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わたしを描く女 #7

 

 

 

 

 

恥ずかしいほどに空が晴れていた。

正午の歌舞伎町を、私は慶輔と歩いていた。単純に、粘着質の女たちがその時間まで、私たちを引きとめたにすぎなかった。彼女たちは豚以下の卑賤なクズだった。私たちのために、無駄な時間を濫費しなければ気がすまない、存在それ自体がもはや無意味な女たち。

直射する日差しにまばたき、晴れた昼間の歌舞伎町はまるで世界が終ったあとの、閑散とした楽園のように見える。いつでも。人はほとんどいない。区役所通りでさえ、だれにもすれ違わないで歌舞伎町を抜けられるときさえあるほどに。

いまも街が生きている事は知っている。とはいえ、なにも朽ち果てさせもしないままに、たんなる廃墟以外のなにものとしてでもなく、歌舞伎町はその躯体を、わずかに孕みこんだ人々の眼差しに曝す。

おだやかで隈もない日差しの中に。私はむしろ、昼間の歌舞伎町のほうをこそ、愛おしんだ。

風鈴会館の一階の、喫茶店のいつもの席に座った。注文も聞かずに出されるいつものアイス・コーヒーが目の前に並んで、店員が慶輔になにか冗談を言って、あ、と。

慶輔が不意に口走ったので、私は慶輔を見つめた。

店員は笑って、冗談めかして手を振って、自分でだけ誰も聴いていない話の続きをしながら、そして、私に微笑む慶輔の、その微笑の意味を私は探る。

なに?

気ままな接客をあくまで自分勝手に終えた店員が、満足げに立ち去ったあとの慶輔は、微笑を崩さないままに、

あれ。中国人だよ。」言った。その「例の、噂の中国人」眼差しの先を振りかえると、確かに、ふたつみっつテーブルを離れた背後のそこに、背の高い華奢な中華系の男が、数人の同胞たちをはべらしていた。彼らの眼差しは、私たちには気付いてはいなかった。「零一。あいつに銃、売りさばいたやつ。あのチャイニーズだよ。」

その、髪の短い、まっ白な肌を胸をはだけたシャツに曝した男には見覚えがあった。なんどか、店に女を連れてきたことがあった。彼は二十代の半ばで、連れていた日本人女は四十代をかるくこえていた。そして、彼はいかにも中国人風の癖のあるものの、流暢にこなれた日本語を使い、女が、彼が自分の男であることを隠しもしないのを、ただ嘲笑うように黙認していた。

《パリジェンヌ》の中で男は、堀の深い、いかにもやさしげな眼差しをしていた。スーツの悪趣味な着こなし方一つが、男に猥雑な色気を与えていた。

ハオ。やばいよ。あいつ。人間殺すの平気だからね。」言った。「ここが、中東かどっかの戦場かなんかだと想ってるんじゃない?あたまおかしいよ。」慶輔は笑う。「ひとり多国籍軍状態。」

取り巻きたちは、ほんの数分で彼に頭を下げることもなく早足に出て行き、それは、日本のやくざと彼らとの流儀の違いを、不意に、あざやかに私に教えたのだった。

自分以外にだれもいなくなったハオのテーブルに、そしてハオはかすかにうつむいた眼差しを動かしもしないままに一度、テーブルの縁を指先に叩いて、とはいえ、だれを呼だでも何の意味を持つでもないその音響が、聴こえるはずもない距離の中に、私の耳にだけは聴き取れた気がした。

不意に立ち上がったハオが、前触れもなくまっすぐに私の席に向ってきて、私はむしろそれを当然であるかのように錯覚していた。「元気?」

こともなげに微笑むハオは声を立てて笑い、その、むしろ女性的にさえ見える瀟洒な顔立ちを瀟洒にゆがめて、そう言った。

「元気。ハオさんは?」慶輔が言って、だれの許可も指示もない椅子を勝手に自分でひいて、ハオは私の傍らに座った。「元気。ありがと。ひさしぶり。」振り返って眼の前に高く、差し出されたハオの手を握手に取ってやる。

「レイくんは?」

ハオが、私に言った。それが「どう?元気してる?」零一のことである事には気付いている。違和感がある。

相変わらず。」そう。つぶやく。

ハオが零一の名前を呼んだ、無意味な違和感が結局は、私にハオへの不当な不信感を生み出し、その不信感は眼差しに捉えた彼の姿の全体を染め上げて仕舞うほかないのだが、私たちをそっちのけにしたわがままな沈黙の後で、「ねぇ。」

ハオが言う。

「日本の女って、めんどくさい。」

慶輔が声を立てて笑った。なんで?

「静華。ひっぱたかれた。わたし。」

「どうして?」と、言った慶輔は、ハオの見せ付けたただ単につぶらな眼差しがおかしくてたまらない顔を素直に曝して仕舞うのだが、「ピストル、ね?チャカ。あれ。」

「ハオさんが売ったやつ?レイに。」

そう。静華、檜山さんのところで会った。会社。事務所。私が入る。静華、いた。ソファ、座ってる。女王様みたいよ。すぐ静華、来る。ひっぱたく。駄目だよ。」大袈裟に顔をしかめたハオの表情に、幼げな自嘲が浮んだ。俺もさ、ヤキがまわっちまったよ。そんな。

薄く。

「赦さないから、とか。言った。けど早いから。怒ってるからね、早いから。言葉。ぺらぺら。なに言ってるの?って。檜山びっくりだよ。私もびっくりだよ。」

「それ、いつ?」

「昨日いや、今朝よ。一時だったから。朝、ね。」

「で、どうしたの?」

「そのまま。出て行った。静華。お尻振って。終わり。檜山は聞いた。なに?って。あなたを赦さないらしいよって。何したの?って。」

「どう言ったの?」

慶輔は笑い、私も笑う。ハオはわざと困り果てた顔を作っておどける。「静華の男にピストル売ったって。」

え?

