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わたしを描く女 #8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしを描く女

散文

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

 Διόνυσο, Ζαγρεύς

ディオニュソス、ザグレウス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしのおなかの中にイエス・キリストが宿っているの、と、不意に、そんな人類救済の黙示の告白でも告げようとしたかのような、あまりに深刻な静華の眼差しに私は想わず声を立てて笑って仕舞い、光にむせる。私は、救済の、それら容赦もない氾濫に。

ただ、すべてのものを救い、報いることだけを意志した明確な、あるいはむしろ、あざやか過ぎる、輝きの一切ない光の氾濫が、そして、「まじだから。」知らないの?

まだ、知らない?静華の眼差しは私を無慈悲なまでに哀れんでいた。むしろ私を、そこにひとりだけ置き去りにして。「知らないだ。まだ、だれもほんとに好きになったことないんだね?」お前、

「てか、お前さ。いつからお姫様になったの?ただの年増のキャバ嬢だろ?」私は笑い、眼差しに浮んだ嗜虐的な悪意を押しとどめることができない。「ばか。」静華は言って、

「いつでもずっと、わたしはかわいいお姫様だよ。」戸惑いも、迷いもなく笑った。なんか、ね。

「もう、ぜんぶが純粋なの。眼にするものすべて。ふれるものすべて。わたし自身だって。ぜんぶ、せんぶ、ぜーんぶ、純粋すぎて。ね?」なんか、痛い。

「零一、死ぬぜ。」聴いてたろ?

私の声を、光。静華は聴いている。救済の光の只中で。私とともに。静華は聴いていない振りをする。私の「零一か、」声を。「檜山さんか。」耳をしずかに澄まし続けながら。「どっちにしても、だれか死ぬ。」瞬く。

静華のまぶたが。

「お前が殺したのと一緒じゃない?」

知ってる。と、私の言葉が終る前に静華が言った。「それでもいいの?お前が自分勝手に純粋になった気になる代償で、頭吹っ飛ばされた銃殺死体がひとつかふたつか、いくつかたくさんか。どっちにしてもだれか死ぬ。そうじゃなきゃ駄目なの?お前が単に感じちゃっただけのわけのわからない自己満足の純粋さってのは、そこまで価値があるものなの?頭おかしいんじゃないのお前?」

ねぇ。

静華の唇が言葉を吐きそうになるのを私は許さない。光。

あふれかえる。至純の光。

「ただの年増の妄想でしょ?だいたいいままで何人のおっさんのその純粋さを踏みにじって金捲き上げてきたんだよ。何人といちゃついて、何人と適当にやってきたんだよ。前から後ろからケツの穴から口の中までさ。むしろ馬鹿?お前なんかクズだろ?クズがいきなり純粋になりましたって、自分だけ適当に救われたつもり?檜山はどうなるの?単に遣い棄てただけじゃん?零一だってどうなの?お前の純粋さに遣い棄てられるだけなんじゃないの?ほんと、まじ馬鹿なの?むしろ、」静華は「お前が死んだら?」静華は涙さえ流さない。ただ私を見つめて、表情さえなく、その眼差しは生き物の息吹きさえなく冴えるしかなくて光。

どうして、と、その疑問符を想いつく余地さえもなく救済の光がすべてのその内部に巣食い、救い去って仕舞う。

すべてを、なんら浄化しないままに、そのままに無残に放置し果てて、惨状は飽きもせずに曝されつづけたままに、すでに、満たされきっていた光。

あざやかな救済。絶望的なまでに容赦もない、神々の救済。「知ってる。」

静華は言った。「ぜんぶ、種撒いちゃったのはわたし。レイレイ誘惑したのもわたし。知ってたから。零くんがわたしのこと、もう、好きになっちゃってること。分かってたから、だから、わたし、受け入れるしかなかったの。」

「勘違いだよ。馬鹿じゃね?お前が錯覚してるだけじゃん?俺とのことだって知ってるんじゃない?あいつの女はお前じゃないよ。あいつの男は結局は俺なんだよ。いまだにあいつ、お前の事なんか好きじゃないよ。聴いたろ?愉しんでるんだよ。あいつの遣り方と流儀と必然で。あいつも頭おかしいけど。けど、言獲るのは確実にあいつはお前なんか好きじゃない。だいたい口説いたの一方的にお前のほうだろ?零にもともとその気なんかなかったよ。気付かなかった?うざがってたんだから。頭の中腐ってるって。年増のくそばばぁって。お前、自分がどれだけの糞だと想ってんの?違う?」

ね?」知ってる?

瞬いた一瞬の闇すらもが、光。あまねく空間のすべてを満たした光を、そして氾濫する。防ぐことなど出来はしなかった。光。

「こころとこころが素手でじかにふれちゃうときって、なんていうの?魂と魂がもう、ほんとうにじかにふれあっちゃったときって、純粋に、ぜんぶ真っ白になっちゃうの。なんか、ぜんぶ破壊されちゃうの。抗うことなんてできないの。償うこともできないの。ただ、ぜんぶ、なにもかもが純粋なの。疑問符もなにもないのただ、Yesしかないの。みじかい、Yesよりみじかい肯定しかないの。」

「お前のレイレイはべつにお前にふれあってないよ。お前のこと好きでもないよ。くっさいおばさんの餓鬼くさい妄想だよ。」

知ってる。でも、零くんと愛し合ってる。」

「言ってることがめちゃくちゃだよ。」

「知らないんだよ。あんた。」静華の眼差しは、ただ、「まだ、人を好きになるって事。ハナちゃんは、」私への「なんにも。」深く容赦ない憂いに翳った。

どうするの?

ややあって、私は言った。

静華に言ったのではなかった気がした。あるいは自分に。あるいはそこにいない慶輔に。檜山に。零一はもうどうするか、決めて仕舞っていた。

不意に振り向いて、静華は微笑んで、「檜山さんが死んだら、わたしのせい。」ささやく。「レイレイが死んだらわたしのせい。ふたりが死んでも、わたしのせい。どっちにしても、わたしのせい。わたしがそんなこと望んでたと想う?そんなこと。なんにも、そんなの、なにひとつ望んでなかったのに。嫌でしょうがないけど、けど、どうすればいい?悲しい。そうなるしかないことが。なんで?悲しい。」悲しいの。

「死ねよ。」私は言った。光が散乱する。

氾濫していた。

みずからを、あるいはふれるものすべてを濫費し、あるいは、それらは濫費されていた。もはや無際限に。たぶん、生命体の小片のがひとつでも生れ堕ちる前の、たんぱく質さえ目醒めない冥王期に降りしきった灼熱の雨の中でさえも。それがふれたものすべてに。

見えた?

葉は言った。ささやくような、その声。その響き。かすかな、空気が触れただけの音響。光。

温度などない。

光。

「想像した?わたしとのキス」どう?

素敵?

もえちゃう?笑う。鼻でだけその笑い声を立てて、ちいさく、まばたき、「なんで?すうっごい、好きなの。あと一千億回、自分に向ってつぶやきつづけてもたりないくらい、」だれにも、「好き。」容赦もない神々の光の冷酷な氾濫を、防ぎとめるすべなどなどなかった。

すでに、私それ自体がその光そのもでさえあったから。

「想像した?どうだった?言って。」

「抱きしめた。いきなり。」

いきなり?」

「ぎゅっって。」

まじだ。」

「むしゃぶりついちゃった。我慢できないから。」

「わたしは?」

あらゆるものが、

「抵抗した。むちゃくちゃ。」

光の中に

「なんで?」

停滞して、

知らない。女心、的な?」私は声を立てて笑い、「でも、」

光。

「でも?」

神々の、

「でも、俺を見つめてる目つき、俺を欲しがってるから。」

光。

やだ。」

救済の。

「飢えてるから。」

まじ?それ、」

「むしろ濡れちゃってるからね。でろでろに。もう、女に、」

「やーんって感じ。」

なっちゃってるから。だから、」

「押し倒したの?無理やり。」

「立ったままながーいキスした。」

「やばいね。」

「もう、なすがままだよ、お前。」

「ぐだぁって?」

「最初に唇がかさなった瞬間にもはや。いっちゃったんじゃん?」

眼差しの内部にさえ

「それやばい。」

あふれ返ったその、

「舌、差し込んだら、」

光。

「抵抗した?」

光りさえしない、それら

「てか、むしろお前のほうが差し込んできたんだよ。」

無際限な、

「やだ。えっち。」

おそらくは無限にふれざるを獲ない、

「ぐっちゃぐっちゃにべたべたさせるの。」

光。

「えろいね。」

救済する

「べちゃべちゃ。」

神々の

まじか。」

光。

「お前、なかなかキスやめないから。」

「わたし?」

「俺もやめたくなかったしね。ずうっと。」

「やーん。」

「失心しそうなくらい感じちゃって。俺。」

「あんた馬鹿?」

目醒め続ける光が

「くらっとして。倒れそうになって。」

停滞し続けた。

やば。」

あらゆるものをもはや殲滅して仕舞った

「ちらって時計見たら、十七分二十六秒たってた。」

救済の光が。

「なんで十七分二十六秒なの?」葉が声を立てて笑って、「それ、俺たちの最初のキス。」私は言う。「知ってた?」

「知ってた。」笑い、葉は髪を掻き揚げるが、光。私は光にむせかえるしかなかった。

いつする?と、言った私に、葉は表情のない眼差しのままに、しずかな微笑をくれて、「いつがいい?」私の声を聴く。

「いつ、する?」

「明日?あした。」

「いつ。」ね。葉の吐かれた声にだけ、戯れた意図的ななまめかしさがあった。「やっぱ、朝?」

「なんで?」

「最初のあつーいキスは、やっぱ、朝なんじゃん?」

いいね、と、私はつぶやく。微笑むしかない口元が、私が言葉を吐くたびにかすかな筋肉のこまかい緊張と発熱をおびる。

いつものように。

こわい。」

と、言った、

おぁいん

その口のなかに独り語散ただけの発音を、無様に乱した静華の音声は私には聴き取れなかった。なに?と、私につぶやかれるまでもなく不意に静華が私を直視して、

いま、すべが

「怖い」

美しいの

そう言いなおせば、私は静華のあまりにも深刻すぎる眼差しに眼をそらす。なにが?

「なにが?」

音響が連鎖する。私の頭の中に想起されたその短いみっつの音と、口に吐かれたみっつの音とがすれ違いながら連鎖して、さらに反芻されたその音はみずからにみずからをかさねた。

私は光にむせ返る。

為すすべもなく。ね、

純粋すぎて怖い。」

むしろ、私は静華に微笑んだ。ただ、いつくしむようにやさしく。ね。

静華が言う。

「なんか、痛い。自分が、完璧に純粋すぎて耐えられない。つらいの。壊れそう。」

「壊れれば?」

「もう壊れてる。耐えられない。私、純粋すぎる。」

静華が、意図したわけでもなくこれ見よがしに、押し付けがましくその表情いっぱいに曝させた留保もない絶望に、私は心にあざやかな哄笑をだけひびかせながら、ただ眼差しは彼女をいつくしんで見つめる。

微笑まれた私の眼差しをさえもはや、私を直視しながらも、静華がなにも見ていないことなどすでに気付いていた。

ね。」

その短いひとことを言い終わらないうちに私に抱きついて、縋りつき、私の皮膚に静華と、その着衣の触感がじかにふれた。

「やばい死んじゃう。」

静華は言い、私は彼女が望むように、彼女を抱きかかえたまま床に身を横たえるが、静華の吐く息、そのうすく体中にかかれた汗と、にじみだすように放たれた体臭のすべてが大量の酒気を放って、私は見つめるしかない。光の散乱の中に。

無雑作な。

無残な。

ただただ光は惨状だけを曝した。

救済のその光の只中に、あふれかえってあることの惨状を。「むしろ、ね。姦して。」仰向けになった私に覆い被さって、静華は「お願い。いますぐ、」ささやいた。「めっちゃくちゃにして。」なんの煽情をさえ曝さずに、声をただおびえにふるえさせて仕舞いながら、「穢して。」まともに服さえ脱ぎ捨てようとはしないままに、「穢ったなくしちゃって。」私の体にむしゃぶりつく静華の「ぼろぼろに穢し果てて。」乱れた髪の毛を私はやさしく「たぶん、それでも耐えられない。私、」なぜてやる。「純粋すぎる。」

 

生まれて初めて見た、と、私は想うのだった。その時、最期のときに。

海の上に振り続ける大粒の雪を、あるいはそれは、美しいというべきだったのだろうか?そう言って仕舞えば、私はその瞬間にその失言を後悔して仕舞うに違いない。

美しいとはとても無雑作に言い切れはしないながらに、それはただ、美しいとでも言い切ってやるしかなかった。

相変わらずのおびただしい救済の光は散乱し、密集し、為すすべさえない。死の時刻には、終にはふれない。

なんど死んで、生まれ、その中に死を迎えようとも、私は終に死にふれたことなどなかった。

意識がその眠りを意識し獲ないのと等しく。

死にさえふれられないままに、私は私の、私だけの死を迎える。

海に雪が降っていた。雪は海にふれ獲はしない。ふれようとしたしたその刹那の一瞬の手前には、結晶を破壊された雪はすでに海水に溶け込んで仕舞っているに違いないから。光が。

光がふれ続ける。

永遠に。

いつものように。

素手で。

私に。笑う。

私は声を立てて笑った。最期のときの、出来すぎの、あるいはあまりにも不出来な雪の曝したみもふたもない暗喩に、私が立てるしかなかったその笑い声は、もはや人体にありふれた、高度すぎる機能を失った唇を、肺を、腹部と喉の筋肉と神経の組織を、ふるわせることもなくいつか、意識のどこかにちいさく意識だけされていた不在の音響にすぎない。早く。

と、むしろその、四十九歳の私はそう想った、痙攣する四肢の苦痛などすでに意識することさえ出来ずに、ただただ遅滞している気がする死へ没落に、もっとはやく。すぐに。どうせ死んで仕舞うのなら。

あるいはもう死んでいたに違いない。

時間の隙間に残存した記憶がどこかで、消え残った最期の時間を、無際限に反覆して仕舞ったのかもしれない。

瞬きさえしない。

静華は。

床の上にあお向けて横たわり、乱れた着衣に、大股を広げた無様すぎて色気さえ感じられない下半身だけを曝した。夕方の日差しが静華と私に斜めに当った。赤らんだ暖色の光には光がある。肌に触れる。

光に瞬く。

私は。そして、私はその静華の傍らに立って見下ろしながら、静華はもはや壊れものにしか見えない。眼を見開いて、ただ茫然とした静華の単なる年増の痴態は。下から私にしがみついて、好き放題に私の体をもてあそんだ静華が、これみよがしにじかに穢した私の肌は、こびりついた彼女の汗を、彼女が終ったと同時にすぐさま洗い流し、私は、シャワー・ルームから出てきてもなおも、あれから時間など一切流れてはいなかったとでも言いたげな静華を見つけた。

静華の周囲にだけ、穢らしいほどに明らかに、時間は停滞していた。逆行さえしないままに。腐り堕ちさえしないままに。ただよった。匂った。澱んで。「帰れよ。」私は言った。

静華は無視した。日差しが、曝された薄い陰毛を光らせた。悲しいほどに、ただ、穢らしかった。不意に、むしろ、私は私がなにも口に出しはしなかった錯覚にさえ捉われ、息を吐く。ながく。私は。ため息?吸う。私の鼻は。呼吸。たしかに私は生きていた。

夕暮れる空が窓越しにその色彩の残骸に過ぎないあざやかな破滅を曝す。暖かい。

その光は。

最後まで辿り着くこともなく、その体内でもすぐにもとのかたちに戻って仕舞ったそれが、私のそこに頭をたれてぶら下がっていた。夕焼けた日差しのあたたかさがただ、まだかすかにシャワーに濡れた湿り気を感じ続けるそれと下半身に、素手でふれていた。眼差しの下で、静華は完全に、表情を失っていた。

なにもしなかったような気さえした。私の全身は、彼女の肌にふれた事実などもはや指一本にさえ、記憶などしてはいなかった。静華はただ、無防備な眼差しを壁の方に投げ棄てて、あるいはまどろもうとしているのかも知れなかった。静華だって、まともに寝てはいないはずだった。彼女に襲いかかっているかも知れない安らかなまどろみの、そのどうしようもない心地よさが、私に鮮明に感じられた。

ね。」

静華は不意に声を弾ませた。

「零一、待ってるかな。」

むしろ意図的に少女じみた気配を含まされたそれが、私には痛々しいだけだった。目に映るのは

私のこと。」

明らかにいかにも女じみた肉体を半分曝した、大股を広げた三十過ぎの女にすぎない。

「どこにいるの?あいつ。」

「私の部屋。神泉の。」

「檜山さんは?」ん?

そして、静華は声を立てて笑い、ちいさく、「来るよ。」口元にだけその笑い声をこぼす。「もちろん。男じゃん。わたしの。」

「かちあうじゃん。」

「かちあった。何回も。」

「殴りあった?」まさか。静華は上半身を起こして、首を突き出して私に媚びた眼差しをくれたが、「ぜんぜん。わたし、言うもん。」私は眼をそらす。

「私の弟的存在なのぉって。」ね?

