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お知らせと目次

<お知らせ>

 

四月十日に、Puboo!さんから閉店のお知らせを正式に受けました。

これまで、私の作品を掲載してくれて感謝をいたします。

ありがとうございました。

 

今後は、『カクヨム』で、作品をアップしていくことになりました。

 

   カクヨム  https://kakuyomu.jp/users/nkgwhiro

 

これが、私のPuboo!での最後のアップとなります。

 

 

 

 

<目次>

 

 (1) 青い空に負けそうだ

 

 (2) 抱かれて息のつまりし

 

 (3) 微笑んだお月さん

 

 (4) 雪の降る日に


(1) 青い空に負けそうだ

 

 いつも不思議に思っていることがあります。

 江戸の時代、人々はどうやって暖を取っていたのかって。

 

 例えば、大石内蔵助、討ち入り前に、主君浅野内匠頭の奥方瑤泉院のところに伺います。

 今の広尾、その地下鉄の駅からすぐのところに、有栖川宮公園があります。その近くにある南部坂と呼ばれている場所に瑶泉院の屋敷がありました。

 

 その日は雪が降っていました。

 大石内蔵助は、瑶泉院に暇乞いに挨拶をしに来たと告げます。

 殊勲の仇討はしないと言うのです。

 もちろん、瑶泉院に仕える女中に、吉良の手先がいることに気が付いての方便ではありましたが、それは伝わりません。

 大石にとっては、それでいいのです。

 しかし、瑶泉院の反感を買ってしまいます。

 

 蔵之介は、屋敷から出てきて、高下駄をつっかけて、雪の降る中、番傘をさして去っていきます。

 

 芝居や映画などで、その立ち姿を見ていますと、幾らかは厚着をしているようですが、果たして、そんなんで雪の寒さを防げたのかと不安に思うのです。

 

 安政七年三月三日も朝から牡丹雪が舞っていました。

 雛祭りの日です。

 在府の大名たちは、この日、祝賀のために登城をします。ですから、江戸の市民たちは、『武鑑』なる冊子を手にして、登城する大名たちの行列を眺めるのを楽しみにするのです。

 

 彦根藩邸の門が開きました。

 桜田門をくぐるまで、半キロほどの、そんな距離に彦根藩邸はありました。

 この頃、雪は小雨交じりの雪になっていました。

 彦根藩の供回りの侍たちは、厚手の油紙で出来た合羽を着て、刀の柄は濡れてはならぬと雨よけで覆われていました。

 五百メートルほどの距離を仰々しく行くさなか、あの「桜田門外の変」が起こるのです。

 

 そんな折、『武鑑』を片手に、大名行列を見ていた人々は、雪降る中で、どのような姿をしていたのか、どうやって寒さから身を守っていたのかと気になるのです。

 ももひきだけではあの着物姿ではきっと寒かったに違いないって。

 

 明治になっても、東京の冬は、雪がたくさん降りました。

 記録によれば、明治九年一月には、氷点下九・二度を記録したようです。これは、東京の史上最低気温になっています。

 

 そういえば、子供の頃、東京には、雪は随分と降っていました。

 

 あの時の家の暖房ってなんだったろうと、記憶の糸を手繰り寄せます。

 そうだ、コタツがあった。

 電気コタツです。あの赤くなる赤外線のやつです。

 反射鏡のついた石油ストーブはあったかしら、いや、それはもう少し時代がいってからだ、あの頃あったストーブは、天板で煮炊きができる丸いストーブだったと、記憶がつながります。

 

 親が、コタツのスイッチを入れて、ストーブを焚いてくれて、部屋を閉め切って暖めてくれて、そこで着替えをしたことも思い出されました。

 

 この日、つくばにも雪が降ると言う予報が出ていました。

 なんでも、冬将軍がやってくると言うのです。それも強烈な将軍だと言いますから、私、朝からそわそわしていたのです。

 雪が降れば、コアラの国の、雪を知らない幼な子のGOKUにラインをして、見せてやろうと、そう思って、今か今かと待っていたのです。

 しかし、次第に、晴れ間が出てくるではないですか。

 バルコニーに出て、空模様を伺いますと、すっかり青空、典型的な冬の澄んだ空が広がっています。

 

 正確さを誇る日本の気象予報も、この度は外れたようだと、がっかりしたのです。

 

 こんなに天気がいいなら、家にいる必要はない、出かけよう。

 私はおろしたてのシューズの紐をきつめに締めて、外へ出ました。陽光が降り注ぎ、目的地に着く頃には、着ていた上着を脱ぐ始末です。セーター一枚で、コートを小脇に抱え、私は書店に入ったのです。

 

