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第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-13)

§§  第19章全体の構成をさぐる

 

  ただ、この第19章は全体の構成が少しややこしいので、もう一度、それぞれのパラグラフの課題を書き出してみよう。

 

【1】貨幣取扱資本を商品取扱資本と比較しながら、商品取扱資本と同様に、生産的資本の流通過程における一機能を特殊的資本として担うものに過ぎないことがまず述べられている。


【2】ここでは貨幣取扱資本というのは、生産的資本や商業資本の一契機である貨幣資本の運動を、ただ純粋に技術的な諸運動として担うものであるとういうことと、貨幣取扱資本は、それを生産的資本と商業資本の全階級のために、そうした技術的操作を集中させて担うことが指摘されている。

 

 (つまりこの【1】~【2】は貨幣取扱資本の一般的な規定と位置づけがなされているといえる。)


   (そして【3】からは貨幣資本の運動を具体的に見ていこうとしている。ただ貨幣資本の運動といっても、その流通過程における運動というのは、単純な貨幣流通であり、単なる貨幣としての機能でしかない。つまり『資本論』の冒頭ですでに明らかにされた諸機能でしかないわけである。)

 

【3】ここでは資本の運動は不可避に流通過程を経なければならないこと、そしてそのために販売と同時に購買を常に繰り返していることが指摘されている。


【4】そしてこの流通過程での売買において、資本家たちは絶えず多くの人たちに貨幣を払い出し、また受け取る操作をなさねばならないこと、そしてこうした操作はそれ自体一つの労働を必要とし、それが一つの流通費を形成すること、そしてそれが特殊な資本によって集中して担われ、資本家階級全体のために行なわれることによって短縮されるとの指摘がされている。

 

  (つまり単純な貨幣としての機能をであっても、貨幣の機能を操作するためには一つの労働を必要とし、貨幣取扱資本はそれを集中させて全資本家階級のために行なうことが指摘されているわけである。)

 

【5】ここでは蓄蔵貨幣の問題が論じられている。これも資本の運動の不可欠の一契機であり、資本のある部分は蓄蔵貨幣の状態にあり、あるときはそれは流通手段や支払手段として流通に出てゆくかと思うと、同時に流通状態にある貨幣が蓄蔵貨幣として再形成されることもあり、そうした常に流動状態にあることが指摘されている。しかしそうしたことから、蓄蔵貨幣の保管や記帳等が必要となり、それはまたそれで労働を必要として、流通費の原因になることが指摘されている。

 

  (これも貨幣の抽象的な機能の一つである蓄蔵貨幣の機能であるが、それに伴う技術的操作として保管や記帳等が指摘されている。)

 

【6】ここでは分業の発展によって、こうした貨幣資本にまつわる諸操作をもっぱら担う特殊的資本が分離してくることが指摘されている。そしてそれらは二重の意味での分業を形成する。一つは社会的な分業ともう一つ作業所内の分業である。ようするにここでは貨幣取扱資本を分業の発展という観点から捉えているといえる。

 

  (この【6】からは若干論点が変わって、貨幣取扱資本を分業の発展という観点から捉えている。そして分業の発展としてはそれは二重の意味をもっている。一つは社会的分業という意味であり、もう一つは作業所内の分業という意味である。)

 

【7】こうして分業の発展によって、貨幣取扱資本として分離したものが行なう操作というのは、貨幣そのもののさまざまな規定性と貨幣そのものの諸機能から生じるのだとの指摘がなされている。

 

  (ここでまでが、貨幣取扱資本が生産的資本や商品取扱資本の循環の一契機である貨幣資本の運動の諸機能を純粋に技術的に代行するものであるとの規定の内容が深められて規定されたことになる。【7】パラグラフはその締めくくりといえる。)

 

  (しかし【8】パラグラフから論述の転換が見られるような気がする。ここからは貨幣取扱資本の歴史的な叙述と思えるものが続く。ただ歴史的叙述といっても、そもそも貨幣そのものが歴史的にはどのようにして生まれてくるのかということから説き起こしている。貨幣取扱資本の本源的なものは、貨幣の二重の機能、すなわち国内鋳貨と世界貨幣としての機能から生まれてくる、両替業と地金取扱業であるというような考察がなされている。)

 

【8】ここではまず貨幣制度が発展してくるのは共同体と共同体が接触するなかで生じる商品交換のなかであることが言われている。

 

  (これ自体は『資本論』の冒頭篇で指摘されていたことである。ただそれを確認しているだけ。)

