋山許可地でカリフォルニアのユーゼンスコイヤ氏によって行われ、以後各地で盛んに行われる様になった。堰は川の水量や水勢によって、一つの場合もあるが二重に設ける事もある。単堰の時は二つの樋を用意し、その一つは流し樋で操業に不要な水を流し、もう一つは格子樋又は洗い樋と称し、格子は樋の全部か必要な部分だけに入れる。土砂を投入する場所が樋の各所にあるときは全部に格子を入れ、一箇所から投入する場合は、投入点の下の部分に4~5本の格子を入れるのである。付近が平地で溝を掘って放流することができるのであれば、流し樋を作らず格子樋のみを作る。樋の傾斜は3.7mにつき10~13㎝で、二重に堰を作るときは上の堰に水門を作って水を加減する。採取場は72m~96mで、その間の水を止め川床を枯渇させて、砂礫をショベルで格子に投じる。盤に達したときはスクレーパーで岩面を搔き、割れ目があれば掻き出して砂金を取り出す。1日の業が終わるときは、樋の水を減らして流れを弱め、樋に水銀を入れ、小さい箒で掃いてスコープで受け、バケツに収めて小屋に運ぶ。小屋では円形のパンで砂礫を取り去り、大小のフラットパンでアマルガムを取り出し、これを熱して水銀を蒸発させ金を得るのである。 

 山側や河岸段丘から採取する時は、麓の渓流に格子樋を備え、上で掘った土砂は長方形の箱樋を置いて、すぐに格子樋中に落ち込む様にする。そして盤に達すれば水で洗い前記の様にする。 

堰 木材や岩石で幅1.5mとし、粘土や砂を充填して水が浸透しない様にする。高さは川の水量によって異なる。 

流し樋 二重堰の時は長さ3.7m、内幅56㎝、深さ46㎝とし、単堰の時は内幅38㎝、深さ30㎝とする。そして現場に応じて適宜連結させる。 

格子樋 長さ3.7m、内幅38㎝、深さ30㎝で12個連結する。 

格子 縦のものと横のものとがありそれらを交互に入れる。縦のものは幅36㎝で中に6㎝角の格子を3㎝の間隔で4本設置し、格子樋1個に付き3個ずつ入れる。横のものは3㎝の桟19本を並列しその間隔は3㎝である。 

 この方法による秋山氏許可地における状況について、同許可地は秋山氏名義だが、操業は横浜のセール商会が行い、事務長ピータージョス氏(英人)、技師スコイヤ氏(米人)と通訳3人が管理している。この5人は日中人夫を監督し、夕方2人の外人が陶太物、アマルガムを処理する。人夫30人は仙台から来た者で、賃金は1日50銭食事は雇い主が支給する(費用1人20~30銭、他に往復渡航費として1人30円)。作業は西洋風で、労働者は当初困惑していたが今は慣れたという。事務所は許可地中程に有り、人夫小屋は事務所の傍と上流の二カ所で、事務所側は57坪、上流は35坪である。人夫小屋の内部には縦横に通路があり、二段に棚を設け寝台にしている。なお、これらの建築費は2,100円だという。事業の成績について質問しても、外国人は要領を得ないので、自ら調査した事実について述べる。彼らが事業に着手したのは33年5月で、軌道に乗ったのは7月下旬である。途中雨天洪水等で稼業できない日もあったが、10月25日までの就業日は計157日で、この間に処理した土砂は33,630㎥である。そして1人1日の処理量は7.14㎥で、これを流し掘りの3.55㎥や岡掘りの0.73㎥と比較すれば非常に多く、6㎥の土砂を処理する費用は、人夫賃を70銭とすれば66銭となる。そして採取高は、同地でジョス氏が売却した量が渡邊米四郎氏に13.1㎏、長村秀氏に5.6㎏で、直接横浜に送ったものも加えれば相当の量になる。当時枝幸の総量は28.3㎏と言われているが、実際はもっと多いと思われる。砂金の含有量は6㎥当たり5gで、上流の6.4gや馬道落合の5.3gに比べても劣るものではない。以上によれば、平均採取高は1日180gになるが、本邦と樋流との経費を比較すれば次のとおりである。 

