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ザグレウスは憩う #1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザグレウスは憩う

散文

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

in the sea of the pluto》連作:

 

 

 

 

 

Ζαγρεύς

ザグレウス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あるいは、日差しとはむしろ、こうやって眼差しにふれていなければならないのだ、と。

そんな、頼んでもいない諭しを自分勝手に撒き散らして仕舞うだけの、ただ呆然としてやるほかないやさしい午後の日差しがその瞬間、ふれた。

その時、まぶたを開いた一瞬に。

光。あくまでも淡い逆光として。そして、光はすでに周囲を無造作にさわり散らしていたのだった。眼に映るもののすべて、さらには眼差しにだけではなく肌にも、視界の外の、寝室に投げ込まれた雑多なあらゆるもののすべてにも。なにもかにもが、光のなかにその形態をくまどられ、色彩を曝し、精妙な翳りの中にみずからを浮び上がらせ、それら、瑞々しいそれら自身の存在を、にもかかわらずなにかを語りかけるわけでもないままに、ただ、すべてはそれぞれの固有の現状を誰にというわけでもなく見せ付けているしかない。

ベッドに横たわった私は。あっるいは私をその内側に孕みこんで垂れ下がった蚊帳の白さは。あるいはその先の、ハンガーにかけらたままのふたりの衣類のたぐいさえもが。壁に塗られた薄い緑色のペンキの剝き出しの沈黙。蚊帳のこまかな網目のやわらかい白濁を通して垣間見られるそれら。そして朝、私が不意に抱え込んで仕舞った前触れのない倦怠感、の、ような。

それ。それら、散乱する心の微細な惑い。開け放たれたままのドアからいつか忍び込んだ白い猫が、冬物を詰め込んだままに、床に放置されたダンボールに投げ棄てられた私のスウェットの上で憩っていた。

猫は、そこは

ここに

そここそはわたしの存在するべき場所だ

いますよ

と。

わたしは

だれにも主張しないままに、ただ、みずからが曝すすべてをただ当たり前の、当然のこととして、その承認を誰にも求めない根拠のない自覚をだけ自分勝手に見い出して、曝されていたもの。私の目醒めに気付いた猫は声を立てて、彼女は自分の毛を舐めた。雌。身を捩って、そして、私のかたわらに、私の腕にしがみついて寝ていたフエが目覚めて仕舞えば、猫は追い払われるに決まっていた。大変よ。

ひどいわ。もう、

Xấu...

なんてことなの!猫がいるのよ。

Mèo...

ねぇ。なんて

...Anh à

なんてことなのでしょうと、あるいはこの世の惨事をその

Xấu...xấu...xấu...

全身で呪うかのように。なぜ?

ってか、ごめん

と、

聴こえた?

どうして、

僕の声ごめん

君は猫が

聴こえちゃった?

嫌いなの?

 

蝶ちょがいま、空の一番ひくいところ、地表すれすれを飛んでいました

 

Tai sao

だって、と、

Em ghết mèo ?

いつだったかフエは言った。一瞬、

Anh à...

何を言われたのかわからずに、まるで

Vì...

未知な言語にでも唐突に触れて仕舞ったような顔をして、そして

Tai sao ?

想いあぐね、眉間に

Vì là...

皺を寄せ、自分自身では探し出しきれない言葉に

Mèo là

想い惑い、猫は、

mèo

猫なのよ。

寝室のベッドの傍らに、フエは寝ていた。ふしだらなまでに赤裸々に苦悶を曝し、もはや私の体にしがみつきもしないで身を複雑にまげて、背を向け、苦しいの。

なにが?

ねぇ、わかって。お願い。わたし苦しくて、

ねぇ

たまらないの。

なにが?

光あるうち光の中を歩め

そんな。言葉もない苦悶を曝す。一日に、暇さえあれば一秒でもかたっぱしから眠らなければ、あるいは、より単純に言えば、単に惰眠をむさぼらなければ気がすまない彼女は、

そして、やがて私の魂は復活したのだろう

苦悶。

苦しいの?

その、

なにが?

曝されたままの褐色の素肌にもわずかの隈もなく、通風孔から差し込んだ光はその色彩を好き放題に目醒めさせて、やわらかい翳りにくまどられたその素肌のつくりだすかすかな隆起と陥没の中に、そして、フエはひとりで

ぼくは

寝ている。

見た

私は瞬く。

夢の中に無邪気に

横たわったまま

笑ったきみを

見あげられた眼差しの、空間のその

いつだったか

放置された真ん中に、

時には

私は

むしろ、ひとりで

しずかに血を流す。

光の中に、それだけが自分勝手に翳り、なにに対しても無関係に、もはや人体の形態をさえとどめられないままに、浮んだ空中にそのかたちを投げ棄てて、それ。

一度も見た記憶がない、あまりにも新鮮なその老人らしき形態の、それ、あるいはその崩れた、形態の残骸にすぎない単なる翳り。

月の

開かれた穴ぼこのどこが

翳りの中で

口で、どこが目で、どこが

わたしは、いつか

鼻なのかは

花を見る

知らない。色彩のない

それ

翳りは

ブーゲンビリア

三つの穴ぼこからあざやかにすぎた

風に揺れる

鮮血を

無数のむらさき色に近い紅の花々を

垂れ流すのだが、しずかに

咲き乱れさせる、その

流れ出す色彩。美しい、と、

それ

そう言ってやらなければ仕方がない。

ブーゲンビリア

色彩。どうしようもなく、ただ、その赤い色彩の、色彩そのものの鮮度をしか感じさせない、それ。私。それは、あるいは、私の魂。光。

振り返れば、月は傾いた

光がすべてのものを孕みこんで、私たちのすべてをあまねく救済しようとしていた。私は、その、いつでもあふれかえっていた光にさえ倦んで、神々の

こんにちは

光。

はい

寝返りを打っても

そうです

離れはしないその

おはよう

救済の

いいえ

光の無残な

違います

横溢に、

私は犬ではありません

もはや

こんばんは

最初から遁れ獲るすべはない。私は

おやすみ

フエの

あなたはサウジアラビア人ですか?

髪をなぜた。私には、決して

じゃ

共有することの出来ないフエの

さよなら

眠り。彼女に固有の。彼女の、

わたしはパキスタン人です

彼女のためだけの、

元気?

そして、

いま、ひま?

意識されない限り、彼女自身には決して

大丈夫?

知られることのない、彼女の

おひさしぶり

眠り。やがて

苦しいの?

そらされた眼差しの捉えない至近距離の空間に、

きみは

私が血を

なにが

流し続けていることは、すでに

苦しいの?

知っている。私、あるいは、

きみは

フエ、

ここに

私たち、それ。

わたしは

色彩をなくした翳りは、

ここに

私たちを見つめ続けた。その、

言葉さえ

なにものをも

なく

見い出せはしない眼差しのうちに。私は

なにを

その髪をなぜていた。眠るフエのかたわらに座りこんで。その

見ているの?

指先が

なにを

フエの頬にふれた瞬間に、

見てるの?

フエはなじるような音声を、喉に

何が

立てた。やめて。

見えていたの?

まだ、

きみの

私は

眼差しの中には

眠っているのよ。

と、

沈黙

ただ、容赦もない苦悶を曝し、一瞬でも早く、その

あまりにも美しすぎる君の眼の前では、私はあるいは

無際限な

沈黙を曝すしかないのだ

苦悶それ自体からの解放をだけ願っていることが、もはや彼女の存在理由にほかならない、そんな気配をあからさまに全身に

知ってる?

顕しながら。

昨日、シュレーディンガーの猫は、ひとりですでに

午前6時。空は

チベットで熊に咬みつこうとしたはずだった

すでにその

あくまでも

夜の明けのあざやかな崩壊の色彩を刻み獲ずに、もはや

海王星のダイヤモンドの海の中で

なしくずしの、昼間の時間へとしずかに

焼身自殺を図るその

空の色彩固有の時間に従って、

直前に

留めようもない雪崩れとしてその

雨が干上がった、木星の

色彩を

広大な砂漠地帯に

青く破壊させていくしかない悲惨さをだけ

最期の微笑を与えてやりながら

それは曝していたに違いない。いずれにせよ、昨日の朝、老人が死んだ。

死と苦痛の翼がいつか、私の肩にふれた事など、すでに知っている

フエの、父方の祖父にあたる人間だった。九十歳を超えていた。正確な年齢など、もはや家族のだれもが数えるのを忘れて仕舞っていた。長老の死は、穏かなものだったと家族の人間たちは、そのだれもが言っていたらしかった。フエに。一匹の蚊が彼の身体に注ぎ込んだ出血熱の高熱と、容赦のない身体破壊が、彼の長い生を終には破綻させた。病院に担ぎ込まれて無数の注射と点滴だけを打たれながら、ほんの三日ばかりで老人は死んでいった。ヴーというその老人には、私だって親しくしてはいた。

世界は、ひとつ

言葉も通じない異国の人間だからと言うわけではなくて、

ぼくらは、ひとつ

私には悲しいという心情もなかった。老人の死は、結局は

永遠に、ぼくらは

いつか

自由な空に羽撃くよ

当然のことにはすぎなかった。それは

無様な人間たちを殲滅したあとで

薄情なのか、世の中のどうしようもない道理を知っているということなのか。とはいえ、喪失感のようなものに、フエが鮮明に襲われているに違いない事はたやすく見て取れた。

私は

もう

彼女を慰めた。昨日の夜に。いつもの愛し合う時間のまえにも、

なにも

その最中にさえも。

言わなくていいよ。もう

何の

しってるから。君に

言葉をかけたわけでも、何の

もう

仕草さをしたわけでさえなかったにしても。日本語学校の

君の口の中に、顎の骨格をへし折りそうなほどに

授業が終って、家に

いっぱいの

帰ったとき、フエは

ブーゲンビリアの花々が、やがては肛門から

もう

突き出て仕舞ったほどに

会社から帰っていた。夜の

ぶち込まれて、花々が

九時半すぎ、開け放たれたままの

種子を撒き散らしていたことには、もう

シャッターをくぐると、

わたしたちのだれもが

ふたつめの居間で洗濯機を回していて、目が

認識していたに違いない

合った瞬間に、

なに?

言った。死んだわ。

誰が?

私の

おじいさん。

心は

私を見つめる彼女の眼差しに、

つぶやいた

あきらかに戸惑いがあった。一瞬呆気に取られて、そしてすぐさまそれを羞じた、と。

そんな。知っていたくせに。と。もう

あなたの肛門から生まれた海が、そのとき

すでに。その、

昇った朝の太陽にやがて

彼がいつ

さよならを言いました

死ぬのかなど。そんなこと、と、私は、彼がどうやって死ぬのか、とっくに知っていたくせに。その意識が、すでに、と。かろうじて捉えた最期の風景さえも。と、私は、もう、と、

わめき散らす前に

いま

知っているくせに、と、彼女を

せめて

何時?もう

あえて、なじる気にさえもならないで私は、

左右前後の確認くらいはしなければならない

起きなくちゃ

つぶやく。

見えますか?

「おじいさん?」

この

だれ?

世界のすべて。あるいは

ヴーさんよ。わたしの、だいすきな

見て仕舞いましたか?

そのとき、

もう、その

私が何と言ったのか

眼差しで

わからない。あー、と、そんな

Aaa......aa......a......

音。

あー

ーあ

あー

同意したのか、何なのか。なにを意味したのか、自分でも分からない音声を、私の喉は立てていて、ね?

Anh…

わたし

em

悲しいの

buồn

ね?雪。

Tuyết

想い出していた。

Snow

不意に、私は

Tuyết sẽ rơi

想い出していたのだった。私が

Fall

見い出す私の

Snow

最期の風景。

じゃ。さよなら。またね

雪が、そして

Will

雪の降りしきる海を

Snow

見るのだった。私は

Falled

すでに、鮮明に

Will

記憶していた。《破滅の日》の数年後の、世界の崩壊したあとの異常気象の3月に、ベトナム、ダナン市。この熱帯の

って

町を

お前、馬鹿?

不意に襲った寒波。知っていた。在り獲ない雪が降ったその日に、もうこれで、と、

君をもしもやさしく抱き締めてあげられさえしたならば

僕は

人々は

その涙は流れなくて済んだのか?

君の哀れな家畜

想っていたのかもしれなかった。世界は、もう

と。壊れちゃったな。

もう。

こんなところに

もう

雪が降っちゃうなんて。

すべて

異常な、在り獲ない

終っちゃったな

容赦もない寒波。とはいえ、

すでに

氷河期をさえ

いつか

かつて

もう

経験したこの数億年の土壌の中では、なにも、決して絶対に起こり獲もしないことなどでは在り獲なかった。ほんのちいさな事故にすぎなかったに違いない。ほんの数万年地表にしがみついたにすぎない人間たちにとっては残酷な、最期の決定的な脅威にほかならかなかったには違いなくとも。私を追った彼らから逃げ出して、ミーケー・ビーチにまでやっと辿り着いた私は、その、もはやこれ以上は逃げようもない海岸線をしばらく彷徨って、やがては倒れこむしかなかった。高熱が、もはや私の自由を奪った。終に。

奪われるのだった。すでに

奪われようとし、

た、る、て。

する。

し、

て、する。

た。と、あるいは、私は留保なき犯罪者だった。あの少女を殺して仕舞ったのだから。あるいは、世界をさえも。人々は、決して私を許しはしないはずだった。いつか巣食った新手の出血熱さえも、もはや私の身体を破壊することにだけ、その営みの、自分にもたらされた時間のすべてを費やしていた。宿り主が死んで仕舞えば、それら小さな生命体など、為すすべもなく雪の中に自壊していくしかないというのに。

なぜ、だれもが、そしてなにもかにもが私を殺そうとしているのだろう?

