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はじめに

 すでに気づいている方もおられるでしょう。有料であった『教育の段階』が、すべて無料で読めるようになっています。

 

 パブーが閉設されるのに、いまさら有料設定というのも何なので、そうしました。

 

 どうか一人でも多くの人に、本シリーズが読まれますことを。

 

 では『アルベド侵入の起点』の第2章に入ります。


第2章 アルベド侵入の起点

 分析心理学はこれを自律的コンプレックスと呼んでいます。

 

 それは心の分離した一部分として、意識の支配を逃れた独立した心的生活を導き、そのエネルギー価に応じて、あるいは任意の方向に向かう意識のプロセスを妨害したり、あるいは自我より上位にある審判官として自我を思いのままに動かしたりさえするのです。

 

  ユング『創造する無意識』松代洋一訳


(1)分化の極みから一体化へ

自我と他者

 

 “分けること、識別すること”を本質的な能力とする意識は、その分化(分離性)の極限にいたって「自我」を確立した。

 

 その指標となったのが二元性であり、空間軸、時間軸、倫理軸において、それぞれ、自他二元、真偽二元、善悪二元、が現れたのだった。実際、これらの指標が現れたとき初めて「自我」はその確立を宣言されるのである。


 ところで、二元性という、この「決して交わることのない――交えてはならない――ニつの原理」のうち、自我は一体どちらの原理に属しているのだろう。

 

 すなわち、自他二元においては「自」に属しているのか、それとも「他」にか。真偽二元では「真」にか、それとも「偽」にか。善悪二元では「善」にか「悪」にか。そういうことである。考えるまでもないことかもしれないが、ここで一応の確認をとっておこう。


 自他二元の場合は、説明するまでもなく、自我は「自」に属しているだろう。自分が他人に属しているというのでは意味が通らない。


 次の真偽二元においては、自我は「真」に属しているはずである。なにしろ合理性とは「真」正なる因果律のことなのだから。


 そして最後の善悪二元においては、自我は「善」のほうに属していることだろう。良識を確立した主体が、徹底的に正しさの定義を求めたのは、自らその正しさに則して生きたいと願ったからに他ならないからである。


 したがって、自我は二元性のなかで「自・真・善」に属していることになる。そうすると「他・偽・悪」は、自我に含まれないことになるが、では、これらは自我にとって何者なのであろう。


 間違いないのは「他・偽・悪」が、自我の外側にあるということである。そこで私は、これらを“他のところにいる者”たる「他者」と呼ぼうと思う(※)。


 となると、他(自分以外のすべての人間)は空間的他者であり、

 

 偽(正当な因果律を構成しないすべての情報)は時間的他者、

 

 悪(その時その場所の正しさに当てはまらないすべての判断)は倫理的他者ということになるだろう。

 

 そういう訳だから、遡ってまとめると、二元性は「自我と他者」によって構成されていることになる。

 

※ただし“他者”と“他人”を混同しないよう注意しておきたい。他者とは他人をも含む包括的な概念である。

 

 


分離し得たものの尊厳

 

 この「自我と他者」は、主体が二元性の段階に留まる限りは、まさに決して混じり合うことのない二つの原理である。そして、この徹底した分離性は、教育の段階と比べれば、よほど洗練された、友好的な人間関係を現出させることができる。


 それもそうだろう。なにしろ“複数の自我確立者だけによって構成された共同体”が存在すると仮想するならば――それは観念的なコスモポリスであり、現実にはどこにもない国、ユートピアである――その共同体には「自・真・善」しか存在していないということになるのだから。


 すなわちそこには、無責任な群衆心理も、無自覚な人権侵害も、あやふやな認識力で矛盾、迷信を受け入れる者も、詐術によって騙す者も、法律の拘束感に憤る者も、悪どいことを正義の名のもとに行う者もいないのである。


 実際、共同体にとっての不幸は、そのような「他・偽・悪」を強度に体現している人間が属していること、あるいは「他・偽・悪」を峻別できない人間が、あまりにも多く属していることである。


 そして、悲しいけれども、かようなことを現実として見ることは、実に容易なレベルで可能と言えよう。国営システム上、国民のメンタリティが「教育の中期」に留まらざるを得ない共産主義国などはその代表格である。


 だが、共同体に所属する者がすべて自我を確立していたならば、そうした不幸はなくなる。そもそも不幸が発生する最初の芽が摘まれてしまっているのである。換言すれば、厳密な契約関係のもとでならば、すべての人間は自らの尊厳を死ぬまで守り続けられるとすら言うことができるだろう。


 確かに別原理としての他人しか持たない彼らは孤独であろう。別原理としての非合理しか持たない彼らは、死の恐怖を越えるものを何も持たないだろう。また、別原理としての悪しか持たない彼らには、裁く者としての冷たい雰囲気が付きまとうことになるだろう。