明らかに成熟した、豊満で美しく、色づいて、そして男たちの羨望を集めてやまない、いわば女として選ばれた存在であることを誇示しようとする意志と、いたずらに少女じみたなにも知らない危うさをあえてひけらかせようとする意志の、いかなる葛藤も孕まないでたらめで、ふしだらな共存が、いつか私に留保ない軽蔑だけを与える。あいつら、

「仲いいよ。本当は悪いんだろうけど。けど、なんか、仲いい。一緒にサシで飲んだこともあるんじゃん?」

「見られないの?」

「なにを?」

「やってるとこ。いきなり、檜山さん、帰ってきたときとか。」ややあって、邪気もなく声を立てて笑った静華は身を起こし、胡坐をかいて、ね。

ささやく。きいてきいて。

「聴いて聴いて。」笑っちゃうの。ね?「きいてきいてきいて」まじ、「笑うんだけどさ。」

はしゃぐ静華にも夕焼けの日差しは容赦なく、その肩にだけふれ、「あわてた。昨日。昼間。帰ってきたの。檜山。一回出て行ったあと。ちょっとして。いきなり。あいつ。あわてるじゃん。うちら。一緒にベッドの中、いたからさ。で、どうしようもないじゃん。」

「どうしたの。」

「寝たふりした。零くんは寝てたから。本当に。だから、知らないと想うけど。」そう。と、私が相槌を打ちかけたことにさえ気付かずに、「騙されてると想ってるでしょ?」

不意に、静華は言った。声をひそめて。

「だれ?お前?檜山?」

「お母さん。」ふたたび見あげられた眼差しが私を見つめ、そして、意味もなくその眼の前に曝された私の体を見下ろして行った。ゆっくりと、舐めるように、とりたてて色づいた眼差しを曝すわけでもなく。

「勘違いしてない?たぶん。みんなあのふたり、さ。実は、中国人のほうが本気なのね。

ハオ?」

「知ってた?あいつ、ほとんど中国なんか行ったことないらしいよ。あいつ、日本人だから。」

「そうなの?」

そ。日本生まれ。戦争のときに捕虜だか何かで連れてこられて、そのまま日本にいついちゃった、残留、なんて言うの?そういう人の子供。の、子供、か。」嘘だろ。

言った私に静華は戯れる眼差しをくれて、声にかすかな歓喜の色彩さえ添わせる。それ、ね?「あの片言の日本語でしょ?ハオが嘘ついてんだよ。あいつ。お母さんとだけ話してるとき、ぺらぺらだもん。」

「なんで?」

「中国人になりたいんじゃない?」

「中国人なんだろ?」

「だから中国人になりたいんじゃん?」馬鹿みたい。私はソファにもたれかかって、慶輔はまだ寝ているに違いない。

騙されてんの。あいつ。」

まだ、彼が起き出す時間ではなかった。なに?

なにに?

「自分のアイデンティティ的なものに?国籍、とか。出自とかに?

「なにそれ?」不意に、静華が問いただす。「しゅっ、しゅつ日本語だよ。ただの。と、そう言った私を、静華は無視した。「まだ、あんだね。」ひとりだけ笑う。「わたしの知らない日本語って。」自分勝手に。お母さんに。

静華は言った。

「騙してるのは、お母さん。騙してるわけじゃないけど。みんなおばさんの金目当てみたいに想ってるじゃん。違うからね。あれ。ハオのほうが惚れちゃってんの。マザコンなん?違うか?とにかく、ね。いい?まじ惚れ。頭痛くなるよ。脇から見てて。あいつ、なんて呼んでると想う?ママのこと。」

「なんて?」

「くひめ」

「なに?」

「くー姫。」静かな立てた派手な笑い声が、空間の下部だけをふるわせる。「久美子ちゃんだから。ママ。それで、くー姫。とか、く姫、とか、くーちゃんとか。あとね、くーとか。」

「馬鹿?」

「馬鹿。」ママなんてお金ないからね。静華はつぶやく。独り語散るように。「だから、養ってるの、あくまでハオくんのほうだからね。」あ。

静華の唇は、唐突にその一音を吐いたあとに、そのまま形態をかたまらせた。なに?

私はなにも言わなかった。心の中にだけ、その疑問符が一瞬だけ連鎖して、「出した?」静華は言った。

「なに?」

「中に。」まさか。言った私に静華は崩れた笑みをくれ、出されたと想ってた。そう言った。

「そんな気、した。べたって。」

「無理だよ。」

「なんで。」

「萎えた。すぐ。単純に。」声を立てて笑った私たちは、「気付いてたろ?」為すすべもなく「お前も。」声が空間をふるわせる。ねぇ。

「知ってた?」ややあって静華が言ったとき、私はもはや疲れ果てていた。静華が目の前に存在していることそれ自体に。「なにを?」

「女になったの。わたし。」

静華が軽い、不用意な軽蔑を含んだ笑い声を、鼻にだけ立てた。その気配に、違和感を感じた私が静華を振り返った瞬間に、静華は噴き出して笑っていた。「いまさっき、失った。」

「なにを?」

「ヴァージン。」

「まさか。」

「ほんとだよ。」媚を含んで企まれた静華の笑顔に、私が感じ取るのは生理的な穢らしさにすぎない。「まじだから。」

「零一は?」できないもん。静華の、独り語散たつぶやきがじかに耳にふれる。「あいつ、知ってた?あんたのせい?できないよ。こんなに、ね?「セクシーで、色っぽくて、いい女で、」むしろ、町のセックスシンボル的な?「むしゃぶりつきたい女ナンバー・ワンというか、さ。」じゃない?「愛人にしたい女もといお嫁さんにしたい女てか、恋人にしたい憧れのお姉さんナンバー・ワン的わたしにさ知ってるでしょ?「勃たないもん。」

さまざまなかたちの笑みに戯れる静華が、その表情の下の、かすかで執拗な葛藤を容赦なく曝した。隠されたわけでもなく、単に秘められた感情。「だれだって、」さ。「怖いからさ。自分が傷付くのが。だから客なんかだれも、直接やらせろなんて言わないけどさ。」時々言ってくる馬鹿いるけどね、「野朗なんか馬鹿みたいにみんな、わたしが欲しくってしかたなくて、で」ひっぱたくけど。「群がってくるのに。あいつ、だめ。」

「お水やる前の男だっていたろ?」

「いないよ。」馬鹿にしてる?ひょっとして。「私のこと。」お堅いんだよ。「わたし、だれにもさわれない宝石みたいな女なの。」言って、「男なんて、」しばらくの沈黙の後、「みんな、指咥えてるしかないんだよ。」ただ装われない誘惑の鮮明な眼差しを送り、その色づきに自分勝手に倦んだ瞬間、不意に、静華はふたたび声を立てて笑った。

「お前、馬鹿?」私は言った。私は笑っていた。帰る。静華は言った。

「今日、忙しいんだよね。わりと。」

いきなりつぶやくと、服を着なおしてわたしに手を振り、剥げた化粧さえ直さずに出て行った。

 

「わたしたち、いつえっちしたの?」葉が振り向いて言い、私は微笑む。

「直後。」

「キスの?」

「終りかけのころ」

「まじ?」

「押し倒した。我慢できなかったから。」やばぁあー、と、葉の伸ばされたふしだらな語尾が耳にふれる。「でも一回目未遂。」

「なんでよ?」

「見つめただけで出しちゃったもん。俺。」馬鹿?葉は声を立てて笑って、私はその笑う葉を見つめながら、足元に猫は、空間の暗さの中にさえ自分の体毛の白さをほのかに、あきらかに明示して斜めに音もなく歩いて行った。絨毯の白と同じ色彩の、まったく異なった色彩の差異に、私は想わず笑って仕舞いそうになる。覚えてる。

葉は言った。

雨が降ってるの。」

「いつ?」

「むかし」と、もはやなんども繰り返して話しすぎて、それで話すこと自体に飽き果てたような、そんな倦怠感を眼差しに露骨に浮べ、葉は言った。「十歳くらい?十一?そんな、」蓮向かいのソファに座り込みながら。「庭先で。昔住んでた、新宿区のはずれの田舎っぽいところ。雨が降ってるの。ずっと。」ね?「で、見てるの。ね?」雨って、匂うよね。「わたし、」雨の匂い「ひとりで。てか、」知ってた?「ひとりじゃないかも。」笑う。なんか、「だれか、お姉ちゃんとか。それか、」くっさくない?雨って。「パパとか?いたのかもしれないけどなんか、ひとりなの。わたし的にはね。紫陽花咲いてるんだよ。あじさい。庭先に。月並みなんだけど。違うか。違う花なん?なんか紫色っぽい、青の」ね?紫陽花って、「とにかく、濡れてるの。雨。」なんか、いっぱい、「雨、ずっと」ね、「降ってる、その、」種類あったりする?「なんか生暖かいの。そういう雨。音、するじゃん。雨って。雨、降る音。」

なに、話してんの。」

「わたしが言葉話さなくなった理由。その雨見てた次の日の朝、起きたら言葉話さなくなっていた。いきなり。」

「なんで?」

問いかけた私を見つめ返し、ややあって葉は理由も告げずに失笑して仕舞うのだが、だから、と、つぶやく声にかすかな哄笑が、隠しようもなく寄り添う。「雨が降って、紫陽花かなんかの花が濡れてた、その次の朝の晴れた光があざやかだったんだよ。」なんとなく。ね?「なんとなく、ぼわってそういうけど、あざやかなんだよ。なんか」儚いよね?朝の光って。「わかるでしょ?わかんなくても。」なんで?「言葉なんかもう話さない。そう想ったら、話せなくなった。話さなかったから。言葉なんか。」

「なにそれ。」

葉が、声を立てて笑った。

「すっごい、切実な話なんだけど。」わたし的には、ね?「切実過ぎて、痛い。」どうしようもないくらい、「痛いの。痛い。」

握った拳が燃え上がってるのは知っている。

知ってる?」

私はその力まれきった拳を痙攣させるばかりで、

「花ってさ、ほら」

もはや容赦なく燃え上がった自分の身体に、

「雨に濡れた青系の紫系の?」

抗うことさえできなかった。なぜ?と

「花って見ると、なんか、」

生まれてきたことそれ自体を鮮明に

ね?」

後悔さえした気がしたがすでに、

「痛いんだよ。なんか、」

その想いは記憶に一瞬すら残らずに、確かに

「頭の中が。心って言うか、」

感じられているはずの炎の

「単に、」

灼熱の、筋肉さえ燃えあがって

「頭の中。そこだけ」

崩壊していくしかない容赦もない

「むしろリアルに痛い。」

苦痛はもはや意識されてなどいない。もう、

「だからさ。」

わたしのすべては

「救いたいじゃん。なんか。」

崩壊しているにもかかわらず、なぜ

「人間だから。わたし。」

私がいまだにたかが数十秒ではあったにしても

「人間的にやさしくってさ、で」

生き残っていられるのかそのでたらめな

も。でもさ」

現実に戸惑うべきだったのだろうか?倦む。

「わかんないじゃん?」

もはや感じられはしなかった

ね?」

燃え上がる、ざわめき立っているはずの全身の

「雨に、

苦痛に、

「濡れてる花の」

そして

「救い方。」

見上げらた空はただ青く、それは

笑う。」

私に対する絶対的な裏切りでさえあった。それだけは

「なんか、全部無理。」

違うと。かろうじて滅びかけの

「なんにもできないの。」

眼球組織が捉えたその色彩に私は

「救いようさえない」

非議を叫ぶ。

「すげーつらいの。」

叫び声さえもはや

想うでしょ?」

一言もあげられ獲はしないのだった。私は

「言葉話さなくなったら、ね?」

ベッドの上に身を横たえて。その

「楽ないなった、みたいな」

いつかの死にかけた

逆。すっごいつらい。笑う」

最期の時間には。むしろ

「見えるものすべて、」

頭の中に無際限な

「辛かった」

苦痛がこまかく目醒めたまま

悲しいんじゃないよ。」

にもかかわらず

「つらいだけ。無理

その苦痛の束なりさえいつか、遠く

「とか。そう想いながら」

薄い膜の張られた向こうに

「なにも話さなかった。」

垣間見られた風景の一つにすぎなく感じられ

「行ったけどね。連れられて。病院とか」

疑う。私は、

「精神科とか。」

私がまだ生きていること、

「カウンセラーとか。」

それ自体を。いくつかの

「脳外科?その他。でも、」

湾曲するチューブの群れが

わかりません。知りません。って。」

差し込まれた身体はもはや

え?なに?って」

身動きされはしない。目に映る覗き込んだ若い医師の眼差しに、

すみませんが、日本語話していただけませんか?って。」

戸惑った。あきらかに

「笑っちゃうよ。わたし、ずっと、そういう」

曝された彼の疑いの表情に。

「顔して、偉そうな先生見てるの」

まだ、生きていますか?あなたは、

「だんだん先生の自信みたいなの」

まだ、いまも?

「へし折れてくるのね」

疑われた私のチューブだらけの弛緩した喉に声を上げるすべはなく、

最初は、まだしも」

生きていますよ。

「それなりに普通の眼つきなんだけど」

届かない声が、

「だんだん疑いの眼に変わる」

無際限に反芻された。

「わたしの仮病疑ってんじゃないよ」

私の声の群れの

「うそはついてない。実際、」

内側にだけ。

「話せないし、聴こえないんだから。」

瞬きもしない眼差しは、

わたしがもうそう決めちゃったからね。」

それは私の眼差しに他ならない。それは

「わたしのなに?」

見つめる。もはや

「むしろ」

何を見ているのかすら

「存在自体が疑われちゃってます的な。」

はっきりとは認識できなくなる意識の

「むしろ笑うよ。で、」

失堕の閾に

「それ、超えるとね。」

ふらつきながら。

「露骨に、もう

まばたく。

「ぼくちん困っちゃったなぁ的困惑。」

日差しがじかに

「自信喪失権威失墜未来絶望人類殲滅的なね?」

眼に触れる。南国の

「だれもわかんなにから。」

光。燃え上がるような、

「治療法も。」

熱気が大気に、執拗に

「病名も。なにも。」

ある。顔の半分を吹っ飛ばした

「本当はね。だから。もう」

銃弾の

「このまま、」

与えた痛みはもはや

「殺されてくのかなって想った。」

感じられはしなかった。血に、そして

「薬と点滴と注射塗れにされて。」

あふれ出した自分の体液に

「なんでか、頭のレントゲンとか、」

塗れている泥のさえ穢された

「CTスキャンっての?」

死にかけの身体は、その

「耳の裏切開されたことあるよ。」

姿をもはや

笑う。」

捉えはしない。私の

「そのうち頭の中もぐちゃぐちゃに」

眼差しは。死。ミンダナオ島の

「切開されるのかなって」

光。飛び散ってはいない。

「アスピリンみたいな薬飲んで、」

脳漿は。知っている。

「病院で朝、」

たぶん。まだ

「窓の外見ながらそう想った。」

意識があるから。葉。

「不意に。笑うよね。」

ざわめく。野生の

さようなら。」

樹木の茂った、おびただしい

「世界さん。さようならって。」

葉の群れ。

 

「笑うでしょ?」と、葉は言った。微笑み、不意に笑い声を漏らして。ちいさく。

 

 

 

 

 


わたしを描く女 #9

 

 

 

 

 

私はまばたく。眩しくもなかったのに。まだ夜は明けはしなかった。葉はもはや、あきらかに疲れていた。疲労が鮮明にその眼差しに浮び、同時に、彼女の冴えた意識の押し付けがましい鮮度が、うざったいほどに私の眼の前に曝されていた。静華が去って行って、私は何かしようとして、結局は、なされるべきなにものをも取り立てて想いつけないままに、やがては慶輔の傍らに身を滑り込ませて、その静かな寝息を聞きながら眼を閉じて、寝た振りをして時間をやり過ごす。私に出来る事はそれくらいしかなかった。

その日の夜、早めに目醒めた私たちはいつもの喫茶店で時間を潰した。風鈴会館の一階のそこには、日本のやくざと、水商売の人間たちが自分勝手に自分たちの縄張りを張って、要するに自分たちのお決まりのテーブルを疎らに占めていた。夜に空を暗めた空間の、電飾に染まった浮かび上がるような明るさが、窓越しに、ガラスに映った反射のかすかな色つきの白濁に邪魔されながら、それでもかすかに歌舞伎町が、自分の時間を迎えたことの矜持を無意味に曝し始めたのを、私の眼差しに伝えた。慶輔が先に、ひとりで立って出て行った。客の、美容形成外科か何かのオーナー女医を待たせていたからだった。すでに45分近く遅刻してた。「もっと。」慶輔は言った。「もっと待たせて遣ったほうがいいけど。」つぶやく。「好きなんだよ。実は。あの人。放置されるのが。」

「もんもんとするのが?」

そ。もう、たまんないよ。90分くらい待たされるとね。」何回も鳴った着信を、その女医のぶんだけ慶輔は律儀に無視し続けていた。「今日は、ちょっと、かなり早過ぎるけどな。」

慶輔の後姿が、《パリジェンヌ》の、出ることしか出来ない区役所通り側の自動ドアに消えて行った。私が、その姿を見送りきらないうちに、だれかが背後に私の肩をたたいた。ハオだった。振り向いたそこに、長身のハオは照明の逆光の中に立って、翳りながらも彼があきらかにやさしく、ただやすらかに媚びるわけでもなく微笑んでいるのが、私の眼差しには確認された。

「元気ですか?」

ハオは言った。私の眼差しは、どこか呆然として彼を見つめていた。「どうしたの?」一瞬で、「元気ない?」曇る。ハオの私を見つめる眼差しが。

不意に。

私は気付いた。ハオが、そもそも慶輔と同じ種類の男たちである事実に。慶輔がホストなどして、ときにその性欲の対象でさえない性別の人体を抱いてやっているのと同じ、滑稽さをハオも曝していた。本当に、静華の母親の男であるというのなら。

ハオの眼差しは耐えられないようにひたすらに、むしろ純粋に私へのいたわりだけを曝し、そのやさしい心情にただ困惑の色彩をだけ曝していたのだが、

「大丈夫なの?」

ハオは言う。私の前の椅子を引いて、勝手に座り込みながら。目の前の、慶輔の飲みさしのアイスコーヒーの、店の悪趣味なステンレスの太ったフルートグラスをどかしさえしない。でたらめなギリシャ風装飾が施されたフルートグラスは、汗を大量にかいて、みじめに自分とテーブルを濡らしてした。

「気をつけて。からだ、大事ね?疲れるね、休む。それ、一番だからね。」だれの?

