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はじめに

  参りましたね、パブー閉店とは思いもよらなかった。

 

「早いうちに、代替となる作品発表の場所を見つけないと聖霊が怒るだろうなあ。アルベド・シリーズの連載を取りやめても、そちらの作業(新しい媒体探し)を進めたほうがいいのかなあ」

 

 とも思いました。ええ、正直そう思いましたとも。

 

 でも、ここまで続けた連載を、急に放棄してしまうのも気分が悪い。そりゃそうです。なにしろ、せっかく、この④で「アルベド・シリーズ」が完結するんですからね。

 

 そこで、パブーでの最後の連載だと覚悟を決めて、ここに『アルベド侵入起点』の配信を始めることにしました。ぜひ最後まで、お付き合いください。

 

 それにしても、ディオニュソス恐るべし。

 

 いま私は『罪人のモニュメント』という作品を執筆している最中でして、その執筆のなかでディオニュソスという神と格闘しているのです。

 

 そしてディオニュソスという神さまは、基本的に疫病神なんです。バチが当たるから、なかなか言えませんけれども(笑)。

 

 ほんと、執筆は遅々として進まないし、執筆している間にパブーは無くなると言うしで、本当に「やってくれるなあ」と思っているところです。

 

 ま、でも神さまを恨んでも仕方ありませんね。今は、やれるだけのことやりましょう。

 

 では本文のほうに入ります。

 

 

 


第1章 現実との調整

二元性実現の現実性

 

 これまで「自我の確立」の指標として、自他二元、真偽二元、善悪二元、ということを言ってきたが、はたして不完全なる人間が、これらの指標を完全に現すことなどできるのだろうか。

 

 つまり、混じり気なしの個性、合理性、良識など、そもそも人間が確立し得るものなのだろうか、と。かのフロイトも、


「正常な自我は、一般に正常性というものがそうであるように、ひとつの仮構された“理想”である」

 

 と言っている。


 そこで前に述べたことを繰り返すが「理想は神のもの、理想を求めるは人間のもの」である。

 

 そしてフロイトによれば、正常な自我というものは理想そのものなのだから、それを体現することは、当然のこと、人間には不可能ということになる。つまり混じり気なしの、完全な、十全な自我を確立することは「できない」のである。


 ただし、このような不幸な断言は、読者の“私も自我を確立しよう”という気持ちを挫くかもしれないので、ここではあえて「することはできない」というところを、「それは人間にとって難しい」という程度のソフトな表現に言い直しておこう。

 

 すなわち「自我の確立は、その完全性、十全性を満たすことが難しい」という風に。


 いずれにせよ、理論的な自我の確立(理想)と、現実の人間にとっての自我の確立との間にズレがあるというのであれば、本書を“机上の空論”的な作品にしないためにも、これにできる限りの調整をつけてやる必要があるだろう。


 私自身、すでに「二元性は、それを実際に手にすることよりも、それを求める姿勢のなかでこそ実現し得る」ということを述べているが、ことの重要性から鑑みて、この問題については、もう少しばかり詳しい説明を施しておかなければならないように思われる。

 

 


現実に妥当する自我

 

 さて、この問題を看過することができないのは、自我の確立が、その後の心境段階に登るための前提となっているからである。すなわち図版Ⅱを見ても分かるとおり、自我を確立すると、主体には「アルベド侵入」という新たな心境段階への参入が待っているのである。


 そして、教育の段階において、中期参入の前提が初期の確立にあったように、後期参入の前提が中期の確立にあったように、アルベド侵入もまた、その参入の前提は、自我の確立にあるということになる。


 このことがなければ、私だって「自我の確立」の完全性、十全性について関心を示すことなど、まずなかっただろう。


 自我の確立が人間にとっての最終的な目的であるならば、話は「でき得る限り自我の精度を高める努力をしましょう」とか「精度が低いよりは高いほうがいいでしょう」といった文飾的な結びで終わりにしてしまうことができるからだ。

 

 つまり、お茶をにごす程度で、問題を突き放しても構わなかったのである。


 しかし、主体に次なる心境段階への参入が待っており、なおかつ、その前提となるのが自我の確立であるということになると、かの、

 

「自我の確立は、その完全性、十全性を満たすことが難しい」

 

 ということについての議論は、どうしても次のような問題意識に発展しない訳にはいかなくなる。すなわち、


「では、どれぐらいの精度でもって自我を確立したならば、主体は次の心境段階(アルベド侵入)に移行することができるのだろうか」

 

 という風に。


 そして、これから先も「自己形成の過程」についての叙述を続けていこうとするならば、私はどうあっても、この問題に何らかの解答を与えておかなければならないのである。

 

 


公式が存在しない問題

 

 しかし、この問題に対して私が提出できる答えは、しょせんは仮定や推測の城を出るものではない。なにしろ正確な答えを出そうにも、その答えを算出するための公式などは、どこにも存在していないのだから。


 いや、もともと、計算的な理論と“決して計算では割り切れない”現実との間にあるギャップを調整しようというのが本章のテーマなのだから、解答算出のための公式が存在しないことは、むしろ当たり前のことだと言ってよい。それだから、


「自我の確立は、その完全性、十全性を満たすことが難しい。では、どれぐらいの精度でもって自我を確立したならば、主体は次の心境段階に移行することができるのだろうか」


という問題に対する答えは、理論的、公式的なものではなく、あくまでも観察と妥当性の産物とならざるを得ない。

 

 つまり、過去に自己形成の過程を“自我の確立以上まで”登ったと思われる人たち――その人たちの人生記録を観察することで導き出した妥当的憶測が、ここで言う“答え”なのである。