 しかし、その静穏な孤独、ため息混じりの諦観、人間味なきルールの支配は、また完璧な平和の風景でもある。

 

 


1の保存を超える意志

 

 だが、だがしかし、はたしてこれだけでいいのだろうか。このようになることだけが人間の生き方の目標なのだろうか。


 契約思想によって、他人と適切なコミュニケーションを結べるようになったとはいえ、それはあくまでもギブ・アンド・テイクの関係である。

 

 それは恒久的に続く“1の保存”であって、たとえば1(10割)から3割が引かれて7割になったときに、その7割に3割を補填すること(=10割=1)を繰り返すだけの関係である。


 そこには1以上のものが何もない。心に何の財産も蓄えることができない。いわば、ただ自分が自分である、というだけの話である。自我が自我である、というだけの話である。


 世界には、いまだこの1すらも守られていない国がある以上、それは確かに尊いことではあろう。が、だとしても、それでいいのか。それだけでいいのか。


 結論を言えば、人間の心は、この段階で満足できるようにはできていない。


 それについて説明するにあたり、ここでは空間軸だけを例にとることにしよう。


 さて、たとえ自他二元の帰結として、他人の個性というものが、結局は理解不能であることを認めなければならないとしても――この事実が孤独の源泉である――私たちは、そのことを受け入れるだけでは、決して心の満足を得ることはできない。


 いや、それどころか私たちは次のように思うのである。私たちは確かに他人と心を通じ合わせることができる、私たちは確かに他人と心を通じ合わせたことがあった、私たちは他人と一つの思いを共有し合ったことがあった、と。

 

 


認めずにはいられないこと

 

 これはカント的な現象(二元性)の立場に立てば明らかに非合理である。他人の心という物自体(他原理)を認識することは絶対に不可能であるからだ。

 

 だから、もし他人と心を通じ合わせたとしても、それは私が、そのように思っているに過ぎない、もっと言えば、そのように思い込んでいるに過ぎない、ということになる。


 しかし、理論的な根拠はなくとも、たとえ非合理的と言われようとも、私たちは皆 “他人と心が通じ合う” という体験を否定することができない。


 殊に、友と同じ涙を共有するとき、恋人と同じ笑顔を共有し合うとき、私たちは一つの思いを共有するがゆえに、その相手の気持ちを理解していると思わずにはいられなくなるのである。

 

 また、乳児期における母子関係などを見ても、そこに両者の心が同通している事実を認めない訳にはいかなくなる。


 そして、こうして、まず分離性の事実(自我の確立、二元性)を認め“それでもなお”人間と人間の結びつきを信じるとき、私たちは合理性によって閉じられた二元性の段階から、非合理性によって聞かれた新しい世界へと、頭一つ分だけ抜け出ることになる。


 論証には適さないが、確かにその存在を語ることができる、人の心に満足を与えてくれる世界へと参入することになるのである。

 

 


非合理のうちにある満足

 

 その世界では、ギブ・アンド・テイクの限界は破られ、テイク・アンド・テイク、すなわち、他人(人々)には何かを与え続け、他人からはその提供に見合った補填が与えられなくても、主体の人権(個性)が守られる、という不思議な秩序が現れる。

 

 主体は他人に与え続け――他人が汲み尽くせないほどのものを与え続け――その主体自身に対しては、存在を論証できない“非合理的存在”が無尽蔵の補填を与えてくれるのである。


 つまり与えられる側にとっては、


「どうして彼は、私からのお返しも期待せずに、私にこうも尽くしてくれるのだろう」


 と思うようなことが起こり、与える側にとっては、


「他人に認めてもらえなくても、私には、自分を認め、支えてくれる存在を感じることができる。だから、他人に尽くすことができるのだ」


 ということが起こるのである。


 その最も高次で極端な例が、誰からも愛されなかったのに、すべての人々を愛したイエス・キリストであると言えるだろう。

 

 ここにギブ・アンド・テイクはなく、ただテイク・アンド・テイクだけがある。そして、かかるイエスを支えたのは、天の父という明らかに非合理的な存在だった。


 いずれにせよ、ここでは「他人に与えるためには、他人から相応の補填をいただかなければならない」という、ある意味ではせせこましい“1の保存”という秩序は乗り越えられている。

 

 1は2になり3になり、いつしか無限にもなって主体と人々の心を満たしていくだろう。そして、そこにこそ、まさしく人間の満足は存在するのである。

 


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 本書は、福音書シリーズで一番の人気作である。第一福音書など、第七福音書の半分の閲覧数も持ってはいない。たしかに著者としても「これは面白いだろうな」とは思う。


奥付



【2019-04-22】アルベド④ アルベド侵入の起点


http://p.booklog.jp/book/126659


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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