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わたしを描く女 #3

 

 

 

 

 

取り残されたアトリエの中は、単なる孤独を突きつけるだけの為すすべもない空間に過ぎない。

私は、空間のすべてに対して孤立していた。そこで私を受け入れるものは何もなかった。あるいはそのやわらかな腕に抱きしめてくれるべきのかもしれない葉さえもが、喪失されていた。私はすでに、留保なく破滅していた。目に映るもの、それらのそのすべてが、ことごとく悲しい。ただ切実で、そして、体中を、決して滅び獲はしない魂ごと切り刻んで仕舞うばかりに。

私はそのとき、すでに気付いていた。ひしゃげ、ゆがみ、ぐじゃぐじゃな変形を曝し、ただその色彩と形態の残骸だけを曝したそれらの絵。アトリエの隅に、うち棄てられたように薄い埃りをかぶった無数の油彩画のいくつかは、葉がいま描いてる、正確に言えば、これから彼女が書こうとしている絵そのものなのだった。それらは、間違いなく私のこの肉体だった。すくなくとも、彼女の眼差しが解像した限りにおける。

彼女が、わざわざポーズを取らせた私に対して、いまさら絵筆を取ろうとはしなかった理由など明らかだった。彼女はすでに、私の絵を描き上げていた。「モデルになってよ。」そう言ったのは、愛だった。

「いいでしょ?」モデル?

「葉の。」

早朝、ベッドの上、自分の体に注がれたシャンパンの匂いにむせ返りさえしながら、愛はつぶやく。「なに描いてるのかわかんない、単なるおあそびばっかしてる。あの子、」暇なのよ。なんにも「いいでしょ?」描くものがなくて

「いい?」

私が声を立てて笑う。愛はそのふしだらな音律を聴く。耳を澄まし、眼を細め、色気のない乳首を勃たせたままで。私の笑い声は、愛にとっては同意にほかならなかった。来なよ。

愛は、そう言った。

ふたたび辿り着いたリビングは明るい。北向きのそこは、日差しをやさしく、そこにいる人間たちのすべての毒気を抜き去りながら、ただ、ひたすらに明るい。匂いさえない明るさが停滞する。

無理やり連れてこられて、フルートグラスをつかんだままの葉をリビングの中央に立たせて、その正面に立った愛はなんども大声を出す。「か。ぁー」表情のない葉を「く。」覗き込んで、さらに「描く。」身振りと「かっ」手振りをくわえ、愛の「く、」手が「ぅうー」諭すように「かっくっ」フルートグラスを奪うのを、私は「がっが、」見た。

声を立てて笑った。私は。聴く。かっ、

く。その夥しいヴァリエーションの反覆。

そして私は、たがて眼をそらしたままの葉がスケッチブックに書いたまるっこい文字の指示の通りに体を捻じ曲げて、腕を後ろ手にもたげ、尻を突き出したのだった。

穢らしい、家畜かなにかのように。

差し込まれていた指先が肛門から引き抜かれて、慶輔がその匂いを鼻に嗅いでみせた。不意の、若干だけ自虐的かつ嗜虐的あるいは倒錯的な戯れのあたりさわりのないありふれたひとつとして。恥じらい。

「お前の、」

恥らう。私は。ね?

「匂い、するんだけど。」

言って笑った慶輔の顔の前に、わざと無様に尻を突き出して、初めて人眼にじかに曝した私のそれを、私は恥じていた。赤面さえして。慶輔の指先に移ったその体臭、あるいは、私自身の鼻腔にさえも匂われた気さえした体内の、生き生きとした臭気の在り様をも含めて。まともではない慶輔の、狂った奴隷に堕した気がしていた。そして、慶輔は私に抗うことなどできない下等な奴隷に過ぎなかった。彼の眼にし、鼻にかがれ、舌が味わい、皮膚がふれる、その、私のすべてが彼を容赦なく虜にしている事は知っていた。慶輔は犬だった。

慶輔は、私の、理沙の部屋で夜を明かした次の日の午前中に、直接オーナーを探し出してひとりで話をつけて仕舞った。マンションの管理人に聴きだしたのだった。その六十過ぎの二人の管理人たちが、私をうとましがっていることは知っていた。彼らにとって私とは、公式には事故死であっても、要するに早い話が自殺した、風俗嬢でジャンキーの頭のおかしな女が勝手に連れ込んでいた、管理組合の申請もなければもちろん承認もない二十歳になったばかりで住所不定の同居人だった。彼らがそんな私を良く想うはずもなく、そして結局は、所詮は、彼らは世慣れた慶輔の敵ではなかった。ほんの数分で下僕のように、ただ自分に尽くすことだけがとりえの犬っころを二匹、慶輔は捕まえた。そこは、もともとは分譲マンションだったので、オーナーはもちろん個人だった。私は、男なのか女なのかは知らない。そして、後れて部屋を訪れた四十代の不動産屋の口ぶりから察すれば、六十歳以上の女性らしく想われた、このマンションの数戸を所有しているらしいその人物は、事故物件になって仕舞った、マンションの中で一番高くていい部屋を、ただただ歎いていた。取引法上は、物件内における事故の存在は二世代前まで新規契約者に説明しなければならない義務があった。もう高くは貸せないわよ、と。「あんないい部屋なのに。」部屋の管理はその不動産屋が一手に引き受けていた。部屋まで訪れた不動産屋は、数分の間ごねてみせ、職務上の疑いの眼差しを慶輔と私に、交互に向けた。話が流れることなどありえなかった。不動産屋自身が言ったように、オーナーは慶輔をすでに信用しきっていて、さらにどうせ事故物件には違いなく、いずれにしても、冷却期間は必要なのだった。彼にとって、物件の冷却に私と慶輔くらいふさわしい存在はいなかった。二日後に持ってきた賃貸契約書のドラフトに、この物件での自殺、覚醒剤等禁止薬物の使用等反社会的行為があった場合、即刻立退きの上賃借人の全責任とする、と、書き込まれた追加文に、私は声を立てて笑いながら、自殺が禁止薬物の乱用と等しく、自殺した後も全責任を取らされる反社会的行為であることを知った。