 

   (【9】原注、【8】の参考文献として『批判』の当該箇所が指摘されている。)

 

【10】商品交換とそれに伴う貨幣制度が発展してくるのが共同体と共同体とが接触するところからであるように、貨幣取扱業もまずは国際的な交易の場で発展してくることが指摘されている。それが両替業である。つまりここから貨幣取扱業の歴史的な叙述が始められている。その最初のもの(貨幣取扱業の自然発生的基礎)は両替業であり、両替業が為替銀行に発展する等々。

 

   (【11】【12】原注b)で両替業や振替銀行などの歴史についての抜粋)

 

【13】ここでは地金取扱業は、奢侈品製造の原料としての金銀を取引する必要から発生するが、それが世界貨幣としての貨幣の諸機能を媒介する商業(地金取扱業)の自然発生的な基礎になること、そして金銀の運動そのものは二重のものであること、その産源地から出て世界市場に行き渡る運動と国民的流通部面あいだで行なわれる運動(往来)である。こうした地金取扱業が自然発生的な基礎をなすことは、イギリスの金匠が銀行業者として機能してきたことに示されている。


【14】ここでは両替が世界貨幣の機能から如何に必要になるかが、述べられている。一つは国内鋳貨が世界貨幣としてはその局地的な性格を脱ぎ捨てねばならないこと、もう一つは金と銀が両方世界貨幣として流通する場合、その両者の変動する価値比率に応じた両替が必要になることなどである。それを貨幣取扱業は自身の特殊的営業にするわけである。


【15】ここでは【13】と【14】の纏めがなされている。両替業と地金取扱業というのは、貨幣の二重の機能、すなわち国内鋳貨と世界貨幣という貨幣の機能から、生じるものであるが、それが貨幣取扱業のもっとも本源的なものだということである。

 

  (ここまでで一つの区切りになっていて、その次のパラグラフからやや問題が転換している。)

 

【16】ここでは資本主義的生産における蓄蔵貨幣の二つの形態がいわれている(ただそれは商業一般における蓄蔵貨幣の資本主義的生産における再現だとの指摘もある)。二つの形態というのは、一つは流通手段および支払手段の準備金のことであり、もう一つは遊休貨幣資本あるいは蓄積ファンドのことである。そしてこうした蓄蔵貨幣の形成は、その保管や簿記等々を必要とし、その支払いや収納、支払金の支払いと受領、諸支払いの決済等々の諸作業とがあり、それを出納代理業が商人や産業資本家に代わって行なうというわけである。

 

  (つまり【16】パラグラフからは蓄蔵貨幣の二つの形態が指摘されて、その資本主義的生産における再現が語られ、そこから出納代理業が論じられている。つまりそれまでは両替業と地金取扱業が論じられたが、ここからは出納代理業が問題になっているわけである。)

 

  (【17】【18】原注a)として両替業と出納代理業がネーデルランドでは政府によって分離されていたが、それを政府によってむすびつけたものがアムステルダム振替銀行であること、ヴェネツィアの金庫組合も振替銀行の最初のものだったとの指摘がある。)

 

【19】ここでは以上で考察してきた貨幣取扱業は貸借や信用取引と結びついて発展してきたのであるが、そしてこの両者が結びついた時こそ、貨幣取扱業は完全に発展しているといえるのだが、われわれは貸借や信用取引を捨象して論じてきたことが述べられている。というのは貨幣の貸借や信用取引というのは次章(第5章)の利子生み資本で取り扱うべきものだからというわけである。

 

  (ここで一応の貨幣取扱資本の歴史的な考察は終わっているといえる。貨幣取扱資本の本源的形態としては貨幣の国内鋳貨と世界貨幣という二つの機能に関わる両替業と地金取扱業とがあり、これらとは別個に蓄蔵貨幣の管理に関わる出納代理業があることが指摘されていた。)

 

【20】ここから再び地金取引業者が問題にされているが、観点が若干違っていて、地金取引は商品取引の結果を媒介するだけだということが強調されている。

 

  (ここから再び地金取扱業が問題になり、これはすでに【13】パラグラフで論じられたのではないか、と当初は疑問に思ったのであるが、しかし観点が違っていること。ここからは貨幣取扱資本というのは現実の商品生産(生産的資本)や商品流通(商品取扱資本)のただ結果だけに媒介するだけだという、そうした貨幣取扱資本の受動性的側面、被規定性的側面を論じることが本旨であるように思える。)

