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鹿の変容──石原武詩の「鹿」について    高島 りみこ

 

   詩人・石原武にとって鹿は、単なる動物という枠を超えた特別な存在だ。『石原武全詩集』(土曜美術社出版販売)を中心に、鹿を題材にした作品から石原の「鹿」について考察してみたい。

  
全詩集によると石原の残した詩集は10冊に及ぶが、初めて鹿が主人公となって登場するのは4冊目となる詩画集『森の秘儀』(1979年)においてである。「舌」と題された詩を見てみよう。

  
豪雨の中で鹿は向かい合っていた/やがて崩れるように/美しい鹿が落葉の上に寝た/すると牝鹿は/その口もとにかがみ/白い息の中から/熱く舌をさしだした/森を圧する鋭い角に/雨が光り/触れ合うものに落ちた/神はなぜ/こんなにも美しい素裸ないのちの色と形象を/この肉片に与えたか/鹿はいくどとなく/情愛に身を震わし/闇にかえった//森の奥に/いま/朝焼けの海がうねる

  
  激しい雨に打たれる2頭の鹿。その鹿の白い息と赤い舌が暗い森の中で鮮烈に浮かびあがる。それらの色の対比、そして冷たい雨と熱い舌の対比が静かなるエロティシズムを呼び起こす。いのちの躍動は内的な森の奥で、鹿の姿となって密かに始まる。