「零くん。彼に。だからね。檜山にね。言った。わたし。あなた、殺されるらしいよって。」

え?と。その、え、という短い一音節を私がつぶやく間もなく、ハオは声を立てて笑うのだった。

例えば、私はその時に、ハオの胸倉をつかんで殴りつければよかったのだろうか。あるいは、せめて怒鳴りつけ罵倒するべきだったのだろうか。私も慶輔も、なにも、あっけにとられていたわけではなかった。むしろ単純に、私はすでにハオを赦してさえいた。ハオには悪びれるふうもなかった。彼に何らかの企みがあるわけでもないことは察せられた。明らかに彼は、彼が見た風景をそのまま見たままに言っただけにすぎなかった。むしろ誰よりも素直なのはハオのほうだった。彼は事実を言っただけだった。たとえば、空が青いです。と。その嘘偽りのない表明に、悪意を認定できるすべなどなにもなかった。そのとき、空が雨を降らせてでもいない限りは。そして、零一のまわりに雨はどこにも降ってはいなかった。

ハオは身辺の雑多な話を始めた。彼が自分の女にしている四十女が最近子供を欲しがっていること、彼女が追い出した元夫から慰謝料請求されたらしいこと、いそいでそっちの始末をつけてやらなければならないこと、近くの雑居ビルのオーナーがある風俗店を追い出したがっていること、そして、そのオーナーはケツ持ちの檜山たちに相談したのだが、笑うべき事は、檜山たちはその風俗店のケツ持ちだったから、彼ら自身ではなにも出来ないこと、その話も自分が片をつけて遣らなければならないこと。

その風俗店の話は知っていた。《きらきらパラダイス》というその店のオーナーは、檜山たちの許可もなく客に薬物を売りさばいていた。軽度な錠剤から覚醒剤に至るまでの禁止薬物を。だれもが知る有名な話ではなかったが、知ってる人間なら知らないものはいない程度の話だった。薬物の出処は結局は檜山たちなのだから、彼、その風間という偽名の男がいくら高額をふっかけて売りさばこうが、檜山の知った事ではなかった。たぶん、そのオーナーのほうが、警察の手に自分の所有ビルに入られる前科をつくって仕舞うのを嫌がったに違いない。彼は赤坂に本拠を持った、在留中国人系のマフィアだった。そもそもがハオは個人的な雑多な仕事に忙しく、檜山の流してよこした外注仕事になど興味もないが、断るわけにもいかないのだと愚痴った。「駄目だからね。」そして「わたし、いないと。」想い出したように「檜山さんは。」静華に対する愚痴が始まった。

忙しいと言ったわりには数十分も、私たちのテーブルで時間をさんざん潰した挙句に、手を振りながらハオは立ち去って行った。私は、私と慶輔が話す話題などもはや何も想いつきはしなかった。当たり障りのない仕事上の話でもする以外には。ほとんど何も話し合わないうちに、語られるべき言葉自体に、私たちはすでに飽きていた。今更曝すべき身の上話もない。そんなものは、いまだなにも語られないままに、すべて、語られ尽している実感があった。

私たちは沈黙するしかなっかった。あるいは、人眼を気にもせずに口付けあうでもするよりほかには。そして、そんな気にさえなれなかった。生きてるかな?

慶輔が言った。

「あいつ。まだ?」

私のその言葉に、うなづきもしない慶輔に私は微笑みかけて、あるいは、私の頬が笑みに崩れた瞬間に、私たちがむしろ零一を裏切って仕舞っている実感を、ただ、私は感じていた。

 

葉が、私たちを見ている事は知っていた。背後で。壁に背をもたれて。愛は気付いていたのだろうか。その、刺すような葉の眼差しに。不愉快なほどに、異常な発汗が愛の身体を濡らしていた。自分のふれているものが、自分に直接ふれながら壊れていく容赦もない実感が、むしろ私をいじきたないほどに恐怖させ、その、どこかに自己憐憫さえ含んでる気がした恐れを私は自分で軽蔑して仕舞いながら、愛のなかで、自分のそれがすでに機能を失っていることに、後れて気付く。

それはまだそこに抜け落ちずに在るというだけで、とっくに何をしているわけでもない。私の全身の筋肉と筋は、かすかな発熱を帯びて、そこに巣食っているはずの、傷めた苦痛などもはや忘れさせられていた。愛の肌のかき棄てた大量の汗が、私の肌をべとつかせた。

不快だった。愛は四肢の、腹部と首筋とまぶたと顎に到までの、さまざまな無残な引き攣けをとめられないだけで、私を見つめた眼差しにとっくに意識など感じられなかった。見つめたまま、あるいは、まぶたが閉じられるべききっかけを失って仕舞ったままに、愛はすでに失心していたに違いなかった。わななき、騒ぎ立つ痛みの知覚の連鎖の中に。その見開かれた眼差しがなにかを見ていたとしても、例えば夢を。私の体中に、容赦ない疲労が意識されていた。私はただその疲労にだけ力尽き、果てて、わななく愛に身を預けた。

息遣った。

愛の身体は、自分勝手に、もはやその引き攣けそのものをむさぼっているとしか想えなかった。痛みなど、すでに麻痺して仕舞って、どこにも存在しないのかも知れなかった。その内部のどこを探したとしても。感覚器が感じたそれが、それとして感覚されないのならば、感覚された感覚など一切存在していないに異ならない。

私は、私に留保なく実感された私自身の、他人の汗まみれの無様さにただ、苛まれていた。

結局のところ、私にできたことは何もなかった。あるいは、したことさえ何もなかった。愛はむしろ勝手に壊れて仕舞ったに他ならなかった。そして、彼女は未だに壊されきりもしないままに、そこにかたちをとどめ続け、間歇的に荒れる息遣いを曝しているにすぎないのだった。

痙攣するたびに、愛の爪さきが引っ掻く背中の皮膚の苦痛に、私はときに背すじを緊張させる。眼差しに映る何もかもが、私にただ敗北だけを曝していた。横目に見獲た葉さえもが無残に、敗残者としてそこにたっていた。傍観者にすぎない葉に、存在価値などあるべくもなかった。