 

【21】貨幣取扱資本の被規定性的性格を論じるために、貨幣の諸運動やもろもろの諸規定が商品流通そのものに規定されていることが指摘されている。そしていまではそれは総再生産過程の(ということは社会的物質代謝の)一契機でしかないということ。金銀の産源地からの運動やさまざまな国民的流通の諸部面間の流通にしても、いずれも国内および国際的な商品流通によって規定されていることが確認されている。そして蓄蔵貨幣も国内商業や外国貿易の準備や流通過程の必然的な沈殿物でしかないということも確認されている。

 

  (ようするに貨幣取扱資本というのは貨幣の諸機能に関わるものであるが、そもそも貨幣のすべての運動というのは商品の生産やその流通に規定されたものであるように、それは生産的資本や商品取扱資本の運動に規定されたものに過ぎないことが言いたいのであろう。)

 

【22】ここでは【21】パラグラフを踏まえて、貨幣流通全体が、商品流通のたんなる結果であり、資本主義的生産のただ流通過程に関わるだけであるから、貨幣流通そのものも商品流通の一契機として、貨幣取扱業にとっては与えられたものであり、貨幣取扱業はその技術的操作にかかわるだけだという限定性が指摘されている。また蓄蔵貨幣の形成についても、貨幣取扱資本がそれを形成するのではなく、ただ形成されたものを管理し、その量を必要最低限にするための技術的手段を提供するだけであること、つまりこの場合も被規定的であることが指摘されている。こうしたことから銀行業者たちが扱う手形や小切手は、銀行業者や手形交換所などがそれを増大させたり縮小させたりすることはできず、それらはただ商業世界のそうした運動の結果にコミットするだけであることが指摘されている。そしてその結果として、売買にもとなう費用を節約し、時間を短縮し、回転に必要な現金の量を縮小する等々の機能を果すわけである。


【23】だから貨幣取扱業というのは、その純粋な形態では、商品流通の一契機である貨幣流通の技術と機能に関係するだけとの指摘がある。


【24】ここでは貨幣取扱資本の場合には生産的資本の循環やその流通過程を代行する商品資本の循環のような資本の特殊的形態を示すことは出来ないことが指摘されている。


【25】ただ貨幣取扱資本がそうした技術的媒介をするということは、商人や産業資本家たちが個別にこうした貨幣資本の諸機能を果すために必要とする追加的な費用を縮小するということを意味している。貨幣取扱資本も資本であるかぎり資本一般の運動G-G'の運動をするが、G-G’の媒介は、ただ変態の概念的諸契機に関連するのではなく、ただその技術的な諸契機に関連するだけだとの指摘がある。


【26】貨幣取扱資本が取り扱う貨幣資本総量は流通のなかにある商人や産業資本家たちの貨幣資本だということ、貨幣取扱資本はそれをただ媒介するだけに過ぎないことが指摘されている。


【27】貨幣取扱資本の利潤は生産的資本が生み出す剰余価値からの控除に過ぎないことが指摘されている。


【28】貨幣取扱資本の技術的な諸操作は、同時に生産的資本や商品取扱資本たちがそうした操作を不要にするのではなく、それらにおいても引き続き部分的には行なわれるのであり、そした意味での二重化が生じることが指摘されている。

 


第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-14)

 §§  もう一度、全体の構成を纏めてみよう。

 

 

・【1】~【2】貨幣取扱資本の基本的な位置づけと規定


・【3】~【5】
貨幣の具体的な運動(抽象的な諸機能=流通手段、支払手段、蓄蔵貨幣)から貨幣取扱資本がそれらの機能を集中して担う特殊的資本であることが指摘されている。

 

・【6】~【7】ここでは貨幣取扱資本を分業の発展という視点から位置づけされている。それは二重の意味での分業を発展させる。

 

・【8】~【19】貨幣取扱資本の歴史的な考察が行なわれている。これによって貨幣取扱資本が両替業(国内鋳貨)や地金取扱業(世界貨幣)と出納代理業(蓄蔵貨幣)から出てくることが指摘されている。

 

・【20】~【23】ここでは貨幣の流通が商品の流通の結果であり、それに規定されているように、貨幣取扱資本も生産的資本や商品取扱資本の結果に技術的に関連するだけであることが指摘されている。貨幣取扱資本の従属性というか被規定性という特質を位置づける意義があるように思える。

 

