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第3章 アルベド侵入の機構

 前回の、

 

(1)アルベド侵入とは何か

 

 に引き続き、

 

(2)純粋性の削減

 

 をお送りします。


(2)純粋性の削減

デリケートなアルベド

 

 前節において、アルベド侵入のことを、

 

「アルベドの内容が、形而界に住まう、他者との総合的な一体化を望む主体に侵入すること」

 

 といった風に規定した。


 しかしアルベドは、自らのテリトリー内においてしか、その純粋な内容を保たせることができない。

 

 もしどこにあっても自分を保てるというならば、そもそもテリトリー(縄張り)などを持つ必要がないだろうし、だとすれば、それを持たざるを得ないほど、アルベドの内容というものはデリケートなのである。


 そのようにデリケートなものが本来の居場所から離れると、つまり形而界に進出すると、どうしても内容の純粋性が損なわれてしまう。元々のものと別物になるわけではないが、その特性や規模に見劣りのようなものが生じてしまうのである。


 もっとも、主体の成長にしたがって、アルベド侵入の内容も純化してくる。

 

 区分けした表記は(本書と次巻では)しないけれども、アルベド侵入にも、教育の段階におけるような「初期、中期、後期」といった進展を見ることは可能であり、その順を追うごとに、主体の心はアルベドの内容に順応していくと言うことも可能なのである。


 かかる順応の分だけ率直に受容されたアルベドは、形而界におけるアルベド侵入(テリトリー外へのアルベドの進出)ではあっても――ことにその後期にあっては――限りなくアルベド自体に近い内容を持つことになるだろう。


 だが、そうだとしても、結局それはアルベド自体とは一線を画している。アルベドがテリトリーの外に来る限り、その純粋性は、どうあっても損なわれずにはおかれないからだ。それぐらいデリケートなものなのだから仕方がない。

 
 だから、そういう意味で、アルベド侵入とは「純粋性が削減されたアルベド」であることを拭いきれはしないのである。


 そうすると、ここに前節におけるアルベド自体の内容とは異なった、アルベド侵入独白の内容が現れてくることになる。次に、これについて紹介することにしよう。

 

 


空間軸におけるアルベド侵入=自他一体

 

 まず空間軸におけるアルベド侵入の内容は「自他一体」である。これはテリトリー内の無限が、進出した形而界において、その純粋性を削減された姿だと言っていいだろう。


 無限にあっては、自分のものを含めた「人類全体の個性を包括した一者」が主体の自己像であったが、自他一体では、そこに「他人と相容れない自分」あるいは「二元的な自我としての自分」が残存することを否定することができない。


 しかし、その自分に対比されるところの他人が、単に自分から切り離されただけの存在ではなく、ある程度の一体性を持っているというのが「自他一体」の性質なのである。


かの無限が“すべてが一つである”というレベルでの一体化状態であるとするならば、自他一体は“多くのものが一つになりつつある”という水準での一体化状態である。

 

 


時間軸におけるアルベド侵入=超時性

 

 時間軸におけるアルベド侵入の内容は「超時性」である。これはテリトリー内の永遠が、形而界において、その純粋性を削減された姿であると言えよう。


 永遠にあっては、時間は因果性から解き放たれ、かの“流れる時間”とはまったく異なる形態としての“放射される時間”を具現していた。そこでは過去と未来という一切の時間が、ただ現在の放射物としてのみ存在していたのである。


この場合「過去は現在にあり、未来もまた現在にある」という奇妙な表現が正当なものになる。つまり永遠にあっては、現在にあって、過去と未来のすべてを見渡せるのである。


 これに対して超時性は、わりと確固たるものとしての“流れる時間”が前提として置かれることになる。そして、その流れを歪める形でもって、永遠は自分の存在を主体に顕すことになるのである(※)。

 

※第二巻で説明される原理性(原理的超時性)については、内容が複雑なのでここでは触れない。

 

 


時空軸におけるアルベド侵入=共時性、古典性

 

