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わたしを描く女 #4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしを描く女

散文

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

 Διόνυσο, Ζαγρεύς 

デュオニソス、ザグレウス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リビングに戻ってきた葉は服を着て、いつものように黒ずくめの格好で、心も、意識も、ましてや性感など一切持ち合わせてはいないとでも言いたげな眼差しを曝した。日が、静かに暮れ始めて、西の空は破滅しているはずだった。日没の、あざやかな破滅。夕暮れ。

窓から見える北向きのルーフバルコニーのその先の、空の昏んで蒼い空のいっぱいに、西の空のその色彩の名残りがかすかに、暗示されていたから。

葉は、私たちの正面のソファにすわった。ソファの隅に放り棄てられていたスケッチブックを取って、はぐる。何も描いてはいない、無地のページを見つめ、指先にやわらかくなぜた。描くみたいよ。

愛が、耳もとにつぶやいた。愛の体が匂った。首をよじって、私の首筋にあやうくその唇をふれさせそうになって仕舞いながら、そして、愛は意味の分からない恥じらいを曝し、一瞬戸惑い、抜かれようとした指先を押し留める。ねぇ、

「だめ。」

待って。つぶやく。つかまれた手の甲は、彼女の手のひらの質感に倦んだ。やや汗ばんだ、その触感に。そのまま、指をもう一度ふかく侵入させて、息遣い、「まだ、だめ。」言った。

「なんで。」

「まだ、終ってない。」

「いつ、終るの?」死んだら、と。ややあって愛が唇につぶやき、ちいさく、笑った。「わたしが死んだら、終らせてあげる。」

ゆっくりと、抜かれていく指先に、そして愛は抗わなかった。そのままの姿勢で、眼の前に立ち上がった私を愛は見惚れた。呆然としてかすかに開かれた唇が、なにか言いそうになって、そのまま、しかし、愛は諦めた。自分のものである美しい男に見惚れながら、彼女はその男を自分のものにして仕舞った自分に見惚れていた。

眼の前に立った私に、葉は指示を書き出さなかった。画用紙をなぜる指先を見つめたままに、美しい女。匂うばかりの、そして、彼女が実際に漂わせた、ただなまめかしいだけの芳香。匂い。葉が、不意に眼を上げて、初めて私に気付いた表情を曝した。私を見つめたままに、ソファーに鉛筆をまさぐった指先が、やがて画用紙に乱れた字を書いた。

《またひろける》

彼女の目の前で、股を広げてやった。《もと》と、その指示に、もっと股を広げて、

《うちまた》

内股になった私は、困難なバランスによたつく。もはや、

《つまさきたつ》

愛は声さえ立てずに、私を見ていた。葉が、

《うてはんたいまける》

腕をひん曲げながら背中から上に無理やり、伸ばした

《かおてのひらふさく》

腕の苦痛にゆがんだ私の顔を見て

《てのひらさかさま》

その鼻先に、いつか

《つまさきたてとまる》

隠しようもなく屹立したそれに息を

《ゆひくわえる》

かけた。捻じ曲がったひじが

《あこつきたす》

筋に噛み付くような痛みだけを残して、

《せなかまける》

痛み。あまりにもあざやかな

《のけそる》

充血。興奮など、してはいない。

《ひいいいいん》

なにも。なにも、欲望など

《こしつきだす》

感じることさえ出来ないにもかかわらず、

《まえつきたす》

明らかに私のそれは、

《ひいいいいん》

押さえようもなく飢えて

《ゆひまける》

曝される、鼻先のそれに葉は

《ひいいする》

眼もくれない。無理やり

《ゆひのといれる》

くわえ込んだ指の味を

《くひはんたいまける》

舌が咬む。味覚。

《かおはんたい》

自分の指の、その

《のけそる》

必死に顔をつかんで

《いいいいいいとした》

しがみつこうとした小指。もはや

《したるくし》

眼さえ開けられずに、

《のひる》

肉体の残骸。

《かとる》

すでに、

《るらる》

残骸でしかない。

私の肉体など。

筋肉と筋の限界近くまで反対側にのけぞらせた、ただ肉体を苛むことしか目的にしていないかのようなポーズに、私の身体はゆらいで倒れて仕舞いそうになり、必死に力んで持ち堪えるその力みがさらに鮮明な苦痛を上げた。生きながら、すべてを健常にたもたれたままに、私は自分の肉体が切り刻まれていることを実感した。それは事実だった。いわば、私は汚物として解体されていた。女たちの眼差しの先で。腐肉の処理。あるいは、それ以下の穢れものの破壊処理。

残骸。肉体の、切り刻まれ噛み千切られて荒らされ、棄てられた無残なくずの群れが、私が存在している空間に、私自身として散乱する。あまりにも残酷すぎる気がした。言葉もなく、眼差しはせめてもの救いを乞うた。

容赦のない葉は、ただ、黙って私に上眼の眼差しをくれているに違いなかった。私の眼には見えなかった。耳に、鉛筆の音が聞こえた。膝の上に置かれたそれに、かさねて描き乱されるだけのその文字の読解など、私にはもう不可能だった。構いもせずに、誰の眼にもふれ獲ない指示を描き続ける葉に、私はただ純粋な冷酷をだけ感じた。むしろ、私を殺して欲しかった。そればかりか、完全に破滅させて欲しかった。

最初、葉に私を描くことをそそのかしたのは愛だった。リビングの真ん中に立たせた私を指差して、愛がスケッチブックをとらせた。かぁ、く。

いい?

言う。

「か、く。」

葉の顔の正面に自分の顔を接近させて、そして、葉は姉の顔など見てもいなかった。葉の眼差しは、姉を通り越して、私を見つめていた。ずっと。表情もなく、その、顔にただ開けられただけに過ぎない両眼。そこには、見事なまでに何の知性もない。

葉は、でくのぼうの、出来損ないの肉片が、偶然形成した美しい女体の造形物にすぎなかった。彼女の崩壊は、ただ、眼に無残だった。

葉の眼差しが、そもそも私をひとつの人格として認識しているのかさえ、私は不安だった。むしろ、彼女が捉えた眼差しの中で、背後の壁も、床の絨毯の一切差異もなく、あるいはその固有性も獲得されず、分離されさえせずに、つながった同じひとつのものに見えている、そんな容赦もない実感があった。私は、単なる物質にすぎない。そして、それは間違いではない。そこに存在する、ある物質以外のものでは在り獲無いのだから。

むしろ私は葉の認識のあまりに整然とした正しさに対して、自分が自分であってそれ以外ではない私の認識そのもののほうが、為すすべもないほどに狂って、倒錯し、転倒されていた認識にすぎない気がした。私は、惨めな私を哀れむしかなかった。

愛は、諦めたようにソファに身を投げ出した。突っ立ったまま、葉は私の正面で、私、あるいは、視界を占領する、彼女に見えているものをだけ見つめていた。愛はなにも言わなかった。ただ、葉の後姿を見つめていた。どこかで、茫然としながら。

ややあって、不意に、葉が文字を書き出したとき、私は想わず声を立てて笑った。なにがおかしいわけでもなくて、笑ってやるしか、葉の行動に対する反応のすべがなかったのだった。

葉は、私を見つめたまま、鉛筆を走らせる。その手が停止して何秒か、私はその秒数を数えた。いきなり向けられた画用紙には、《ひれふす》とだけ、描いてあった。なんて?

言った。愛が、かすかに右の眉を持ち上げて。

「ひれ伏す

沈黙し、愛は私を見つめ、そして、声を立てて笑った。いい。それ。

「いい。私も見たい。」

乱れる。息が。

愛の息遣いが、笑い声に。

愛が立ち上がって、鼻息をでたらめに乱しながら、私の頬にふれた。「ね。」

いいでしょ?

「ね、ひざまづいて。」私は鼻で笑って、愛に、あるいは葉に従う。

 

気付く。                                                                                                

やがて、自分が、そして、そこに生きていることに気付いた。不意に。私は眼を開けていた。暗やみがあった。何も見えず、そして、私は、それがすでに日が沈んで仕舞ったことの、単なる必然に過ぎないことに気付いた。愛たちのペントハウス、そのリビングの中だった。背中に絨毯の触感があった。ややあって、傷めたに違いない筋肉と、筋と、そして頭の中に重い、痛みになる以前のやわらかく、不快な感覚が巣食っていた。何が、いま起きているのか、あるいは何がかつて起きたのか、私には理解できなかった。起き上がる事は億劫だった。首だけよじった先に、愛が素肌を曝したそのままに寝付いていた。仰向けに、その肌を曝したままに、のけぞるようにして向こうに首を曲げた彼女は、すでに死んで仕舞った気がした。だれかが彼女を殺したに違いなかった。それは、葉しかいなかった。眼差しは、すでに、私が静かな寝息に波打つ愛の腹部を捉えていたことを、意識の向こうに認識していた。愛は寝ていた。

腰骨にも、足の先に、その骨の中にも、至るところに私の身体は、痛みに近い重い不快感を、かすかに、鮮明に息づかせていた。筋と筋肉が発熱していた。はっきりと、自分の体が、ある惨状を曝している実感があった。「気付いた?」

声。

葉の。

私はそれを聴く。葉。美しい、ただ、愛おしい女。「ね?」

生きてる?

言って、鼻にだけ、ちいさな笑い声を、ほんの一秒だけ葉は立てた。ささやくような。そして、ほんとうにささやかれる、その口の中だけに鳴る葉の声。耳の中に、その声がじかにふれていた。「知ってる?」

気絶しちゃったの。あんた。

葉が、声を立てて笑った。声を忍ばせながら。首を上げようとした私は、その力んだ瞬間に首を激痛に襲わせ、絨毯越しに、後頭部を打ちつけられた床が鈍い音を立てる。

痛み。

一瞬だけ、私の脱力した足の向こうの翳りに、ソファに葉がすわっているのを、私の眼差しは確認していた。笑っちゃった。

わたし。いきなり、「だって、ね。

笑っちゃう。だって、

「どーんって。」ね?「どーんって、後ろ向きに倒れるの。まじで。笑っちゃう。」

ささやかれる。その声に私は

「やばかった」いきなり、

耳を澄ます。

だって「だって、ね?」

沈黙に、わずかに色をそえただけの微弱音に、私は

「いきなりだよ」どーんっ、

耳を

どっ、

澄まして、

ぉおー……んっ、

そして

どーんっ、「て。ね?」

聴く。

「びっくりしちゃった。」

葉の声。

ほんと、もう。「…………ね?」

葉が、立ちあがったことにはその気配で気付いた。そして、耳が聴き取る、やわらかな衣擦れの音。葉の。

空間の暗さに眼が馴れて、やがて瞳がものの輪郭を次第に、克明に刻み始めた。なにもかも、馴れて仕舞えば見え始めて仕舞う。たとえ、照明など一切つけられない暗がりの中でも。驚くほどの明るさを室内は持っていた。単なる、闇にすぎないその空間は。窓の向こうから差し込む夜の光源が、なにも隠すことなく、隠そうとさえせずに、むしろ、すべてをさらけ出す。

くっきりと。

無造作に。ふしだらなほどに。

「けが、した?」葉が、私の頭の先にしゃがみこんで、覗き込まれたさかさまの顔が、皮膚にかすかな重力の存在を感じさせた。葉の体臭が、その、夥しい髪の毛の匂いとともに、匂った。どうしようもなく「だいじょぶ?」懐かしい。

死んでない?

葉は笑う。私はただ、そのやさしい音色の、情のない笑い声を聴き、彼女を見つめた。垂れ堕ちた髪の毛が、私の顔にじかに触れて、むせかりそうなほどに匂い立つ。「知ってる?」

なにを?と、私が頭の中でつぶやいた事は、葉は気付いたに違いない。「おしっこ、もらしっちゃったの」声。

葉の、笑い声。

「失心した人ってさ、」ね。「みんなそうなの?」みんな、なんか、ね?「なんか、」ほら、「いきなり、ね?」ん、「じょーって。」んじょーっ「いきなり。」わらう。なんか、「いっぱいだしちゃうの。」ごめん、ね?「びじょびじょびじょって。」なんか、「もう、」びじょびじょびじょびじょぉーっ「びっくりしちゃった。」笑っちゃうの。なんか、「そんなものなの?」

知ってた?

ふれた事もない、葉の肌の質感の記憶が、体中の皮膚の表面にいつか蘇った。指先で、私にふれさえせずに、葉はただ垂らされた髪の毛の先で無造作に私をくすぐる。葉が笑って仕舞うたびに、それらはその体ごと理不尽にふるえて。「お姉ちゃん、ね。」

お姉ちゃん、「なんか、ね?」よころんで始末してた。

ん?」好きなのかな?そういうの。「バケツとか持ってきて」ね?「かのじょ気取り的な?」なんか、「馴れてるの。」ほんと、「カーペット」まじ。「掃除したりして。」なんか、ね?「あんたの」さ、ね?「からだ、」んー、「拭いて。きれいに。」きれーに。すごーく。「心、」すっごーく。「込めまくっちゃって。」まじ。「笑う。」なんか、「私で馴れてたのかな?」ごめん、「そーゆーの」んー「子供のとき。」もうしわけないけど、知ってる?」ね?「よく」なんか、「漏らしてたから。」わらう。「わたし」まじ、「いきなり。」わらう。「じゃーって。」らしいよ。「やばい。」

言った。

「いまのあんた、なんか、もはや単なる家畜以下。」

笑う。

「ごみだね。」

せめて、と、私は想っていた。葉の頬にでも口付けさえ出来れば。それだけで想いなど果たし獲たに等しい気がした。無意味に私を見つめるだけの葉に、そんな恩寵を与える想い付きなど在り獲るはずもなく、その、私の渇望の実現はいかにしても不可能だった。

「ちょっと、休憩、ね?」

葉がひとり私に話しかけ、「もっと、ね。」

笑い、

「追い詰めてやりたいけど」ぼっろぼろに。

聴く。私は。

「むっちゃくちゃに。けど、

その声。

休憩。」

声。耳にふれた、愛おしさしか感じさせない声。

葉は、立ちあがってリビングから出て行った。

 

明るい暗やみの中で、私が曝されたのは単なるむき出しの孤独だった。その正体など分かっている。葉の不在だった。それ以外には理由などなかった。筋肉に、ゆっくりと力を入れる。たかが身を起こすという行為に、どれだけ全身の筋肉を、繊細に酷使していたのかを、体の細部に走るさまざまな痛みが容赦なく自覚させた。ようやく両肘を突いただけの、その姿勢でさえも。いつか、腹筋を痛みが発熱させていた。喉の奥だけで、低い濁音でうなりさえしながら、私はようやく座り込む。息遣う。痛みに体が慣れていく。あるいは、麻痺していく。立ち上がろうとしてよろめいて、よろめいた力みが鮮明な痛みに体を引き攣らせる。失心した記憶などない。どれだけ、あの姿勢を無理やり維持していたのかもまったく記憶になくて、あるいは姿勢を維持して立ちながら、そのまますでに意識など飛ばして仕舞っていたのかもしれなかった。

私は葉をさがした。どこにいるかの見当はついていた。あのアトリエか、あるいは、彼女の部屋か。引き攣る痛みを忘れようとしない肉体が、無様で不用意な緊張とともに、新しい痛みを筋肉に眼醒めさせる。うめく。ののしる。歯を咬みしめる。顎がわななく。リビングの外に出ると、彼女の居場所はすぐに知れる。照明の消された廊下の突き当たりに、完全に開かれて仕舞ったドアの、ひとつの部屋の中からだけ光があふれていた。葉。そこは、葉の寝室のある場所だった。

壁にかるく手を添えながら、廊下をゆっくりと歩いて、腕が震えた。入り口の木枠に凭れると、その花だらけの部屋の中の、窓際のベッドに葉が横たわっていた。仰向けの葉は、しずかな寝息を立てて、彼女は寝ているのだった。私は、彼女の周囲に群がった花々が立てる匂いに倦み、そして葉が鼻にたてた聴き取れはしない寝息、その、眼差しが錯覚してして仕舞ったにすぎない架空の音響に違いない微弱音を、聞いた。

私は見つめた。ただ、美しいことだけ曝して、息遣う彼女を。そっと近づいて、ベッドの隅に腰掛けて、眼が映し出すその姿のすべてを歎かわしいまでにやさしくいつくしみながら、葉の形態を眼差しは確認する。

結局のところ、いわゆる何人なのだろう。さまざまな要素が入り混じりすぎてあてどなく、ただ抽象的な美しさをでもかたちづくるしかすべがなかったような、そんな稀なほどに美しい存在が目の前に曝されて、濃すぎるほどに濃い灼けた褐色が、色づいて肌に息づく。そらされた眼差しの先に、すべて曝して見せたときにもその全身は、同じ色彩に灼かれていたに違いない。だから、それは彼女の肌の地の色彩なのかもしれない。重力にやわらかく押しつぶされた流線型が、黒一色のスウェット地の長袖の中に、なめらかな流線型を暗示していた。上下する、腹部の波立ちに、彼女の生きてあることを眼差しはひとりで確認した。目の前に廃墟が拡がった。壮大な、最期の風景。

崩れた巨大なビルが斜めに、そして空が向こうにまですべて白濁して、色彩のあざやかさの不在を曝し、ただ、もろもろの事象は沈黙した。にもかかわらず、生き物の気配など存在しない破滅の風景とは言獲ない。

瓦礫の山の散乱の、いたるところをでたらめにを食い破って、さまざまな形態の植物がもはや無造作に繁殖していたのだから。

あるいは、まさに命のあふれかえった、むしろ生き生きとした風景だというべきなのかもしれなかった。無慈悲なまでの命の楽園。

そこに棲息する、生き物たちの過酷にして至上の地。いずれにしても、眼差しのうちにだけは、そこはすべてが破滅した廃墟とは言い獲た。

少年が植えてまわるブーゲンビリアの樹木が、苗木のまま、ゆっくりとは生長しているはずの、その、あまりに緩慢すぎる発育を、あまりにも休息に時間を消費する眼差しは決して捕らえる事ができない。

時間の感覚の絶対的な差異が、私からその見えているはずのものの明示を奪う。いまだかつて見た事のないその少年が、それでも彼が少年なのだと気付いて仕舞うのは、彼が少年であるからにすぎない。

私はもはや死んでいくしかない。

そんな事は知ってる。少年は死にかけの私になど見向きもしない。その、しゃがみこんだ少年の後姿の向こうに、剝き出しの鉄筋を何本も曝した、瓦礫の山が風化の、ながいながい時間を自分勝手にむさぼって、植物の繁殖に食い荒らされていることにも気付かずに、さらにその先に、半分でへし折れた高層ビルと、それに寄り添って傾いた何棟かのビル群が、あるいは鳥。

飛ぶ。

遠くの空の、白濁をやさしい逆光にして、無数のそれらは色彩の中の翳りとして舞った。空その光の只中を。

まともな群れをさえ成さずに、目的もなく。

見たこともない飛び方だった。

あるいは、と、想う。目の前に存在した風景が、地球のそれである必然などなく、あるいは、この宇宙の中のどこかのそれである必然性さえもない。だれもまだ眼に見たことものあるわけではない無際限なまでに無数の、たとえばブラックホールの中心に存在しなければならなかった、なにもかもが無限の特異点の中に、無際限に存在しなければならない宇宙のどこかの、もはやどことも特定できもしないどこかで、いつか見たあるいは、未来と言えば言獲たのかもしれない時間のなかに、過去と言えば言獲たのかもしれない時間のどこかに、いつか見ることになるのだったその記憶を、なまなましくただ眼差しは捉えるしかない。

羽撃く鳥。それら、滅びの世界のなかに繁殖する逆光の翳り。生き生きと、そこに生存した鳥らの営みの散乱。

翳る花。

ブーゲンビリアが日差しの中に、繊細な翳りをそのあざやかな色彩の上に撒き散らして這わせた無数の花々を咲き乱れさせるよりもさきに、少年は死んで仕舞うに違いない。私は無際限にすでに生まれ変わり、なんどもなんども生まれ変わり、魂。

永遠不滅の、無限でしかいられない魂が存在し続けるしかないそのあまりの無意味さに私は、気が遠くなる気がして、見い出され続けていた葉の唇。

眼差しは、美しい、無意識にたぶらかすかすようなその繊細な唇の造型に、そして伸ばされた私の指先がそれにふれようとした瞬間に、「死んじゃいそう?」

葉は、まぶたさえ開かずに、ささやいた。

空中に停滞した指先は、憧れた唇の至近距離にただ、絶望していた。

葉の声には、感情などなにもない。ただ、ささやき、つぶやかれた、耳にふれるだけの、音。音声。音響。

つまりは、ささやき。「ね?」在りはしない。

愛も、軽蔑も、憎しみ、嫌悪も、執着も、なにも。ただ、空間の至近距離に響くだけ、そして、その背後に暗示されるべきなにものをも感じさせない薄っぺらい音響を、私は、「ほしすぎて」聴く。

耳を澄ませて。

「死んじゃいそうなんでしょ?気が狂いそう?」いいよ。「狂っちゃって。いいよ。」ね?