雪は

綺麗

昨日の朝から

君が、不意に

降り止まなかった。体中が

僕に微笑んだ、その奇跡の

冷えていた。

瞬間を

寒さによるふるえなのか、出血熱の

もはや俺、永遠にメモリー完了

発熱によるふるえなのか、もはや私には判断さえ出来なかった。不意に、想った。見ろよ。

フエに。

Nhình đi

傍らには、もはやいないフエに。見なよ。

Tuyết

これが雪だよ。

rơi

翳る。

見たがってたろ?

đây

眼差しのわずかな先に。

Tuyết

これが、

em

その少女。

muốn

雪だよ。

nhình

色彩をなくした少女の残骸が。あった。そのとき、私の眼差しの中に。雪が覆った砂浜に横たわった、疲れ果てた私に覆い被さるように、その身体を左側に奇妙にゆがめて、捩るように、そして、彼女によって流されるもの。左側に、水平に、どこまでも流されていく彼女の

好き

血。

好き

タオthảo、彼女は

好きすぎてもう時間さえ

確かに、

止まっちゃったの

美しかった。私が殺して仕舞った少女。空は白かった。さまざまな在り様のうちに白濁して、いくつもかさなりあった雲の群れがたがいにときに雪崩れさえおこしてその崩壊を曝しながら、あざやかに、そして上空に存在したいくつもの気流の層が無造作に、それら層を成す雲のそれぞれに固有の速度を与えて、すでに、みずからの速度のままに、動き、ゆがみ、崩れ、結ばれ、流れ、掻き消え、色彩。

我等に生き残り獲る道を教えよ

眼差しを染めた白いというほかにすべのない色彩の中に、目醒めた翳りの色彩の喪失と、相反した鮮血のあざやかさに眼さえも眩んだ気がした。悲しい。

Em buồn

フエは言った。

Anh...

ねぇ。

Tai sao em

どうして?

buồn ?

わたし、どうして

Tai sao ?

悲しいの?と、

あるいは君の葬儀のとき、私はむしろ青空に薔薇を投げつけよう

「悲しいです。」と。

ふざけきった青空を眼醒めさせる為に

言った

かなしじぇっ

フエの眼差しはむしろ、悲しげないかなる色彩をさえ帯びることもなく私を見つめていたにすぎなかった。媚を含んで微笑まれたかのように。その祖父の死を私に告げた瞬間には。彼女は、あまりにも悲しいのだった。私の眼差しが彼女の眼差しにふれていた。その黒眼は、かすかにふるえ続けていた。過剰な潤み、涙に近い、そんな潤みなど一切うかべさえせずに、それでもフエは泣いているのだろうか、と、私は想った。あ、と。

声になりそうになる寸前のわずかな一瞬の、そんな、それ。つまりはそんな刹那、あまりにも不意に。

間歇的な、ときに想い出したように顕れた黒眼のふるえ。私は

語り獲ないものは

まばたき、私の眼差しは

ただ

彼女を慰める。私が

沈黙それ自体が弔うがままに

彼女を

任せよ

慰めている事は、彼女だって知っている。ね?

と、ただ、そんな、意味を結ばない音声の断片が、その眼差しに浮んでいた。

ね。

見よ

そのとき、

いずこを?

でしょ?

我らの罪を

雪が降る朝の、タオ。私に首を絞められながら。その最期のときに。

葉を、理沙を、彼女たちをさえ殺しはしなかったのに。いかに感情がもつれようとも。あるいは、理沙はいっそのこと殺されて仕舞うことをさえ願っていたかも知れなかったにもかかわらず、

てか

なぜ、

君を

ねぇ

殺して仕舞うのだろう、と、

空が

むしろおびえていた私を

晴れています

慰めていたに違いなかった。タオは。その

今日も

眼差しに

こんなにも

浮んだだけの色彩で。ね?

時には、あざやかに

フエが瞬く。その瞬間に、潤った気配さえも曝していなかったまぶたから、一気に涙は零れ堕ちていた。想い残すことなくもはや、滂沱の涙、と、

あふれ出る

そう呼んでやるべき容赦もない大量の

熱い涙を

涙が。その

拭い去るのは、だれ?

温度さえも、それは

あなただったのか。あるいは

私の

むしろ

眼差しの中に

私でこそあったのか

感じさせて、慰める。私は、眼をそらせもしない眼差しのうちに、そして、私はかけてやるべき言葉を探そうとはするものの、そんのもの、なにも見つかりはしないことなどすでに知っている。

寝室のドアを開けると、右手のほう、ふたつめの居間のほうから漏れ込んだ朝の光が差し込んで、薄い明るさの中に空間はおぼろげにその、それぞれの物体の形態を曝していた。朝の光。違和感があった。フエは未だに寝ていて、私が起きたばかりなのなら、空間は暗くてあるべきだった。シャッターを開けるものなど、私とフエ以外にはだれもいないはずなのだから。居間のシャッターを開けたものは誰なのか。息を忍ばせるほどでもない。

そのまま居間の方に行くと、なんの気もなくソファに座り込んでいた彼は、自分の部屋から引っ張り出してきたスーツを着こんで、履きなれないソックスに足を通していた。アンAnh、と、後れてその名を想い出した私に、彼は一度だけ視線を投げてみせたが、姉とはすこしも似ていない彼。かすかに微笑み、なにか、ベトナム人のその男はベトナム語で言った。私には聴き取れもせず、彼が何を言ったかは分かっている。服くらい着ろよ、と、そう言ったに違いなかった。私はいつものように、素肌を曝したままだった。

アン、妹も母も父も亡くしたフエの、たったひとりの弟。彼はそのままにこりともせずに、ひとりで自分勝手に身支度を調えて、葬儀。

確かに。

フエと私も、これからあの老人のところに行かなければならないのだった。むしろ、時間は遅れていた。どうせ、フエの身支度は手間取るのだから。

私は自分の体を隠すこともなく立ったまま、アンの身支度を見遣り、アンはコロンを振りかければすぐに、シャッターを出て行く。その瞬間に、振り向いて、

君にあげるよ

私に

いつか

屈託もなく微笑み、一度だけ

ぼくの命で作った

手を

薔薇の造花のイミテーションを

振った。表に止めていたバイクが噴かされて、アンは一足さきに祖父ヴーの許に行く。姉が連れ込んだ、素っ裸で自分の家のなかを好き勝手にぶらついている外国人のふしだらさをアンがどう想ったかは知らない。私はひとりで鼻に、声を

ひょっとしら

立てて

ぼくは、生まれ変わったら

笑った。

たんぽぽになるかもね

シャワーを浴びた後で、そのまま

きみに踏みつけられて、殺されたその無残を極めた

正面の

可憐で黄色いちいさな花の残骸に

木戸を引き開ける。晴れていた。雲さえない晴れた色彩の停滞する中に、風が作った翳りのゆらぎだけが地面に揺らぐ。上方の風にふれたココナッツの葉の。

嘘を嫌悪する人ほど

ゆらめく

むしろ

淡い翳り。

嘘つきが多い

ブーゲンビリアは、咲き乱れていることしか知らない。

ほら

咲いていた。その樹木の下に埋められたミーの死んだ肉体を、あるいは

養分のひとつとしてでも吸い上げながら?あるいは、

ほうら

一週間前の彼女の新鮮なそれが、自然の無数の

生命体によって、そこまで解体されているものなのかどうか、私には

ほぉうら

わからない。

ほら

せめて

こんな日にでも、弔ってやることくらい、必要だった気がした。

どうやって?

想った。弔うとはいったい、なんなのか。

語れ

すべて神話とは

むらさき色に近いあざやかな紅彩の、濃い咲き乱れた色彩の花々の下、その

人々よ。そして

見もしなかった事件をまざまざと

土の中で、

君の固有の

語ってみせることが出来た或る稀有な人の残した

身体が

屈辱を

あまりにも貴重な

腐り堕ちようとも

君の

残滓にすぎない。だから

解体されようとも

固有の

ぼくは

なにをしようとも、もはやそれは

悔恨を

君を不意に抱き締めた。時に

単なる

君の

君の心を傷付けて仕舞っても

肉体の

固有の

残骸に過ぎない。たんぱく質の集合体。魂はそれら、無際限に転生を繰り返すそれらはすでに不在だった。何を弔えばいいのだろう?仮に転生などなにもなく、ただ滅びるにすぎなかったとしても。あるいは神の許、天国に召されたとしても。因果の果てに地獄に堕ちたとしても。煉獄に留まって、ただ最期の審判の裁きのときを待っていたとしても。それでなければ尊い解脱の果ての仏の世界のどこかで、蓮の花の上に不意に目醒めて戸惑っていたとしても、それともいわゆる霊体になって地上に留まり、暗い恨みの醒めやらない持続のなかに、その存在を焼かれながらたたずんで、ただひたすらに、だれかを呪い憎しんでいたとしても、あるいはいずれにしてもなんにしても、魂、それがすでに、もはや、あの在りし日のミーと同一では在り獲ない変化を経験して、その差異においてしかもはや在り獲ないのならば、

僕は

だれも、

あの

君を

ミーを

自由な空に

弔うことなど

連れて行ってあげるよ

できはしないはずだった。いかにしても。不在のものを不在のものそれ自身のために弔うことなどできない。ならばなぜ、私たちは死者を弔うのか。その死者自身に対しては、弔いなど一切無効な、単なる弔うものの自己満足に他ならないなど、誰の目にもすでに明らかであるにもかかわらず。人々は、なぜ、墓標を

バカにするな

地に

ぼくは

穿ち続けなければならないのか。無数に、

かつて、立派な

死んだものの

蛆虫だった

頭数の分だけ。その下の留保なき不在など、いかにしても論理的に当たり前であるにほかならないにもかかわらず。

あれ?

私の

きみ

未だに

だれ?

水滴を含んだままの素肌が、庭のかすかな風に、至近距離に吹きかけらたような涼気を感じていた。あの日、町の住人たちに買収された《盗賊たち》は、ミーをかわるがわるに強姦して、その肉体を殴打し、体中を破壊したあとで、想うがままに、そして彼らは自分が痛めつけているミーがすでに死んで仕舞ったことにさえなかなか気付かないまま、その、もはや自分勝手なパーティの惰性に過ぎない暴力を加え続けてさえいた。いつ、ミーが事切れたのか、そんなことは、その惨状を眼差しの元に見つめ続けていた私さえ、鮮明には気付き獲はしなかった。いつか、私の眼差しはすでに彼が、あるいは彼女が、すでにこの世には生存してはいないことに気付いていた。もはや、ぴくりとも、意識をもっては、あるいは意志のかすかな残存をでも曝しては、動こうとはしない単なる筋肉痙攣を激しく繰り返すだけのミーの四肢に。上に

手を差し伸べよう

すみません

乗った男のひとりに、

君に

天国行きの

なぶられるがままに、その

なぜなら

新幹線の

壊れて仕舞った体躯を揺らして、剃りあげられた

君は

指定席、できれば

ミー髪の毛。まるで、

まさに

喫煙席を

何かの刑罰に処された徒刑囚の末路が曝されていたようにさえ、そして

美しい。在り獲ないほどに、いま

一億五千の五百乗枚

私の

君は

いただけますか?

眼差しは

美しい。ただ

せめて

ミーの亡骸を

ひたすらに

直行便でお願いします

見つめていた。

《盗賊たち》のだれかが、スマホから、ハウス系のダンスミュージックにアレンジされた、この国の伝統歌謡を垂れ流していた。踊って見せていた。彼らが焦がれていたものが、いま、彼らの手の内にあったのは事実だった。彼らはそれを破壊した。命ぜられたままに。私は気付いていた。彼らは、最後に、その焦がれていたものに、終に、手を、ようやくにして、あるいは、とうとうふれ獲たのだった。ミーはもはや留保なく、

天国に堕ちろ

彼らのものだった。彼らは、

地獄に駆け上れ

ミーを我が物にした歓喜につつまれ、わなないた歓呼に全身を装われているに違いなかった。たとえ彼らがそれぞれに意図もなく曝してしまった一瞬の沈黙が、すべて偶然かさなり合って不意に、容赦なく、空間のすべてが沈黙に堕ちた一瞬が、と。

その刹那にあってさえも。それは間違いではなかった。彼らの罵るような嬌声と、適当に流され続ける音楽と、ときにささやかれる声すらも、それら、無数の音響が連なって、響き渡った音響、単なる轟音の喜びあふれかえった無骨な塊りにしか過ぎなかった、その。それ。すくなくとも、それは、この、それらが聴き取られた、私。この、私の、それ。この、耳。その中では。

私に何度目かに気付いた背の低い肥満しかけた男が、ブーゲンビリアの木陰に立って笑いながら、私に手を振っていた。どう?

私の眼差しは、もう

元気かい?

悲しみになど振り向かない

背後で、彼らの立てる夥しい物音の群れに眼を醒ましたフエは立ち尽くして、知っていた。私たちは、ミーがそうなることなど。いくつも、なんども繰り返して見た夢の中で。その鮮明な兆しの中で。自分の死と、宿命をさえも。生まれ変わった後の世のあらましさえをも。すべて。フエも、知らないわけがなかった。なぜなら、彼女は、あるいは、私は。言葉を失ったままフエは、そして、彼女を振り向き見た私に彼女は言った。

どうして?

と。彼女は、そしてもはやフエはただ

Tai sao ?

疲れ果てた表情をだけその

あなたはなぜ、

眼差しいっぱいに

You can smailin’

曝して。

笑ってるの?

私は

たのしいの?

自分の

いま

指先で、頬に

しあわせなの?