 自他一体や超時性は、普通「空間軸におけるアルベド侵入」「時間軸におけるアルベド侵入」として、各々が単独に生じるものではなく、空間と時間が組み合わされた世界(時空)のなかで、これまた自他一体と超時性が組み合わされた、時空的なアルベド侵入として観察される。


 したがって「超時性とは、時空的なアルベド侵入から、自他一体の部分を差し引いたもの」逆に「自他一体は、時空的なアルベド侵入から、超時性の部分を差し引いたもの」ということになる。つまり理念的な計算の上に現れる観念であるということである。


 そこで時空軸におけるアルベド侵入に話が移ってくる訳だが、この場合のアルベド侵入については「共時性」と「古典性」の二つを挙げることができる。


 いずれも汎神(放射的直線)の性質が形而界に進出することによって、その純粋性を削減させたものであるが、これらの時空的アルベド侵入には、共時性、古典性、ともに、自他一体と超時性の性質が両方とも含まれている。


 ただ、共時性が主体にとって“外部環境から内心へ”の方向性を感じさせるアルベド侵入なのに対して、古典性は主体にとって“内心から外部環境へ”の方向性を感じさせるアルベド侵入になっている。ここに、両者の特徴と相違性を見ることができるだろう。

 

 


共時性について

 

 共時性とは、これを名づけたユングによれば、


「意味深くはあるが、因果的にはつながっていない二つの事象が同時に生起する」ことであり、また、そうした現象が主体の心に刻みつける印象である。


 それは「時間と空間に関して、心的に条件づけられた相対性」であり、この相対性というのは――たとえば時間軸で言うと――時の流れ(因果律)が絶対的な、唯一な時間秩序ではないことを意味している。


 つまり、形而界に侵入してきた“永遠(放射する時間)”の要素が“流れる時間”と共存しているのである。二種の時間が見られる以上、これを相対的なものとして扱わない訳にはいかないだろう。

 

 


古典性について

 

 対する古典性は、主体の心から産出された行為、思想、創作物などが、いわば時間の経過に抗う形で現れるアルベド侵入である。


 かかる行為、思想、創作物は、忘却の運命にたてつき、長い時間を経ても新鮮なものとして人々を感動させる(超時性)。


 また、同時に空間的にも、かかる行為、思想、創作物は、地域的な広がりが必然的に生み出す文化差を貫き、あらゆる国籍の人々に共感を与えることになる(自他一体)。

 

 


倫理軸におけるアルベド侵入=許し

 

 倫理軸におけるアルベド侵入の内容は「許し」である。これはテリトリー内の救済が、形而界において、その純粋性を削減させたものだと言えるだろう。


 救済にあっては、すべての人間に対して救いの手が差し伸べられているが、「許し」にあっては、救いの対象は、どうしてもすべての人間という訳にはいかなくなる。


要するに救済は「無制限な力をもった汎神による、全人類に対する救い」であるが、許しは「限界を持った人間による、限られた人数と純度による救い」なのである。

 

 


テリトリー外での制約

 

 以上、アルベド侵入の内容として、空間軸における「自他一体」、時間軸における「超時性」、時空軸における「共時性」と「古典性」、倫理軸における「許し」を挙げた。


 その内容はさまざまであるが、いずれのアルベド侵入も「アルベド自体の内容が、そのテリトリーを離れたために制約を受けたもの」という点ではまったく内容を同じくしていよう。


 なお、ここで示しだのは概観に過ぎないけれども、次巻『アルベド侵入』では、これと同じ主題が実例を交えて詳細に考察されることになる。

 


補遺 第二福音書より 座標7 アルベド侵入の中期

アルベド侵入との共生

 

