閉じる


第3章 アルベド侵入の起点

 前回の、

 

(2)純粋性の削減

 

 に引き続き、

 

(3)一元性への指向

 

 をお送りします。

 

 今回で第3章は完結です。


(3)一元性への指向

一体化の願い

 

 アルベド侵入の起点に立った主体にとって、その心に抱く願いといえば、己が「自我」と、それと完全に隔絶してしまった「他者」とを、再び何らかの形で一体化させることである。


 その際、自我に相当するのは「自・真・善」であり、これらと対置される他者は「他・偽・悪」であった。

 

 これを換言するならば、自我に相当するのは「個性・合理性・良識」であり、これらと対置される他者は「他人・非合理・悪徳」ということになるだろう(なぜそうなるのかについては、第二巻で詳しく説明される)。


 したがって、主体にとっての願いは、個性と他人を一体化させることであり、合理性と非合理を一体化させることであり、良識と悪徳を一体化させることである。むろん、その一体化は混在的なものではなく、総合的なものでなければならない。


 そして、これら自我と他者が総合的に一体化されるための“実現力”となるのがアルベド侵入であり、それは天(アルベド)からの恩恵として、主体の願いを、自我の確立段階では想像もつかないような形によって実現してくれる。

 

 それはまさしく、自我の思考、想定を遙かに超越した存在(=天=アルベド)からの働きかけなのである。

 

 


アルベド侵入がなかったとしたら

 

 もしも、こうした働きかけ(アルベド侵入)がなかったとしたら、自我は、自分の力が及ぶ範囲でのみ、他者との一体化を実現するしか手がなくなってしまう。

 

 つまり、その一体化は“退行”によって実現されることになる。自我と他者とが明確に分離されていなかった「教育の段階」に逆戻りしようというのである。


 換言すれば、そうしてでも他者と一体化したいという、強い欲求が主体のなかに存しているということである。なぜなら、自我の確立には、孤独と死の恐怖という根源苦が伴うからで、人はそこから逃れたいという気持ちを抑えられないのである。


 教育の段階に逆戻りする――ということは、個性は同一化や手段化によって他人と一体になろうとするだろうし、合理性は迷信や詐術(ときには自分へのごまかし)あらゆる非合理の材料を無批判に迎え入れることによって、それらと一体になろうとするだろう。


また良識は、硬化した遵法の精神や、不本意な法律への服従によって、否そればかりでなく、あらゆる悪しき行いとナアナアになることで、一度は袂を分かった悪徳と一体化することを望むだろう。


 というのも、天からの恵みがなかろうとも、かような形でならば、自我は自らの意志によって他者との一体化を実現することができるからである。衷心からの「他者と一体化したい」という願いを叶えることができるからである。


ここに、いわば自我の勢力範囲内における「他者との一体化」の実現法がある。もちろん、それは心の進歩ではなく心の退歩であり、総合への昂進ではなく、混在への衰退ではあるが。

 

 


犠牲なき一体化

 

 しかし天は、アルベドは、自我を確立した主体に対して、そのようなことを為せとは決して言わない。天は、自らの責任のもとに、主体に対してまったく別の道を用意するのであり、それこそが天からの恵みたる「アルベド侵入」なのである。


 このアルベド侵入によってこそ、主体は、自らの価値を一切損ねることなしに、一切の価値放棄をすることなしに、心の進歩としての、総合への昂進としての「他者との一体化」を果たすことができるのである。


 すなわち、アルベド侵入である「自他一体」によって、主体は自らの個性を犠牲にすることなく他人と一体化し、また「超時性」によって、主体は自らの合理性を犠牲にすることなく非合理と一体化する。そしてまた「許し」によって、主体は自らの良識を犠牲にすることなく悪徳と一体化するのである。

 

 


個性を犠牲にしない

 