ハオの、不意に下降線を描いて空中に停滞した指先の下に、フルート・グラスがあった。「これ、

「慶輔。」そう。言って、一気に飲み干すハオを見る。喉仏が二、三度なまめいて動くと、ハオはすでに飲み干していた。息を大袈裟に吐いて見せたとき、意図的にハオは笑って、「ね。」

ようく、冷えてる。ね。

おいしい。」言った。「日本人なの?」

不意に問いかけた私に、ハオが動じる事はなかった。

「私?」そう、と、唇だけが動いた私の無音を、ハオは見つめる。「でも、それは

ん?

っと。

んー。

ね、

いやぁ

ん。

ん?

んー

ややあって、

難しいね。」

ようやく言ったハオは、ようやく声を立てて笑った。何かにひとりで納得して、邪気もなく。「何が?」素直に。「なにが難しいんだよ。」

「難しいよ、」

「なにが?」

「僕は日本国籍。ふつうに。けど、僕が日本人ですっていうのを、一番認めないのは日本人自身でしょ?」ね?

とりたてて、ハオは興奮も何も曝さない。女の足首の太さの好みを聴かれただけであるかのように、そしてハオの指先はグラスの濡れた肌の装飾彫りにざらついた表面をなぜてみせながら、「ただ、別に、それを悪いなんて言ってない」

うそ。」

「東アジアの人間って、みんなそうだよ。中国人もね。」同んなじ。「てか、同じ猿を馬鹿みたいにのんきにしたら中国人だよ。ちょっと被害者妄想与えたら韓国人だよ。思いっきり短気にした日本人だよ。」

「短気?」

「そう。すぐ怒るでしょ。日本人。瞬間沸騰器の集団だから、みんなあんなに優しくないと生きて行けないの。礼儀正しく品行方正で過剰にサービスされないとご飯さえ食べられないの。」違う?

「差別とかされたの?」

「いじめとか?」

「人種問題で。」私を見つめ、沈黙し、そして、ハオがやがて声を立てて笑ったその笑い声に、屈託もなければ私への侮蔑もなにも存在しない。ハオは、ただ、笑っていた。「ないよ。」

「うそ。」

「差別ってなに?」

私は微笑む。

「いじめって?」

私は見つめる。

「負ける奴が喰らうのが差別とか、いじめだよ。」

快活なハオを。

違う?僕、殴ったからね。すぐ、やっちゃったから。なにかされたら。それって、僕がそいつに制裁喰らわせて、そいつをぼこぼこにした加害者だって事実が残るだけで、どこにも差別問題なんて存在しないよ。だいいち、好きじゃない。」

「差別主義者が?」

「その犠牲者が。家畜みたい。やられたらやりかえせばいいんだよ。違う?」声を立てて笑った私の声に、明らかに浮んでいたはずの、ハオへのある種の軽蔑の鮮明さに、ハオは気付きながらも咎めはしない。「ね?違う?おかしいでしょ。勝手に負けたのは自分でしょ?殺してやればいいじゃない?せめて半殺しとか、半身不随とか、ま、生殺し、とか、ね。」

「差別根絶の最高の方法は暴力だって?」

「まさに。」頭おかしいよ。笑う私にハオは笑いかけて、「でも、活気があって愉しいよ。」

「あなただけだよ。」

「で、なに?」

不意に、ハオが言った。「僕に用があるんでしょ?」

ハオを呼んだわけではなかった。そもそも、彼の電話番号もなにも知らなかった。だれかに、例えば零一や慶輔、あるいは静華に、ハオに会いたいなどと言ったこともない。零一とも、静華とも、あれから顔を合わせていないどころか、彼等の声を聴いてさえいなかった。「ないよ。」

私は声をひそめながら、ようやくそれだけ言った。その声が、はたしてハオの耳に届いたのかさえ、私には疑われた。私は、いまここにいる、用なしの自分自身をむしろ辱じていた。

うそ。教えてあげる。知りたいんでしょ?」

「なにを?」

「く姫と僕が愛し合ってるのは事実。みんな、言うけどね。僕が金とか永住権目当てで日本人女たぶらかしてるって。それ、うそ。だいたい、日本人だからね。僕。僕はちゃんと彼女を愛してる。で、彼女も僕を尊敬してる。彼女に、

「尊敬?」ん?と、言って、不意に腰を折られた話の断片を唇にぶら下げて見せながら、ハオはかすかな驚きを素直に曝した。その、ふるえもしない眼差しに。「愛されてはいない?尊敬だけで?」

「愛されてるよ。しっかり。そして、尊敬されてる。僕が彼女に捧げるのと同じように日本人へタだよね?

「なに?」

女の子、尊敬してあげるのが。言って、ハオは声を立てて笑った。「いっつも、一緒に何かするとき、僕、く姫にお金なんか払わせたことない。お金ないしね。もう。く姫は。でも、僕があるから。全然問題ない。

「金目当てだって言ってるよ。みんな。」

「僕が?」

「く姫が。静華が、お母さん、ハオさんの金目当てだって。」私は言って、私の表情がいっぱいに微笑を浮かべていることには気付いていたが、その、微笑みの理由が私にはわからない。とはいえ、私とハオの眼差しは、お互いが微笑みあいながら見詰め合わなければならない容赦もない必然を、ただ、お互いに知っていた。

「姫は妬いてる。静華さんは、ね。姫は愛されてないから。だれからも。だから、僕らをそう言うふうにしか見えない。姫たちには、ね。僕たちをは、ね。ほら、」知ってるでしょう?「零一くん。彼だって、そう。僕のように誰かに捧げる一途な感情を愛と言うなら、零一くんが姫に捧げてるのは愛じゃない。」

「なに?」

「とぼけないで。知ってるくせに。たんなる、なに?」

「自殺願望?」

「破滅願望、みたいな?燃えるんでしょ。檜山さんなんかの存在が。ガキだね。何歳?彼。」なんで、と、私が言ったその声に、ハオは耳を澄ます。

「なんで、あいつを、そそのかしたの?」

「そそのかす?」

「檜山にもぜんぶ、密告しちゃったんじゃない?」ハオのやさしい眼差しは、曇ろうともしない。「あらいざらい、全部、

「だって、檜山さんだってもう気付いてるし、姫だってかならずしも隠してるわけじゃない。零一くんだって、ひけらかしたくてしかたないんだから。僕はそういう停滞して、接続不良なものを、ちゃんとつないであげただけ。」

「あいつらのために?」

それは違うかな。」

「なにが?」なんだろう?と、ハオは背もたれにもたれて、深く、そしてかすかに背中を曲げていたが、テーブルに投げ出されたままだった左の指先が、無意味な円形を、そのテーブルの表面に書いてみる。手首さえ持ち上げはしないままに。「ちょっと違うんだよね俺、想うの。

「なに?」

「だれかのためにって、その感情って、なんか、ね?その『だれ』のところに入る人を見下してるなって。どんなこれみよがしの善意だってね。だから、チャリティとかあるじゃん。ボランティアとか。ああいうの嫌い。僕。だれかのためにって、なんか、お前は俺なしじゃ生きてもいけない家畜だよって頭ごなしに言ってるのと同じ。そんな気、しない?」

「けど、そうしないと死じゃうんでしょ?例えば、飢えて。貧困で。戦争で。不治の難病で。」

「だったら死んじゃえよって想う。尊厳ってあるじゃん?尊厳とともに死ぬべきじゃない?なにが人間の尊厳だよって想うよね。そういう家畜根性。」

「自分がそうだったらどうするの?例えば戦災孤児だったら。」

「生き延びるね。他人の家畜根性に縋って。」

「どうして?」

「生きたいから。」

「家畜根性を軽蔑するんでしょ?」

「でも、生きてるから根性ってあるんだよ。尊厳も、なにも。死んだら無意味だよ。生きないといけない。だから、なにがなんでも生き残るよね。僕は。泥水すすっても。」

「矛盾してない?」だからさぁと、私をではなく明らかに自分自身を歎きながら、ハオは言った。彼の「難しいんだよ。だからこそ、ね?」真面目腐った眼差しが私を見つめる。睨みつけるように。そして、やがては、なにもかも崩れ去るようになしくずしの微笑みに、やがてはその眼差しさえもが征服されて仕舞うのだった。

「こんな話しがある。」

身を乗り出しもせずに、ハオは言った。

「昔の話。僕の告白、聴きたくない?」

「聴きたくないよ」

「聴くしかないよ。僕が言うんだから。」激しもしない声でハオは微笑み、しずかに、そしてささやいた。「十二歳とか?中学校のね、一年のとき。仲良くしてやってた友達がいるのね。金城さん。ね。女の子だよ。在日の三世。朝鮮人。可愛くはなかったけどね。ちょっと、えっちくてね。いるじゃん。そういう子。」ハオの「それなりにもててたけどね。」自分勝手な笑い声を、私は聴いた。「いきなり、唐突に中国人、って、俺のこと呼んだの。後ろから。全然関係ない話してたのにね。べつに悪い子じゃないよ。目立つ子だったし。人気あるし。人気ある子って、変にいじけないですむから、へんな癖ないじゃん?だから人気出るんだよね。まぁ、所詮在日だけどねそれなりに、彼女なりになんかあったのかな?まぁいいや。いきなり。」魔が刺すって感じ?「あかるーい、声。明るい声。こんにちわぁ的雰囲気。普通に、ヘイ、メーンみたいな。わかる?ああ言うの。」失敗したのかもね。「ほら、なに?」冗談言おうとして。「まぁ、」思春期だから。「で、」不安定かつ複雑なお年頃じゃない?「振り返ってみたら、」および、若干センシティブなな、ね?「あっ、って。」ハオは声を立てて笑い、私に寄り添うように身を乗り出して、「ほんと、ただ、」テーブルに両のひじを突く。「あっ、て。」ね?「言っちゃったあと言った本人があっけに取られてる感じ?クラスの天使系アイドル、白昼に天使に通り抜けられたって感じで。自分でびっくりしてる。どしようも、収拾つかない感まるだしでさ。なんとか、とりつくろおうとしてんの。必死に。でも、何にもできずに、結局ただ立ちつくしてるだけなのに。」笑いかけてやったよ。「微笑んで、」俺、彼女にね。「で、俺、ね、いきなり」やさしく。ね。「想いっきりぶん殴って遣った。」いきなりハオが笑い出したので、私はまばたき、その私のかすかな困惑の表情にも気付かないままにハオは話し続けるのだが、「ばこーんって。」

ウェイターが通り過ぎた。私たちの

「ぶったおれたよ。その子。」

傍らを、私にだけ

「派手に。でも」

微笑み、彼はそして

「違う。ぶち切れたんじゃないよ。俺。」

めずらしい私たちの組み合わせに一瞬

「勘違いしないで。むしろ」

戸惑って仕舞いながら、とはいえ、

「全然、普通に、」

いずれにせよ、

けどさ。」

ここは何が起こるかわからない店だった。

「違うから。」

一年に二回はかならず

「なんか、救ってやりたいじゃん?」

やくざか闇金融どうしの乱闘が始まって、

「ぜんぜん、そんなんじゃないからね。」

警察沙汰になり、

「救うてか。」

街にまでその数十人の集団があふれて

まじで違うから。」

物見の私たちの大量の群れをも巻き込みながら、

「意識なんかしてないけど、なんか、」

そして、時には発砲事件が起こった。ここで

「その子立ち尽くしてんの、なんかね」

なんどかそれを見たことがあった。発砲。そして

「たすけてやんないと。で、みんな、」

銃声。一度だけ、頭が飛び散った。

「シーン。なにごと?みたいな。そしたら、」

脳漿を散らして。弱小やくざの

「女子の子、みんな俺にさ、」

その親分かなにか、四十代の

「泣いてるその子の代わりに」

男の身体が後ろ向きに倒れこむ。悲鳴。

「縋ってくるのね。」

そんなもの、

「ごめんーみたいな?」

上げるものは吹き溜まった

「ごめんごめんごめんごめん」

キャバクラか風俗の女たちにすぎない。慶輔は笑っていた。

「この子悪気ないからまじないからほんとだから。」

その時に。そして、私の

「ゆるしたげておねがいまじで」

眼差しのむこうで客の男たちは

的な。で、別に

言葉もなく失禁しそうな顔を

「ぶち切れてないじゃん。俺。」

曝しながらただ、息を

困る。なんか、適当に

ひそめて声もたてずに

「いいよもうけどにどというなよおれにそんなこと

猫背で走って逃げていく。

的な。あきらかに棒読み。」

慶輔がささやく。耳元で。殺られちゃったね。

「笑うよ。」

あいつ。

「自分で。」

あのおっさん。

「それはそれなんだけど。」

馬鹿馬鹿なの?まじ、

「その子いい子だったからね。」

笑っちゃうんだけど。

だから」

そう彼は

「家に両親から侘びいれの電話入ってきたの。いきなり。」

つぶやいて不意に、

「いきなり?」と、唐突に言った私にハオは、一瞬戸惑って「そ。」つぶやく。そして、ややあって、もう一度微笑みに顔を崩しながら私を見つめ、私と同じ男。

「で?」

同じように、同じような性別を愛しているはずの男。

私はそれを、ハオに確信した。

「電話出たの、親父。親父馬鹿だから。いきなり激怒。事情聴いたら。怒鳴り散らしてんの。こいつ馬鹿なのかなって想った。そう想うしかないよね。俺はね。で、次の日俺と一緒に学校乗り込んできてね。朝の通学のとき。職員室、俺連れて乗り込んで行った。いい見世物じゃん?恥ずかしく嫌なんだけど、そこまでくるとさ、むしろおもしろくなってきてたの。俺。で、首根っこ親父につかまれたままかならずしも抵抗しなかったんだけどさ。やばかったな、先生みんなおびえてたぜ。あきらかに。やっぱ。怒鳴り込んできた異物じゃん。異分子。親父って。あきらかガイジン。お前誰?的な。先生たちって、そういう異物に対応できないんだよね。突発事故に慣れてない。ああこいつら俺より世の中知らない、学校の中だけで奇形化しちゃった所詮ロリコンの人たちなんだなって、それ、俺の偽らざる心情。で、」その、ハオの背後の、