かすかに、その声が笑んだ。ほんのわずかにだけ。もう、

「わたしのこと、欲しくて。」さ。ね?「発狂しちゃいそう。」でしょ。そうなるしか、」ごめんね。「もう、ないの。」

唇の至近距離に停滞した指先に、葉のかすかな息がかかり続けていた。唇が立てる、その、そして感じ取られた息の温度に、指先は戸惑う。

指先はもはや、恥じらいさえ曝しながら、知ってる?

葉が言った。

「気絶しちゃう前、いっちゃったの。」ね?「立ったまま、気絶しちゃう前。ぴって。」ね、「ぴ、ぴって。ね?知らないでしょ。思いっきり、かかった。わたし。笑っちゃうよね。なんか。で、そのまま立ったまま気絶してて、ちょっとして、びびぃーって痙攣してばたんって。」わらう。なんか、「いきなり。」わらう。「ばかっぽいじゃん。なんか。想わない?こんなに愛してて、好きで好きでさ、ね?結果、するのって、あの、ぴっ、だよ?」どう?「結論、ぴっ。」ばか?「笑う。」結局、ね?」ぴ、ぴっ、じゃん?「肉体なんか、所詮、さ。結局はなんでもないのに。それを生み出していくの。いつか途絶えちゃうのに、絶滅しちゃうのに、もう、ね。自己目的化しちゃってさ、で、ぴって。」ほら、「所詮、できることってそれだけだよ。こんなにね?「魂は永遠なのに。むちゃくちゃなくらい、ただ、」さ。「永遠なのに。」狂ってる。

「欲しい?」

眼を開いた、葉が言った。私を見つめて。

「めまいしちゃいそうなほど欲しいんでしょ?」わたしが。

鼻に笑い声を、短く立てた葉を、私はただいつくしんで見つめるしかなかった。「なにが欲しいの?ね?」

なにが、欲しいんだろ?

「わかる?自分で。」

声。

ね?」

つぶやかれる、声。

「なにが欲しいの?」

葉の。

「わたしの、何が?」

声。

「欲しいの?永遠に、なんども生まれ変わって、無限に、愛し合ってるのに。すでに」

葉のなににもふれなかった指先は、なんどもその至近距離を彷徨いながら、やがて、私はその指先に自分の唇をふれ、確認して、私が葉に曝し続けたのは意味もない微笑み。

表情のない彼女の眼差しのなかに、微笑み続ける私を曝す。

私たちの眼差しが、絶望している。そんな気がした。

 

零一が単純な日本人であるはずもなかった。それはひとめ見れば分かる。なぜか、それが人種的な矜持なのだと言いたげなほどに褐色の肌を曝して、どんなに洗ってもおちるわけでもないその執拗で宿命的な色彩には、にもかかわらず、人工的にサロンで灼いたのとは違う、なにか淡い軽さがあった。例えば木の葉が、あたりまえの、大気の中に踊りながら気ままに散ったような軽さ。東アジア系特有の、抽象的な人間の顔の彫刻をいちいちやすりがけしてのっぺりさせたような切れ長の顔立ちにはありえない、本質的な堀りの深さがあって、その、インド系とも欧米系とも違う、骨まで穿ちすぎないはしない浅はかな堀りは、零一にどこか稀なまでの固有性を与えた。父親はインドネシア人だった。

彼はインドネシアの実業家が日本人の妻に産ませた男だったが、零一はその物心ついてからの大半を日本で過ごした。それは父親の意向だった。理由はただ一つだった。インドネシアで、日本が教育がいいことで有名だったからだった。それを聴いたとき、私は声を立てて笑った。はっきりと軽蔑的な笑い声。いじめと暴力。嘲笑と諧謔。愚劣と醜悪。そして、零一は言った。みんな、笑うそして、零一は笑い、「でも、ね?」そういうことになってるんだよ。

零一は、あきらかに稀な美しさを誇っていたから、いじめにあうわけでもなかった。自分の人種的ななにかに抗ったわけでもなかった。両親に反抗したわけでもなく、社会制度に不満があったわけでもない。ただ、彼は異分子にしかなれなかった。まるで単なる悪癖のように暴力と、違法行為に明け暮れた。資産家の父親は絶望して、彼を見放した。父は妹の方に未来を託した。妹は《日本人のように》おとなしく、謙虚だった。母親は歎くしかなかった。悪いのは日本人による人種差別のせいだった。そうするよりほかはなかった。零一は、結局は、歌舞伎町に流れ着くしかなかった。

資金援助さえすでに絶たれていた。それは、何ほどの事でもなかった。零一は、彼が女にそれを赦して遣りさえすれば、女などたやすく彼の家畜に成り下がることくらい知っていた。家畜として、主人を養わせていただく恩寵にあずかる光栄を、彼はただ赦してやりさえすればいいのだった。ね。

オープン間もない慶輔の店のフロアの真ん中ですれ違いざまに、零一はそのとき、私の手首をつかんだ。「聴きたい。」

「なに?」

「なんで、俺のこと、奪ったの?」

唐突に、真顔で言った零一に、私は声を立てて笑った。冗談でもなんでもなく、縋るでも乞うでもなくて、出来した、空隙を穿ったような、ただただ不思議な現象の存在の秘密を無心に知りたいというだけの、疑問符以外になにもない空っぽの表情を、零一は無造作に曝していた。それは私の眼差しに、可愛らしくさえ想われた。

店の中は混雑していた。だれもがそう想っていたように、慶輔は成功しようとしていた。そうなる以外にはなかった。慶輔はそうなるべき人間だった。何年続くか分からない泡だっただけの成功にすぎなかったにしても。シャンパンが抜かれて、女の嬌声、酒にか、薬にか、男にか、酔いつぶれかけた声が四方に立った。

知らない。」

私は言った。不意に、私は零一の頬に口付け、耳たぶにかるくキスをくれた。正面の席に座っていた女と目が合った。キャバクラの女だった。希美哉の客だった。その瞬間に、希美哉にしなだれかかった女が私に発情したことに気付いた。ねぇ。

わたしのものになって。零一はその答えを許さなかった。ねぇ。

彼はなじるように、私にあなたのものにして。

縋った。零一は、眼差しにだけ、だだをこねてみせて。

その明け方、八時を回ったころに、道玄坂の部屋に来た零一は、シャワーを浴びている慶輔の、シャワールームの音に耳を立てた。「ケイさん?」

二つあるそれぞれの部屋に、それぞれにタイル張りのユニットバスがついていた。むかしの高級マンションの作り方だった。部屋に入ってきたばかりの零一はジャケットを放り投げて、それがソファにかかりきらずに一瞬の、たるんだ停滞の後に衣擦れのやわらかな、なぜか私を悲しくさせた音を立てて床に落ちる。見るも無様な布の塊になって仕舞ったジャケットのかたちを、私は見るでもなく見ていた。

私は先にシャワーを浴びて、髪を拭き終わったところだった。私が肩からぶら下げていたバスタオルを剥ぎ取ると、零一は不満げに私を見つめ、その指先で私の乳首のかたちをなぞった。

「脱いじゃえよ」

私は言った。

「どうせ脱ぐんでしょ。」笑い、笑わない零一の眼差しを見た。彼を抱くのは簡単だった。スタッフに紹介されて、店で初めて会った零一には、とりたててなんという印象もなかった。二人で、ある資産家らしいだれかの娘だかなんだかの、二十代半ばの女とその連れの相手をしてやった明け方の早い時間に、風鈴会館の一階の喫茶店で一瞬だけ時間を潰したときに、朝焼け。冬の、遅い朝焼けが歌舞伎町のビルの濫立の向こうに見えた。最初にトイレに立った零一が、帰ってきたすれ違いに、なにかの意味があったわけでもなくて、私は零一のみぞおちにふれた。「待って。」言った。

え?

と、その、零一の眼差しと唇の先だけの表情がかたちを造りきる前に、私は彼の唇をかるく奪って、そのまま、トイレに行った。

零一は、私たちのだれに対しても無口な男だった。敵意があるわけではなかった。単に話さないのだった。女たちは、彼が沈黙に堕ちれば自分から気を遣って、無理やりにでも零一に話しかけるから、それでなにも問題は無いのだった。零一の仕事といえば、基本的には詰まらなさそうな顔を曝し、ときに、気が向いたときだけ気が向いた話に乗ってやればいいのだった。女たちは彼の不意の気遣いと奉仕との悦びにむせかえった。零一が気まぐれ、それは女たちにとって、なにかの稀なごほうびの恩寵に浴したことを意味した。まさに至上の時だった。そのとき、女たちが曝すのは特権的に選ばれたことの、優越の恍惚じみた眼差しだった。放尿しながら、トイレの便器の前で私は、舞い上がった自分の排泄物の匂いを嗅いだ。

席に帰ったとき、零一は何をするでもなくて、ただ外を見ていた。私がすわるのはいつも、区役所通り沿いの窓際のテーブルだった。ゆるい勾配を刻む土地のせいで、座れば歩道は窓の目線の高さ近くまで隆起していた。

前の席の椅子を引き、眼の前に私が座って、そして彼を見つめ始めても、私の存在など気付きはしない無関心な眼差しのままに、そして零一は沈黙していた。ねぇ。

ややあって零一がようやく言った。

「俺、ホモ、嫌いなんだけど。」

その言葉に、沈黙が崩されたことを気付かされた瞬間に、私はかつて、私たちの占有した空間を沈黙が容赦なく覆っていたことに気付いた。かるい目舞いを感じた。私は為すすべもなかった。私を見つめる零一の眼差しには、想いつめた色も、嫌悪の色も、ましてや憎しみの色もなにもない。無表情とは言獲ない、単に何かが喪失されただけの、どうしようもない空虚な表情を彼は曝した。「なんで?」

「穢いじゃん。」病気だぜ、「あいつら。」

言った瞬間に私は声を立てて笑った。「でも、」

、と、零一が私のその声を聴いた。

「好きでしょ?」

私が彼を見つめ続ける眼差しを、零一は直視して離さない。「俺のこと。」

一瞬の間の後で、まばたき、一度視線をどこかに流して、獲得されかける。零一の眼差しに、なにかの表情の形のようなものが。そして、それがかたちに堕して仕舞う前に、零一は声を立てて笑うのだった。「そう。」わかんねぇー

「なんで?ねぇ。

まじ、わかんねぇー。てか、「ね?」まじ、あんた狂ってね?

なんか

「好き。」零一が言った。「死ぬほど好き。」

シャワーを浴び終わった慶輔はそのまま肌を曝して、リビングに入ってきた瞬間に、目に留まった零一に彼は一瞬素直にたじろいだが、すぐに気付きもしなかったような顔を作った。私は何も言わなかった。零一が私の男であることは慶輔も知っていた。私が慶輔の男であることは零一も知っていた。

私は唾棄すべき裏切り者だった。だれにとっても。裏切り者にさせられて仕舞った零一はその一瞬に眼を伏せて、ややあって、ね?

つぶやいた。

「俺も、シャワー、浴びていい?」

私に。

私を見つめた眼差しには、伺うような色はあっても悪びれたふうもなくて、確かに彼は汗くらい流すべきだった。あくまでも自分勝手に色づいた、女たちの無数が振りかけた香水と、体臭と、ファンデーションの臭気と、髪の毛の臭気と、夥しい酒の匂いと自分の肌が、肌に廃棄した汗の匂いに、うす穢れた彼の仕事終わりの体を。

慶輔が笑って、その背後に言った。

「好きにしなよ。」

からだ、べたべたすんだよね。私にだけ答えた零一は笑い、振り返って、慶輔にも笑いかけた。傷付いた同士を慰めるように。

あいつ、あんま、もてあそぶなよ。と、零一がシャワールームに消えた後に、慶輔は言った。

「もてあそんでないよ。」

「くれてやってるだけ?」

慶輔は笑う。「愛して、くれてやってるだけ、って?」

うなずきでもしたら、逆上した慶輔が殴りかかってくる気がした。事実として、そうだったのかそうでなかったのか、私にはわからない。私はむしろ、かすかに微笑んで、慶輔を見つめただけだったから。

「おんなじことだってあいつにとっては。」違う?

私はソファに身を横たえて、見上げた眼差しが見いだした慶輔の姿の先の、午前の空の青さを見た。空は晴れていた。

「あぶないぜ。」

午前の早い時間帯ではあっても、もはやそこに明け方のあのあざやかすぎる破滅の色彩の、その鮮度は一切失われていた。それは、朝という時間の、夜が明けるという行為の滅びた残骸を曝した、無残な老醜か、目も当てられない惨殺死体のようにしか見えはしなかった。

「単純に、」ね?「単純に、さ。」

空はもはや死んでいた。見事なまでに、痕跡さえ残さない絶滅。その事実に悲しみさえ感じる余地もなく、完璧に。

おまえ自身が。」

「なんで?」

慶輔が笑う。

「あいつ、あぶないじゃん。」女を殴った、と言った。ホストの一人が。店を出た後、一緒に行ったクラブで、何が気に入らなかったのかは知らない。零一は連れて行った女が一瞬曝した表情を、いきなり殴りつけたのだった。

フロアの中で。

あまりに唐突だったので、むしろだれも騒ぎ出さなかった。あれ?

え?

と、そう想われた一瞬の空白が、正気を取り戻し始めるうちには、折れ臥したように倒れこんでいた女は立ち上がって、自分になにが起きたのかも分からないままに、ごめん。

ごめんね。ね?言っていた。

無数の眼差しはそれを見ていた。殴られた女を。言葉も、眼の前に曝されたあきらかな暴力に対するかすかな仕草ささえも何もなく。

だいじょうぶ?女が、慈しみ、ただただ心遣う眼差しを曝して零一を見つめたとき、零一は言った。「二度とするんじゃねぇぞ。」唾を、「くそ。」吐き棄てるように。

「ごめん。」

むしろ、女はそれでも零一がなに言ってくれたことに、なぜか感謝して仕舞っていた。それはひとつの鮮明な救済劇だった。そして、それで終わりだった。零一は数分だけ不機嫌さを引きずり、なにかのきっかけが、彼にそれを忘れさせた。一瞬の心の隙間に、入り込んで仕舞ったノイズのような、そんな小さなエピソードとして、人々は忘れて仕舞うしかなかった。なにも起こりはしなかった。

そんな話など、私だって知っていた。ほかにも、いくつもあった。零一にはありふれていた。いちいち覚えてさえいない。でも、

「でもさ。」ね?

「そういうところが好きなんでしょ?」

私が慶輔にそう言うと、

「まさか。

「そういうやばいところが、買いだって、違う?言ってなかったっけ?」

それは事実だった。そして、だれが見ても明らかだった。いつでも理不尽で、突発的で、予想がつかないところ、それがなくなって仕舞えば、零一など笑い話もまともに出来ない顔かたちがいいだけの馬鹿で幼稚なでくのぼうに過ぎなかった。

「言ったっけ?」

言ったじゃん?笑う私の髪を撫でて、私の頬に口付け、慶輔はささやく。確かに。

「言った。ね?確かに。」

でしょ?

「そういうところが好きなの?」

「自分が、でしょ?」

「俺が?」まさか。

シャワールームから、一応は服を着て出て来た零一を、慶輔は手招きした。来なよ。

「こっち、

来なよ。零一は、表情も作らないままに、ただ、澄んで、落ち着いたやさしい眼差しに慶輔を見つめ、彼はおとなしく従った。零一の筋肉立ってなめらかな背筋は、「来て。」微笑みながら私が自分を見ている事は知っている。

おばかな壊し屋くん。」

笑って、慶輔は言い、意味も分からずに、声を立てて笑う私たちに零一は笑んで見せた。え?

「なに?」

何だよね?「え?」

ささやき、その声のふるえを耳に感じながら私は、自分の髪を掻きあげた指先に、その髪の毛の触感を感じ取っていた。それはまだ濡れていた。水気が皮膚を、しかし、したたって肌を濡らして仕舞うというほどではない。

私の傍ら、ソファに座ったままで、慶輔は眼の前の、贅肉もなく筋肉を薄く張らせただけの、瀟洒な、そして、いままでに何人もの人間を壊して来たに違いない、きなくさい俊敏さを湛えたみぞおちに、その指先でふれた。ほしいの?

と、ややあって、不意に驚いた、不審な表情を曝して零一が言って仕舞ったときに、慶輔が言った「お前が、でしょ。」その言葉を、私は聴いていた。

むしろ、用意もないままに耳元につぶやかれたような、そんな、その慶輔のささやき声を。

零一は声を立てて笑っていた。あいかわらず、

「ケイさんって、どエスだよね。」

「言えよ」

なに?