流し掘り 1人1日処理量3.5㎥、6㎥当たり処理費用1.18円 

岡堀          0.7㎥、         5.72円 

樋流し         7.1㎥          0.67円 

第三 改良及び変更の方法 

(一)エビザルに代えネコの上に鉄線製1㎝角の格子を置く。これはエビザルより便利である。 

(二)ワラネコの改良として板ネコを用いる。幅30~34㎝で全長90㎝。底板に犬牙状の切れ目を入れる。ワラネコり成績が良い。 

(三)石川氏陶太器。33年ペーチャンで試み、装置は篩と板ネコを合体した様なもの。篩は楕円形で長径1m、鉄線で1㎝の目を編み、高さ75㎝の長方形の枠に置く。篩の下にはズックの袋を置き、その端は2枚の流し板に垂らす。その下に板ネコを置き、底に流れと直角に犬牙状の窪みを作る。土砂は篩で洗われ1㎝以下は袋に入って板ネコを流下し、残ったものを揺り板で陶太するのである。この方法は通常の岡掘りより成績が良いが処理量はほとんど変わらない。 

(四)大里氏陶太器。高さ1.3m、長辺2m、短辺90㎝の箱で上に漏斗を備える。土砂は篩に落ち1.2㎝以下は流しに落ちる。その後板ネコを流れ、底にある鋸目の板を流れる。そして側に設けた歯車仕掛けのカムで振動する。この機械は33年7月ウソタンナイで遠藤某によって使用された。欠点は、水を1.5m以上の高さから導かなければならない事。土砂をその高さまで上げなければならない事。絶えず取手を回して篩を動かす必要がある事。篩はカムで押されるが動力が無いので篩の作用が不足する事。以上により34年には使われなくなった。 

(五)人夫を雇用して採取する時、その監督に便利な様に作った長方形の箱(長さ90㎝、幅36㎝、深さ36㎝)。底にネコを敷きその一方に小さな穴を空け、上に鉄と熊笹で作った篩を乗せて鍵を付けた装置。これは効果が無く使用されなかった。 

(六)クロンダイクで操業した藤井某が34年ペーチャンで試したのは揺り箱の変形である。75㎝の方形で高さ75㎝、取っ手は側面から上に向き、底には丸みを付けた板がある。箱の上には鉄網を置き、目を通ったものは二段のズックを流れ底板を流れて流出する。実収率や処理量が少なく歓迎されなかった。 

(七)白仁某発明機械。これは機械としての価値はないが、枝幸砂金地の歴史には欠くことのできないものである。この機械は34年朝倉アツムなる者が北見砂金採取社の名を語り、採取希望者を募って渡航させた際に4.5円で売り付けたものである。東京の多摩川で実習を受け、2円で渡航割引券を買い、4月頃から千人が続々渡航した。しかし、当時枝幸には数mの積雪があり、寒冷と厳しい労働を見てまず驚き、採取許可人が渡航者に便宜を図るとの約束は一つも行われず、備えた用具は全く実用に適さず漫然と日々を過ごすのみであった。やがて用意した蓄えは底をつき、進退極まって服を売ったり親類知人を頼って旅費を工面し帰国した者が8~9割に上る。残留した者は採金事務所に雇われたり、新たにネコカッチャを求めて採取に従事するものもあった。この様な辛酸をなめたものが非常に多く、その扱いが当時枝幸の大問題となったのである。 

 この機械はどの様なものかと言うと、鉄網と陶太器の2種一組で、鉄網は長方形で餅焼網の様で、陶太器は円錐状の鉄製で上部に穴があり、中央の鉄棒に羽が3枚付いている。使い方は土砂を鉄網で篩い、水を注いで羽を回し土砂は上の穴から流出させる。そして下に集まった金を穴から出すという。しかしこの機械はいかにも脆弱で全く実用に耐えないものである。 