初めて慶輔が私を、あるいは私が慶輔を、要するに私たちの体がお互いの体を初めて抱いた日、その終った後に、倦怠じみたまどろみのなか、深い午前から午後にまで、ただ戯れるだけの時間を濫費し、やがて私たちは夕焼けていく空を見た。

ルーフ・バルコニーに出れば、その西の空いっぱいに夕暮れの色彩が、空に曝されていた。その、みずからの素の色彩を無防備に曝した空のあられもない色彩が、巨大で、原始的な痴態にさえ想われて、私はそれをもはやふしだらにさえ想う。留保なく大きな、数億年の時間にわたって繰り広げられる、何をも見い出しはしない天体の無残なポルノ・ショー。人間種が滅びた後においても、もはや人間たちの眼にふれないままに、それらは飽かず繰り返されるに違いないのだった。人間が生まれもしない、カンブリア期の、あるいはその前の、冥王期の長大な時間の流れのなかにあってさえ、あるいは棲息する何ものかの眼差しか、眼差し以外の何らかの知覚かが、それを捉えるか、捉えられもしないままに、ただ、その光に差されていたに違いない野生の、ただひたすら剝き出しの光。いいかげん、

と。

服くらい着ろよ。」

お前、全裸のままの慶輔が、リビングのソファに横たわったままにそう言い、「てか、」私は不意に振り向きた眼差しに、その「そういう、趣味?」微笑みを見る。「お前、まさか。」慶輔は声を立てて笑った。

西向きの窓から差した光に、慶輔の肉体さえもが照らし出されて、彼の眼差しの中に、日差しの破滅的な紅彩に染まって仕舞ったに違いない私の素肌は、光に着色された複雑な色彩を曝しているに違いなかった。

「来いよ。」

言った。それは、私だった。私は笑い出して仕舞いそうだった。

「そこへ?」

慶輔の声。聴く。

「やだよ。」

私は幸せだった。満たされ、そして

「露出狂じゃないんだから、ごめん」

彼を愛していた。

「お前と違って。」

終に笑い出して仕舞った私に、つられた慶輔がたてた笑い声が耳の至近距離をなぜた気がした。見ないよ。

つぶやく。

だれも。」

私は。

「ここにはね?」

笑う。

「だれの視線も、」

ね、

ないから。」

立ち上がった慶輔の、私に愛されるためだけにあった身体は、ただ、私にとって美しい。なにがどう美しいのではない。それは暴力として、ひたすらに美しさだけをそこに存在させて、私を無残に打ちのめして孤立させ、放置して仕舞う。

ルーフ・バルコニーの、上空の風が慶輔の髪を乱した。

乱れて、彼の唇にふれた数本の髪の毛に、私は私たちが結ばれてあることを実感した。それはただ切実で、あざやかで、しかも不意に背後にささやかれたような、かすかな認識として。私は慶輔の髪の毛にふれて、親指はその鼻のかたちを確認した。

私たち口付け合うしかない。だから、私たちは口付けあう。私たちのそれ、勃起しはじめたもの自身が、意識の下方でふれあった、そのお互いの触感を確認しあう。抱きしめはせずに、ただ、至近距離の中に、それとそれが不意にふれあい続けるのを、私たちは愉しんだ。

 

確かに、鮮明な記憶として、どれも明らかに見たことが在る絵画がうずめたアトリエの空間に、倦んで私は行き場所を失った。その空間のなから、私は出て行くしかなかった。突き刺さって、私の骨を砕いて仕舞うような、そんなあきらかな質感を持った孤立が私を苛んでいた。植物のすべてが、私にあられもない沈黙だけを、さまざまに固有な研ぎ澄まされた牙として曝した。

葉は帰ってこなかった。

リビングに戻ると、愛は絨毯の上に身を横たえたままに、背中を向けていた。その向こうに、素肌を曝したままの葉が立っている事には気付いていた。葉は壁にもたれ、窓の向こうを見ていた眼差しを、私に投げた。私は眼をそらしていた。あえて、私は見ない。葉を。彼女は、どうしても美しかった。犯罪をさえ犯して仕舞え。わたしだけの為に。たとえ、それがわたしを容赦なく無慈悲に穢すことにならざるを獲なかったとしても、と。

その皮膚も、体の線も、色彩も、色合いも、髪の毛の一本さえもが、鮮明に命じていることは知っていた。彼女を見つめること自体がすでに、犯罪にすぎなかった。私は、彼女を見つめはしない。そして私は、彼女に姦され、すでに犯罪者にされていた。私は葉を愛していた。

自分をまたいで、眼そらしたままに葉に近づこうとする私の足に、不意に、愛がふれた。それは、かすかに伸ばされた指先が皮膚に、かろうじてふれ獲たにすぎなかった。足元の、体を横向きに投げ出した、すべてを放棄して脱力した女の、その身体を見た。痩せた、虚弱な、老いさらばえ始めた、ただただ見苦しいそれ。もう若くない。そして、生まれたときからすぐに、生まれたものは老いさらばえ始めなければならない。愛が、私を求めている事は、言葉も眼差しも何の表情もないままに、すでに私に理解されていた。倒れ臥して力尽きた女の傍らに、私はひざまづくようにすわり、その頬に触れた。愛はまばたきもせずに、床のすれすれの何かを見つめ、そして、私に視線を投げようともしない。私の存在など、気付いてさえいないかのように。