 アルベド侵入の中期を特徴づけるのは「順応とスランプ」である。


 初期においてアルベド侵入は、主体に「自分を戸惑わせる不思議なもの」、「たまにしか巡ってこない稀有なもの」といった印象を与えずにはおかなかった。


 が、中期におけるアルベド侵入は、主体にとって、もはや"不思議なもの"でも"稀有なもの"でもなくなっており、むしろ日常的に現れる、当然のことになっている。


 インスピレーションにしても、驚きのうちに恵まれるというよりは「仕事に集中することで、それを呼び込む」といったスタイルになっており、実際「自分が呼び込めば現れるはずだ」と思えるぐらいの自信はついている。

 

 となれば、アルベド侵入に関して、それなしの自分を想定することのほうが、よほど難しくなっていることだろう。


 つまり主体は、アルベド侵入という現象に順応しているのだ。


 そのような状況に驚いたり、当然のことと思っていないのは、主体ではなく"周囲の人々"である。彼らは、主体の仕事のクオリティの高さや、その人間離れした魅力に、目を瞠らざるを得ない。彼らは呆気にとられて言うだろう、


「ここに一人の天才が現れたのだ」と。


 事実、天才と呼ばれる人たちを形成するのは、アルベド侵入という力に他ならない。天才という言葉の定義には、色んなものがあるだろうが、何よりも「アルベド侵入と共存している」ということが、第一義としての"天才の定義"なのである。


 アルベド侵入の中期にある主体は、かの偉大なる力と共生している。そして、その力と共にあるときには、宗教的ともいうべき至福を感じている。

 

 


天才モーツアルト

 

 そうしたアルベド侵入の中期の体現者、すなわち"天才"として真っ先に思い浮かぶのが、音楽家のモーツアルトである。彼がアルベド侵入を受けていたことは、まず間違いないところで、それをモーツアルト自身も自覚していたようだ。


 彼の妻コンスタンツェには、ゾフィーという妹がいて、彼女が晩年のモーツアルトの、その"アルベド侵入を受けているところ"の様子を書き残してくれている。


「そんなときの彼は、混乱した脈絡のない話し方をしたばかりでなく、ときとして、普段は聞きなれぬたぐいの冗談を口にした。それどころか故意になりふりかまわぬ挙動を見せさえした。しかしそのさい、考えこんだり思いをめぐらしたりしている事柄は、なにひとつないように見えた」


 少々分りづらい文章だが、ここには、モーツアルトの「普段と違っている様子」と「考え込んだりしなくとも仕事が進んでいく様子」が確かに描かれている。


 そして、そうした状態で書いたと思われる作品に『第二ハフナー・セレナード』があるのだが、これに関して面白い文章があるので紹介したい。

 

 モーツアルトはこの曲を、父親にせかれて非常な早さで作り、作るそばから故郷に送った。それから数か月たって、戻ってきた自分の作品を見て、こう書いている。


「新しい≪ハフナー・シンフォニー(=第二ハフナー・セレナード)≫には全く驚きました。言葉を失うばかりでした。この曲はすばらしい効果を発揮するでしょう」


 あの抜群の記憶力を持つモーツアルトが、わずか数か月前に自分の書いた作品を覚えていないのだ。彼はこれを書いている時に、本当に我を忘れていたに違いない。

 

 井上太郎『わが友モーツアルト』より

 

 このようにモーツアルトは、創作時のことが記憶にも残らなかった作品を激賞し、あまつさえ、それが「聴衆に対してすばらしい効果を発揮するでしょう」などと断言している。


 私がこの文章を最初に読んだのは学生時代だったが、


 (忘れてられる作品がすばらしい?)