「くださいって。」

して、「くださいって?」と、言って、零一は慶輔の髪を、なぜて仕舞いそうになるが、一瞬ためらった手のひらが、その至近距離に停滞する。

「言って欲しい、ん、ですか?」零一は言った。

「言えよ。」してください。早口に言って、笑い、零一は私を見た。見つめ、その笑顔は私に何の感情も、言葉も伝えきらないままに、やがてそらされた眼差しは慶輔を見つめるのだが、唇。

自分が吐かせた言葉に答えも返してやらないうちに、慶輔はその、息づいたみぞおちの筋肉の名残りに唇をつけた。

零一の指先が、その髪の毛をなぜた。

私は嫉妬した。見つめた。他人の皮膚にふれる唇、あるいは、何の縁もない他人の唇にふれられた彼らの肌を。何の気もなしに、私に視線を投げもしないで、零一の胸元に顔をうずめた慶輔が、後ろ手に伸ばした片手の指先に私の腹部の皮膚をまさぐったときに、私はただ私への留保なき冒涜を感じた。それは唾棄すべき、許してはならない冒涜だった。彼等は私の眼の前で悪辣の限りを尽くす。留保なく慶輔は穢れものに他ならない。零一も。

絶望的なまでに。

唇が、やがてはみぞおちを流れて、その腹部を、そして、そのためにゆっくりと折り曲がっていく慶輔の、しなやかに筋肉を張らせた背中に、背骨のかたちにそっと浮き上がっていく突起のうねりに、私は見惚れる。私の指先が、それをなぜて確認して仕舞いそうになるのを、私は必死に我慢し、耐えて、その触感はすでに私の指先にあざやかに感じられていた。想像、なのか、想起、なのか。妄想とは言い獲ない、あきらかな鮮明さが指先に残っていて、私は耐え難く、私は確かに嫉妬に狂ってさえいるのかもしれなかった。しかし、彼らは所詮、私に焦がれた家畜以下の男たちに過ぎなかった。

私に群がった、単なる家禽たち。私なしでは、生きてさえいけない二匹の子飼いの豚。私が、彼らの家畜であるのと同じように。その事実が、私にとって、ただ皮膚感覚として無残で、留保ない悲惨を認識させた。

零一の浮かべた、絶望しきった表情が何かに耐えていた。不意に溢れ出た感情になのか、容赦なく責めさいなむ皮膚の感覚になのか、いま、して仕舞いそうになってる行為そのものになのか。私はわからなかった。

慶輔の唇が、やがて零一のそれの先端にふれ、当たり前のようにためらいもなく、それは口に含まれるしかなかった。

 

 

 

 

 

 


わたしを描く女 #5

 

 

 

 

 

慶輔の唇がそれをふくんだ瞬間に、私は眼を閉じた。ソファに身を投げ出して横たわり、耳にかさなり合うだけのかすかな音響だけを聴く。眼を閉じた暗やみの中に、閉じられただけにすぎない暗やみを見ていた。音。

耳に聴き取られたそれらのただ、かすかなだけの群れは終になにをも明かさなかった。明示せず、むしろ暗示さえもしないままに、ただその音響そのものの素肌だけを曝して、それは耳にかさなっていた。想起され続ける、一瞬前の音響とさえ頭の中でかさなりあって、それらは連なり、あるいは、決して大音響にもなり獲もせず、密集もされ獲ないままに、私を隙間だらけのままで満たす。

私は聴いていた。

皮膚に温度があった。慶輔が忘れて仕舞ったように落し続けていた指先が私の腹部にそっとふれ続けていて、そこにはそのあざやかすぎる触感が目醒め続けている。それ以外には、だれにもなにもふれられてはいない皮膚が、ふれられてはいない事実にだけ、眼をそらしもせずにみずから覚醒していた。私の腹部は、慶輔の指先に温度を伝えているはずだった。私は倦んだ。

行為に没頭し始める彼らを棄て置いて、私はバルコニーに出た。

ルーフバルコニー、その広い空間の拡がりの、いたるところに理沙の残した鉢植えの花と観葉植物は息づいていて、それらの手入は、毎日、私たちのいない夜の時間に掃除にくる慶輔の妹の仕事だった。私は彼女とまだ逢ったこともなかった。

隆起した土地のてっぺん近くの、高層階の上空の、冴えた空気がたしかに、全身の肌にふれていた。理沙。彼女が育てた花々ではあっても、同じそれにもはや彼女の記憶はなにも残ってはいなかった。彼女の実在さえ、私はすでに疑っていた。彼女とのことが、留保なき現実で、事実でしかなかったことなどだれよりもよく承知していながらも。もはや理沙は、もとから、どこにも存在しはしなかった。記憶が事実との差異をしか意味しないならば、いま、理沙は最初からこの世界に一瞬たりとも生まれ堕ちさえしなかった。

バルコニーの、理沙が飛び降りたあたりの手すり。その手前には、バルコニーに作り付けの巨大な植栽が在って、その白塗りのコンクリートの隙間を私は通り抜ける。その白が日差しに照り返してきらめきの中に自分の色彩を曝す。手すりは蒼白のペンキが塗りなおされていて、その剥げたところが、無造作に下地のグリーンを曝し、その下には、錆びた鉄の赤褐色が陽にあたっていた。

手すりに身を乗り出せば、横のビルの尽きた先に道玄坂が、そして、その街路樹が見えた。手すりを乗り越えて立つ。突風がときに吹き上げる。だれも見上げるものなどはいない。周囲の商業ビルはすべて、その窓を装飾に費やすか、つぶして仕舞ってる。素肌を曝し、なにもかも剝き出しにしていながらも、だれにも剥き出しにされることなく、だれの眼差しにもふれないというその事実に、私が感じたのは容赦もない孤立にすぎなかった。私はあきらかに孤立していた。この場所は孤立し、そして、人々は、あるいは建物、樹木、それらはすべて孤立していた。

見渡した東京の、まさに世界有数の中心部の風景の中に、無残なまでに人々が密集し、そこに息遣い、おびただしい二酸化炭素を吐き出しながら生きていることなど知っている。そして、あまりにも遠すぎて彼等の一人をも見い出さない私の眼差しのなかに、そこは人々の完全に死に絶えた無人の廃墟としてしか映らない。

人々は、都市は、そして樹木さえもが滅びていた。

鳥だけが飛んでいた。空は、彼らのものだった。彼らを従わせ獲るものは、もはや空にも存在しなかった。人々がすべて滅びて仕舞っているのなら、私も滅びているに違いなかった。遁れようもなく、なんども転生を繰り返して在りながら。

永遠の果ての特異点にふれて、時間が燃え尽きた後でも、燃え尽きた後のいつか時間さえもが崩壊した、物質と反物質の完璧な均衡のあらゆる事象の永遠の不在の只中で、いつか不意に、いわば在り獲ない確率の中の決定的ないつかに、目醒めて仕舞ったいわば事故として始まる時と存在の事象のなかに、すぐさま私は目醒めるのに、あるいは、目醒めたのに、違いないのだった。留保なき永遠の中で。

私は永遠だった。

なんども見られた夢の中に、あるいは、いつの間にか唐突に目醒めていた記憶の中に、私が時間におけるいわゆる過去という事象と、未来という事象の、私が経験したそれらのすべてを知っていた事は事実だった。私はすべてを、すでに知っていた。

音が聞こえた。

街が立てた音。しずかに、下方に停滞する、人の、物の、あらゆる音、そして、至近距離に、あるいは至近距離よりも近いむしろ通り過ぎて仕舞った距離の果てた特異な場所に、その音、私を食い散らす音が聞こえた。

そのしずかで、ナイーブで、ナーヴァスな音色が、私を喰う。牙もないくせに、それは、噛み付くことも、咀嚼することも、そもそも私にふれることさえできないくせに、それは、私を喰い散らしていく。

音響。

そのただなかにいるはずのこの街の、ただひたすらに遠いしずかな音響。静謐、と。

その言葉の意味が分かる。

静謐とは、音がないことではなかった。一瞬たりとも沈黙を穿ち、鳴り止むことができない音が、にもかかわらず、しずけさという概念に一致することしかできなかった刹那的な背理の出来の中に、唐突に目醒めるうち棄てられたような感覚。それが、静謐という事態の実体だった。

ただ、その実体が、そのままそこに誰に望まれたわけでもなく無造作に息遣っていた。すべては私に、すべて見い出されていた。さまざまな転生の記憶のうちに。すべては事実として記憶されていた。そして私は、いま、ここに現実としてしか存在してはいなかった。

私は孤立していた。現在過去未来、その、あらゆる事象が体験したのと同じように、まさに、事象そのものとして。片手に手すりをつかんだままに、向こうの空に腕を伸ばす。

腕いっぱいに、突風の風圧がふれる。

それは、もはや部厚い力としてだけその存在を曝す。光が私の皮膚にふれていた。早朝の新鮮さなどを失って、にもかかわらず未だに正午でなどは在り獲ない、淡いというには強烈過ぎる日差しが私の肌にふれていて、私自身にさえ気付かれない速度で、皮膚は日の色に灼かれているのだろうか?細胞は、じかに素手でふれて仕舞った光の温度に、灼き尽されはじめていたのだろうか?自分固有の色彩をさえ喪失、あるいは放棄しながら。

皮膚を形成した、夥しいそれら、分裂と死滅を繰り返す微細な生命体の群れは。振り向けば、背後のすぐ、至近距離に、理沙がいる事は知ってる。いとしい人。

見たこともない少年。色彩のない、昏い翳り。ルーフの床、白塗りのコンクリートの日差しの中に。その、少年らしい残骸の翳りは、静かに血を上方に捲き上げた。

ゆっくりと、速度の概念を嘲笑ったかのような、無様な遅滞を曝しながら。

あざやかに。

ただただ上方へと、空の青の彼方まで尽きることなく、鮮明な血の色彩を、それ。理沙。私を見つめ続けながら、なにをも見てはいない、あるいは、自分がなにも見ていないことさえ知覚できはしないままに。ねぇ。

 

と。

「ねぇ」と言った、その葉は私を見上げて、そのあお向けた体を黒ずくめのスウェットの下に息づかせ、私は彼女に飢えていた。

「知ってる?」

私は葉を愛していた。いまだかつて経験したこともないくらいに。

むかーし。ね?「昔の、

私の魂は、あるいは

「神様、ね?」ん、

肉体は、単純に彼女を

んーギリシャの神様。」

求めていた。

「知ってる?」

それは事実だった。そして

「すべてを想い出すこと。」ね?

彼女がそれを許すとは

すべて「忘れられた、その」

想えなかった。なぜか、

すべてを、「ね?」

その理由など分からない。ただ、

「想い出せば、」そうしたら、

私には彼女が永遠に

「救われるんだって。」

私を

究極的に、「ね?」

拒絶し続けるに違いないと、

「知ってた?」

そうとしか

解脱、とか?」ん、

想えないのだった。すでに

そんな

彼女は私は裏切っていた。

「過去も、未来も、現在も、」ぜんぶ。ぜーんぶ、

私を。私を、

想い出せば。「ん、」

受け入れる前に、

ね?」ってことはさ。

すでに。

「救われてるんだよ。」私たち、と、言って、「私?たち。」ね?笑った。葉は、笑った。

声を、小さく鼻に立てて。

「知ってた?私たちは救われてる。解脱っていうの?輪廻転生の輪の中から、解放されてるの。すでに。いまだに、これからも、ずうっと、生まれ変わって出逢い続けながら、何回も、ね?「愛しあって、憎みあって、許しあって、殺しあってね?」覚えてる?

葉は言った。

なにを?」

「私を殺したときのこと。」

記憶、それは、すでに想い出されていた。むしろ、私の

「四十九歳のとき

手のひらが想い出していた。ただ

「そう、

触感として。あざやかな

「十六歳の」

忘れられないその

お前を?」

事実が手のひらに残していた触感の

「そ。老いさらばえた、穢ったない、あんたが。

事実を。

私が泣いている事は知っていた。涙も流さずに。泣き声も、乱れた息も、荒れた心もなにもなく、曝されるべき表情さえないままに、むしろ空っぽになった心の空虚をただ澄みきらせて仕舞いながら、確かに私は号泣していた。

私は叫んでいた。その時、あの。

その、あの、時、その、あの時、十六歳のその少女を絞殺してしまったとき、私は、そしてそれが葉であることなどすでに知っていた。

彼は叫んだ。歓呼の叫び。

私は射精してた。狂った、狂気、としか言獲ない容赦のない切片に気付かないままふれて仕舞ったその時に、私は。

その後には、絶望しか残りはしなかったことさえ知りながら。

手のひらの中で、私が拉致してしまった少女は死んでいた。なんども私になぶられ、殴りつけられて、原形をとどめない顔を曝して。

歓喜。

私はただ、歓喜の切片に触れていることを自覚していた。あてどもなく、口の中だけにながい顰めた叫び声をあげ続けながら。

ね?」救われたの。

言った。

すでに、永遠に。「私たちは」

葉は。

無際限な未来のすべてをまですでに記憶しているから。」

ルーフバルコニーから帰ってきたとき、窓越しの陽光の斜めの直射の中に、なじるように遣われ、打ち付けるたびにかすかにふるえる零一の尻を見た。立ったまま、彼は腰を使い、慶輔はソファにひじをついて、なぶられるだけの奴隷じみた尻を突き出していた。一瞬、それは私に主客転倒のように想われて、私は想わず微笑んで仕舞うしかない。

その、失笑に近い微笑みが私を、どちらにともなく向けられた嫉妬から救っていた。背後から零一をかるく抱きしめて、私は頬をその後頭部に寄せた。

髪の毛が匂った。髪の毛の、ざらついた触感があった。その頭部はかすかな発熱をおびている気がした。私のそれに、突き動かされる零一の尻がふれていた。汗を含んだ皮膚が匂いを立て、そして少年は振り向かない。

あの、廃墟の中、人々の世界の終焉の風景の中で。

考えてみれば、この形態、人間という形態において、人々がかつて世界、と、そう過剰な想いあがりを含めて呼んだ単なる矮小なる地上に君臨した時代は、ほんの瞬くほどの時間にすぎなかった。膨大なカンブリア期の、あるいはそれに先行した冥王期の、惑星の時間を無慈悲に濫費し続けたかのような時間の広大な拡がりに比べれば。

いまや人々は滅びようとし、そのかつての固有の形態を喪失しかけ、終には完全に失って仕舞う以外に未来はなかった。

いずれにしても人類に未来はなかった。だから、すでに滅んでいるに他ならなかった。わずかなその残党が、その形態を急激に変容させていくさなかにさえあっても。死んだ肉体は、結局はあまりにも膨大すぎて、処理しきれないままに野ざらしになっていた。眼差しが捉えた風景の先の、無際限なまでの荒野の拡がり中に。

人々は、奇形化した生きた体躯を曝しながら、生存者だけの集落に生活していた。例えば少年のように、無意味にブーゲンビリアを埋めて育てたりしながらも。死んで仕舞った人々の欠損した身体は見るに耐えないものだった。もはや比べようもなかった。結局は人間として死んで行った、すでに破滅した人々の、健全で、健常な身体となどは。腐りかけの、あるいは腐りきった、健常な人間種が健常だった頃のその名残りのままに、破滅し滅びた死体の形態となどは。異化した奇形化。あるいは進化。要するに環境適化超人化?あるいは要するに、留保なき単なる奇形種の一気の奇跡的な増大。いずれにしても、人々にはすでにさよならさえ言わないままに、人類とのその決別の時はすぎて仕舞っていたのだった。

白濁した空が、鉛色の夕暮れを曝した。風がかすかに酸化した芳香を運んだ。夜が来る。白濁の空をそのまま昏め、ほのかにその上部からなまぬるい光に照らされた夜が。

体中に苦痛があった。死に瀕した私は、もうすぐ死んで仕舞うはずだった。生き残りたちも、その寿命をゆっくりと消費しながら、結局は、よくわからない。

私たちが生き残ったのか、滅びたのか。

奇形種による新しい、だれもかつて見たこともなかった風景なのか、単なる留保なき破滅の風景なのか。すべては、明るい。

絶望しきり、混乱しきった眼差しのなかで、すべてはただ静謐とし、やさしく、ささやきを無残にかさねるしかなかった、そんな澄み切った清らかな明るさにつつまれてさえ見えて、死んでいく。私は。そして知っていた。いずれにしても、私は転生し、すでに、転生していた。

例えば眼差しの先に、ブーゲンビリアを育て続ける少年として。永遠。

魂の永遠。救われたの。

 

「もうね?

葉が、つぶやく。

ふたたび、眠りに堕ちる前に、

これが、ね。その、風景。救済の、その、風景。

ささやいた。

まどろみの中に。

気が付いたとき、葉は寝息を立てていた。その、最後の言葉の音型をなぞって、唇は未だにかすかに開かれたままに。私は葉を見つめた。見つめ、息を殺しさえして、そして、それ以外に為すすべはなかった。私のそれは救済を求めていた。私の手のひらはそれにふれた。一瞬だけ。それは息遣っていた。それに、あたえるべき救済のすべはなにもなかった。

やがて、立ち上がった私はリビングに戻った。愛が、ソファにうずもれるように膝を抱えて座り、顔を膝に押し付けて、あくまでも、入ってきた私に気づいていないという嘘を、自分につきとうそうとしていた。傍らに寄り添って座り、私は愛の肩を抱いた。

かすかな涼気が、すでに冷気にちかく接近していて、愛はかすかに鳥肌だてていた。髪をなぜた。その頭を。かたくななまでに、愛は顔を上げない。愛は、すべてをすでに諦めていた。例えば、目の前で私が葉と結ばれたとしても、愛はただ受け入れ、赦して仕舞ったに違いなかった。愛はすでに、私がいまだ犯さなかった、これからも犯しはしない罪をまですべて赦しきっていた。もう、とっくに、なんども、繰り返し。不意に、私が声を立てて笑って仕舞った瞬間に、ねぇ。

突然、顔を上げた愛が言った。

「知ってる?」

私を見つめて。

「なんで、人間が人間を愛するのか。」

なんで?

鼻に笑った、私の吐いて仕舞った笑い声交じりの息を、愛は聴き取らない。

「狂気にふれたいから。知ってた?

私の指先が、彼女の頬をなぜる。

「生殖したいだけなら欲望以外必要ないでしょ?育まなきゃならないなら本能と条件反射だけで十分でしょ。でも、「ね?」なんで、「さ。なんで愛なんか存在しちゃったの?たとえ結果的に、でも。愛って、ときに殺戮するでしょ。愛する人さえ、愛してるから、ただそれだけが理由で殺しちゃうでしょ?意味ないじゃない?なんで?」ねぇ?でしょ?」なんで。なきゃ、いけないから。狂わないといけないから。病むとか、そういうんじゃなくて、単純に理不尽に壊れるの。修正もできなくて、手の施しようがなくて、病んでるわけじゃないから、打つてだてさえなくて、不意に壊れるの。破綻しちゃうの。狂っちゃうの。突破しちゃうの。そうしないと、人間って人間じゃいられないの。壊れた瞬間にだけ、人間になれるの。だから、壊れるの。狂気。それに、素手でふれるの。その、突破の瞬間が、愛って、そう呼ばれた一瞬なの。私たちって、壊れて、破滅して、ぼろぼろになって、砕け散って、狂って、もう人間でさえいられなくなった瞬間にだけ、はじめて人間になれたの。見るの」ね?「見たの。」ん、「見えたの。人間、が、見た、その風景を。」ね?

私はややあって、想い出したように愛のまぶたを閉じてやった。両の指先で。やさしく。

愛は抗わなかった。

私は言った。耳元に。ね?

「何が見える?いま。」

「あなたが見える。」

愛は、そう言った。

沈黙。愛の、不意に堕ちた自分勝手な沈黙に、私は付き合ってやった。長い間、そのまま私たちは黙っていた。なにも言うことがなった。もとから、この、愛してもいない女に対してかけるべき言葉など、私は持ち合わせてはいなかった。そのことに改めて、何度目かに気付いた。眼の前で彼女がこの瞬間に血だらけで死んだとしても、所詮は赤の他人にすぎない、取るに足りない石ころ以下の存在に、愛は他ならなかった。

愛と過ごす時間の、すべてはたんなる浪費に過ぎず、記憶に残すべき、あるいは残るべき、なにものを愛は私に刻めはしないのだった。理由はただ、愛がまさに愛であるから。それ以外になかった。愛はすでに知っていた。おそらく、そんな事はすでに、十分すぎるほどに。自分が愛されてなどいないことは。自分の見つめ、見い出した風景のすべてが嘘にしぎないことは。

沈黙しながらも、愛が沈黙などしていないことは知っていた。彼女は言葉をその口に発していないだけだった。饒舌の極みだけが、彼女にあきらかに存在していた。私のすべて、息遣いも、体温も、皮膚の息吹もなにもかも、全身で完全に感じ切って倦み果てて、その心の中に在ってさえ明確な、言葉になどなりえない思考の容赦ない連なりに破滅させられ、危機に堕とされ、破壊され、破裂し獲ないままに飽和しきって、彼女の指先は震えていた。

痙攣するように。その唇さえもが。こまやかに。

やがてその、饒舌な時間を持て余しきったわけでもなくて、愛は言った。殴って。

顔を上げて、私を不意に、想い出したように見つめて、「ねぇ。」

殴って。ささやく。早口に。

「せめて、想いっきり。」壊して。

愛の頭を、私はやさしくなぜた。

立ち上がって、私は上目遣いの彼女を見つめた。

その、皺のよった眉間を。私の眼差しが、そのやわらかで複雑な形態にふれた。その瞬間、私は愛の顔面を殴った。

拳で。容赦なく。

ソファの上に吹っ飛んで、横倒しになった愛が、数秒後れて、うううと、んんんと、ヴ、あるいはヴェ、およびエの、その混ざり合った中間の音声を、鼻に数回、鳴らした。

私は想わず、微笑んだ。曝された愛の、股を広げて手をついた醜態は滑稽で、愛嬌があって、いじらしかった。

鼻骨に生じた苦痛に無様に苦悶した愛はただ、かわいらしいだけだった。

んんん、と、そう言いながらのんきに、呆然として身を起こしかけた愛の側頭を殴る。喉に濁音を散らして、引き攣りながら愛は同じところに倒れる。

そして、なんども。もっと。ずっと、繰り返し。立ち上がりかける愛を、私の拳はもう一度同じ場所になぎ倒す。さまざまな破綻した雑音が愛の喉か、鼻に立った。鮮明な、生き物の息吹として。ときに、頭の先の方から立ったような短い叫び声をあげて。確かに、葉の言うように、私たちは救われて仕舞ったのかも知れなかった。

想い出されて仕舞ったすべての記憶のなかに。ムネーモシュネーの泉。女たち。

マイナスΜαινάδη、デュオニューソスΔιόνυσος に狂った豊満な、豊饒の女たち。破壊し、引き裂き、喰い千切り、八つ裂き、乱れ散らすものたち、彼女ら、オルフェウスὈρφεύς を引き裂いた狂乱の野獣たち。