ながい、無意味な、あるいは、その意味をついにだれにも探ることが出来なかった沈黙の後で、愛が不意に声を立てて笑った。

私を見つめ、首を一瞬もたげて、髪を乱れさせ、いきなりあお向けた体をくねらせて、折り曲げ、ひん曲げさえして、そして彼女は笑う。肺を引き攣らせながら。ふしだらにもたげた両足をばたつかせ、恥じらいを知った手のひらは口を覆い、いずれにしても笑う。愛は。声もなく。その、乱れて図れる息遣いだけで。その指先が痙攣した。まぶたが引き攣って、首が左右に回されて、首筋に力みすぎた凹凸がはっきりと、何かの破綻を暗示しながら刻印されて、腹部の不規則な浪打ちが、そして、愛は笑う。何も言わずに葉はリビングを出て行った。

きれいでしょ?」

愛が言った。前触れもなく、いつか笑いやんでいた愛は、

「あの子でも、」

その眼差しにあざやかな絶望を曝す。

「何人なんだろ?」あの子、あいつ。」

眼差しは茫然と、

「ハーフなの?」

んー。愛がつぶやく。

元無国籍児」パパが拾ってきたの。

空虚な、為すすべもない、ただ単なる絶望。と、絶望と、そうとしか結局は言って仕舞うしかない、彼女の眼差しに浮かんだ悲しみ。の、ような。

そんな。愛が、眼差しに曝した表情を私は見ていた。

「わたしが十八歳のとき。あの子、」その眼差しは私をは捉えずに、「十三歳だった。」私のすれすれを通り抜けた背後のそばに棄てられる。

「二年前に、どこかのアパートから千葉?埼玉かな。忘れちゃった。この話、ほら。

「あんまり、しないから。」でしょ?

私の腕が、愛を

「ね、

抱いた。

「発見されたのよ。」保護されてお母さんとか、」んーとか、

抱かれるままに、愛はやがて胸元にかさねられていた腕さえなげ出して、

「お父さんとか?そういう」なんか、「ね。」悲しい子なのよ。「ね?」

完全に脱力されたその

「ご両親とかそういうの、いなくなって。」で、ね。「なんか

上半身のあられもない体重を預けた。

「裁判?民事?みたいな無国籍児の」それ、ね。

私の腕に。

「それ、パパがやってあげてた。」だから、さ、

「なんか、ひとりでもう、壊れちゃってたらしいよ。きったない、ごみだらけのアパートの中で。」ごみ屋敷。「十歳くらいで。」ね?「くっ、

く、

「くっ

く、くさ。「くっ、」

くっさいの。

「おもしろそうだね。」不意に私は言った。その、自分の声に、私自身が戸惑う。「お前。まるで、他人の不幸が」

「おもしろがってるみたい?」悲しみさえ渇ききって、枯渇した先に薄い歎きだけを停滞させた、そんな、どこかうつろな表情を崩さないままに、愛がつぶやいた。その、かすかにひらかれた唇に。「かもね。」

「嫌いなの?」

んーと、不意に鼻に音声を鳴らした愛は、「たぶん。」私をは見つめない。絨毯の先の、なにかに視線を投げ棄てたままに、それを見つめるわけでもなくて、「わたし、」てか、「嫌いって言うより」ね、「憎んでるよね。むしろ。」ね?きっと。間違いなく。」

「なんで?」

そのとき、私は低く声を立てて笑っていた。茫然としたままに、そして私がつぶやいた言葉を愛は聴いた。なんでだよ。やがて愛はひとりで笑った。私の言葉には、その音声に、明らかに愛への軽蔑が感じられた。「わかんない。」なんでだろう?

ささやく。

早口に。「でも、ね。」最初さいしょ、ね。「最初に来たときのあの子って、ほんとに」ほんっ、「穢いの。」と。ほんっと。ほんっ「むちゃくちゃ」とに。「穢くて」もう

愛は笑った。声も立てずに、その言葉をだけ笑いに乱れた息に荒らせて。笑っちゃう。

もう「でも、さ。」ほんと、ね?」笑っちゃうんだけど、

「いまじゃ、むしろお前のほうが穢いじゃん。」

私は声を立てて、間歇的に笑い続けていた。むしろ、愛は侮辱され、軽蔑され、差別的に蔑視され、罵られ、人格さえ否定され、家畜扱いすらされて、なじりつくされることをだけ望んでいる気がした。お前なんか、

「もう、加齢臭ただよっちゃってさ。しみだらけ。口もとにも皺、見え隠れしてて。ひどいよね。劣化しちゃった感じ?無残極まりないよ、お前。半端じゃない。もはや。もとから大した女じゃなかったんだろうけど、若けりゃともかくさ体、本来ももともと女の魅力ゼロじゃん?全体的に在り獲ないよね。なんで俺がいかないかわかる?無理。いけないの。お前なんか抱きたくないもん。完全に無理だからね。する気にもなれない。勃たないよ。無理やり勃たせてやってんの分かる?他の女のこと考えて。お前の存在自体が無理。なんか、くさいよ。もはや腐敗臭。穢い。お前、自分が穢いの知ってる?腐りかけ。知ってた?もうなんか、見苦しくって穢いのな。お前って。なんとなく。記録的に魅力ないよ。存在として。だから、ホストなんか買うんじゃん?お前。何人目?しょうもない男に金払って抱かれるの?もう、女として終ってるよ。手遅れ状態だよね。たぶんさ間違いなく、」死んだほうがいいと想うよ。そう言って耳元にささやき、微笑みかけた私にやさしい眼差しをくれて、愛は、ねぇ。