私が身を起こそうとすると、私の体を堅く抱きしめた愛の腕はすぐさま、力なくほどけた。ただ、彼女の腕は、筋肉自体が無意味な硬直と弛緩を繰り返しているに過ぎなかった。私の体は抱きしめられてさえいなかった。一瞬、嘲笑うように微笑んで仕舞った私のたるんだ頬を、そして振り向き見た先にたたずむ葉は見ていた。

刺すような、と、その眼差しは、そうとも言えればただ、眼を凝らしているだけだ、とも言えた。彼女が屈辱に塗れているのは事実だった。

私は眼をそらした。

葉の傍らをそのまま通り抜け、廊下を歩いた。葉は、何も言わずに私のあとに従った。足の裏に、ペントハウス中に敷かれた白い絨毯の絨毛がふれた。開かれっぱなしのドアのひとつひとつが私の腕に一瞬だけこすれて、腕に触感の痕跡を残した。リビングの中に、何の変わりなどあろうはずもなかった。かすかに残存した人間の体臭の、異臭じみた臭気がうすく張っている気がした。ねぇ。

葉が言った。

背後のすぐ近くに立った彼女の気配があざやかに感じられ、私は彼女の声を聴く。「どう想う?」

なにを?

言った私は振り向きもせずに窓の向こうの風景を見るが、そこに見えているはずの明治神宮の森も、ただ暗く翳るばかりでその存在の息吹きさえ曝さない。

「あなたへの想い。」

「なに?」

「どう想う?」

「なにを?」

「わたしの気持ち。」憎んでる?

葉は、

恨んでる?

つぶやく。

軽蔑してる?

それら、

バカにしてる?

言葉を

忌み嫌ってる?

想いつくままに。

なに?」言った私の声を無視して、「好き。」つぶやく。「大好き。」葉は笑った。邪気もなく。

葉が言い終わらないうちに、私は振り向きざまに葉をひっぱた。そのとき、葉は息を詰めるしかない。

自分の足元に堕とされた葉の眼差しはむしろ何をも語らない。怒りも、軽蔑も、悲しみも、なにも。てか、ね。と、ややあって葉がささやき始めたときに、私はソファに身を投げ出していた。「たまらない。」のけぞってもたれ、「好きで、好きで、大好きで。」閉じられもしない眼差しは、「我慢できない。」窓のガラスに映った室内の「あなたのことしか考えられないの。」白濁した反射に「好き。」邪魔されて、「いま、」空の黒さをさえ「死んじゃいたいくらい」満足には、「好き。」見い出せはしない。知ってた?

葉が言った。

「知らなかったでしょ?どう、想ってた?」私のこと。

私が身を起こしかけたとき、葉は私がふたたび彼女を殴りつけて仕舞うと想ったに違いなかった。葉は一瞬身を固め、明らかなおびえを眼差しに曝した。いいよ。

もう、別に。」葉は言う。「何されてもいい。」する?

「お姉ちゃんみたいに。ぼろぼろに。「ぼっ、ろぼろ、に。」したい?「する?」ね?「なにしたい?」キス?「殴っちゃう?」あいつみたいに。「強姦するの?」やばっ、「あんなふうに。お姉ちゃん、どう?「何をしたい?わたしに。

「お前はなに、したいの?」私が「され、」言ったとき、「たいの?」葉は言葉を詰まらせ、そして、彼女は声を立てて笑しかない。明らかな軽蔑が、その音色に在った。

誰に対する軽蔑なのかは、知らない。「なんにも。」なあーん、

「にも。ただ、」ね?

「好きなだけ。」私が声を立てて笑う。私たちは零一がすぐに殺されて仕舞うものだと想っていた。そうではなかった。

むしろ、ハオが私たちにハオの告白を告げてから、零一は1週間以上、何事もない日々を送った。相変わらず静華は店には顔を出さず、零一は店が終れば静華と待ち合わせした飲食店で時間を潰し、そして、歌舞伎町のホテルに行った。そして時に、静華を連れ込みさえして私と慶輔の渋谷の部屋に顔を出し、たった一つ赦された暇つぶしのように、一度も発砲されないままの拳銃と何度も戯れた。

静華さえ、その拳銃との戯れを笑っていた。いつくしむように眺めやりながら。いささかも諌めさえせずに。いつか始まるはずの、そこにまで迫った事件はすでに終って仕舞っていた気さえした。そして、いまだに静華は檜山の女であるままだった。唐突に鳴らされた自分の携帯電話に静華は、ぐずる零一に「誰だよ。」長い時間の言葉の「ね?」慰めをくれて、「誰?」そして「客?」部屋を出て行った。

檜山は静華を詰めることさえなかったようだった。ハオの話を聴いたあと、渋谷の部屋に寝に帰ったときに、部屋の鍵さえ閉めずに勝手に上がりこんだ部屋の中の慶輔のベッドの上で零一が寝ているのを、私たちは在り獲ないものを見る眼差しで見つめ、そのまま放置し、その話はなにもなかったことにして仕舞った。

ハオが零一と静華のことを、檜山に全部言って仕舞ったことさえ、私たちは零一にも、静華にも言わないままだった。口を閉ざしたのではなくて、単にそのきっかけを失って仕舞っていただけにすぎない。その、いつのまにか、起こるべきだった危機的な事件がもはや消滅した気の抜けた倦怠感に引き摺られたままに、私たちは零一と戯れているしかなかった。

その日、ベッドの中で寄り添いながら、私は慶輔が寝息を立て始めたのには気付いていた。やがてまどろみ始め、意識が白濁していくことを意識は気付きもしないままに、不意に叩きならされた呼び出しベルに眼を醒まさせられる。古いマンションの、建築当時から取り替えられていないに違いない旧式のそれが、いかにも旧式な、甲高くあざとい破裂音をなんども立て続けに鳴らされる。慶輔の安眠が阻害される可能性に、私はおびえた。

