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第5章 自我の確立についてのまとめ

分化の極限

 

 さて、倫理軸まで話し終えたところで、本章の内容を総括しておきたい。


 混在的一者として母親と融合していた子供は、やがて父親への関心によって「意識」を芽生えさせ始める。そして、その意識は教育の段階を経て、その意識状態の最高段階である自我の確立にまで至るわけだが、意識とは本質的に「分けること」「識別すること」の能力である。


 つまり分離性が意識の本質であるわけだ。かかる分離性をして、分化性と言っても同じことである。そして、自我というものが、意識の最高度に発達したものだとすれば、それはまた、分離性、分化性の極限を表すものでもあろう。


 この分離性、分化性の極限を示すのが「二元性」という言葉である。だから、この二元性を構成するための“二つの原理”は、あくまでも厳格に分離しきっていなければならない。そして、その完全なる分離への努力姿勢のもとで、主体の自我は確立するのである。

 

 


個性について

 

 空間的自我である個性は、自他二元によって確立された。


 自他二元とは「自分の意見を持ち、他人の意見のなかで生きることがないこと(非同一化)」であり、また「他人の存在を、己の欲求を叶えるための手段として見ず、尊厳と目的性を持った独自の人格として見ること(非手段化)」であった。


 これは主体独自の心の領域(個性)を持つことによってのみ実現できることであるため、非同一化と非手段化は、そのまま個性が確立していることの証明となる。個性は言う、「他人を完全に分離し得る、私がいる」と。

 

 


合理性について

 

 時間的自我である合理性は、真偽二元によって確立された。


 真偽二元とは「正当な因果律によって物事(体験や知識)を認識すること」であり「そのために迷信や誤解、詐術性などの非合理(虚偽)を排斥すること」であった。


 因果律が正当性によって一貫すると、その因果律は合理性と呼ばれ、またそこには「原因と結果の連鎖」という時間的な流れが生じる。

 

 この流れは自主的なものであって、決して「時間に流されている」というような惰性的な状態ではない。ここには自ら流れを生み出し、流れを見つめ、それを認識する(経験する)主体がいるのである。合理性は言う、「虚偽を分離し得る、私が知る」と。

 

 


良識について

 

 倫理的自我である良識は、善悪二元によって確立された。


 善悪二元とは「法律を強制されるのではなく、自らその法律を遵守する自主性」を経て「遵法にひそむ善悪の不確実さを“法律では正当に扱いきれない例外的事例を自主的に判断する”という形で解消すること」であった。


 これによって善悪は主体のなかで完全に峻別されることになる。このような峻別を可能にするものを良識と言い、かかる良識のもとに、主体は己の正義的行動を導くのである。良識は言う、「悪を分離し得る、私が決める」と。

 

 


二元性の比率

 

 こうして主体は、二元性という厳密な確度をもって「私がいる」「私が知る」「私が決める」と言うことができるようになった。ここに自我と呼ぶに値する“私”という主語を獲得することができたのである。


 ただし、二元と言うと、どうしても“フィフティ・フィフティ”を連想してしまうが、自他二元にしても、真偽二元にしても、善悪二元にしても、その比率は「1:無数」となることを再確認しておきたい。

 

 それは“等分する”とか“分割する”というよりは、むしろ“抽出”に近い内容を持っているからだ(もちろん自我を抽出するのである)。


 すなわち――自分の意見と他人のあらゆる意見――正当な因果律と非合理の材料――正しさと正しさ以外のあらゆるもの――これらを峻別する二元性を現すためには、驚くほど徹底した精錬努力(抽出行為)が必要となるのである。


 以上が「自我の確立」についてのまとめである。

 


補遺 座標5 自我の確立(第二福音書より)

男性原理優勢の極限

 

 自我の確立段階は、混在的一者のアンチテーゼである。アンチテーゼとは、前提となるものの"正反対のもの"のことである。


 だからこの場合、それは第一に、自我の確立段階が、


「女性原理がマックスの状態(=混在的一者)とは正反対の、男性原理がマックスな状態」


であることを示している。

 