言った。

「あの子のこと、好き?」

悲しいほどにそれは、やさしいだけの澄んだ眼差しだった。

私を、見い出してさえいない気がした。「お前よりは好き。ぜっんぜん」眼差し。「比較できる対象でさえないよね。」

愛の黒目が、震えもせずに私を見つめていた。

なにをも責めないままに。知ってる。愛は、そうささやいた。眼差しは、私のすべてを受け入れて、赦していた。言葉を吐いていく愛の唇が、かすかにだけ言葉にかたちを崩していくのを、私は見守っていた。「俺が、さ。」

見つめる私の眼差しが、ただ、「あの女とやったらどうする?」留保もなく嗜虐の色を曝していることは知っている。

「殺す。」愛が不意に、我に返って言った。「たぶん。きっと。間違いなく。100パーセント。それ以上。」

「なんで?」ねぇ。

身を起こしながら愛がつぶやき、ね?私に身を預けて、私は感じる。「ね。ね?」愛の胸元の皮膚が腕にふれる、そのやわらかな触感。

垂れ堕ちる髪の毛。私の胸元にふれる、雑に束なったそれ。息遣い。そして「知ってる?」体温。わたし、

「あんたのこと、好きなの。」

「ばか?」

笑った私に、愛は反応など示さない。「すごい、好き。」

「頭おかしい?」

「自分で信じられないくらい。」

「終に、頭、」

「初めて」

「ぶっ壊れちゃった?」

「初めて知った。だれか、」

「てか、お前、」

「本気に好きになるって

「頭の中にさ、なんか」

「そっかぁって。」

「変な虫」

そっか、」

「飼ってる?」

「こういうことなのか。って」

「腐っちゃった?むしろ、」

「死にたい。なんか、このまま」

「脳みそ腐っちゃったでしょ?」

「見つめたまま死んでもいい。いやだけど。」

「おねがい。」

「死にたくないけど。絶対。けど

「死んで。」

「でもね、別に」

「きもちわるいから。」

「幸せになりたいとか、ないよ。」

「やばいよ。お前。」

「いいよ。別に」

「ばかすぎ。まじで、」

「愛されなくても。でも」

「死んだほうがいいから。」

ね?でもでも、さ、」

「もう、完全終ってる。お前、」

「好きなの。死にそう。」

「まじで糞」

「好き。好きなの。」

「頼むから、」

好き。」

「死んで。」

のけぞるように顎を突き出した愛は、上目遣いに笑っていた私を見つめる。表情は歎き続けたままに、変わらない。ずっと。私は彼女への、振って沸いた鮮明すぎる軽蔑をだけ曝す笑い崩れた顔を、彼女の目の前に突き出してやったまま、その、眉をなぜた。

指先に。

そして指先は優しく、そのやわらかく、短い毛先の触感を感じて、

「なんか、お前

なぞる。そっと、その

「存在自体が穢い。」

まぶたの形態を。かすかに、

「鏡見たこと在る?」

まばたく、それ。繊細な、

「豚の糞以下だよね。

そして指先が、鼻の隆起をおびえながら

「もはや人間じゃないよ。」

這う。息づく、

「体全体でお前、」

皮膚。潤った、その

「汚物だもん。てか、」

愛の皮膚。息づかう、彼女のもはや

「くさっ。匂うよ。」

吐息に近いひそかな息がふれて、

「生きてて、お前

やがてふれた唇に、指先は

「恥ずかしくない?」

恥らう。そのやわらかすぎる、

人間存在の辱。お前、」

触感に。

「むしろ豚の汚物以下だよ。」

私は彼女に口付けた。その唇に。不意に愛の下腹部を這った指先は、潤ったそれを確認した。股を開いて、愛は戯れようとする私の指先を受け入れ、その閉じられない眼差しが見つめていたのは私だけだった。

不意に、愛が笑った。なに?

「どうしたの?」

言った私に言葉も返さずに、私を上目に見つめ続けながら、声を立てて笑い続ける愛はその眼差しに何かを確信して、私を戸惑わせるほかないのだが、私は、あるいは、微笑む。愛に。わかった。

と。わかっちゃった。そんな言葉をその脳裏に無数に反芻し続けているに違いない、愛の眼を剝いた顔に不意に見惚れて仕舞いさえしながら、老いさらばえかけたその女。あきらかに、その皮膚のたたずまいのすべて、色彩以前の色あいにおいてすでに、これみよがしに彼女にすべてにおいて老いていく、その突端の劣化があざやかに目醒め続けていた。いかなる明確な劣化をもいまだ曝し始めないままに。愛は色褪せ始めていた。私は微笑んでいた。

なんだよ。」

つぶやき、ささやかれた私の声を聞く。愛は。そして私の指は彼女の内部をいつくしむ。その粘膜の形態を、決して傷付けはしないようにこまかな注意と、ときに唐突なおびえをさえ一瞬だけ曝しながら、なぜるように、やわらかく、そしてそれ、爪を立てて引っ掻いて仕舞えば、簡単に傷付けて仕舞うに違いないもの。そんな指が、彼女の体内のそこに存在している。

愛。

笑う。彼女が、声を立てて。

聴く。

乱れた息。

なにかの唐突な発作のような

その、彼女の間歇的な笑い声に、不意に乱れる、それ。

息遣い。

曝された腹部の、胸元の、うすく浮いたあばらの形態の、不規則で荒れた浪立ち。

彼女の肌。産毛のかすかな光沢。ねぇ。

「笑っちゃうの。

「なに?」知ってる?