  
  2004年に刊行された詩集『飛蝗記』では「鹿の村」という章を設け、7篇の作品を載せている。この詩集の鹿たちは変幻自在に時空を越えていく。
  その中の最初の作品「バビロンの虜囚」では紀元前6世紀から現在に至るまで、バビロンという地で虐殺されてきた数多の人々を描きだす。積みあげられてきた悲しみの数々……。だが本当の悲しみは名前も奪われ、ひとかたまりとなって葬られた全体性の中にあるのではなく、いつのときも一人ひとりの内にこそある、4万5千人には4万5千個の悲しみがあるのだと詩人は静かに訴える。「もうその話はよしにして/仔と生き別れた雌じかの話をしよう。//電光が走り/にわか雨は闇を叩く/姿が見えない仔じかを追って/涸れ川の流れを雌じかは渡る/赤く燃える空の方角へ//バビロンは遠いの/蠟燭はもう消える//朝から灼熱/蟻の行列がわき目も振らず/罪徳の街へ/炎に囚われた声の/さんざめく方角へ/立ちつくす雌じか/のしゃがれた声//蠟燭が消える/どこなの 仔じかよ(「バビロンの虜囚」部分)」と。
  続く作品「『荒地』の鹿」では、母鹿は生き別れの仔鹿を追ってウラル山脈を越える。そして「白い息を吐いて/朝靄の川に消えて行った無垢な背の斑点/別れしなに寄せた鼻先の/ほのかな腐臭/あれから記憶は眠りをさまよい/何処ともしれぬ荒無地の茨を縫い/若芽をむしりいくつも国境を越えた(「『荒地』の鹿」部分)」のち、ロンドンから北へ100キロのグランチェスターへと向かう。その草地の闇に仔鹿は第一次大戦に参戦し、病死したイギリスの詩人ルパート・ブルック(1887〜1915)に姿を変えて見つかるだろうという。「ひょっとしたらあそこなら見つかるかもしれない/ルパート・ブルックという青年が/古い牧師館の戸口から出てきて/川辺の草に寝て流れの遠くを見ているはずだと(「『荒地』の鹿」部分)」。しかし青年は「四月の陽にかすかな腐臭を残して」姿を隠してしまい、「復活の鹿を追う」旅は続く。
  作品「灯台へ」では、鹿はヴァージニア・ウルフの小説『灯台へ』(1927年)の中の、ラムジー夫人の借りたスコットランドの別荘でひと夏を過ごす少女に姿を変える。そして、その少女は次には奈良春日山の孕みの鹿へと変身し、その眼は悲しげだ。それは紛れもなく慈愛に満ちた母の眼なのだ。「今日 孕み鹿に出会った/奈良春日山の裏道/(略)/ひとの気配に立ち上がってこちらを見た/釣り上がった大きな眼は悲しげな光りを湛え/近づくものに息を凝らしていた//二十世紀の殺しの暗黒を越えて/色白の少女の釣りあがった眼が/灯台へ/絶たれても絶たれても/どんなに憧れをはぐくんできたことだろう/少女が生きのびて/漁夫シモンの子を産んだというのは/おそらく事実だ(「灯台へ」部分)」と石原はその普遍的な母の像を描いている。
  作品「子守りの鹿」の鹿は、終戦をむかえた日本に姿を現す。「ドクダミの葉を踏みしだき/獣の匂いを残して/鹿は姿を消していた/崖のとっつきまで続く足跡も/絶え間ないガレの崩落に途絶えていた/長い戦争があって/若い男が死に絶えた村の/八月の暗い土間のほのかな腐臭に/ふいに消えた鹿が柔らな鼻先を出した(「子守りの鹿」部分)」ここでの鹿は平和の使者といえるだろう。
  作品「鹿の目」では石原の開腹手術前夜の不吉な夢の後に、鹿は幻覚のように現れる。「深い羊歯の草地で目覚めた/柔らかな口が私の唇に近づき/ふくんだ水を咽喉に零した/鹿のほのかな腐臭が/ゆっくりと臓腑に流れていった/鹿は夜明けまで私の唇を濡らしていた//開腹後/私は回復し/濡れた罪深い唇をゆがめて/獣の肝を咥えたりしている/訝しげにこちらを見つめる鹿の/大きな目をぼんのくぼに感じながら(「鹿の目」部分)」この鹿は石原を守る守護神でもあるのだ。
  続く「雨降ってのちまた雲が広がる前に」では日常にひそむ狂気が次第に肥大化していき、その暴力に斃れる者の姿を生け贄にされた鹿として描きだす。「ふいに姿を消したまま神さまは/日暮れても帰ってこない/待ちくたびれて/誰かが石を投げる/次々に石が空の薄氷を割り/町の窓々を砕き/血に怯える小鹿の胸元にも飛んでいく//闇の入口に/捨てられた牝鹿の首/その周りにいつか鹿たちが集まり/愛する仲間の首を闇の深くに曳いていく/そして黙って踊り始める/おお神のお帰り(「雨降ってのちまた雲が広がる前に」部分)」神の不在に人間はすぐに待ちくたびれて、いとも簡単に暴徒と化してしまう生き物だ。
  章のタイトルにもなり、この章最後の作品「鹿の村」では戦争の近づく時代の無口な村の話が描かれている。無関心で凡庸な人々は鹿となって、やがて大政翼賛の波に呑みこまれていく。「近づいてくる戦争の話を、列車から降り立った男が煙草屋で声高に話した。戸口から顔を出して、村は春風に色めき立った。//春祭りの夜、集まってきた村人たちは鹿であった。/鹿は広場のぼんぼりの周りを輪になって踊った。/しつこく絡む男の手から立ち上がって、鹿の女は大きな目で男を見つめ、広場に出て行った。肩で息をして女は踊り始めた。身籠もっていた。/鉄橋を渡り列車が近づいてきた。/鹿の村の話はその後聞かない。/今、通過したばかりなのに。」鹿の村は70余年を経て、再びこの国に出現しようとしてはいないだろうか?

  
  最後に詩誌「山脈」123号(2008年発行)に掲載された作品「火事場の鹿」を見てみよう。

  
喉が火の手を上げ/這い出した煙が夜具を塞いでいる/隣に手をのばしたが咳に噎せて声が出ない/胸に火の粉が爆ぜている/添い寝の夜具から立ち上がったのは鹿であった/せわしい息で襟首をくわえ煙の雨戸を破った/霙の夜が白むまで煙は体を這い咳が続いた/首にかかる鹿の息は暖かく/燃える額を冷たいものが撫でていた//霙が雪に変わり/咳の発作が治まった焼け跡に/鹿の姿はなく/かすかに焦げた髪の匂いがあった/額を汚して少女は燻る木立の間にいた/吊り上った大きな目で雪を弾いていた//君と過ごした河辺のスラム/神のいない長い夜に/背を向けた君の沈黙は凶器だった/夜明けに君は向こう岸へ/行方知れずの鹿になって渡ってしまった/それは遠い物語/鹿の神話へ帰りきれずにいる少女よ/帰れ神話へ//日暮れまでに雪は止んだ/火事場の木立はまだ燻り/髪の焦げる匂いがする/木の間を擦って近づいてくる風よ/帰れ//ここにもうしばらく/生身のまま/燃える額に