  第二に、そこでは、


「結びつけること(=女性原理)とは反対である、分けること(=男性原理)が強調されている」

 

 ことを示している。


 さらに言えば「男性原理=分けること」の確立が、二元性、二元的な世界観によって表されること。それを人間の認識として表現すると「自分」と「自分以外のもの(共同体)」という図式になることを「教育の後期」において言及した。


 しかし、教育の後期は、その状態を生み出すための努力をする段階であり、自我の確立は、その努力の達成、または成就である。そこに自ずと、両者の違いが出てくるだろう。

 

 


自他二元=個性の確立

 

 空間的に見ると、二元性は「自他二元」として現れてくる。


 自他の"自"とは主体のことであり、もっと明確に言えば、主体の個性のことである。一方の"他"とは、他人たちの総称である共同体のことだ。


 少しだけ振り返ると、個性は、模倣行為への集中によって獲得される。共同体のうちにある規範を模倣して、その規範に追いつくところまで行って、そのとき初めて得られる違和感、そこに主体の個性の萌芽がある。


 そして、その違和感を無くすために「この場合、自分ならこうしたい」という欲求に従い、その結果得られた「自分の趣向、好みはこういったものである」という確信、自負に対して責任を取れるようになれば、そこで主体の個性は確立されたと言ってよい。


 もっとも、基本的に個性は、自分で認識するものというより、どちらかと言えば、他人によって認識されるものである。むしろ、


「自分とはこのような人間だ」と、あまりに言い切ってしまえる人間は、その個性が、単なる自己演出でないかを疑う必要さえあるだろう。


 主体は、ただ自然に生きているだけなのに、それが他人の目には、強烈な個性の露われとして映る。そうした状況が、たいがい本物の個性の表出なのである。

 

 


脱同一化と脱手段化

 

 個性の確立者には、その確立していることを教える、明確な指標が存在する。それが「脱同一化」と「脱手段化」である。


 順を追うため、まず"脱"が付かない、その元々の状態について説明しよう。


 同一化とは、主体が他人の意見のなかで生き、他人に依存し、まるで主体が他人のようになっている心理状態を言う。他人の集合が共同体なのだから、端的に言うと、主体が共同体的になっているということだ。


 そこには無責任と責任転嫁という特徴が見られる。自分の失敗や未熟をすぐに他人のせいにして、自己責任など、絶対に負いたくない様子がそれだ。


 もう一つの「手段化」とは、他人を自分の道具(何かを得る手段)のように使うことである。かつてカントが語った「人格とは手段ではなく、それ自体が目的である」という言葉の逆をいく生き方だと言えるだろう。


 他人を道具扱いするならば、自分の役に立たなくなった時点で、他人を傷つけようが、迷惑をかけようが、主体の良心は痛まなくなる。奴隷制のなかで、主人が奴隷の境遇を憐れまなかったのと同じように。現代に奴隷制はないが、他人を奴隷のように扱う心象は、たしかに巷間に溢れている。


 個性を確立している主体は、これら「同一化」と「手段化」から脱している。彼は、自分の個性を尊重するのと同等に、他人の個性も尊重する。他人の心理領域に侵食されたり(同一化)、他人の心理領域を侵食したり(手段化)しない。


 すなわち、彼の個性は、まさに他人(共同体)と二元的に分離しているのである。

 

 


真偽二元=合理性の確立

 

 時間的に見ると、二元性は「真偽二元」として現れてくる。


 真偽の真とは、主体が因果律によって再構成した共同体の情報であり、偽とは、その因果律に含まれなかった情報である。


 もっとも、場合によっては、偽の範疇からも情報が選択されるし、その逆に、真として扱われていた情報も、場合によっては、候補から外されることがある。真は、ある一つのテーマに沿って形成されるだけの、限定的な正当性しか持ちえない認識なので、テーマが変わるごとに、その構成要素もどんどん変わってしまうのである。