張り付いている私の、なにかに駆られたような

あなたは

微笑をなぜた。私は微笑み続けていた。ときに、不意に

俺がなぜ屈辱に塗れているのか、その理由を

失笑の音をさえ唇と鼻に漏らしながら。

元気かい?

フエの眼差しは、私をとがめだてさえせずに、いつか、

Khỏe không ?

悲しげな、なにをも喜んではいない微笑をこぼれさせて、

元気かい?

行って来なさいよ。と。

ささやく。

「あなたも、彼らと遊んできなさいよ。」

彼女は。言葉もなく、その

悔恨の灼熱の涙だけがこの俺の頬を伝うのだ

眼差しの気配のうちに。

私たちは見つめあい、おたがいに、言葉を失ったわけでもなくそれぞれに沈黙し、背後で、誰かが声を上げながら戯れに、わざと下手糞にしたダンスを踊り始めたのは知っている。

ほら、いま

その日、

みんなは楽しい

戸締りはしなかった。彼らに

この

任せた。私たちは

世界の、その

寝室に引き篭もり、私は

すべての場所で

フエの体臭をかぐ。髪の毛の匂いを、悲しい?

フエが、

悲しいですか?

あなた

つぶやく。私のねぇ?

星が見えなくて

ね?

耳元に、

こんな美しい夜に、星さえ

Anh

声を立てて。そして

見えないなんて

buồn nhỉ ?

覆い被さった彼女の身体の、押し付けられる皮膚が曝す汗ばんだ触感を、肌がふれあった全面に感じ取って私は、

老眼鏡が必要でしたか?

花々。

あなたの役立たずで

見い出す。何度目かに。

使い物にもならないふざけた二つの

私たちは、花々。

出来損ないの眼に

愛し合う。

ペンローズ階段を昇らせる為には

花。ブーゲンビリア。

フエが私の指先をくわえ込み、それは、そして。

咲き乱れる花々。

見えますか?

私が彼女の頬をなぜようとして差し出した左の人差し指。

匂い立つ花の色、その

瞬く。

色彩が

撒き散らされた花々が停滞していた。空間の中に。はるか向こうにまでも、どこまでも、ただひたすらに無際限に。もはや限度などありはしないと宣告し、冷酷に言い放ったようなそれら、花々の拡がり。無造作な、その、もはや海のような花々の群れの拡がりに、浮んだひとりの少女が

私の口から蔓が伸びてきて

指先を伸ばした。

鼻の先に咲いてしまったその花の色彩こそは

上の方に。

まさに純白

仰向けに

かつてチマブーエさえもが嫉妬したに違いない

その身を浮かべた花々の上、見上げられたそこにはなにもありはしないというのに。見あげれば、どこまでも拡がり、どこまでも延びていく空間の無窮だけが、その眼差しのうちに曝されていることなど、私はすでに知っていた。

空間を捻じ曲げろ、と

見たこともない少女が

アイザック・ニュートンがささやく

天を

そんな八月の桜

指差す。彼女は、美しいのだろう?果てもない無窮の延長。美しい?存在の限界に、終にはきみは。ふれ獲ない永遠の拡がり。ねぇ。

と、私が微笑みながら、話しかけて仕舞いそうになるのはなぜだったのろう?その少女と、終に出会ったあとで、私は彼女を穢して、破壊し、殺して仕舞うというのに。異常な、気圧配置の下で、降り止まない熱帯の雪の日に。なぜ、彼女は私を見つめようともせずに、なにも見えはしない上方にだけ、その眼差しを棄て置いて仕舞うのだろう。ここだよ。

と。

ほら

やさしい

僕は、と。想う。

咲いています

光に

ここにいるよ。

花が

つつまれながら

そんな必要は

ここにも

ぼくたちは

ない。ささやきかける必要など。彼女に。花々に素肌を曝した少女はすでに知っていた。私の存在も、何もかも。いまだに、その眼差しに私が彼女に曝した姿を見い出しもしないままに。つぶやく。悲しい?

泣かないで

Anh

声を立てて。そして

もう

buồn nhỉ ?

フエは

いとしい人よ

私の耳元に唇をつけて、そして、舌はふれて、やがて、歯が軽く咬んでみせれば、聴こえた。フエが、私の耳元に不意に立てて仕舞った短い笑い声の、その吐息を吹きかけてすぐに羞じた音。息遣い。音になる以前の、かすかな気配。感じられていたフエの体内の心細い触感に、あるいは、そして私のそれはかならずしも何かの興味を感じていたわけでもなく、生き物の惰性としての硬さをだけかろうじて獲得していた。フエを抱きながら、私は彼女を想う。ブーゲンビリアの樹木に凭れて、《盗賊たち》の饗宴を見つめ続けていたあの女、ミーの女だった、その、色づいた、肥満しかけた豊満な女は、無様なほどに露出のきつい悪趣味なポルノ・ダンサーのそれような青いドレスに身をつつんだまま、その眼差しのなかに何を見ていたのだろう。

眼の前で、崩壊させられていく自分の愛した愛するて、いる。て、いた?る、その男の姿に。あるいは、彼女固有の条件はそのほかの《盗賊たち》と同じだったには違いない。彼らだって、みんなミーを愛していたのだから。唖然として立ちつくしていた私の存在に、最初に気付いたのはその女だった。

あら

なにかに耳元で呼ばれたかのように、不意に

ごめんなさい

顔を上げて、自然、見あげられた眼差しに、彼女は

お化粧ならもうすこしで

立ちつくした私を

終わるところよ

捉えて、私が

綺麗でしょ?

想わず噴き出して笑って仕舞ったのをさえ見ていたに違いなかった。その表情を

やだ

人々の叫喚の中に時に

派手な笑顔に崩しながら、彼女は

見つめちゃやだ

私は彼等の固有の

煽っていた。無言のうちに、

溶けちゃうよ

それぞれの孤独と孤立を感じ取るのだった

人々、周囲に散らばる高揚した《盗賊たち》、あるいは、高揚してもはや単なるひとつのでたらめな塊りにさえなった気配の、ただただ部厚いだけの束なり、その発熱そのもを。もっと。

愛して

むしろ、ぼくの

と、もっと。と。

ねぇ、もっと。わたしだけを

眼差しの中で

もっとしなさい、と。

命尽きるまで

君は花

ね?

愛してくださらない?

綺麗に咲いた僕だけの

女が屈託もなく笑い声を立て、その眼差しに邪気はない。もっと。

そんなに見つめたら

と、そう

頭の中に

ほら。

肛門の穴が開いちゃうよ

もっと。激しい苦痛をいま、まさに、彼に、彼にだけ、彼にこそ、もっとあげなさいよ。そいつに。もっと。凄惨な痛み、もっと、残酷な破壊、もっと。決定的な屈辱と汚辱。そして、もっと、なんども殺してあげなさい。なんども、もっと。なんども、気が遠くなるほどに、もっと、なんども。

いい?

なんども

ね、

繰り返し

もっとよ。

僕たちは家畜のようにケツを振って僕等の至高の愛をささやく

私を見い出した彼女の眼差しが、でしょ?

つぶやく。その、否定し難く鮮明な気配として。じゃない?

彼女は、そのとき繰り拡げられている饗宴のさなかに、彼女の最愛のミーへの愛が終に完成したことに目舞いさえしたに違いない。ミーの崩壊は、とりもなおさず彼女たちの愛の時間の終焉で、つまりは終に完成して仕舞ったのだった。ふたりの愛し合った事実そのもの、その固有の経験そのものが。樹木にもたれたまま、突っ立って、無意味に息を切らせさえしながら、彼女の眼差しには明らかな高揚と、醒めた嘲笑とがあった。だれもが笑っていた。好き放題に声を立てて。嘲笑ってやるしかなかった。何を?

ミーを?

ほら

それをも含めて。その

花が咲く

眼差しが捉え、皮膚が感じ取り、

ぼくたちが

耳にふれるものの、それら

愛した、その

ことごくのすべてに。

花が

たとえ沈黙していてさえも捲き起こる哄笑の無際限な連なりが、ずっと、耳に木魂し続けている気がした。おもしろい?

Vui không ?

背後に言ったフエの

俺の存在とはむしろ、余りにも容赦のない苦痛そのものに他ならない

声を、私は

血を流す

振り向きはしなかった。その、不意に

俺は

漏らした失笑にすぎない声に、私は彼女の終に微笑んで仕舞った顔を見たいとは想わなかった。もはや殺されていくミーは悲鳴さえ立て獲ない。

僕たちはいつか、鳥の翼を獲得するだろう

寝室に入ると、フエは眼を醒ましていた。なにも見い出そうとはせずに、起きようとも、もう一度眠りつこうともせずに、ただ開かれているだけの眼差しは、私を見つめ返そうとしもしない。

言葉をかけようとして、

ねぇ

なにもかけるべき言葉を想いつかずに、私は

なにが

その傍らに座り、フエの額を

見えますか?

なぜた。服を着て。

フエは

わたしは

言った。想い出したように。そして、

あなたを

私の指先が

見ています

額にふれることこそが目醒めのときの合図だったかのように、フエは身を起こすと、ハンガーを掻き分けて、白いワイシャツを探し出し、どこまでも褐色の素肌を曝した自分の体にあてて微笑む。ほら。

Ông Vũ

今日はおじいさんに会いに行かなくちゃね。

chết

老人の死に顔を

rồi

確認しに。フエの褐色の肌に、寄り添うように朝のやさしい日が差して、季節は日本で言えば春の終わり。五月の初頭。ダナン市は亜熱帯の町だから、温帯のような四季はない。春もなければ秋もなく、長い夏と、テトと呼ばれる旧正月、太陰暦の元旦を迎えるまでの三ヶ月ばかり、一日中激しい、あるいはしめやかな雨がこの地方に降り注ぐ。時には台風の雨をも含めて。基本的には弱々しい雨が一日中降り、時に南部のスコールに近い土砂降りが長時間降り注ぐ。稀にこの地に届く台風は、はるか沖合いのフィリピンですでに消耗したあとなので、日本のそれに比べれば、いちじるしい発育不足を曝した幼児程度のものか、老いさらばえた残骸状態のものであるかにすぎない。

そして、雨季の間、気温は冷え込む。とはいえ、観光地たるここでは、外国人旅行者たちは相変わらずのリゾート・ファッションを曝すので、そのタンクトップやキャミソールは、明らかに異常なものとして現地の人々の眼には映った。熱帯のようにはっきりと雨期と乾期に分かたれているわけでもなく、四季さえもないこのあたりの五月を、いったい、どう呼べばいいのだろう。亜熱帯とは、たしかに、熱帯と温帯とのグラデーションが刻むしかなかった、言葉にしづらい過渡のなにかなのかも知れなかった。

シャワールームにそのまま消えていくフエの、やわらかい翳を添わした背中を見守った。もはや、悲しみなどすこしのそぶりにさえ見せなかった。昨日の夜、泣き顔さえつくらずに、泣き声さえあげないままに、涙をただあふれ流させているフエを見かねて、私が終に彼女を抱きしめたときに、フエはそれには抗いもしない代わりに、縋りさえもしないで、ただ、そのまま泣き続けて、ソファの上、私に抱きかかえられながら、やがて、彼女は想い出したようにねぇ。

言った。

「知ってる?」

Do you

何を?

know

「仏陀になると、どうなると想う?」

the third eye

身を捩って、フエは

of the

不意に私を見上げて、そして見つめたのだが、

Buddha

知ってる?

見えますか?

その眼差しはいつか涙を流すことさえ忘れていた。

ぼくの

「三つ眼の眼が開くのよ。」

こころ

ほら。

あなたを愛した

「ここに。」

ぼくの

言って、自分の額を指さしたとき、

いまや凍てついたこころ

フエの眼差しは明らかな恍惚と、隠しようもない恐怖とを曝していた。宗教。たしかに、宗教としての、宗教以外のなにものでもない、ためらいもなく容赦もなく留保もない恐れと憧れが、その眼差しにはあからさまに匂った。私は

われらは主の

眼をそむけることもできずにフエを

軍隊に他ならない

見つめてやり、微笑む。私は、そして

わたしの歯は空に舞い上がった鳥どもの肋骨を砕いた

それしか、私にできることなどなにもない。

あきらかに、フエは私ではない。私はフエではなく、それぞれに獲得された固有の眼差しの中に、それぞれのすべてを見つめるしかないのだった。

フエは、泣きやんでなどいないのだろう。涙は、止まってはいないのだろう。ただ、涙は流されることを、フエに、いつか忘れられて仕舞っていたにすぎないに違いない。そんな実感が、私の眼差しの中にはあった。みっつめの眼、確かに、そうなのかもしれない。現在、

昔、ぼくは花だった

過去、

やがて僕は星になる。なぜなら

未来

ぼくは今狼だから

すべての記憶を取り戻して仕舞えば、それは確かにみっつめの眼が、額にこじ開けられたに他ならないのかも知れない。

その、私を見つめ続ける、かすかな熱狂を曝したふたつの眼差しを、すでに持て余して仕舞っていた私が、フエの頬に口付けるのにフエは抗いはしない。もはや、唇にそのまま受け止めるわけでもなく頬に、私の唇の触感をだけ感じてあの日の朝、私たちはミーを埋葬してやった。

朝の日差しが、ぼくは好き

夜の《盗賊たち》の、いつ果てるともなかった饗宴がいつか終って、その早朝に、彼らが街に火を放って歩いたそのばかばかしい騒ぎも落ち着いた午前九時に庭先には、だれにももはや忘れられたミーの血と泥に塗れた亡骸が、しずかに、なににも訴えかけることも、訴えるべきなにものをももはや持たずに、破壊された、空っぽの身体としてだけ自らを庭先に曝して、それを輝かせるのはただ朝のあざやかな曇りみない光。救急車と消防の、あるいは警官たちの群れの、さらには焼け出された人々の悲痛な喚き声と罵り声が、数枚のコンクリート壁の向こう、町の隣のブロックに渦巻いて、その庭にまで聴こえていた。学校にも、会社にもすでに、今日は休むと伝えて仕舞ったあとだった。火事のことをすでに聴き知っていただれもが、それどころではないとむしろ私たちの身の上を案じた。私たちには、なんの被害もなかった。あるとすれば庭先に奪われた生命の亡骸が転がっているというだけで、その生命にしても、私たちに固有の生命でもなければ、私たちの所有でもなんでもなかった。結局は、なにも

愛は

そのとき

奪われは

惜しみなく

僕等を愛が

しなかったのだった。

奪う

引き裂いた

あるいは、私とフエは、唐突に与えられたミーの死と言う事実、与えられたその死体に、戸惑うしかなかった。《盗賊たち》にしてもそうだったに違いない。彼らはミーを与えられ、終に自分たちのものにしたのだった。何も奪われはしなかった。なにも、だれも、町の人間たちにさえも、すでに新たな悲惨が与えられていた。なにも、だれも、奪われはしなかった。叩き付けるようにして、私たちはみんな、それまで見たことも、体験したこともなかった風景を一気に、それぞれの眼差しのうちに与えられていたのだった。死者は、ただ、その死に絶えたさまを無防備に曝していた。燃え上った煙の大気を焦がした名残りのいまだに匂う、焼け出された路上にさえも。埋葬してあげましょう。

そう、フエの眼差しは言っていた。庭先に、目線を投げた後に、彼女の背後にたたずんでいた私をいきなり振り向き見て、

ね?