言った。

「感じてるの。」わたし。「いま。」

もはや、耐えられないように声を立てて笑った。愛が。そして、私も彼女のために笑ってやった。彼女と同じように。空間に、私たちの笑い声が、それらだけ、絡まりあって消え去っているに違いない。為すすべもない。

きったなくて、ね。穢くて「笑うしかなかったの。」そう、愛は言った。葉の事を。まともに、自分の身の回りのこともできないの。「あの子、」まともな、お風呂の入り方も知らない。だって「だってさ。ね。」笑った。「一緒にお風呂、入れたら中でおしっこしちゃうのね。笑う。」まじ。ほんと、「まじ笑うよ。」笑った。ひっぱたきそうになったけど。「パパ慈善家だったから。」じゃん?「で、パパの遣ってること、正しいわけじゃんじゃん?」じゃない?「人道的に?社会的に?人間として?日本人として?」人権擁護の国際的軌範に則る倫理的個人のなさるるべき良識的行為の一端、的な?てか、みたいな?」でしょ?「なんかわかるよね?だから、「言えないの。」じゃん?

私は愛の首を抱いてやり、愛は、その背中を私に預けた。私たちは微笑みあいながら身を曲げて、その、私の指先が愛にゆっくりと、出入りしていくのを、見ていた。体液に濡らされながら。

あの子が、何やっても。と。

言った。「スパゲッティ、手で食べ始めても、」まじ。「何、」ね、「なに食べもくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃべったべったできったなくってもうさ、」ね?「んーね。」でも、「疲れた。すうっごく、」わかるよね?「なんか、一緒にいて、」ん?「んーん、「すごい疲れた。」

「殺してやりたいくらい?」

「んーいや、なんか「てか、ね?」消したい。消しゴムで。全部。消してやりたい。むしろ。」

愛の足の指がのけぞって、かすかに拡げられていた。私の腕を挟みこみもせずに、ただ大きく開け拡げられただけの太ももが与えた完全な自由の中で、私の腕がかすかな動きを空間に刻んだ。指に体内の温度があった。暖かいとは決っして感じられないほどに、単なるありふれた温度。いかにも、ありふれた触感。人体のそれである以上、そうでしか在り獲ないだろうその質感。ふれられるべき、あるいは、ふれれば感じられてしかるべき、当然の感覚の群れの散乱。拡げられた股の向こう、眼差しの先に拡がった、広い、絨毯の白い光沢の少し先で、不意に色彩が失堕していた。愛。幼い、見たこともない少女が私を見つめて言葉を失っている。

その、色彩をなくした少女がただ血を流す。床にさかさまに張り付いて、彼女は両手、らしき、たこの触手のような何本かのやわらい突起をゆっくりと、時間の中で行為するということ自体を嘲笑って哄笑し、侮辱して辱めきったほどの緩慢さで上下させ、吐かれる血。

ねぇ。

流れ出す。

ね?

耳元に、愛が言う。

「信じられる?」

なに?」

まっすぐに、彼女の吐いていく血の鮮明な色彩が、斜めに下降してどこまで堕ちていく。私はそれを見つめる。目と、鼻と、口と。それら、色彩の細い線は束なって、ひたすらにあざやかに赤く、空間に自由に戯れながら、

「愛してるの。

笑う。かすかに、小さく。短く。

ほんの数秒の。

「あなたを。信じられない

滅びたもの。その色彩さえをもも滅ぼして仕舞った、愛、その少女の昏い翳に、もはや表情などない。

あるいはもとから。すでに。

なにも。

そこにただ存在しながら、永遠。彼女がむさぼるしかない永遠をただ、自分で、その一切の自覚もないままにむさぼり続けているに違いない、翳りの抱え込んだ永遠。血。なぜ、こんなにも、

ねぇ。」

それはあざやかなのだろう?

「好きなの。

口付けて遣った、愛の頬に、かすかにうぶ毛に荒れた、やわらかな触感があった。唇は

「なんでじぶんでも、

ふれる。

そんなこと、「ね?」信じられもしないのに、何で、「ね?」

至近距離の愛の眼差しはむしろ、私を見留めさえできないままに、呆然と、そして彼女は私を捉えて離さない。

「わたし、あんたのこと、」やだ。ね?「まじ?」やだ。「愛してんの?」

なんで?

「わたし、まじ、愛してんの?」

鮮血。色彩の鮮度。

「ね、

声。

まじで?」

耳元の愛の声だけを聴く。

愛がいつか涙ぐんで、泣き出しもせずにただ、その、自分の悲しみにだけ淫していたことには気付いていた。「なんか、かわいいね。」

愛が言った。

「なんで?ねぇ、」なんで、こんな「なんか、」ね。なんか、「めちゃくちゃ、」これ、「ね。」めっちゃくっちゃにん。「かわいいんだけど」その、眼差しが、自分のそれと、それと戯れた私の指先を見ている事は知っている。

 

「仕事、なに?」

慶輔が、自分の上に覆いかぶさった私のわき腹を、繊細な、ふれていることそれ自体を否定したかのような手のひらの愛撫、とでも、そう言うしかない、ふれるという以前のなにか、そのみもふたもなくやわらかいあてどもなさを曝して仕舞いながら、「お前、

なにして、食ってんの?