 そして、そんな「真」を作るためには、その前提として「分析」が必要となる。


 分析とは、物事を分けていって、最小単位の「個」を露出させることである。価値のある"真"の構成材料にするためには、物事を、それが明晰な「個」として見えるところまで分けていかなければならない。カントの言葉を借りるならば、


「検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」が必要なのである。この小部分の各々が、私の言う「個」に当たるわけだ。


 そして、その「個」を、因果律によって"正当に"並べたとき、それは合理的な認識と呼べるものとなる。それが合理性の確立ということであり、また「真」が現出したということでもある。

 

 


専門分化の背景

 

 ただし人間には限界というものがある。あまりにも多くの情報を前にしてしまうと、それを分析したり、分析によって生じた情報素因(個)を正当に並べたりすることに、すっかり疲弊してしまう。これは当然のことだろう。


 しかし、自我の確立者にとって「合理的な認識をする」ことは、必須の思考様式、思考スタイルなので、それは第一義的に守らなければならない。そこで彼のなかで、必然的に"専門分化"ということが起こるのである。


 つまり主体にとっての世界(守備範囲)を狭めることによって、彼が取り扱う情報の量を制限するのである。情報が少なければ主体の分析力は維持されるし、その因果的正当性もまた、高い水準を維持できるようになるからだ。


 もちろん、それは主体の世界観を狭量にせざるを得ないが、自我の確立段階にある主体は、これを別に不都合とは思わない。


 というのも、ここには、ある意味で"自他二元"が表れているからで、彼には、専門分化された一分野を"自分の個性"として感じることが出来るのである。つまり「自分の担当分野」と、「自分の担当分野以外のもの」といった具合に。


 そのため主体は、むしろ自分が、一つの分野のスペシャリスト(専門家)であることに心地よさを覚え、その立場を誇りにさえ思うのである。


 よって、合理性の確立者には、いわゆる"専門家"が多いと言えるだろう。

 

 


善悪二元=良識の確立

 

 倫理的に見ると、二元性は「善悪二元」として現れてくる。


 善悪の善とは良識のことであり、悪とは、主体の良識によって判断された「その場面で最適と思われる倫理性」から漏れた、すべての倫理である。これを説明するために、順を追って話していこう。


 教育の後期で出てきた「遵法」とは、自主的に法律を守ろうとすることだが、その法律というものが、つねに正しいものであるという保証はない。法律という響きは大層なものだが、所詮は人間がこしらえたものだからである。


 つまり、法律のなかにも悪(過ち)が含まれているのであり、その帰結として、ただ自主的に法律を守っているだけでは、つねには善と悪を峻別できない事になる。遵法では、どこかの場面で二元性が破綻するわけだ。


 たとえば『日本国憲法』など、その典型とすら言える。一般に憲法は、法律よりも上位にある倫理的規定であり、法律よりも大切とされているものだ。


 しかしながら、この日本国憲法を守っていれば、日本国民の安全と幸福が約束されるかと言えば、到底そうとは言えないだろう。


 なにしろこの憲法たるや、そのまま施行されると、国防思想を骨抜きにして、どこぞの侵略国家に、丸腰の日本国をアッサリと差し出す効能があるのだから。


 そのような憲法を遵守することが、倫理的に見て、純粋に正しいはずもない。この場面における遵法の善悪二元の破綻は明らかであり――先取りして言うと――まさしく、この憲法は、良識によって改められる必要があるのだ。


 もっとも、日本国憲法の絶対遵守を訴える人々は「いまだ良識の段階に達していない」というよりは、もっと積極的に、意図的に、日本を、シナや韓国の貢物にしたくて策謀を重ねているのだろうが。

 

 


イエスによる良識の表現

 

 二千年前のイスラエルでは、モーセの「律法」が、この日本国憲法に相当するのだろうが、その律法によって定められている安息日(強制的休日)に対して、イエスは次のように言っている。


「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」
                             『マルコによる福音書』

 