そして転生するもの、オルフェウス。永遠にその妻を失って、涙しながらただ奏で、言葉を発して歌うしかすべをもたないもの。すでに救済されていた風景。ザグレウスΖαγρεύς。神々に先行した巨いなる存在たち、彼らティターンΤιτάνたちに生きながら破壊されたもの。屠殺され、八つ裂きにされて惨殺されたもの。そして、挙句の果てに喰い散らされたもの。自らの救済のために、更に神々にその心臓をふたたび喰い散らされて、交配られた月の大地が受胎したデュオニューソス、その転生の姿。デュオニューソスの翼の下に惨殺されたオルフェウスの信者たちの救済の神。かつて父親にその母と、兄弟のすべてを惨殺されて発狂した神。デュオニューソス、転生のザグレウス。容赦もない、殺戮の連鎖。救済の風景。

記憶にふれる。

現在、過去、未来、あらゆる存在のさまざまな記憶に。

私はすべてを想い出していた。私は救済されていた。

すでに。

無慈悲なまでに。

鼻血を流していた。鼻水がまざって、垂れ堕ち、顎を濡らした唾液には血が混じる。ぼろぼろに傷付いた口の中の粘膜が、しずかに流して仕舞った血。

上目遣いの、おびえた、縋る眼差しを愛がふるわせて、ただ、愛は私を見つめるしかなかった。

真っ赤に変色した顔が惨劇を曝す。もはや救いようがない。髪をひっつかんで無理やり立ちあがらせると、殴っていない反対側に、発生した内出血がいまだに腫れかけの赤らみとしてその無残な姿を顕し始めていた。その、赤らみを私は殴った。

拳に鮮明な痛みがあった。愛のせいだった。拳の感じる倍以上の痛みを彼女に与え、制裁してやらなければならなかった。制裁すればするほどに、拳は痛みにむせ返り、彼女は自分の罪をいよいよ重罪化した。容赦など一切必要なく、一片の容赦すべき余地さえさなかった。

もっと、と。

愛がそう望んでいる事は知っていた。殴る。空中に、投げ出した愛の体はふらついて、よろめいて、ようやく自分で立った姿勢を維持できそうになった瞬間に、その一瞬、愛の表情は安堵の笑顔を曝しそうになった。私の膝が彼女の体を薙ぎ倒す。ぶつけられた頭が絨毯に鈍い音を立てた。蹴り上げらた尻の肉をふるわせて四肢が痙攣した。愛の喉がながく、低い濁音を吐いた。痛みと恐怖が、その身体から完全に自由を奪っていた。家畜以下の汚物にすぎなかった。そこに存在したのは、人間の残骸ですらなかった。

もっと。私は想った。あざやかで、取り返しのつかない、完璧な破壊を。もっと。赤裸々な破壊、みもふたもない壊滅を。それ、愛が、望み続けているに違いないもの。

壊れていく他人の身体を、私は蹴り上げ続けた。息が荒れた。痛みと疲労が蓄積した。愛こそは私の肉体に対する加害者だった。白眼をむいた愛の身体が、いつか口から嘔吐し、吐寫物は噴き散らされ、咳き込みながらかろうじて、ささやき獲た叫び声は上げられた。不意にのけぞった空中で、愛の肉体が反り返ったままに痙攣した。愛が失心したことには気付いていた。

私に見下ろされた足元で、愛は失神しながらも感じられ続け、無限に反芻されさえして連鎖し、反響する苦痛の響きに倦み果てるのをやめようとはしなかった。

殺したの?」と、その声に振り向いた眼差しの先に、おびえた葉が、ドアの脇に縋りついて立っていた。

葉を、耳にふれる音響のすべてが恐怖させ、嫌悪させていたのだった。その暗い感情の束は、ただ、葉に赤裸々に曝されていた。私を見つめていた。葉の眼差しに、あきらかに私を咎める色彩があった。

「なんで、

声。

「殺しちゃったの?」

ふるえる、その、葉の。

声。低い、なめらかなアルト。私は首を振った。殺してない。

つぶやく。「まだ。

死んでないよ。

葉の眼差しはもはや、深く、ただ、深く、絶望していた。失望し、諦め、歎き、おののき、悔恨に責められて為すすべもなく沈黙する。「なんで、

殺しちゃったの?

「殺してないよ。」

うそ。

私は彼女を殺してはいなかった。彼女はまだ生きていた。事実として、愛は死にはしないのだった、私によっては。そんなことは、葉だって知っていたはずだった。

葉は、姉の死を歎いていた。その歎きには止め処がなかった。駆けよりもせずに葉は、身動きもしない愛の、腹部を乱して息遣う無様な肉体を見つめた。私の体はいつの間にか汗ばんでいた。私の体臭が匂い、私は私のふるった暴力それ自体に、明らかに穢されていた。

窓越しの空の光に、私は瞬いた。

その時、仰向けの私の、上に覆いかぶさったまま私を見つめる慶輔の、その、かすかにカールした髪の毛の乱れた先端の先に光った陽光に、不意にじかにふれた眼は瞬いて、

ね?

言った慶輔にうなずく。彼の話など聴いていなかった。

「悲しいの?」どうしたの?

ささやかれた慶輔の声に私は戸惑って、あわててなにもかも打ち消そうとしながら、結局はなにも言い出し獲もしないままに、私の眼差しが慶輔のうかべた微笑を見つめる、そのままにすべてをまかして仕舞うほかない。剝き出されたままの素肌に彼の体温がふれていた。ふれあった皮膚が、お互いの体温に汗ばんでいた。私は、かならずしも悲しいわけではなかった。知ってる?

想い出したように言った、慶輔のその声にはどこか、いたずらに企まれたような耳ざわりがあった。「なに?」

「零一。

ん?

彼と、彼が関係を持ったのは、あの一度きりだった。すくなくとも、私が知っている限りでは。

「どうしたの?」

ふたりの関係は悪化することもなく、鮮明に、隠しようもなく気付かれたことも気付かれなかったことにされて、あるいは、ふたりに見い出されたことも何も見えもしなかったことにされて、いずれにしても彼らは、そして私たちはただ、平和に戯れあっていた。なに?

「なにか、あったの?

「なん、

なんか。

争いあわないやさしいひそめられた諍いに、いつでも取り巻かれて仕舞っているのは、むしろ愛しあう時間の中での慶輔と私の、私と零一の、その周囲のぐるりの全部だけにほかならなかった。だから、私たちはなにも気付かなかった。ふれれば切り裂かれて仕舞うのかも知れない痛々しさが息吹いて、生起しつづけるなかに私たちは、ふたりの素肌を曝していた。私たちはただ、無際限なまでに愛し合って、留保もない危機に直面していた。眼差しにふれた慶輔のすべて、仕草さの一瞬の明滅さえもが、私に研ぎ澄まされた、角のないやさしい痛みを与えた。そして、慶輔の眼差しの中で、私の存在はまさにそんな痛み以外ではあり獲ていないことにも、私はすでに気付いていた。

「あいつ、女、作ったでしょ。」

不意に耳元に言って、慶輔は笑った。声を立てて。その声に含まれた、かすかで執拗な彼の軽蔑の穢らしさが私を悲しませ、そして、感じ取れないほどにちいさな、はっきりとした、慶輔への暴力衝動の芽生えを、私に感じさせた。

慶輔をなぐり倒して、生まれたことそれ自体を後悔させて遣りたい、そんな、かすかで、どこかナイーブな感情。私は慶輔を見つめながら、声を立てて笑っていた。知ってる。

「あの、やばい女でしょ?

「檜山さんの女」自分自身の笑い声にすこしだけ乱された慶輔の声を聴く。そして、結局は、埋めなければならない、行き場のないいわばどん詰まりの私たちの空間の中に、氾濫した時間を焼き尽くして濫費しおおせて仕舞うためにだけ、ふたたび愛しあい始めるのだった。やさしいだけの、どちらともなく始まる口付けとともに。

零一がその、静華という源氏名の、三十近いキャバクラの女に手を出した事は知っていた。あるいは、正確に言うならば、零一のほうが手を出されたのだった。

女たちは、つまりは私たちに手を出して仕舞いたいがためになけなしの、あるいは有り余った、時には穢い大金を手にその手を差し伸べるのであって、結局のところ先に手を出したあるいは、手を出そうとしていたのは女のほうに違いなかった。例え私たちに手の施しようもなく穢されたとしても。ときに、意図的に私たちのほうからそれを仕掛けて、それをさせて仕舞うにしても。

静華が零一を見初めたのは、彼が店にやってきてすぐだった。慶輔が静華の係りだったから、事の次第は慶輔にも筒抜けだった。店の二人の後輩を連れて久しぶりに店に来た静華に、零一を、慶介があてがったやったその瞬間、眼差しが彼にふれた一秒以下の瞬間にはすでに、静華は零一に恋に堕ちていた。

なんでもかんでも一方的で、年増の、自分に自信だけはあり、No.1の実績とプライドに塗れた、単に押し付けがましいだけの白々しい女の、あてどもない無言の求愛。ね?

わたしが、欲しいんでしょ?

うんざりするような、高級な香水と、

あなただって。

矜持と、

だれもが、そうなの

老いさらばえかけた女の

ね?

体臭。それを眼差しいっぱいに撒き散らして仕舞いながら。もう、ね?

「完全に、ね?

言った。

「零くんって、私の弟。完璧、弟みたいなもんだからさ」ね?「てか、一緒にお風呂入れるけどね、」おちんちん洗ってあげよっか?「馬鹿。」わたし、んー、「なんか、ね?恋愛とか、さ。」ね?「そういうんじゃなくても、なんかあるじゃん?「弟と一緒に癒されちゃう自分、的な?」じゃん?ね?「まじ。」あるじゃん?「から、さ。だから、」んー「ま、好きかな?」ね?

「へー」と、慶輔は言った。静華に、「で、」さ。

「いつ結婚するの?」

空とぼけた真顔の慶輔の言葉が聴こえた瞬間に、あからさまに幸せに嬌声を立てて笑った静華の声を、私は彼らの背中合わせのボックス席で聴いたのだった。

「お前ってさ。」静華は、「ほんと、人の話し聴かないよね?」笑いながら慶輔の肩をたたく。

「今日も来てんだ。静華さん。」私の傍らで、加奈子と名乗ったどこかの会社の社長の馬鹿な娘が言った。「有名なんでしょ?」

「なんで知ってんの?」

「キャバやってたことある。わたし。むかし。」声を立てて笑う私にもたれかかって、「六本木だよ。バカにしてない?美貌じゃん?わたし。」

「売れたの?」

「三日でやめた。」

ねぇ、と、静華が言った。彼女の席に零一が帰ってきた瞬間に。「色ついたの開けてよ。」

また?」零一が声を立てて笑い、「お金なくなっちゃうよ。」わざと媚びて制止すれば、静華はボーイを大声で呼んだ。

「あるよ。お財布のなかで腐りかけてるの。」いいよ。と、零一がボーイを制した。「俺、やだから。」

「嫌い?」

てか、」

「色つき、嫌いじゃないでしょ?」

「俺、お前に必要以上金なんか使わせる気、ないから。」馬鹿、と、ややあって静華は言い、ボーイを手招く。わたしが、飲みたいだけ。ね?

「安いお酒なんか、わたしに飲ませたいの?」安くないから。わたし。ね?

「男の人ってさ」加奈子がね。

ねぇねぇねぇねぇそっと私に「ね。」耳打ちする。「ああいう、年増がいいんだ。」けばくない?あの人。なんか、さ。匂う。じゃっかん、くっさいの。」笑う。

「キィ君から聴いたよ。」

「夕貴?」

「すごーい、売れてんでしょ?あのおばさん。」私は肩をすくめ、お前も、「年増じゃん?」笑う。

加奈子は二十代半ばだった。ひどっ、ね。それ、

「ひどくない?」

「俺から言えば、年増だって。」事実、私はそのとき、二十一歳になったばかりだったから。

ドン・ぺリニオンのロゼは、いちいち零一が持ってきてやった。わざと派手に、下品な音を立てて抜いてやり、いい音ね。やっぱ。その、静華の声が空間に充満した人々の声の騒音の隙間に、聴こえた。

十代から歌舞伎町で働いて、その店のNo.1になり、その店で記録的に荒稼ぎし、二十代の半ばの頃、六本木のクラブで二年くらい働いていたらしかった。そこでは、静華はまったく通用しなかった。街の流儀が彼女にあわなかったのか、単に、そんなレヴェルの女ではなかったのか。その頃はまだ、やくざと貧乏人の歌舞伎町、社長の六本木、会長の銀座と言われていた。ミドル・クラスへの挑戦に失敗した静華は歌舞伎町に帰ってきた。帰ってくれば、そこはやっぱり彼女の町だった。ふたたびその街の、一番名の知れた女のひとりになりおおせるのに、静華は一ヶ月さえかからなかった。

シャンパンを抜いて、注いでやったフルート・グラスを静華に差し出してやった時、不意に慶輔が振り向いて、私に言った。

お前も、来ない?」

シート越しに、慶輔の髪の整髪料の匂いと、香水が匂う。

「ハナも、飲もうよ。」それは私の、慶輔が何の根拠もなくつけた愛称だった。俺?

「来なよ。お金持ちで顔とスタイルと頭と性格の悪い静華さんが、今日も全部使っちゃうんだって」言った瞬間に、違うから。

静華が立てた嬌声を無視して、「金遣うしか女としての価値ないからね、もはや」慶輔は笑った。

私が加奈子を連れて慶輔たちの席に言ったとき、立って、みずからシャンパンを注いでいた零一が、一瞬、眼差しに明らかな、意味不明な羞恥を浮かべた。なぜ、なにを、彼が恥じたのか、それはだれにも分からなかった。その眼差しの表情には、確かに彼固有の色気があった。私は彼を見つめた。メイクの上手下手を除いたとしても、明らかに自分よりは劣った容姿の加奈子に、静華はこれ見よがしなほどに甲斐甲斐しく世話をしてやって、自分がひとりで立てる嬌声にまみれ、そのとき、ただ、静華は幸せだったにほかならなかった。

静華は檜山という、歌舞伎町の加藤連合の二番手の女だった。要するに、地元のやくざの手にある女だった。だから、ホストたちはだれも彼女に手をつけようとはしなかった。そして、静華にはどこか破滅型の、なにをしでかすか、なにをしでかさせるか分からない、ある危うさが感じられた。

強気の慶輔さえ零一に気を付けるように言っていたが、零一が最終的には他人の客観的な助言など聴くような人間などではないことも、だれもが知っていた。海を渡ったチャイニーズ・マフィアたちに煽られて、規模を縮小させていくしかない純国産マフィアの男に過ぎないにしても、マフィアはマフィアだった。檜山とはなんども、慶輔との関係の中で、一緒に遊んだことがあった。そもそも檜山は静華に、水商売さえやめさせたがっていた。それを強制しないまま放置させていたのは、結局は静華の月収の、単純計算で500万超の収入その金の穴埋めを出来ないでいるからにすぎず、そして、かならずしも馬鹿ではない檜山にとって、歌舞伎町から足を洗わせて仕舞えば、歌舞伎町だけでしか権威を発揮できない自分の社会的地位など、実際には単に最下層の違法者階級に過ぎないことなど、誰よりもよくわかっていた。静華にとって自分が魅力的な人間であるためには、静華を歌舞伎町に深く、深く、沈めきっておかなければならないのだった。

静華を半年近くもてあそんでやった挙句、唐突に零一は静華に堕ちてやった。零一は言った。

知ってる?」

ソファの上の、その、あお向けた胸に、私の頭をのせて私の髪の毛の匂いをいっぱいにすいこんでみせながら

「すげぇ可愛いの。」

零一が笑った。声を立てて、そして私は彼の心臓の音を聞く。

耳を澄ますまでもなく。零一の体内の、やわらかい騒音の群れ。「なにが?」

「てか、ね。」噴き出した零一の息が私の額にまでかかって、「あいつ、静華あいつ、ほんと、笑っちゃうの。」やばい、と、静華は言ったらしかった。その体のなかに、初めて零一の存在を感じた瞬間に。

ん?

やばいの。」

なに?

ねぇ。「わたし、初めて、女になった気がした。」いま。

声を立てて笑った私の頬を、零一の手のひらがなぜ、「いいじゃん。」私は言った。「終に女にしてやったらしいんじゃん。」

何歳だよあいつ。」

零一がただ、純粋に無残な哄笑でその声を彩りながら、「実際、本当は三十超えてんだよ。」

「そうなの?」

「サバ読んでんの。完全、おばさんだからね、体。腐りかけ。くっさいの。」笑うもう、さ、「まじ笑うから。」なんで、と。

私は不意に顔を挙げ、「なんで?」言った。

「なんで、そんなのとやったの?」

零一は沈黙した。あるいは、単に、口を閉じた。

零一の、かならずしも継がれるべき言葉を捜しているわけでもないただ澄んだ眼差しが私を見つめ、その眼差しにあった情熱の、留保ない素直な温度と赤裸々な鮮明さとが、私を戸惑わせた。だれも。彼は言った。

「だれも、やんないから。」

零一の手のひらがやさしく私の頭をなぜて、だれも、と。

「あいつ、檜山の女じゃん。だから、だれもやんないじゃん。で、あいつやばいじゃん。手、出したら、やばいわけじゃん。ってことは、さ、ね?」

「だから?」

そ。なんかずーっと。まじずーっと、うぜぇって、んー、それ以外想わなかったんだけどさ。三日前歯、磨いてたの。三日前。歯磨き。寝る前。そんとき、気付いたの。あいつまじやべぇやつなんだなって。事実じゃん?それ。つまりさ、それってさ、」いい女ってことじゃん?

私はむしろ、零一に微笑をくれていた。彼を見つめず、顔をそらしたままに、零一の眼には決してふれさせないで。あいつ。

最高の、さ。「ね?」女ってことじゃん。

零一の指先が私の頬をなぜる。どう想う?

