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わたしを描く女 #2

 

 

 

 

 

十二歳のときに、唐突に耳が聞こえなくなったのだと愛は言った。失語症も併発したに違いない。なにも言葉を発さなくなった。中学校は障害者学校に通った。意志を疎通させようとする意志は、彼女にはなかった。手話さえおぼえようとはしなかった。差し出されたノートには、他人の書いた文字だけが躍った。彼女はそれを、一瞬だけ眼に入れて、すぐに眼をそらすだけだった。言葉を読み取ることが出来ないのかも知れないと、担当医は言った。母親はすでに死んでいたし、父親は仕事に追われた。必然的に、彼女の面倒はすべて愛が見たようなものだった。父親が、彼女が十八歳のときに自殺したときも、何の反応も示さなかった。壊れてるんだよ、と、愛は独り語散るように言った。「頭のどこかのねじが外れたか、緩んだねじが何かを塞いじゃったんでしょ。でも、」ね。

手は全然かからない。と、言った愛の笑い顔に自虐的な色があった。愛が一番、身近にいる彼女を持て余していたのかも知れなかった。真意の読み取れない、ただ複雑であいまいな表情だけ曝し続け、かならずしも興味をもたれるわけでもない途切れ途切れの会話が私たちの時間を濫費した。

ややあって、不意に愛が身を起こした。途切れ途切れのそれらの会話が、途切れきるのをさえ待たずに。「で、ね。」と、そして何も羽織りさえせずに部屋をでて行こうとし、立ち止まった愛は、私を軽蔑し果てたような眼差しを差し出す。「待ってて」その「まだ、」縋るような声に、帰らないで。私は彼女の真意を探さなければならなかった。

「待ってて。ね。」

ドアさえ閉めない。もとから、閉められてはいなかった。彼女が自分ひとりだけで自分勝手に私を愛したただ、為すすべもなく退廃的なだけの時間の間にも。そのまま出て行って、すぐに、なにごともなく、なにも持たずに帰ってくれば、愛はもう一度懐かしむような微笑をくれて、私の傍らに背を向け、そして、座り込んだ。

ベッドが、彼女の体重にへこんで、かすかに音もなく軋み、私の指先がその背筋の窪みを確認するのに、愛は任せた。

「見る?」と、絨毯の上にうつぶせた私に愛が見せるのは、家畜か奴隷か、犬かなにかのような姿勢をさええられるがままに、からだをひん曲げていたときに、彼女が撮り溜めた写真の数十枚だった。

「笑っちゃう。」接写された、私の局部の画像をめくり愛が声を立てて笑った。黒ずんだそれは、自分の生物としての穢さだけを曝した。「記念に、パソコンに移しとくよ。」愛は耳元に、脅迫するようにささやいて、私は眼をそらす気にもならない。

「毎晩見るんだろ、お前。」

やだ。」

「で、自分でするんじゃない?俺の名前、呼びながら。」ばか。言って、私の頬に口付けた愛が、垂れ堕ちた髪の毛で私の視野を覆う。

「毎晩、どんなふうにしてるの?自分で。」

「なに?」

「決まってる。オナニー。」

葉の描いている絵は、色彩が、あるいは、その

「してるんでしょ?我慢できずに。俺のこと、」

色彩が作り出した筆先の形態の群れが、お互いに

「想って、指で。ずっと。ずうっと。朝から」

かさなり合いながらただ、しずかにそこに

「晩まで。ずっとやり続けたいんでしょ。お前、」

存在しているだけで、なにをも描き顕されはしないものの、

「俺のことしか考えられないじゃん?違う?」

それが、

「欲しくって、仕方なくってさ、もう、お前、」

何かの風景であることはすぐに

「じれちゃって。俺だけが。俺の、全部だけが。」

分かった。愛が

「欲しい。違う?」

笑いながら身を捩って、「していい?」ねぇ。「じゃ、」わたし、

「していいの?いま、あんた見つめながら、自分でして、」ね?「いっちゃっていい?ひとりで。勝手に。」むしろ、

「死んじゃっていいよ。」私はささやく。「自分だけ、」愛の「死んじゃえよ。」耳元に。愛は声を立てて笑った。

嬌声。彼女はおかしくて仕方がなくて、そして愛は私の体の上に足を投げ出した。彼女の家畜としての私の所有権を主張しようとしたかのように。風景。

無防備な笑いに身をくねらせる愛の向こうに、垣間見えているその女が描いているのは、それでも確かに風景以外のなにものでもなかった。使われる色彩の数は寧ろ抑えられていた。なんどもかさねられた下塗りを、複雑な白のグラデーションがこまかく色彩の隙間を這うように、そしてやがてはそれらをさえ塗りつぶして仕舞い、さらにその白いとはもはや言い獲ない白の上に、ふたたび色彩が置かれた。さらにまたその色彩は下塗りとして塗りつぶされて、複雑な色彩の散乱をぬりこめて、白く染まったキャンバスが顕したのは、地平線を曝したなにかの風景。たとえば、廃墟のような。