 これこそは良識の言葉である。


 休みの日に良いことをして何が悪いのか? とイエスは問う。何も悪くない。それが、単純すぎるほどの良識的判断だ。当たり前と言えば、当たり前のことである。


 なのに、律法の遵守者(あるいは服従者)たちは、イエスを侮蔑と憎しみの目で睨みつける。神の教えをないがしろにしていると責め立てる。


 しかしイエスはたじろがない。そこに良識の確信があるからだ。そのように、本当の正しさのためには、法律さえ破れるのが良識というものであり、それは法律からの復讐(罰則)に対しても、敢然と立ち向かうのである。


 このようにして、良識の確立者にとっては、自分が判断する「善」「最適な倫理」以外のものは、たとえそれが法律であっても、善の外側に置かれる。そうして、法律の内側で働いていた遵法では峻別できなかった善悪が、法律の外側に超えでた良識によって峻別されるのである。


 それは善悪二元の達成であり、同時に、主体の倫理的自我が確立したことを告げるものである。

 

 


最低限の結びつき

 

 自我の確立段階は、男性原理優位の極限状態であり、それゆえ分化の極みでもあるが、この分化は、かろうじて分散や散逸は免れている。


 もしも、自我の確立段階に、男性原理しか無かったならば、たしかに人間の自我は、各々散逸してしまっていたかもしれない。


 しかし、主体は"人間"であり、人間は、男であろうと女であろうと――むろん割合は変わるが――男性原理と女性原理の両方を持ち合わせている。

 

 つまり、人間の集合体(社会)で、いくら男性原理が強調されようと、それでもなお――それが多数の“人間”によって構成されているならば――そこに幾ばくかの女性原理は、必ず残存しつづけるのだ。


 振り返ってみれば、女性原理優位の極点である混在的一者においても、母体と胎児、母親と赤ン坊、という要素は、たしかに物体としては分離していた。無理やりにならば、各々を引き離すこともできた。


 つまり、そこには最低限の男性原理が働いており、それが強力な女性原理によって、心理的に覆い隠されていた、というのが、混在的一者の"隠された"構図なのである。


 結局、人間であるかぎり、原理そのものにはなりきらない。そういうことだ。


 では、話を自我の確立段階に戻そう。


 そこでは分化を意味する男性原理が強力に働いているが、主体(または主体たち)は人間であるので、いちおう最低限度の「結びつけること」は執り行われる。じつに、最低限度にして希薄、味気ない結びつきではあるが。


 それが契約関係である。

 

 


契約関係について

 

 契約関係とは、ほとんど書面的とも言える、味気ない人間関係であり、


「文書によって確認がとれた場合のみ、自我同士のギブ・アンド・テイク的な関係が"正式なもの"として保証される」というものだ。

 

 このような人間味のない関係は、訴訟社会であるアメリカで、目立って発達した。その淵源は、神との契約を自らの宗教とした、ユダヤ人からの影響であろう。だから当然、キリスト教では「ユダヤ教に帰れ」という意味合いを持っていたプロテスタントが、その契約関係の思想的担い手になっている。


 日本もまた、最近ではそのアメリカナイズによって、ずいぶん契約書、注意書きの類が増えてきた。ともかく書面確認された上での、契約履行が正義、契約不履行が悪、というのが、基本的な自我の立場なのだ。したがって、これが一般化された現代においては、きっと、


「近ごろ、何をするにも文章説明とサインが必要なんだな」


 と面倒くさがっている人も多いのではないだろうか。


 実際、多くの――自我を確立していない――人々が違和感を持つなか、それでも社会はどんどん契約社会化している。


 もちろん、実際に自我を確立している者など少数派に過ぎないのだが、社会は、自我の確立を前提として、そのシステムを形成している。それが近代化の宿命であり、近代化とは結局、自我の確立を、社会全体が目指すことに他ならないのである。


 ヨーロッパの近代化が始まってから五百年ぐらいにはなろうか。その間、人間は熟さずとも、社会は、その歴史の積み重ねによって、ずいぶん成熟してきた。つまり、自我の確立的な社会となってきた。