 もちろん、それが相当に曖昧なものであることは疑うべくもないが、その曖昧さを認めた上でならば、ここで私なりの“答え”を呈示するのも決して悪いことではあるまい。

 

 


七五パ-セント以上の精度

 

 してみると、次なる心境段階(アルベド侵入)への移行を実現させるために必要な自我の精度は、おそらく七五パーセント以上、といったところではないだろうか。


 この七五パーセントというのは、完全に無意識に覆われてしまう睡眠時は当然として、プライベートな生活作業に費やす時間も除いた――べつに除かなければならない義務はないが――主に、共同体の制度や仕事と関わる時間を対象にしたパーセンテージである。


 この時間を、七五パーセントほどの精度でもって、個性的、合理的、良識的に過ごすことができたならば、その主体はまがりなりにも「自我を確立している」と言うことができるのではないだろうか。


 これが六〇パーセントでは少ないし、逆に九〇パーセントともなれば、それはもうほとんど実現不可能な数値だと言っていい。

 

 いや、瞬間的、短時間的には実現可能かもしれないが、自我の“確立”ともなれば、それが人格に定着する(クセになる、性分になる)ぐらいの恒常性がないとあまり意味がないのだ。


 前にも言ったように、自我が確立されるというのは一種の徳性の現れであり、かかる徳性とは、主体の人格に深く根づいていてこそ、初めて本物と言えるからである。


 瞬間的、短時間的な徳性というのでは、それが単なる“幸福な偶然”や“立派な気まぐれ”でないという保証はとこにもない。

 

 誰だって偶然に正しい予想を立てることはあるし、たまには路上のゴミの一つも拾いたくなるときもあるだろう。そうしたとき、はたしてこれを徳性と呼んでしまってよいのだろうか、ということだ。


 そうなるとやはり、先の「七五パーセント」ぐらいが、最もリアルな――実現可能な――自我(二元性)の必須獲得精度というような気がしてくる。

 

 人間性の限界を顧慮すれば、このぐらいの数値こそが妥当であるように思われるのだ。七五パーセントごときでは、何だか景気が悪いと言われる方もあるかもしれないが。


 とはいえ、これを逆さにして言い直せば、次の心境段階に登るためには、その前提としての自我の確立は“七五パーセント程度の精度でもいい”ということになる。


 だから、もしも前章までの論述によって、実現不可能な課題としての「自我の確立」を突きつけられたような気持ちがした読者があれば、どうか右の言葉によって気を楽にしてもらいたい。

 

 反対に、課題の厳しさによって諦めの気持ちを催した読者があるなら、どうか右の言葉によって、もう一度「自我の確立」への意欲を取り戻してもらいたいと思う。

 

 


三枠の満足は不可欠か

 

 そしてもう一つ。私は自我について三つの枠(個性、合理性、良識)を示したが、しかして人間には、おのおの得手不得手というものがある。あるいはバランスを欠いていることが、人間の人間らしさの源泉であるとも言えようか。


 つまり、個性は確立できても――確立の範囲内に定位できても――合理性はそうでもない。合理性は確立できても良識はそうでもない。良識は確立できても個性はそうでもない、といったことがあり得るということである。


 そうした場合――一つの枠だけを満たしている場合と、ニつの枠を満たしている場合が想定できる訳であるが――主体は、それによって、もはや次の心境段階に登ることができなくなってしまうのだろうか。

 

 次の心境段階に登るためには、私たちは、どうしても三つの枠すべてを充足させなければならないのだろうか。


 この問題についても、私から提出できる答えは、結局、観察に基づいた憶測に過ぎない。が、その曖昧さを認め、再び私なりの答えを呈示することにしよう。


 そうしてみると、上記のようなアンバランス(不均衡)を抱えている場合には、


「ただ一つの枠であっても、それを七五パーセント以上の精度の自我によって満たせたならば、“少なくともその枠においては”主体には次の心境段階に移行できる可能性が与えられるだろう」


 というのが私からの答えになる。


 自我を確立させれば、即、次の心境段階(アルベド侵入)に移行できるという訳でもないので(※)ここでは「可能性が与えられる」という抑えた言い方をしたが、アルベド侵入の段階に登るためには、ただ一つの粋でも七五パーセント以上の「自我の確立」を実現すればいい、私はそのように思っている。


 それはあまりにもアンバランスになるのは危険であろう。

 

 が、その優性な一粋、二枠になれなかった残りが、おおよそ五〇パーセント程度の“自我の精度”を持っていたならば、問題は少しもないと言っていいぐらいだ。

 

 もちろん、すべての粋が水準以上に充足されるのに越したことはないけれども、現実問題として、バランスに偏りを見せるアルベド侵入受容者の例はいくらでもあるのである。

 

※主体は、そのとき「アルベド侵入の起点」に立たなければならない。が、これに至らず自我の段階に留まる者もある。このことは次の章で説明することになる。

 

 


福音書シリーズのご案内

再臨のキリストによる第6福音書

テロス第二

再臨、審判、終末

 

 

 

 

 福音書シリーズの「結論」とも言うべき一冊。

 

 キリストの再臨を宣言し、その再臨のキリストが「最後の審判」を行い、それによってキリスト教に終末をもたらす。まさに、この書によって、キリスト教が「終わる」のである。

 

 

 

 

再臨のキリストによる第六福音書

改訂版 最後の審判

 

 

 

 

 もともとの第六福音書が、文章的に荒いことを自覚していたので、改訂版としてこの「最後の審判」を上梓した。

 

 当然読みやすくなっているし、内容においても多くの変更が見られるので、決して無視できない作品である。こちらは連載形式。

 

 


奥付



【2019-04-15】アルベド④ アルベド侵入の起点


http://p.booklog.jp/book/126611


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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