零一は言う。「檜山が知ったら。どうすると想う?」

天井に眼差しを投げ棄てた、乾いた、表情のない微笑みを静かに浮かべて。

 

 

 

 


わたしを描く女 #6

 

 

 

 

「わたしも、殺すの?」

言って、葉はソファに座り込む。かすかに見あげ、上目遣いに見つめた、絶望をだけ浮かべた眼差しに、私は彼女に見つめられていた。まさか。

私は、そのみじかい言葉さえ、口にしないままに彼女を見つめていた。

私が葉に近づこうとした瞬間に、「だめ。」

来ないで

葉はささやく。

待って。駄目。

「なんで?」

ひざまづいて。

葉は言った。私を見つめたままに、むしろ自分が膝をついて、体をそっと横ばいに倒し、伸ばされた腕の先に指先が、無理な姿勢のためにかすかにふるえる。それは、痛ましい風景のように、私には想われた。自分をせめても守ろうとしたように、意志を持った指先が、かすかな痙攣を空間にきざみながら、そこに投げ出されたままのスケッチブックをまさぐった。

指先に、ようやくふれた鉛筆が、そしてスケッチブックの上に、つかみ損ねる彼女の指先をもてあそぶ。

ただ、無機物の転がるだけの戯れに、私は白痴的なむごたらしさのみを見た。その、無機物の形態の上にだけ。

やがて、ソファに身をうずめた葉は、胸に抱えたスケッチブックに何も書き出さないままに、私を見つめた。その眼差しに、私は恥らうしかなかった。彼女の眼差しに、曝されて仕舞った私の剝き出しの肌、色彩、匂い、気配、たたずまい、あるいは形態の、それらすべてを。

終に、彼女の指先につかまれた鉛筆が、スケッチ・ブックを穢し始めたときに、その華奢な指先に私はむしろただあられもない赦しをのみ感じた。もちろん、だれにも、なにものにも、なんらの赦しなど与えられてはいないままに。

《ひさまつる》

突然ひっくり返されたスケッチブックに、無造作に書かれていたその文字に、私は従う。ひざまづく。

私は。葉の眼差しのまっすぐな正面に。

《しるくつ》

暗がりの中に浮き出した画用紙が白く浮かびあがって、そして私は眼を凝らしながら、尻をつく。その絨毯の長く、白い

《すあしある》

絨毛の上に。足をあげ、バランスを失いそうになりなりながら、見つめた。ただ、

《いにたるつ》

表情もなく私を見つめ続けるだけの葉。持ち上げた両足に無理やり腕を通して

《ひしあたい》

なんどもよろめいて倒れ、床がからだを打つ。足に通した腕を、からだ中をひきつらせながら

《いひとりう》

足首をつかむ。そのとき首筋に、強烈な痛みが走って私はのけぞり、倒れた私は最初からもう一度、

《はいつる》

やり直す。股を限界まで拡げて見せて、無様に、葉の前に私のそれを曝して仕舞う。容赦なく

《ふぬいたん》

葉の過酷な指示に私は眼を凝らすが、両足の裏をくっつけようと、もがくたびに苦痛が

《いちいしん》

むしろ骨の中を這う。息をすること、それ自体がすでに筋肉と、筋と、やがては骨格そのものに

《ひたむなる》

痛みを与えて、のた打ち回ることさえ出来ずに、私はただ口を開く。大きく、なにもかも飲み込んで、

《るひていゆ》

あるいは、卵に喰いつく蛇のように。胴体の直径の数十倍の卵を丸呑みしようとしたかのように、無理やり

《んたつるい》

開かれきった顎のままに首を無理やりのけぞらせれば、背骨に執拗な

《いひつた》

痛みが目醒めて私は

《きたむつて》

もはや人体の破綻した残骸に過ぎない肉体を

《るるるにる》

曝した。

葉は、スケッチブックを放り棄てもせずに、胸に抱えて私を見つめていた。彼女は微笑んでいた。何も描き出しはしない。描かれるべき絵などすでに、描いて仕舞っている。眼の前に曝された無残な、苦痛以外のなにものをも感じてはいない肉体を、葉は、ただ、時間を無為に濫費するままに、無言のうちにながめるのだった。彼女にできることはそれしかなかった。心に、何の感情さえ浮かべられもしなかったに違いなかった。

葉は微笑むしかなかった。そうでもするしか、停滞しながらしか経過しない緩慢な時間をもてあそぶすべなどないのだった。私の体中が汗ばみ、ふるえ、痙攣し、筋肉の内側を発熱させていた。

血液の熱気に倦みながら血の気を失っていく頭がなんども白濁し、失心しそうになるのに私は耐えながら、そして繰り返される意識の一瞬の暗転と、無理やりの覚醒。私は単なる赤裸々な苦痛と葛藤そのものだった。全身が、ただ無意味な葛藤に昏んでいた。あ、と。

葉が言った。

そのやわらかいアルトが、むしろ頭の中に響いたかのようにさえ聞こえ、私は戸惑い、「また。」

葉が、声を耐えながら、しのび笑った。ねぇ、

「また、もらしちゃった。」

その感覚などは無い。とっくに、痛み以外の感覚に神経が麻痺して仕舞っていることには気付いている。私そのものが廃棄物だった。誰かの排泄物だった。腐った家畜の糞にほかならなかった。残骸で、腐った肉と骨の塊りに過ぎない。私は滅びていた。壊滅、それだけが、私の身体に生き生きと、容赦もなく息吹いていた。

忍び笑う葉の、こまやかな笑い声が、ただ、私に留保もない癒しを与えた。

鮮明に。

あざやかに。

為すすべもなく。

泣き伏したいくらいに。

そのすでに記憶された音響の無限の反芻に、私は縋っていた。

ん、と。ややあって、鼻につぶやいて立ち上がった葉が窓際に行く。足音さえ立てずに。あるいは、彼女が立てた静かな足音を聴き取る余地など、もはや私の耳には存在しなかった。葉はもはや、私をなど見棄てていた。

満たされていた。私は。ずっと。私は叫んでいた。限界を越えた最強音で鳴り響き続けていた、私が立て続けながら一切、口の外には立てられないでいるんんんんんんんと、その、長い絶叫が、私の耳の中に荒れ狂ってつんざいているのだった。私は絶望の叫びそのものだった。私の全身が、ただ葉だけを愛していた。

火事。」

葉はつぶやく。

無償の愛。私は葉を、愛している。見返りなどもはや存在するべきでさえなかった。私は葉のなにをももはや求め獲なかった。ただ、葉を求めていた。そのすべてを。ね。

窓の外を見ていた葉が、振り向いて言った。初めて

「ね?」

初めて見たわたし。火事なんて」わたし、

「初めて、

独り語散るようにささやかれていた声。葉はもう、私のことなど忘れて仕舞った。そのだれに向けられたわけでもないささやきの儚さと孤独が、私の心を引き裂いた。私は泣こうとした。そんな余力などどこにもなかった。てか、

ね?

「きれー」なんか、ね。ん?

綺麗。」

きれーなの。「あー」きれー

マンションの蓮向かいの低層ビルが、燃えているのだった。立ちつくした葉の姿を逆光にさえせずに、その上空に名残った炎の光の朱と紅が、美しい葉の横顔にかすかな色彩を与え、その眼の前の至近距離に、息がかかるほどのすれすれのそこに、それ。顔があった。

色彩はなかった。

うすい暗やみのなかにあってさえそれはただ翳り、昏く、私を見つめた。見つめることさえ出来ないくせに。流れた。

血が。

鮮明な、ただ隠しようもないあざやかさをだけ鮮明に曝したそれ、血の色彩。かすかにときに気泡をさえ気まぐれに散らして。

見たこともないその肉体の残骸の一部から流れ出す、速度の消滅した血の流れ。

流れる。れ、だす。

ながれ、出す。

で、でる。だ、す。出す。血。

色彩。いろ。

血の。

細く、悲しいほどに細く、まっすぐ横に水平に流れて、ただひたすらにまっすぐ、すうっと。まっすぐ、地平のかすかな湾曲をさえ裏切ってただまっすぐに、ミー。

美しいミー。

理沙。

いずれにしても、それはミー。死んで仕舞ったミー。仲間たちに廻された、そして惨殺された、それ、やがて庭先のブーゲンビリアの木の下に埋めてやったそれはミー。

終には死んで仕舞ういまだ、未生のミーの翳り。色彩はなく、性別の区別さえつけられないその、見たこともない無様な形態の穴ぼこの、接近した目、あるいは単なる洞穴が血を流し続けていた。

永遠に、何も見い出せないままにただどうしようもなく、無慈悲なまでに醒めきって仕舞ったままに。

 

零一が、静華が単に檜山の女だからこそ手をだしたということは明らかだった。そして、零一はだれにもふたりの関係を公言していた。自分の客の女たちに対してさえも。俺、男になったの。

え?

「なに?」

なになに?

ん?

自分を含めて、何かが、

「静華の男。」

壊れるところを見なければ

は?

気がすまない零一。

てか、さ、「あの子って、やくざの女じゃん?

「笑うでしょ?」

零一が声を立てて笑う。「俺、やくざの女の男になっちゃったの。」その女に対する、たんなる軽蔑だけをこれ以上ないほどに露骨に曝して。

やばっ

まじ?

ひく。それ「まじ、ひくんだけど。」

女たちは零一を赦した。嫉妬はなかった。そこに、彼女たちの定義による愛など存在しなかったから。むしろ彼女たちは慶輔に早口のささやき声で食って掛かって、「大丈夫なの?零くん。」

詰める。「追い詰められちゃうんじゃないの?」まじで、さ、「やばいよ?ね?」それでいいの?あんた「見殺しにする系?」そういうの、違うと想うからね、わたし。「守ったげてねぇ、違うかな、わたしのゆってること。ねぇ、「違う?あいつらやばいからね。なめてっと。「なんか、在り獲ない気がするの。」止めたげてえって、想うの。「もう、まじで死んじゃうよ?いいの?「何してんの?てか、「なんか他人の振りしてる?」

慶輔さえ、持て余していた。すでに、それらの声の群れと、零一そのものを。「どう想う?」

「何が?」

私を微笑みながら、見つめたままの慶輔に、私は、「あいつ、」

「だれ?」ただ微笑み返すしかない。「零一。」言った。

慶輔はそうつぶやいて、私だけを見つめたその眼差しは動かない。あーと、声を立てて眼を細めて仕舞う私の、頬の不意のやわらかさを慶輔は伸ばされた指先になぞった。

風鈴会館の一階の全面をぶち抜いた、いつもの、《パリジェンヌ》という名の喫茶店の中だった。水槽に、熱帯魚でさえない単なる安っぽい金魚の巨体が苔だらけの水の中に泳ぎ、椅子に凭れた私がかすかに見上げた視線の先の歩道、ガードレールの向こうの数足の女のサンダルが歩いていった。

やられちゃうよね。」

私は言った。事実、彼が本当に殺されるかどうかはともかく、何かをやられて仕舞うに違いない事は誰もが気付いていた。檜山の静華に対する執着は留保も、猶予もなかった。静華は檜山に愛されていた。「お前、」唇が動く。

「なんか、なんとか、」慶輔の。「できない?よね。独り語散て、つぶやく。「無理だな。」

慶輔が言った。

「1000パーセントくらい無理だよ。たぶん。な?」

「なんとかしたいの?」と、言った私から、初めて慶輔は視線を外して、「んー、」その無意味な音声の後に、泳いだ眼差しを床に投げ棄てると、やがて短い沈黙をくれた。

つぶやいた。

それで、いいかなって。」

「やられちゃっていいって?」だって、その、慶輔の声が発された瞬間に私は一度瞬いて、「そんなもんかなって。」

慶輔がささやく。

私は微笑む。

「あいつ、なんていうか、五体満足のまま老いさらばえていくのって、なんか、あいつ的には違わなくない?ないって。ない。そういうの。あいつ的にはね。最低でも、なんか、ぼろぼろになって駄目になってく感じ?そう感じじゃない?そんなタイプでしょ?最低限、老いさらばえるまで生き残っても、せめて普通じゃない状態で心とか、体とか、何でもいいけどさ。そういう、ね。壊れちゃった状態で生きてくか、それでなきゃ、

「砕け散って死んじゃうか?」そ。

ややあって、私を見つめ返したあとに言った、その「そ。」というただ一つの音声を、私の耳が反芻していた。

そ。」私は言った。「そう想う。」俺も「あいつ、生きられないよ。」

死んでいいの?と、不意に慶輔が言った。

慶輔はそうささやいて、声をしのばせ、あるいは私を見つめ、その眼差しにかすかな、感じ取られないぎりぎりの弱さで、ただ、あっけにとられただけのちいさな驚きが浮かんだ。言い訳のしようはなかった。

慶輔が想っているよりも、あるいは私自身が想っているよりも、私が零一を愛していたことは事実だった。死、という不意に想起されたその言葉が私に破壊的な匂いを鼻の奥に撒き散らして、喪失におびえ、零一のいない世界のあまりに荒涼とした無残な拡がりに一瞬おののいて目舞い、私は彼への愛の存在の事実を知った。何度目かに。

私は零一を愛していた。そして、彼が破滅するしかない事はもはや防ぎようもなく、そうなるしかなかった。いまさら男のほうがあわてて手を引いたところで、一度のめりこんで仕舞った静華がそのまま事を洗い流して棄て置くとは想えなかった。いずれにせよ檜山の耳に入り、眼に触れるのは時間の問題だった。私たちは危機に瀕していた。ふれれば壊れて仕舞うしかなかった。むしろ、私はそれを願った。

そうなるしかないなら、いっそのこと零一はこれ以上なく残酷で、悲惨で、無残な死にかたを人々の、あるいは私の眼差しの前に曝して果てるべきだった。

惨劇を、もはやだれのためにでもなく私はただひたすらに、彼の為に願った。目の前に慶輔の私を見つめる眼差しがあった。好き?

と、慶輔は言った。「お前、好きなの?」

「好きだよ。」

私は言った。すぐさま、慶輔は初めて知らされたような顔をした。装った表情ではなかった。初めて、その事実を彼は知ったのだった。微弱な色彩のおびえと戸惑いを慶輔の眼差しは、空気がすこしだけふるえて、ふるえた自分にさえ気付かない、そんな希薄すぎる気配を湛えたうちに、曝した。

私は、愛さずにはいられなかった。「好き。」

つぶやく。

「お前が、好き。」私はささやいた。

それは留保なく事実でしかなく、報われようもない感情の、どうしようもない発熱に私は倦んだ。将来、ね?

零一がささやく。

それは朝。その朝、零一が静華をその夜に静華を抱いた事はまだ、零一と静華しか知らなかった。早く帰った午前7時の渋谷の部屋の中に、私がシャワーを浴びて出て来たとき、寝室のベッドの上には零一が横たわっていた。「来てたの?」

私は笑いかけた。「来てた。」いまさっき、で。

「なに?」

なんでもない。ややあって、零一は言った。そして声を耐えて笑った。朝の日差しにやさしくふれられた、その、着乱れた零一はふしだらで、色気づき、そのくせどこか清冽とした美しさがあった。零一は、まるで何かの見世物のように卑猥だった。あやうくふれれば、その理不尽な拳が不意に答えて仕舞うに違いない、ようするに始末におけない面倒くささを冗談のように全身に漂わせて、傍らに腰掛けた私が指先に、その額のかたちをなぜるのを、零一が拒否する。やめて。

「いや?」

立って。

零一は言い、ややあって、自分で噴き出して仕舞う。ばか。

「俺、馬鹿。」

なんだよ。」声。

私たちが立てる笑い声を、私たちは聴いた。ねぇ、

「見せて。」立って、俺に、さ。

「ね?見せて。

私は肌を曝したままだった。バスタオルだけが私の体に抱きついていた。私は想いあぐねた零一を見下ろした。その個性的な額のやさしい隆起とかすかな陥没の戯れを指先に確認しながら。俺って、

「変態だよね?」笑う。

その気もなく。なにも、零一にとって以外は、おかしいことなど、笑うべきことなど何もない朝の空間のどうしようもなくかすんだ気配の中で。

疲れ果てた朝。眠気を呼び、夜が始まるまでの時間に、ただ睡眠をだけむさぼって果てたくさせる、そんな、そして、立ちあがった私から零一は眼をそらした。

私が投げて堕としたバスタオルが零一の胸の上にあった。私は彼を見つめていた。その、乱れた長い髪の毛。匂い立つような、荒々しさを繊細に形成した、暴力と優美の不意の交錯、その顔立ち。華奢であらくれた首筋の動きのひとつひとつに、装われない美しさが目醒めつづけて、私を恥辱で塗りたくる。息遣う腹部と胸元が、その衣服の下に存在するものの生々しさを暗示して匂わせる。無造作に投げ出された太ももの辺り、ベッドの上で、自分の重さに押しつぶされたそこに、ある、執拗なみだらな気配が芽生えていた。

零一は私を見つめようともしなかった。彼が、望んでいるはずの私の肉体を前にして。あるいは、かならずしも望んでいるわけではなかったのかもしれない。愛の対象。それは何だったのか。つきつめていえば、結局は肉体そのものを求めているわけではなかった。その内側のものは、手をふれることも見つめることも出来ない、いわば一緒に生きてやるしかない共生の対象にすぎず、経験される時間の中での営みの問題であるにすぎない。それを愛しているとなどと言う事は、愛と言う言葉の概念操作でもしおおせない限り、終には不可能なはずだった。肉体を愛した。そして、当たり前の事実としてそれは、愛の最期の対象であり獲るはずもなかった。何を愛しているのか、私にはわからなかった。

私は零一を愛していた。「見ないの?」

私は言った。ねぇ、

「見てよ。」見て。

見つめて。もっと。恥らうくらいに。恥ずかしくて、どうしようもなくて、隠すことも出来なくて、眼差しの中に曝け出さされて、あばかれきって、羞恥に壊れて仕舞いながら、それでも見つめられて。あるいは、見つめられることを求め、焦がれさえいて。

だから、眼差しで、俺を破壊して。「静華とやっちゃった。」

零一が言った。「ん?」と、ややあって言って私の声が、逆に零一を戸惑わせて仕舞ったに違いない。一瞬、答えようのない質問に曝されて、理不尽な葛藤に苛まれた、そんな翳りを投げ棄てられた眼差しに曝した後で、不意に零一は笑った。諦めたような声を立てて。「あいつ、まじで馬鹿なんだけど。」

聴く。

「あいつ、まともに男知らないんじゃない?」

零一の声を。きもち悪いの。もう、

「すうっっげー。気持ち悪いの。」

零一は疲れ果てていた。そして、眼差しには明らかな、行き止まりの絶望があった。「ちゅうちゅうちゅうちゅうさ。」あいつ、「変態?」想いを終に果たした、ただそれだけに起因する為すすべもない疲労と未来も過去ももはやない絶望が、わずかな装いもまとわずにただ曝されて、私の眼の前にあった。

まじ、くず。」

零一の存在、剝き出されたそれ自体として。

私の眼差しが見つめ、絡めとり、好きなだけ視姦して仕舞う、その留保ない目線に、あえて気付きもせずに無防備に零一はその体を曝して、息遣い、彼はそこに生きている。「いつ?」

「さっき。」やって、やりまくって、で、帰ってきた。

「まじだ。」

「まじ。」ね?

零一が想い出したように言った。「将来、ね?」

「なに?」

「店、やんない?」どんな?言った私は笑ってさえいた。笑うべき滑稽なものに対する軽蔑も、哀れみも、そうではない自分に対する優越感も、あるいは自虐もなにもなく、私の唇にあったのはただ赤裸々なばかりの笑い声にすぎなかった。「なんか

ね?