「はじまっちゃったわけ。」

出ることしか出来ないドアが開いて、ひとりの

「校長室で懺悔集会がさ。」

男が出て行く。私の知らないホスト。

「校長と教頭と担任と副担任と」

私のまだ知らない、名を

「その金城さんとかさ、」

たぶんまだだれにも

「呼びだされて」

知られていないホスト。

「女の子、もはや」

十代?猫背で、彼が

「その時点ですでに泣いてるからね。」

数日でこの街に失敗するに違いない事は

かわいそうじゃん」

見ただけで分かる。

「こいつら馬鹿?って」

入れ違いに入ってきたキャバクラの女が、

「想うよね?だれも、」

大袈裟にヌーブラを貼り付けた胸を押さえて階段に

「親父も含めてさ、」

足元を確認しながら降りてくる。

「だれも守らないもの?」

知らない女。そして

むかついた。」

たぶん、安い女。

「単純に。」

安価な

「だれもが」

時給しか稼ぎ取れない

「被害者づら曝して」

安い女。安っぽく

「その、女の子含めてね。」

だれも自分にはふれない仮想された人目を気にして

「だれもが加害者なの。」

歩く。真ん中の通路の

「むかつくじゃん?」

真ん中を、尻を振って

「泣いてるじゃん?」

見せながら。笑った。私は

「被害者づら下げた差別主義者の在日の子が。」

笑って仕舞った瞬間に、ハオは見逃さない。私の

想ったの。涙、だぜ。」

その

「眼の前の涙より重いものはない。俺、」

笑い声。

「そう想った。」

どこか、明らかに

「いきなり、」

軽蔑的な。微笑む。

「振り向いて、」

ハオが、ただ

「俺、親父ぶちのめしたね。」

私に同調するように。そう、

「担任、あわてて止めに入ったけど。」

その通り。そう、

「親父、小便ちびりそうだったよ。」

そうなんだよ。ハオの眼差しが

「俺、親に手、あげるタイプじゃなかったからね。」

ふるえる。かすかに。彼が

「むしろ家じゃおとなしい

表情を眼差しに、感じ取れないほどに

「本ばっかり読んでる、ね?」

繊細に、あざやかな鮮度を持って

「親父それから、何も」

曝すときに。それら、

「言わなくなったけどね。」

なにを想っているのか、

「でも、笑うんだ。」

かならずしも、はっきりとは、

「その女の子、まじで、

あるいはかすかにさえ、

「笑っちゃうんだけど、その子、」

決して私には語りかけはしない、

「もう頭おかしな猛獣見てるみたいな」

表情。眼差しの。

「そんなふうに、見てるの。」

ハオの。微笑む。

「俺のこと。おびえちゃってさ。」

私は。ただ、そして

「もし、一歩でも」

見つめた。彼を。

「そいつの方に足踏み出したらその子、」

ハオ。私は彼を

「あきらかに気絶してたね。おしっこ」

眼差しに

「漏らしながら。」

捉える。

「派手に。びゅーって。」と、ハオが派手な笑い声を立てて。

ハオは笑った。それは喫茶店の館内に響く。だれもがハオのことを知っている。たいていの人間は、ハオに気を遣って、その、いかにしても空間にそぐわない笑い声を棄て置いた。「今日、来なよ。」何の未練もなく自分の話を勝手に断ち切って、ハオが言った。

「どこに?」

立ち上がりかけたハオに、私は言った。

「決まってる。《きらきらパラダイス》。」

ハオは、当たり前のことをいまさら聴かれた意外さに、明らかに戸惑ったような、そんな顔を曝した。「零一さんも連れてきてあげればいい。どうせ、彼、自分じゃかたをつけられないんだから。深夜のんー午前の5時くらい。店、知ってるでしょ?ジャンキー風俗。あそこの、事務所にいます。」邪気もなくハオは微笑む。

眼差しは捉える。

そっと。

窓越しに、次第に空が崩壊の色彩に染まっていこうとする。夜の崩壊。朝焼けの無残なあざやかさを空が曝そうとし始める時間、その寸前。

その色彩を、昏いままに未だに微動だにさせようとはしない空が、あきらかにその破滅の予兆を漂わせて、そこに無防備で、知性のかけらさえも感じさせないあまりにも無機的な沈黙をだけ曝した。

疲れ果てた葉は、そのままソファに身をうずめるようにすわり、猫背に丸まって膝を抱えるだけだった。かけるべき言葉もなく、私はただ彼女を見つめた。「見ないで。」

葉が、想い出したようにいい、私はあえてなにも言わない。

「わたし、見ないで。」なんで?

つぶやく。

なんで「見るの?」

見たいから、と、そう言おうとしたものの、その言葉を想い付いた瞬間には、私はその言葉自体にすでに飽きていた。光が停滞し続けた。

救済の光が。

ずっと、すべてを満たし続ける神々の光が、眼差しの中に、瞬きさえしない。

持て余された時間の中で、私は葉を見つめる。葉は抱きかかえた膝に顔をうずめるばかりで身動きさえもせずに、はや彼女が死んでいるのか、生きているのかさえ、私には確認するすべがなかった。私は息遣った。

自分の息遣う、かならずしも聴こえるわけでもない音響を確信しようとした。

時間の、停滞した経過の果てのある一瞬に、明らかに空の決壊を告げる気配が、暗いままの空間に光もなく兆した。

ふっと。

ただ、そっと皮膚にふれるように。

私はそっち、斜め横のその唐突に息吹かれた兆しをは見ようともしなかった。私は知っていた。空に、明らかな革命が、あるいは見事なまでの破滅が拡がろうとしていた。人間の卑小な眼差しの中に、あからさまに矮小化されたちいさなドームにすぎなく見えたその大空と呼ばれる惨めなちいさいものに、色彩が息吹く。

太陽の、その日照の光。野生の灼熱。原始的で、自分勝手で、私にはもはや完全に無関係なもの。遠く、ちいさくしか眼に映らないそれ、身もふたもなく巨大な力の膨大な自己燃焼自らを破壊し、融合させ、その光を自分の重力の内側から解放してやるにも数千万年をかけなければならない哀れむべき力の肥満体が、その太古の光をようやくにして届けおおせる。笑うしかない気の遠くなる時差の中に、空は瑞々しい光に染まろうとし、不意に生まれたての朝の時間を生起させていくのだった。

昇日の光。

 

 

 

 


わたしを描く女 #10

 

 

 

 

 

それのか細い唐突な決壊が、すべてをなしくずしになぎ倒すように、その深刻で統一された夜のやさしい昏さの一切をかすかに台無しにし始めて、夜がもはや死にかけた残骸としての記憶のような暗さをだけかろうじて曝した。あまりにも無残な風景。

血に染まらないながらも、あきらかに凄惨な、殺戮と破壊が曝されていた気がする。かすかに明るんでいくのが感じられる沈滞した光の気配の中に、私はそのなんども見い出した風景をすでに知っている。

眼差しはあえて、その空の惨殺体をなど見ようとはしない。美しいもの。にもかかわらず、ただ、美しいもの。

もうすぐに、空は朝焼けの、紅蓮の、とでも、そうでたらめに言って仕舞うしかない色彩のグラデーションの無造作な爆発体を、眼差しに否応なく見い出させなければならない。「見てきて。」

葉が言った。

「お姉ちゃん、まだ生きてる?」死んでないよ。

馬鹿。

まだ、お姉ちゃん。」知ってるんだろ?

お前だって

私は、そう言おうとする。口元だけが、その吐かれるべき言葉のために、崩れた微笑みにゆがむ。私はなにも言わなかった。「ねぇ。」

つぶやく。葉の声。

なに?

「見てきて。」

聴く。沈黙したままに、

なにを?

私は。

ね。」言って、葉は「あんたが人間の言葉も理解できない脳みその腐ったぽんこつじゃないなら、いますぐ見てきて。」顔を上げた。泣いてもいないのに、そして、泣いていた事実などありはしないくせに、まるで泣きつかれて転寝を曝してでもいたかのような、呆然とした表情をその眼差しに見せて。

私は葉に、微笑みかけた。うなづきもせずに立ちあがる私を、葉の眼が追う。見ろよ。

私は想った。好きなだけ、見ろよ。

自分の眼差しの先に、じかに曝された私の裸体を。自分が愛し、焦がれてやまないそれを。

見ろよ。その言葉を、私は葉につぶやき棄てた気さえした。私の言葉が私の唇を咬んでいた。私が葉に眼差しを落とした瞬間に、葉は眼を伏せた。剝き出しの凄んだ痛ましさが、私の眼差しが捉えたその疲れ果てた姿にあった。むしろあざやかに。

葉の唇も、まぶたも、もはやふるえさえしない。

ベッドルームの中、ベッドの上で愛は眼を醒ましていた。あるいは、彼女は眠りさえしなかったのかもしれなかった。意識を失いはしても、あるいは、決して。

あお向けて眼を開いたままの愛を、私はその足先に立って見つめた。愛の呼吸は、乱れもせずに、しずかにただ腹部を上下させ、顔はいよいよその姿を顕した内出血のせいで、原型を派手にゆがめはじめていた。原型をもはや留めない、と、そう言うべきだったのだろうか?とはいえ、私の眼差しは、それが愛に違いないことを、明らかに疑うことなく認識して仕舞うのだった。

愛が、腕を上げた。腕をあげ、空中をまさぐる手付きを見せた、その腕が実はその着地点を探している事は知っている。ただただ時間を引き伸ばして緩慢なだけの動作。

やがて、あてどなく墜落するようにベッドのシーツにふたたび触れて、愛の両手のひらがシーツの白さの上をまさぐる。あるいは、その、着地された生地の、触感をただむさぼろうとしただけだったかのように。

起き上がろうとする身体が、苦痛にうめきながら身をのけぞらせ、骨折。あるいは、罅くらい、その骨格のどこか、無数の部位で起こされているに違いなかった。

断ちきれた筋肉と、破壊された筋がうめく。その内側で。愛の身体が痙攣する。かすかに。その、負傷に穢れた真っ白い皮膚の下に。

私は眼をそらした。

愛は身を起こそうとする苦闘に数分間費やして、ようやくベッドの端に座りおおせた瞬間に、彼女が自分で息を整える。傷付いた肋骨に、痛みをふたたび目醒めさせないように慎重に。

背筋をせめても保護するためにか、一直線に逆の湾曲を描いて延ばされた背筋の線に、その凛とするしかない華奢な気配に私は見惚れる。想わず、一瞬。

私は声を立てて笑った。

愛には、言葉を吐く余力などなかった。にもかかわらず、光。

光が私たちを満たす。

光。

救済の、溢れ返るその光。

神々は私たちのすべてを一気に救済し続けたのだった。永遠ともいうべき無際限な時間の拡がりのなかで。

もはや輝きさえしないままに。

息遣った。愛は。その息遣う音響など聴こえないままに、私の眼差しは鮮明にその、そして鼓動をさえも認識していた。夜はまだ明けたとは言獲ない。言獲ないままに、朝焼けさえ始まる前の、窓のガラスのむこうに、あからさまに、夜の、色彩的な、固有の気配を帯びた完全な統一が、あくまで統べられたままにその色彩の息吹きを破綻させているのには気付いている。もはやそこには夜は存在しなかった。いかにしても。

立ち上がって一瞬よろめき、バランスを取った身体がこめてしまった筋肉の、不意の硬直に痙攣的な痛みを感じて、愛は瞬間だけ顔をゆがめたものの、息をつき、ややあって振り返れば私に微笑む。私は微笑んでいる。愛に。あるいは、いつくしむように?

私はまばたく。微笑みは崩れはしない。部屋を出て行こうとする愛を追った。そのまま暗いままの廊下を通り、無防備に開け放たれたそれぞれのドアを通り過ぎた。それらの存在をすれ違いの、肌の至近距離に感じ取りながら。玄関口に素足で下りて、愛は半ば開いたドアを押し開けた。素肌を曝したそのままの姿で、足を踏み出すのに、愛に、もはや躊躇はない。

私は戸惑った。あまりにも不道徳な気がして、そしてすぐに私は自分の一瞬の逡巡を嘲笑う。

夜も明けてはいないまだ早い時間帯に、裸の男女が街を徘徊したところで、眠り込んだままの千駄ヶ谷の町の、だれの目線にもふれるはずはなかった。

いま、世界をそう、でたらめにときにそう呼ばれるしかない眼差しが映し出したそれら知覚された集合を、見つめるのは私たちの眼差し以外にはなかった。エレベーターを使わずに、

なかなか来ないんだよ。

階段をそのまま降りるのは、愛の

これ。

いつもの癖だったに違いない。愛がなじった。この部屋に私を連れ込んだ二十数時間前に、昇りのエレベーターを待ちながら。足。

なかなか

愛の

来ないんだよ。

素足が一歩一歩段差を確認し、

めっちゃくちゃいらつくの。

痛みを感じない最善の一歩を選択しようとする。

かすかな、赤裸々な逡巡をあられもなく曝しながら。結局は、いずれにせよ微細なものであれ痛みにさらわれて仕舞わずにはおかないに違いないのに。

階段は暗くはない。夜間つけっぱなしの非常口照明が、空間を緑色に照らし出す。愛の皮膚をも鮮明に、いっそう惨めな疲れ果てた緑色に染めた。私も同じはずだった。私の、彼女と同じように白い皮膚も。いま何階の階段を降りているのかも意識されないままに、いつか一階に辿り着けば、愛はエントランスに向っていく。自動ロックのそれ。ガラス張りの自動ドアが勝手に開いていくこすれあったちいさな雑音が、足元にだけ鳴った。外気。

かすかに冷やむ。

ふれた皮膚の、そのすべてに涼気を与えて、かさついた乾燥さえ感じさせながら、そして家屋の谷間の空はまだ暗い。

地上の街頭の照明が、おぼろげな逆光に眩ませたせいで、空はそれ本来の、光を放ち始めた夜の気の抜けた死に体をではなくて、むしろあざやかなままの暗やみの鮮度を保っていた。路上にはだれもいなかった。

狭くはない、むしろ広い前面道路を斜めに渡った。

愛は。

私は愛を追った。

逃げ去るわけでもなく、私を誘い込むわけでもなくて、そして愛は私が、自分の後を追っていることをは十分知っている。愛は振り返りもしなかった。

行き場所の、その明確な目的が在るわけでもなく、逡巡を曝すわけでもなく、でたらめに愛は彷徨していたのに違いない。その歩みには迷いはない。

歩く。だれにもすれ違わず、だれの眼差しもない。

いくつかの個人住宅と、小さな商業ビルと、オフィス、それら。

照明さえともされない、朝の夜の、夜の朽ちかけの?その、曖昧な時間に曝される単なる滅びないままの廃墟。

もうすぐ、すぐさまその廃墟が姿を消して仕舞うことくらい知っている。自分がそれを容赦も留保もなく破壊してして仕舞ったことに気付きもしない朝焼けの、あるいは鮮烈で瑞々しい朝の光、やがては人々の息遣いによって。

取り返しもつかなく無残に。

残骸。廃墟はもうすぐ、廃墟そのものの残骸の姿を曝す。生き生きとしたその本来の姿として。光の中に。

明治通りに出た。そこには明らかに別の気配があった。車が、数十秒に一台か、ときに二台、不意に通り過ぎていくだけの主幹道路。そこの気配に、ある種の廃墟の神聖さは存在しない。たんなる、何かの不在が曝されていたにすぎない。そこに在るべき人々。彼等の立てるかすかな騒音。それらの連鎖。

車、あるいはその内部の人間たちの眼差し。それらは、その時、あるいは捉えていたに違いないのだった。私と愛の肌を曝した姿を。犯罪者を見る眼差しのうちに。それとも単なる、在り獲ない夢のように見たのだろうか。それともむしろ、一瞬の、どうでもいい軽い軽蔑とともに通り過ぎて仕舞ったのだろうか。

ヘッドライトが路上を照らし、疾走して消えうせた。

立ち止まるものは何もない。原宿方面に、愛は歩いた。表参道には遠い。いまだに、地上に足をつけた人間の姿は見出せはしない。確かに、表参道は奇妙な町だった。日本中で知らないもののいない都市でありながら、それは昼間にしか存在せず、夜になるなれば完全に、生き物のいない廃墟じみた姿をしか曝さなくなる。日付をまたいで仕舞えば、そこは留保なき世界の終ったあとの無人の壊滅された風景であるにすぎない。

歩道橋の手前で、愛は一瞬、立ち止まった。振り向いた眼差しが私を捉えた。微笑みかけるわけでもなかった。

私は愛に、微笑みかけたままだった。その表情は、引き下げるきっかけさえ失って、私の口元に、そして眼差しに、張り付いたまま、もはや、その事実の存在さえすでに忘れ去られていた。

一瞬、愛が、私がだれなのか、わからずにいたのは明らかだった。想い出す。すぐに。いる。

想った。

おそらくは、愛は。

あなたはそこにいたのね?