 買うほどの本も見つからず、あまりの天気の良さに、遠回りをして帰ろうと私は街の道を足早に進みました。

 商店街を抜けて、芝ばたけの道を進み、うっそうとした林の小道を恐る恐る通り、外国人の働き手が白菜を収穫する畔の道を、人懐っこく笑みを浮かべてあいさつをしてくる彼らに笑みを返しながら、私は、歩いたのです。

 

 一陣の風が、私の頬をさっと切っていきました。

 おやっと、空を見上げますと、筑波山の山の上に大きな黒い雲が出ていました。

 その雲は、やがて東の空を覆うほどに広がっていきます。

 こりゃ、早くに戻らないと、ひと雨来そうだと、一気に冷たくなった外気から身を守るために、私は手にしていたコートを羽織ったのです。

 

 顔の前を、小さな雪が舞ってきました。

 私は空を見上げました。

 北から東にかけて空を覆った雪雲からこの小雪が舞っているのです。

 南から西にかけては青空です。

 

 この冬将軍、青い空に負けそうだなって、私思いました。

 

 時代とともに、冬将軍もその力を失いつつあるんだなぁと、一抹の寂しさを懐に抱きつつ、私は、百八十度見渡せる田畑の畔の道の上で、舞い散る小雪を浴びていたのです。

 

 それにしても、昔の人は、どうやって、寒さに対応していたのだろうか。まさか、体が寒さに適応し、薄着でも一向に構わなかったのかしらって、そんなことを思いながら、家路を急いだのでした。

 


(2) 抱かれて息のつまりし

 

   雪というのは、雪の滅多に降らない土地に住む者にとっては、一種の秘めやかな香りを伴って、押し寄せてくるものです。

 

 外の景色が一変します。

 何もかもが白一色に変じるのです。

 

 しかも、外に出るにいささかの勇気がいります。

 滅多に雪の降らない地域では、備えがないからです。

 靴という靴は見事に滑ります。

 雪の降る世界を歩き回るにも、頭に肩に積もる雪を防ぐ手立てがありません。

 

 だから、ガラス窓のくもりを手のひらでそっとなぞって外の世界に見入るのです。

 そして、秘めやかな香りがじわっと、心に押し寄せてくるのです。

 

 そんな日、気にかかっていたこと、そして、それが今も続いているひとつの句が思い出されるのです。

 

  下京や 雪つむ上の 夜の雨

 

 『去来抄』の記載によれば、当初は「此句初め冠なし」の句であったとあります。

 つまり、最初の五句がなかったのだというのです。

 

 作者は、凡兆。芭蕉の弟子ではありますが、芭蕉よりも幾分年長であった方です。

 それを、芭蕉が、「下京や」を提案すると、凡兆は「あ」と言って黙ってしまったというのです。

 

 これが気になっているところなのです。

 

 「あ」には、凡兆のいかなる心理が働いていたのかということです。

 さすが、師のおっしゃることは違うと納得したのか、それとも、そうはおっしゃるけれど、ちょっと違うんだよなって思ったのか。

 

 さらに、芭蕉はたたみ重ねるように言葉を発します。

 「これ以上の句があれば、我は俳諧を辞める」と。

 

 なぜ、そうまで芭蕉は凡兆に強硬に出ていたのかって、これもまた気になることなのです。

 

 下京は、京都駅前から二条通りまで一帯の地名です。

 中京・上京が貴族の住まいが多くあったのに対して、下京は職人や町衆が多く暮らす一帯でした。

 だから、庶民の家々の屋根に雪が積もり、それが次第に雨に変わるという情景に、少なからず庶民的な風情が漂うことは、現代の我々にもよくわかります。

 

 では、なぜ凡兆は「あ」って言ったのでしょうか。

 そして、芭蕉は自分の発句をこれでもかと強く推したのでしょうか。

 

 私、そこに、人間の根底にある心を見て取っているのです。

 

 芭蕉は、弟子の作句の素晴らしさに嫉妬している。だから、下京などという地名を発句に推挙し、これ以上はないと言い放つのです。

 誰も師の言葉に異を唱えるなどできはしません。

 

 凡兆は、「あ」と言って黙ることで、一種の抵抗を試みるのです。

 

 「あ」には、師に対するおもねりが見て取れます。

 そこには気が付きませんでした、さすがに、芭蕉先生ですという作られた動作です。

 

 そして、沈黙は、そうは言っても、あまりに凡庸すぎるぞっていう彼の思いが沈黙となって現れるのです。

 

 それを去来は、冷徹な目で見逃さなかったというわけです。

 凡兆は、晩年、芭蕉の元を離れて、それがためかどうかはわかりませんが、随分と苦労したようです。

 華々しく各地を巡り、芭蕉師ともて囃されたのとは異なり、凡兆はひっそりと、それも日々の生活にも苦労していたというのです。

 

 私、そんな凡兆のような人に、いつも同調しがちなのです。

 