私は声を立てて笑った。

なに?」その、慶輔のあられもない戸惑いがむしろ私をまごつかせた。

「なにどうしたの?」

「働いたことないよ。

「一度も?困らないの?」

「だって、金なんかだれか払うじゃん。言った私は眼を伏せた。かならずしも、羞じたわけではなかった。確かに、私は自分でまともに金など払った事はなかった。それはいつでも他人の仕事だった。女たちは、かならずしも自分が愛されているわけでもない私にただ奉仕しなければならず、男たちは私に気を使って物事を処理しなければならない。私のために。それが当然なのだから、むしろ私が自分の手を穢すことなど愚かなことだったし、そもそも、彼女たちや彼らが望んでいることではなかった。理沙が残した口座には、まだ大量に手付かずの金が残っていたし、そして、そもそも、もとから理沙の手渡す金で生きていた。身寄りのない理沙が残した金は、すべて私のものになるしかなかった。いずれにしても、私に貢ぎ、奉仕する彼女たちあるいは彼らのために、私は何もしないでそこにいてやらなければならなかった。私を取り巻く人々を辱めでないいてやるために。慶輔が立てた笑い声が、私を不意に恥らわせた。

ねぇ。」慶輔が言う。

声、慶輔の。私を容赦なく軽蔑した声を、私は嫌悪し、同時に自分自身を嫌悪していた。「お前、俺と一緒に働かない?」

「ホスト?」

「何で知ってるの?言ってないじゃん。」

「見れば分かる。」知っていた。慶輔は私を片時も手放したくないのだった。ずっと自分のそばに置いて、あるいは、ずっと、私のそばに添わせて欲しいのだった。それは、あるいは、いずれにしても、私の求めていることでもあった。「何もしなくていいよ。」慶輔が言った。「女のほうが勝手に、全部自分でやるから。寄り添ってやればいいんだよ。気を回して。ね?って。ね?って、だよね、って、さ。女を見て遣ればいいんだよ。話し聴いてやって。それだけ。馬鹿だから。所詮、あいつら。可愛いけどね。だから、それだけで、あとは世界が勝手に回る。」

慶輔は、耳元に立てられた私の意図的な笑い声を聴き、触感。至近距離にふれ合って、決してかさなり合いわないままに、その、お互いを受け入れるためには存在しはしないその、半ば萎え、半ば勃起しかけたあたたかな部分が、それぞれに留保もない孤独と、容赦もない孤立にむしろただ沈黙してみせながら、たわむれにふれあう息吹きを感じあった。

それは、そこに隠しようもなく存在していた。自分が存在していることを、ふれあう一瞬に、無慈悲なまでに実感していた。それはもはや認識だった。あるいは、灼けつくような。

絶望的なまでの。

もっと、と。それらはお互いに、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、ふれあった事にさえ気付き獲ないほどの、かすかな、ほのかな、瞬間の、音もない、気配もない、その、接触、した、かも、しれない、ただただ淡い接近をだけ求めていた。

射精?そんなものは、もはや、たんなる家畜の戯れにすぎない。私は慶輔を愛していた。

留保なく。

「独立するの。おれ。もうすぐ。」んー完全に、だってさ、独立もしないホストなんて」ま、なんか、「糞じゃない?だから」完全にオーナーって言うか、「金はやくざの人が出すんだけど。」そういうんじゃない。残念。「たいしたことないよ。」半独立?みたいな?「怖い?だいじょうぶ?」ま、ね。ま、「いい奴だよ。檜山って言うまー馬鹿なおっさんだから。」まーまーまーまー「ただの。ただの馬鹿。いいヤツ。」まじだから。これ「一緒に」笑う。もはや、「てか、」もはや笑うから。「手伝ってよ。

やがて私たちは、開かれた眼差しのままに見詰め合う。お互いの唇をむさぼりあいながら横向きに、頬にだけお互いの手のひらを回して、終には完全に勃起したそれぞれの先端をかさね合わせて戯れたのだった。うすく、執拗に先端を濡らしたものを互いにまぜあわせて仕舞いながら。果てることさえもなく、濫費される時間をだけもてあそんで。

店の中で、慶輔が言ったとおりに女は勝手に群れてきた。歌舞伎町という町の中の限られた空間の中に、押しかけた女たちの眼差しが交錯する。出会ったその夜の、明けた日にやがて暮れていった夜には、慶輔は私を彼の在籍店に連れ込んだ。すぐに、女たちは新人の匂いを嗅いで、しっぽを振った。

いつでも、どこでも、女たちの眼差しが私を捉えた。店の外、どこか落ち着く場所をさがしてうろついた路上でも、デパートの中でも、ショップで、女たちに私の衣服を選ばせたときにも。すれ違いざまにも、どこでも。食事の隙に、コーヒーを飲む隙に、いつでもそれらの眼差しが、私を、決して私には聴き取られないように顰められてささやかれたささやきの、その声の群れは、眼差しの群れと一緒になって、私をただ、煽情しようとしていた。どう?

わたしは、どう?

慶輔は陽気に、私を煽った。女、食いついてくるね。笑って。お前の体臭、シャブでもまぜてない?