と。たぶん。

愛が私に微笑みかけたその瞬間に、私をいざないさえせずに、ひとりで彼女は車道に飛び出して、愛は疾走した。それは一瞬に過ぎない。すぐさま疾走するワゴンが愛を轢き飛ばして仕舞ったから。

鳴り響いた急ブレーキの音が、あるいは、愛の身体が、その不意の疾走の反対に向ってはじき飛んで、空中を駆けていったときに、後れて空間に立った。

愛の身体が空中にもがいた気がした。そんなもの見えたはずなどなかった。一瞬だった。あまりにも急速度の跳躍。

もっとも低空に曝された飛翔。

血を噴き出しもせずに。私の眼差しのなかに、それは間延びした、時間が止まったような、ながいながい空中遊泳に見えていた。眼差しが意図もなくついた嘘が、私の眼差しにもはや離れない。

ワゴンは一瞬留まろうとしてスピードを落しかけるが、すぐさま、踏み込まれたアクセルが一度だけエンジンを噴かす。

一瞬車道の真ん中にまではみ出し、よろめいただけで、やがては間延びした、迷いのある低速で立ち去っていくワゴンの後部を私は見送った。愛の身体は、愛が飛び出した車道の背の、大手のアパレル企業ビルの植林の、茂みの中にたたきつけられて、傷だらけの身体を枝と葉の群れが包みこんでいた。

死んだに違いない。私は確認するべきだった。瀬の低い植栽の樹木の細い枝の群れの茂みが、確認が困難を伴うに違いないことを私の眼差しに、見る前からすでに教えていた。

私の眼差しは、その、小さな葉の夥しい密集に付着した血痕を見い出す。動きのない素足の先が茂みからのぞいていた。爪に赤いマニュキアが塗られていたことに、いまさら気付いた。悪趣味に想えた。もう十分だった。私は立ち去った。

愛たちのビルの前の、外からは開けようのないオートロック・ドアの前に座り込んだ。コンクリートの、ざらついて砂利だった触感のこまやかな痛みの集積に、曝された尻の皮膚は倦む。肌寒い。私は膝をかかえ、うずくまり、ドアを開けるすべは無い。

夜はまだ明け切らない。明けの時間を間近に、その背後に突きつけられて、瀕死のさまを曝しながら。その、死にかけの気の抜けた残骸さえ街頭の照明の逆光が、眼差しから奪って仕舞い、見い出されたのは結局はあざやかに統べられた、ただ暗い明けようのない夜の色彩にほかならない。裏切られた眼差しが捉え獲るものなどなにもない。

為すすべもなかった。

開かないドアが、ただ、そのガラス面を曝す。光。

死んだ愛の、その名残りに付着させた葉の上の血痕にさえきらめいた、光のないそれ。

救済の光。

神々は目論む。留保ないすべてのものの救済を。私は見る。それら、光のむき出しの充溢。目の前に血が流れていた。顔を上げなくとも、そんなことは知っていた。

匂った。花々の匂い。嗅いだこともない花々の、無数の、無際限な集積。

匂う光。

救済の、その。

光の密集。口から、あるいは口には違いないたんなる昏いあなぼこから吐き出される、ゆっくりとした鮮血の、水平の移動。

流れる。割れもしない気泡さえまばらに曝しながら、その女。

見たこともない女の眼差しが私が捉えて離さない。なにも、眼にふれさえることなどできもしないままに。あるいは、見る、という行為の概念自体、すでにそこに意識さえされてはいないことなど明らかだった。流れていた。その鮮血は、彼女のただ昏いあなぼこの眼の二つの翳りから、いっぱいに。

翳る。見たこともない彼女が色彩を、完璧に喪失して翳ってただ、そこにいた。

葉。

電子音が鳴った。ちいさく、短く。馬鹿にしたようなそれ。

私は顔を上げた。

自動ドアの、上方のセンサーが、小さく緑色に光っていた。その気もなく、立ち上がった私がドアの前に立つと、それはただ当たり前のように開き、かすかな、耳に障りさえしないやさしい音を立てて、私を館内に迎えた。

馬鹿みたい」

慶輔が不意に声を立てて笑った。

ただ、本当に、単純に、そういうしかない事実を言っただけであるかのようにあっけなく、慶輔がいきなりそう言ったので、なに?と。

そう言い返す隙もなく、私は慶輔を振り返って、そして、慶輔を見ていた。

見つめた、とさえ言獲ない私の眼差しは、単に慶輔のすがたにふれるばかりで、結局はそこになにをも見い出さなかった。「俺たち、馬鹿だぜ。」慶輔は言う。

ハオが言った《きらきらパラダイス》のビルの蓮向かい、自販機で慶輔は缶コーヒーを買った。たたき出された缶コーヒーが立てた不自然に大きい騒音さえもがいまだ、耳に残っていた。午前五時半。ハオの言った時間にはすでに遅れていた。夜はまだ朝焼けさえ曝さない。一気に缶コーヒーを飲み干すと、慶輔は空き缶を投げ捨てる。

それが、アスファルトに撥ねる音を聴く。

歌舞伎町は、まだその時間を終らせてはいない。まばらにではあっても人々が街を行きかって、どこかに入ろうとする。女を抱くためにか、男に抱かれるためにか。暇をつぶすためにか、軽度の薬物でも手に入れるためにか。違法カジノか、風俗の女を買うためにか。街が匂う。どぶの匂いに香水をぶちまけたような、甘く腐った匂いが、単に物理的に鼻に匂って、いずれにしても慶輔はアスファルトを斜めに突っ切った。「行こう。」独り語散るようにその背後につぶやいて、私たちはその雑居ビルに入っていく。風俗店の客引きの数人に眼をそらされ、無視されながら。

いつもそうなのか、その日に限ってそうだったのか、ただ無性に不貞腐れて、目に映るすべての他者にたいしてただただ拒否的な眼差しをくれるしかない背の高い従業員に、連れられて通されたその、薄暗い店の中の狭い通路の突き当たり、事務所スペースですでにハオのイベントは始まっていた。狭い室内だった。もともと単なる営業用個室のひとつだったに違いない、細長い部屋の二十畳もない空間の中に、向かい合わせにデスクが設置され、壁中のアルミの棚に書類の群れが雑多に詰まれて、そして、その男、正面の壁を背にして、ファッション・ヘルス店の管理者が座らされていた。正確な役職名や立場などは知らない。向かいのデスクに檜山が背を向けて座り、ハオは管理者のデスクに腰掛けて、そのこめかみに銃口をあてがってやっていた。管理者の前に、檜山はいかにもつまらなさそうに、彼に対面して座っていた。

店員は、その風景を見ても、表情さえ変えなかった。中で何が行われているのかくらい、彼だって知っていたには違いなかった。隣は店の女たちの控え室だか、更衣室だか、そんな部屋になっているようだった。女たちの地味な、かならずしもその気があるわけでもない嬌声の断片が、ときに、だらしない鈍い騒音としてだけ壁越しに聴こえた。何をしゃべっているのかは聴き取れない。慶輔が小さく声を立てて笑った。「この店、俺の客いるんだよね。」耳元に「女。」ささやく。

ハオが振り向いて、私たちに微笑んだ。申し訳ない。今、手が込んでて。と、眼差しが、そしてハオは何も言わない。ただ、

好きなところ、座って。あ、

その嬉しそうな眼差しが私たちに

でも、椅子なんかないね。そう言えば。

彼の言葉をじかに語った、その

ごめん。ほんと、ごめんね

ただただ人懐っこい響きとともに。

私たちに親しく寄り添うように。

仕事中のハオは、あえて微笑みをくれない。後れて檜山は振り返って、私たちを手招いたが、その手が握った携帯電話で、檜山はだれかに暇つぶしのメールでも送っていたに違いなかった。

店舗管理者役職名として店長なのか、なんなのか、私はそのとき知らなかった。後で、ニュースで店長と言っていた記憶が在るから、そうだったのかも知れない。その、サロン焼けした黒肌の男は、見ようによっては慶輔よりもけばけばしく、派手に見えた。いかにな地方のホストじみた男で、風俗店の管理者としては、たしかに珍しいタイプだったに違いない。管理者は、私たちに一瞥をくれて、そらし、そして想いついたように、訝った眼差しを投げた。

あるいは、彼もどこかで見知っているに違いない私と慶輔が、ハオとつるんでいるらしい目の前の事実に、かるく驚いたに違いなかった。

どうするの?」

あからさまな中国語なまりの日本語を、ハオがいつものように意図的に曝して微笑む。檜山に。

「彼、どうするの?」

檜山は答えない。

ハオがふたたび管理者に眼差しを落とし、その眼差しはやさしく、むしろ無限にいつくしもうとする気配をさえ見せていた。「殺す?」ハオは言った。とりたてて凄んでみせるわけでもない。「まだ?」

檜山は答えない。いまどきの若者最新流行の携帯メール。うつむき、伏せられた眼差しが、指先が打ち込むフォントの群れに、かならずしも興味もないままにそそがれていた。

管理者が、不意に声を立てて笑った。その、ゆれるこめかみの皮膚に、当てられたままの銃口がふれる。「お前ら、馬鹿なの?」言った。叫ぶでもなく、罵るでもなく。ただ、白い花に、白いとだけ言い棄てたように。

「やる気ないんじゃない?お前ら。もはや時間の無駄だからね。単なる。」

私は、ハオの眼差しさえかるく笑みを含んで仕舞ったのを、見逃しはしなかった。ハオがあきらかに曝した彼への無言の同意が、その管理者にも一瞬で伝わったはずだった。その瞬間、私の眼差しには、檜山はただただ孤独で、孤立した無能な男にしか見えなかった。

不意に、ハオの指先が、そのまま下に下ろされていた弛緩した管理者の腕を取った。その、腕まくりされた筋肉質の褐色の腕。獣じみて太く、そのくせ綺麗に脱毛処理されてつるつるし、それには確かに美しく、色づいた男らしい息吹きがあったことは否定できない。私は眼をそらして仕舞いそうになった。あらくれた、いびつな綺麗さ。ハオのそれのほうがむしろ、もっと素直に端整で、華奢にさえ見えた。デスクの上に、ハオはつかんだその腕をそっと誘って、男の腕はやさしくいざなわれるままに、やがてその指先を拡げさせられれば、指先はかすかに戯れるような戸惑いを一瞬だけ曝してみせながら、力もなく、為すがままに任すことを、いつか一瞬のうちに承認して、ときほぐされるようにデスクの灰色の上に拡がっていく。

私はまばたく。

ハオが叩き下ろした銃尻が、その小指を打ち砕いた。

血は流れない。なにも。男はデスクが銃尻に震えた瞬間に息を詰め、止められた息はややあって吐かれて、彼は見あげる。表情のない冴えたハオの眼を。後れて、噴き出された汗が匂った気がした。管理者は、上目にハオを見つめていた。憎しみは感じられない。むしろ、眼差しは問いかけるような色彩をしか曝さない。

確かに、ハオはそうするほかなかったのだった。侮辱されれば、やり返すしかない。男はそうされるしかない。確かに、ハオは必然的に、理路整然と振舞ったにすぎない。

管理者は、鼻で笑っていた。わかる。

わかるよ。同意。確かに、ね。男はハオに同意する。いまだ麻痺しない痛みに、その手首と腕をだけこまかく痙攣させながら。

檜山が振り向いた。私に言った。「零一は?」

来ないの?

その言葉には明らかに、かすかに酒気に潤んだ眼差しを曝した彼自身が、目の間で進行している時間を持て余していたのが見て取れた。私は檜山を軽蔑した。「どうするの?」

ハオが言う。

それは檜山に向けられた言葉だったが、その檜山の眼差しに沿って、自然にハオの眼差しは私を捉えていた。私に錯覚が目覚めた。すべてが、自分を中心に回っているような。その、在り獲ない、確かに必然的に彼らにもたらされて仕舞った倒錯を、私は不意に笑って仕舞った。ちいさく、鼻の先でだけ。管理者は、私が彼を軽蔑したと想ったに違いなかった。

聴く。

「片山さん、どうするの?」

ハオの、ささやくようなやさしいその声を。むしろ、ふれるものすべてを微笑まさずにはおかないようなそれ。

内出血なのか、砕けた骨のせいなのか、片山、という名に違いない男の小指はゆっくりと膨らんでいった。褐色の皮膚の上に、かすかに、その浮かび上がった、淀んだ色をいよいよ暗く沈濁させながら。檜山は、ハオの問いかけには気付かない。いつのまにかそのまま、降ろされて仕舞っていたハオの銃口が、なしくずしに自分の太ももに添えられて、あてどなくその太ももをなんどか叩いてみせる。おもちゃのようにさえ見えて、同時に、いつ暴発するかも知れない危険性を、私はハオの太もものために恐れた。

慶輔が背後の壁に身をもたれる。「あいつ、来ないんじゃないんですか?」言った。不意に、慶輔は微笑んで、「忙しいから。」

「客?」

言った檜山の眼差しは、いまだに私に棄て置かれたままに、それは慶輔をさえ捉えない。「だれ?」

「客じゃないですよ。客だけど。」

「静華?」自分でそう言って、檜山はいまさらに一瞬口ごもって仕舞ったあとで、みずから、嘲笑をでも浮かべるしかなかった。「今日も?」檜山は言った。

「ハナが誘ってたけどここ、来いって。そもそも誰?誰が、俺ら、呼んだの?ハオさんなの?零に用があったの。」

「僕は、誘わない。言っただけ。ハナさんに。ハナさん、誘ったの?」言って、ハオは笑った。「零一さん、来る?」

来るよ、と、言おうとした瞬間に、背後のドアが開いた。その瞬間に匂ったのは、静華の香水だった。振り掛けるべき分量の慎みを失敗したとしか思えない。皮膚の匂いと混ざって、単に品のない煽情的な匂いをしか放たない。いかにも絵に描いた下層階級じみた匂いだった。そして、煽情し獲れるべき限度を超えたそれは、当たり前のこととして単なる過剰な異臭にすぎない自分を無様に曝す。静華がだれかに声をかけようとして、室内を見回した挙句に彼女はいきなり息を飲む。

言葉を飲み込み、その瞬間に、間違いなく彼女は自分が吐こうとした言葉さえ、忘れて仕舞っていた。

ドアを開けた、さっきとは違う店員の後ろに、静香と零一がいた。零一は一瞬、不意に見つかったいたずらに照れたような表情を曝した。それはただ、彼を幼く見せた。

なに、これ。と、言った静華の声に、私が感じたのは単なる違和感に過ぎない。「なに?」と言われたところで、実際にはまだなにもはじまってはいない。始まりかけたまま、時間は停滞しつづけるばかりなのだった。静華が、そして零一が狭い部屋に入ってきて、息苦しさが限界を超えたような気さえした瞬間、ドアを閉めて立ち去ろうとしたその長身痩躯の四十代の店員に、片山が言った。水。

「水、持って来て遣って。客だろ?」

店員が、何も言わずに頭を下げて下がるのを、ドアが閉まりきる前に片山は、耐えられないようになじった。「あいつら、ほんとに気がきかねぇ」だれにかけるというわけでもなかったその言葉が、空間に投げ棄てられて、ハオは零一に微笑みかける。

「どう?」

零一は答えない。

「拳銃、どう?手入してる?」零一が眼を伏せた、その気配を私の首筋が感じた。恥らっているに違いなかった。大丈夫。と、そう答えたのは慶輔だった。

邪気もなく、微笑んで、そしてハオの眼差しはその慶輔をは捉えない。「ちゃんとしてるよ」ね?

眼差し。

「毎日、

傍らに、投げられた慶輔の、やさしい眼差しが私の唇にふれた。

「檜山さん殺しちゃう用の、あれでしょ?」慶輔は邪気もない声を立てて笑った。それらの声は、檜山にはむしろいささかの嘲笑さえ匂わせてはいないようだった。檜山は毅然とするでもなく、ただ、どこかふしだらにさえ見えた明らかな共感の眼差しを、零一に曝していた。まるで、生き別れた弟かなにかのように。不意に私は、彼らが兄弟である明らかな痕跡を感じたが、そんなものが妄想と呼ぶにも値しない単に瞬間的な錯覚であることになど気付いている。四十代後半の檜山と、二十代前半の零一が、兄弟であり獲るはずもない。異母兄弟でもない限りは。そして、そのとき檜山の眼差しに感じられた類似は、あきらかに同じ子宮の温度を共有した、同母兄弟の類似だったのだから。

静華が、あるいは零一が、そしてときにハオがなんと言おうとも、檜山に零一を敵視する意向など元からなかったに違いなかった。同じ女を愛している共感?あるいは、もっと言えば、自分をは決して愛そうとはしない同じ女を同じように愛して仕舞った不意の、執拗な共感?そんな、あきらかに倒錯的にすぎないものの、とはいえ、それを倒錯的であると断言して仕舞うには、女が必ずだれかひとりのものでなければならないという絶対的な立法か、必然か、不可能性かでも存在しなければならなかった。太陽が東からしか昇り獲ないような。そんな、必然は、たしかに女を愛することの原理には、結局は存在し獲ないに違いない。

いずれにしても、ただ親しいだけの共感を赤裸々に曝すしかない檜山が、かすかに眼差しを笑ませて、「なに?」

言った。

「持ってる?いまも。ひょっとして。」

檜山の眼差しは零一をただ、やさしく容赦のないいつくしみの中に捉えたが、零一の伏せられた眼差しはその恥らう失墜をやめない。ややあって、為すすべもなく零一がふところからその小さな自動小銃を出して、肩の上に上げて見せたとき、静華は泣き崩れそうな一瞬の表情を曝して息を飲み、張り付かせ、一歩だけあとずさりして、檜山は笑った。「やばいな、こいつ。」

むしろ、誇らしげに。

「本気で、俺のこと、殺す気なの。」

もはや、零一に完全に向けて仕舞った背を丸めて、デスクにひじを突き、見あげた眼差しは正面にハオを捉える。「お前、煽ってるだろ?」

ハオは微笑む。檜山の眼差しに、あきらかな一種の、満たされた不意の幸福感が浮んだ。いわば前触れのない恩寵のようなそれに、抗うことは檜山にはできない。「この、似非中国人。」