そうするしかなかった。警察に、ミーの亡骸を手渡してやる気にはなれなかった。バイクを飛ばして、クイ Quý の家にスコップを借りに行くのは私の仕事だった。なにかの適当な理由をつけるのは、フエの仕事だった。クイの父親たる在りし日の最期の数日を過ごしていたヴーに、フエは電話をした。庭の掃除でもするのよとでも言ったのだろうか。邪気もなく笑い声を立てながら。こんな大火事の日に。バイクにまたがった後、何の気なしにフエに手を降ってやると、フエは不意に声を立てて笑いながら、それがめったにないイベントであるかのように手を振って、投げキスをいくつか送ってよこすフエは、ただ、笑う。あふれ出る幸せをさえ、不意に、彼女は感じ取って仕舞ったかのように。そんなささいな一瞬の仕草さにさえも。ね?

庭に出した数メートルの先に、

好き

仰向けに、傷だからけの素肌を曝した

あなたが

ミーの死体が、いまだに眼を見開き、口を「あ」のかたちに

ね?

こじ開けたままかたまって、日差しに

その目が

ふれる。速やかですばしこい蠅が、すでに

好き

たかり始めていた。

わたしを

町は匂う。生きたままの

見つめるあなたの

人間をさえ含めて、

その

さまざまなものを焼き尽くして仕舞った町は、

好き

焼け爛れて崩壊し、それら

わたしに

残骸の群れは、

そっと

廃墟とさえ言獲ない。生き生きとした、

口付ける

残骸であるそれらの

想わせぶりなあなたの

現在形を、

その

むしろあざやかすぎるがまでに

好き

曝けだし、ただ

あなたを好きな

匂い立たせる。

わたしが

悲惨な

好き

風景、と、まさにそう言獲た。事実、町のその焼け堕ちた二百メートル四方のブロックだけが、そこでだけ熾烈な内戦かなにかでも起こったような、どうしようもなくすさんだ風景をだけ拡げていた。無数の焼死体が路上に曝された。救急車の類が数台群れ、警官がバイクを路上に駐車し、ほぼ通行止めの状態の中、交通規制もない。逃げ延びた人々が口々に手当たり次第の誰かにつめよって、なじり、ののしり、非議を訴え、讒訴し、いずれにせよ、まるで口を閉ざせば死んで仕舞うのだとでも言いたげに、言葉をおさめやまずにわめき続けて、物見の人々は好き勝手に周囲に大量にあふれた。路上に。車とバイクの狭間に。焼け爛れた残骸の群れに。戸惑う負傷者。腰を曲げた老人が煤塗れの体で地を這うように歩く。ゆっくりと。乳児を抱えた三十女がなぜか、自分が鼻水をたらしていることに気付かない。私は彼らをかいくぐってバイクを走らせ、その二十キロもない速度の中に、燃え落ちたあらゆるものたてた臭気が拡がっていたことに後れて、ふたたび、気付く。路面に並べられた野晒しの焼死体に、いく人かの人々は群がって歎きの声をあげ、喚き散らして、もはや収拾などつきようもない。警官が私を振り返り見て、ただ、忌々しげな眼差しを投げ棄てた。ミーが殺して仕舞ったタンThanhの母親、ハンHạnhが路上の真ん中に立ちつくして、口を半開きにしたまま呆然としていた。知性の消滅した眼差し。なにかの疾患を抱えた人間の知性さえもが、もはや、彼女の眼差しには感じられない。その片手に、幼児のための青いシャツが、煤と黒煙にうす穢れたままに握り締められていた。あるいは眼の前で、燃え上がる孫の姿を見たのかもしれない。

それは、燃え上りながら泣き叫んだだろうか?

コンクリートの家屋は、倒壊はしないままに真っ黒く染まった残骸としての姿だけを無防備に曝し、中に入った消防の人間が焼死体を運び出すたびに上げられた怒号が拡散していく。駆け寄る人々が両手を振り回して、臭気。満ち溢れていたのは夥しい臭気の充満。ガソリンの残り香。そして、あるいは、焼けて仕舞った人体が立てる、為すすべもない臭気。鼻は馴れてはなんどもふたたび、臭気に気付く。鼻の奥に吐き気がした。眼をそらしようもないないままに、通りを抜けると、人々の集団は一気に疎らになった。いまだに匂いは鼻を抜けない。

サイレンが鳴り、声の群れが無造作に飛び散ってかさなる。叫喚の風景。人の疎らになった通りでは、あたりさわりのない、どこあに緊張を曝した日常がそれなりに繰り広げられていた。

カフェは店を開け、物見の群れから離れて来た近所の人間が集った。歎かわしげに言葉をかさねあい、ときに邪気もない笑い声さえもが立つ。

ヴーの家は、すぐ近くだった。

角を曲がって、そして数百メートル直進した角の、主幹道路に面したヴーの家にまで行くと、もはや完全な日常がそこに拡がっていた。町の中の、あくまでも局所的な悲劇。その悲劇の息吹きはここにまでは襲って来ていない。法律家にして、町の名士たるクイは、これからまた忙しくなるのかも知れない。一つの集落が、焼け落ちて仕舞ったのだった。顔の半分を、カンボジア戦役で失って仕舞ったクイは、そのままその半分崩れた顔を曝したままに、一階に開いた氷屋兼野晒しカフェの軒先に座り、友人たちと話しこんでいた。

いつもと違って、私には見向きもしない。赤いプラスティックの粗末なテーブルひとつを囲んで、クイをあわせた6人ばかりは顔をつきあわせて、とはいえとりたてて深刻な顔をするわけでもなく、彼等が何を話し込んでいるのかまでは私にはわからない。時には、あけすけに陽気な笑い声さえもが彼等の口に立った。シャッターを隅まで開けっ放した一階の奥にヴーが、同じプラスティックの椅子を出して座ってい、そして私に力なく微笑みかけて手を振った。想えば、すでに老いの果ての死の兆候が、だれに隠す気もなく兆されていたのかもしれなかった。そして、考えてみれば、それが、私が生前の彼を見た最期の姿だった。

クイとダットĐạt の父親である彼は、驚くほどにその息子たちとは似ていない。大造りな顔を大きく曝して、見あげるほどの巨体をそのまま椅子いっぱいに投げ出していれば、白髪は灰色に、無造作に、その部分的な薄毛を見せ付けるだけだった。不意に乱暴に、振り上げた右手は、奥に行け、と、そう言っていたに違いない。

奥まったキッチンに、ヴァンがいて、その肥満した巨体をゆすりながら裏庭を指す。声を立てて笑いながら私に何か言う。私にはその言葉など聴き取れはしない。気を使って、微笑みかける私をは、まともに見ようともしないままに彼女はひとりで昼食の準備に追われていた。ざるに投げこんだ香草を千切り、ほぐして下ごしらえをする。

キッチンから、周囲の隣の家屋の壁に迫られた裏庭に出た。ブーゲンビリアの樹木と、私の名前の知らない、花のない樹木がその葉を茂らせる。その翳りにいまや、ただの物置になった離れのあばら家があって、タオは、樹木の茂った枝の下に突っ立っていた。葉々の翳りの中に、日差しから身を隠すようにして。その少女。十一歳の少女には、いまだ

見つけないで

私に愛される手立てをなど

わたしなんか

持たない。ただただ

見詰めないで

乳臭さの抜けない無防備な

わたしなんか

幼さを曝しながら、マイMai が十七歳のときに、未婚のままに獲たその

わたしはどうせ、ただ、あなたをだけ愛し続けるのだから

少女が、私を

永遠に、もはや

すでに

時の果てたその終わりの果てまでも

愛している事は知っている。私に気付いて、振り向いて、すぐさまそらした眼差しが、容赦もなくそれを語る。好き。憧れのようなもの。とはいえ、

あなたが

鮮明に、愛し焦がれているには違い、

好き。もはや

それ。隠しようもなく、そして

どんなときも

ふたたび彼女は傍らの、花のない

どんな場所でも、たとえ

樹木の先を見上げた。私は

ふたり

タオに

永遠に

微笑みかけてやりながら、私が

たとえ遠く

やがて

引き裂かれても

殺して仕舞う少女。

好き

タオは瞬きもしない。なぜか上方、樹木の先を見つめ続け、あるいはそこでいま、鮮明に世界が終って仕舞っているのだとでも言いたげな、ただひたすらに深刻な眼差しを曝していた。声をかけることさえ憚られ、終には、私は

見あげられた満点の空にまばらに流れる雲よ

声を立てて笑った。

私の頬に流れる涙を拭え

かならずしも嘲笑ったわけではなく。少女が浮かべていた眼差しはあきらかに、その年齢にはあまりにも

またたく星々は私の存在など

深刻に過ぎた。

知りもしないだろう

深刻すぎて、自分が好き放題に淫した深刻さをただ自分勝手にもてあそんでいるようにしか見えずに、私の笑い声に気付いたはずのタオは私を無視して、そして、褐色の肌は木漏れ日の中に曝されていた。その、粗末な

君は美しい

白い

疾走した猫が振り向いた眼差しに見た一瞬の

タンクトップの

夢のように

先から。もともと、昏い、心憂い、想いつめたような眼差しをしている少女だった。いつでも、笑ったときにさえも、そして母親マイには髪型しか似てはいない。その、ベトナムに最も多い、そのまま伸ばされて後ろでひっ詰められた髪型しか。父親似なのかも知れず、マイは決して、その父親の名前をは語らない。家族のだれにも。家族たちはもはや、その眼差しにマイへの諦めに似た赦しを浮かべるしかすべはない。その沈黙に対しては。タオはかならずしも、それをもって家族の者たちからつまはじきにされているというわけではない。ただ、フエを除いては。好き嫌いはともかくも、とりあえずは誰に対しても心優しく接しはするフエはただ、タオに対してだけは容赦をしなかった。あからさまに、まるで誰にも公認の、ひとつの社会倫理として容認された被差別人種を扱うようにして、いかにも穢らしげにあつかい、フエは

君は美しい

その眼にふれる彼女のことごとくを

堕ちていく天使の羽根に巣食ったちいさなしらみが不意に見た

非難した。たとえ、沈黙の

夢のように

眼差しにあってさえも。髪の毛の毛先の跳ね上がり方一つさえも、フエにとっては容赦もない批判と軽蔑の対象にほかならなかった。タオはフエを畏れ、いかなるときにも、その眼差しの先から逃げようとしていた。ヴーを筆頭に、クイの家族たちの中で、人徳者として公認されたフエは敬愛され、尊敬されこそしても批判されるべき対象ではなかったから、そのフエの撒き散らす理不尽は、為すすべもなく赦され、理解されないままに共感されるしかないのだった。あるいは

いつか

マイの沈黙と同じように。

ぼくは君を

やがて、私の立てた笑い声が、外の主幹道路のバイクの群れの

見い出したのだった

騒音さえも届かない、内庭に寂たる大気の中に消え去って、

あの嵐の日に

ややあって、私が

泣き叫んだ君の涙の

彼女から

その

目線をそらそうとした瞬間に、タオは

理由を

当然のように私を振り返った。私を見つめた。

ん?と。

そんな、ささいな音声の気配さえもなく、タオの眼差しはただ、なにかに追い詰められた色彩を見せ付けたがままに、冷静に、自らが曝された危機をだけ訴えたのだった。私に縋る気配さえ匂わせずに。ただ、私をさえ突き放して仕舞おうとしたような、私に対する絶対的な無関心さをほのめかしながら。どうしたの?

と、想う。私は、そして、「どう、

と。

「しました、」その、「か?」言葉。

私の唇がつぶやいた、その私の言葉の意味を両眼に、見つめた唇の動きに追いながら、タオはそれでも私を見つめつづけていた。「どう、しました、か?」わかるわよ。

じっと、

ねぇ

見つめれば、

わかる?わたし

言葉なんか、

ね?

聴きもせずに

かなしいの

分かって

わかる?