そんな事をするのは零一しかいなかった。慶輔はなじるようなうめき声を立てて、寝返りを打ち、目覚めもしない。ドアを開けると、零一と静華が笑っていた。「鍵、もってるだろ?お前。」

適当に腰にバスタオルを捲いただけの私を見ても、崩れそうに零一に身を預けてやっと立ち、あきらかに泥酔した静華は表情さえ変えはしない。

何の変化も見せない、ただたるんでにやつくだけの、酔いつぶれた赤ら顔をほころばせて、静華は声を立てて笑っていた。甘ったれた声が耳に衝いた。いま、目に映るものすべてが、自分を笑わせないではおかないのだと、留保なくだれにも公表しないではいられない、ふしだらな泥酔者の自分勝手さと穢らしさに、想わず私は眼をそらす。

「いいじゃん。」笑いやんで、ややあって耳にささやきかけた零一は、たいして飲んでいるわけでもない。「たまには、あけてよ。」ハナちゃんが。入れよ。

さっさと。」言った私に、零一は微笑みかけて、ひとりでは立てもしない静華を抱きかかえるようにリビングに運ぶ。筋肉の緊張の完全に弛緩した静華の体中が、単なる発熱する汚物にしか見えない。「珍しいじゃん。」携帯電話で確認すれば午後三時。「静華が、」一体どこで「こんなに。」飲んでいたのか、いずれにしてもいま、静華に付き合わされてぼろクズのように酔いつぶれたサパーのだれかが、歌舞伎町のどこかのその店で、自分が吐いた寝げろにでも塗れながら病的ないびきでもかいているに違いなかった。

過剰に酔いつぶれた静華は、その皮膚に、皮下脂肪から直接発されたような、不愉快で湿気た発汗と発熱を撒き散らしていた。零一は放り投げるようにソファに彼女を投げつけ、静華の身体はクッションに撥ねる。息を詰まらせて、顔をしかめた一瞬の後、零華はわざとらしい悲鳴をあげた。彼女は、声を立ててひとりで笑った。「どうしたの?」

問いかける私に、零一が一瞬沈黙し、次の瞬間に噴き出して笑い、

飲んでた。」

「見ればわかる。」水。

つぶやく。「水、飲みたい。」そのくせ、私に水を求めるでもなく、自分で取りに行くでもなく、片足を背もたれに持ちあげて仕舞って、零一はソファに寝転がった静華の傍らに座り込む。疲れた。

言った。「まじ、つかれた。」

「なんかあったの?」なんにも。

「なんっ……にも。」と。私を見あげた眼差しが、媚を含んでいつくしむ色彩をいっぱいに曝す。「ふたりで飲んでたの?」

「中国人と。」

「ハオ?」

「すげぇいいやつ。知ってた?「あいつ、まじだよ?

「ハオの女いるじゃん。でぶのおばさん。」ああ、と、相槌をうった私から、不意に零一が眼をそらした瞬間に、その髪の毛の全体はかすかに揺れる。「あの人、さ。」まじ笑う。「こいつのお母ちゃんなんだって。」

私は声を立てて笑った。「それ、まじ?」

「まじ。」

「笑う。」こいつら、まじ馬鹿。零一は言った。

「こいつら、ふたりそろってまじ、馬鹿。糞。カスだから。」容赦のない嘲りが、憤りさえ含んで零一の眼差しに浮んでいた。自分勝手に零一の胸倉を細い指先につかんでもてあそび、ひとりで戯れ続ける静華を見ていた、その、伏せられた眼差しに。「お母さんと一緒に飲んだの?」そう。

「お袋さん、ハオ、俺と、こいつ。あと、

「だれ?」

檜山。」零一が声を立てて笑う。すっげぇ、つぶやく。すっげぇ、繰り返し、まじ。まじで。なんども笑い声に声を乱して潰して仕舞いながら、「すっげぇ、燃えた。」

「まじ?」

「あいつ、たぶん気付いてるね。俺らのこと。一応まだ秘密じゃん?だから、秘密でいちゃつくの。俺ら。すっげぇ燃えるの。全部ぶっ壊してやりたいんだけど、我慢するじゃん。すっげぇ燃えるの。まじだよ。まじ、たまんねぇ。先っぽ濡れちゃうよね、まじ。」

「頭おかしいの?」そう。独り語散るそうにそう言い、「まじ、そう俺、

「たぶん快調に発狂中。」零一は笑った。笑い声を張り上げて、笑い転げ、ときに不意の呼吸困難さえ引き起こして仕舞いながら、零一は笑っていた。私は唐突に気付いた。いま、眼の前に零一がいるということは、零一がまだ生きているということだという、どうしようもない事実に。

私は微笑み、そして零一に同調しながらときに笑っていたのだった。かならずしも彼につられたわけでもなくて。むしろ、零一の無邪気さが私を彼に共感させていたのかもしれなかった。

何の留保もなく。笑い声がやがて不意に落ち着いて、んー零一が鼻に言う。

「何回もキスした。投げキッス。ハオにも、誰にもばれたね。あれは。もう、露骨に。全部。露骨、あけすけ。俺、いっぱい投げたよ。チュッて。チュチュチュッって。檜山がこいつに話しかけてる隙とか。こいつも。ぜったい、ばれたから。あれ。マジで。やばいよ。まじ、」てか、ね?まじうけるんだけど。

零一が、ややあって、ふたたび想い出してふたたび笑う。なんども。

「なんで、静華、ここにいるの?」檜山いたんだろ?