檜山が幸せそうに、声を立てて笑った。「最悪だよ、お前。」事実、「バッタもんの、」檜山は「バッタもんの中国人なんて、」幸せだったに違いない。「日本製のバッタもんの中国人なんてさ、馬鹿?お前。」彼が、まさに幸福感に苛まれている限りにおいて。遁れるすべもなく。

「わたし、煽ってない。」ハオは、なんにも。あおってないよ。あくまで、「ぜんぜん。ただ、ね。」檜山に似非と呼び棄てられてもなお、その片言の、絵に描いたようなチャイニーズの日本語発音を崩さずに「ただ、励ましてるだけ。」言った。

「お前も死んで欲しいの?俺に。」

んー、と、不意にハオは深刻な葛藤をその眼差しに曝して、言う。

ちょっと。だけ。ね。面倒くさいから。檜山さん。」

慶輔は声を立てて笑った。

「ぶっ殺すぞ、お前」檜山は噴き出して笑いながら、「この、ばったもんのチャイニーズこいつ、俺と一緒に飲んでも、ずっと、言うんだよ。そう言った、檜山は屈託もなく、「零一。こいつ。ずっと、知ってる?「ね。」なんて言うか知ってる?「檜山さん。俺にどんなふうにぶっ殺されたっすかぁ」口ぶりを真似られた、零一さえ、いつか、微笑んでいた。

「ふってくされたこの糞餓鬼がだよ。えらそうに。人の金で飲んでるくせしくさってさ、しかも。ふんぞりかえって、ヒヤさん、まじ、どんなふうに死にたいんすかぁ笑わせるんだよ。」こんなじゃないからね「いっつも、俺とさ、」違うからね「俺とサシで飲むとき?な?」もう、な。「全然違うからね。こんな、借りてきた猫状態のね。そういうんじゃないからね。」な。

零一は檜山に眼差しをは投げない。ハオもいつか、ただ、その、眼にふれるものすべてをいつくしむしか知らない眼差しに零一を捉えるのだった。

「くっそほんとうに、な。くっそ。くっそ生意気なくっそ餓鬼でさ。もう、始末におけねぇな?まじ。殺してやろうか?」

振り向いた檜山は零一笑いかけ、いや。静華がその喉の奥に小さな声を耐えた。「ぃや。」泣き出す一瞬手前に、停滞し続ける表情をかすかにわななかせながら。

微笑む。私たちは微笑むしかなく、片山は自分の手首をつかんで、ハオに砕かれた小指の痛みに耐えた。殺さないで、と、つぶやいた静華の、ただ切迫した小声がいびつだった。

「檜山さん、零くん、かわいから」言った、ハオの故意になまった言葉に、私は零一を可愛がっていると言ったのか、零一も檜山もかわいらしいと言ったのか、一瞬私は戸惑った。

つぶやかれた、聴こえたはずの静華の声には、檜山はなにも返さなかった。ただ、いつくむ一瞥を、無言のままに一瞬くれただけだった。ねぇ。

静華が言った。そのまま、零一の背後に隠れるように立ちつくしたままに、「私が悪いの。ぜんぶ、私が悪いの。」ハオはその微笑を、たんなる下卑た笑顔に崩して仕舞い、慶輔は声を立てて笑った。「ぜんぶ、悪いの私じゃん?零くんも、だれも、みんな、悪くないから。」

檜山は静華を見遣りさえしなかった。ただ、無言のままに、片山を見ているのだった。片山の、自分を睨みつける眼差しを直視する。

ね。そうなの。」ぜんぶ、ね?「ぜんぶ、私なの。」

「お前、ぶっ殺されたいんか?」檜山は、片山に言った。片山の眼差しには、明らかに

「ぜんぶ、悪いのわたしじゃん?

留保なき軽蔑に、ただニヤついていた。見下していた。殺意も、憎悪もなにもないままに、目に映るその、目の前の人物の群れ、それらすべてを、

違うから。レイレイじゃないから。」

見下しぬいた。片山が、不意にやさしく微笑んで、檜山に顎を突き出して、言う。だれを?

「違うから。ぜんぜん、」

だれを殺すんすか?つぶやく。「笑わせんなよたこ。」

なんで、

そう、零一は不意に言った。唐突に顔を上げ、私を見つめて。私を責める眼差しさえ浮かべずに、「なんで、ハナちゃん、ずっとニヤついてるの?」

片山がデスクの上に、唾を垂れた。これ見よがしに、軽蔑的に。お前、糞だよ。ただ、それだけを表明しようとして。ひん剥かれた眼が、自分勝手にいらついてひとりで檜山を直視した。

ハオは、声を立てて笑った。

「なにが、おもしろいの?」零一がささやく。私に。殺さないで。静華のすすり泣く声がした。

背後に。

涙など流してはいない。

「糞だな」その声、片山の声を聴いた。

泣き顔に、その表情を崩しさえせずに、静華は涙声でささやき、ふるえる鼻息に乱れ、「違うから。」言った。

ハオが引き金を引いた。横向きに片山のこめかみが脳漿を吹き飛ばして壁にその色彩を撒き散らし、その瞬間に、やっと私の耳は銃声を聴いた。あるいは、それが鳴り響いていたことを認識した。壁を穢した血痕と、脳漿、あるいは何がなんだかわからない吹き飛んだ細胞の群れが、鮮やかな色彩を曝して、垂れた。貫通した銃弾が、砕け散って破壊した壁面の上に突き刺さる。片山の身体が、椅子に座ったまま一度痙攣すると、仰向けに反り返ってひっくり返る。椅子が、そしてその身体が立てたみじかく儚い、そして単に耳障りなだけの騒音を、私は聴いた。

匂った。血の匂いなどしない。まだ。

ただ、煙った硝煙の安物のお香じみた匂いだけが。

耳に痛みがあった。発砲するには、あきらかに狭すぎる空間だった。銃声に飽和して仕舞った空間が、ただ、耳鳴りの中にそのたった一度の銃声を反覆させ続けている気がした。慶輔は耳を押さえていた。

ハオは、数秒間片山の痙攣する身体を見下ろした。顔をあげて、静華を見、慶輔を見、私を見て、そして檜山を見る。私は、発砲の瞬間、零一が身を固めたのを感じたのだった。そんな記憶が今更のように、頭の中に蘇った。そういえば、

ハオが言った。

「水、来ないね。」不意に慶輔を見て、ハオは言った。

慶輔は、悲しみとともに哀れんだような、ただやさしい眼差しをハオにくれていた。「死んだ?」

檜山のその声に反応して耳をそばだてたハオは、しかし、なにも答えない。ややあって、ハオは笑う。

照れたように。あるいは、自分のどうでもいい失敗を、だれかに不意に見つけられて仕舞ったかのように。「たぶん。」

「死んでるよ。」言ったのは私だった。笑い出した鼻息に声をふるわせ、顔を容赦なくニヤつかせて。なんで。

蘇る。

記憶に、なんで、ニヤついてるの?零一の声。光。

私は想わず、瞬く。

救済をだけ志向した、その神々の温度のない光。

光さえ発しはしない光が、充溢し続けていた。いつでも。常に。眼を閉じてさえ。まばたかれた一瞬の暗やみの中にさえも。

容赦もない救済。想い出す。

見る。もはや、遁れ獲る場所さえ、時さえもない。「終ったの?」静華はささやいた。自分で、彼女は「もう、」自分の声を聴く。「終った?」ね、ね、ね、ね、「ねねねねね」死んだの?

「死んだ?」

言った静華に檜山が振り向きざまの眼差しをくれて、やがて、檜山はうなづいた。その眼差しが捉えた対象に対する、限りもないいつくしみをしか知らない表情をその眼差しに曝したままに。「終ったんだ。」静華。光。

つつまれる。

ぜんぶ?ね?」終った?

光に。容赦もなく、

死んだの?「もう?

救済の光。

「終わり?

つつまれた。静華は、ただ、その無限の幸福感の充溢に、眼差しをすべて充溢させる。幸福。

静華はただ、そのときはもはやつつみ込まれた幸せそれ自体だった。声を立てて、笑うことさえなく静華の顔の、その表情のすべてが笑みの気配をこぼす。よかった。

静華は、そう言った。

前触れもないハオの発砲が、檜山をあお向けに吹っ飛ばした。吹き飛ぶ脳漿、そして痙攣する身体。一度のけぞった両足がデスクを蹴り呼ばす。私の足の先の床に檜山の、額を欠損させた頭がある。眼は閉じてさえいなかった。驚きの表情を、浮かべる暇すらも檜山にはなかった。

眼差しにはいまだに、静華の為だけに浮かべた無際限な慈しみがただ、張り付いていた。

飛び散った血と脳漿は私のスーツの腹部のシャツをまで穢していた。眼差しが捉えた風景に、ただ、為すすべもない痛みだけが拡がった。痛ましさ、というありふれた痛々しい言葉が、単に余裕づらをさげた同情も共感もない言葉にすぎなかった事実を、私は知った。

曝された単純な痛さに、そして、眼をそらすべき場所さえもない。私はハオを見ていた。ハオは微笑んでいた。あるいは彼の向けた銃口は、そのまま私をまで撃ち果たしてもおかしくはなかった。私は彼に微笑み返すしかなかった。光。

あふれかえるしかない神々の光。

差し伸べられ続ける救いの手。

光。見つめる。微笑んだままに、私は。ハオを。ハオが、ふと、声を立てて笑った。「ね?」言った。

「見た?」

慶輔さえ、つられたように声を立てて笑って仕舞い、「見た。」言ったのは私だった。

「ちゃんと、見た?」

「見たよ。」

私の唇は、そう答える。

唐突に、ハオが自分のこめかみに銃口を押し付けたのに、迷いなど一切なかった。すべて、彼は計算し尽くしていた気さえした。静華は、ただ、やさしい微笑みにつつまれるばかりで、後ろから零一を抱きしめた。終ったんだね?「もう、」しがみついて、その背に「ね?」顔をうずめ、「終ったよ。」幸福。確かに、彼女の幸福を疎外し獲るものなどいまここに存在し獲さえしない。

「殺す気なの?」

ハオは、零一に言った。

零一は、恥らう顔つきを崩せないままだった。鮮明な喪失感さえ、あらたにその表情に添わせて。ハオは、「檜山、殺す気なの?」もう、と。

もう、大丈夫。

静華が言った。

「なんで?」

ハオはささやく。不意に、零一に向けられた銃口が発砲された。前触れもなく。仰向けに、静華ごと吹っ飛ばされた零一の身体の、その私の背後に転がった惨状をは、私はあえて見なかった。「こうするんだよ。」ややあって、「殺すってのはさ、」立て続けの銃声の反響を私の耳がでたらめに反芻し続ける中に、「な?」ハオは言った。「こうやって、ぶっ殺すんだ。」

早口にささやいたハオがふたたび自分のこめかみに銃口を当てたとき、慶輔がつぶやく。「死ぬの?」

まさか」

ハオが答える。彼は笑う。

笑む。あくまでも、

「殺すんだよ。」

不発弾だった。引かれた引き金は、銃弾を発砲させたりはしなかった。ハオは、あっけに取られていた。なに?

静華が、正気づきかけながらつぶやいた。零一の体の下、すでに破綻した零一の、痙攣さえしない身体の、穴が開いた頭部が垂れ流すあらゆる体液の生暖かさに塗れながら、「どうしたの?」言う。

「なんで?」

ハオは言った。なんで、だ?

「あれ?」いかにも不審そうに、あきらかに赤裸々な戸惑いと、どこかに隠しようもない羞恥心をさえ無邪気に曝して、ハオは両手にその自動拳銃をいじった。必死に。あわてふためきながら。「やべっ。なんか、やばくない?」

焦るしかない無様な発汗を曝すハオを、慶輔が声を立てて笑った。哄笑でもなんでもなく、確かにそれは笑ってやるしかない風景だった。笑ってください、と、だれにも乞われはしないままに、私たちはただ、光。命じられるままに笑っていた。まばたく。

神々の光。

私たちは光。その、光。それらの、あふれかえった無際限な光。

差し伸べられ続けた救済の光。

無慈悲なまでの、無造作なその氾濫。私は笑っていた。「ハオさん、ねぇ、ハオさん。」笑う。ハオ自身も。照れくさそうに、そして、あくまでも自分の戸惑いと羞恥を隠し通そうとして、むしろ逆にあからさまに曝け出して仕舞いながらも、「違う。」ハオが「違うから。」ひとりでわめく。

いじり倒された果てに不意に暴発した銃弾が壁にめり込んで、不用意な暴発は指先を弾いて銃を反対に吹っ飛ばす。ややあって、すでに素に戻っていたハオが、不意に肩をすくめて見せた。「俺、不発。みたいな。」言った。もはや屈託もなく笑いながら。私は入る。

不意に開いた自動ドアから、愛と、葉のビルのエントランスに。

誰もいない空間に、私は忍び込んで仕舞った気がした。あるいは、私は本当に侵入者なのかも知れなかった。フロアを踏む素足は足音さえ立てなかった。私は息をひそめた。

私は葉を殺して仕舞うに違いなかった。私は、だれにも気付かれないように、そして防犯カメラを避けた。機能しているのか、それとも単に防犯用のフェイクに過ぎないのか、それさえも定かではないエレベーター前のちいさなカメラは、むしろ華奢な煙探知機にしか見えない。それが、ただ、緑色のちいさなライトを明滅させていた。階段を上った。

足音を立てないように、そっと、そして息をひそめ続けて、走りかけ、停滞し、立ち止まって気配を探り、皮膚感覚に探り出されるのは自分の気配にすぎない。聴く。

耳を澄ました。

物音。かすかな、コンクリート壁の外の物音なのか、内部の配管の?あるいは電気機器の。

完全な無音ではいられない空間が、何らかのこまかな音響の息吹きに染まる。息が上がった。

階段を這うように上がって、顔を挙げ、見る。気配を。確認する。目に映るのは暗い、希薄に非常口の緑色にだけ照らされた空間。

辿り着いたペント・ハウスの、明け放たれたドアに指を伸ばす。

そっと。

ふれる。

開ける。

ドアが軋む。そのかすかな音響は、私の耳には救いようもない絶叫に似た轟音だった。眼差しを差し込んだその内部、廊下にはだれもいなかった。突き当たりの窓の光線に、夜がすでに明け始めていたのをふたたび知る。憩う。心に、容赦もない安堵が失墜したように拡がった。居宅内は、外より暗い。

それでも、葉はそこにいるに違いなかった。どこかしらに。

あるいは、膝を抱えて、うずくまって。忍び込んだ私は、奥の部屋から彼女を探して行った。いくつもの部屋。半ば、あるいは完全に開けっ放しのドア。すり抜けて、中に入り、中を確認し、その不在を確認する。アトリエ。

観葉植物の鮮明な澄んだ匂いが、そして油彩絵の具の淀んだ匂いが、層をなしてあくまでも混ざり合わないままに、そこに何の意味もなく停滞する。キャンバス、描かれた身体、ゆがんだそれ。

彼女が描いた私の、ねじくれた身体。不意に、声を立てて笑いそうになった。背を丸めて、中腰になって、床を斜めに駆けた。物音をたてないように。

どこも彼処も絨毯張りだった。昔の高級マンションを模倣した作り。亡き父親の古臭い趣味だったに違いない。あるいは、当時の流行の?不意に想いだす。あの風景。

葉が描いたあの、純白の風景は、確かに私の最期のときに、私の眼差しに映ったその、失心しかけた風景の途切れ途切れの断片のそのままだったに違いない。

その時、雪に染まる海。

色彩は白。

「私が開けたの。」

言った。葉が。

リビングのドアをくぐると、葉は窓際に立っていた。

「表の自動ドア。だって、困るでしょ?」

振り向きもせずに「入れなかったら。ね、死んだ?

葉はささやき、私は知っている。葉も、知らないわけがなかった。「死んだよ。」愛が、まだ死んではいないことをなど。「跳ね飛ばされた。」

私は、そう言った。

「車に?」

吹っ飛ばされた。」

「どうだった?」

どうって?」

「どうだった?お姉ちゃん。」見えないよ。私の声に、「一瞬だもん。」嘲笑がある。「ワゴン。白、かな?一瞬、」かすかに。「一瞬で、」あきらかに。光。

望んだそのままに、すべてを救済し尽くす光。

神々の、その。

「吹っ飛んだ。」

光。神々が氾濫する。

充溢。私は鼻にだけ笑い声を立てて、ソファに座り込んだ私を葉は見つめた。首をかすかに傾けて。ねぇ。

「バイク乗りたい。」

「乗れるの?」

「あんた、乗れるじゃん。」あるの?

