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教室から出た冷たい息

白い粒が教室の透明な窓に水滴を作り、外に広がるグラウンドの向こう側には虹のような橋がそびえ立ち人や車が行き交っている光景が鮮やかに見えた。十七歳の瞳に映ったのは、時間の針の一刻一刻の音で刻まれる閉鎖的な教室の隔たりとは他の人間社会だと感じて机と見比べ、冷たい呼吸をする。曇り空に照らされた教室が憂鬱で、扉のガラという音と同時に現れるスーツのロボットを見るたびに憂鬱を覚える。高校三年最後の冬は、暖房が効いた教室の隅でマフラーに落ちる眠気の滴を見ながら空っぽの殻の中にいた。ようやくピリオドが打たれる事に解放の運動会でも始まって欲しいと願っていた。
担任教師が黒板の前で生徒を眺めている顔には疲れのような念が漂うから余計につまらない。
授業の話と皆のペンの動きが比例すると自分の気力の減退も比例して加速する。
「教科書は幕末の後から、復習しようか。谷垣に読んでもらおう。起きろ」
谷垣は寝ているのだから寝かせておけば良いと思う。「読め。谷垣」谷垣がビクッと頭を上げた。
「斎藤。何ページ?」
「あぁ、ここ」俺は教科書の明治維新の所を谷垣に見せた。暖房の重低音で響くジーンという波動で皆眠いのかもしれない。「えーと。徳川幕府が倒れた明治維新には摂政として薩摩の武士が明治政府として文明開化を遂げた」
バスケットボールの体育館にはねる音が響き、冬だけどTシャツ一枚で十分だった。女子の薫と美江と理恵はしゃがんでサボり眺めているが先生が注意しないのは目が悪いのかもしれない。
「早く卒業したい」
「朝、思うもん。何このイナカって」
「ウチラ。単位ダメじゃない」
「谷垣、はしれー」
「お前らサボってんじゃねーよ」谷垣が汗だくで抜けて、ダンス部の杉山が走って入った。
「斎藤!ダラダラすんな!」と先生がピーっと笛を吹いた。キーンコーンカーンコーンとこだまする。
休み時間は、階段をかけ降りてトイレに直行した。我慢できずライターを握りしめガタンと入り俺と杉山はタバコに火をつけてプファーと言った。
「お前、体育で絡むのやめろ。内申点に響く」
「そろそろ行こう」
吸い殻をティッシュにくるんで流す。教室に戻ったら、女子が「タバコの匂いする」と言っていた。
「杉山君と何してたんだろ」と聞こえた。
「うーん。なんの匂い」
授業が終わると、帰る人が教室を出ていく。「杉山部室行く?」
「行く」
大きな校舎を背景に俺と谷垣は、川沿いの雪をズシズシ踏み潰して道を作っていた。マフラーが首筋と口元を暖めて白くなっている。
「はぁ…」
「何?」
「もう卒業近い」
「うん」
「進路、まだ決まってない」
「バンドは?」
「誰と?」
「じゃあ、親の手伝いとか」
「解散したし」
「上京は」
「しない」苦笑いした谷垣の目に戸惑いを感じた。静まり返る冬景色の寒い川沿いを無言で歩いていた。
「どこにも行かない。親の農家手伝う」
桐谷と杉山は教室で机に腰掛けて、女子と喋っていた。
「部室に行くんじゃなかった?」
「桐谷は進路どうすんの」
「別に適当」
「タバコの話すんな」
「吸う方が悪くない?」
「家がタバコ屋」
「あいつの親は厳しい」
家で弟とテレビに繋がれたゲームをしている事にも飽きてきた。「ご飯できたよ」
「洋太、高雄」
テーブルの上に乗ったお皿から湯気が吹き上がる。
「いただきます」
次の日の日曜の朝、家のタバコ屋の店番を任されていた。見たことある顔が見えた。薫がタバコを買いに来た。
「おはよう」
「斎藤。おはよ」
「未成年は買わせない。薫、タバコ吸ってるの?」
「親のタバコ」
「分かった。で、何頼まれたの?」
「あのさ。話あるんだけど」
「何?」
薫は後ろを振り向いて、白い風で覆われた住宅街に指を指した。「出れない?」
「ちょっと待って。高雄」
高雄はゲームを中断して、店の方へ走った。
「何?洋太兄ちゃん」
「店番頼む。ちょっと出なきゃならない」