 と、この点をずいぶん不可解に思ったものだ。

 

 


覚えていない作品だからこそ

 

 しかし、今ならば事情が分かる。


 つまりこうだ。

 

 モーツアルトは、かつて自分が「第二ハフナー・セレナード」を作曲していたとき、そこに「記憶をする主体である"自分"がいなかった」ことを思い出した。あるいは「いなかったのだろう」と――それに類することは、日常的に起きているので――ほぼ確信に近い推定を下したのだ。


 実際に彼は、そのとき、アルベド侵入に自分の体を明け渡していたはずだ。


 もっと分りやすく言えば、その時のモーツアルトの肉体にあって、モーツアルトの自我は、ほとんどお留守の状態だった。それだから彼は、後日、自分が書いたはずの楽譜を見ても、作曲時のことを、まるで思い出すことが出来なかったのだ。


 結局「第二ハフナー・セレナード」を作曲したのは、モーツアルトの自我を押しのけた、アルベド侵入の力であった。


 そして、であるならば――初期の冒頭で語ったとおり――その内的恩寵(アルベド侵入)は、必ずや、外的なカリスマ性に転換されるはずである。つまり、そうやって作った曲に、"カリスマ的な求心力"が備わるということだ。


 だからこそ、モーツアルトは聴衆に対する、その曲の影響力、効果を確信せずにはいられなかったし、事実、第二ハフナー・セレナードの改作である『ハフナー・シンフォニー』は大いに聴衆の心を掴んだのである。


 もっとも、モーツアルトによる「アルベド侵入的創作」の結実は、ハフナー・シンフォニーに限らない。彼の創作態度から言って、むしろ、その創作の大部分がアルベド侵入によるものだと言っても良いのではないか。


 まことに、アルベド侵入は、つねにモーツアルトの傍らにあった。そして彼は、35年という短い人生を、インスピレーションの泉が枯れる前に――つまり本格的なスランプが訪れる前に――疾風のような速筆とともに駆け抜けてしまったのだ。


 そんなモーツアルトが書き上げた作品数は、600を超えている。そして、その中の多くが、カリスマ的影響力を備えているのである。

 

 


深刻なスランプ

 

 モーツアルトは、そのように、スランプが来る前に"勝ち逃げ"の人生を終えたが(それは別に、彼の生活が安楽だったことを意味する訳ではない)、一般的な寿命を送る者にとっては、ことアルベド侵入に関して、そのような「勝ち逃げの人生を生ききる」ことは難しい。


 ほとんどの場合「アルベド侵入の中期」の宿命として、主体のもとにスランプが訪れる。その理由は次のごとくだ。


 アルベド侵入の中期にある主体は、たいがい「ある一つの分野における天才」である。

 

 今述べた音楽家のモーツアルトや、画家のルノワール、文学のロマン・ロラン、哲学者のショーペンハウエルなど、天才には"何々の"天才という言い方がなされる。それは、自我の確立段階における、専門分化の名残かもしれない。


 そして天才である主体が、その、限られた"ある分野"で、ルーティン・ワーク(繰り返される日課)を続けていくと、どうしても、彼の心から緊張感が失われてしまう。つまり気が緩み、さらには仕事に"倦み、飽きる"わけだ。


 こうなると、アルベド侵入は起こらなくなる。まず第一に「仕事に集中することで、アルベド侵入を呼び込む」ということが出来なくなるからだ。


 だが、それだけではない。それ以外に「このときの主体の心象が、自我の確立段階よりさらに下の、だいたい教育の中期あたりに似てくる」ということが、アルベド侵入が起こらなくなる、第二の理由になる。


 すなわち、アルベド侵入の中期と、教育の中期とは上下シンメトリーを描く位置関係にあるので、何らかの契機があると"相似性による転換"が起こりやすいのである。


 アルベド侵入の中期における、アルベド侵入と共生するための"意識の穴"みたいなものが、いまや――形式的には相似している――教育の中期における"自律性の欠落"に転換される。

 

 つまり、主体の中で、かつての「同一化」や「手段化」が当たり前になってくる。そんな人格のもとに、アルベド侵入など訪れる訳もない。


 その結果、主体は、アルベド侵入の導きを失ったことによる方向喪失感に陥って、たびたびメランコリーに襲われるようになる。自分のことばかりが可愛そうになり、やたら子供じみた言動をとるようになる。

 

 


翻弄される天才経験者

 