仕舞うものよ。と、その悩ましげなだけで、なにも語りかけようとはしない冴えた眼差しが、私は、彼女がそうつぶやいている気がしていた。「います。」タオが、ゆっくりと、

満天に煌く星々よ。いま、汝等固有の惨劇を語れ

ささやく。

いまっ

「上に、」

ううぇにぃ

「います。」

ぃいまっ

かすかに想いあぐね、何かを想いだそうとして、あるいは、不意に想い出しようもないことに気付いて、突然自分がおののいていた事実に気付き、むしろ茫然としながら。それら、そんな心のかすかな動揺を、さまざまに、ほとんどなにも変わりもしない表情の中で、そのうごき。小さくゆれうごく黒眼だけが、あからさまな鮮度を持って、私に曝す。

chuột …が、」

そして想いあぐねた表情を一瞬だけ曝し、

「上にいます。

chuộtんが

タオは

うぇぃいまっ

日本語を勉強していた。近所の、留学経験があるベトナム人が開いた塾で。いまどき、珍しくもなかった。片言の日本語が話せ、そして、教科書には出てこない鼠(chuột)という言葉をなど、タオは知っているわけもなかった。私はふたたび、表情を作ることを想い出して、眼の前の幼い彼女のために微笑んで、私はタオをふたたび見つめていた。

内庭。

明るい日差し。

さわやかな木漏れ日の散乱。

あるいは、頭上に茂った木の葉の密集が投げかけた騒ぎ立つ木の葉の翳りに昏らんだ淡い闇の氾濫。

物置兼クイの大量の書類置き場になってる離れの角から、喉を痛々しいほどに腫らした病んだ犬が、やっとのことで歩を進めて、のろのろと内庭に這い出してきた。木漏れ日が、その褪せた茶色の毛の上に斑で繊細な、消えうせそうな翳りを投げて、犬はそれに対して何の防御のしようもない。あるいは、防御する必然などなにもない。私も。タオも。私たちは木漏れ日に同じように翳らせられて、私は瞬く。

母さん

瞬間、

僕の両手はどうして血に塗れているの?

タオは

夢の中で僕自身を

声を立てて

殺して仕舞ったから?

笑った。

タオが上方、指差した指の先を眼差しにたどると、背の高いその樹木の、一番低い枝、とはいえ、天井の高い家屋の二階の丁度真ん中くらいなのだが、そこにでたらめな放射を曝した枝のひとつに、死んだ鼠がその死体を無防備に曝して、音もなく引っかかっていた。どこかの猫に屠殺された挙句に、樹木の上にまで確保され、そして、その存在を忘れられて仕舞ったに違いない。あの死体を始末しろ、と、そう言いたいのか、ただ、その存在を知らせてみたかっただけなのか。あるいは、

お母さん

単に、

誰が貴様ごときの母乳になど口をつけてやるものか

自分が気を取られていたものが何なのか、その

ちゃんと、加熱殺菌してくれませんか?

秘密を打ち明けなければならない必然に、彼女は駆られていたのか。

タオは、ただ、その枝に

私らは

引っかかった樹木を

たたずむであろう

指差していた。

霧のなかに

蚊帳を上げて、ベッドに横たわり、帰ってくるのを待っていた。シャワールームに消えて行ったフエを。素肌を曝して、その体中にまとわりついたままの水滴をバスタオルに拭いながら、寝室に入ってきたフエは、あら。

Anh đẹp trái

ハンサムさん。

そう言って、笑った。微笑むわけでもなく、私はフエの濡れた髪を見た。未だに水滴を滴らせる黒髪は、いかに念入りに体をバスタオルが拭おうとも、さらに

私らはたたずむであろう。

その

私らを

霧のなかに

上から

包むであろう

濡らして仕舞う。そんな事には構いもせずに、フエはバスタオルをベッドの上、私の腹部に投げ捨てると、

綺麗な日には

引き出しの中に、彼女の

綺麗なからだを曝してみるの

喪服を探した。茶色い

雨降る日には

アオヤイ風の宗徒服は、確かに

青い涙を

フエの顔立ちに

流してみるの

似合った。派手なところのなく、そして、かならずしも

晴れた日には

可愛げのあるわけでもないその

燃え上らせてみるの

質素な顔に。不意に邪気もなく

からだのすべてを

鼻歌を

音もなく

歌いだしそうなそぶりがあって、いまに

燃え上る

尻さえ

野生の

振りはじめるのではないかと

太陽の下に

訝るほどに、その朝のフエは上機嫌だった。

太陽は常に、野生の灼熱をしか曝しはしない

いまだに髪の毛さえ生乾きのままのフエを、私はバイクの後ろに乗せた。粗い喪服の触感が、気配として背中に感じられ、至近距離にふれ合えば、フエのいまだに濡れた身体と髪の毛の匂いが否応もなく、水気に倦んだ匂いを撒き散らして、背中にしがみつくフエの体温は私の背中を温めずにはおかない。庭先のブーゲンビリアが花を散らせた。晴れた空は、濃い光をその樹木に惜しげもなく降り注がせて、花々はきらめく。その、むらさきに近い紅彩を一切、色褪せさせもしないままに。

降りそそげ

通りに出ると、焼け落ちたブロックはいまだに

光よ

まともな再興を果たさないままに、むしろ

焼き尽くせ

片付けられはじめたせいで、より凄んだ惨状を

この俺を

気配させていた。家屋から運び出された燃え残りの残骸が、

この俺の苦痛

そのまま残骸として

この俺の栄光

歩道のいたるところを埋め尽くし、時には

この俺の絶望

車道にまでにもはみ出す。コンクリートの躯体の

俺が革命と叫んだならば

取り壊しをしようと言うのだろうか。鉄球を

君等は俺を速やかに抹殺せよ

ぶら下げた解体車両が車道の半分を塞いで止まり、とは言え、なにをし始めるわけでもなく、ドライバーはそのあるかなきかの日陰に煙草を吹かせているにすぎない。何をしようと言うのか、家屋の居住者たちは道端に適当にプラスティックの椅子を並べて話し込み、お互いの身の上を歎くのか、囃し立てるのか、ときに笑い声さが立つ。通りを隔てた無傷の向かいにはいくつかの飲食店が、やる気もなくいつもの閑散とした営業を続けていた。

何人かが、海際の橋から身を投げて

知ってる?

自殺したことは知っている。ひとりは

お前、笑うと

50代の男。家族の半数以上が、炎に

めちゃくちゃ

焼き殺されるか、煙に

可愛いんだよ

窒息死させられるかしていた。ひとりはひどいやけどを負った三十代の女。顔と右腕に。夫と三歳の娘が、炎か黒煙にかに殺されて仕舞った。ひとりは、私も一度一緒に酒を飲んだことがある70代の老人。彼の家族のうちの何人かは、それでも生き残っているはずだった。その怪我とやけどの重度は知らない。所詮はひとごとにすぎない気配の中で、私は、単なる他人の身の振り方の始末の仕方のひとつとしての自殺に、どこかで自分勝手で愚劣な無責任さをさえ感じて仕舞っていたのも事実だった。私のその感覚が、倫理的に許されるのかどうかはわからない。すくなくとも、死んで仕舞えば彼らは自由になれた。自分ひとりでさっさと

倫理とは常に他人の身の処し方に対する批評に過ぎない

死んで仕舞う気ままな自己放棄への容赦のない非難じみた軽蔑が、私の

知ってた?

眼差しの中に芽生えていた。そんな

お前、笑うと

感慨にふけりこむ自分の勝手で無自覚な無責任さと

すっごい

愚劣さをも

可愛いんだぜ

軽蔑しながら。とはいえ、いずれにせよ彼らが直面しているは、留保もなき悲劇であるには違いなかった。

孤独のワンウェイストリート魂の孤独そしてお前がくれた

午前8時。近親者の

やさしさに感謝

弔いの朝の弔問としては、あきらかに遅すぎた。アンのように、6時くらいにはすくなくともいちど顔を見せておいたほうがいいに決まっている。町は、奇妙なほどに人翳がない。その理由などは知っている。日曜日の午前、人々は町の中心部に遊びに出かけて仕舞ったか、遅い寝起きのまどろみをむさぼりたいだけむさぼっているか、そのどちらかに違いない。クイのうちの前にバイクを止めると、氷屋も何も休業していて、仮設の葬儀場が一階に、いかにも派手派手しくしつらえられていた。

歩道は言うまでもなく、前面の車線にさえ少しばかりはみ出してテントが張られ、日差しを避けたその翳りの中に、みっつばかりのパーティ用の丸テーブルが並べられていた。垂らされたテーブルクロスは中華紋様を曝して、アルコール飲料はさすがにない。それぞれのテーブルの上に水とお茶とグラスが並べられて、洗いもしないで、かわるがわるにそのグラスに水を取る。飲む。話しつかれた渇きを癒す。群がった人々の好き勝手な話し声が渦をまく。軒先の、皺塗れの白装束をまとったヴァンが手を振った。よく来たわね。

と。

あら

待っていたのよ。

ハンサムさん

参列者の数人が、

あなたも

かわるがわるに

来てくれたのね

私たちを

それともわたしにケツを振るつもり?

振り向き見て、手を振るなり、微笑むなり、肩を抱いていきなり頓狂な声をかけるなり、それぞれに固有の仕草さを私たちにくれた。かならずしも、昨日、家族一同の命の根拠たる翁の遺体が戻ってきたばかりの家であるとは想えない。そんな陽気さと気安さが張り詰め、私はいつものように戸惑う。彼らと同じように、いま、この場で、私も微笑んだり、声を立てて笑ったりしていいものなのだろうか?

確かに

笑ってごらん

彼ら現地人たちは、想い想いの

きっと

現地風のたたずまいを見せるのだが、

きみも

私のような異人種が、彼らに殉じて

笑えるから

同じような振る舞いをした場合、むしろ

きみだって

彼らの眼差しが

もっとすてきに

外国人の不埒な振る舞いとしてその同じような眼差しを

笑えるはずだって

捉えて仕舞わないというわけでもない気が

ぼくだって

した。私は、

知ってるから

彼らのようにあけすけに振る舞うのを遠慮するしかなく、それがむしろ彼らの目に、あまりにも慎ましやかな異国流儀に見えていることをは知っていた。テントの傍らにかろうじて確保されていた駐車スペースに、私はバイクを止めた。

親族は、二十人近くが顔を出していた。たぶん、これから埋葬まで一週間近く弔いの日々は続く。しつらえられた祭壇はお決まりの白い花々で埋まり、花々は好き勝手に潤んだ、どこか色気だった匂いを撒き散らして、女たちをさえ地味に隠して仕舞う。突き当りの壁一面に、亡くなったヴーの名前が印刷された巨大なビニール・シートが飾り付けられて、煙だった香の匂いが舞う。忌問者の到来を告げる太鼓とドラが鳴らされて、クイの息子たる二十歳すぎのカーKhaが私が差し出した供え物の線香の束を、盆にうやうやしく受け取った。

救いたまえ

三度の礼を

いまこそ

祭壇に捧げて、そのたびに

生まれ出でた我等に生まれ出る苦悩の灼熱を

床のござの上に膝を屈してひざまづき、そのいかにも宗教じみた礼拝法を、フエにならないながらたどたどしく模倣する。異国人の私は。線香を、

ほら、きっと

私はひとりで

きみにも

祭壇にささげた。傍らで、ただ

できるから、ね?

つつましやかに

やってごらん。ぼくの

フエは、

するように

そんな私の仕草さを見守っているにすぎない。夫のいる女はその手みずからで死者を穢すことしない、ということなのだろうか。すくなくともアジアにおいては、その土俗的な感性において、日本のイザナギ・イザナミ神話を含めて、生命を生み出すものは生命それ自体に穢されているという、そんな感覚にもとづく作法が多いのは事実なので、ここにもそんな感覚のヴァリエーションのひとつが、人々の眼差しに映る風景を、その後景として支配しているかも知れない。いずれにしても、礼拝を私を任せるきるとき、フエはいつでもつつましやかに、背後に控える。いかにも貞淑に。

女たちは

いつでも

十人近く祭壇の裏、

私の

ヴーの遺体を収めた棺の傍らの床に

背中にその悲しげな目線を

座り込み、

落としていたのだった

胡坐をかいてその、使いまわされすぎて褪せた白装束を皺だらけのままにまとった集団は、まとわれた白装束の下、本来純白で在るべき色彩の、文字通りできそこないの、薄穢れ、破綻した肌色無様な塊りにしか見えない。あきらかに皮膚の色彩は穢らしい。無言のままにざわめき立った眼差しの群れが、それぞれに連鎖していきながら、時差を持って私たちを捉えて、それぞれ勝手にゆらぎ、ばらばらにうごめき、耳打ちの声さえ聴こえて、いずれにせよ、ようやくにして、私の眼差しはかろうじて何かを哀れみ儚んでいる人々の気配にふれれば、これが埋葬の儀式の風景であったことにいまさら気付かされる。

 

 

 

 


ザグレウスは憩う #2

 

 

 

 

 

 

 

 

群れた白い塊りに、縋るつくように駆け寄ったフエは、すでにその眼差しの中、女たちの群れのうちに、自分が取りすがるべき人物を見い出していたのだった。それはヴーの妻だった。八十代半ばのヒエンHiềnという名の老婆は、物言わないままの皺としみにまみれた歎きの表情に、その眼差しをいっぱいに悲しみにみなぎらせていたフエの、自分に縋りついた倒れこむような仕草さを愛でて、その頭をかき抱く。私に微笑むかける上目のヒエンの眼差しに、私は弱々しい微笑をただ、

私はいちども

返してやるしかない。いずれにしても、

死の翼にふれたことなどない

寄り添った女たちの集団の中にだけ、確かに、

なんども

かすかなものではあっても

転生の時の中に

歎きは

死んで仕舞いながらも

鮮明に存在していた。

死とは一つの特異点にほかならず、それを

クイの姿はどこにも見えない。

経験する事などかつて誰にもできはしなかった

断りきれない所用のために、どこかに出かけているのかもしれない。町の名士にして、カンボジア戦役の英雄にして、著名な慈善家たるクイに、たとえ父親の弔いの週ではあっても、体を休める暇などないということなのかもしれない。父親との反目があったとも想えない。

声を聴く

振り返って、私は

葬儀の中に、人々は

そして

自分たちの唇がときに

棺を覗き込めば、

発する

ヴーの

声を聴く

濃い死化粧を施された花々に埋もれこんだ遺体の曝した顔は、インターネットで見たどこかの国の死体の腐らない奇跡の聖人だとか、そんな風にさえ

歎きの声か

見えた。

あるいは

あきらかに化粧が濃すぎて、

哄笑にすぎないちいさな

まるで蠟細工のようしか見えない。

声を

苦しみの痕跡は見えない。それとも、地肌に刻まれていたその痕跡を、もはや塗料と化した化粧が覆い隠して奪い去って仕舞ったのだろうか。苦しみながら彼は死んだのだろうか。その最期に。苦しむ隙さえもない、あっけない死だったのか。あるいは、死に先行してすでに消滅していた意識は、鮮明であるべき苦しみさえ知覚しないままに、一切その匂いにもふれもしないままに

死者の埋葬は死者に任せよ

やり過ごして仕舞ったのだろうか。一度だけ胸元に、ちいさく

やがて

すでに、もう

手を合わせた。

最後の日にすべての死者は蘇らなければならない

我々は容赦もなく

九十歳を超えている長老なのだから、彼は

最後に審判を受けるべき必然があるのならば

あなたに裁かれてしまっていたというのに?