 男がその心にライバル心とか闘争心とか、見栄を張り合うのに比べて、女性の句歌には秘めやかさがこれでもかと漂っています。

 

 外の寒さに曇り切ったガラス窓にそっと指を当てて、なぞります。

 「雪はげし 抱かれし 息のつまりしこと」

 橋本多佳子の句です。

 

 俳諧人も歌詠みも、日本の女性作家はどうしてこうも情熱的なのかと、「柔肌の熱き血潮に触れもせで」と詠んだり、「夜しんしんと女の幸の在りどころ」なんて、歌うのですから。

 

 晶子も、林ふじをも大胆で、率直です。

 

 はて、橋本多佳子は、息のつまるまで、誰に、何に、抱かれたのかって、そとの光景を、窓の向こうに、私は見つめるのです。

 


(3) 微笑んだお月さん

 

 それは寒い朝のことでした。

 

 いつものように起きて、いつものようにコーヒーを淹れて、そして、いつものように朝刊を開きました。

 当たり障りのない記事ばかりで少々うんざりし、朝刊を読むのをやめました。

 後ろの窓を振り返りますと、まだ外は真っ暗です。

 それもそのはず、まだ夜があけていないのです。

 

 いつだったか、バイクの音がしたので、階下にある門の前に降りて、新聞配達の青年がバイクを転がしてくるのを待っていました。

 

 ご苦労さん。

 おはようようございます。

 いつもありがとう。

 こちらこそ。

 

 そんなたわいもない会話に気持ちをほっこりさせた時がありました。

 

 ある日は、バイクの音が聞こえて、門のところで待っていたら、こんなに暗いのに、ヘッドランプをつけてジョギングしている中年男性に会いました。

 ヘッドランプでよく見えなかったせいもありますが、ついぞ見かけたことのない顔です。

 アパート住まいの人かしらって思いつつ、言葉をかけました。

 おはようようございます。

 あっ、おはようようございます。

 たったそれだけの会話で、中年男性は走りを止めることもせず、先へ先へと行ってしまいました。

 

 こんな日もありました。

 新聞受けにあった新聞を受け取り、階段を登って玄関に向かっていた時でした。

 

 誰かが私を見ている、ってそんな気配を感じたのです。

 

 自然、私は前方の中空に目が行きます。

 レンガの壁の向こうに、大きなお月さんがかかっていました。

 

 まん丸の、光り輝くお月さんです。

 

 そういえば、夜明けはまだだけど、今朝は随分と明るいと思っていた矢先だったのです。

 君か、世界をこんなに明るく照らしていたのは、って、私、心の中で呼びかけたのです。

 

 すると、お月さん、私の心に囁いてきたのです。

 

 おはよう。今日も一杯のコーヒーを手にして、新聞を読むのかい。

  そうだよ、今日も一日のコーヒーを淹れて、新聞を読むよ。

 よくもまぁ、飽きずに、新聞を読むね。

  だって、面白いですから。世の中のことがいろいろと書いてあって。

 そうかい、当たり障りのない記事ばかりではないのかね。

 

 おやっ、お月さん、私の心を読んでいるって、私、ちょっと困惑してしまったのです。

 そうだ、お月さんって、私、また心の中で、話題を変えようと言葉を発しました。

 

 昔の話なんですけど、唐の都長安で、一人の男に出会ったでしょう。

 

 お月さん、無言です。考えているようです。

 ですから、酒好きの、相伴するものがいないからって、あなたを誘ったサマルカンド人ですよ。

 彼、洒落たことを言いましたね。

 あなたと自分と、自分の影と仲間が三人になったて。

 

 おうおう、思い出した。

 勝手なことを言いよる奴だった。 

 自分が歌えば、私が歩き回るって、舞えば、影が揺らめくって、私も影も無情のやからだってほざいていた。

 無情っていうのは、感情がない、生きていない、そんなものを言うときに使う言葉だ。

 失敬にも、そんな風に私のことを歌ったんだ。

 

 でも、可愛いところがあるのだ。

 奴は、皇帝のそばに仕えることにうんざりしていた。だから、おべんちゃらと無意味な微笑みがまかり通る宴席をそっと抜け出して来たんだ。 

 そして、私を中空に認め、私と影と三人で飲んだんだ。

 悲しい哉、奴はその後宮廷を去った。

 

 それからだよ、私と奴が心を通わしあったのは。

 

 人間ばかりではなく、月にも、感情があるってわかったようなのだ。

 「長安一片の月 万戸きぬたを打つ音」

 私は、中空に掛かるそれではなく、長安の街を覆う月明かりになったのだ。

 

 私は、書斎に戻り、大窓のブラインドをたくし上げて、一杯のコーヒーをあのお月さんにかざして、乾杯の素振りを見せたのです。

 そして、あのサマルカンド人の一句でもって問いかけたのです。

 「月に乗じて 宵 夢に託す」って。

 