 たしかに、こうなった主体は可哀そうだ。アルベド侵入に翻弄されて消耗している姿がそこにあるからである。

 

 そもそもアルベド侵入は、勝手にどこからか侵入してくるものであって、基本的に主体は、これをつなぎとめる手段など持っていない。そう、主体には何をどうすることも出来ないのである。


 こうしてアルベド侵入は、嘘のように主体のもとを去ってゆく。そして、かつての天才時代を思い出すほどに、主体の喪失感は止まることを知らない。


 せめて彼に出来る唯一のことは、ふたたび自我を確立させて、もう一度自分を「アルベド侵入の起点」に置くことだ。が、すでに栄光を味わってしまった者に、はたして、そんな地味な"二度目の土台作り"が出来るものなのだろうか。


 この深刻なスランプは、むしろ乗り越えられないまま"不遇な晩年"を形成することのほうが多い。

 

 ついつい小室哲哉氏などが、このパターンの典型として思い浮かんでしまうのだが、彼が全盛期に華原朋美さんに提供した曲と"復活した"華原朋美さんに提供した曲とは、とても同日には語れない。そこに「アルベド侵入の臨在と喪失」との明暗がはっきりと表れていると言えるだろう。


 ただし私は、世代的に、小室哲哉氏の全盛期を知っているし、彼の音楽はとても好きだった。それだけに、いまだに彼の復活を夢見てしまうのである。

 

 


スランプ克服の実例

 

 とはいえ、この深刻なスランプを、見事に克服したケースもある。その実例を挙げるとすれば、ベートーヴェンこそ、それに最も相応しいだろう。


 ベートーヴェンは、その創作の中期に、一般に「傑作の森」と呼ばれている、濃密なアルベド侵入の期間を経験している。交響曲の第3から6番。ピアノ協奏曲の第3、4番、ピアノ・ソナタの『ワルトシュタイン』『熱情』など、この頃の作品は、いずれもインスピレーションに富んでいてすばらしい。


 ところが、傑作の森を通り過ぎたあたりから、ベートーヴェンのスランプがやってくる。作品数が減り、その作品の密度も薄くなっていく。


 その薄さをごまかすために、ベートーヴェンの音楽は通俗的になった。すなわち、孤独な自我たちを呼び集めるのではなく、快さを求める聴衆たちに媚びるような音楽を作るようになったのである。


 そうして通俗的になったからこそ、かえって周囲からは賞賛されてチヤホヤされるようになった。そういう扱いに、ベートーヴェンも、決して悪い気はしなかっただろう。


 しかし、この頃の第7交響曲は、楽しいけれども飽きの来やすい音楽であり、まさに通俗曲である、戦争交響曲『ウェリントンの勝利』などは、


「これが、あのベートーヴェンの作品なのか?」と疑いたくなるほど、中身がない。

 

 まさに虚ろな響きが聞こえてくる。当時の聴衆は喜んだが――何度でもディスクで音楽を聞け、その曲の真価を確かめられる――後世の私たちにとっては、確実に『ウェリントンの勝利』を作ったころのベートーヴェンはスランプである。


 しかし、ベートーヴェンの特異性は、そのままスランプに呑まれて朽ちていくのではなく、ゼロから再構成するように、自分を鍛え直したところにある。

 

 この頃の手記に「毎日五時半から朝食まで勉強すること!」と書いてあるのだが、まるで必死に勉強をしている受験生のようではないか。


 そのおかげか、ベートーヴェンのもとには、ふたたび少しずつ、アルベド侵入の機会が与えられるようになった。スランプは克服されたのである。


 ことに『ハンマークラーヴィアのソナタ』『荘厳ミサ曲』『第九交響曲』などは、傑作の森の頃のベートーヴェンにも書きえなかった偉大さに満ちている。そこには、ほとんどアルベド侵入の後期のような響きさえ、鳴り渡っているのである。


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奥付



【2019-05-13】アルベド④ アルベド侵入の起点


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著者 : 正道
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