  
  高熱と激しい咳に苦しむ石原の前に現れたのは、またしても鹿だ。鹿の看護で咳の発作が治まると、鹿は一人の少女へと変身する。それは理不尽に奪われた幼き者のいのち、未だ神の国に立ち帰ることのできない彷徨ういのちの化身でもあるのではないか。「帰れ」は詩人の痛切な祈りだ。

  
  石原詩における「鹿」はあるときはエロティシズムの象徴であり、またあるときは虐げられた人々、若くして逝った詩人や慈愛に満ちた母であり、守護神または彼岸に辿り着けない彷徨える少女であったりする。この詩人の「鹿」は自由に変容を遂げることのできる霊的な存在なのだ。そして、それはまた詩人の分身でもある。登山に熱中していた時期のある石原は、どこかの山で鹿との神秘的な出会いをしていたのかもしれない。(了) 

 


アラン 『大戦の思い出』(二十二) 高村 昌憲訳

   第十八章

 

 冬が過ぎました。それと同時に砲弾が大変良く落下した穴に、私たちが間もなく長くは止まらないとの噂が広がりました。或る夜、私がブランデーを飲んで美学談義をするために大尉の家に着いた時、大型トランクが荷造りされているのを見ました。それから私に、古文書が入った貴重な小箱と一緒に行く命令がありました。そして真夜中に電話局員たちの馬車で出発しなければなりませんでした。私は一時間程電話局の避難所で待ちましたが、そこで昔の知合いたちや、若い元気そうな顔付きの何人かの新しい知合いも発見しました。出発は全く自然に喜劇の一シーンの様相を呈していました。雲の中の月を想像して下さい。半分程明るくて道はでこぼこで、一台の馬車の中は集合した人間で一杯です。定められていた時刻丁度に出発しようとしていました。その時に残忍そうなパリ人の下士官が、黒い鞭を持ってメルクリウス(1)の台詞を言いましたが、それは死者たちを導き、そして威厳に満ちた声で呼ぶ者の声でした。「家族よ!」。直ぐに何人かの電話交換手たちは手にヘルメットを持って子供の様にして前に出ます。メルクリウスは続けて言います、「P.C.D.F.(前線の哀れで愚かな者たち)団体のメンバー諸君!」。私たちはヘルメットを脱いで全員が進みました。しかし、やっと私たちが儀式に従って覆われていたのは揺れた馬車そのものです。家族よ、そうではないのです。揺れに揺れて私たちは行きますが、三百メートル行った後で、穴の中で停止させられました。最悪なのは、敵の砲兵隊が目覚めたことです。激しい言葉がありました。でも、私は決して係わりませんでした。私の仕事はトランクの上で徹夜することでした。もう一人の伍長は馬を繋ぐ様に命令しました。しかしながら私は大変自然に間違いに気付きました。私たちは二対の馬を持っていました。馬たちは前もって命令で出発していたのです。泥土で馬たちの顔付きが既に臆病になっていた時(私たちの裡も臆病と言われていた様に)、馬たちの顔付きも緊張していたのです。従ってその努力は裂けて破れました。全員の顔立ちも緊張して出発しなければなりませんでした。そして私は、これが軍隊の決まりであると良く思います。これらの技術的手引きは全てが完全に行われます。面白いのは、補給のための夜間はそれらの規定が忘れられることです。馬へ、そら右だ!そら左だ!と言うのが聞こえます。私が適当な概略を示して言っているのかどうか、あるいはその概略が何か他のものに達するのか私には分かりません。私たちはそこを出発しました。不気味な村から何も無い避難所の土手まで降りました。何も落下して来ませんでした。次にゆっくりと歩きましたが、長い休止もありました。砲手たちは砲架を平原用のものにするために、攻囲戦用のものを変えなければなりませんでした。それは巻揚機やロープを使って行う大変な作業です。決まった時刻に選定した地点に全てが集結されたやり方に、私は一度ならず驚嘆しました。軍隊の管理は如何なる間違いも決して許されません。何も忘れないことを学ぶのもそこです。取分け私は新しい仕事をする時には、私自身が失敗して顔を赤くする時が何度もありました。