 では、個性を犠牲にしないとはどういうことだろう。


 それは、他人との一体化に際し、主体が――自分のものであれ、他人のものであれ、個性独自の特徴を抑圧しなければ他人と結び付けないところの――かの同一化や手段化を用いなくともよい、ということである。


 同一化や手段化は、教育の中期において主に見られるものであり、それゆえ同一化や手段化によって他人と一つになることは、教育の中期への退行に他ならない。

 

 そのような負担を払わなくとも、自他一体というアルベド侵入は、各々の個性を、その個性のままに総合してくれる。より正確に言えば、総合の方向性に乗せてくれる。
 

 

 

合理性を犠牲にしない

 

 つぎに、合理性を犠牲にしないとはどういうことか。


 それは、非合理のなかでも、とりわけ合理性を腐食させる作用を持つ“迷信”や“詐術性”の懐に戻っていく必要がないということである。


 教育の中期においては、かかる迷信や詐術性から逃れることはできない。換言すると、共同体のなかで、その内部に迷信や詐術性を含有していないものはなく、ゆえに、共同体に適応することは、そのまま迷信や詐術性を身に帯びることをも意味する。


 自我を確立し、非合理を排斥しきった主体が、そのような教育の中期に立ち返って、迷信や詐術性(非合理)と一体化することは退行行為に他ならず、また合理性を犠牲にすることに他ならない。


 ゆえに、迷信や詐術性というものは、空間軸における同一化や手段化と同様、合理性にとって、克服して無内容化させる以外に用途のないものである(※)。


 しかし、非合理のうちには「信仰」といったものも含まれている。かかる信仰は、合理的に把握できないものの存在を信じる点で、非合理的と言わざるを得ない。


 とはいえ信仰は、迷信や詐術性のように必然的に退行と結びつく訳ではない。それどころか、アルベド侵入である超時性からの影響を受けることによって、信仰は、主体に「原理」をもたらしさえする。


 かかる原理とは、合理的な認識や理論を統制するものであり、合理性よりも高次の認識(※※)を主体に与えるものである。それは論証の対象にはならないが、しかし統計の上では現れるし、また現実とも合致する。このような原理を受け取ることに対し“犠牲”という言葉ほど似つかわしくないものはない。

 

※人間関係の複雑な綾を思えば、同一化、手段化、迷信、詐術性、悪事、いずれも用途がないとは言えない。しかし、その価値を描き出すのは本書のような哲学書ではなく、含蓄ぶかい文学書であるべきだろう。

 

※※厳密には、これを認識と呼ぶことはできない。認識とは二元的な段階でのみ用いられる言葉だからである。ゆえに、ここで認識と言っているのは便宜上のものである。

 

 


良識を犠牲にしない

 

 最後に、では良識を犠牲にしないとはどういうことか。


 それは悪徳とナアナアにならなくとも、良識が悪徳と一体化することができるということである。


 良識にとっての他者である「悪徳」には、主に二つの要素が含まれている。それすなわち「悪事」と「悪人」であり、良識は、共同体の秩序(契約関係)や人権を守るために、それらを揺るがす、これら悪事悪人を排斥しない訳にはいかない。


 しかし「悪事」が、良識(自我)の領域に取り込んでいいはずのない、同一化、手段化、迷信、詐術性、と系列を同じくする、

 

「克服して無内容化させる以外に用途のないもの」であるのに対して、他方の「悪人」は、他人の個性、信仰、と同様に、良識にとって「己が独自性と尊厳とを犠牲にすることなく、一体化できるパートナー」なのである。

 

 それというのも、いかなる悪人であっても、彼自身の改悛と更生によって直ちに「善人」へと変貌することができるからである。もちろん、このような善人は、もはや良識にとって脅威ではない。

 

 したがって、このような「悪人=善人」と一体化するに際し、良識は何ら犠牲を払う必要がなくなる訳である。


 そして、このような一体化の活力となるのが「許し」というアルベド侵入であり、この許しは、悪人が善人に変わるまでの期間を、良識が“待つ”ことを支え、またその期間を“短縮すること”に助力を与えるのである。