歌舞伎町の有名人だった慶輔がはべらした私を、町の中で知らないものはほとんどいなくなった。知らないものは、町の外から来たものに過ぎず、そんなものは町の中では軽蔑の対象に過ぎないのだった。町の外では、留保泣く軽蔑の対象に過ぎないこの町の中では。

慶輔が自分の店を作るのには、半年近くかかった。内装の片っ端に、慶輔が文句ばかりつけたからだった。だれもが、慶輔は成功すると想っていた。そして、事実彼は成功した。

初めて愛と会ったとき、それは半年前だった。私の相棒のようなものだった、同い歳の零一という名のホスト、本名は知らない。彼が紹介した男客の連れだった。そのIT系べンチャーの社長だった男客は、かならずしも同性愛者ではなかった。彼がはべらしていた水商売の女たちとの関係の中で、勝手に零一を見初めたのだった。二十歳近く年下の零一と、単純に気が合っていた。取引先の女社長なのだ、と零一は言った。だから、「彼女に一番いいの紹介してって。で、さ。

「俺?」

そ。」

無意味に豪奢な更衣室で、私はみんなの前で、人眼を避けて零一の頬に口付けて遣った。慶輔の店に流れてきた零一の、新人時代の手ほどきは私がした。男の手ほどきも。彼が私に焦がれて仕舞ったのは、初めて彼を見たときにすぐにわかった。その、私を見つめた一瞬の眼差しの鮮度に。私に手ほどきした慶輔がそうだったように。取り立てて、なにが美しいというわけではない。けれども、零一には暴力の匂いがした。計算された理論的な破壊ではなくて、突発的で、理不尽で、飽きっぽく、そして無意味な破壊。いつでも予感される、いつかの破滅と不幸、と、そう言うよりはむしろ単なる行き止まりの絶望。そしてそのいつかがいつなのか、だれにも分からないのだった。そんな、いわば、あからさまに無残までにエロティックな匂いがした。女たちは彼に群がった。実際に、彼が破滅的な、自滅に似た死をとげたときも、だれも驚かなかった。街が、自殺あるいは不審死として曖昧に処理して仕舞った彼の、だれにとっても理解し難い謎の死を、だれもが理解し、許し、ただ悲しんだ。

愛がまともに男など知りもしない事は見れば分かった。男に抱かれたことばかりか、誰かの女になったことさえないかも知れない。その、明らかな兆候が、どこにどうというわけではなくて、全身から匂った。あっさりとして、さばさばしていて、女っぽくなくて、むしろあけすけな女に見せながら、彼女は執拗な殻を感じさせた。装われない凜とした気配が、余計に愛の、いわば生まれつきの純潔を曝したてた。愛が私に堕ちるに違いない事は、遠めに零一に指さされた瞬間に、私はすでに気付いていた。初めて相手をしたときに、愛は一度も私をまともに見なかった。私が話しかける言葉も、ことごとく無視するか、理不尽にすべて否定して、「あー。ごめん。」それで終わりだった。「全然違うから。」どこからどう見ても、「ごめんね。」愛は不機嫌だった。「ごめん。わたし、違うんだ。」零一も、彼女を連れてきた男も「あんた、間違ってるよ。」不審がっていた。「無理して話しかけないでいいよ。」あえて言葉にしない、その「てか、」眼差しのうちにだけ。「黙っててくれる?」私はすでに愛が、もはや私なしでは生きていくことさえ出来ずに、たんなる私の下僕にさえ成り下がって仕舞っていることなど、笑わずにはいられないくらに気付いていた。

すでに、もはや、愛はただの、私の子飼いの家畜に過ぎなかった。私をそのひそめ、そらした眼差しの片隅に気配としてだけ捉えて仕舞った瞬間から。

二週間後、愛は一人で来た。私を指名して。来なかった二週間の間の、懊悩と葛藤らしきものが、眼差しの奥に追い詰められた色彩を与えていた。

何も話さずに、私の顔さえも見ずに、ただ傍らに、姿勢だけをただしてむしろ、貞淑な貴婦人めかして座っている彼女に、私は彼女が曝すのと同じだけの沈黙をくれた。

数分の後、愛が、ながいながい沈黙に終に耐えられなくなって、私を振り向き見て仕舞った瞬間に、「なんで?」

私は言った。

「なんで、お前俺に夢中なの?」

愛は、微笑んだ私につられたように、容赦もなく微笑みにその老いさらばえかけた顔を崩し、ね。

「なんで?」つぶやく私の、その気もない、表情さえない顔に見惚れた。

ばか。」

言った愛が、唇のなかだけで、声も立てずに笑った。ねぇ。

「なんで?」愛。年増の貞淑な淑女。

正しく、教科書じみた姿勢のまま、「なんで、さ。」ささやく。ね、

なんで

「ばれちゃうの?」

「わかるよ。」だから

だから、ね?だから、

「なんで分かるの?」気持ちね、

わたしの気持ち。」

「だって、俺もお前、好きだもん。」

それは教科書通りの返答とは言獲なかった。あまりにも女が追い詰められていたので、私は私が愛しているという設定を、持ち込んでやるしかなかった。つまりは、愛は私を追い詰めることに成功していたのだった。意図もしないままに。

