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はじめに

 日本の伝統的な演劇の一つである能とは、複雑なドラマの展開ではなく、舞台の上ににじみ出る「抽象化された情念」を楽しむ世界といえるでしょう。

 今回わたしは、日本拳法という、能とは全く正反対と言えるほど、動きが速くダイナミックで力強い世界で、極度に抽象化された「戦う心」を鑑賞することができた。
 今大会に於ける女子の、しかも公式戦初出場と思われる2年生の元気いっぱいの試合を見て、大いに楽しむことができたのです。

 日本では殴り合いのケンカのことを「踊り」と呼ぶ人(地域)があるようです。
 司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」では、主人公である秋山真之の中学生時代のケンカを評して、同級生の正岡子規が「見てくれもせぬ踊りかな」と詠っています。岡山でもケンカのことを踊りと呼ぶようです(小説「けんかえれじい」)。

 日本拳法とは殴り合いのケンカをそのまま抽象化したもの(と私は考えています)。そして、野球やサッカーなどに比べれば極めて狭い試合場(舞台)の中で、しかも能面のような面を着用して自分を表現する「踊り」ともいえます。日本拳法の試合場というのはちょうど能の舞台と同じくらいの大きさです。
 面ばかりでなく、剣道の胴のような防具やボクシングのグローブを着用している姿は、まるでアメリカ映画「ロボコップ」。それら衣装(防具)は、選手の顔や体型を殺して一個の無機質な物体に変えてしまう。
 どの選手も目に見える姿形(すがたかたち)はほぼ同じで、無個性・無機質な2つの物体が狭い舞台の上で飛んだり跳ねたりしているようだ。

 しかし、これを「若以色見我 以音聲求我  是人行邪道 不能見如來」という境地から見れば、そこには戦う人間の強烈な情念が見える。

<注釈>
「若以色見我 以音聲求我  是人行邪道 不能見如來」
「にゃくいしきけんが いおんじょうぐが ぜえにんぎょうじゃどう ふうのうけんにょらい」
「姿形をもって我を見 音や声を以て我を知らんとするならば 汝あやまてり 如来(真実)を見ること能わざりき → 人や物の姿形ではなく、その心・魂を見よ 」
「金剛経」という、禅宗(臨済宗)における「般若心経」と並びよく読まれる経典の一節です。


 今大会で、数十メートル離れた観客席から見る彼女たちの試合は、パンチが当たる音や攻撃する瞬間の声(気合い)はほとんど聞こえない。ほぼ無音の世界のなかで、戦う2者が踊っているかのようですが、そこにわたしは「戦う」という、強い情念を見る(感じる)ことができました。

 

 3・4年生という上級生(熟練者)が持つパワーや技術的な巧、試合の流れのなかで行われる駆け引きの妙といった「ドラマチックな展開」がそぎ落とされた、素のままの身体の動き、むき出しの若々しく躍動する心。 それはまさに日本文化における一つの典型ともいえる能の世界を彷彿とさせる「踊り」といえるでしょう。

 ここに改めて、「戦うという情念のみを見て楽しむ日本拳法」というものを、知ることができたのです。

2019年5月18日
平栗雅人


大学日本拳法における2年生の位置

 2年生というところがポイントなのです。

 いったい、400年前、宮本武蔵によってまとめ上げられた二天一流という剣法は、この21世紀、大学日本拳法という世界でその形而上的な部分(本質)を見ることができるのですが、武蔵は二天一流のバイブルともいえる「五輪書」をこういう構成にしました。

 ① 地の巻
 ② 水の巻
 ③ 火の巻
 ④ 風の巻
 ⑤ 空の巻

 地の巻とは二天一流の基本理論(ポリシー)であり、
 水の巻とは自然の原理に即しての戦い方(自分の体を自然の理に即した、無理のない動きができるようにする)であり、
 火の巻とは大自然の理ではなく、人間の心に即した戦い方。
 風の巻とは他の流派との比較・検証・研究であり、
 空の巻とは、これら自分で獲得した知識や経験や運動能力を、現実世界の中で遺憾なく発揮するための心の持ち方が述べられています。