第四 冬期間の操業 

 北海道は降雪期になれば、野外の事業はほとんど行うことができない。クロンダイクでは冬期は坑を掘り火を焚いて凍った含金砂礫を溶かし、これを抗外に搬出し融雪まで貯蔵するという。枝幸では数mの雪を掘り下げて、採取地が新しい時は良い結果を得たこともあるが、夏期に掘り荒らした跡では行う価値が無い。山側や川辺の岸に横穴を掘る時は、凍った水面に穴を空け、エビザルに長い柄を付けて洗浄陶太する。また水源地等表土が厚い所では、融雪の大水を利用して川岸の土砂を崩壊流失させ、夏期の利便を図る者もあるという。 

第2章 採金事務所 

(一)事務所 

 金は高価なものなので人夫が砂金を窃取する事を防ぐのは困難である。32年廣谷組合はウソタンナイの許可地を自ら稼業するため、漁場人夫200人を雇って採取を始めたが収支が合わず中止となった。このため、多くの許可人は自ら行わず入場料を徴して採取させ、密採者が入り込むのを警戒する方が安全だと考える様になった。そして、許可人は事務所を設け、事務員や看守を置いて入区料の徴収や密採者の警戒を行ったのである。これら採金事務所の所在地を掲げれば 

・ウソタンナイ川筋、馬道落合には廣谷組合事務所、輪島組合事務所、赤井川には輪島組合出張所、鹿野組合出張所、中の川上流には輪島組合出張所、松本廣谷共同出張所、上流には秋山源蔵採金事務所 

・ペーチャン川筋、小川落口に廣谷組合事務所、長内組合事務所、33年には輪島組合事務所があったがペーチャンにおける許可地は廣谷組合所有になり事務所を撤収。 

・ニセイケショマップの落合は鹿野組合事務所 

・ニセイパオマップの落合は河井愛次郎氏事務所と平手喜三郎氏事務所があったが34年に閉鎖 

・パンケナイ川筋、上流には廣谷組合事務所秋山源蔵氏上の事務所があり、下流ポンパンケナイ落合は秋山氏下の事務所と帝国砂金株式会社の事務所があったが34年に閉鎖した。中の川には堀川組合の事務所がある。 