 それだけに、いまや教育の中期に位置する(=共同体、社会に適応する)だけで、かなり自我の確立に近づける時代と言えるかもしれない。それが擬似的なものであることは否めないまでも、たしかに時代は進歩したのだろう。


 ついでに言っておくと、男女関係ですら、結婚となれば契約関係であり、当人同士の感情よりも、たった一枚の書面のほうが、今では、男女を拘束するのに力があるのである。ここに契約関係の"味気なさ"と"確実さ"が両方ともよく表れている。

 

 


上下シンメトリーの折り返し地点

 

 さて、自我の確立段階は、人間の体で例えると、まさに"ヘソ"にあたる。つまり体の中心点にあたる訳だ。そして、混在的一者のところで述べたように、錬金術の根本経典である『エメラルド板』には、


「一なるものの奇跡を成し遂げるにあたっては、下にあるものは上にあるものの如く、上にあるものは下にあるものの如し」という言葉が書かれている。


 これは換言すれば「上下の中心線を折り目にして、そこからシンメトリー構図が描かれることになる」ということだ。


 そして、ヘルメスの杖の中で、その折り目はどこかと探していけば、どうしても「自我の確立段階」に導かれることになる。言い方を変えれば「ヘルメスの杖は、自我の確立段階を中心線にして、上下にシンメトリー構図を描く」ということだ。


 ここに私の恣意はない。これは結果的にそうなったのであって、私にとっても、ヘルメスの杖という哲学、神学を形成する前から予期できた訳ではないのだ。


 私の思惑など関係なしに、ヘルメスの杖は、自我の確立段階を折り目にすると、見事に上下対照の構図を描く。私はそれを発見しただけだ。

 

 教育の段階はアルベド侵入に、混在的一者はアルベド(総合的一者)に、ニグレド(虚無)はルベド(虚無からの存在の創造)に、それぞれ重なり合う。


 まだ説明していない言葉も出したが、今は何となく座標図を眺めて、それぞれ言葉の座標位置を確認していただければ十分だ。その上で、この美しいまでの上下シンメトリーを胸に刻んで頂きたい。言うなれば、これは神の肢体なのだから。


 本当に不思議なことだが、自我の確立段階以外、他のいかなる座標を折り目にしても、このようなシンメトリーは描かれない。それだけに私などは「自我というものは、本当に大切なものなんだなあ」としみじみ感じ入ってしまう。


 普段、アルベドだのルベドだのを中心にしてものを考えていると、どうしても自我の確立などは等閑になってしまうのだが、その実、ここが神の体の中心(ヘソ)となるのだから、その重要性を、再認識せざるを得ないのである。

 

 


似て非なる上下の内容物 

 

 シンメトリーであるからには、向きを合わせれば、上下にある図は同じ形となる。


 しかし、上下の対照物は、似てはいても同一ではない。似て非なるものである。たとえば「教育の段階は、外的客観からの主体への干渉」だが「アルベド侵入は、内的客観からの主体への干渉である」というように。


 あるいは、器の形は似ていても、中に入っているものは別といったところか。


 譬えるなら、混在的一者のコップに入っているのは水、アルベドのコップに入っているのは雲。ニグレドの皿に乗っているのは炭、ルベドの皿に乗っているのはダイヤモンドである。


 水と雲(蒸気)は同じ分子の相転移でしかないし、炭とダイヤモンドは同じ元素の結合の仕方の違いに過ぎない。しかし両者の働きや価値の違いには雲泥の差があるだろう。

 

 ヘルメスの杖におけるシンメトリーにも、これと同じような「同一性」と「価値の違い」が現れることになる。その内実を理解するためには、このさきの論述に付き合っていただくしかあるまい。

 


おわりに

 五回という短い連載であったが、その一つ一つの連載の分量が、非常にボリューミーになった。正直、もう少し小分けにしたほうが、読者にとっても親切だったのではないかと後悔しているところである。

 