 大学日本拳法ではこうなります。

 ① 地の巻 1年生 日本拳法の基本を学ぶ(理論と演習)
 ② 水の巻 2年生 物理的・生理的な自然の理に即した身体の動きを知る
 ③ 火の巻 3年生 人の感情、人情の機微・心の裏表によって、敵に欺されないで、逆に敵の裏をかく戦いを身につける
 ④ 風の巻 3~4年生 他(人)の研究をすることで自分の存在をより明確にする 
 ⑤ 空の巻 4年生 ①~④をすべて飲み込みながらも、意識することなくそれらを有機的につなげて発揮できる空の心に至る


 前置きが長くなりましたが、今回の大会で私は、女子の2年生(たち)の戦いに、武蔵「五輪書」における水の巻を見たというわけです。
 つまり、彼女たちは3・4年生のように、待《たい》の先・躰々《たいたい》の先のような高度な技術、或いは相手の裏をかくような奇抜な技巧などない。2分間のあいだ自分の肉体的な力を存分に発揮し、ただただ燃えさかる火の玉のようになって敵の懐《ふところ》へ飛び込んでいく。

 ある2年生などは、ふつう自分の肩幅(くらい)ということになっている足の縦方向のスタンスがかなり長い。それは前方への踏み込み(飛び込み)に速さと強さを求めるが故なのでしょう。
 敵の攻撃に対して自由自在に動ける足の幅が肩幅なのですが、彼女の場合、そんな守りなど捨てて、完全なる突撃(直進)を優先した体勢になっている。
 人間の姿形でなく一個の情念の塊《かたまり》、人間の形をした火の玉が激しく動き回っているようで、まさに2年生らしいストレートで激しい、防御など気にしない攻撃中心の拳法です。
 また、別の2年生は150センチくらいの「おチビさん」なのに、自分より20センチも背の高い相手に向かって、面回し蹴りなんかを繰り出している。 当然ながら、自分の軸足がついていけず、スリップして転けてしまい、観客からは失笑が起こるのですが、私はその牛若丸のようなファイティング・スピリッツに感心するばかり。

 米映画「マトリックス」1999年で、覚醒したネオという人間にとって、戦う相手は人間の姿をしていない。人間の形をしたメラメラ燃えさかる炎の塊に見える。
 ネオと同じことを、今回私は体験することができたというわけです。

 覚醒する(悟りを開く)とは禅坊主の専売特許であるかのように思われていますが、私のような修行の足りない凡人でも、こうして姿形にとらわれない人間の本性を見ることができる、というのは大発見でした。
 悟りとは、修行を積み重ねる人間が自分の力で手に入れるものとは限らない。自分の見る対象(人間)が一心不乱になり、その魂を打ち込んでいる姿に自分が引き寄せられる。悟りとは当人の努力によるものとは限らず、その人が見る(接する)存在(人間)がその人に悟らせるということもある、ということで、まさにドイツの哲学者カントの唱えた「コペルニクス的転回」と言えるでしょう。

 コペルニクスは「天体ではなく地球が回っている」と唱えましたが、カントは形而上学においても「私たちが見ている対象物とは、その実体を見ているのではなく、私たちが見ているのは私たちが自分の感性や悟性や知性によって勝手に作り上げた幻想である」と主張し、物事を逆に見る(視点を大転換する)ことで、新しい世界を切り開く道を示しました。(そんなカントの革新的な発想が、巡り巡ってドイツ人の発明になるジェット機やロケット、そして円盤製作に行き着いたのですから、まんざら形而上学というものはバカにできません。)

 私が今大会で得た「悟り」とは、彼女たちが試合をしていた間《あいだ》だけのものですから、本来の悟りとは違うのかもしれません。しかし、それでも私は、人間の姿形ではなくその本質を見るという幸せを味わうことができたわけです。

 日本拳法の試合で、2分間、火の玉のようになって突撃を繰り返す彼女たちの「踊り」とは、その体型も顔も見えない、能と同じく抽象化された世界の中でこそ見ることのできた「悟りへの入り口」とも言える姿だったのです。

 もしもこれが、女性としての体型だの美人だのという、観る側の感情が入り込む姿となれば、そちらの方に気を取られてしまい、悟りなど遠くへ行ってしまう。
 面をつけているから顔が見えない、防具を着用しているから体型もわからない。
 3・4年生ではないから、高度な技術や技巧もまだそれほど身につけていない。
 ただただ、自分のもつ肉体的・精神的な運動能力を最大限に発揮させようと「苦闘する姿」に、日本人の持つ元精神(自分と戦う心)を見ることができた。
 彼女たちは敵をどうこうしようというよりも、なんとか自分の身体を、その場・その間合いとタイミングの中で最も効果的に発揮できるよう、(自分自身と)悪戦苦闘しているように見えました。