 

 


アルベド侵入の限界

 

 以上のように、アルベド侵入によって、個性は他人と、合理性は非合理と、良識は悪徳と、それぞれ退行という犠牲を払うことなく、一体化の願いを実現することになる。自他一体、超時性、許し、これらが自我と他者を結び付けてくれるからだ。


 しかし、すでに何度か触れているように「アルベド侵入」には、それが形而界におけるでき事であるがゆえの、どうあっても逃れられない限界が付せられている。換言すれば、テリトリーから離れたアルベドの制限的限界が見られるということである。


 そのため、いくら個性が他人と一体化したといっても、自他一体である限り、それは全人類との全人格的な一体化ではない。

 

 自他一体における一体化とは“多人数との、ある程度の”一体化に過ぎないからだ。もし全人類との全人格的な、という無条件的な一体化を実現できたとしたら、その主体はすでに「無限」と合一しているのである。


 また、いくら合理性と非合理を一体化させたと言っても、超時性の範囲内では、まだ主体は“流れる時間”の制約から離れていない。

 

 原理は本来的には、この“流れる時間”から解放されているものなので、先に「原理」として述べたものは、実際には「原理性」と呼ばれるべきものなのである。すなわち“原理に準じるもの”という意味である。


 そうして準じている限り、主体はどうしても原理性によっては、時の流れを超越した「永遠」に合一することはできないのである。


 そして、いくら良識と悪人が一体化したと言っても、それが「許し」というアルベド侵入である限り、決してすべての悪への対応ではない。


 人が出会える人の数などたかが知れているし、また、どれほど長い期間にわたって悪人の改悛、更生を待ったとしても、主体の、死すべき人間としての運命が、かかる“待つこと”を中途挫折させずにはおかない。


 つまり、もしもすべての悪への対応をしようと思うなら、彼は無限者であり永遠者でなければならないのである。それは彼がアルベド自体である「汎神(放射的直線)」に合一しなければならないということである。


 したがって、このアルベド侵入の段階にあるのは、他者との一体化の完全実現ではなくて、あくまでも、他者との一体化の“制限的”実現であると言えるだろう。

 

 


一元性への指向

 

 ところで、実現が制限的であるならば、そこには一体化への“指向”まだ残っているということになる。そしてこの指向は、もっと抽象的に表現するなら「一元性への指向」と換言することができるだろう。


 一元性――読者には、おそらくこの語がニ元性(自我)」と対立するものとして感じられるに違いない。


 事実、一元性とは「ある事象を唯一の原理によって統合するもの」であって、そうだとすれば、世界という事象を「自と他」「真と偽」「善と悪」といった二つの原理によって分割していた二元性とは、まったく性質が異なってくるはずである。


 そして、自我と他者との一体化が完全に実現される段階とは――アルベド侵入の内容が絶対化したアルベド自体とは――テリトリー内で純粋性を保っているアルベドとは――まさに、この一元性が支配している世界なのである。


 このことは、次のような命題によって簡明に表現することができる。


「無限とは、唯一の空間的な総合原理である。
 なぜなら、無限に含まれない空間は存在しないからである」


「永遠とは、唯一の時間的な総合原理である。
 なぜならプ水運に含まれない時間(過去・現在・未来)は存在しないからである」


「救済とは、唯一の倫理的な総合原理である。
 なぜなら、救済に許されない罪悪は存在しないからである」


 アルベド侵入とは、このような一元状態に向かっていこうとする二元的な心を描写したものであり、とどのつまりは、二元と一元を結びつける“媒介”のメカニズムなのである。


既刊作品のご案内

アトラス⑦

ディエス・イレ

 

 

 

 

アトラス⑧

日満つる月

 


奥付



【2019-05-20】アルベド④ アルベド侵入の起点


http://p.booklog.jp/book/127029


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/127029



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト




この本の内容は以上です。


読者登録

正道さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について