・ケマモナイには松本組合の事務所 

・トイマキ川二股には伊勢谷組合の事務所があったが34年に閉鎖 

・トイマキ及びオチキリの許可地はトイマキ河口に事務所があったが34年に近くの住民等に貸付した。 

(二)入区料 

 33年に自ら稼業したのはウソタンナイ秋山源蔵氏のみで、他は入区料を徴して採取させた。同年の入区料は次のとおり。 

・ウソタンナイ 廣谷組合12円、輪島組合6.4円 

・ペーチャン 輪島組合6.4円、長内組合4円、鹿野組合、河井氏許可地同 

・パンケナイ 秋山氏許可地4円、伊勢谷氏許可地3.6円、梅津三之助氏許可地3.2円、廣谷組合10円、長内組合同 

・ケマモナイ 松本組合1日10銭 

・オムルシュペツ 梅津三之助許可地2円 

・トイマキ 伊勢谷氏許可地3.6円 

 34年自ら稼業したのは秋山氏のウソタンナイ、パンケナイの許可地、パンケナイ中の川堀川泰宗氏許可地である。その他における入区料は次のとおり。 

・ウソタンナイ 廣谷組合10.5円(河床、陸地)、3円(陸地のみ)、輪島組合4.5円、実澤喜作氏許可地4.5円 

・ペーチャン 廣谷組合6円(河床、陸地)、4円(陸地のみ)、鹿野組合3.6円 

・パンケナイ 広谷組合4円 

・ケマモナイ 松本組合1日10銭 

(三)採取地における物品の供給 

 事務所には付属売店がある。例えば広谷組合では北見屋商店があり、輪島組合には田中商店がある。その営業品目は米噌等の食料品はもちろん、採取用具や草鞋等揃わないものはない。最も売れるのは米噌、酒、缶詰、ワラジである。物価は市街に比べ2割程高い。ペーチャン小川は市街地の様で、蕎麦屋、豆腐屋、銭湯等がある。ポロベツのパンケナイ落合では販売店が軒を並べ、入山する者の必要品を供給する。ウソタンナイ、パンケナイ、トイマキ、オチキリ、ケマモナイは枝幸や漁村から行商する者が多い。ウソタンナイ馬道落合は34年に盛んになり、蕎麦屋、餅屋、時計修繕屋の看板を掲げるものも現れた。 

第3章 採取夫 

(一)採取夫の数 

 32年ペーチャンの砂金が世に知られ、当時は密採時代であり、北海道庁はその取り締まりに警官を派遣したが、密採者の数は5千人以上と噂される。33年に多数の採取地が許可され、警官の取り締まりも厳しくなったので、密採者だった者も入区料を払って採取する様になった。33年の数はウソタンナイ570人、ペーチャン500人、パンケナイ320人、オムルシュベツ100人、ケマモナイ200人、合計1,760人で、この他所々に出没する密採者は2~300人居り、山中で採取する者の総数は2千人に上る。 

 34年には砂金の含有量が減少し、新しく発見された石狩国樺戸郡新十津川に行く者も居たが、枝幸砂金地に留まった数はウソタンナイ442人、ペーチャン242人、オチキリ67人、トイマキ36人、ケマモナイ22人、合計1,022人で、これらの出身地について33年にウソタンナイ、ペーチャンで調べた都道府県別入込数は次のとおりである。 

ウソタンナイ廣谷事務所、北海道93、山形96、青森17、秋田11、東京9、大阪5、新潟3、宮城2、石川2、静岡2、神奈川1、岩手1、栃木1、福島1、茨城1、合計245。ペーチャン輪島事務所、北海道52、山形2、青森6、秋田3、東京2、新潟11、宮城3、石川2、岩手14、福島5、茨城1、富山2、鹿児島1、兵庫1、合計116。 

 これによれば山形県が多く、彼らは最上川で採取の経験があり、流し堀りはその特徴で枝幸砂金地において成功した採取夫は同県人に多いと言う。 

(二)一人当たり採取高 

 33年はペーチャン小川、ウソタンナイババ殺し等で採取高が多いのは当然であるが、技術が未熟なため十分に採取できなかった者も多くその成績は次のとおりである。 

ウソタンナイ廣谷事務所の下1.8g岡堀、同2.6g流堀、ババ殺し2.6g流掘、第五支流の下1.2g流掘、赤井川2.7g岡堀、馬道3.7g、中の川二股6.7g流掘、同3.3g流掘、ペーチャン上流1.3g岡堀、小川筋1.5g、小川落合下1.1g流掘、ニセイケショマップ0.7g、ニセイパオマップ0.2g、トイマキ0.9g。 

 34年は有望と言われた場所は荒廃し、新十津川の新産地に多数の採取夫が移動したが、依然として稼業する者の成績は次のとおりである。 

オチキリ下流1.1g岡堀、中流2.2g岡堀、ウソタンナイナイ川落口の下1.8g樋流、上流二股左渓1.1g岡堀、同0.6g岡堀、中の川1.8g岡堀、中の川上流0.9g岡堀、中の川二股1.8g流掘、ペーチャン小川落合の下流1.8g流掘、同2.1g流掘、同1.1g流掘、トイマキ1.1g岡堀。 