「店番、ズルい」
「友達来てるんだよ」
「高雄君、お願い」
俺と薫が外に歩いて行く姿を見守る弟は店番になってふてくされた顔をしていた。
「私のママ、PTAの会長でしょ」
「うん」
「たぶんだけど学校、廃校になる」
「は…マジで?」
「聞こえた。家でパパと話してる声」
「何で?」
「知らない。でも決まったって言ってた。生徒が少ないから」
「今の中学生はどうすんの?」
「隣町まで行くと思う。高雄君もそうなるかもね。バスで行けるじゃん」
「そんな簡単に言うけど、薫のママとちゃんと話さないのかよ?俺らの学校だよ?それに高雄だって、隣町まで行くなんて」
「あっ、斎藤のお父さんの車で送ってもらえば?」
「毎日かよ?店があるから」
「だって、店を継ぐんでしょ?店番ここにいるじゃん」
「とにかく親父は店番やるんだよ朝早くから」雪がちらほら舞い降りて、俺と薫の目に当り溶けて水っぽく水滴がつく。俺は、冷たい手でタバコを吸って息を吐いた。気温の温度差で白い雲のような煙が浮かぶ。薫は、俺の吸っているタバコをそっと手で取った。そして口に持っていくと、ふぅーと煙を吐いた。
「廃校の話。薫のママ、PTAの会長なら何とかできないの?」
「…そんな、どーでも良いよ」
「…どーでもって」
薫はスキップして、俺の視界の中で微笑んで雪で濡れた髪の毛を触っていた。帰り道に音楽プレイヤーを耳につけて谷垣の歌を聴いていた。文化祭の盛り上がりの記憶には杉山のダンスの光景が重なる。チラシの広告に目がいく。そこには、全国オーディションと書かれていた。ダンスや歌。教室はザワついている。男子は机の上に座り、俺は谷垣と杉山と雑誌を見ていた。薫から聞いた廃校の事は秘密にしていた。
「杉山、斎藤、卒業旅行なんだけどさ、東京に行きたいと思って」
谷垣の話が頭に入らず、薫と目が合っていた。
「おい。斎藤!聞いてんの?」
「あぁ。何だっけ?」
「卒業旅行!東京行く?」
「あー。東京ね。誰々で?」
「女子は、薫達も誘おうぜ」
「良いんじゃない。行くよ」
「じゃあ。俺も行くよ」
「じゃあって。他でも良いんだぜ?乗り気じゃないとさ」と言ったら担任の先生が入って来た。
「実は、我が校が廃校になる事になりました。今の一年生で最後です。しっかりと残りの高校生活に責任感持って」と言うと生徒が皆驚き「えーっ!」と言った。
「今日の授業は自習!みんなの思い出、書いてくれ」
配られた紙に皆、思いを書いていた。ペンの書く音だけが教室に響きとても静かだった。職員室で担任はみんなの思い出を読んでいた。
学校が終わり皆、帰宅している。俺は階段を足早に下りていた。校庭でオーディションのチラシを手に取ると、ギターやドラムの音が聴こえた。上を見上げると、部室の窓から、谷垣が顔を見せ手を振っていた。
目の前にダンス部の杉山が通りかかった。
俺と杉山と谷垣は廊下で座って話していた。オーディションの事を一通り説明した。
「本当に俺の曲で良いの?」
「うん。ダンスに合う。俺は撮影や手続きする。廃校になる。最後に思い出、残すんだよ」
「ちょっと、誰が出るんだよ女子は?」
「薫にお願いする」
「複数じゃないと」
「とにかく教室に行こう」
教室に入ると薫と理恵と美江が喋っていた。俺は薫達三人にオーディションのチラシを見せた。
「薫達。谷垣の音楽。杉山がダンスを教える」
「アイドル?」
「学校が廃校になるから?」
「三人なら」
「親がな。反対されそう」
「受からないでしょ」
「斎藤。こんなのあるんだ~。出てみよっか」
「杉山、ダンス教えて」
部室を貸し切り谷垣がギターに指をかけると口ずさみ足でリズムを取る。
次の日は外が白い砂のような雪が住宅街に広がって車の煙が雪を黒く染めていた。
俺のブーツには滑り止めが付いているけど背中に弟の高雄が雪玉をぶつけてきたのでびっくりしてズルズルッと滑って地面の氷に手がついて転んだ。
「ふざけるな」
「帰ったら店番?」
「あぁ」
弟は雪玉を俺の背中に何度も飛ばして笑っている。