  その日の朝に、私たちは凍った泥で起伏の多いヴィニェヴィルの右側で、良く整えられた地点に落ち着きました。数々の避難所は通過しましたが、危険で大きくなかったのです。時折り一発の砲弾しか私たちの処へ来ませんでしたが、屢々混乱しました。私がそこで過ごした一ヶ月間は、十二月と一月の間でしたが、負傷者が一人出ただけでした。その代わりに私たちは、酷い目に遭って泣かされた数々の砲弾を知る様になりました。新型でした。私は大尉と共に色々な破片や照明弾を見分け様としました。アンモニアの臭いを嗅ぎました。成果は遅くなりましたが、驚くべきものでした。私たちは一昼夜の間、アンモニアで涙を流していました。
  大尉は、配属を変えないでも砲兵隊の命令を中尉に任せていて、私たちが分隊の長になっていた意味においては昇進していました。少し後になるとその命令は、作戦区の長官のものとなりました。私は大尉の秘書でした。そして管理することを覚えました。砲弾と荷物の勘定を調べる如く、私には直ぐにそれらのおかしな困難を乗り越えるだろうと思えました。しかし、三日間での報告や六日間での報告を行うという小さな困難は沢山ありましたし、数字は毎週変わっていました。結局のところ十分に注意していても私は二,三回騙されましたし、大変恥を掻かされました。命令の命令には眼に見えない力があり、最小の誤りにも強力な指摘がありました。でも、T大尉は何も言いませんでした。しかしこの沈黙は雄弁でした。現実に私には正確に、如何なる下士官であってもその動きと同じ力がありました。何事においても見習い期間がなければなりません。一週間後に私は出来上がりました。しかし私は、容易な仕事が幾つあっても狂気の沙汰であるこの観念を既に余りに守りましたし、同様に狂気の沙汰の観念により直ぐに修正されましたが、困難な仕事も又幾つもありました。最初は全てが困難ですが、慣れることで全てが容易になります。そして、それは純粋数学の真実であり、食糧の補給の様に必然的なものです。知性とは、これらの様々な仕事を越えた働きでしかありません。それは殆ど慣れることを助けません。屢々仕事を困惑させるものでもあります。私はそれに関係した人物の後を走った或る朝のことを思い出しますが、彼は重要な部品を欠いていた背嚢を背負っていました。それなのに私は離れることが出来ませんでした。砲手たちは私を嘲笑しました。彼らはまさに正しかったのです。無駄な動きが滑稽なのです。最終的に彼らは、私と一緒にいるのを大変自慢する様になりました。
  告げ口をする人の様に、私は軍人の下っ端として大変自然に不信を抱かれるのですが、注目すべきことに私のお気に入りの地位に伴って、私には常に信頼があったことです。私が訊くことが出来たことを相手が繰返して言うのは、まさに何も私に不信が無いと思われているからです。この美徳は私には当然のことです。従って私は自分の席があった避難所において、電話交換手や上等兵たちと仲良く生活しました。私は彼らにチェスのゲームを教えましたし、敷線に関しては些細な問題でも解決するために彼らと一緒に働きました。何故なら、見知らぬ型の電話機や台やベルの装置が来たからです。私はその時、一人か二人の工員を観察しましたが、彼らは大変に高度な知性の観念を持っていたことを私は知りました。彼らの中の一人がチェスの駒の動かし方を覚えた時、それから後は何時も自分が勝つのを自信を持って確信していました。新型の装置と向かい合っても同じで、忍耐強く探している私を見ながらも、私の両手はそれを摑んでいました。そして、「これは全く簡単だ」と言いながらやってみて成し遂げるばかりで、他のことも話すのでした。そして実際にチェスで遊ぶ時も難しいことは何もありませんし、如何なる術策においてもそうなのです。しかし最初は部分部分によって知らなければならず、何も忘れてはならないのです。せっかちなことが唯一の欠点です。しかし誰もそんなことを思っていません。(完)