 採取高は33年に比べれば少いが、1人1日の採取量は大差がない。仮に平均1.5gと見ても1日1.6円になり、枝幸の物価に比べて不利な事業ではない。 

 第4章 採取高 

 パンケナイで砂金発見以降、今までの採取高は不明である。採取許可地が境を接して操業する今日、採取許可人といえども自分の許可地からどれだけの産出があったか解らないのである。砂鉱については鉱産税が課せられないので、1年に1回鉱山監督署に提出する明細も正確ではない。初めは実際に産出した額より少く、近年では許可地の価値を高めようと実際より多く記載している。枝幸全部の採取高は明細表では、32年449㎏、33年866㎏だが、実際に枝幸で販売した額は33年に675㎏あり、商人を経由せず直接輸送し、又は持ち帰った量は少なくなく、全量は遙かに多大である。私は各種資料によりその額を次のとおり推測する。32年1,012㎏、33年525㎏、34年262㎏、合計1,800㎏。発見当初からの量を加算して合計1,875㎏、200万円の産出があったとするのも大げさな数字ではない。 


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最終更新日 : 2019-06-15 21:41:53

第Ⅴ編

第Ⅴ編 砂金採取地 

第1章 砂金採取願 

出願手続 砂金を採取しようとする者は、砂鉱採取法に従って採取願、実測図に手数料を添え、所轄鉱山監督署長を経由して農商務大臣の許可を受けなければならない。その手数料は明治33年までは1件10円で河床は20㎞まで、その他は60万坪までとされている。砂鉱採取法は小規模な砂鉄採取のために制定されたものなので、今日の様な砂金採取業が勃興するという事は想定されておらず、枝幸砂金業が始まって以降出願が殺到した。このため33年に許可地増区願に係る手数料を規定し、砂鉱採取願10円採取許可地増区訂正願10円採取出願中増区訂正願10円とし、出願は河床については延長8㎞まで、その他は10万坪毎に1件分の手数料を納める事とした。 

土地所有者の承諾書 採取を出願する際、その土地が他人のものであれば、所有者の承諾を得なければならない。しかし河川や堤防山林原野等の国公有地は承諾書の添付を要さず、河川は延長により、堤防予定地は区域として出願する者が多く、帯状の許可地が多く出現する事になった。 

譲渡 砂鉱採取地を譲渡する時は手数料1件10円を添えて出願する。 

第2章 砂金採取許可地 

 枝幸で砂金が発見されて以降、砂金採取の出願は全道に及び、札幌鉱山監督署は多忙を極める事となった。 

・明治33年  

 流域 許可地78カ所892㎞、出願地125カ所2,216㎞ 

  区域 許可地49カ所1,355万坪、出願地587カ所3億386万坪 

・明治34年 

 流域 許可地240カ所1,600㎞、出願地84カ所1,024㎞ 

 区域 許可地573カ所1億8,108万坪、出願地424カ所2億3,249万坪 

 この様に、枝幸砂金業が有望である事を覗うことができるが、許可地の中で操業されたものは33年44カ所224㎞、面積630万坪で、34年90カ所184㎞、面積1,018万坪であり、操業中のものは許可地に対し33年では流域の4分の1、区域の2分の1であり、34年は流域の9分の1、区域の16分の1に過ぎない。 

第3章 義務 

 砂鉱採取法は出願料も他の鉱物に比べて低く、収穫高にも鉱産税を課さなかった。しかし枝幸では採取許可人に対し収入の100分の5、採取夫に対し人頭税1円を課した。採取許可人はその収入を届けて税を納めたが、秋山源蔵氏許可地では外国人を含めた多数が稼業したにも関わらず、収入額を届け出ず、枝幸役場では使用人1人月40銭を賦課する事にした。また、採取夫に対する徴税に苦しみ、しばしば吏員を派遣したが収支が合わず中止となった。秋山氏許可地で操業する外国人は町村の課税に従順でなく、秋山氏に対しても大いに戒める必要がある。 

第4章 許可地の価格 

 許可地の売買で注目を集めたものは、明治33年2月堀川泰宗氏がパンケナイ27.5㎞を9千円で譲渡。4月廣谷順吉氏がペーチャン19.1㎞を5千円で譲渡。5月廣谷順吉氏がウソタンナイ1.2㎞を7千円で譲渡。9月廣谷組合、輪島組合がウソタンナイ、ペーチャン、ピラカナイに散在する許可地20カ所、125㎞の100分の27を1万800円で譲り受けたもの等がある。 