言った私に、単なるきまぐれの想いつきのような微笑みを投げてくれながら、葉は「あるよ、」つぶやくのだった。「真鍋くんの、鍵、あいつの机の中に在るよ。」

「従業員の?」

私は笑う。「見たでしょ。カワサキのやつ。此処に来るときああ、と。「お姉ちゃんと。」あの、エントランス・ホールの突き当たりに見えた、駐輪場の、その。「かっこいいよ。結構。」

どっちが?と、「バイクが?男が?」言おうとして私はやめた。口にする前に、その会話にすでに、私は飽きた。その、やがて破滅した葉を二十年もひとりで看取りつづける可憐な男。《破滅の日》の破壊的な熱風に焼き尽くされて仕舞うまで。

「どこ行くの?」んーと、鼻でだけ言う葉の、やわらかい声を聴く。だ、ね。

つぶやき、いきなり振り向いて、葉は言った。

世界の果てに、でも?」

声を立てて笑う。行こう。

ハオが、言った。ややあって、そして、「もう、終わり。ここは、終わり。」ふたたび「行きましょう。」その中国語なまりを無理やり取り戻そうとして、そして、彼は終にはそれにも飽きて仕舞う。「行こう。」

鼓膜とその周辺に、あきらかに鈍い痛みが巣食っていた。至近距離の銃声のせいに違いなかった。「ほら。」

葉がはしゃぐ。「これ。」

勝手にかき乱して探し出した真鍋のデスクの引き出しの奥の鍵を、指先にぶら下げて笑った。デスクの中に散乱したチョコレート菓子が、彼の嗜好を明かしていた。

私の鼻の先に突きつけて、揺らし、「ね、ほら。」これ、

鍵。」

なにもおかしいもののない空間に、葉の笑い声だけが邪気もなく響いた。

事務室のドアを開けた。店の薄暗い通路、そこに、女が立っていた。明らかに風俗嬢の営業用の、短くすけるキャミソールだけ身に着けて、一瞬、私たちにいじましい作った微笑をくれ、あわてて隣の控え室に入っていけば、その中にほんの数人の嬌声が立った。売れ残っていた女たちは手当たり次第にざわめく。事務室の中の様子を、代表してその女が伺っていたに違いなかった。低い、ほんの微弱音のBGMが、そこ、ファンション・ヘルスの薄暗い通路の中に流れたままだった。いまだに、人が死んだことなどだれも知らない。通常営業はつづき、客がその閉じられたドアの向こうに、お楽しみの最中なのに違いなかった。銃声。

 

 

 

 


わたしを描く女 #11

 

 

 

 

 

たしかに鳴り響いた四発もの銃声が、広くはない店内の至近距離に、仕切られているとは言え聴こえないわけはなかった。日常空間の日常生活の中で、聴こえるはずもない銃声を、聴こえたはずもない音として彼らは当然に処理して仕舞ったとしか想えなかった。

あれ?

あるいは、

銃声?

そんな嬌声をさえあげて見せながら、そして

いま、バーンって。

ありえないその音響を、ありえないものとして当然に

死んだ?

処理されて仕舞えば、もはや後に残るものは

だれか。

なにもなかった。あるいは、だれも死ななかった。すくなくとも、いまは。この空間の中では。いまだ、私たち以外のだれにも確認されていないのならば。

静華は冴えた、鮮明な意識のままで茫然としていた。そうとしか言獲なかった。零一を、慶輔が静華の体の上からどかしてやったとき、「やばいな、」死んだの?そう静華は言い、「これ、」瞬き、「さすがにやばいよ。」慶輔は言ったのだった。吹き飛んだ、かつて後頭部があった辺りの、その欠損した残骸さえも残さない単なる空虚に。

「死んだよ。」言った慶輔の声を、静華は聴いた。一瞬慶輔を、それがだれであるのか想い出そうと努力したことの明らかな眼差しに、それでもけなげに見つめ返してやりながら、静華は不意に息を飲んだ。「まじだ。」

ささやく。

早口に。

「まじ。

言って、差し出された慶輔の手に縋ることなく静華が自分で立つのを、ハオは見つめた。「穢れちゃったね。」つぶやく。

匂う。

静華の声。

「なんか、すごーい、」ね、すごーい、

聴く。

「匂うの。」

慶輔は鼻にかかった、かすかな笑い声を漏らした。シャワー浴びろよ。言った。「うちに、帰って」眼差しに、その額から頬をまでいっぱいに、他人の血に穢させた静華を捉えながら、そして、静華の指先が、自分の額をなぜた。

他人の血と肉片にふれながら。

やばい。」つぶやく。「てか、くさっ。」

ハオは、自分のハンカチを静華に投げた。静華はただ曝しているだけだった。そこに存在する静華の身体それ自体を。その眼差しに、意識はもはや完全に冴えていた。澄んで、そして、呆然としたままに、目に映るものなどなにもないがばかりに、彼女の意識は白濁していたに違いなかった。

すれ違う従業員は、私たちに眼を合わせない。ただ私たちが立ち去るのをだけ、彼らは待っている。私は彼らの要求に従う。何も言わない。さようならさえも。通り抜けた客用の控え室で、めがねを掛けた端整な客の男とすれ違った。およそ、風俗と聴いてイメージするような、そんなふうではなかった。大学の若い理数系の準教授か何かのようにさえ見えた。

かすかな整髪料の匂いがした。

死んでいくものたち。光。

救済の光。

氾濫するしかない光の、

それら

氾濫。

死んでいくしかないものたち

かれら。

私たちが殺して仕舞うものたち。こともなげに。立ち止まったハオが振り返って、出入り口近くに突っ立っていた。従業員に言った。それは片山ゆずりの、いかにもやんちゃそうな中年の男だった。「客、何人いるの。」

「十人ぐらいじゃないすか?」

「女は?」

「今日、暇ですよ。四、五人あまってますよ。」抜いていきます?男は言って、当たり障りもなく笑った。

日焼けした鍛えた肌に、地味な侍従じみた店の紺色の制服を無理やり被せた男。三十半ば。背は低い。やばっ

エレベーターの中で、ハオが言った「銃、忘れちゃった。

いいや。

「大丈夫。別に。あれ、マエないから。」

ひとりで言い訳じみてつぶやくハオを、慶輔は笑う。私に微笑みかけたハオは、すこしの、明らかな誘惑を匂わせながら言った。ささやくように。でも、

「びっくりした。根性あるね。」

早口に。

「だって、ハナさん、ずうっとにやついてんだもん。ずうっと。普通、一瞬でもなんか、やばって顔するのに。ひとりだけだよ。ただ単に余裕でニヤついてるやつ。あるの?」

声を潜めた、

「ひょっとして、さ。」

そのハオの

「人、殺っちゃったこと。」

声を聴く。ハオはその、ひたすら透明感にだけは不足しない冴えた微笑に、時に黒眼を揺らめかせて、それは私への明らかな媚惑を曝す。性欲さえともった、その。

気付いていた。私がずっと微笑みつづけていたことには。もう、なんども。私は、私自身を恥じていた。ハオいわくニヤついた、微笑を崩せもしないままに。ハオは、3階にエレベーターを止めた。付き合って。

ね?

ごめん。「五分だけ、」いい?

笑う。彼はいたずらじみた微笑を唇に、頬に、眼差しに、いたるところに自在に順に躍らせて見せながら、「ちょっとだけだから、」さ。

三階の喫茶店には入らない。そこはロシア系のマフィアがたまり場にしている店のはずだった。その前を素通りし、エレベーターのすぐ横の館内階段を下りる。その踊り場に、ふところから取り出したジッポーライターをつけた。かすかな息遣いの密集がもてあそぶ、空気の揺らめきにその火はときに、無造作にはためく。

床に置いたそれをそのまま放置し、二階のマージャン屋の前を通り過ぎた。突き当たりには剝き出しの炊事場があった。分かる?

振り向いて、ハオは言った。だれに、というわけでもなく。「それって、」と、慶輔が口を開きかけたとき、ハオはちいさく、声を立てて「それ、たぶん、」笑った。「あたり。」つぶやく。

「どうせなら、派手にやってやろうかなって。立ち退き。ぜんぶ、一気に、さ。」仕事だからね。

ハオはただ、愉しそうだった。ビルオーナーが言ったのは、6階の片山の店の立ち退きに過ぎなかった。オーダーに、倍以上のサービスをつけて提供すことをハオは選んだ。銃弾がちゃんと発砲されれば、こんなことにはならなかった、その悔恨を一瞬、私は感じた。かならずしもハオの死を望んだわけではなくて。「ね?」

ハオは、私の脇を小突いた。「わかる?」

彼が微笑む。

いたずらじみて。「分かるでしょ?」

眼の前に、炊事場の古びたガスコンロが設置されていた。流し台に置かれた簡易的なものに過ぎない。知ってるよ。

「分かってるよ。」言って、不意に静華はガスを開いた。火をつけずに。しずかで繊細なガス漏れの音を、その至近距離にだけ立てて、ガスは大気中に舞いあがった。

臭気がたつ。でしょ?

違う?静華が言った。「やばいよ。」私に、静華はもたれかかった。彼女は疲れ果てていた。「行こう。」私は言った。

葉が、声を立てて笑った。

バイクの鍵を私の鼻先に、わざと音を立てて揺らし続けながら。... go.

耳元につぶやく。

女の体臭が匂う。ややあって、「ね?」葉はそう言った。ビルの外に出ると、空はすでに見事に、朝焼けを無残に曝していた。

ビルの狭間に垣間見られる、見上げられた空。確かにそれはもはや、朝の紅がかった光彩にむせ返り、「できる?」葉がしなだれかかって言った。

バイクにまたがろうとする私にしがみつきさえして、「ほんとに、バイクの運転なんてさ。」笑った。

眼に映るものすべてが、いまや葉を微笑ませずにはおかずに、「朝だね。」言った静華の声を背後に聴いて、見あげれば空。

紅蓮の。あるいは、そう言い切って仕舞ったあとで必ず後悔にだけさらわれる。紅蓮?

そんなわけがない。その、あまりにも複雑な色彩。

黄色、白と黒が在り獲ない共存を実現した下地、かすかな、ほんのかすかに暗示される青、成分としての紫彩、そして、主体となる赤裸々な赤と朱の、でたらめにグラデーションを無造作に曝した空、紅蓮の破滅。「眠いよ。」もたれかかるように、静華はハオにもたれるが、慶輔がその尻を引っぱたく。人通り。ビルの表に出れば歌舞伎町には、未だに人通りが、まばらにでも存在して、染まっていた。

空は。

その東の一部にだけ穿たれて仕舞った留保もない崩壊に、かつてそこに存在した見事に統べられた黒の気品を、一気に壊滅させてあざやかな色彩の中に色褪せていく。しずかに、青く。

黒がなしくずしに、青みに内側から侵食されて、やがて破滅して崩壊したいわば死に体の色彩こそがあの青空の青の色彩に過ぎないことを、朝焼けにふれ獲ない西の空の縁の、暗んだままの夜の惨殺体は明示して仕舞う。「ヘルメット、ないんだけど。」

関係ないよ。

葉は言い、後部座席、後ろから私にしがみつく。「ふっ飛ばしちゃえ。」瞬く。

光。

神々は救済し続けていた。

あきらかな、それら固有の意志を持って。それらにふれ獲もしないままに、手を差し伸べた。

それら。おびただしい救済の光。

見あげられる空さえもが。

救われようとしていた。ずっと。ひたすらに。光。朝焼け、その留保なき破滅をさえも、「てかさ。」想い出したように慶輔は言った。「あのビル、ガス探知とか、ないもん?」早足の警官とすれ違う。

彼らは私たちには目もくれない。酔客がどこかでトラブッていたに違いない。彼らは忙しかった。私のシャツは血にそまったままだった。

「あたりまえじゃん。あんなビルにあるわけないじゃん。ぶっ壊れてるか、切っちゃってるか知らないけどさ。」ハオは言った。「ここ、どこだと想ってるの?」歌舞伎町だぜ。

声を立てて笑う。

「俺たちの、歌舞伎町だぜ。」走った。葉を後ろにのせ、立てる。

葉は。

嬌声を。

背後に。わざと。

その唇、その喉に、光。

救済の、そして。

見あげれば朝焼け。空は破壊された。あざやかな空の一隅をだけ壊滅させたにすぎない朝焼けがもはや、空の全面から夜の色彩の高貴さを失墜させていた。穢された空はすでに、無残な、気の抜けたその残骸をしか曝さない。留保もない凄惨さにおののく隙もなく、低速度で走らされたバイクが、眼差しの捉える風景に、それでもかろうじて速度らしきものをを与えていた。市街地の中の路上にはほとんど人翳もない。明治通りに出るまで、わずかに四人の人間を見かけたに過ぎず、そのうちの二人は早朝の代々木公園に向う市民ランナーに過ぎなかった。

明治通りに出れば、まだしも人の、そして車の気配がする。表参道の方に曲がる。何台かの車が追い抜いていき、すぐさま、眼差しは人翳を捉えた。その女。全裸で、明治通りの車道の真ん中をふらついて歩く女。

愛。

奇妙な、在り獲ない風景だった。血まみれの彼女は、素肌を曝したままに、そこに歩いていた。まるで、前衛的ななにかのイベントを眼にしているような気さえした。剝き出しの皮膚のいたるところに傷を曝し、自分が流した血に、まるで他人のそれに穢されたかのように穢された愛の背中は、表参道を目指していた。

目指しているわけでさえなかったに違いない。ただ、立ちあがった足がそっちのほうに歩いていたに過ぎないに違いない。とりあえずは歩き出して仕舞ったた足の筋肉の、赴いたがままに。

いくつかの疎らな車がときに、ためらいがちにクラクションを鳴らして大きく迂回し、通り過ぎていく。歩道にだれもいないわけではない。むしろ、どこかの早出の社員やランナーが疎らに両方の歩道を行き来する。彼らの眼にふれていないわけでもない。彼らは、私たちをも含めて、愛と目線を合わせないように、伺いながら見つめてさえいた。だれも彼女にかけよるものも、声をかけるものもいない。

私は、車道の脇にバイクを止めた。愛のわずか後方に。愛は私たちにさえ気付かない。穢れた、虚弱な肉体。ほんの数百メートル先には表参道の並木の端が垣間見える。商業ビルが、派手な照明をすでにともしはじめていた。朝。

いつもの、朝。

人々はその眼に映った明らかに破綻した女の、破綻した風景を、見留め続けていた。だれも、だれかと連れ立って歩いていたものはいなかったので、噂話の声さえ立ちはしない。不意に、そこらじゅうに奇妙な、白濁した空気感さえ散乱して、そして、愛を見棄てたわけでもなく、だれも愛に近づこうとはし獲ない。あまりのことに思考停止したわけでもなく、あるいは、どこからどうみても深刻な暴力の被害者に他ならない愛の深刻すぎる姿は、私たちの眼差しの先に、むしろ治安をかき乱す不埒を極めたならず者でしかなかったのかも知れない。単に、眼差しが捉えた風景の正統な回答は一体何なのか、その答えが見出せないままに、ただ、一瞬で白濁した意識の希薄さの中で、眼差しがかすかにおびえながら捉えるものそれ自体を、ただの他人の、自分ではふれ獲ない容赦もない他人の断絶された風景として眺めるやるしか、私たちにそのすべを持たれ獲なかったのかもしれない。なに、あれ。

葉が、背後につぶやいた。

ヘルメットさえかぶらなかった私たちの裸眼は、死にかけの愛の最期の数分を、見つめる。

なに?」

葉の声。

聴く。あいつ、まだ生きてたんだね。

そう言った自分の声を耳にしたとき、私は、私がそう言ったことに気付いた。公開処刑のようなもの。だれも警察に通報さえしなかったに違いない。確かに、そうに違いなかった。だれもが、自分の知らない流儀で、だれかがどこかに正当に通報するものだと、いつの間にか何もわからない無関係な部外者の黙視を決め込んで仕舞っていれば、通報などされるはずもないのだった。当然のことだった。だれもが、部外者だった。だれも愛にかかわることなどできなかった。私たちはみんな、彼女から眼をそらしさえせずに、愛を見殺しにして、そして見棄てて仕舞っていた。そこに、倫理などなかった。倫理も、非倫理も、それらが芽生える余地さえも。だから、だれも倫理を犯しさえしていなかった。倫理は、ふれられることなく、通り過ぎられるしかなかった。光が。

そして、私たち、そこに存在するものすべて、あるいはそこに存在しないものすべて、存在し獲なかったすべてをさえ、貫き通してそれは氾濫していた。

救済の光は。

ひかりさえしない光、救いの、神々の、差し伸べられた横溢する光。

それはふれつづけ、それらは刺しぬかれつづけ、私たちはすべて、存在する。

私たち。

愛さえもが。ここに。

私たちは在る。ふらつく。愛は。はなれた向こうの交番から目視によって発見したに違いない警官が、それでもゆっくりと警戒を曝しながら愛に接近した。だれも、うかつに愛には接近など出来ない。血まみれで裸の、死にかけた女。あるいは、正面から見れば、涙さえ流していたかも知れない女。