「おい」弟がだんだん離れていくように俺は歩き続ける。
「学校遅れるぞ!早く来い!」
弟はゆっくりと雪穴を掘り起こして寝そべる。俺は走って弟を掴んだ。
「雪は帰ってからでいい!」
「もう少し…」
「遅刻する。俺まで」と言って俺は弟を置き去りにした。また後ろを振り返った。まだ、雪遊びしていた。色々、考えていた。ゆっくりと弟に歩み寄る。
「高雄、行きたくないのかよ」
「うん」
「どうして?」
「洋太兄ちゃんには言わない」
「誰にも言わない」
弟は黙り込んだ。
「とにかく話してみろ」
「学校に嫌な人」と言ったら、弟は泣き出した。
「そんな…」
弟は頷きながら、号泣している。
「分かった。一緒について行ってやる!任せろ!行くぞ!」と言い一緒に歩いて行った。俺は高雄の中学校に入り、面談室で担任教師と3人で話していた。
「ですから、弟はいじめられて学校に行きたくないと言ってるんです」
「見た限り、斎藤君は元気でした。急に言われてもな」
急に弟はその場を離れて出て行った。
「ちょっと見て来ますんで」と言い俺は弟の後を追った。
弟はトイレにいた。
「胸が痛い」
「胸?どの辺?」
「骨」
「暴力までされてるのか?」
弟は頷いた。
「見せろ。証拠になる」
弟は上半身の胸を見せた。アザが無数にあった。
「何で早く言わなかったんだ。行くぞ」
面談室で俺は弟のアザを担任教師に見せた。
「暴力されてたそうです」
「いやーでも、証拠がね」
「これが証拠でしょう」
「親御さんと上手くいってます?斎藤君」
「何言ってるんですか?親って…本人がいじめにあってると言ってるのに」と言って俺と弟は出て行った。
俺は弟を学校の玄関で待たせ、親に携帯から電話していた。
「お父さん。高雄が…いじめに合ってる。アザまであるんだけど、担任教師は、親のせいみたいに…」
「何だと?待ってろ」
父は車で高雄の中学校に到着して、走って中に入ってきた。そして、急いで職員室に向かった。職員室では、父が弟の担任教師の胸ぐらを掴んでいた。
「いじめを、怪我を親のせいにしたのか。お前。傷害じゃないか」
「すいません」と怯えていた。校長先生もその様子を見て、止めに入った。
「斎藤さん、大変申し訳ございませんでした。ちゃんと話し合いましょう!」
「分かりました」と父親は正気に戻り始めていた。
そして、弟をいじめていた男子数人と親が家に謝りに来てお菓子を持ってきた。何とか親も弟も落ち着いたようで、高雄の学校生活は不安ながらも続けることになった。薫と理恵と美江が音楽に合わせていた。
「最後の~」
「結構、歌い易い」
「後はダンス覚えたい」
「しばらく部室は後輩に使わせる。ダンス部で練習頼むぞ杉山」
体育館の隅で杉山が薫と理恵と美江に軽く説明していた。
「ダンスって言っても、激しいのじゃないから安心して。アイドルっぽい振り付け踊るだけ」と言って、音楽をかけて杉山が口ずさみながら踊っている。何度も繰り返す。
「真似して」
薫達は、立ち上がり、杉山の振り付けを真似していた。
「難しい」
「こう。理恵」と軽快に踊っていた。
「んー。ついて行けない。杉山、もう一回最初からお願い」
「うん」体育はサボる女子三人だがダンスは真面目にこなしていた。しばらくバイトを続けたのでお金が貯まった。市内までビデオカメラを買いに行く事になり谷垣や杉山、薫達と話していた。
「撮影用のビデオカメラ買いに行くから、市内まで行こうと思って」
「一緒に行く?」
「俺も行くよ」
「行こっか皆で」
六人で学校帰りに駅まで歩き切符を購入した。久し振りに見た人の混みあった広場。キャリーバッグを引きずる大人やお土産店には観光客の姿が。ホームから電車に乗って、動き出す。揺れながら市街地に向かっていた。市内に着くと駅で出口に迷ってしまったが、ようやく電器店の眩しい光沢感の中に入れた。商品が置かれている場所で自分達を試し撮りしていた。
「撮る」
「こっちのカメラカッコいい。二十八万とか…」
「この安いやつ。どう」