戦争で人をひとりふたり殺したことがあるどころか、その双眸にさまざまな風景を見い出して来たに違いない。フランスによる占領下、殖民地支配の風景。そこからの独立運動、あるいは局所的暴動、突発的な抗争、不意のゲリラ、やがてかつての大日本帝国の到来。彼らによる

自由を我等に

奪わないでくれ

ヴィシー政権との共同統治。そして敗戦と供に彼らはいなくなれば、その八月に北のほうで勃発する八月革命、だれかが

自由と民族独立こそは

屈辱と苦痛を。それらこそは

ふたたびこの地に殖民地支配に来る前に、そしてどこかの国が勝手に宗主国たることを宣言して仕舞う前に、彼らは

きみの魂を自由をする

俺の生きる理由なのだ

勝手に独立を宣言し、いずれにしても彼らには此処にすでに固有の国家が存在することを、世界中の人間たちに明示し告知してやる必要があった。攻め込んだフランス兵との再会。そして新手のソヴィエトの軍人たちのロシア語が飛び交い、アメリカの軍人たちのアメリカ英語が飛び交い、独立戦線に協力し始めた一部の残留日本兵がクアン・ガイに違法なる非承認国家たるベトナムのためのゲリラ兵学校を作った。さまざまな場所で、さまざまな思惑による紛争が勃発して、ながいながい戦争の時代が来る。ヴァンの前半生どころか、その最期の二十年たらずを除けば、ことごとくが

地上に最も多くの殺戮をもたらし獲たものは、国家という

戦争か、

統治システムでこそある

紛争か、独立闘争の時代にあてはまめられて仕舞う。フランス兵の軍用銃から、日本軍の日本製の歩兵銃、アメリカの、ソヴィエトの機関銃、あるいはどさくさに紛れて中国人と韓国人の発砲した銃弾をまでヴァンは知り、そして、フランス兵が、日本兵が、アメリカ兵が、韓国兵が、この地の女たちに生ませた子供たちを

自由を我等に

むしろ、友よ、あなたは家畜になりなさい

見てきた。時には報われることの少ない悲劇的な愛によって。そしてその大半は容赦もない戦場地域にありふれた

魂を解放せよ

祖国の家畜になりなさい。なぜなら

単なる日常的な暴力のひとつとして。いま、生きているという事は、いま、死なずに生き残っているということにすぎない。

祖国に栄光を

あなたに祖国以上の価値などかつて

その当たり前の事実を隠すことも出来ない時間の無造作な集積に、ヴァンはその人生の大半を浸した。

祖国の栄光こそは我らの魂を

存在しはしなかった

なにか、いつか

自由にする

自分勝手に想いあぐねて、歯軋りしそうなほどに感傷的な、どうしようもないはらわたに滲みる惨めったらしさを、誰にと言うわけでもなく感じて仕舞いながらも私はその場を離れようとし、表で、近親者たちの雑談に交わる気にもなれなかった私は、私に向って振り上げられたいくつかの手と喚声に、気付かなかったことにしたままに、奥、ひとりで裏庭に出たのだった。

光よ

いつもの、

容赦もなく輝く

喉を腫らした痛々しい老犬が

君よ。この地球の

ブーゲンビリアの

至宝よ!

木漏れ日の、淡い日陰のなかに憩う。かつては見事だったに違いない茶色い毛並みは、皮膚病さえ併発していたのか、あるいは喉の腫れに起因する発熱のせいでもあるのか、所どころに斑な脱毛と薄毛を曝して、眼差しのなかに、ただただ目に映るもの、耳にふれるもの、鼻に感じられるものの、それらすべてが

君は光

厭わしく、歎かわしいのだと、

この世の光

彼の頭をまともに撫でてやったことさえない私にさえも、その

光あれ!

上目の視線が

君がそうつぶやけば、世界は

訴えていた。

光り輝くしかないのだ

表で鳴らされ始めた、ベトナム仏教の念仏の、ながいながい節回しが、伴奏のエレキギターを伴って背後に遠い轟音の幕を作って、録音されたものを再生しているにすぎないそれに、人々の喚声が、

聴こえるよ

ときに、

聴こえているよ

まばらに、混じる。人の

僕等の声が

死に目にあって、静謐とした、とは、

はっきりと耳に

間違っても言獲ない環境の中で、耳元に

いま

聴こえているものにさえ

耳を澄まさなくとも

聴こえはしない振りをし通そうとした老犬はただ、

聴こえていたよ

木漏れ日の中に頭べを垂れた。あの日、ミーが殺された翌日に、スコップを借り出した私は家に帰って、上半身を日差しに曝して、ブーゲンビリアの根の近くを掘ろうとしたのだった。その試みが不可能だという事は、すぐに気付いた。その荒々しく動きもない図太い樹木の、地下にいかにも支配者然として張り巡らした根に、振り下ろされて土を掻く一本のスコップごときでは、どうやっても抗いようがないのだった。

背後に、

樹木

仏間の木戸の日陰でフエは、相変わらず素肌を曝したままに

ひ弱さを気取って見せた、その

片手のスマホをいじって見せながら私を

あまりにも強靭で巨大な肉体

見守り、時に私を画像に収めて、不意に声を立てて笑って仕舞うことに、いったい何の意味があったのかは私にはわからない。映された画像には、陽光に曝された

あるいは

無残な

樹木とは一つの凄惨な暴力そのものではなかったか?

ミーの死体さえもが映っているのだから、だれにも

焼き払って仕舞えば、その我々さえもが

見せられないふたりだけの秘密、

滅びてしまう、あまりにも残酷で

つもりだったのだろうか。もっとも、その

救済のない

死体は

至上の暴力

私たちが殺したのではない。あくまでも、見殺しにしただけだ。と。

そんな言い訳など、だれかに通用するのだろうか?

朝の日差しが長く描いたブーゲンビリアの翳りの、その先端の草地を掘り起こし、私は三十分近く掛けて、ミーを埋葬すべき穴を掘った。家の向こうで、

いつか

焼き尽くされたばかりの町の喧騒は

芽を出す花々は

おさまならない。その

いま

忌々しい臭気さえも。振り返った

種の中の

白い、開けっ放しの鉄門の向こう、

眠りの中に

主幹道路を警察の、

憩う

救急の、あるいは消防の車が通り抜け、そればかりか徒歩で何人もの警官が実況検分に歩き去っていくのだが、

ほら

だれも

ぼくは

私たちを

ここに

眼差しに

いるよ

捉えようとはしなかった。

私はミーを、そのまま担いで穴に放り込もうとした。

Không !

その瞬間にフエが、

No !

どうしようもない危機感を

駄目よ

曝した声を立てて私は振り返り、私にしずかに微笑みかけているままのフエを見い出す。ミーの穢れた亡骸を腕に抱いた私をじっと見つめて、ややあって、立ち上がったフエは素足のままに、乾いた地を踏んだ。歩き、傍らに、寄り添うように私を見上げたフエが、ミーの開かれた眼差しを閉じてやろうとした。私は膝をついて、ミーをやさしく地に横たわらせて、そしてフエを見守った。息をひそめながら。未だに死後硬直は始まっていなかった。むしろ、フエの想うままに、ミーはその表情をつくり、髪の毛を徒刑囚のように刈り上げて眼を閉じた、血と泥にいっぱいに穢されて微笑む少女を完成させた。薄穢れ、引き裂かれて、張り付いたままの衣服を引き剥がす。死んだ、いかなる生き物の息吹きもない、どうしようもなく私たちへの無関係さをだけ曝す他人の素肌を日差しにふれさせ、もはや生命をきざむことのない肉体は、好き放題にそれら固有の憩いのときをむさぼっているように見えた。魂など、いかなる意味でも不在なるがままに。

もっとも重要なのは

日差しは

君の魂が自由である事だ

直射する。一切のやさしささえ感じさせずに。

私たちはときに肌をふれあわせて仕舞いながら、ミーの傍らにひざまづいて、そして彼女は生まれたままの姿で、誰にともなく、なにをも見出さない閉じられたまぶたのうちに、最期の微笑を曝しだしたのだが、不意に、フエが鼻に笑い声を立てたのに私は気付いた。どうしたの?と。

ほら

その私のつぶやくべきだった言葉をさえ待たずにフエは

君を見つめながら

私に顔を上げて、微笑みのうちに

僕は失心する

見つめれば、私の頬にキスをくれた。

もう片方にも。催促されるわけでもなく、私はフエの唇に、唇を添わせて、短い口付けのあとにミーを抱きかかえる私を、フエは見つめた。雪が舞った。

永遠なる愛を

わたしの心よ

開け放たれた木戸の向こうに、ブーゲンビリアが雪に埋もれ、その

君だけに

語れ。いま

葉の群れ、枝の拡がり、図太い樹木の幹の沈黙、荒れた木肌、そして

愛を

その

咲き乱れるしかない花々にさえ、ただ白いだけの雪の色彩はその

君だけに、唯一の

あふれでる愛の

自分の色彩のうちに埋もれさせ、あるいは、不意に開いた白の色彩の

愛を

無際限な言葉を

裂け目の点在の下からわずかにのぞいた緑と、むらさきに近い紅彩が、純白を破壊しないまでもあざやかに裏切って、それらはあくまでも固有の色彩に自分勝手に

ぼくらは

淫した。

君の眼差しの中に堕ちる

少女が振り向き見て、いつもの昏い眼差しを向ける。私に。彼女は何か言った。私に。私は

なにを

それを、

見てるの?

意図的に

わたしを

聴き取りは

見てるの?

しなかった。すでに

いま

知っていた。彼女が

咲きます

何を

花が

言ったのか。そのとき、

音もなく

やがて

ひっそりと

来る私の最期のときのなかで。

知っていますか?

微笑んだタオが、

名もない

ややあって

花々の

ささやきかけるのを、そして、

名前を

あるいは、私がそれらを聴こうとさえしないのはただ、静寂のうちにだけ、彼女を見つめていたいからだったのかもしれない。美しい女。確かに。

成熟しかけたままに無造作に放置された、ずさんな、いわばうち棄てられた美しさを彼女の身体は曝す。自分勝手に、想うがままに息づきながら、それを所有する本人自身に軽蔑され、貶められていた野生の肉体。自分で素肌を曝し、褐色の、肌は雪の日の夜の反射光の中でだけその色彩を空間に、不意に生じたなまなましい翳りとして暴き立てて、タオは声を立てて

私が

笑った。

微笑むのはそこに

そのときに。

君がいてくれるから

不意に。やがて、私に殴りつけられ、壊されかかって、ほら。

雪の中に

言った。彼女は、ささやく。耳元に、見えますか?

花が

なにが、見えますか?

咲きます

声。私はその声を耳の中に反芻した。なんども。出来た?

知っていますか?

想う。私は。あなたが望んだとおりに、いま、

あなたの知らない

あなたは生まれて来たことそれ自体をもはや憎み、後悔できていますか?

花の名前を

タオのうつろになっていく眼差しを見る。失心を繰り返し、壊れ、崩壊していく。何を?

知っていますか?

想った。何を見てるの?

名前を知らない

あなたの眼差しは、いま。

わたしの

ときに、

名前を

唐突に、

知っていますか?