恍惚の、狂気した涙だったのか、単に悲しかっただけなのか、悲痛を極めた苦痛と絶望のそれだったのか。

あるいは、微笑みさえしていたのか。

それともただ単なる驚愕。その愛の周辺に、警官が三人群がって、一定距離のなかに愛を諌めようとしていた。意図的なやさしい、そして明らかに眼の前の異物への不審に戸惑った声で。ひとりが甲高いホイッスルをさえなんども鳴らしながら、勇気を出して近寄る。愛は、いま、明らかに加害者だった。だれをも、なにをも傷つけもできないままに、愛は異界から紛れ込んだ破綻した暴力的な異物以外のなにものでもありえなかった。

やがて後ろから回り込んだ警官感が、終に後ろから飛び掛ろうとした瞬間に、愛は前のめりに倒れた。容赦なくアスファルトに打ち付けた頭蓋骨が、その罅割れる音さえ立てたに違いなかった。私は眼をそらした。

警官たちが束なって馬乗りになり、愛の身柄は確保された。まだ、その異物に抵抗の危険さえあるかのように。

葉はバイクを降りて、ガードレールに座っていた。うなだれて。

私はエンジンを止めた。傍らに車が、スピードを落として走りすぎた。愛の周囲に、追加された警官が交通誘導した。整然としたオペレーション。人だかりはできはしない。車道の真ん中だし、それに、それは危険な風景なのだ。他人の、ふれ獲はしない他人が垣間見て仕舞った、関わりようのない他人の風景に過ぎない。私たちの風景ではない。自分が近づけもしない他人が見出した風景には、人は沈黙するしかそのすべをもたない。

私はバイクを降りた。葉の前に立つ。

音響。

朝の早い時間にあふれた、微弱音の物音の群れが、車道を通過する車の一瞬の、至近のフォルテをもふくめて赤裸々に耳にふれ、鼓膜をふるわせ続けていたのに気付く。あふれる。

無際限に。

光が。ねぇ。葉は言う。「死んだ?」

死んだ。」本当?言って、私に上目遣いの眼差しをくれた葉の眼差しは、確かに愛のそれに似ていなくもない。血のつながりなどなにもないくせに。自分の、血統的な人種さえ知らない他のどこかのだれかの人種のだれかにすぎないくせに、それでも姉妹育ちの事実が、鮮明な相似をいつか与えていたのかも知れなかった。

たんなる、家族なす生物の習性あるいは生得的な擬態として。「本当?」つぶやく。その、

ほおー

ん、

とう

限界まで間延びされた声に、私がすでに微笑んでいたことには気付いていた。葉を、その、眼の前の美しい女を眼差しにおさめながら。いつのまにか。私は。ただただいつくしんで。

「本当に死ねたの?」

言った葉が、微笑さえもくれずにバイクにまたがった。差込みっぱなしのキーを回して、エンジンを吹かすと、知っている。

私は。私はすべてを、すでに想い出す。

知っていた。「見てくるね。わたし。」生まれてはじめてバイクをふかした葉は、「お姉ちゃん。」不意に唇に嬌声を立てた。じゃ。

そう言って振り返り、声を立てて笑い、馴れない運転にようやく走り始めたバイクは、極端な低速にふらついた数秒の後で一気に加速する。葉をうしろに吹き飛ばしそうになりながら。響いた。だれにというわけでもなく、葉がただ立てて仕舞った喚声じみた笑い声が。

あるいは悲鳴。

表参道の方に、警官の制止を振り切って超過速度で疾走し、表参道をかろうじて無理やり曲がる。昼間ならすでに誰かを轢き飛ばして転んで仕舞っていたに違いない。知っている。光。まばたく。

救済の、そして、光。走る。

知っていた。

風景。その、眼差しが捉える風景。風景は疾走した。おもしろいように。廻されきったままでたらめに吹かし続けられるエンジンが、ただ回転速度だけを上げ続け、並木。いまだかつて見たこともない速度の中に、一気に通り過ぎられる風景はもはや、速度が与えた単なる視覚の残像に過ぎない。見えたものを、意識した瞬間にはすでにそれははるかに通り過ぎられて仕舞っていた。聴く。

風の音。騒音。耳もとで声もなく怒鳴り散らすような。その止みようもない轟音の群れ。わななく音響。もはや完全に制御を失ったハンドルが、そのまま青山通り近くの並木にまっすぐ突っ込んだとき、葉の眼差しはその数秒前の風景をようやく見取っていたに過ぎない。葉は見なかった。

おそらくは。

一本の街路樹にバイクごと自分の身体が破壊されて仕舞うその最期の風景をは。

 

顔を上げた静華が私を見つめた。

 

沈黙し、その唇は動きそうになる。

探す。何か、言葉を。

 

光。

氾濫の中で。その、でたらめにありふれたすでに、さし伸ばされている救済。

光。みつからない言葉を、静華はそれで探そうとするしかない。なにかが言いいたいわけではなかった。明らかに。

眼差しが、そして気まぐれにふるえる静華の黒眼を捕らえ続け、なに?

と。

そう言おうと瞬間に、背後のビルはガス爆発を起こした。派手な轟音が鳴り響いて、ややあって、耳はそれをリアルに反芻する。それが、記憶されたものの意識されない想起に他ならないことを、聴覚自体にはいまだ隠し通したままに。

振り返った眼差しに、特に異変はなかった。その、私たちが引導をわたして仕舞った雑居ビルには。悲鳴が連なって、その内部は騒然としているのかも知れなかった。あの入り口近くの日焼けした男も吹っ飛んだだろうか?

私の耳は、それら、そこに鳴り響いているべき騒然の声の群れをは捉えなかった。ただ反芻されたのは、飽きもしないさっきの轟音にすぎない。見たか!

悪気があったわけでもなくて、不意に慶輔がつぶやいた。

「ふっ飛ばしてやったぜ。」ささやいて、慶輔は笑おうとした。その視界には、むしろ、代わり映えのしない風景しか映らなかった。そんなはずではなかった。なにも起こってはいない。むしろ、呆気にとらわれるしかないほどに。ややあって、十数秒の後で、一気に異臭が充満し、黒煙をビルは至るところから噴き出す。あきらかなガスの異臭と黒煙の、そしてその温度が感じられた。離れた眼差しの先の、見上げられたビルが発した巨大な発熱。

やがては炎。終に、ビルはようやくにして、その炎を曝した。二階のふさがれていた窓を叩き壊して、一人の男が飛び降りた。一瞬、活きのいい蛸のように路上にのた打ち回ってうめく。素のアスファルトの硬度が彼の骨格のどこかを打ち壊したのに違いない。ざわめき声が連鎖する。ビルから逃げ出しただれの姿も、その男以外には確認できなかった。内部に爆発音と、破裂音が派手派手しく連鎖した。それが何の爆発であって、それが内部に何をもたらしたのか、私たちには伺い知ることなどできない。破滅。そのビルの先端の尽きた向こう、空は破滅の色彩をだけあざやかに曝し、火災通報された消防車が、狭い歌舞伎町に無理やり巨体を押し込める。

サイレンが鳴り響く。

ビルが燃える。

知ってる。その火災は結局は、6階風俗店の従業員と顧客計三十五人を筆頭に、総計七十八人の死者を生んだ。真犯人は逮捕されなかった。90年代、本格的なインターネット時代前夜にも関わらず、口伝においていくつもの都市伝説まがいの犯人説を歌舞伎町という限られた領域の中に生んだ。ビルに防災設備も何もなく、入居者に黒い噂が絶えないビルだったために、都の意向による歌舞伎町浄化作戦が開始され、歌舞伎町は一気にそのいかがわしさを失った。

ビルは燃え落ち、歌舞伎町自体も跡形もなく焼き尽くされた。あとには単なる、図体のでかいだけの恥ずべき風俗街だけが姿を曝すしかなかった。

 

 

 

 

 

わたしを描く女

 

 

目の前に老いさらばえた顔がある。

2014年、9月。あと数日で私は40代になり、そして、眼の前に老いさらばえた、と言って仕舞えば言い過ぎな、老いさらばえたとしか言いようがない精悍な、若々しく美しい顔があった。サロンで今更ながらに灼いた顔。高額スーツがつつんだ身体。太い張り詰めた腕。30半ばを過ぎてからジムとプロテイン剤で作り上げた趣味的な筋肉。慶輔。

Lineで通知した時間には、慶輔は数分遅刻した。ひさしぶりの歌舞伎町であの喫茶店を探したとき、かつての原型をとどめない、リニューアルされて縮小された《パリジェンヌ》の、こぎれいな姿に戸惑った。慶輔のホストクラブは、直接の経営責任者を変えて存続していたし、ほかに建築デザイナーとつるんだドッグ・カフェを代々木と恵比寿に経営していた。悪びれることなく、慶輔は数分の遅刻を謝りもしなかった。どう?

私は言う。「忙しい?」

漂泊されたような街。歌舞伎町はもはや他人の街にすぎなかったし、ビル火災の直後からわずかな期間に、一気に洗浄された、単に日本一大きい地方都市にすぎない歌舞伎町にもはや興味はなにもなかった。

昼の歌舞伎町はただ、変わりようもなく人気のない、気の抜けた廃墟のたたずまいを曝して日に差された。

かならずしも久しぶりに会うというわけでもない。何ヶ月か前にも会って、慶輔が武蔵小杉に作るらしい新しいカフェの打ち合わせをしたばかりだった。そのすでに開店しているはずの店が成功しているのかどうかは知らない。

容赦もなく慶輔が曝す加齢による劣化は、鏡に映した私に見い出す劣化と同じようなものには違いなかった。《パリジェンヌ》の席を占めた女たちが、私たちに媚びた眼差しをくれた。

私の眼にふれる、歎かわしいばかりに醜い私たち自身とは一切のかかわりもない、自分勝手にそそがれた眼差しに、私が不意に笑って仕舞ったのを慶輔は訝りながらも咎めはしない。

「どこ行くんだっけ?」慶輔が言った。「ベトナム?」

「そっちのほう」

「珍しいね。」慶輔は笑った。なにが?「戦争でも始めるの?」ベトナム、と言えば、その頃、確かにそんなアメリカ映画のイメージしかなかった。「暇だったらね。」私は言った。

その日、慶輔と会う以外に予定はなかった。そして話すべき話など、すでに枯渇していた。窓際の、区役所通り沿いの席に座って、眼差しの上方、傾斜地の、立った胸元のあたりにときに行き来する人の足の歩みが為すすべもなく眼にふれた。それぞれにその固有性をそれらは曝していて、結局はそれら固有性がそれぞれに一体何を意味していたのか私にはわからない。「千葉から帰ってきたんだよ。」私は言った。

千葉?昔の女とか?知り合いなんかいたっけ?」いない。正直にささやき、私は言葉に詰まる。

それは不意の失言だったかも知れなかった。それは慶輔が知らない話で、それを話すべき時間も、必然性もなかった。ただ、停滞する時間を埋めるために話すことを探して、とどのつまりは探しあぐねる単なる思考の濫費にむせかえりさえしながら、私は千葉詣での詳細を話す時間など持て余してはいなかった。

葉。バイクで表参道の街路樹に突っ込んで、顎と脳の機能と脊椎を失った彼女は、千葉の介護施設に引き取られていた。

それを知ったのは一年前だった。単に、インターネットで。私が完全に見棄てて棄て置いて仕舞った彼女の消息を、二十年近く前に探し始めたわけではない。何の契機だったのか、それさえ忘れた。何かを検索していたその途中に、介護施設で余生を送る交通事故の犠牲者の追跡記事を見つけたのだった。

ひとりの男がインタビューに答えていた。その男はあるアパレル下請け業のちいさな会社の社長だった。その、かならずしも成功者とは言獲ない男は、交通事故で殆どまともな意識作用さえ失って、半身不随になった身寄りのない片想いの恋人を、二十年近くも介護し続けていた。《でも、彼女には僕がいてあげないと、生きてさえいけないって、そう想ったとき、やさしくなれたんです。》ひたすら美しく、けなげで、悲劇的な純愛物語として、《みんな、びっくりするけど、これ、僕にとっては》記者はその高度なデザインのウェブ・ページで《普通のことなんです。》称揚していた。《いま、幸せとはいえないかもしれないけど、》十数個のいいねとシェアを《不幸せじゃないから、》いただきながら。《やっぱり、幸せなのかなって。》それは、あきらかに葉に違いなかった。表参道の樹木に早朝突っ込む人間などわずかしかしない。記事は2013年。だったら、まだ生きているに違いなかった。

男の名前を検索すると、すぐにフェイス・ブックが見つかった。取り立ててセキュリティを立てているわけでもない、いかにもネット馴れしない世代の男の記事が並んだ。男の顔には見覚えがあった。相応に老け込んではいたものの、あの、バイクの所有者だった真鍋という男に違いなかった。フェイスブックのいくつかの記事で、顎を欠損させ、何らかの後遺症に違いない、やせほつれた両腕を胸元、首の付け根に萎縮させて折り曲げている、明らかに眼差しに知性を欠いて見える女に頬を寄せ、ピース・サインをくれる自撮り写真があった。微笑む、という高度すぎる顔面機能などとうに失っている女は、ただ、無様にびっくりした眼差しを見開くしかない。凍りついたその表情のない顔の真ん中に。

まったく見覚えのない、そしてその顔の骨格にあきらかに面影を残す女は確かに葉だった。葉の入院先を調べるのに、造作はなかった。

日本を離れる前から、すでに日本に帰ってくる気などなかったのは事実だった。単純に、私はすでに飽きていた。目に映るものすべてに。だったら、最期にあの、私が見棄ててその街路樹に激突した、血まみれの姿さえ見なかった女に、会ってやってもいいと想ったのかも知れなかった。あるいは単なる老いさらばえた感傷かも知れず、下世話な興味本位だったかも知れない。早朝、千葉に行った。

千葉中央でタクシーを拾って、あとは運転手に任せた。海沿い以外の千葉に、行ったことなどなかった。

内陸部の閑静な田舎道を通って、四十分以上費やして辿り着く。待ってましょうか?

運転手は言った。「長いかも。」

「いいですよ。ここだと、タクシー、捕まえるのも大変だから。」笑う。

受付を通れば、名前を記入させられるに決まっている。意味もなく、私はそれに抵抗があった。平和な日本の田舎の介護施設のセキュリティにすぎない。そんなものは単純にそのまま素通りできて仕舞う。適当に病室をのぞいていると、ひとりの介護士に見咎められただけで、笑って、「トイレ、どこ?」やがてすぐに、葉の病室を見つけた。ドアは開け放たれていた。そのネームプレートは北浦葉。そのほかにふたり。四人部屋。病室の、ひとつだけいかにもふるびていたネームプレートが、葉がだれよりも古参であることを明示した。

葉は食事中だった。まだ早い時間。午前十一時。昼食にはいくらなんでもはやすぎる。すぐにその理由に気付く。腕を引き攣らせて胸元に凝固させ、筋肉と言う筋肉を失って、やせ衰えて、一周りちいさくなって仕舞った葉に、おかゆではあっても固形物を食べさせるのは驚くほどの長時間を必要としていた。

掬いあげた、半分しか満たされていないちいさなスプーンが、葉のわずかしか開かれない口元に、なにも垂らして仕舞わないように慎重に運ばれて、あいた片手の指先が唇の縁をたたく。

ゆっくりと、あきれるほどに緩慢に、もう少しでも開こうとしている口に、スプーンがその、かすかな隙間に半液体を流し込む事を試みる。

ゆっくりと。気管に混入などさせて仕舞わないように。

ただ、ひたすら、ゆっくりと。

咀嚼はすぐに始まる。おかゆを唇の端にこぼして仕舞いながら。条件反射以外のなにものでもない咀嚼。あるいは、咀嚼を真似た、かろうじて残った、あるいは人口的に埋め込まれた顎の最低限の骨格らしき人工物がでたらめに演じる、なにも噛み砕き獲はしない行為。

舌が上下してるだけだったのかも知れない。完全にこそげた顎部分の単なる無残な空虚さに、あの高度にねじれ曲がった骨格などがわずかでも残存しているとは想えない。

私はドアの外に、たたずんで見つめていた。

葉に寄り添って、食べさせているのは確かに、あの真鍋だった。あるいは、許可もなくとはいえ、自分のバイクで、こんなことになって仕舞った葉に対する悔恨でもあったのだろうか。

彼が悔恨など感じる隙などどこにも在りはしなかったのに。いずれにしても、その男の留保もないやさしい眼差しに、私は単純に、葉が男に愛されていることを疑う余地などない。

カーテン越しの日差しのやらわかい逆光の中に、男の眼差しは微笑み、ささやき声を立てながら、そして、とっくに冷めたおかゆを2分に一度、口元に運ぶ。

想い出したようにときに、葉に話しかけながら。なにも、答えなど返っては来ないことなど、本人だってすでによく知っているにもかかわらず。

私と同い年くらいの男。

あら。どうぞ。

すれ違いざまに、三十代の、いかにも気の強そうな女の介護士が私に言った。

「入ってあげて」

彼女が微笑む。私は、ありがとうございます。笑いかけて、会釈し、返されたのはその、やさしいだけの微笑み。

私はちいさく手を振って、立ち去る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2018.09.26.-10.11.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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