「なんか、店。」

零一は笑って、初めて私を見つめた。その、自分を見つめる眼差しだけを。彼の肌に、静華の唾液が匂う気がした。「店、やんない?ふたりでふたりだけ。あいつに、おばさんに金、出させればいいから。持ってるよ。静華。あいつに、出させりゃいいから。」

「本気?」

口籠りもせずに、零一は沈黙し、ただ、言葉を発さない静かな眼差しの、見つめあうだけの時間の停滞のあとで、不意に、「嘘。」言った。

「1000%嘘。」

 

自分が眼を開けていることに気が付いた瞬間に眼差しに、一気に暗やみがふれた。ありふれた暗さ。持続する記憶にすでに存在していた暗さ。

夜。その、当たり前の。私がいつか、眠りにかあるいは軽度の失心にか堕ちていたことに、やがて私は気付いた。

火事騒ぎは沈静化したに違いなかった。眼差しが捉えた部屋の隅の空間に、もはやその名残りさえなにもなく、背中には絨毯の、その白く長い絨毛の触感があった。そして、自分がかいたに違いない汗の触感が、あくまでもその湿った絨毛の与えた他者の触感として、不快に、あざやかに感じられずにおかない。

体を起こそうとすると、最初のときと同じような痛みに筋肉がむせ返り、その痛みの無残さは同じ、あるいはむしろそれ以上であるにかかわらず、もはや滑稽な茶番にすぎなくさえ感じられた。私は筋肉と筋と、骨格に巣食ったそれら好き放題に散らばった痛みを軽蔑し、引き攣る筋を嘲笑い、私にとって、それは単なる屈辱以外のなにものでもない。

リビングにはだれもいなかった。愛さえも。

あの、私が壊して、肉体の残骸にして仕舞った、そんな愛、その彼女、いつか、私は彼女の肉体を打ちのめした自分の拳と脛に、その破壊の触感を想起させていた。想起されたそれが現実よりもなまなましく、とは言え、想い出されたにすぎないそれに、触感としての正当さなどなにもありはしなかった。背中をのけぞらせながらようやくにして立ち上がり、立ち上がったときには右の足首に鮮烈な苦痛が芽生え、巣食い、空は燃え上がっていた。

見あげられた空はただ、まだらに、その色彩の向こうが本当に燃えているに違いないと錯覚させずに置かない色彩を、網膜にさらす。

すくなくとも、獲得された網膜組織が描き出し獲る色彩はそれ、紅彩から黄彩にまでいたるグラデーションの、無様な混交。美しいと、その言葉の定義など留保にかけた上で、あえて絶望的な吐き棄てる言葉として選択するなら、それは美しい。

色彩がもはや自分自身にさえむせかえっている、そんな気がした。音響が戯れた。その音響に対してむけられるべき知性などもちあわせていないそれに取っては音響は単なる音響に過ぎない。

熱気に煽られる。外皮が熱に煽られて温度を知覚するものの、叫び声。それのなかで無際限なほどの叫び声が連鎖して、なにものをも語りはしないままに、聴き取られた音響に同調さえもしない。

無数の知覚が夢になる。あるいは、夢が無数の知覚になる。

それはすべてを知覚していた。知性など何もないままに、直感などという言葉では不当な、灼けつく温度それ自体としての知覚があるいは叫び声なのだろうか?叫ぶ。

同時に、無際限なまでの叫び声にもはや発熱し、情熱。限度を超えた情熱がたんなる日常に過ぎないとき、そこに最早情熱などはない。

ふれるものすべてが燃え上がっていた。すべてはすでに認識され、それは全能だった。それは崩壊しようとしていた。当たり前のことだった。ほんのわずかの瞬間にしかとりあえずの組成が維持できないというのなら、でたらめになんどもあるいはもはや同時に破滅し生成する以外にすべはなく、そうなるしかなければそうなるしかない。それは無慈悲なまでに存在し、棲息し、生き、見つめられた空は燃えた。

そこに炎など存在しないことなど知っている。炎が燃やし獲るものなどなにも在りはしない。空間が芳香そのものとなって、色彩の鮮度をきらめかせた。

それは全能のままに滅び、すでに蘇生さえ果たしていた。

まばたく。夢見られた風景の鮮烈さを、ただ追い払おうとして。

汗を洗い流すために入ったバスルームに、愛がいた。あるいは、だれかがそこにいることなど、すくなくともいたことなど、入る前から知っていたに違いないことを想い出す。

リビングを出た通路に、無造作にひらかれたさまざまのドアのうちで、光源を投げかけていたのはその部屋だけだった。それは一番近い、誰にも使われていないバスルームだった。入った瞬間に鼻に、新鮮な水と、不意に流れ込まれたそれによって鮮度を取り戻した配管の臭気の、これみよがしの、けばけばしいほどの臭気がふれた。

明かりがともされていたのは、その脱衣所だけだったにすぎない。バスルームはそのままに夜の暗さを、半ば維持して脱衣所の投げた、人工的な明るさのいびつさに、無残に暗さを破壊されて沈黙していた。

物音はなかった。バスタブの中に愛がうずくまっていた。膝を抱えて座り込み、無残なほどに色気のない、丸めた子供じみた背を曝し、かすかに背筋は痙攣していた。

寒いのかも知れなかった。肌が濡れてそのままに、水滴を無数に浮かび上がらせていた。一度、シャワーだけ浴びたに違いない。バスタブの周囲に水滴が無造作に散乱して、淡い光を鋭く反射した。

ノズルが投げ棄てられて、バスタブの縁に垂れ下がっていた。眼差しが捉えた風景に、私はただ歎かわしさだけを感じた。

背を向けていた愛の肩に、私の指先がひそやかにふれたとき、息を詰まらせた愛は全身をこわばらせた。痛いの。

ささやき声で叫んだ。早口に、

「痛いの。たすけて。」

その、声の痛みが耳にじかにふれる。

私の指先がその肩をなぜるたびに、愛の身体を引き攣けが襲った。い、と、濁点つきのい、と、き、と、それらの咀嚼されたいかにも穢らしい音声が彼女の喉から立ち続け、愛はすでに壊れていた。

「からだ中、痛いの。死にたい。「ね」もう、「やばい。」

ささやき声がしゃくれ、それ。痛み。

「たすけて。」ん、怖い。」んん。

苦痛。その全身の、筋肉の、あるいは

「壊れちゃいそういや。」たすけて。ね?

骨格の、むしろそれらの内部に巣食った

「いやなの」怖い。「んんー」死んじゃうよ、

冴えた痛みにむせ返る。愛。

もう、「痛い。たすけて。

壊れた女。

お願い。

だれが?私が壊した女。

「穢いの」愛は言った。「なんか、からだ、耐えられないくらい穢いの。くさいの。熱いの。かつ痛いの。どうしようもないの。シャワー浴びようと想ったの。歩けないの。頑張ったの。あびたの。痛いの。」愛が声を立てて泣き、「痛くて、痛くて、」涙はない。なにも、「浴びれないじゃん。」液体は。しゃくりあげる「死んじゃうの?」声だけが、「いや。」泣く。全身で「それ、」痙攣し、愛は「いやなの。」引き攣けにまみれて「ねぇえ。」絶対、と、

「いや。」愛がわめいた。

泣きじゃくる。

それしか出来ないのだった。だから、愛は泣きじゃくっていた。私は愛の頭をなぜた。いつくしむように。あるいは、ほんとうに留保なくいつくしんでやりさえしながら。

その、ただいつくしむしか知らない指先が、愛の身体をいよいよ無残に引き攣らせ、痙攣させ、わななかせている事は知っている。私の指先が何をしたところで、いま、愛にとってはふたたび曝された暴力にぶちのめされていることをしか意味しない。

その神経も、頭脳も、もはやふれるもの、知覚されるものすべてを苦痛としてのみ知覚していた。おそらくはその視界でさえも。愛は、痛みの完璧な女王様だった。容赦のない痛みだけが無尽蔵に、彼女の存在そのものを彩って、好き勝手に装い、彼女の永遠の忠実な下僕としての無私の奉仕を彼女だけにささげた。ただ、彼女を破壊し、手の施しようもなくこなごなに、砕き散らして仕舞うためだけに。

時間を、私たちは濫費した。愛は泣いた。私は彼女の頭をなぜた。垂らされるよだれが、ときに忘れたころに唇に糸を引いて、愛の口から垂れ堕ちた。

不意に無理やり私を振り向き見た瞬間に、愛は内部に襲いかかった苦痛に声もなく叫び、一瞬白眼を剝いた。その一瞬の表情は、ただ穢かった。無防備なほどに。

んんーと、歎いたのかおののいたのか、苛立ったのか耐えていたのか、あるいはそれらすべてをあわせて仕舞ったのかも知れないその音声をながく、鼻にたてた後で愛は「くさくない?」言った。

「わたし、くさくない?」

大丈夫?

私は愛を見つめていた。内出血が、もはや原形をとどめないほどに、その顔に顕れていた。大丈夫。

私は耳元にささやいた。

「めっちゃくちゃ、くさい。」

立ち上がって私はノズルをつかみ、彼女に、全開の水流を頭から浴びせかけてやったとき、愛は屠殺されたかのような太い、低い、濁音の悲鳴を上げた。

男の上げた声のような。あるいは、動物のあげた声のような。獣じみた無様な声が容赦なく、空間に突き刺さり、あるいは空間をふるわせる。反響する。そんな事をしなければよかった。

水を浴びせかけるなど。しかし、彼女が、彼女が感じ取る自分の穢さに救いようもなく苛まれているのは事実だった。彼女を救ってやるべき必然が私にはあった。どうしようもなかった。私は留保なく加害者に他ならなかった。愛の体が全身にふれて乱れた水流に、痛みを無造作にそして無際限に氾濫させ、充満させて、その治まりようもない増殖の、無残な乱反射の中に愛はひとりで痙攣した。叫び声がやまなかった。

不意に、正気に戻った気がした。眼差しが見い出す風景もなにも、何らかわりもしないそのままに。私はノズルを手離した。床に堕ちてゆくノズルを見る。

既視感がおさまらない。

なにもかも、滑稽であるにすぎない。目に映るものすべてが切実に、ただその声もないそれらの存在をだけ曝していた。眼差しのそらされた向こうで、もはや言葉にならない声をあげ、うなり、生き生きと四肢を引き攣らせる愛だけがただ、いびつだった。豚の吐瀉物以下の汚物だった。空中にノズルが水流を撒き散らす。匂う。愛と、同じ匂いが私の、息づかせ続けていた肉体にも漂っていた。狂っているのは私たちのほうだった。手の施しようもなかった。

手離されたノズルがバスタブの角に打ちつけ、音を立てて撥ね、床に転がって、水流。

撒き散らされる水流。乱れ、でたらめに、そして私の体をも水浸しにして、そんな事は知っていた。すでに、そうだったことに気付いたとき、私は自分がノズルを手離して仕舞ったことに気付いた。

清められたのだろうか?

愛は。

洗い清められて、眼差しの中に、痙攣するしかない痩せた身体。色気も糞もない。ただの下等なできそこない。彼女は。そして、聴く。撒き散らされる音、水の。乱雑な。息遣い。愛の。うめき声。

もう一度、愛が叫んだ。最大音響で。声を潰した男のような。

私は愛を抱きかかえた。守り持つように抱きしめる、その強引な手つきが腕の中の彼女の四肢に、今更の苦痛を与えていた。引き攣る。のけぞった。もがく四肢が壁にぶつかりそうになり、なにも存在しない空間に、縋ろうとした愛のわなないた手はなにものをもつかまない。

濡れた体のまま、私は愛を連れ出して、彼女のベッドに放り投げた。のけぞって、息を止め、私は彼女が呼吸を放棄した秒数を数えた。陸上で、窒息する。

苦痛に引き攣る。身体が眼差しの先、ベッドの上にわななき、窓は開け放たれていた。風が、カーテンをかすかに揺らしていた。やがて、堰を切って雪崩れた呼吸が、ふたたび彼女を叫ばせた。知性のない雄の獣のような。眼を潰された家禽のような。口から尻の穴まで部厚い鉄柱で貫かれた、鼻をもがれ皮膚を剥がれた象のような。いずれにせよ穢い。彼女は悲しいのだった。なにもかもが。

ひざまづくようにベッドの傍らにひざまづいて、私はシーツに顔をうずめた。ややあって、部屋の中に、朝のシャンパンの匂いが未だに漂っていたことに気付いた。

背後の気配に気付いた。葉に違いなかった。同じ空間のなかにいるのなら、あの悲鳴に、あるいは、無意味に立てられた獣の叫び声に気付かないものなどいるはずもなかった。葉は入り口にたたずんで、私たちを見ていた。彼女の眼差しが、私たちをひとつの塊りのようにして捉えているに違いないことに、私の背中は気付いていた。愛が声を立てて笑った。

かすかで、やさしいその笑い声を聴き、それがおさまったときに、愛自身がその場違いさに戸惑っていることが、その無言の気配で知れた。笑っちゃう。

愛は言った。「てか、ね?」

もう、痛くないの。「んー痛いけど。」なんか、むしろ、痛くない。

「麻痺しちゃったのかな?」それとも、

声に、いかなるおびえも、おののきも、

死んじゃった?」

ふるえもない。

違う。」生きてるよ。わたし。ね?

ただ、しずかに、愛はもはや安らかでさえあって、

んーまだ、

私はその声に残酷な、唐突な癒しをさえ与えられたのだった。

わたし「生きてるよ。

自分の体が匂った。何の匂いかは知らない。獣くさい匂いがする。むせかえるほどに。そんな匂いなどありもしないのかもしれない。「知ってる?」

愛はつぶやく。

「わたし、死んだことあるの。小さい頃。10歳くらい。なんかよく知らない。なんかの病気。パパは、そのこと絶対言わなかったから。病名とか。大人の秘密。ずうっと。ずうっと、目に映る風景の全部が熱だしてるの。出してるのは、自分なんだけど。だけど、あきらかにもう、みんな、ぜんぶ。ぜぇーんぶの向こう側が発熱して、ゆがんでるの。ゆがんでないんだけど。なんにも。綺麗なまんまなんだけど。むしろつるつるしてんだけど。そんな事知ってるんだけど。ゆがんで見えてたり、そんなこと絶対にないんだけど、ゆがんでて、とけてるの。とろーてか、なんか、どろーっとか。チーズなの。もはや。みんな。とろけるチーズになっちゃってるの。みんながわたしの体いじってるの。なんにも感覚ないんだけど、無茶ばっかしてるの。体中、のこぎりできざまれてる音がするの。あたまの中で。そんなもの、もうどこにもないんだけど。体なんて。もうどこにも残ってなくて。けど、頭の中的な?そのなかで無茶な轟音が鳴ってるの。ひっどい。ひっどい轟音。それ、遠くに、とおーくに聴こえるの。無理だって。もう無理だなって。想うの。てか、もうずっと前から想ってたの。たぶん、体なんか全部解体されちゃってるの。でたらめなの。ぐちゃぐちゃなの。ぼろぼろで、でっろでろで、もう駄目なの。終ってるの。取り返しつかないの。手の施しようもないの。で、ずっと、光が見えてたことに気付いてたの。あたたかいって想ってたけど、そんなの自分が勝手についた嘘。ただの嘘。なんにも。なーんにも温度がない光が、わたしをぜんぶつつんじゃってるの。はじめて、気付いたの。ずうっと、そうだったことに。ずうっとまえから、もう、そうだったことに、気付いたの。嘘だったの。全部。わたし、もう、最初から死んでたの。わたし、生きたことさえないの。生まれたけど。でも、てか、あたたかいの。光。温度も何もないのに。嘘に染まってあげた。赦してあげた。あたたかいって想ってあげた。そうするしかなかったから。事実、あったかかったしね。それだけ。光の中に、どこまでも拡がる地平線が拡がるの。それだけ。色なんか、なにもないのに、あざやかなの。なんか、もう、ぜんぶ、無残なの。なんて、残酷なの?って。なんて凄惨なんだろうって。想った。そう。想った。飲まれそうになった。すうっって、失神してく感じ。聴こえるの。光に、声が聴こえるの。異質な声。誰かが私を呼んでるの。遠いの。聴こえないくらい遠いの。でも、耳のすぐそばでささやかれてる声なの。パパだって気付いてた。パパしかいないから。私が死んだこと、悲しんでくれるの。そんなの、パパしかいないから。だから、パパなの。パパが呼んでるの。気付いたの。その時に。わたし、もう死んじゃったんだって。気付いちゃった。あ、って。ね?ただ、ちいさくあ、って。そうつぶやいた瞬間、視界が戻った。逆光の中に見たこともない人が泣き叫んでるの。わたしを屈みこんで。そのむこうに見たことない人たちが見てるの。私のこと。泣いてる人、パパなの。想った。パパって、こんなに見たこともない人なのかって。あれがパパなんだって。想った。気付いた。生き返っちゃったんだって。もういちど。理由もなく。意志もなく。もういちど、生き返っちゃったんだって。なんで?」

愛は言う。

「なんで、ね?」

まばたき、

「わたしを見つめてるの?」なんで、と、皮膚の内側に温度がある。筋肉の内部がかすかな発熱を帯びて仕舞ったような。嗅いだこともない花の匂いがした。

それが花の匂いであることには気付いている。目の前に存在した指先がすぐそばのどこかを指差して、私は眼をそらした。

真っ白い、白濁した空に悲しみがあった。それは私の悲しみにすぎない。眼差しが捉えたその白濁は、決してわずかな、いかなる悲しみをさえも曝したことなどなかったのだった。それは単に不可能だった。

途切れ途切れに息遣いながら、私は後ろ向きに倒れこもうとしてるそのながいながい、時間の経過を嘲笑ったような時間の遅延に、そして眼差しが捉えたのは私を見つめる眼のない女だった。それら、無数の女たちが私を喰い散らそうとしていた。

音響が聴こえた。背後に山が燃えているに違いなかった。私はそれを見ようとはしなかった。

耳を澄ました。澄ましていた。女たちの噛み付こうとする歯に指先をさえ伸ばして、ふれて仕舞おうとし、私は憩う。遅延し続ける時間の中に。倒れこみ、私の肉体が喰い荒らされて仕舞うそのときの到来までの、逆向きの、遅れ続けるしかない時間の中に、疑う。私が倒れきって仕舞う時など来るのだろうか?

彼女たちが、私を喰い散らして仕舞うときの到来など?

停滞。あるいはその、永遠の時間の先のどこかで、すでに私は喰い散らされて仕舞っていたに違いなかった。もはや肉体は、その牙の突き刺さるときの到来をひたすらに待望し、私は倒れていく。

後ろ向きに。

倒れても、倒れても、遅延する時間の中で、むしろその動きは裏切られ続けながら、憩う。

私は憩う。ただ、私は、そして私を、「見つめてるの?」と、言った愛の言葉を聴いた。「ねぇ。」瞬き、「なんで?」眼差しはふたたび愛を捉える。私を見つめて、その正確な表情をやさしい暗やみが包み込んでいて、傷付いた顔の変形を丁寧にその凄惨さから隠して、曝しきって仕舞うことを拒否してやりながら、「俺が?」

私は言った。

「なんで?」

言葉に詰まった私に、愛が瞬いて、言って。言う。

ね?「好きって言って。」

お願い。ね。「ね?」ね、

言って。」

「好き。」

「うそ。」眼差しが笑った。愛の、見開かれて、泣いているわけでもないのに潤った、その眼差しだけが、ひとりで。

 

零一は、むしゃぶりつくように私の肌を舐めた。私の肌は、彼の舌が私の素肌と汗の味覚を感じているに違いない事実を、羞じた。かならずしも、彼が性欲など感じているわけでは無い事は、私は最初から気付いていた。彼は私に飢えていた。

いずれにしても、零一は私に静華を抱いたことを告白した後で、そして私は確信していた。やがて檜山の顔に、これみよがしに泥を塗りたくって、零一は自分の周囲のすべてを破綻させてやろうとするに違いないことを。静華を愛しているはずもなかった。零一はすでに私で手一杯だった。静華には私には無い要素がひとつだけ決定的に在った。それは、彼自身を滅ぼして仕舞い獲る留保ない可能性だった。おそらくは、檜山自身さえ、すでに静華が零一に入れ込んでいることくらい知っているはずだった。慶輔と檜山と、サパークラブで飲んでいたときに、顔を出した零一を、檜山は紹介される前にすでに知っていた。彼を捉えた眼差しが、一瞬でかすかな侮蔑の色に染まった。慶輔が改めて零一を紹介したとき、ああ、とだけ、檜山は口を開かずにつぶやき、そして、それからは零一から決して眼をそらそうとしなかった。零一が檜山のぶしつけな眼差しに、いきなり激怒して仕舞い獲る可能性を、私はひとりで危やうんでいた。零一は十分足らずしかいなかったが、その間、檜山は眼をそらさなかった。これ見よがしな眼差しに一瞬戸惑ったあと、いつか、零一の彼を見つめ返す微笑む眼差しには、明らかに優越者めいた、そのくせ挑戦的な色が浮かんだ。その色は、零一自身による、自身の上位者認定と下位者認定を倒錯的に、同時に曝していた。零一を同席させ続ける事は危険だった。私は適当な理由をつけて、彼を帰らせた。

零一が静華を抱いた次の夜にも、静華は当然のように店に来た。態度に変化があった。いつものように騒ぎも何もせずに、ただ、数少ない自分の取り巻きの女たちの話を聴いてやり、丁寧に相談にのってやり、ホストたちを接待させるばかりだった。敵ばかり多く、まともな女友達など歌舞伎町の中にさえ、ひとりかふたりかしかいない。同席した、あきらかに静華に劣る地味な三人の女たちは、単に静華に逆らえない家禽のような女たちだったにすぎない。そして、彼女たちはすでに、静華に告白されるまでもなく、静華と零一がどうなったのか、気付いて仕舞っていた。その、色づいた気配など一切ない適度な姉弟のような希薄な距離感に、それは、もはやだれの眼にも隠せない、肌をあわせ、粘膜をふれあった親密さをだけ曝していた。

檜山をだれもが想いうかべた。零一はすでに終った人間だった。静華に固執する檜山が放っておくはずもなかった。

そもそもが、この狭い街でしか存在価値がない以上、檜山はここにしがみついて生きていくしかなく、此処でしか生きていけない以上、此処での地位の確保は彼にとって絶対のはずだった。辱を塗られるわけにはいかなかった。たとえ檜山が実は静華に飽き果てていたとしても、彼に零一に制裁を加えないですまし獲る余地は無く、そして、檜山は静華に飽き果ててなどいなかった。みもふたもなく彼女だけに恋焦がれていた。

その日、むしろ醒め切った色を曝す静華の冷静な浪立たない眼差しに比べて、明らかに零一は静華に焦がれていた。獲り憑かれ、焦燥していた。すくなくとも、その、あてどもなくわなないて黒眼を乱す性急な眼差しは、静華への渇望をだけ、垂れ流すように周囲に曝した。無様にさえ見えた。もはや、静華は零一にとって、命よりも大事ななにかとして、零一を支配し果てていた。女へのまともな愛情など、一切欠いて仕舞ったままに。彼らを適当に放っておいて、冷たい観察をくれて、ややあって、ようやく静香たちの席に就いた慶輔が、いかにもだらしなく笑いながら、いきなり静華に言った。で、さ。