・【24】ここでは貨幣取扱資本は、そうしたただ貨幣流通の技術的操作に関わるという限定性や商品流通の結果だけに関わるという被規定性から、生産的資本や商業資本のような資本の循環のような特殊的循環を描くことはできないことが指摘されている。

 

・【25】貨幣取扱資本も資本であるかぎり資本の一般的形態G-G'をとるが、ここでのG-G'は変態の概念の諸契機に関連するのではなく、ただその技術的な諸契機に関連するだけであることが指摘されている。


・【26】貨幣取扱資本が取り扱う貨幣資本総量は流通のなかにある商人や産業資本家たちの貨幣資本だということ、貨幣取扱資本はそれをただ媒介するだけに過ぎないことが指摘されている。


・【27】貨幣取扱資本においても、商品取扱資本でそうであったように、二重化が生じることが指摘されている。要するに貨幣取扱資本は生産的資本や商業資本の貨幣流通にかかわる諸操作を代行するが、それはそうした操作の必要をそれらの資本から無くすのではなく、部分的にはそうした操作をそれらの資本においても行なわれ、その意味で二重化が生じるということである。これで全体が終わっている。

 

  こうして全体を見てみると、次のような構成が見えてくる。

 

  つまり最初は貨幣取扱資本というのは、商品取扱資本がそうであったように生産的資本の流通過程における一つの契機である貨幣資本が特殊的資本として分離し自立化したものとの基本的位置づけが与えられる。
  だからそれは貨幣資本の運動が自立化したものだが、貨幣資本も流通過程では、単なる貨幣として振る舞うのであり、だから貨幣取扱資本は貨幣の単純な流通における諸機能をただ技術的に担うに過ぎないことが導き出される。
  だからこうした生産的資本の流通過程における一契機である貨幣資本の自立化というのは、全体としては分業の発展のなかに位置づけられるわけである。そして分業には社会的分業と同時に作業所内の分業があることが指摘される。
  貨幣取扱資本の作業所内のさまざまな分業は、しかし貨幣の諸機能に規定されたものであるが、それらは歴史的にはさまざまな業者によって担われてきたものが、最終的には貨幣取扱業として、集約されて一つの作業所内の分業を形成するようになったということである。これを示すために、マルクスはそれぞれの業務の歴史的起源を明らかにしているといえる。これが歴史的な叙述が入ってくる理由であろう。
 貨幣の単純な諸機能からそれがさまざまな業務として担われることは分かったが、それが実際にはどういう業務になるのかは、歴史的な実践のなかで明らかになるものだからである。だからそれは歴史的を遡ってどういう業者によってそれが担われてきたのかを、まず明らかにする必要から、マルクスは歴史的叙述を行っていると思える。
 すなわち、貨幣取扱資本の作業所内のさまざまな分業のぞれぞれの分枝は、やはりそれぞれに歴史的起源をもっていること、それを歴史的叙述によって明らかにすることが歴史的叙述の本来の目的なのである。貨幣の諸機能が、どういう作業や操作によって、歴史的には行われてきたのかは歴史を探る以外には分からないことだからである。
 貨幣には大きく分けて国内鋳貨と世界貨幣があり、さらには両貨幣に共通する蓄蔵貨幣があるが、こうした貨幣の規定性と機能から歴史的には両替業(国内鋳貨)と地金取扱業(世界貨幣)、そして出納代理業(蓄蔵貨幣)が生まれ発展して、それらが貨幣取扱資本の作業所内の分業を構成することになったというわけである。
  その次にマルクスは貨幣取扱資本が商品流通の結果に関連するだけ、しかもただ技術的な操作に関わるだけという限定性を述べている。
  だから貨幣取扱資本は生産的資本や商品取扱資本のような資本の循環を描くことは出来ないこと。
  もっとも貨幣取扱資本も資本であるかぎり資本の一般的な形態G-G'の形態をとるが、しかし変態の概念的な諸契機には関わらず、ただ技術的な諸契機に関わるだけであること。  貨幣取扱資本の取り扱う貨幣資本総量も、ただ生産的資本や商品取扱資本の貨幣資本であって、与えられたものでしかないこと。
  あるいは貨幣取扱資本の利潤は生産的資本が生み出す剰余価値からの控除にすぎないこと。
  そして最後に、貨幣取扱資本においても、商品取扱資本でそうであったように、二重化が生じることが指摘されて終わっている。

 