 よく、スポーツ選手が「オリンピックで優勝して震災に遭われた方たちを元気づけたい」なんてやっていますが、日本拳法の女子2年生の試合(戦う姿)にこそ、日本文化の大きな所産である能に通じる、無音で無機質な姿でありながら、そこにある魂が激しく躍動するという「日本人の内なる元気」を感じることができるでしょう。
 縄文時代より続く日本人ならではともいえる、静かで奥深いパワーを見て、自分のなかにある同じ日本人としてのパワーに気づくことができるのです。

 

注:無音

 能の音楽はメロディーではなくリズムを取るための、いわば竹の節のようなもの。

 西洋的音楽のように、観客の心を高揚させたり誘導したり、更には幻想を見せ、音楽自体が独立して鑑賞されるくらいのメロディーではなく、あくまで拍子によって舞台上の役者の演じる情念を際立たせようとする。日本拳法でも使われる「拍子」が第三者から与えられることで、演者と観客という日本人同士の心が繋がるのです。

 その意味では、西洋のミュージカルなどに比べ、能のそれは「無音・無言」とも言えるくらい、切り詰められたシンプルな劇であり、その故に、演じる者も観る者も同じ日本人(としての感性・本性を持つ人)でなければ、能は理解できないのです。


 何百億円も金をかけて行われるオリンピックで、優勝だ、負けて悔しいなんて大騒ぎせずとも、東京は大森あたり、しょぼい町の体育館で無料で見れる日本拳法の生(なま)の試合の方が、よほど大きな感動をダイレクトに受けることができる。

 私が今回、鹿児島から北海道まで、休みなくバスを乗り継いで行くくらい、この歳にはキツい旅程をこなせたのも、彼女たちが元気一杯、敵に向かって飛び込む姿をその都度思い出すことができたから。 

 (フリをしているだけで心のこもっていない、つまり、にせもので空虚な記憶に比べ、心から感動した真実の思い出とは、たとえそれが一瞬の出来事であったとしても、永遠に心の記憶に残る。冥土の旅における楽しい駅弁(お供)ともなるでしょう。)

 ステーキや焼き肉、マムシドリンクや栄養ドリンク(なんて飲んだことはありませんが)なんぞより、火の玉のような精神が炸裂する姿を見るという「精神的な栄養剤」の方が、よほど強力で長持ちするということを、今回の大会で知った次第です。

2019年5月18日
平栗雅人


菜の花や月は東に日は西に

 5月11日の大会の後、5月16日のたそがれ時、海岸線を走るバスから私が見たのは、西の山間《やまあい》に沈みゆく太陽と、それに呼応するかのようにして、静かに海の上、宵闇の空に現れた白い月でした。( 蕪村が見たこの情景とは、5月6日頃ではないかといわれていますが、因みに今日2019年5月19日が満月です。)

 中堅として火の玉のように熱い拳法を演じた2年生が試合場から消えると、今度は月のように、静かだがくっきりとした存在感をもつ4年生が大将として登場する。
 太陽は熱すぎて眩しすぎてその姿形を見ることはできないが、月はじっくりとその美しさ(戦う姿・技術)を見ていられる。

 私は学生時代、7人制の試合ばかり経験してきたので、それぞれの出番がもつ役割というものがぼやけてしまって、よく理解していなかったようです。
 今回、女子の3人制という究極まで切り詰めた試合形式を見ることで、改めてそれぞれの役割というものを理解できました。つまり、先鋒・中堅・大将とは、芝居に於ける「序・破・急」或いは「起・承転・結」に相当する、ということ。
 
 先鋒というのは強力な錐で穴を開ける。そこに中堅が食い込んで引っかき回し、最後に大将が決着をつける。「解き また結ぶ」 (種村季弘 「ドイツ怪談集」「こおろぎ遊び」)。


 私は先鋒と大将の重要性はわかっていたのですが、今ひとつ中堅の役割というものが自分自身よく飲み込めていなかったようで、今回の戦いぶりを見て、その重要性を理解できたようです。