「ちょっと撮してみる。杉山こっち見て」
「良くわかんないけど」
「斎藤、何かあった?」
「あった」
俺はレジで会計を済ませていた。電器店から出ると雪と風に押し倒されそうになる。ビル街だから外国人も歩いている。
「クレープ美味しいところあるよね」
「思い出した」
「ハンバーガー」
「多数決しよ」
ファーストフード店で、皆メニューを見ていた。
「私はこれ。決まった?」
店員が来て皆、注文するとマフラーを椅子に置いた。雪で髪の毛が白く濁って、顔は赤く冷え込んでいた。
「俺達、卒業旅行に東京に行きたいって思って。薫達はどう?」
「うん」
俺達は食べながら、卒業旅行の話で盛り上がっていた。帰りの電車からは、暗い景色に街の灯りが早送りのように移り変わる。
家に着くと家族が三人で夕食を取っていた。
「ただいま」
父と母がおかえりと言う。
高雄と俺はビデオカメラで父と母を撮影していると照れ臭そうに嫌がっていた。
「ゲームしよ」
「あぁ。するか」
薫は、家でテレビを見ていた。
「薫、今日はどこ行ってたんだ?」
「斎藤達と。私、オーディションに応募する」
「何言ってるの」
「薫、卒業したら就職頼んだんだ。やめなさい」
「受かったら。選択は自由じゃん。私に選ぶ権利ある」
「大体、受かるわけないだろ。それで落ちたら。甘くない」
「必死に頑張って練習してる。ママはPTAの会長なのに、ウチラの学校を廃校から防げなかった」
「生徒が足りないんだから、ママには何も出来ないの。とにかく最初から断れると思ってるの?」
「自分で断る。せっかく今日、応募用のビデオカメラ買った」
「駄目だ薫。就職先が決まってる事に感謝はないのか。練習も許さない。学校が終わったら真っ直ぐ帰ってきなさい。悪い連中といるからこうなる」
家庭内が一瞬、静まり返った。薫は、唇を噛みしめた。
「分かった」
薫は、足早にリビングを出て行き、自分の部屋に閉じこもった。
俺達の町は灯りが消えていき、眠り始めた。イヤホンで音楽を聴く。薫は、携帯を片手に俺と同じ谷垣の曲を聴いていた。薫はメールを打っていた。内容は「ごめん。オーディションの事なんだけど、今まで楽しかった。知り合いに就職先を紹介されたので、オーディションは親に反対された。本当ごめん」宛先は斎藤洋太、と表示されていた。涙が携帯に落ち指が動いたが、削除した。
俺は、目を閉じた。薫も涙を手で拭いていた。次の日、薫達は杉山からダンスの指導を受けて軽快に踊っていた。それを俺は、見守っていた。薫と二人で一緒に家路に帰宅していた。家のタバコ屋の前には薫の両親がいた。
「パパとママだ」
「どうしたの?」
薫は走って親の方へ行った。
「どうして、ここにいるの?」
「待ってたんだ。約束したはずだ。薫の悪い連中に言わないといけない」
「PTAの会長って立場もあるの」
「斎藤は、友達で」
薫のパパが俺に接近した。
「あの。斎藤洋太です」
「君が、オーディションに応募するのか?」
「はい」
「就職が決まってる」
「斎藤君、生徒の進路に悪影響を及ぼすようなリスクは避けたいんです」
すると物音が聞こえて、家から父が姿を現した。吹雪の中、父はパジャマ一枚で、歩いてきた。
「一体、何だ!?」
「あなたが、いや家の子にオーディションだとか困ってるんです」
「こっちも迷惑だ」
すぐに父が玄関に戻って行く光景を呆然と見ていた。
薫のパパとママは黙り込んでいた。
「パパ…」
それから、薫と理恵と美江は、どんどんダンスの振り付けを覚え、歌いながら練習していた。俺と杉山と谷垣も笑顔で見守っていた。
「もう一回、通しでいこう」
「どうよ?谷垣」
「歌もダンスもOK。もう撮影しても良いと思うよ」
「頑張ったからね」
「ほんと。やっと撮影か」
そして、俺はビデオカメラで、薫達を何度か撮影した。
「音も良いね」
「最高な出来。どう?みんな」
「良いと思う」
「よし。じゃあ、応募するぞ」
次の日、俺は映像のデータをオーディションに応募した。