言った私を零一はただ投げやりに見て、ややあって静華に目線を投げたが、眼差しは彼女にふれた瞬間に、その対象へのいつくしむような軽蔑に堕した。「連れて帰った。」静華はわめき散らすようになんで、「あいつ、」お前ら馬鹿なの?言葉を無意味に吐く。

「檜山さん、これからなんか事務所行くらしいからさ。馬鹿だろ?自分が連れまわしといて、それで持てあましちゃってんの。こいつのこと笑う。」だから、

「連れて帰ってきた。俺が。」檜山の姿が想像できる気がした。たしかに、静華の奴隷にすぎない檜山には、めずらしく酔いつぶれた静華を介抱にしてやる技量もなにもなかったはずだった。困り果てた檜山に、すうっと近づいて、あからさまな軽蔑を眼差しに微笑んだ零一が、「俺が、送ってきますよ。」

そう言ったとき、檜山の眼差しにはどんな色彩が浮んだだろう?戸惑いを隠して強がった、弱々しい家畜じみた眼差しだったのか、あるいは殺意を押し殺した冷たい憎悪の、冴えた眼差しだったのか。いずれにしても零一は静華を連れ出して、そして、檜山は改めて知った事になる。酔いつぶれた自分の女が還りつくべき場所がどこであるのか、それさえも眼の前の男が知り尽くしていることを。

ハオさんが送ってくれた。」

「ハオ?」

「ハオの女と。」

ハオの女には会ったことがある。店の中でも。翔子という名のその女は、肥満しかかった豊満な体を揺らしながら、いつでもワインばかりあけた。ホスト・クラブがでたらめに並べただけの、並行輸入の質の悪いワインの、劣悪な保存環境の中で死にかかっているワインの群れに、あまりにも正統すぎる罵詈雑言を浴びせてやりながら、それでも女は浴びるように飲んだ。

色気づいた顔立ちの中で、ただ切れ長の、引かれた濃いラインがいっそうその切れ長さだけを強調させて仕舞った眼差しを曝し、にこりともせずに、恥じらいながら媚びた笑みでも浮かべていなければ言獲ないような戯言を、真顔のままにその唇から垂れ流した。いやになっちゃう。ハナちゃん色っぽすぎて目舞いしちゃいそう。

ただ、冴えた表情のない眼差しで私を見つめて。

「おばさん、

やだ。ほんっとうに。

「根掘り葉掘り聴いてくるの。」

やばいくらいかわいいのみんな。

「なにを?」

本気?本気なの?

「こいつとの話

おばさんもうとけちゃうからね

「もうやっちゃったの?とか。」

やばいくらいめろめろ

「こんなののどこがいいの?とか、」

とろけるちーずじょうたいでめちゃくちゃ

「本気?遊んでるだけでしょ?」

まじでおばさんゆうわくしてる?

「なんて言ったの?」

ね?おばさんのどこがすき?

「本気ですよって。俺、」

ぜんぶ?とけるうまじ

「こいつ、本気だからって。」

「嘘だろ。」それ、と言った私を「完璧に嘘じゃん。」零一が見つめ返し、「絶対的に。」眼をそらし、そして。

鼻でだけで零一はちいさく笑う。「本気だって。」言って、その自分の吐いた言葉の音響を、たぶん耳の中で咀嚼した数秒のあとに、不意に零一は声を立てて笑った。

ソファに大股をひらいて、布地のほとんどない下着まで見せ付けて巻き上がらせた太ももの肉付きを、線の入ってしまった卑猥なだけのストッキングの向うに曝し、弛緩したままにゆらゆらばたつかせながら。その、静華の眼差しがルーフ・バルコニーのほうをあてもなく彷徨って、逆光の光。

その位置から、見あげた静華の眼差しが捉えたのは逆光にかすかに昏んで仕舞った空の風景のはずだった。

窓枠に、綺麗に切り取られて仕舞ったちいさな人間の眼差しサイズの空。その、窓枠を取っ払って仕舞ったところで、結局は人間の眼球と頭脳の限界をそのまま曝して、人間が許容できる大きさに過ぎない湾曲した青い形態を曝すしかないちいさな空。

だれが、大いなる空などという一度も見獲もしなかった戯言を言って仕舞ったのか。空は自分の存在のすべてなど曝しきったことがないままに、だれのためにでもなくただそこに、なにも曝しきれもしないままに停滞し続けるに過ぎなかった。穢らしいだけだ。

静華の口が、適当に感嘆句をならべて見せた。やべぇ。すっげー。まじなのぉ?それらの想いつく限りのヴァリエーション。よくもそこまで想い付けるものだと私は意識のどこかでそれらのただ吐き棄てられるだけの言葉を聴いたが、乱れた息遣い。吐かれる息のすべてが酒気に酔う。

笑ってた。」

零一が言った。「おばさん、笑ってたよ。」

お母さん?」そ。ハオを

「中国人に外車運転させてさ。要人気取りだよ。旦那から巻き上げたあぶく銭しか持ってないくせに。中国人に食わせてもらってるだけの癖して穢ったねぇの。「人殺しの金だぜ。お願いね。「って、さ。」陽菜子のこと、よろしくねぇえ

その、翔子の口真似が私の耳につき、私は源氏名静華の本名を知った。「おしあわせにねぇえ笑う。まじ、「まじ、うけるんだけど。」

零一の眼差しに笑みは跡形もなく崩壊し、静華がときに想いだしたようにたてる気の立った笑い声以外には、笑い声などなにも響きはしない空間の中に、しずかに零一の眼差しは黒眼にこまかく白い光の反射を散らす。

きらめき、とは、言い切りたくないかすかな息遣いのようなきらめき。の、ようなもの。

私は瞬いた。

逃げたら?」

私は言った。

逃げるって?」

「どっか。静華連れて、逃げたら?ハオだったら何とかしてくれるんじゃない?」

「中国とか?」

「知らない。ハオなんかさ、信用なんか一切できないけど、信用できないやつだってことは信用できる。裏切らないよ。あいつのぜんぶが最初から単なる裏切り以外のものじゃないんだから。そういう意味じゃ、信用できる。」

「わかんねぇよ。なに言ってんの?」零一の唇が笑い声を不意に「むずかしーね。」漏らして、その「ハナちゃん、」唇は一瞬「むずかしーよ。」停滞し、なにか言葉を探した。馬鹿にしてるの?