  
(1)メルクリウスは、ローマ神話の商売の神で、ギリシア神話のヘルメスに当たる。天文学では水星のこと。


執筆者のプロフィール(五十音順)

  

出雲 筑三(いずも つくぞう)
一九四四年六月、東京都世田谷区下北沢生まれ。千葉工業大学工業化学科卒。混迷と淘汰のたえない電子部品の金めっき加工を手掛けた四十五年を無遅刻無欠勤で通過した。芝中時代は実用自転車1000mタイムトライアルで東京都中学新記録で優勝、インターハイでは自転車ロードレースでチーム準優勝、立川競輪場での個人2000m速度競争において総理大臣杯で三位となった。趣味として歴史と城物語をこよなく信奉し、日本百名城に挑戦中である。仕事面では日本で最初の水質第一種公害防止管理者免許を取得、そのご東京都一級公害防止管理者、職業訓練指導員免許など金属表面処理技術者として現役で勤務している。三行詩集『走れ満月』(二〇一一年三月)・『波涛を越えて』(二〇一二年九月)・『五島海流』(二〇一七年五月)を出版。埼玉県所沢市在住四〇年になる。日本詩人クラブ・時調の会・世界詩人会議各会員。

 

   
北岡 善寿(きたおか ぜんじゅ)
一九二六年三月十日生まれ、鳥取県出身。文化果つる所と言われたばかりか、県下の馬鹿の三大産地の一つという評判のあった農村に生まれ育ち、一九四三年に出来の悪い生徒が集まる地元の中学を出て上京したが、一九四五年三月現役兵として鳥取連隊に入隊。半年後敗戦で復員し再上京。酒ばかり飲んでいる無能なジレッタントにすぎなかった。大学のころは今は故人の北一平や東大生の本郷喬らと同人誌「彷徨」で一緒。一九七四年文芸同人誌「時間と空間」創立同人。二五号から六四号(終刊)まで編集担当。一九九四年「風狂の会」会員となり現在に至る。詩集『土俗詩集』(一九七八年)、『高麗』(一九八六年)、『榧』(一九九一年)、『痴人の寓話』(一九九四年)を出し、詩集以外のものとして随筆集『つれづれの記』(二〇〇三年)、『続・つれづれの記』(二〇〇九年)、『一読者の戯言』(二〇一四年)を出版。日本詩人クラブ永年会員。日本ペンクラブ会員。風狂の会主宰者。

 

   
高  裕香(こう ゆうか)
一九五八年二月二一日生まれ、大阪市出身。幼い頃から、日曜日になると父親に大阪城公園に連れていってもらい公園中を駆けめぐる。菜の花畑やレンゲ畑で ちょうちょうやトンボを追いかけたり、おたまじゃくし、ザリガニを取って遊んでいた自然児。なんとなく父からルソー教育を受けていた。五歳からピアノを習う。大阪基督教学院の児童教育学科を卒業後小学校教員になる。現在、東京韓国学校で日本語の講師を務めている。日本語教育学会会員。ヤマハピアノPSTA指導者。「心のアルバム」・「虹の架け橋」・「赤い月」・「日韓文化交流合同詩集」などのアンソロジー詩集に参加。二〇〇七年度「民団文化賞」優秀賞受賞。二〇〇九年、二〇一一年度「民団文化賞」佳作賞受賞。日本詩人クラブ・時調の会・世界詩人会議各会員。

 

   
神宮 清志(じんぐう きよし)
一九三七年一月九日、盧溝橋事件のあった年、徳富蘆花の住処の近く(東京府千歳村)で生まれ、幼年時代をそこで過ごした。二歳で父に死に別れ、敗戦前後の混乱の中、引っ越すこと十回あまり、小学校時代から働き、冬でも素足で過ごすという貧困の中で育った。大学卒業後サラリーマンとなって暮らしは安定し、三十歳代半ばに能面師に弟子入り、以後三人の師匠についた。個展四回、団体展出品多数、最近では創作面も作り、イエス、ジャンヌ・ダルク等も作成した。能面制作はほぼ毎日ながら、最近は視力・体力の衰えもあり午前中のみ、午後は筋肉トレーニングとボールルームダンスに打ち込んでいる。いっぽう随筆同人誌「蕗」に四十年ほど在籍して、二百二十編の随筆を発表してきた。手作業をしていると、思いと考えが限りなく浮かんできて、書かずにいられない。いわば物狂おしいため息のようなものか。