 この試合、彼女自身は負けたにもかかわらず、勝ったのか負けたのかわからないほど、彼女の元気の良さが印象に残りました。
 彼女の前に戦った先鋒は勝利しましたが、派手な勝ち方ではなく、静かに勝ちを収めたという感じで、これはこれで良いのです。
 そして、中堅の元気のある試合ぶりは、敗れたとはいえ、このチームの攻撃精神・元気の良さを相手チームや観客に強く与えました。


 こういう活気のある場を自分の前の演者が作り出してくれると、それに続く者(大将)は非常に気持ちが楽になる。一勝一敗で来て、この戦いは最後の自分にかかっているというプレッシャーがあるにせよ、自分の前の選手が思いっきり試合場を飛び回り、引っかき回してくれたその「動きの軌跡」というのは、大きな安心となったにちがいない。
 中堅の選手が試合に負けても、その負け方が、元気いっぱいに・攻撃一色で敗れたのであれば、それに続く者としては、むしろ「よーし、私が骨を拾ってあげる。落とし前をつけてやろうじゃないか。」という強い気持ちで試合に臨めるのです。

 中堅の選手とは試合全体の要《かなめ》。
 先鋒が勝てば、更にここで勝ちを固めて大将につなげる。
 先鋒が負ければ、その沈んだ雰囲気を一気に盛り返して大将戦につなげる。
 元気いっぱいの中堅が試合の流れを変え、それが具体的な得点・勝利へとつながる。
 

 この試合、端から見ていた私だけの勝手な妄想かもしれませんが、また、このチームの大将自身非常に強い方なのですが、この中堅の元気の良さで「場をならしてくれた」おかげで、大将の持つ強さが、まるで月のように落ち着いて確実に勝利を得る、という流れになったのではないでしょうか。

 これぞチームワーク、個人競技に於ける集団での連係プレーの醍醐味。
 個人の果たす努力がチームとしての成果に精神的・形而上的に貢献する。
 単に勝った負けたではない、1か0《ゼロ》だけではない、目に見えない心情的・雰囲気的な戦いの様相を、この試合で見せてもらったのです。

2019年5月19日
平栗雅人


応援

 昨年9月の日本拳法総合選手権大会。

 小中学生の試合では、家族の方々が大きな声で声援を送っていました。
 ママさんなどはメガホンを使い「先に打て、待つな !」なんて、コーチや監督みたいです。
 自分の子供が一本取ると、メガホンを叩いて隣の親父と一緒になって、飛び上がって大騒ぎ。

 私たちの時代は「子供のケンカに親は口を出さない」なんて風潮でしたから、親が学校に来るのは年に一度の運動会と父兄参観日くらいで、いまどきの塾への送り迎えとか子供同士でキャンプに行くという行事があっても、親がついてくるなんてことはありませんでした。今と違い、専業主婦が多い時代でしたから、わりと暇だったはずなんですが。

 私が大学1年生の時、春の大会が行われる日曜日の朝、防具が2セット入ったバッグとタオルがギッシリ詰まった紙袋を下げて出かけようとすると、たまたまその日、中学校でバレーボールの試合があるので、やはり早起きしていたセーラー服姿の妹が朝飯を食いながら、「お兄ちゃん、学ランなんか着て何やってんの ? 」と聞きます。
 すると、母親がしかめっ面をしてカンガルーのボクシングのような真似をしながら、

 「これだよ、これ!」 なんて言う。
 すると妹は

 「えー! 大学生にもなってまだそんなことやってんの? ばっかみたい。」
 「そうなんだよ、いい歳してバカなんだよこの子は。」
 更に、母は私を睨みつけながらこう言います。
 「人にケガさせるんじゃないよ。小学生や中学生じゃないんだから。」

 まあ、これは私だけのことではなく、当時の私たち日本拳法部では、親も兄弟も日本拳法というか、子供のクラブ活動なんかには無関心。親兄弟が大会へ応援に来るなんて部員は一人もいませんでした。
 大学生にもなって、まいにち親と一緒に夕御飯を食べている三堂地という(私と違い親と仲良しの)部員ですら、部活のことを話すことがあるにせよ、それ以上の関心を示されることはなかったようです。
 中央や立教、早稲田や日大なんかは、大きな大会になると、部員の彼女や友人たちが応援に来ていたようでしたが、親まで来ていたかどうかは定かではありません。