第5章 公害予防条件 

 枝幸での土地保安の条件は、土砂復旧、川の流域変更禁止、河岸採取禁止、堤防決壊禁止、樹木加害禁止で、鮭鱒等の保護のため次の箇所は9月1日~4月30日まで砂金採取を禁止した。頓別川河口からトレオロマップ川の合点まで。幌別川は河口からポンポロベツの合点まで。トプシュベツは河口からタッカルウシュナイの合点まで。支流オフンタルマナイは下流から1番目の滝まで。現在採取されている箇所は、禁止区域の外にあるので大きな影響はないが、土地保安条件は採金業に大きな影響を及ぼし、河床、川岸、堤防予定地を掘ってはならないとの条件は非常に厳しいものである。この地方は海岸に寂しい漁村を見る以外、未だ開拓の手が入らない山林原野に過ぎず、この様な厳重な条件は適当ではない。当局は34年から次の様な条件を加える意向である。 

一、河川の沿岸とは堤防敷地として徐地した全幅員内 

二、川底は深さ60㎝以上の部分。但し川岸が5.4m以上の場所は除くが採取土砂は原形に復する。 

三、山腹丘陵の傾斜15度以内の場所は5.4m以内 

四、河川に沿った山腹を掘る場合、土砂の流出を防止し、土砂を川に投棄してはならない。 

 これでは枝幸どころか、北海道中でほとんど操業ができなくなる。カリフォルニアでは鉱農の利害が衝突し砂鉱業が停止された事がある。その結果、農産物の需要が激減し、農民は困り果て遂に操業の再興を促す事になった。同州北西部には有名な砂金地が多いが、いずれも制限がなく、クラマックス川では未だその沿岸の開墾地に害を及ぼしていない。枝幸河川は流路40㎞に及ぶが、無人の山間幽谷を流れるものなので、カリフォルニアの様に広大なものと同様に論じてはいけない。 

 

 


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最終更新日 : 2019-06-15 21:23:52

付記

付記 その1 

・戸口 枝幸郡の戸数人口を調査すると、明治30年、31年は不漁の余波で減少したが、32年以降増加した。これは全く砂金の影響である。 

 明治30年戸数771人口3,112、31年戸数678人口3,080、32年戸数786人口4,044、33年戸数829人口5,874 

 次に枝幸4ケ村の人口は枝幸村4,010、頓別村64、歌登村348、礼文村341で、アイヌ人は全郡を通じて32戸129人である。 

・学事 枝幸村には尋常高等小学校があり、1郡4ケ村の児童を教育している。教員は4人、学齢児童は831人だが就学児童は265人である。同小学校には米国トッド博士の寄贈した英文書籍千余部があるが、これを開く者は無く誠に惜しむべき事である。 

・衛生 同地で開業する医師は5人で従来から開業していたのが2人、試験及第者は3人である。同地及び砂金採取地で風土病と言うべきものは無いが、採取地では脚気症、マラリア病があり採取夫は売薬を服する。重症の時は直ちに枝幸で加療するので、山中で死亡する者は少ない。 