  だからこの第19章は真ん中に歴史的叙述が入るというやや特異な構成になっているのであるが、しかしそれは貨幣取扱資本の作業所内の分業がそれぞれ歴史的には異なる業者から発していることを明らかにするためであることが分かる。だからそれはその限りでは貨幣取扱資本の歴史と言えないこともないが、しかし単純に貨幣取扱資本の歴史を叙述することが目的ではなく(それ自体はエンゲルスが第20章としたところで考察の対象なっている)、貨幣の諸機能から如何なる作業が生じてくるのかは、現実の歴史のなかでしか明らかにならないからでもあり、それを明らかにするために歴史を遡っているのである。だからその意義は、例えば第1巻の第1篇の第2章「交換過程」のなかで、途中に歴史的叙述が入ってくるのと同じような意味があるのではないかと思われる。

 

  われわれはもう一度、この第19章の展開を振り返ってみよう。貨幣取扱資本は商品取扱資本と同じように、生産的資本の流通過程における資本形態(商品資本、貨幣資本)が特殊な資本として独立化したものであった。これは資本主義的生産の内的編制を論理的に辿る過程では論理的な順序であり、展開なのである。
  しかし歴史的には、商人資本も利子生み資本(高利資本)も、それぞれ資本主義的生産に先行して独立した存在を持っていた。それが資本主義的生産に従属させられて、その一契機に貶められたのである。だから歴史的にはむしろ商人資本や利子生み資本が資本に従属されたのであるのに、論理的な展開では、まず生産的資本の運動が先にあり、その運動の一契機である商品資本や貨幣資本の運動が特殊的資本の運動として分離独立したものとして展開されるのである。だから論理的な過程は、まさにここでは歴史的な過程とはまったく反対になっているわけである。


  マルクスは『経済学批判要綱』の序文の「3 経済学の方法」のなかで、次のように書いている。

 

  〈すべての社会形態にはある一定の生産があって、それがその他のすべての生産に順位と影響力とを指定し、したがってその生産の諸関係がまた他のすべての諸関係に順位と影響力とを指定するのである。それは一般的照明であって、その他のすべての色彩はそれにひたされて、それぞれの特殊性のままにに変色させられる。それは特殊的なエーテルであって、そのなかに浮き出てくるすべての定在の比重を決定する。〉 (資本論草稿集①59頁)


  〈したがって経済学的諸範疇を、それらが歴史的に規定的な範疇であったその順序のとおりに並べるということは、実行できないことであろうし、また誤りであろう。むしろ、それらの序列は、それらが近代ブルジョア社会で相互にたいしてもっている関連によって規定されているのであって、この関連は、諸範疇の自然的序列として現われるものや、歴史的発展の順位に照応するものとは、ちょうど反対である。問題になるのは、経済的諸関係がさまざまの社会形態の継起するなかで歴史的に占める関係ではない。ましてや、(歴史の運動のぼやけた表象である)「理念における」(プルドン)それらの序列ではなおさらない。そうでなく、近代ブルジョア社会の内部でのそれら諸関係の編制こそが問題なのである。
 古代世界で商業諸民族--フェニキア人、カルタゴ人--が純粋性をもって現われたというばあいのその純粋性(抽象的規定性)は、農業諸民族が優勢であったということ自体によってまさに、あたえられている。商業資本または貨幣資本としての資本は、資本がまだ諸社会の支配的要素になっていないところで、まさにこのような抽象性において現われる。〉 (同61頁)

 

  つまり商業資本(商人資本)や貨幣資本(利子生み資本)、あるいは土地所有というのは(これらは『資本論』第3部の第4章(篇)、第5章(篇)、第6章(篇)をなす)、歴史的には資本主義以前にもそれらは独立して実在していたものである。しかしそれらは資本主義的生産が社会的生産の中心的な位置を占めるように発展する過程で、資本主義的生産の従属的契機に貶められ、資本主義的生産によって染め上げられて、資本主義的生産のなかにその一部分として編制されることになる。そうなるとそれらは歴史的には先行しながら、資本主義的生産の編制の順序としてはもっとも後に展開され、論理的展開においても、転倒して現われてくるわけである。商人資本(そしてそのなかの貨幣取扱資本)は、そうしたものの最初のものなのである。

 

 (以上で、第5篇草稿研究のシリーズの前段として位置づけられた、第4篇第19章該当部分の草稿の段落ごとの解読は終わりである。次回からは、本題である第5篇第21章該当部分の草稿の段落ごとの解読を開始したい。)

 


この本の内容は以上です。


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