 とはいえ、自我の確立の段階こそは、本シリーズの中核部分なので、読者にあっては、どうかその内容を骨まで味わい尽くしていただきたい。きっと、皆さんの「これからの人生」に資するところ大だと思う。多くの人たちにとって、この段階こそが「人生の目的」となるだろうからだ。

 

 個性を持ち、合理的で、人権を守り、良識を持った人間が大勢いたならば、この世界はユートピアになる。そのような世界を、私は是非見てみたい。そうしたユートピアの創造は、まさに人類全体の課題であろう。

 

 さて、次は『アルベド侵入の起点』である。自我の段階で分化の極限に達した主体は、こののち総合の道へと足を踏み入れる。混在、分化、総合、が自己形成の過程であるからだ。

 

『アルベド侵入の起点』では、その総合の初歩の様子と、おおまかな「アルベド侵入の概観」を述べていくことになる。それは天才の心理学でもあるので、難解といえば難解かもしれない。

 

 しかし、連載一回ごとの文章量は、『自我の確立』よりも少なく設定しているので、その点で読者には親しみやすいものとなるだろう。いや、そうであることを祈念するものである。

 

 


福音書シリーズのご案内

再臨のキリストによる第五福音書

『ヘイマルメネー』

星辰的宿命と、神話の現実化

 

 

 

 

 福音書シリーズでは、『インターレグナム』に次ぐ人気作である。

 

『ヘルメスの杖』などは論理的な叙述が中心であるが、本書では論理と物語性が半々に現われてくる。その点が本書の面白さと言えば面白さだろう。

 

 この本の基盤的なテーマは、イエスとディオニュソスとの合体である。罪や暗さを失った「光の神イエス」と、イエスの影である「闇の神ディオニュソス」が合体するまでを描くのだ。そして、その合体の舞台となるのが、他でもない、再臨のキリストである私の「心の中」なのである。

 

 そこには大いなる神話が現れてくる。神が降ろしてくる「運命的な出来事」が、平凡な人間の人生を「神話」に変えるのである。

 

『ヘイマルメネー』は三部に分かれている。

 

 

 

第一部 イエスとディオニュソス

 

 ニーチェの予言めいた遺言「十字架にかけられた者 対 ディオニュソス」をめぐる物語。

 

 十字架にかけられた時のイエスはアルベドの権化であり、光、存在そのもの、を表している。

 

 そんな彼は「存在の神」にはなれるが、「創造の神」にはなれない。

 

 なぜなら、創造神のまたの名前である、クレアティオ・エクス・ニヒロは「虚無からの存在の創造」という意味であり、イエスは、この文章のうちに含まれる「虚無」の要素を持たないからである。

 

 虚無を持っているのは、イエスの影である、闇の神ディオニュソスである。よって、この二神が合体したとき、はじめて創造神は現れることになる。

 

 

 

第二部 ディオニュソスの代理人

 

 私は21歳のときにアルベドの悟りを得た。つまり霊的には、十字架上のイエスと同じ心境にまで高まったのである。

 

 そんな私は、ディオニュソスなどという神には興味がなかったが、青年男子として、当然のこと女性には興味があった。

 

 かくして私は「太陽をまとった女」に出会うことになる。彼女こそは、ディオニュソスから「虚無」を預かった、ディオニュソスの妻アリアドネの化身だった。すなわち「ディオニュソスの代理人」である。

 

 私は「太陽をまとった女」を愛することで、ディオニュソスの「虚無」を受け取ることが出来た。

 

 そして、そのとき「クレアティオ・エクス・ニヒロ」が成就したのである。光と影、存在と虚無が合一して、創造神が現れたのである。

 

 

 

第三部 イースターをめぐる物語

 

 イースターとは「キリストの復活」を表す言葉である。私はこの言葉に操られながら『アトラス』を描いた。

 

 この第三部は『ヘイマルメネー』の中では付録的な部分である。


奥付



【2019-04-08】アルベド③ 自我の確立


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著者 : 正道
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