・物価 枝幸に運ばれる全ての米、塩、雑貨は小樽から来るもので、その価格は小樽より2割~3割高価である。 

・交通 

(一)枝幸から札幌や小樽に行くには陸路と海路がある。 

 陸路 枝幸から湧別まで(海岸通)116㎞、湧別から永山まで(中央道路)139㎞永山駅から札幌駅まで(汽車)148㎞、札幌駅から小樽駅まで(汽車)33㎞ 

 馬1頭1里20~25銭、汽車賃下等で小樽~永山間1.98円 

 海路小樽港まで328㎞ 都丸は定期船で枝幸寄港後は稚内に寄港し30時間で小樽着。その他の汽船は諸処に寄港し40時間を要す。旅客運賃は下等で3.8円。 

(二)枝幸と各砂金事務所、各事務所間の交通路 

 枝幸からウソタンナイ廣谷、輪島事務所に至るには海岸に沿ってメナシに達し、ウバトマナイを上って馬道左の沢を下り馬道落合事務所に至る。行程26㎞。 

 枝幸からペーチャン小川廣谷、長内事務所に行くにはホロベツ下原野を過ぎ、パンケナイ支流を遡り山上を過ぎて小川落合に下る。行程28㎞。 

 ペーチャン鹿野事務所へ行くにはパンケナイ支流を上り山上に達した後左折して下る。 ウソタンナイ事務所からペーチャン事務所に行くには中の川を上り、ペーチャン上流に出て流れに沿って下る。行程28㎞。 

 枝幸からパンケナイ廣谷事務所に行くには海岸を通りトイマキ川左俣を辿って山上に出て下る。行程20㎞。 

 パンケナイ事務所からウソタンナイ事務所へ行くには、パンケナイ上流からウソタンナイ上流に出て下るべし。 

 枝幸からケマモナイ事務所に至るには、新設のウエンナイ道路を通りウエンナイ支流を上りケマモナイ支流ヨハルナイを下り本流に出て少し上る。行程12㎞。 

 ケマモナイ事務所からパンケナイ事務所に行くには支流を遡る。山を越えパンケナイ谷に下って上る。行程12㎞。 

・通信 枝幸には三等郵便電信局があり通信事務を取り扱っている。郵便物は陸路と海路があり、札幌から発する郵便物は4日で到着する。電信線路は海岸を通って湧別に至り、中央道路を軽便鉄道に沿って走るものと、天塩海岸に出て南下するものと二路ある。 

・金融機関 銀行は無く取引は不便が多い。郵便為替によるものの外は、人を使って輸送するか船便に託して送る。 

・漁業 枝幸は農耕に適さないが早くから市街があり多くの住民が住んでいる。これは北見沿岸が漁業に適しているからである。このため漁業の盛衰によって枝幸の運命が左右される。27~32年の収穫高は次のとおりであるが、近年この地が如何に不漁に苦しんでいたかを示すものである。27年3,432万石、28年3,502万石、29年4,556万石、30年2,975万石、31年1,073万石、32年466万石。 

 上記の収穫高は鰊絞粕、身欠鰊、胴鯟、大鮃、絞粕、煎海鼠、長切昆布、藍切鱒、藍切鮭の各収穫石数の総計である。これによれば枝幸の漁業は29年から衰退し、32年には産額が29年の10分の1に減った。このため漁業で生活していた住民は衣食に窮し、漁業生活は一転して砂金生活となった。仮に漁業が挽回して数年前と同じになればこの両業が成り立つかは疑問だが、元来この地の漁業は鰊や鮭で、鰊漁期は4~6月、鮭漁は9~11月である。そして砂金採取業は天候や停止期間の結果、多くはこの期間採取を行う事ができず漁期に全く関係が無いので、両業の期間は衝突するものではない。 

 ある漁業家によれば、砂金業勃興以来その販路が大いに拡大され、今日では却って網数が増えたと言う。また鮭鱒保護のため毎年9~4月は採取業を停止するので、産卵に被害を与えるものではない。故に枝幸における砂金採取業は操業期間と漁期は衝突せず、採取方法について十分研究し、水産業と共に永遠の事業とすべきものである。 

・農業 海岸には耕作に適する土地は無く、幌別下原野は泥炭地で開墾に適さない。幌別上原野は32年開拓に着手され、檜垣農場、佐賀農場、片岡農場があるが、開始後日が浅く小規模なものである。農場開始と砂金発見の時期はほぼ同じなので、農業が砂金業のために如何に影響を被ったかは察するに余りある。 