「お前ら、やっちゃったの?」

結局のところ、ふたりのせいで不当な緊張をばかり強いられていたその席は、その瞬間に一気に嬌声を立てて、戯れに周囲の女たちは、この町では、稀に好きものにしか好まれないはずの癖ばかりが強い無残に個性的な顔を好き放題に崩し、縋るように笑い転げて慶輔を非難し、ののしり、色づいて騒ぎ立てる。

静華さえもがさすがに声を立てて笑っていたが、ひとり、零一だけはそれにむしろ驚いた表情を曝していた。何が起こったのかさえわからないとさえ言いたげに。あれほど、これ見よがしに静華への執着を曝して見せながら、それでもそれは自分だけが握っている秘密として、零一には認識されていたに違いなかった。零一はあきらかに戸惑っていた。

沸き立った嬌声をすべて無視して慶輔は、自分の頭の、なにもかにもが足りていないふうを装いながら、愚かしげに、唐突に言った。「檜山さんどうするの?」静華に。

零一は何も言わずに、慶輔を見ていた。ただ、その心のうちを透かし見ようとしたように。眼を細めて。「棄てちゃうの?」ねぇ、と。

私は、一瞬、零一の細められた眼差しに、彼が慶輔が誰なのか、忘れて仕舞ったに違いないと、そう錯覚した。

「どうすればいい?」

一瞬の沈黙の後に零一は、慶輔を振り向き見てむしろ、慶輔を哀れんだに違いない、やさしい、ただ、やさしいだけの眼差しをくれた。

棄てちゃえば?」

慶輔の眼差しからは、目に映るものすべてを哄笑した色が消えない。静華のやさしさは昏みもしない。ただ、零一だけがふたりに取り残されていた。「できるかな?」と。

ややあって、静華が言った。

「やるしかないじゃん。」

「殺されちゃうよ。」

「どっちが?」言って、慶輔は声を立てて笑った。「お前が?こいつが?どっちが殺されるの?」んー、と、その、静華が無意味に鼻にのばした音声を聴く。やがて、「ね?」つぶやく。

檜山は、静華を殺すどころか、手をあげることさえできはしないはずだった。檜山は静華の単なる下僕に過ぎなかった。お手さえさせれば朝まで、だれも取ってはくれない着地点のない手を、彼はみじめにあげ続けているに違いないのだった。

席の女たちはお互いに別の話に切り替えて仕舞っていた。それは、もはや自分たちが関わるべき、あるいは関わり獲る話ではなかった。彼女たちは話題から綺麗に逃げおおせて、慶輔は零一を見た。微笑を浮かべたままに、その眼差しには表情さえなかった。眼にうつったその形態を、ただ、いつくしんでいたにすぎない。ねぇ。お前、

慶輔は言った。

「知ってた?」

零一は何も答えない。慶輔を見つめた静かな眼差しが、一瞬、強烈な憎悪に染まった。舐めるなよ、と、零一の口が動き出そうとした瞬間に、「ごめん。」

静華が言った。「知ってた。」言って、静華は声を立てて泣き、背筋を伸ばして綺麗に座ったままで泣き崩れ、泣きじゃくり、零一は呆然とした。見たこともない見知らない女の痴態を見つけて、あっけに取られて仕舞ったように。女たちは、静華の唐突な号泣を介抱した。慶輔の眼差しは、表情さえ変えずに、ただ、零一をいつくしんでいた。てかさ。ね。

しゃくりあげながら、静華がわめいた。あくまでも、声をひそめた小声で。「仕方ないじゃん。好きだからさ。無理だからさ。けど、ありえないからさ。やばいのは知ってるけど、無理じゃん?なにもできないじゃん。ごめん。やばくなるの、知ってた。零くん、やばくなるの、けど、無理じゃん?無理だからさ。」

「殺しちゃえよ。」

慶輔がつぶやいた。ただ、零一だけに。「話、おかしくね?。みんな、お前が死ぬことにしてるけど。おかしくね?殺られるまえに殺っちゃえばいいだけじゃん。ただの変態親父だろ?違う?」冴えてるね。

眼を細めた零一が言う。「ケイさん」不意に、零一は声を立てて笑った。「ケイさん、結構、冴えてない?」

静華はもはや耳さえ貸さない。静華はただ泣きじゃくって、泣きじゃくる自分をむさぼる余地さえ、もはや静華にはなかった。彼女がただ、純粋に泣いている事はだれの眼にも明らかだった。なにが悲しいわけでさえ、もはやないのかもしれなかった。静華にはまるで、一生懸命な他人の自慰を見せ付けられたような、どこかで禁忌にふれた穢らしさがあった。「好き。」

零一が早口にささやく。「俺、そういうケイさん、好き。」女たちが静華を化粧室に連れて行き、慶輔はただ、いつくしんだ眼差しだけを零一に与えた。炊きつけちゃった。

その朝、慶輔は言った。ひざまづいて、しがみついた私の頭をソファの上、その膝の上になぜてくれながら。「あいつ。俺。」

日差しが私の背中の皮膚にふれる。頭に慶輔その、それがふれる。黒いソファに身を預けた慶輔の表情は、眼を閉じた私には見えない。なに?

「零一。」ちいさく鼻でだけ笑って、慶輔がいちどだけ、鼻をすすった。「やばいかな?」

なにも言わない私に、とはいえ慶輔がその返答をなど求めているとも想えなかった。ね。

ねぇ、と。

聴く。私は、私に話しかけた愛の音声の、その、同じ音の単なる繰り返しを。なに?

「生きてる?」

言った。

わたし。」まだ。

声を立てて、私は笑っていた。一瞬、私は噴き出して仕舞い、笑うしかなかった気がした。愛の、その額にふれようと、伸ばされた私の指先が不意に至近距離に停滞し、戸惑った。「ねぇ。」ふたたび、「ね?」ふれた指先は彼女に苦痛をしか感じさせないはずだった。「しようよ。」

「なに?」

「して。」できる?

愛のささやく声を聴き、愛の顔に明らかな腫れが、もはやどこに口付けて遣ればいいのかさえ、私にはわからなかった。お前、と、私は言いかけて結局は、自分のちいさな笑い声に言葉を詰まらせ、「無理でしょ。」

「なんで?」できない?

「お前が、無理でしょ。」欲しいから。

愛の眼差し。

いっぱい。」愛の言葉を聴き、私は彼女の見ている風景がもはや、完全に私とは一致しなくなっていることに気付いた。もとから、違う風景を見ていたには違いなかった。とはいえ、その差異と、この差異とは明らかに差異し、完全に断絶されていた。手の施しようもなかった。「馬鹿?」

私は笑う。

愛の心を傷付けて仕舞わないようにただ、繊細に気遣いながら。「お前、

馬鹿なの?「ひどっ。」愛は抗った。

「ひどいから。ね?言ったじゃん。」なに?

「好きって。あれ、うそ?

私が、そして彼女の体の上に身を被せたとき、一瞬でその表情を愛は苦痛にゆがめ、かさねられた唇の、ふれあった唇はうめき声をだけ無様に吐く。泣きじゃくるようなうめき声を、あるいは押しつぶされた悲鳴を、それをあげる自由さえ奪って唇が、あばれ乱れる唇をむさぼった。歯と歯がふれ、ぶつかり、痛み。愛の肉体がわなないて、そのわななく筋肉の緊張さえもが彼女に苦痛をしか与えない。「見る?」

零一が言った。

零一が静華を抱いてから、三日たっていた。ほら。ふれあいそうな耳元に声を立てて笑い、「チャカ。」

更衣室の中だった。ホストたちの何人かが、私たちを見て、そして、眼をそらした。あるいは、二三人のホストたちが嬌声を上げて近づいて、まじ?

「これ、本物?」

零一は、たぶん中国経由の改造拳銃を握っていた。「中国人に売らせたの。」

まじだ。」龍一という名のホストが言って、声を立てて笑い、やばっ、零さん、撃たせて、俺に。

「警察来るだろ、馬鹿」声。戯れるホストたちの声と追従する笑い声の疎らな群れの中で、零一は私を見つめて、「どう?」言った。

私に。不意に、「てか、これ」私は、「チャカっていうの?」

言った。

「なに?スラング的な?いまだにこれ、チャカっていうんだ。」笑う。「この二十世紀の暮れ方にもなってね。」想わず声を立てて笑った私は、なにがおもしろいわけでもなくて、かつ、不安もなければ悲しみもない。零一はたしかに、改造拳銃でも片手にぶら下げているのが似合うのだった。そうとしか想えない。

愛がのた打ち回る。かさねつづけられた唇から苦痛だけが表明され、荒ららいだ乱れた息が私の唇にじかにふれる。愛し合う行為のすべてが愛にとって苦痛でしかなく、そしてそれは明らかな愛の行為であるにほかならない。肉体が愛し合って、私は彼女を愛しているとは言獲ない。私はただ彼女をいつくしみ、いとおしみ、にもかかわらずそれによって、彼女を愛しているとは言い切れない。私はそれを知っている。なら、愛。

それは何だったのだろう?愛がその内側に抱え込んでいたものは。私が抱え込むものとの差異は。私が葉に、あるいは理沙に、慶輔に、零一に、あるいは私が老いさらばえた先のベトナム女、終には滅びの時に私を抱きしめたあの男に、どうしようもなく駆られずにいられなかった、あの感情は。

愛に、私は突破しない。愛してはいない。愛に突破する事はできない。愛に対しては。愛。

ばーん。と、慶輔が見ている前で零一は私の額に銃口をあて、その口に、間延びした音響をあげた。ど、

きゅーん。

日差しが零一の半身にだけふれる。午後三時。理沙の、あるいは慶輔の部屋の中。三人とも眠れなかった。まだ時間は早い。少しくらいなら、十分眠れる。一日中十時間眠らなければ気がすまない零一は、やがてぐずるに決まっている。彼を起こさなければならない深夜前には。ず、

きゅーん。

と、そう言ったのは慶輔だった。零一の背後、ソファに身を投げて。肌を曝した慶輔は、屈辱的なまでに美しい。

振り返って、零一は笑った。

声さえもなく。ひらき、わなないた唇と顎でだけ。

やがては。

終には、その苦痛を訴えるうめき声さえもなく、愛は息だけを乱す。もう失心していたのかもしれなかった。しがみついて離さない爪が私の背中を引っ掻くが、痛み。

それ。

ちいさく裂かれた肌が血をにじませているのかも知れない、その鮮明な痛み。神経に、新鮮な痛みが乱れた波紋を成す。

行為を、私は終わらせることが出来なかった。結局は、はじめて仕舞ったことの結果した、単なる惰性にすぎないだけの行為。もはやまともな意識さえ失っている愛に、すでに、かならずしも求められているわけでもなくて。愛を裏切る事はできないと、自分なりの根拠を見出すことは単にた易い。きっかけがなければ中断さえできないと言うならば、きっさけがないかぎりそれが中断されることなどない。

すべてが穢い。

「静華って、元気なの?」あの、号泣の日以来店に顔を出していない静華の事を、とりたてて興味があるわけでもないくせに、慶輔は聴いてみる。一瞬、零一が何を言っているのか分からない顔を曝した。

私はベッドに横たわったまますぐそばに、立って慶輔に、身を捩った零一の手がつかんだ鉄のおもちゃを見る。

「あいつ?」ややあって零一は言い、拳銃。

中国人は銃弾を箱で渡したのだった。零一が街中で乱射でもし始めないかぎり、必要もないその銃弾の群れはテーブルの上に放置され、「元気だよ」こともなげに零一が言った。

「あいかわらず。」

「幸せそう?」

ご大層に、大袈裟すぎるおもちゃのようにしか見えないそれが、人体にたやすく深刻な破壊をもたらして仕舞うといういびつな事実が、私にはどうしようもなく卑猥に想われた。

で、」

あんなにも、

「お前は?」

唐突に人間ひとり死ぬことが、理由はどうであれ、

俺?」

のた打ち回り、苦痛にゆがみ、引き攣けを起こし、苦しみぬかなければ死に切れないあまりにも困難なものであるにもかかわらず、

「むしろあいつ以上に幸せ。」

零一にしか共有できない自分勝手なモチベーションを、どこか無様に曝してみせて、零一はそう言ったのだった。

ただただ快活に。

 

 

 

 


わたしを描く女 #7

 

 

 

 

 

恥ずかしいほどに空が晴れていた。

正午の歌舞伎町を、私は慶輔と歩いていた。単純に、粘着質の女たちがその時間まで、私たちを引きとめたにすぎなかった。彼女たちは豚以下の卑賤なクズだった。私たちのために、無駄な時間を濫費しなければ気がすまない、存在それ自体がもはや無意味な女たち。

直射する日差しにまばたき、晴れた昼間の歌舞伎町はまるで世界が終ったあとの、閑散とした楽園のように見える。いつでも。人はほとんどいない。区役所通りでさえ、だれにもすれ違わないで歌舞伎町を抜けられるときさえあるほどに。

いまも街が生きている事は知っている。とはいえ、なにも朽ち果てさせもしないままに、たんなる廃墟以外のなにものとしてでもなく、歌舞伎町はその躯体を、わずかに孕みこんだ人々の眼差しに曝す。

おだやかで隈もない日差しの中に。私はむしろ、昼間の歌舞伎町のほうをこそ、愛おしんだ。

風鈴会館の一階の、喫茶店のいつもの席に座った。注文も聞かずに出されるいつものアイス・コーヒーが目の前に並んで、店員が慶輔になにか冗談を言って、あ、と。

慶輔が不意に口走ったので、私は慶輔を見つめた。

店員は笑って、冗談めかして手を振って、自分でだけ誰も聴いていない話の続きをしながら、そして、私に微笑む慶輔の、その微笑の意味を私は探る。

なに?

気ままな接客をあくまで自分勝手に終えた店員が、満足げに立ち去ったあとの慶輔は、微笑を崩さないままに、

あれ。中国人だよ。」言った。その「例の、噂の中国人」眼差しの先を振りかえると、確かに、ふたつみっつテーブルを離れた背後のそこに、背の高い華奢な中華系の男が、数人の同胞たちをはべらしていた。彼らの眼差しは、私たちには気付いてはいなかった。「零一。あいつに銃、売りさばいたやつ。あのチャイニーズだよ。」

その、髪の短い、まっ白な肌を胸をはだけたシャツに曝した男には見覚えがあった。なんどか、店に女を連れてきたことがあった。彼は二十代の半ばで、連れていた日本人女は四十代をかるくこえていた。そして、彼はいかにも中国人風の癖のあるものの、流暢にこなれた日本語を使い、女が、彼が自分の男であることを隠しもしないのを、ただ嘲笑うように黙認していた。

《パリジェンヌ》の中で男は、堀の深い、いかにもやさしげな眼差しをしていた。スーツの悪趣味な着こなし方一つが、男に猥雑な色気を与えていた。

ハオ。やばいよ。あいつ。人間殺すの平気だからね。」言った。「ここが、中東かどっかの戦場かなんかだと想ってるんじゃない?あたまおかしいよ。」慶輔は笑う。「ひとり多国籍軍状態。」

取り巻きたちは、ほんの数分で彼に頭を下げることもなく早足に出て行き、それは、日本のやくざと彼らとの流儀の違いを、不意に、あざやかに私に教えたのだった。

自分以外にだれもいなくなったハオのテーブルに、そしてハオはかすかにうつむいた眼差しを動かしもしないままに一度、テーブルの縁を指先に叩いて、とはいえ、だれを呼だでも何の意味を持つでもないその音響が、聴こえるはずもない距離の中に、私の耳にだけは聴き取れた気がした。

不意に立ち上がったハオが、前触れもなくまっすぐに私の席に向ってきて、私はむしろそれを当然であるかのように錯覚していた。「元気?」

こともなげに微笑むハオは声を立てて笑い、その、むしろ女性的にさえ見える瀟洒な顔立ちを瀟洒にゆがめて、そう言った。

「元気。ハオさんは?」慶輔が言って、だれの許可も指示もない椅子を勝手に自分でひいて、ハオは私の傍らに座った。「元気。ありがと。ひさしぶり。」振り返って眼の前に高く、差し出されたハオの手を握手に取ってやる。

「レイくんは?」

ハオが、私に言った。それが「どう?元気してる?」零一のことである事には気付いている。違和感がある。

相変わらず。」そう。つぶやく。

ハオが零一の名前を呼んだ、無意味な違和感が結局は、私にハオへの不当な不信感を生み出し、その不信感は眼差しに捉えた彼の姿の全体を染め上げて仕舞うほかないのだが、私たちをそっちのけにしたわがままな沈黙の後で、「ねぇ。」

ハオが言う。

「日本の女って、めんどくさい。」

慶輔が声を立てて笑った。なんで?

「静華。ひっぱたかれた。わたし。」

「どうして?」と、言った慶輔は、ハオの見せ付けたただ単につぶらな眼差しがおかしくてたまらない顔を素直に曝して仕舞うのだが、「ピストル、ね?チャカ。あれ。」

「ハオさんが売ったやつ?レイに。」

そう。静華、檜山さんのところで会った。会社。事務所。私が入る。静華、いた。ソファ、座ってる。女王様みたいよ。すぐ静華、来る。ひっぱたく。駄目だよ。」大袈裟に顔をしかめたハオの表情に、幼げな自嘲が浮んだ。俺もさ、ヤキがまわっちまったよ。そんな。

薄く。

「赦さないから、とか。言った。けど早いから。怒ってるからね、早いから。言葉。ぺらぺら。なに言ってるの?って。檜山びっくりだよ。私もびっくりだよ。」

「それ、いつ?」

「昨日いや、今朝よ。一時だったから。朝、ね。」

「で、どうしたの?」

「そのまま。出て行った。静華。お尻振って。終わり。檜山は聞いた。なに?って。あなたを赦さないらしいよって。何したの?って。」

「どう言ったの?」

慶輔は笑い、私も笑う。ハオはわざと困り果てた顔を作っておどける。「静華の男にピストル売ったって。」

え?

「零くん。彼に。だからね。檜山にね。言った。わたし。あなた、殺されるらしいよって。」

え?と。その、え、という短い一音節を私がつぶやく間もなく、ハオは声を立てて笑うのだった。

例えば、私はその時に、ハオの胸倉をつかんで殴りつければよかったのだろうか。あるいは、せめて怒鳴りつけ罵倒するべきだったのだろうか。私も慶輔も、なにも、あっけにとられていたわけではなかった。むしろ単純に、私はすでにハオを赦してさえいた。ハオには悪びれるふうもなかった。彼に何らかの企みがあるわけでもないことは察せられた。明らかに彼は、彼が見た風景をそのまま見たままに言っただけにすぎなかった。むしろ誰よりも素直なのはハオのほうだった。彼は事実を言っただけだった。たとえば、空が青いです。と。その嘘偽りのない表明に、悪意を認定できるすべなどなにもなかった。そのとき、空が雨を降らせてでもいない限りは。そして、零一のまわりに雨はどこにも降ってはいなかった。

ハオは身辺の雑多な話を始めた。彼が自分の女にしている四十女が最近子供を欲しがっていること、彼女が追い出した元夫から慰謝料請求されたらしいこと、いそいでそっちの始末をつけてやらなければならないこと、近くの雑居ビルのオーナーがある風俗店を追い出したがっていること、そして、そのオーナーはケツ持ちの檜山たちに相談したのだが、笑うべき事は、檜山たちはその風俗店のケツ持ちだったから、彼ら自身ではなにも出来ないこと、その話も自分が片をつけて遣らなければならないこと。

その風俗店の話は知っていた。《きらきらパラダイス》というその店のオーナーは、檜山たちの許可もなく客に薬物を売りさばいていた。軽度な錠剤から覚醒剤に至るまでの禁止薬物を。だれもが知る有名な話ではなかったが、知ってる人間なら知らないものはいない程度の話だった。薬物の出処は結局は檜山たちなのだから、彼、その風間という偽名の男がいくら高額をふっかけて売りさばこうが、檜山の知った事ではなかった。たぶん、そのオーナーのほうが、警察の手に自分の所有ビルに入られる前科をつくって仕舞うのを嫌がったに違いない。彼は赤坂に本拠を持った、在留中国人系のマフィアだった。そもそもがハオは個人的な雑多な仕事に忙しく、檜山の流してよこした外注仕事になど興味もないが、断るわけにもいかないのだと愚痴った。「駄目だからね。」そして「わたし、いないと。」想い出したように「檜山さんは。」静華に対する愚痴が始まった。

忙しいと言ったわりには数十分も、私たちのテーブルで時間をさんざん潰した挙句に、手を振りながらハオは立ち去って行った。私は、私と慶輔が話す話題などもはや何も想いつきはしなかった。当たり障りのない仕事上の話でもする以外には。ほとんど何も話し合わないうちに、語られるべき言葉自体に、私たちはすでに飽きていた。今更曝すべき身の上話もない。そんなものは、いまだなにも語られないままに、すべて、語られ尽している実感があった。

私たちは沈黙するしかなっかった。あるいは、人眼を気にもせずに口付けあうでもするよりほかには。そして、そんな気にさえなれなかった。生きてるかな?