なに?」

そう言った、私の眼差しの先には零一がいる。静かに、「俺のこと、ハナちゃん、ひょっとして、」私を見つめて。「馬鹿にしてるのかな?」

「なんで?」

「俺、本気だから。本気で、」指先。「こいつ、さ、」静華の鼻をつまんで、「本気で本気だから。」無造作に戯れてみせる。

ぶうっ、と。わざと静華はつままれた鼻をならして、自分だけ声を立てて笑った。

 

「なんで好きなの?」

私は葉を見つめていた。

俺のこと。」

葉は私を見つめ、かならずしも私たちがお互いを見つめているわけではないことには気付いていた。

私たちは見詰め合っていた、お互いに、お互いに対してその眼差しを、投げつけてみるしか為すすべもないのがった。私の眼差しが何の表情をも語りかけはしていないことには気付いていた。そこに見つめられている、葉の眼差しと同じように。

好きだから。」

葉の声のその語尾が、彼女自身の笑い声にかすかにふるえた。「答えになってないよ。」ややあって、後れて投げやりな笑い声が葉の半開きの口から立って、私は彼女のためにだけ微笑んでやった。ね。

葉は言う。

「宿命って信じる?」

宿命?」

「とか。ね?前世の約束とか。運命。使命。さだめ。

「なに?」

「とりあえず、ぜんぶ宿命のせいにしちゃおうよ。」ね?「ぜんぶ。いい?」

葉の、媚もなく綺麗に笑んだ眼差しが私に、じかにふれた。蹂躙するように、容赦もなく。「いいよ。好きにして。」私は言った。

「宿命。前世の、その前世の、そのまた先の前世の、前世の前世の前世の、ずうっと。ずうっずうっとずうっと前から、」ね?「約束されてたの。私たち、出会うこと。愛し合うこと。で、生まれたの。笑う。私たちが愛し合うために、この世界は。まじで笑う。地球の歴史も、生命の歴史も、なにもかにも。アウシュビッツの犠牲者もヒロシマの死者たちも、どこかの国の大虐殺も、どこかの軍部の一斉蜂起も日本人が殺したアジア人の大量の群れも。地震も津波も火山灰も。マチュピチュの絶滅も月の荒野も乾いた海も、海王星のダイヤモンドの海もなにもかもぜんぶ。昨日、蝶ちょがバルコニーのスイートピーに止まったのも全部、いま、わたしとあなたがここで見つめあうためにだけ。愛し合うためにだけ。すべては、わたしとあなたの宿命。それ以外になにもない。」

いいね。」

「そうしちゃう?そうしちゃおっか。」笑む葉の眼差しに邪気はない。「ね?」なにも。「そうしよう。」そして、私の眼差しの先に立ちつくしたまま葉は、もはや自分の吐くべき言葉の不在を、あるいはもとからのからっぽな空虚を、ただ嫌悪して無理やり埋めようとするままに、彼女は彼女の言葉を探した。「好きだよ。」

葉の声。

「あなたのこと、」

聴く。

「好きだよ。」

葉の声を、私は。

想像していい?」

不意に、想いつかれた瞬間に葉の眼差しが企みをもった。

「なにを?」

「キス。」ん?

「キス?」

「ふたりのキス。」あつーい。

あつーい、ふたりのキス。「いい?想像しちゃって。」

音響。耳にふれ、

「だめって言っても、」ね?

聴こえる音響は、もはや

しちゃうけど。」

むしろ葉の声のその

「想いっきり、んー。

音響それだけだった気がする。

「べっちょんべっちょんなやつ。」

そんなはずもない。事実、無残で、凄惨なまでに空間はさまざまな、かすかな、微細な、雑音に塗れながら、停滞することないのない存在を曝し続けて、留保なく無慈悲なまでのそれらの固有の停滞を曝していた。無数の雑音に塗れた。息をひそめた微弱音として。私は葉の言葉にだけ、そしてその不意の空隙にだけ、まったき沈黙と静寂を感じた。私は私自身をすでに裏切っていた。私は世界そのものを裏切っていた。あるいは、世界そのものは私を。てか。

不意に、葉が言った。「てか、ね。ん。ね。んー、

戸惑いを無造作にその眼差しに曝し、恥じた色さえ浮かべて、困惑の数秒のあとに、声を立てて笑った葉が言った。「名前、なに?」

たしかに、私は葉にいちども名乗らなかった。彼女が私の名前など知っているはずもなかった。「ハナちゃんなの?ひょっとして花雄くん?笑うね。なんか。」

想像してよ。

そう、葉は言った。「ね。花雄くんが想像して。私のこと。むしろ。花ちゃんが、私とのこと、ぜんぶ。百億回繰り返すキスも、一億くりかえすえっちも、しあわせなデートと、最高の結婚生活と、じゃっかん梃子摺る子育てと、老後と。想像して。わたしの幸せな死。花吉くんがやさしいことばをかけてくれながら、いっぱいめに涙をためて見送ってくれるの。必死になって泣き崩れるの我慢して。強くならなきゃ駄目だって。でも、ね。私が死んだあと、花ちゃんはもう朽ちた花。からっぽなの。なんにもないの。すかすかなの。からっからなの。私がすべてだったから。葉っぱのない花なんて想像できる?ね。想像して。」ぜんぶ、「想像して。永遠の先まで。私を見つめながら。」

ね?