声を立てて、愛は笑った。上半身を瀟洒にまげて、すべての挙動に所作の美しさを装わせて神経質なほどに、凛として、清楚で、そして、愛は幸せだった。

たぶん、あきらかに、生まれて初めて女に生まれた意味にふれたに違いなかった。家畜。

90年代のバブル経済がはじけた直後の歌舞伎町は、どうしようもなく潤っていた。金もなければ未来もない、自殺するか金を借りるかしかする事がない男たち。いまだに死んでいないというだけの存在価値しかない男たちと、馬鹿な行き場所のない女たちから巻き上げた金で、闇金融たちはこれ以上ないほどに潤った。バブルがはじけたあとのバブルに、彼らはいいまだかつてないくらいに潤っていた。貧しく病んだ発展不能国家だった中国から、生き伸びるために渡ってきたチャイニーズ・マフィアたちが大陸流儀の暴力と犯罪をかさね、町を彩った。歌舞伎町を一歩出れば、生気もない疲れ果てた男たちが、小さな、未来もない金のために朝から晩まで町を闊歩していた。やや猫背で、早足で。私たちに軽蔑をくれながら、私たちよりはるかに飢えて。この国が崩壊して、破滅して、滅びて仕舞っていることを、私は眼差しの中に実感した。そして、それは単なる事実だった。歌舞伎町の外の彼らはすべて、その国家と国旗と憲法と文化とをも含めて、身の回りのすべてを完璧に崩壊させて仕舞い、生きながらに絶滅していた。

私は笑うしかなかった。滅びたなら、死んで仕舞えばいいのに。にもかかわらず、とっくのむかしに、完膚なきまでに滅びていた没落のヨーロッパや、爆弾も落ちないまま焦土と化して十年以上立ったアメリカも結局はそうだったように、彼らは生存して未来の命をつないでいた。生存者たちの生には、それがどんなに切実な何かを孕んでいようとも、どうしようもない滑稽さがあった。ネオ・ナチの孕む、あるいはネット時代の日本の、今更の右翼や良識派、あるいはアメリカのリベラリストや保守主義者、彼らが曝すのと同じ、笑うしかない滑稽さ。ヒトラーとナチスが、あるいは旧大日本帝国がすでに夥しく孕んでいた滑稽さ。アメリカの国旗がどうしようもなく孕む滑稽さ。大韓民国と北朝鮮がなにをやっても撒き散らして仕舞う滑稽さ。目に映るものすべてを茶番に変えて仕舞う、留保もない滑稽さ。終には、ツイン・タワーとペンタゴンを炎につつんだイスラム教徒の原理主義者たちが、そのもっともあざやかな滑稽さを曝すことに成功した。

燃え上がる都市。歌舞伎町。いずれにしても、ハオという偽名のチャイニーズが火を放って、ある雑居ビルを焼き堕として仕舞うまでの期間、歌舞伎町はならず者たちの美しく、猥雑な唯一無二の居城だった。

葵、と名のった四十代の女は、当時のi-mode付きの携帯電話の画像データを、私の全裸体で埋めた。そのくせ、私に指一本、現実にはふれることが出来なかった。眼差しに焦がれただけの色を、無残なまでに曝して、ただ、ふれあいそうな距離のかすかな隔たりをだけ愉しんだ。

ひなた、という店名の風俗嬢は、私の体など求めなかった。ただ、私に寄り添われることだけ求めて、ねぇ。つぶやく。見つめててもいい?私は彼女の髪を書き上げてやり、わたし、まだ、ヴァージンなの。言って、ひなたは自分の嘘に酔った。本番以外では、稼げない借金塗れの女。

蘭という源氏名のキャバクラ嬢は、私に自分の所持金を片っ端から貢ぐことによって、彼女固有の安心を獲た。つかんだ金のすべてを、私のために浪費しなければ気がすまなかった。私はその押し付けがましい自分勝手な浪費ぐせに飽きて、倦んだ。

美容形成外科の女医者、何かのベンチャー企業の女社長、そして、大量の、歌舞伎町と言う風俗街に棲息したあぶく銭をつかんだ女たちが、大量の金銭を私に貢いで、結局は、私に狂った記憶をだけ獲得した。想い出したくもないはずの、とはいえかつて愛した男として、なんども脳裏にやわらかい痛みとともに想い出し続けたに違いない男。愛。誰かを本当に愛して仕舞った人間は、みんな、例外なく、症例としてうまく分類できない鮮明な狂気そのもの正気の破綻としての、ある、あまりにもあざやかで固有の破滅そのものを、それぞれに、それぞれの流儀で曝した。決して精神疾患には処理できない赤裸々な発狂。そして、慶輔を愛している私が、あるいは私を愛している慶輔が、お互いに対して無防備に曝すのも、間違いなく留保もない狂気の眼差し以外でないことも、私はすでに気付いていた。私たちは、狂っていた。精神。結局は、それが終に愛というかたちで姿を顕したとき、曝され獲るのは狂気そのも、それ以外ではなかった。なにもかもが無残だった。なにもかもに敗北していた。ベッドに座り込んだ慶輔を押し倒して、その大きく開かれた太ももの前にひざまづいた。窓越しに、午前の浅い時間の日差しが当った。

斜めに。

慶輔と両手のひらを組んで、私は唇だけで彼にふれる。そっと、それに息を吹きかけて戯れながら。慶輔は声をさえ立てないままに、私のその行為にあえて逆らおうとはしない。なすがままに。私の唇が、彼をむさぼる。果てることもできない、かすかな接触と、接触されないままに屹立した私の抱えた孤独とが、脈打って倦み、私たちは息遣う。くわえ込みはしないで、舌の先だけでなぞる。その、愛しいものの、愛しい形態を。

確認したのは、その触感と、体温と、舌に残ったかすかな味覚。あるいは、それがにじませたものの。知っていた。彼のそれが、私の舌が残した唾液の質感に鮮明な、いたたまれないある喜びのような感覚に倦んで、しずかに目舞っていることを。射精して果てることなど赦さない。本当に、気が狂って仕舞うまで、中途半端でいたたまれないかすかな感覚と時間の濫費だけをむさぼっていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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奥付


わたしを描く女


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著者 : Seno Le Ma
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