応募してから何日も経っていた。俺は一人で学校から帰ろうと準備してた。教室はざわついてる。すると薫が近寄って来た。
「一緒に帰ろ」
オーディションに応募してから連絡がきていない。
「頑張ったよね」
「頑張った」
「ご褒美あるのかな?」
「分からない」
薫の手を握ったら冷たかった。脈も分からないほど冷え込んでいた。携帯が振動していた。
「あっ」
「斎藤洋太様の御電話で間違いないでしょうか?」
「はい。斎藤です」
「この度は、弊社の全国アイドルオーディションにご応募いただき誠にありがとうございます。審査に通過したご報告で連絡させていただきました。私、人事部担当の与野と申します。二月中旬に最終審査があります。再度ご連絡させていただきます。宜しくお願い致します」
「こちらこそ宜しくお願いします」
電話を切って、薫の顔を見た。
「審査が通過した」
「え…」
「やった…」
「マジで」
「あっ。最終審査に出れる」
「すげーいつ?」
「二月中旬だから、もうすぐだよ」
次の日の朝、学校の教室で薫と理恵と美江、谷垣、杉山と俺がオーディションの事で騒いでいた。
「やった!」
クラスの他の生徒にも伝わり、学校中でオーディション通過の噂が流れて薫達は人気者だった。それからしばらくして、最終審査の休日に俺たちは、東京にいた。六人は記念に人混みで写真を撮って、春の風景が刻まれていた。会場の階段を上る薫達の足はゆっくりだった。観客席の俺達の視線には司会者がいた。会場の裏で薫達は、手で胸を押さえていた。薫達の番号が呼ばれた。薫の足が動いた。
そして、音がスピーカーから溢れるように大音量でメロディーが流れた。自然に薫達は、華麗な躍りと綺麗な声で観客を圧倒した。あっという間に俺達の記憶から薫達は消えていた。まるで、幻のアイドルのようだった。
俺達は、高校を卒業した。雪が溶けかけて学校の玄関が濡れていた。テレビでは、ワイドショーがやっていた。横になりタバコに火を付けた。
教室には、誰かの足がキュッと鳴って机の椅子に腰かけるギギギという音が響く。木製の机に尖った物を押し付けて彫っていく。黒板の卒業という字の下には、斎藤という名前があった。
テレビに司会者、ジャーナリストが映って喋っていた。
「人の国の軍や核武装という自主防衛の権利を侵害する侵略…」
「ありがとうございました。せっかくですから、何か一言。全国アイドルオーディションで、えー。君は?高校の思い出とか」
「私の学校は、自分の思い出や伝統を守りたいって気持ちあります」
机のザラザラしたところを手で擦り、暖房の効いてない教室で冷たい息を吐いた。グラウンドの向こう側に人や車が行き交うのが見えて、その奥には虹のような橋がかかっていた。閉ざされた教室という空間からのその景色が好きで教室に戻っていた。電話が鳴り響く。「あぁ、また、何かやるか。俺ら」
スタートラインは決まっていない。ピリオドがないから。いつもそばに友達がいる。谷垣とギターを抱えて東京に向かっていた。人の密集とビル群が俺たちを小さく呼吸困難にしてしまう。そんな都会に俺と谷垣は圧倒され、東京の街に紛れていた。季節は春から冬へ。あっという間だった。イルミネーションが光る街角で俺たちは白い言葉を吐く。
「ここでやろう」
「思い出したら、良い」
「何を?」
「オーディション」
谷垣は街中の駅前で、座り、ギターに指をかける。前奏を弾き出した。俺も座り、リズムを取る。
「ララ~ピリオドはない~~」
チャリーンと音が聞こえたので、俺の歌声が止まった。視線を落とすと、コインがコロコロと回転していた。
手で押さえようとしたら五百円玉が自分の体に転がってきた。上を見上げると帽子を深く被った女性が立っていた。誰かに似ている。俺は「かおる」と呼んだ。女性は冷たい息を隠した。谷垣はギターを弾き続けている。俺は、戸惑いを隠すように「ララ~」と寒さで震えた声を出したら、女性が笑みをこらえていた。


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