零一は言った。

俺があいつ、ぶっ殺すところ。」想像してみて。「どんなだろ?檜山の死ぬところ。奪うから。

俺。まじで。」こいつのこと。

まじ。」

眼差し。

「本気だよ。ただ、愉しんでるの。」

確かに、零一は本気でそれを言っているのだった。

「猶予って言うか、その、俺の手のひらの上に転がってる時間を。」

眼差しに、媚も気遣いもなにもない。ただ、彼は、彼の眼差しが見ているに違いない風景を見ているに過ぎない。

零一は声を立てて、かすかに笑った。笑い声は、喉にすこしだけかすれた。ほら。

零一が手のひらを差し出して見せる。もちろんそこにはなにもない。「ほら、」私は零一の見るものをは見ない。零一は、

「ここに、ぜんぶある。」

つぶやく。舌に嘗め回すように、その音を口の中に転がして。

「あいつら、ぜんぶぶっ殺す。」殺されるよ。

私は「殺されちゃうぜ。」言った。「そのうち、檜山に。」

「知ってる。」声を立てて笑った零一の眼差しに、一瞬だけ明らかな私への、あるいは彼が眼差しに捉える自分以外の私たちすべてへの軽蔑が浮ぶ。そして、その色彩は自体はすぐさま消えうせて仕舞うものの、結局は消え残った名残りの痕跡の執拗さが、私に彼の蔑意の鮮烈さを感じさせてやまない。私は彼の投げつけた軽蔑にまみれてやった。

「みんな、そう想ってるでしょ。知ってる。ぜんぶ、知ってる。それならそれでいい。殺されたならそれでも同じ。逆に言えば俺は俺をぶっ殺したんだよ。それだけ。違う?」

「いつ?」

「知らない。ここにある。」零一の手のひら。

実際には、労働らしい労働などいまだかつて、一度たりともすることのなかった彼の手は、「ぜんぶ、」ただ、「ここにある。」真っ白く、やわらかく、「ここに、ここで。」お姫様じみた華奢な気配を持つ。「それを、」ね?「愉しんでるの。」俺。いま。

零一が瞬いて仕舞った瞬間に、私は自分の心さえ一気に跡形もなく自壊した錯覚に駆られた。指先で、私は自分の眉間の、いつの間にかしかめられていた醜い、あるいはかならずしも美しくはないはずの皺みを、伸ばした。なぜ、いまさらそんな事をするのか、自分でも分からなかった。「何で笑ってるの?」

かすかなおびえを、あからさまに曝しながら零一は私をのぞき見た。「なんで?」

私は微笑んでいた。あるいは、より正確に言うなら、失笑。苦笑。私の頬のゆがみと眼差しの色彩が曝していたのは、そういったもの。なんでもない。

「うそ。」

「なんでもないよ。」

「本当のこと、言ってよ。」早口に食い下がる零一の頬に、ひっぱたくように、酔いつぶれた静華の指先がなんの遠慮もなく戯れていた。単なる古びたぬいぐるみを今更破壊して仕舞おうと、その気もなく目論んだ、そんな、その無造作な手つきが零一の、鼻をいじり、鼻の穴にさえ突っ込まれて、頬をなぶり、唇をもてあそび、口の中に突っ込まれようとした指が歯にぶつかって行き場を失い、彷徨い、そして零一は取り立ててそれに抗おうともしない。

感覚器さえ失った、でくの坊が私を見ている錯覚に捉われた。なんで?

「なんでうそつくの?なんで本当のこと、言ってくれないの?」

ややあって、私は零一の眼差しに赤裸々な絶望が無造作に、そして素直に?そこにただ曝されていたことに気付いた。私の微笑みにはいつくしむやさしさだけが浮んでいたはずだった。零一がそれを見失っているに違いないことが、私を猶予もなくおびえさせ、零一の左の眉の端がかすかに一度だけふるえた。

私たちは数秒の間、見つめあうしかない沈黙をむさぼった。空間の下方に、意味の分からない、もはや私たちのどちらにも聴き取られてさえいない静華の戯言がでたらめに散乱して停滞していた。零一は前触れもなく立ち上がった。

零一は微笑んでいた。その微笑は私にただただ安らぎを与えるばかりで、そこになんの屈託も在りはしない。彼が、微笑んでいる事実をさえ、一瞬で私から忘れ去らせて仕舞ったほどに。

立ち上がった零一の眼差しが、私を見つめたのはただの一瞬に過ぎなかった。背を向けると、雪。

私は静かに降りしきる雪を見ていた。知っている。私の最期の瞬間に、私の眼差しが捉えるしかない、その風景。

海に雪が降っていた。空は白い。

雪は白く、海はその塩漬けの有機物を腐敗させたような潮の匂いを撒き散らしながら、にもかかわらず白い。

空の白さへのなんの拘りもない擬態と擬色を素直に曝し果てて、結局はその色彩を打つ浪のこまかな破断面の群れの翳りが裏切って仕舞う。いともたやすく。かつ、容赦なく。むしろ、それはこれ以上考えられないほどに凄惨な営みだったのかも知れなかった。

海は、それみずからの色彩をさえ無造作に自ら破壊し、自己破壊の色彩さえ自ら破壊して仕舞わざるを獲ないのだった。それは、海そのものが曝したそれ自身の不可能性などではなくて、単に海のありふれた可能性が濫費する現実にすぎなかった。海に、破壊的でない要素など何もなかった。雪が降っていた。

白濁した色彩の中に、麻痺し果てた皮膚はもはや温度をなど感じ取りはしない。すべてのものが、光り輝きもしないままにその微粒子の単位に至るまでのその内側から、光のない光を放っていたのには気付いていた。

神々の光。そうとでも、名付けざるを獲ないもの。満たされていた。すべては光に。

容赦もなく。

雪が降り続け、私の眼差しはいつ私が死んで仕舞ったのかの、その瞬間の到来にさえ気付かないままに、ただ、見つめた。雪。

戯れ、舞い、散り、まっすぐに墜落し、あるいは乱れた。

雪。その色彩。

私はすでに死んでいた。

光。

零一はさようならも言わずに部屋を出て行った。静華を、自分勝手に私の部屋に置き去りにして。

私は想い出す。いつでも常に光を見ていたことを。光。

あるいは、むしろ光そのもの中に見ていたことを。

結局は、ありとあるあらゆるものが、あるいは、すでに私の眼差しそれ自体が光に過ぎなかったことを。知っていた。

すでに。見ていた。神々の、それ。

見飽きて仕舞っていた。

その光など。

なにも光ろうとはしない、光のない、あざやかすぎる光。神々の光。

留保なき、容赦もない救済の。光。私たちにじかにふれ、それらの光はただ、鮮明にすべてのものの救済をだけ、ただひたすらに志向して、光。

神々の光が、私たちの永遠の救済を、いつでも企む。気付いていた。もはや、静華の戯言がやんでいたことを。想い出す。静華がすでに沈黙していた事実を。私は静華さえもが終に眠ったに違いないことを確信していた。それが誤認であることなどすでに知りおおせて仕舞っていながらも。