 自分の思いを月に乗せて、至るところに届けておくれよって。

 私の心の中に、月からの返答はありませんでした。

 

 「青楼寂寂として空しく明月」と、私は愕然として囁いたのでした。

 

 そして、天空に輝きを放つお月さんを眺望したのです。

 そして、かすかに、お月さんが微笑んだって、私、思うことにしたのです。

 


(4) 雪の降る日に

 

 長靴を履いて、久々に、雪の残る田んぼ道を歩いてきました。

 

 もっと雪が降ってくれれば、キュッキュッと新雪を踏む音も心地よかったのですが、今年の二月の雪は、さほどに降りませんでした。

 

 しかし、気温は相当に低いようです。

 ですから、道端のアスファルトに積もった雪は凍っていて、滑りやすくなっています。

 そこで、転んで骨折なんて洒落にもなりませんから、私、そこは慎重に足を運びました。

 

 そんな天気なので、いつも白菜を収穫する外国人実習生もお休みのようです。

 

 なぜ、久方ぶりに田んぼ道を歩いたのに、そんなことがわかるのかといえば、畑の片隅に、プラケースが並べられ、恐らくはダンボールが置かれているのであろうそこには、青いビニールがかけられていたからです。

 昨日は、この畑に大勢の外国人実習生たちが作業をしていたに違いないのです。

 

 これだけ寒ければ、白菜は売れます。あたたかい鍋料理に白菜は欠かせませんから。

 

 私は、滑りやすいアスファルトから畦の方へと足を踏み入れました。

 今日は長靴です。

 多少の汚れなど気にする必要はありません。

 畦の雪は凍っていませんでした、地熱があるのでしょう。今度は、雪に滑らないようにしなくてはなりません。

 

 そんな風に歩いていますと、雪の降る日というのは、大きな事件が起きているなんてことを、自然思い出したのです。

 私の記憶にあるだけでも、すぐ浮かんでくるものが二、三あります。

 

 二二六事件。

 あの陸軍将校たちの決起です。悲しい哉、彼らは叛逆者となり、銃殺刑に処せられるのです。

 

 桜田門外の変。

 水戸浪士による井伊直弼暗殺事件です。

 直弼は首を刎ねられ、水戸浪士たちも討ち死にしたり、捕縛され斬首されました。

 

 そうそう、忠臣蔵を忘れてはなりません。

 あの討ち入りの日も雪でした。雪の積もった江戸の町を隊列を組んで歩く映画の名場面を思い出します。

 その彼らもまた切腹となりました。

 

 そして、もう一つ、私には一つの事件が雪の日になされていることの記憶があるのです。

 

 私の『一門』という作品を書くために念入りに調べたことがあるそれは事件です。

 実朝の右大臣就任の祝賀の折のことでした。

 その日は二尺の雪が降り積もる日でした。一尺がおよそ六十センチですから、相当な積雪です。八幡宮での拝賀を終えた実朝に向かって、親の仇と斬りつけてきたのは甥の公暁でした。

 実朝は首を刎ねられます。

 そして、程なく、公暁も追手に斬られるのです。

 しかし、歴史は、実朝の首のありかを未だ知らずにいるのです。

 

 公暁は実朝の首をどこに隠したのか、そんなことを私は畦の中で、また、思い起こしたのです

 

 雪は、ことを起こすものたちからすれば、隠れ蓑になります。

 しかし、よくよく考えてみますと、あの将校たちが、あるいは水戸浪士、それに大石内蔵助も公暁も、雪の日を待って、ことを起こしたという話は聞いていません。

 

 それに、そのほかの歴史的事件がいつも雪の日に起こっていたわけではありません。

 雪の日以外にも大事件は起こっているのです。

 

 ですから、畦の途中で、そう思ったのは思ったのですが、私の結論としては、たまたま、その日が、雪に当たっていたというに過ぎないとなり、私の脳裏から、この件は淡雪のごとく消え去っていったのです。

 

 まもなく、家に着くという頃、一旦はやんでいた雪がまた降ってきました。

 空を見上げると、薄灰色の空から、細かい雪がハラハラと落ちてきています。

 

 そうだ、あの日も、そうだった、と私思い起こしたのです。

 

 生徒たちとグラウンドに出て、自分たちの校舎がまるでおもちゃのように揺れる様をみながら、私たちのグラウンドに雪が降ってきたのを。

 

 切なかったなって、思い起こしたのです。

 

 雪は、決して、事件や災害を誘発はしない、でも、人間の感情に底知れぬ怖さ、いたたまれない不安を与えるものであると、そう思ったのです。

 

 そうだとするなら、あの雪中の、歴史上の者たちは、きっと底知れぬ何かを感じとったに違いないと、私、雪降る門のそばで、そう思ったのです。



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