不意に声を立てて笑うタオの見出した風景には花々。あの、彼女が愛したブーゲンビリアの花々は咲いていたのだろうか?安置した。ミーを、私は穴の中、土の上に。土には、あからさまな土の荒々しい、いわば容赦もない野生の臭気が匂い立ってって、漂い、停滞し、それらのうちにあらゆる細菌の類が育まれているに違いないことはすでに実感させられていた。これら、無機物の無残な臭気は、たしかに、さまざまな生命体を育んでやまない生命の温床にほからなかった。こまかな地中の

命の歌

虫が地を張って、むき出しにされて仕舞ったミミズが混乱のうちに地を這った。私の体のいたるところに

歌え

付着した土をフエは、声を立てて笑いながら払ってくれ、その頬に口付けてやろうとして遣れば、フエはわざと拒絶して

命の歌を

戯れた。ミーに土を掛ける前に、フエが言った。待って、と、そのフエはブーゲンビリアの樹木の枝の周囲を彷徨って、眼差しに何かを追い、捜し求め、やっと見い出したのは、花をいっぱいにつけた細い枝のひとつだった。花を散らして仕舞わないように慎重に、フエは枝を折ろうとはするものの、生き生きとした野生の、瑞々しい繊維にみなぎった命の執拗さに、所詮はフエの華奢な指先などかなう敵ではなかった。

ぼくらは

フエの意図するところは理解していた。奥に入って、

抗う。きみを

はさみを取ってこようとした私をフエは

苦しめるすべてのものに

制止する。ブーゲンビリアの小高い花の枝に、

ぼくらは

背を伸ばして手を伸ばしたままのフエは、

抗う。きみを

かすかに

悲しませるすべてのものに

ふらつきながら木漏れ日をあびて、その

ぼくらはやがて

素肌の褐色の上に、

殲滅されてしまうだろう

さまざまに斑な葉と花々の形態の名残りを翳らせた。

いつか見た蝶の羽撃きの影の下に

不意に私を振り向きて、声を立てずに、あえてひそめて笑って、彼女はゆっくりと、そっと、そして枝を引くいていく。彼女の顔の前にまで、花々を乱す枝はときに絡まりながら引き摺られたのだが、数片の花びらが舞って堕ちる。足元に。フエは、狙いの枝に、咬み付いた。

もっと

咬みつき、

もっと、想うがままに

咀嚼さえして、すこしずつ、

望むがままに

その

もっと

柔軟で強靭な繊維を千切っていくと、その数分間を、まるで

僕をずだずだに引き裂いてしまうがいい

彼女固有の趣味であるかのように浪費する彼女の真剣な眼差しには微笑みさえない。いつか、装わずに私は声を立てて笑って仕舞い、ときに唾を吐き棄てながらも繊維を咬む、フエの唇のうごきは樹木のしなった枝にかすかな震動をを与えて、ほんの、ふれれば壊れて仕舞うわななきが、フエの肌の褐色の上に翳りを揺らめかせてはその色彩をおののかせる。

そして

風に吹かれた、ちいさな

心はふるえた

花々の

ぼくのナイーブでセンシティブでときにナーヴァスな心は

震動の集積をあますところなく曝して。

終に、フエの葉が枝を断ち切った瞬間に、その弾き上げる反動に撃たれたフエは、小さな悲鳴を上げてしゃがみこむ。枝を

ほら

耳を澄ませば

指先に掴み取ったまま、

雪が降る。ただ

君の声が

そして、彼女たちを

あなたのまぶたの上にだけ

聴こえたよ

降り注いだ、舞い堕ちるブーゲンビリアの花々が、いっぱいにむらさきがかった紅彩の断片に埋め尽くす。

私は堪えきれずに声立てて笑った。しゃがみこみ、膝に顔をうずめてまるまったまま、フエは身動きひとつしようとしない。散乱した花々に覆われて。もはや好き勝手な自由の中に、為すすべもなく上方にわなないた枝の、好き放題のわななきの連鎖が、フエになおも無数の花々の紅の雪を降らせた。頭に、髪に、肩に、背中に、積った花々の色彩は身動きしないフエのせいで、かすかにも動きさえしないままに、上方にわなないた翳りがそれらのすべてに微細な躍動を匂わせるのだった。

俺はいつでも光の中に失心したいと願うそんな

ややあっても、しゃがみこんだまま動かないフエに、その傍ら、私がひざまづいて添ってやると、不意に顔を上げた彼女は私を見つめ、涙さえ流さずに、そしてフエはひとりで泣いていた。

拒絶して

花々を撒き散らしたままに。

私があなたを求めたならば

泣いているとは言えない。涙もなければ、その声もなく、しゃくりあげるわけでもない安らかな、その

見て、いま

流れ出るきみの涙に

一瞬、

ぼくらは

不意に宿ったその気配に、やがて

言葉の存在を忘れて仕舞ったのかも知れない沈黙の中で、

美しい

僕は自らを埋葬したのだった

表情さえ喪失して泣いている彼女は、

Buồn...

悲しい。

言った、その言葉は私の耳だけにふれた。ほかに、

悲しみは

聴くものなど誰もいはしなかった。彼女に

いま

添うのは、すくなくとも

夢の中で

いま、私しかいない。そして、

咬み付いた猫の

向こうの主幹道路を

残した

行き来する警官たちと、町の

傷痕のように

人々の群れでさえもが、私たちのことをすでに

そっと

棄て置いて仕舞っていた。

傷付けた

フエの、

わたしだけを

追悼の言葉、その耳障りを、わたしは為すすべもなく耳の奥にとどめた。

青空に火を放て

花をしがみつかせたままひとつたりとも散らしてはいなかった、フエの指先がはさんだ花ざかりの枝を、私は奪い取ると彼女の意向のままに、ミーの胸元に投げ棄てた。ただ数輪の花々だけが、ミーを弔って、彼女は添われた。花々に、そして私は土を、ミーに振りかけるのだった。胸元に留まった、その花々の匂わせた色彩にさえも。そして、土の中に目醒めたままでいるはずの無数のこまかな生命の群れの、無造作の氾濫の中に、

いま

埋没される。

ふたたびあの青空に火を放て

私の仕事が片付くまで、フエはそこにしゃがみこんだままだった。横向きに捩った眼差しで私の一挙手をまで確認しながら、もの言わないまま、表情さえなく。

相変わらず、その体中に花々を撒き散らされたままで。曝された素肌の褐色の上に、花々はひたすら残酷で、赤裸々な野生の色彩を曝した。人肌の、花の色彩にふれたせいでもはや、どこか穢らしく、みすぼらしく、あきらかに無残で、くすんでさえ見えたその、彼女の色彩をフエは惜しげもなく曝して、むしろなんらの恥じらいもなくその、何も言わない眼差しを地面にそのまま

わたしは花

投げ棄てた。

綺麗な花

ミーの墓に墓標はない。あるいは、

わたしは花

いつか草花が芽吹いて、

ささやかな花

墓標の代わりに

わたしは傷

咲いて見せるかもしれない。手入もされなくなった庭は、

やさしい傷

あきらかに

永遠にあなたの心を

荒れていた。繁殖する草、樹木の苗木、それら

苛むの

植物に、やがてはここは飲み込まれて仕舞うのかもしれない。それらの理不尽なまでの生命力の横溢の中で。私は、たぶん、もしそうなったとしても、私たちがそのままに棄て置くに違いないと、何の確信もなく私は想っていた。私に手を引かれるままに立ち上がって、家屋の中に連れ込まれようとしたフエは、不意に抗うように私にもたれかかって、しがみつき、胸に顔をうずめたフエの体温に、私の曝された上半身はむせかえる。

灼き尽くされた

頭をなぜた。

光よ

彼女の唇が、私の唇に

降り注げ

ふれられることを、意識される前の当然のここととして、認識していることには気付いていた。私がその顎に指先を添えて、顔を上げさせようとすればフエはわずかに、あざやかに抵抗して、駄目よ。

好き?

いや。

わたしの

と、その

すべて

気配がフエの周囲にだけ乱れる。私は頬を押さえつけて唇を奪った。いつか、嗜虐的な色が、私の眼差しの中に浮んだ。フエは抗うことをやめない。私の腕が彼女のもがく身体を強く、潰して仕舞いそうなほどに拘束し、

好き?

筋肉の力みと、

この

骨格の

世界の

うごめき。それらは

息吹き

じかに私にふれる。見あげるまでもなく、空は青くそれ自身の色彩を曝して、そこに輝いて、ただあるがままに停滞しているに違いない事は知っていた。フエの、私の唇に暴力的に塞がれた息遣いが耳にこすれて鳴った。

私の指先は、

耳を澄ませれば

彼女の背中の皮膚をなぜ、それは

あなたのまぶたの瞬く

愛撫に外ならず、私たちは

そのかすかな音響さえもが

息遣う。

聴こえていたはずだった。あるいは

足をくねらし、腰を引き離してもがき、私から離れようとするフエを

耳を澄ませれば

私は

気配さえなく花開いていく

許さない。後ろを向かせて、

紫陽花の花々の花弁のふれあいさえもが

ブーゲンビリアの樹木の幹に手をつかせようとはしたものの、

聴き取られていたはずだった。ときには

抗うフエに容赦はない。不意に、私が

耳を澄ませれば

彼女をひっぱたいたとき、フエは

降り注ぐ日差しが大気にふれた、その

抵抗をやめた。身動きもなく私を

温度の息吹きさえもが

ただ見つめる、上目遣いの眼差しには、

空間のあまねくすべてに

突発的な怒りもなければ執拗な憎しみもなく、

鳴り響いていたはずだった。そして

澄んで明確な言葉の、その

あなたの

断片をさえ匂わせないまま、フエの

いつか流した涙の

ふるえもしない眼差しは、鮮明な

頬を伝ったそれ。時の中に消え去った

歎きを

痕跡の息吹きさえも

訴える。

雨を降らせたのはあなたですか?

破壊してやりたい衝動が私に芽生えていた。唐突な衝動が

わたしの額を不意に

私の喉の奥に

濡らした刹那の雨を

発熱した不健康な温度を与えていた。何を破壊して仕舞おうとしているのか、私にはわからなかった。ブーゲンビリアの樹木に両手をついて、ときに爪で幹を掻きさえしながら、家畜のように尻を突き出したフエは私を受け入れるしかなかった。どうせ、衝動が収まって仕舞えば、いつものように、途中でやめて仕舞うことなどだれにも明白だったのに。頂点に向おうとはしない、惰性の長い行為がフエを痛めつけるわけでも、恥辱にまみれさせるわけでさえなく、かさなりあいはしない息遣いのうちに、かすかに風に打たれたブーゲンビリアが花を散らす。まばらに、私たちを、そして花々は想うがままに穢した。なにを、と。

見ていますか?

その声に振り返り見て、家屋の

わたしの

裏口の日陰にたたずんだタオを、

微笑み

眼差しは見つける。

して、いますか?」

ヴーの葬儀の騒音は耳の向こう、タオの存在をさえ塗りこめて、そこに停滞していた。彼女が、そこに立っていた事は、すでに、その投げ出された気配によって、私の背中には察知されていた。

なにうぉしてぇまっか

タオのささやき声が、耳のうちに反芻されて、刻まれた無残なほどに昏い絶望的な眼差しのままに、彼女は

花々は

微笑んで、

所詮は

あるいは、やがて

咲き乱れるしかないのだ

ちいさなささやき声を立てた。唇の端に。彼女のその音声が、何を言ったのかは

うんぃたぁんのひ

聴き取れなかった。それがベトナム語なのか、日本語なのか、英語だったのかさえ、私にはわからない。

笑いかけもしない私の、どこか呆然としているに違いない眼差しを、タオは声もなく見つめていた。微笑む寸前の、表情のない顔で。幼すぎる少女。とはいえ、確かにその年の頃にしか許されない、むしろ中性的なあやうい美しさを、タオの身体は無防備に曝すしかない。

あの日、

壊さないでください

ブーゲンビリアに引っかかっていた鼠の死体に、私たちは

空の青さを

庭の小石を投げあったものだった。昏い眼差しが

雨が降ってしまいますから

浮かべた深刻な絶望を、一切くずしもしないままにタオはときに声を立てて笑い、私の発した派手な笑い声を聴く。

首をかしげて、そして私は聴いている。

なに?

私たちは。聴いていた。その

それはなに?

三階に匿われている、頭のおかしくなった、両眼のない

なに?

タオの叔母が、唐突な、

あれはなに?

獣じみた叫び声を立てて仕舞ったのを。頭の中で、その

ここに

響きは無意味に反芻されて、木魂すこともなく、チャンという名の彼女が

ここにいてください

いったい何におびえ、あるいは

ずっと、ここにいて

なにに抗おうとし、なにに

笑っていてください

非議を訴え、なにを

世界を

軽蔑し、拒否し、憎悪し、そして

あかるく照らし出すために

終には立てられて仕舞った叫び声なのかは、一切

いとしいひとよ

人間の言葉をは発さなくなったそのチャン自身以外には誰も知らない。

花々は

二十歳のときだ、と、フエは

それらみずからのためにだけ咲き誇らなければならない

言った。彼女が、自分で自分を殺して仕舞ったのは。自分で、自分の両眼を抉り出して仕舞ったチャン。そのとき、何をしてるの?そう

Em

言って

làm gì ?