 

   
高島 りみこ(たかしま りみこ)
一九六〇年高知県生まれ、東京都在住。
日本詩人クラブ会員
詩誌「山脈」「花」同人
詩集『海を飼う』(二〇一八年)

 

   
高村 昌憲(たかむら まさのり)
一九五〇年三月、静岡県浜松市生まれ。明治大学文学部(仏文専攻)卒業。詩集『螺旋』(一九七七年)、『六つの文字』(二〇〇四年)、『七〇年代の雨』(二〇一〇年)。評論集『現代詩再考』(A&E・二〇〇四年)。翻訳『アランの「エチュード」』(創新社・一九八四年)、アラン『初期プロポ集』(土曜美術社出版販売・二〇〇五年)、ジャン・ヴィアル『教育の歴史』(文庫クセジュ971・白水社・二〇〇七年)。共同編纂『齋藤怘詩全集』(土曜美術社出版販売・二〇〇七年)。一九九八年「現代詩と社会性─アラン再考─」が詩人会議新人賞(評論部門)。二〇一二年からパブーの電子書籍に、随想集『アランと共に』(全3巻)及びアラン作品の翻訳『一ノルマンディー人のプロポ』(全5巻)『神々』『わが思索のあと』『思想と年齢』『ガブリエル詩集』『精神と情熱とに関する八十一章』などを登録中。日本詩人クラブ会員・日本仏学史学会理事

 

   
長尾 雅樹(ながお まさき)
一九四五年生まれ 岩手県出身
詩と思想研究会所属
既刊詩集
『悲傷』『山河慟哭』『長尾雅之詩集』
日本詩人クラブ理事長

 

   
なべくら ますみ

一九三九年 東京世田谷生 日本大学文理学部国文学科卒業 
日本現代詩人会・日本詩人クラブ・時調の会各会員
欅自由詩の会同人
詩集『同じ空』『城の川』『色分け』『人よ 人』『川沿いの道』『なべくらますみ詩集』『大きなつゞら』
エッセー集『コリア スケッチラリー』(共著)
訳詩集『花たちは星を仰ぎながら生きる』(韓国・呉世榮)他

 

   
原 詩夏至(はら しげし)
詩人・歌人・俳人・小説家。一九六四年生まれ。東京都中野区在住。著書に詩集『波平』『現代の風刺二五人詩集』(共著)、句集『マルガリータ』『火の蛇』(第十回日本詩歌句随筆評論大賞俳句部門努力賞)、歌集『レトロポリス』(第十回日本詩歌句随筆評論大賞短歌部門大賞)『ワルキューレ』等。小説集『永遠の時間、地上の時間』。
日本詩人クラブ・日本詩歌句協会各理事。
日本現代詩人会・日本短歌協会・現代俳句協会各会員。

 

   
三浦 逸雄(みうら いつお) 
一九四五年四月二日 札幌郡琴似町で生まれる。
一九六七年上京し 高円寺フォルム美術研究所、新宿美術研究所に通う。
一九七〇年スペインに渡り、マドリードの美術サークルCircro de bellas artesで人体デッサンをかさねる。帰国前の一年は、ベラスケス、グレコ、ゴヤ、ムリーリョを見るために、プラド美術館へ足繁く通う。一九八三年に帰国。
一九七五年以降、現代画廊(東京・銀座)、東邦画廊(東京・京橋)他で作品を発表する。   (以上)


風 狂


 

 

 

 

 

同人誌 風 狂(ふうきょう)第56号

2019年3月21日 登録


http://p.booklog.jp/book/126301


編 集:風狂の会(担 当 : 高村 昌憲)
編集担当者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/masanorit/profile


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