 大学時代、早稲田に行った高校時代の友人からラグビーの早慶戦に誘われて、神宮まで行ったことがあります。当時でも貴重な切符だったらしいのですが、一緒に行く予定の彼女が親戚の葬式で来れなくなったので、私に回ってきたというわけです。
 私はニュートラルの立場ですから、慶応がタッチダウン(ゴール)した時、その連係プレーと走りの素晴らしさに思わず立ち上がって歓声を上げたのですが、回りの観客の視線に殺されました。
 あとで「おまえなー、早慶の人間というのは、こと早慶戦になると狂信的というくらいになるんだから気をつけろよ」なんて、笑いながら注意されました。この友人は、子供の頃から(イギリスの植民地支配の先兵である東インド会社みたいですが)イギリス・エジプト・インドと、外務省だった父親の転勤で移り住んできたコスモポリタンですから、いつでも冷静というか、決して熱くならない男でしたが、いやはや、彼らの母校愛の強さには驚きました。

 しかし、野球やサッカー、ラグビーのような試合で、選手や部員たちでなく、観客が大騒ぎするのは、それはそれでいいものです。
 相撲なんかは、枡席で焼き鳥なんぞ食いながら酒を飲み、興奮すると座布団を投げたりする。(尤も、これは素晴らしい取り組みに対する、両者への賞賛ですが。)
 歌舞伎の一見席、特に西洋の芝居における天井桟敷の観客など、その感情移入は凄まじいくらい。子供のころ、祖父に手を引かれて行った浅草の寄席では、下手な落語家は観客にぼろくそ言われて退場したりしてました。

 日本拳法の場合でも、試合を判定する主審・副審がいて、更に観客というのは、いわば第三の審判員のようなもの。審判の判定に(贔屓目としての)不満があれば、ブーイングはないでしょうが、ため息やどよめきが起こるのは自然のことです。

 ただ、私は今回の日本拳法という武道の大会で、自分の贔屓の選手やチームが一本取ったり勝つとはしゃぎまくる大人たちを見て、少し寂しい気がしたのです。
 これは私だけの、全くもって個人的な考えなのですが、私は日本拳法というものを「ケンカを抽象化したもの」という気持ちで、もっと言えば、武士が剣をもって戦う殺し合いというスタンス(姿勢・感覚)で見ているからだと思います。
 それほど危険で恐ろしい真剣勝負ですが、実際には防具を着け、審判が見守る中で安全に公平にやることができる。見ている方も、安心して見ていられるのだと。

 そういう日本拳法の場合の勝者とは、言わば相手を殺して自分が存在している、という感覚で私は見てしまう。ですから、「ざまあみろ、オレたちはお前よりも強いんだぞ」と言いたげな応援というのは、私には敗者(殺された者)をいたぶっているように感じてしまうのかもしれません。

 子供の頃、仲間が誰かと殴り合いになるのを端で見ていることがよくありました。
 そんなとき、自分の友人が勝った場合、私も他の仲間もガッツポーズや声援は上げなかった。
 目の前に、血まみれで這いつくばっている敗者がいるのです。
 それを見ながら、おめでとうとか、よかったなんて言えません。
 「武士の情け」ではありませんが、皆、無言でその場を離れていきました。

 

 試合場で奮戦する選手の仲間が声援で仲間を盛り立てるのは、全員で試合に参加しているという意味で当然のことです。
 しかし、観客席という、言わば審判をも見守る神の目線で見れる場にいる人たちの声援や拍手とは、試合場で戦う二人に対して与えられるものではないのでしょうか。
 勝者と敗者、両方とも良く敢闘したよ、という労(ねぎら)いの声であってこそ、真理の裏表を見ることを目指す武道らしさ、その武道に観客として参加していると言えるのではないでしょうか。

 

 もっとも、そんなママさんから、
 「あら、私たち少しはしゃぎすぎちゃったかしら ?」 なんて言われたら、
 きっと、
 「とんでもない! 僕もそういうの大好きなんです ♡♡♡ 」 などと、言ってしまうのでしょうが。

 

2019年5月19日
平栗雅人


世阿弥名言集

「秘すれば花」

「初心忘るべからず」

「巌に花の咲かんがごとし」

「離見の見」

「闌《た》けたる位」



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