伏せた眼差しが静華にふれ、光。戸惑う。神々の光が、そして私は静華の、私たちを救済していた。光が。横たわったソファの上に横向きの眼が、光。はっきりと見開かれていることに。輝かざるを獲ないものら。光。輝きなど一切放たないままに。静華は息遣う。むしろ息をひそめるようなそぶりさえをも見せて、そして、その眼差しは何も捉えない。すくなくとも私をは捉えもしないままに、「ね。」光。ささやいた静華の声が、私の耳の至近距離で鳴った気がした。なんで?と、静華は、「なんで?」声。止め処もない光。彼女の声に、明らかに私を咎めだてる、にもかかわらず絶望するばかりで、むしろやさしくいつくしむしかなかったその神々の光。救いの光。曝す。音色を曝す。静華は、「なんで、零を傷けたの?」言った。静華はそう言って、不意に私を見つめた眼差しに、すべての表情が喪失されていく。見つめる先から休息に、手の施しようもなく、光。「なんで?」私は、まばたく。

「なにが?」その私の声をなど、静華は耳に入れてさえいないことなど知っている。泣いているに違いない、と、私は想った。まさにいま、静華は泣きじゃくっているのだった。何の表情さえもなく、救済の光。あふれかえって、光。静華は。まばたきさえしないその眼差しを私は見つめ、「知ってた?」そう言ったのは静華だった。「なにを?」

神々の光が、ふれる。

知ってる?」わたし、酔っ払ってなんか、ないこと。言って、声を立てて笑った静華の眼差しが、無邪気な企みの色彩にまみれた。「ママにもばれてると想う。あの、中国人にも。それと、光。

「檜山にも?」私の声を、静華は聴く。刺し貫いた光の群れ。静華は一瞬、音声の手触りを耳になぜたが、あふれ返った氾濫。光の。噴き出して笑って、知ってたよね?

ささやいた。

「あんたも。」

違う?

私は、神々はすでに光。うなづく。神々はすでに覚醒していた。到来し、素手でふれ、確かに私はすでに気付いていた。静華が酔っ払ってなどいないことには。零一が無理やり、壁にぶつかりながら静華を部屋に担ぎこんだときには、すでに。その、しなだれかかって肩に縋り、泥酔した無様な尻を突き出したあられもない姿を目線に入れた何秒かあとには、「そんなわけないから。」もう。光の中に。静華がつぶやく。独り語散るように。「そんなわけないじゃん。酔っ払わないよ。わたし、あのくらいじゃ、全然

「なんで?」

静華は私の声に、一瞥さえよこさなかった。

なんで、嘘ついたの?」うそ?ややあって、静華は、すでに光は解き放たれた。つぶやき返す。「振り?酔った、振り?したの?」なんで?その、私の声を、静華が聴こえなかったことにして無視して仕舞うか、それとも答えてやるのか、一瞬逡巡したことに私は気付いた。「悲しいから。」

ややって、神々の救済の光。すでにすべてが救済された。静華は言った。「悲しくて、仕方なかったから。」

「なにが?」

「すべて。」

「なんで?」

知らない。」ねぇ。まばたく。光の神々。「本当に、知らない。」理由なんか。けど「悲しくなったの。耐えられないくらい。零くんね?「零くん」幸せそうなの。

「幸せ?」

「そ。そう。そそ。そ。そうなの。ね?幸せ。なんか、完璧、幸せそうなの。だから、なんかぶち壊して遣りたくなった。「想わず。

静華は言った。

「零一を?」

「自分を。幸せな零くんに、幸せになってる自分の幸せすぎる幸せ自体を。」

「なんで?」

「耐えられなかったから。幸せすぎて。ほんとに幸せなの。幸せすぎるの。だからぶち壊したの。酔いつぶれた振りして。」たぶん、ね「振りに、さ。嘘に。最初に嘘に気付いたのハオだよ。あの、頭のおかしいの。あいつ。すぐ、私ににやついたからね。次、檜山。てか、あいつは騙せないよ。結局。所詮ね。もう、全部感づいてるかもね。たぶんママが最後。ハオの車の中で気付いたと想う。もっと前かな?零くんにひとりでずうっと尋問みたいなのしてるの、それ見てこいつにもばれちゃったんだぁって。」でも、ね。「無理。あんな、ママのむかつく尋問強制回答させられてても、零くん幸せそうだから。馬鹿みたい。零くん、おどついてんだけど。はじめましてお母様、的な。ね、でも、うそついてもなにしても、零くん幸せなままだとわたし、結局幸せになるしかないから。だから無理やり酔っ払ったの。振りしたけど、振りしてるとほんとに酔っ払ってくるじゃんなのね。わたしは。」あらゆるものが、「すくなくとも、」あるいは「わたしは、そうなの。」あるいは窓越しの陽光さえもが、私の眼差しにふれるたびに光を見い出させていた。神々の、その、容赦もない救済の光を。いつからだったのか。私が光をしか見い出せなくなったのは。眼を閉じてさえも。眠りの中に在ってさえも。

知ってる?」

神々はただ、救おうとしていた。不意に、静華は言った。光のないその神々の光にうずまりこんで仕舞いながら。「人を好きになるってこと。」光につつまれて。

静華の鼻に、ちいさな笑い声が立った。「レイレイに逢って、初めて知った。零が教えてくれたの。生まれて初めて。結局、いまごろ」もう、三十三だよ、私笑う。まじ。「人、好きになるとねぜんぶ、んー。「自分の全部完璧に、純粋になっちゃうの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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奥付


わたしを描く女 ②


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著者 : Seno Le Ma
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