 檜垣農場は明治30年54万坪の貸付を受け、31年小作13戸により開墾を開始した。そしてその年の7月交恍川支流から砂金が発見され、枝幸住民挙げて稼業する勢いであったが、農場小作人は砂金採取を行わない様説得した。32年には砂金の産出益々多く、農場内の支流でも砂金が発見された。ペーチャン発見の時、農場はこの通路に当たり毎日数百人の採取者が通行し窃盗に及ぶ者も現れた。農場から採取地までの物資の運搬は白米2斗に付き4円を得る割合なので、やがて小作人は砂金採取や物品運搬夫に転じ、砂金業は幌別原野開拓に影響を及ぼしたのである。そしてこれまで開墾した10万坪が荒野に帰す事を憂慮し、善後策を検討するに至った。また農場の付近で貸付を受けた者は、砂金採取業が盛況な間は開拓の実を挙げる事ができないと思い、その土地を返還する者もあったと言う。 

・労銀 枝幸市街における労銀 

大工80銭、左官80銭、畳職1円、木挽職80銭、屋根職70銭、出面60銭、臨時雇いの人夫は1円~1.2円の労銀が普通だが、常雇の者は通常50銭と食料(20銭)を給す。枝幸から各砂金地への運賃は次のとおり。但し1人の運搬量は通常30㎏~37㎏である。33年、ペーチャン2~3円、ウソタンナイ1円~1.5円、パンケナイ1.2円、34年、ペーチャン1.2円、ウソタンナイ0.8円 

・住居 枝幸市街地は勿論、沿岸漁村にある家屋は角材板等で作る完全なものだが、採金地は仮住まいに過ぎず、事務所や付属売店を除き雨露を凌ぐ粗雑なものである。その構造は樹木を切り掘っ立て小屋を作り、屋根には天竺、木綿、木葉を敷き、周囲は樹皮熊笹を使い、床には厚く熊笹を敷いたものである。大きさは小さいものは1坪半、大きいものは数十坪になるものもある。 

・木材 枝幸郡の山林は官有林で、枝幸には森林看守駐在所があり、検査員1人と看守3人が駐在する。木材熊笹蕗を必要とする者は、同所で払い下げを出願し、吏員が実見して許可されるがその払い下げ額は、燃料1棚35銭ナラ、ガンビ、ハンノキ、イタヤの類、建築用尺〆15銭ナラ、ガンビ、ハンノキ、イタヤ、同21銭セン、シコロ、カツラ、同22銭トドマツ、エゾマツ、倒木燃料1棚18銭、建築用尺〆17.5銭、副産物熊笹三尺〆0.5銭、蕗三尺〆0.5銭。砂金採取許可人の多くは、その区域内の樹木はあらかじめ払い下げを受けておき、採取の際や小屋掛けに便利にしておく。 

・警察取締 砂金地取締のため33年警官が配置され、採取許可人も誓願巡査を雇い許可地を取締った。これらの主な任務は密採者を警戒し捜査処分を行う。次に同年中配置箇所員数を示す。枝幸出張所警部1巡査5、ウソタンナイ出張所警部1巡査7、ペーチャン出張所警部1、巡査5、誓願巡査は、ウソタンナイ派出所誓願員7、請願者廣谷季太郎外2、パンケナイ派出所誓願員5、請願者廣谷季太郎外2、ウソタンナイ派出所誓願員2請願者秋山源蔵、ペーチャン派出所請願員8、請願者輪島仙太郎。 

34年には採金景況が衰えたため、密採者が少なく請願巡査は無くなり官設出張所のみとなった。枝幸出張所警部1巡査4、ウソタンナイ出張所警部1巡査2、ペーチャン出張所警部1巡査1。 

付記 その2 

 引用書目 本編を草する私は、遠い場所に居て参照すべき書籍に乏しく、公務は正誤の暇を与えず、早々に稿を成したため杜撰を危惧する。 

 西山正吾氏編北海道鉱床調査報文、石川貞治氏著北海道鉱物調査報文、神保小虎氏著北海道地質図説明書、北海道庁拓殖公報、渡邊渡氏著鉱床学大意、日本鉱業会誌、地質学雑誌、地質要報、富士図幅地質説明書、明宗応星著天工開物、外洋書15冊略 

 


この本の内容は以上です。


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