想わず耳元にささやきかけたフエの声に、フエを認識したに違いないチャンは、両手のひらに転がしていたふたつの眼球を、握りつぶした。その瞬間、眼球の内部のものの、薬品じみて感じられた匂いを

花々は

やがて

フエの鼻は

匂い立つ

あなたに

嗅ぎ取った。いずれにせよ、チャンは

降りしきる雨の中にさえ

こんにちはって、そう

自分にしか分からない恐怖か、なにかに、その野太い低音で、威嚇を突きつけていた。そのときにタオが

あなたは

まばたく。

ふれられはしない

何の

わたしをは

音さえもたてずにふるえた、その

決して

まぶた周辺の空気が、震動を私の眼差しの中にだけ曝した。

こんにちは

タオの投げた小石が鼠には当らないまでも、その

愛する人

至近距離をかすめて、やっと置かれただけの枝の上からずれ堕ちて仕舞いそうな気配を立てた。声を立てて笑いながら、ふたりの眼差しがそのくせ息をひそめて注視し、その、見つめずに入られない視線の先に、不意に、前触れもなく鼠が堕ちた瞬間には、タオは頓狂な歓喜の声を上げていた。いくら見つめていても、と。

もう、なににも

そこにはもう、

あなたは

鼠なんか

ふれられはしない

死んでいないわ。

すでに

そんな言葉を、私に、何の言葉もなく語りかけている気さえした。その、裏口の日陰に私を見つめる、少女の優しげな眼差しは。諦めて。

ふれなさい

もう。無駄だから。

あなたの

微笑んでやるべきだったろうか。私は、

のぞんだものに

そうに違いない気がした。私は、私に、もはや微笑む余力をさえ感じていはしなかった。庭の、何事もない風景には、すでに飽き果てていた。裏口の方に歩を進め、私がタオにすれ違いそうになった瞬間に、ん。と、その

ん、と、それ

鼻にかかったタオの音声を

ん、とその

きみのその音声が

聴いた。耳に、

あきらかに

不意に

至近距離に鳴ったように感じられた、

日本語の

僕の耳にふれたとき

それを。

音声を

終に星々は失心する

すれ違いざまの傍らに、立ち止まったタオは白装束を曝しままに、私を見つめ、その上目遣いの視線のどこかに、一瞬の想いあぐねた不安がのぞいた。かすかに、けれども鮮明に。いたいけもない、というには、その眼差しの昏さのせいで、あまりにも大人びすぎているように見えたタオが、焦燥に駆られながら周囲の気配を探り、その

変らないで

眼差しに、終にあからさまに

きみはきみのままでいて

いたずらじみた色彩が浮んだときには、それを私に

ありのままのきみでいて

見留める隙さえ与えもしない刹那、爪先だったタオは私の唇に押し当てていた。みずからの唇を。

いまこそ

一秒もかからない一瞬だけのふれあいを、私の

殺戮のとき

唇は

すべての家畜どもを屠殺せよ

執拗に反芻した。醒めやらない触感として。女として見ることの不可能な少女が、とはいえその眼差しのうちには、男としか見い出せない男を見い出していることに、なんどめかに気付かされた瞬間に、声を立てて笑うタオの眼差しに気付いた。私を

あなたを

見つめた、その。あるいは

見ていますか?

自分が、

なにが

なにかに

あなたを

勝利したかのように。タオは私の傍らを通り抜け、

見ていますか?

ブーゲンビリアの先の家屋の隙間を

あなたは

抜けて行った。

わたしを

華奢な子供にしか通り抜けられない近道。

ぼくらは沈黙の言葉で勝利を叫ぶ

やつれた老犬が、その後姿を眼に追い、鼻に

ぼくらよ、ぼくらの

嗅ぎ取ると、ややあって

屠殺死体を踏みにじれ

犬は身をもたげ、重力にふれることそれ自体がもはや苦痛なのだと言いたげに、タオの行方を追った。不意の幼い口付けに、私は呆然としていたわけではない。

むしろ、私の意識はただ冴えて、何の言葉をも想いださないだけだった。やがてあの

屍を超えて

雪の日に、タオの体に交わった、かすかで執拗な

無数の屍を超えて

熱狂を、為すすべもなく沈静化させて仕舞いながら、望まれていたこと。

花々よ、舞い散るがいい

タオに。眼差しがささやく。閉じられたままに、まるで、徒刑が執行されるときを迎えて、眼に

あまりにも繊細な花々の色彩よ

部厚い布をぐるぐる巻きにでもされたかのように、見えないわ。

それを

いま、私は。

擬態しながら

タオは、

見えないの

なにも。

わたしは

痙攣させる。

なにも

あけ開いたままの唇を。無様なほどに

わななかせて。その身体が、曝された褐色の肌をいっぱいに、不健康に汗ばませていることには気付いていた。何かの身体機能が崩壊したかのような、いびつな発汗。あきらかに零度の境界にふれた、凍えるしかない大気にじかに、その

わたしは

素肌を接触させながら。

なにも

タオの、

見えません

閉じたまぶたはふるえもしない。

もう

眼差しの

あなたしか

ふれるものすべてのもののすべてに、私は絶望していた。私のそれはすでに、その意味を失っていた。萎え切って、やわらかなだけのそれは、ただしなだれて、ふれあった粘膜のあるかなきかの圧力にさえ為すすべもなく、無造作にこすり付けられるにすぎなかった。最初から、何の熱狂もなかった気がした。頭の中、神経の中を冴え、癒しがたい発熱に白濁させて仕舞いながら。

いつか眼差しさえ、温度を持っていた。病んだ、何かが明らかに壊れて、制御の可能性を失った暴走の温度を。私は醒める。

知ってる?

ただ、冴えて、醒め、なんども

降り積もるとき、雪は

目醒める。繰り返し、

かすかな音を立てる

一瞬たりともまどろみさえもしなかった冴えた眼差しの中で。

明らかな、発狂を、精神疾患に

いま

還元することも、分類することも不可能に違いない、あざやかな

君が笑う

不意の墜落に似た発狂を、タオの閉じられたまぶたが曝し、倦む。タオは、みずからの発狂に、そして、

ふれる。

いま

彼女の首に、私の手のひらは、そして

ぼくは恋に堕ちた

感じ取られたもの。その、汗ばんだ触感。すでに

世界に平和を

為すすべはない。

この世界に愛を

なにものによっても許され獲ず、なにものによっても正当化させれ獲ず、なにものによっても救済されようもない、そして

愛こそはすべて

殺意さえありはしない行為。私は見い出し続けていた。

私は、ずっと、いつでも、光。

その、光さえない光の

私はすでに

氾濫。

あなたを救った

救済の、横溢する神々の光が私たちをつつむ。相変わらず、

あなた固有の地獄の焔から、いま

代わり映えしない救済の中で、私とタオはみずからを焼き尽くそうとする。最期の、もはや

神々は僕等を

輝きを!

行き場所のない破滅へと、

救済した

命の輝きを!

ただ。

光。氾濫する、光、すべてのものが、そして彼女の、締め付けられた喉が、苦痛に、あるいは、苦痛そのものが与えられた、もはや、恍惚でさえない光の、その、白濁に、倦む。吐き棄てることもできな発熱がタオを襲った。ささやき続けた。私は。

自分の唇の中にだけ、その、だれにも聴き取られはしないささやきを、私の頭の中でだけ反芻する。ねぇ。

ね、

ねぇと。

どんな気がする?

ねぇ

どんな、ね?

いま、

どんな気がする?

なにを?、と、私は

何が見える?

いま

ねぇ、と。君は

留保なき絶望の風景

何が見える?と、そう

どんな?いま

生まれてきたことをさえ後悔した、と、その

留保なき絶望の風景

ねぇ、なにに、と、そう私は

その

生まれてきたことをさえ後悔した

どう?いま

みずから燃え上がり、みずから、と。

その

君はいま、もう

焼き尽くすしかない、と、あるいは

みずから燃え上がり、と、私は、みずから

もはや、ね?、と、その

風景、

焼き尽くすしかない

君は、そして

私は

風景、

塗れる。私は、吐き出される彼女の体液に。あざやかにきざまれ始めるもの。その、私が見つめたその身体に、あきらかに、破綻。

もう

破壊。

見えますか

破滅。

あなたにも

すでに、

未来の

もはや

かけがえもない

成立できないもの。

輝きが

成り立たずに、手のひらの

その

中で

永遠の

最期の

きらめきが

ときを、もたらしてやらなければならないもの。死にかけた彼女は、もはや生き延びてはいない。タオはいまだに、死に獲ていないだけに過ぎない。私は知っていた。最期に、タオが自分を含めたすべてに抗うように立てた獣じみた声。割れた無防備な叫び声を、長く、激しく、立てて仕舞うのを。

つつまれる。

好き?

光に。

あなたは

つつまれていた。すべては。当たり前のこととして。裏口から

なにが

入ったキッチンのスペースの中にも。光は

好き?

群がり、

あなたは

散乱し、

好き?

氾濫していて、

なにが

相変わらずに、それらが

好き?

貫くすべてを、空気の一瞬のゆらぎひとつにいたるまで、あますところなく救済しようとしていることを。見る。

見た?

もはや、

彼女の微笑み

容赦はなかった。

幸せそうな彼女の

キッチンに並べた赤いプラスティックの椅子に座って、ヴァンVặnとその姉のイェン Yênと、もう一人の老婆が耳打ちしあいながらささやきあっていた。老婆がひとりだけ私に気付いて、その眼差しに微笑をくれた。イェンが、私を見向きもしないままに、彼、と。

日本人よ。

Người Nhật

そう言った。

深刻な表情を好き放題に曝した彼女たちが、実際にはありふれた世間話に淫しているにすぎない事は、話し声など聴き取らずともすぐにわかる。私の頬が、眼差しを終には笑わせることないままに、老婆のためにだけ余所行きの優しい微笑を作るが、たしかに、老婆の方だって、私に投げてよこす微笑の眼差しは、結局はなにも、みずからの微笑にさえもふれてすらいなかったことに今更ながらに気付く。笑い獲はしない眼差し同士の、かすりもしない、ただ親密なふれあい。

表に出ると、フエはいなかった。祭壇の周りにも、テントの幕の下にも。丸テーブルのひとつに、クイが媚びるように群がった近親者の集団をはべらせて、周囲の人々に好き勝手に話させながら、自分はひとりで沈黙していた。盛んに語りかけられる泡だった言葉の群れに、相槌さえうちもしないままに、そして人々はよくこんなクイに向って口々に話しかけられるものだと、私は不意に笑って仕舞いそうになった。

クイが私を、あるいは、その投げ棄てられた眼差しが不意に上向いた瞬間に、彼は見留めた。私を。近づいて微笑み、その手を握手に取ってやる私を、拒絶するわけでもなければ受け入れるわけでもない。そんな力などありはしないよ、と、そうとでもいいたげに、私の手のひらにふれられるに任せて、クイは握り返すわけでもない。かならずしも。その半面の、容赦も遠慮もなく捻じ曲がった顔が、無残な戦争の後遺症の癒えることのない残骸を曝して、それを恥じるわけでも、誇るわけでもないクイの眼差しは、ようやくにして、その時、私に微笑みかける。やぁ。

こんにちは

来てくれていたんだね。

わたしはヒトです

馴れ合ったというのでもない、

あなたは?

希薄な親密さを、こ馴れた上品さのうちに、クイはかすかな頬のゆるみに表現しおおせていた。

周囲にでたらめに群がった、クイに媚びいる話し声の、塊りになった連鎖がやまない。ただ、気の抜けたやる気のない茶飲み会合にすぎなかった、クイの不在時の人々のたたずまいは、もはやなにもなかったことにされて、葬儀には似つかわしくないほどの活気を撒き散らす。弔いなど女たちに任せておけばいいんだ。

はじめまして

なぜって、

わたしは

俺たちは

ヒトです

女じゃないんだからね。人々の

あなたは?

あふれ返った声の群れに、そんな風にささやかれた気がした。

ややあって、何かを察したクイが、立てた指を上に向け、上にいるよ。

Vợ con

君の妻なら、上にいる。

ở đâu ?

微笑みさえしない眼差しには、奇妙に馴れ馴れしいやさしさが匂う。私は、かならずしもフエを探していたわけでもないままに、クイに首がふるえたほどのかすかな会釈を返して、階段を上る。

 

 

 

 


ザグレウスは憩う #3

 

 

 

 

 

 

 

 

フエが、どこにいるのかの、大方の察しはついていた。三階の、かつての親友の許に添うているに違いなかった。この家を訪れて、彼女が人々の前から姿を消すとき、それは彼女がそこにいるを事をだけ、意味した。

急な階段を上って、仏間とチャンの部屋を兼ねたその部屋の入り口をくぐると、ドアと言うものさえない吹きっ曝しのそこ、窓越しのやわらかな逆光の中、その女はそこにいた。

ベッドに腰掛けて、こちらのほうを向いてはいるものの、存在しない眼球は私のすがたのなにものをも捉えはしない。傍らに

ぼくは

寄り添ったフエは、私に一度だけ表情のない眼差しを

ここに

くれたが、想いあぐねたように黒眼を震わせ、その、

いるよ

かすかに

ここに

潤んだ気配。なにか、

ぼくは

涙ぐみそうになる心境だか、感傷だかが、こんな葬儀の日のチャンの傍らに、フエの鼻先にいつか嗅ぎ取られて仕舞っていたのかも知れない。このところ、と。

私は想う。

ぼくは

君は泣いてばかりいる。

そばに

私はまばたく。かならずしも。と。

いるよ

かならずしも、

きみの

なにかが

そばに

鮮明に悲しいわけでもないくせに。その、私の不意の想いは、言葉にもしなければ彼女に匂わせさせえもしない。フエが、

きみの

ぼくは

視線を流すように眼をそらし、空中の

そばに

何かに

ぼくは

ぼくは

彷徨ったそれは、ややあって、

きみの

結局は

ぼくは

ほら

チャンの横顔に

いるよ

きみの頬に

堕ちる。

きみの

かかる虹

チャンは、

いるよ

ぼくは

笑うしかない痴態を

ぼくは

曝していた。眼の

きみの

未来

周りにまわされた白い、

ぼくに

そして

薄穢れた布で目隠しを

いるよ

すべて

されて、その

ぼくの

ぼくは

眼の在るべきだった

きみは

きみに

陥没部分には、若干の

ぼくに

愛されながら

皺によじれた、ウィンクを

いたよ

生まれて初めて

曝す下手糞な

ぼくに

きみが

眼の

きみの

生まれてきたその意味を

落書きが

そばに

知った

あった。なに?

ぼくは

見えるかな?

なんなの?これ。と、

いるよ

ぼくの翼

私がつぶやきも、気配に

ぼくは

羽撃くぼくの

漂わせもしないうちに、フエは、

きみが

純白の翼

かならずしも

そばに

いま

察したというわけでもないに

ぼくは

飛び立つよ

違いない、

Thảo

ぼくは

タオよ。