慶輔が言った。

「あいつ。まだ?」

私のその言葉に、うなづきもしない慶輔に私は微笑みかけて、あるいは、私の頬が笑みに崩れた瞬間に、私たちがむしろ零一を裏切って仕舞っている実感を、ただ、私は感じていた。

 

葉が、私たちを見ている事は知っていた。背後で。壁に背をもたれて。愛は気付いていたのだろうか。その、刺すような葉の眼差しに。不愉快なほどに、異常な発汗が愛の身体を濡らしていた。自分のふれているものが、自分に直接ふれながら壊れていく容赦もない実感が、むしろ私をいじきたないほどに恐怖させ、その、どこかに自己憐憫さえ含んでる気がした恐れを私は自分で軽蔑して仕舞いながら、愛のなかで、自分のそれがすでに機能を失っていることに、後れて気付く。

それはまだそこに抜け落ちずに在るというだけで、とっくに何をしているわけでもない。私の全身の筋肉と筋は、かすかな発熱を帯びて、そこに巣食っているはずの、傷めた苦痛などもはや忘れさせられていた。愛の肌のかき棄てた大量の汗が、私の肌をべとつかせた。

不快だった。愛は四肢の、腹部と首筋とまぶたと顎に到までの、さまざまな無残な引き攣けをとめられないだけで、私を見つめた眼差しにとっくに意識など感じられなかった。見つめたまま、あるいは、まぶたが閉じられるべききっかけを失って仕舞ったままに、愛はすでに失心していたに違いなかった。わななき、騒ぎ立つ痛みの知覚の連鎖の中に。その見開かれた眼差しがなにかを見ていたとしても、例えば夢を。私の体中に、容赦ない疲労が意識されていた。私はただその疲労にだけ力尽き、果てて、わななく愛に身を預けた。

息遣った。

愛の身体は、自分勝手に、もはやその引き攣けそのものをむさぼっているとしか想えなかった。痛みなど、すでに麻痺して仕舞って、どこにも存在しないのかも知れなかった。その内部のどこを探したとしても。感覚器が感じたそれが、それとして感覚されないのならば、感覚された感覚など一切存在していないに異ならない。

私は、私に留保なく実感された私自身の、他人の汗まみれの無様さにただ、苛まれていた。

結局のところ、私にできたことは何もなかった。あるいは、したことさえ何もなかった。愛はむしろ勝手に壊れて仕舞ったに他ならなかった。そして、彼女は未だに壊されきりもしないままに、そこにかたちをとどめ続け、間歇的に荒れる息遣いを曝しているにすぎないのだった。

痙攣するたびに、愛の爪さきが引っ掻く背中の皮膚の苦痛に、私はときに背すじを緊張させる。眼差しに映る何もかもが、私にただ敗北だけを曝していた。横目に見獲た葉さえもが無残に、敗残者としてそこにたっていた。傍観者にすぎない葉に、存在価値などあるべくもなかった。

私が身を起こそうとすると、私の体を堅く抱きしめた愛の腕はすぐさま、力なくほどけた。ただ、彼女の腕は、筋肉自体が無意味な硬直と弛緩を繰り返しているに過ぎなかった。私の体は抱きしめられてさえいなかった。一瞬、嘲笑うように微笑んで仕舞った私のたるんだ頬を、そして振り向き見た先にたたずむ葉は見ていた。

刺すような、と、その眼差しは、そうとも言えればただ、眼を凝らしているだけだ、とも言えた。彼女が屈辱に塗れているのは事実だった。

私は眼をそらした。

葉の傍らをそのまま通り抜け、廊下を歩いた。葉は、何も言わずに私のあとに従った。足の裏に、ペントハウス中に敷かれた白い絨毯の絨毛がふれた。開かれっぱなしのドアのひとつひとつが私の腕に一瞬だけこすれて、腕に触感の痕跡を残した。リビングの中に、何の変わりなどあろうはずもなかった。かすかに残存した人間の体臭の、異臭じみた臭気がうすく張っている気がした。ねぇ。

葉が言った。

背後のすぐ近くに立った彼女の気配があざやかに感じられ、私は彼女の声を聴く。「どう想う?」

なにを?

言った私は振り向きもせずに窓の向こうの風景を見るが、そこに見えているはずの明治神宮の森も、ただ暗く翳るばかりでその存在の息吹きさえ曝さない。

「あなたへの想い。」

「なに?」

「どう想う?」

「なにを?」

「わたしの気持ち。」憎んでる?

葉は、

恨んでる?

つぶやく。

軽蔑してる?

それら、

バカにしてる?

言葉を

忌み嫌ってる?

想いつくままに。

なに?」言った私の声を無視して、「好き。」つぶやく。「大好き。」葉は笑った。邪気もなく。

葉が言い終わらないうちに、私は振り向きざまに葉をひっぱた。そのとき、葉は息を詰めるしかない。

自分の足元に堕とされた葉の眼差しはむしろ何をも語らない。怒りも、軽蔑も、悲しみも、なにも。てか、ね。と、ややあって葉がささやき始めたときに、私はソファに身を投げ出していた。「たまらない。」のけぞってもたれ、「好きで、好きで、大好きで。」閉じられもしない眼差しは、「我慢できない。」窓のガラスに映った室内の「あなたのことしか考えられないの。」白濁した反射に「好き。」邪魔されて、「いま、」空の黒さをさえ「死んじゃいたいくらい」満足には、「好き。」見い出せはしない。知ってた?

葉が言った。

「知らなかったでしょ?どう、想ってた?」私のこと。

私が身を起こしかけたとき、葉は私がふたたび彼女を殴りつけて仕舞うと想ったに違いなかった。葉は一瞬身を固め、明らかなおびえを眼差しに曝した。いいよ。

もう、別に。」葉は言う。「何されてもいい。」する?

「お姉ちゃんみたいに。ぼろぼろに。「ぼっ、ろぼろ、に。」したい?「する?」ね?「なにしたい?」キス?「殴っちゃう?」あいつみたいに。「強姦するの?」やばっ、「あんなふうに。お姉ちゃん、どう?「何をしたい?わたしに。

「お前はなに、したいの?」私が「され、」言ったとき、「たいの?」葉は言葉を詰まらせ、そして、彼女は声を立てて笑しかない。明らかな軽蔑が、その音色に在った。

誰に対する軽蔑なのかは、知らない。「なんにも。」なあーん、

「にも。ただ、」ね?

「好きなだけ。」私が声を立てて笑う。私たちは零一がすぐに殺されて仕舞うものだと想っていた。そうではなかった。

むしろ、ハオが私たちにハオの告白を告げてから、零一は1週間以上、何事もない日々を送った。相変わらず静華は店には顔を出さず、零一は店が終れば静華と待ち合わせした飲食店で時間を潰し、そして、歌舞伎町のホテルに行った。そして時に、静華を連れ込みさえして私と慶輔の渋谷の部屋に顔を出し、たった一つ赦された暇つぶしのように、一度も発砲されないままの拳銃と何度も戯れた。

静華さえ、その拳銃との戯れを笑っていた。いつくしむように眺めやりながら。いささかも諌めさえせずに。いつか始まるはずの、そこにまで迫った事件はすでに終って仕舞っていた気さえした。そして、いまだに静華は檜山の女であるままだった。唐突に鳴らされた自分の携帯電話に静華は、ぐずる零一に「誰だよ。」長い時間の言葉の「ね?」慰めをくれて、「誰?」そして「客?」部屋を出て行った。

檜山は静華を詰めることさえなかったようだった。ハオの話を聴いたあと、渋谷の部屋に寝に帰ったときに、部屋の鍵さえ閉めずに勝手に上がりこんだ部屋の中の慶輔のベッドの上で零一が寝ているのを、私たちは在り獲ないものを見る眼差しで見つめ、そのまま放置し、その話はなにもなかったことにして仕舞った。

ハオが零一と静華のことを、檜山に全部言って仕舞ったことさえ、私たちは零一にも、静華にも言わないままだった。口を閉ざしたのではなくて、単にそのきっかけを失って仕舞っていただけにすぎない。その、いつのまにか、起こるべきだった危機的な事件がもはや消滅した気の抜けた倦怠感に引き摺られたままに、私たちは零一と戯れているしかなかった。

その日、ベッドの中で寄り添いながら、私は慶輔が寝息を立て始めたのには気付いていた。やがてまどろみ始め、意識が白濁していくことを意識は気付きもしないままに、不意に叩きならされた呼び出しベルに眼を醒まさせられる。古いマンションの、建築当時から取り替えられていないに違いない旧式のそれが、いかにも旧式な、甲高くあざとい破裂音をなんども立て続けに鳴らされる。慶輔の安眠が阻害される可能性に、私はおびえた。

そんな事をするのは零一しかいなかった。慶輔はなじるようなうめき声を立てて、寝返りを打ち、目覚めもしない。ドアを開けると、零一と静華が笑っていた。「鍵、もってるだろ?お前。」

適当に腰にバスタオルを捲いただけの私を見ても、崩れそうに零一に身を預けてやっと立ち、あきらかに泥酔した静華は表情さえ変えはしない。

何の変化も見せない、ただたるんでにやつくだけの、酔いつぶれた赤ら顔をほころばせて、静華は声を立てて笑っていた。甘ったれた声が耳に衝いた。いま、目に映るものすべてが、自分を笑わせないではおかないのだと、留保なくだれにも公表しないではいられない、ふしだらな泥酔者の自分勝手さと穢らしさに、想わず私は眼をそらす。

「いいじゃん。」笑いやんで、ややあって耳にささやきかけた零一は、たいして飲んでいるわけでもない。「たまには、あけてよ。」ハナちゃんが。入れよ。

さっさと。」言った私に、零一は微笑みかけて、ひとりでは立てもしない静華を抱きかかえるようにリビングに運ぶ。筋肉の緊張の完全に弛緩した静華の体中が、単なる発熱する汚物にしか見えない。「珍しいじゃん。」携帯電話で確認すれば午後三時。「静華が、」一体どこで「こんなに。」飲んでいたのか、いずれにしてもいま、静華に付き合わされてぼろクズのように酔いつぶれたサパーのだれかが、歌舞伎町のどこかのその店で、自分が吐いた寝げろにでも塗れながら病的ないびきでもかいているに違いなかった。

過剰に酔いつぶれた静華は、その皮膚に、皮下脂肪から直接発されたような、不愉快で湿気た発汗と発熱を撒き散らしていた。零一は放り投げるようにソファに彼女を投げつけ、静華の身体はクッションに撥ねる。息を詰まらせて、顔をしかめた一瞬の後、零華はわざとらしい悲鳴をあげた。彼女は、声を立ててひとりで笑った。「どうしたの?」

問いかける私に、零一が一瞬沈黙し、次の瞬間に噴き出して笑い、

飲んでた。」

「見ればわかる。」水。

つぶやく。「水、飲みたい。」そのくせ、私に水を求めるでもなく、自分で取りに行くでもなく、片足を背もたれに持ちあげて仕舞って、零一はソファに寝転がった静華の傍らに座り込む。疲れた。

言った。「まじ、つかれた。」

「なんかあったの?」なんにも。

「なんっ……にも。」と。私を見あげた眼差しが、媚を含んでいつくしむ色彩をいっぱいに曝す。「ふたりで飲んでたの?」

「中国人と。」

「ハオ?」

「すげぇいいやつ。知ってた?「あいつ、まじだよ?

「ハオの女いるじゃん。でぶのおばさん。」ああ、と、相槌をうった私から、不意に零一が眼をそらした瞬間に、その髪の毛の全体はかすかに揺れる。「あの人、さ。」まじ笑う。「こいつのお母ちゃんなんだって。」

私は声を立てて笑った。「それ、まじ?」

「まじ。」

「笑う。」こいつら、まじ馬鹿。零一は言った。

「こいつら、ふたりそろってまじ、馬鹿。糞。カスだから。」容赦のない嘲りが、憤りさえ含んで零一の眼差しに浮んでいた。自分勝手に零一の胸倉を細い指先につかんでもてあそび、ひとりで戯れ続ける静華を見ていた、その、伏せられた眼差しに。「お母さんと一緒に飲んだの?」そう。

「お袋さん、ハオ、俺と、こいつ。あと、

「だれ?」

檜山。」零一が声を立てて笑う。すっげぇ、つぶやく。すっげぇ、繰り返し、まじ。まじで。なんども笑い声に声を乱して潰して仕舞いながら、「すっげぇ、燃えた。」

「まじ?」

「あいつ、たぶん気付いてるね。俺らのこと。一応まだ秘密じゃん?だから、秘密でいちゃつくの。俺ら。すっげぇ燃えるの。全部ぶっ壊してやりたいんだけど、我慢するじゃん。すっげぇ燃えるの。まじだよ。まじ、たまんねぇ。先っぽ濡れちゃうよね、まじ。」

「頭おかしいの?」そう。独り語散るそうにそう言い、「まじ、そう俺、

「たぶん快調に発狂中。」零一は笑った。笑い声を張り上げて、笑い転げ、ときに不意の呼吸困難さえ引き起こして仕舞いながら、零一は笑っていた。私は唐突に気付いた。いま、眼の前に零一がいるということは、零一がまだ生きているということだという、どうしようもない事実に。

私は微笑み、そして零一に同調しながらときに笑っていたのだった。かならずしも彼につられたわけでもなくて。むしろ、零一の無邪気さが私を彼に共感させていたのかもしれなかった。

何の留保もなく。笑い声がやがて不意に落ち着いて、んー零一が鼻に言う。

「何回もキスした。投げキッス。ハオにも、誰にもばれたね。あれは。もう、露骨に。全部。露骨、あけすけ。俺、いっぱい投げたよ。チュッて。チュチュチュッって。檜山がこいつに話しかけてる隙とか。こいつも。ぜったい、ばれたから。あれ。マジで。やばいよ。まじ、」てか、ね?まじうけるんだけど。

零一が、ややあって、ふたたび想い出してふたたび笑う。なんども。

「なんで、静華、ここにいるの?」檜山いたんだろ?

言った私を零一はただ投げやりに見て、ややあって静華に目線を投げたが、眼差しは彼女にふれた瞬間に、その対象へのいつくしむような軽蔑に堕した。「連れて帰った。」静華はわめき散らすようになんで、「あいつ、」お前ら馬鹿なの?言葉を無意味に吐く。

「檜山さん、これからなんか事務所行くらしいからさ。馬鹿だろ?自分が連れまわしといて、それで持てあましちゃってんの。こいつのこと笑う。」だから、

「連れて帰ってきた。俺が。」檜山の姿が想像できる気がした。たしかに、静華の奴隷にすぎない檜山には、めずらしく酔いつぶれた静華を介抱にしてやる技量もなにもなかったはずだった。困り果てた檜山に、すうっと近づいて、あからさまな軽蔑を眼差しに微笑んだ零一が、「俺が、送ってきますよ。」

そう言ったとき、檜山の眼差しにはどんな色彩が浮んだだろう?戸惑いを隠して強がった、弱々しい家畜じみた眼差しだったのか、あるいは殺意を押し殺した冷たい憎悪の、冴えた眼差しだったのか。いずれにしても零一は静華を連れ出して、そして、檜山は改めて知った事になる。酔いつぶれた自分の女が還りつくべき場所がどこであるのか、それさえも眼の前の男が知り尽くしていることを。

ハオさんが送ってくれた。」

「ハオ?」

「ハオの女と。」

ハオの女には会ったことがある。店の中でも。翔子という名のその女は、肥満しかかった豊満な体を揺らしながら、いつでもワインばかりあけた。ホスト・クラブがでたらめに並べただけの、並行輸入の質の悪いワインの、劣悪な保存環境の中で死にかかっているワインの群れに、あまりにも正統すぎる罵詈雑言を浴びせてやりながら、それでも女は浴びるように飲んだ。

色気づいた顔立ちの中で、ただ切れ長の、引かれた濃いラインがいっそうその切れ長さだけを強調させて仕舞った眼差しを曝し、にこりともせずに、恥じらいながら媚びた笑みでも浮かべていなければ言獲ないような戯言を、真顔のままにその唇から垂れ流した。いやになっちゃう。ハナちゃん色っぽすぎて目舞いしちゃいそう。

ただ、冴えた表情のない眼差しで私を見つめて。

「おばさん、

やだ。ほんっとうに。

「根掘り葉掘り聴いてくるの。」

やばいくらいかわいいのみんな。

「なにを?」

本気?本気なの?

「こいつとの話

おばさんもうとけちゃうからね

「もうやっちゃったの?とか。」

やばいくらいめろめろ

「こんなののどこがいいの?とか、」

とろけるちーずじょうたいでめちゃくちゃ

「本気?遊んでるだけでしょ?」

まじでおばさんゆうわくしてる?

「なんて言ったの?」

ね?おばさんのどこがすき?

「本気ですよって。俺、」

ぜんぶ?とけるうまじ

「こいつ、本気だからって。」

「嘘だろ。」それ、と言った私を「完璧に嘘じゃん。」零一が見つめ返し、「絶対的に。」眼をそらし、そして。

鼻でだけで零一はちいさく笑う。「本気だって。」言って、その自分の吐いた言葉の音響を、たぶん耳の中で咀嚼した数秒のあとに、不意に零一は声を立てて笑った。

ソファに大股をひらいて、布地のほとんどない下着まで見せ付けて巻き上がらせた太ももの肉付きを、線の入ってしまった卑猥なだけのストッキングの向うに曝し、弛緩したままにゆらゆらばたつかせながら。その、静華の眼差しがルーフ・バルコニーのほうをあてもなく彷徨って、逆光の光。

その位置から、見あげた静華の眼差しが捉えたのは逆光にかすかに昏んで仕舞った空の風景のはずだった。

窓枠に、綺麗に切り取られて仕舞ったちいさな人間の眼差しサイズの空。その、窓枠を取っ払って仕舞ったところで、結局は人間の眼球と頭脳の限界をそのまま曝して、人間が許容できる大きさに過ぎない湾曲した青い形態を曝すしかないちいさな空。

だれが、大いなる空などという一度も見獲もしなかった戯言を言って仕舞ったのか。空は自分の存在のすべてなど曝しきったことがないままに、だれのためにでもなくただそこに、なにも曝しきれもしないままに停滞し続けるに過ぎなかった。穢らしいだけだ。

静華の口が、適当に感嘆句をならべて見せた。やべぇ。すっげー。まじなのぉ?それらの想いつく限りのヴァリエーション。よくもそこまで想い付けるものだと私は意識のどこかでそれらのただ吐き棄てられるだけの言葉を聴いたが、乱れた息遣い。吐かれる息のすべてが酒気に酔う。

笑ってた。」

零一が言った。「おばさん、笑ってたよ。」

お母さん?」そ。ハオを

「中国人に外車運転させてさ。要人気取りだよ。旦那から巻き上げたあぶく銭しか持ってないくせに。中国人に食わせてもらってるだけの癖して穢ったねぇの。「人殺しの金だぜ。お願いね。「って、さ。」陽菜子のこと、よろしくねぇえ

その、翔子の口真似が私の耳につき、私は源氏名静華の本名を知った。「