人の気配などない。むしろ、生き物の気配さえ。あるいは、すくなくとも私の知っている生き物と概念の存在は、そこには存在し獲ない。

静謐。ただ、寂として、何の音響さえもなく、それらは重なり合いながら、なにかの形態を描き出す。なにが描かれているのか、なにを描こうとしたのか、そんなものは一切理解が出来ないくせに、それは私にただ、懐かしいほどの鮮明な印象を残した。見たこともない、あるいは、これから見い出すこともないはずの風景に違いないくせに。同じ風景を見たにしても、描き出されたのは葉が見い出した風景なのであって、私のそれでは在り獲ない。その事実を、その絵画ははっきりと耳打ちする。必然的に、永遠に、かさなりあいはしない風景の、懐かしさ。永遠。

確かに、永遠はありふれて、いたるところに点在していた。そんな気がした。それを時間の問題だと考えて仕舞うから、永遠であることに稀なる意味があるのだと想って仕舞うのだった。私たちは、いずれにしても、いたるところにのさばり、あらゆるものを喰い散らして、むしろ好き放題に永遠と呼ばれざるを獲ない強度の現実として氾濫していた。

部屋に葉が入ってきたとき、私は眼を疑った。そのとき、ベッドにあお向けた私の指先は、いまだに愛の背筋に彷徨っているばかりだった。ながいながい行為が終わった後の素肌を曝したままで。これで何の嘘もなくなった、と、私は意味もないその実感に駆られた。早朝の日差しに、窓越しにじかにふれられて、私を振り向き見もせずに葉は長い髪の毛に光沢を倦ませ、私はあなたのおねぇさんが金で買った男だ。

わかった?

だから、ここにこうやって、君の前に匂うほどに美しく、無様な体のすべてを曝して、高級な家畜として身を投げ出している。ね?

と。もう、なにも嘘はない。

不意に、私は声を立てて笑って仕舞いそうになったのだった。葉は、無造作に垂らされた片手に冷えたシャンパンを持っていた。ボトルのネックのを無様につかんで。フルート・グラスを反対の、左の指にさかさまにぶら下げて。グラスはみっつ。つまりは、そういうことなのだった。

「飲むでしょ?」

葉をいちども振り向かないままに、愛が私に言った。愛の眼差しが私を見つめていた。愛の眼差しは微笑みさえしない。なに笑ってるの?

と、やがて振り向いて、寄り添うようにその体をよせて、愛は言った。ふたたび私を覗き込んで、自分の体温を、私の至近距離に好きなだけ撒き散らして。「なんで、」

なに、笑ってるの?「ね?」あんた。明確な、笑うべき事実などほとんどなにもなかった。同じ空間をそれぞれに占有したみっつの、フルートグラスと同じ数のもの。

射精さえしなかった私がふしだらにも、ふたりの親密な愛の行為など何も終ってさえいないままに素肌を曝して、いかにも疲れ果てたように横たわっていた事実と、眼差しに映った全裸の、華奢なばかりで煽情的ななにものをももたない真っ白い皮膚を曝し、凛として見えながらもいまや、私の前で、一瞬の表情さえもが饒舌になるしかない姉と、色づくほどに官能的な身体を、地味な黒い衣服に丁寧に包み込んで、表情もなく、ひとことの言葉も発さないばかりか、目配せを暮れるわけでもない孤立した寡黙な褐色の妹と、それらの、でたらめに見えた対比が、無意味なままに顔を笑みにゆがませて仕舞うのだった。説明は困難だった。「見惚れてるんだよ。」

私は言った。

「葉に?」妹にでしょ?

愛が耳元にささやく。「やりたいの?」愛はあきらかに、自分で自分の嫉妬を愉しんでいた。

愛の歯が、耳たぶに咬み付きそうに接近していた。

葉はシャンパンの栓を抜くのに苦労した。近づいた私が開けてやろうとするのを、その挙動に気付いた葉は容赦もなく拒否した。できるわよ。

ちゃんと。わたしだって。

クリエイター気取りの人間がよくする仕草さ。他人に任せて仕舞えばいいことに、へんな固執を自己の尊厳を架けて見せてみる。私は他人のように微笑んでやるしかない。その表情が、愛を嫉妬させずにおかないのは知ってる。背後で、ベッドにあお向けたまま、そのあまりにも貧弱な素肌を曝し、責めるような眼差しを愛が、ひとりで送っている事は見るまでもなく気付いていた。私は、いっそう葉のすれすれに接近した。もはや、肌と肌とがすぐにふれ合ってもおかしくは無いほどに。愛をもっと、自分の嫉妬に愉しませ、倦ませてやるために。私はふたたび勃起していた。愛も、眼差しにそれを確認しているはずだった。葉の体が匂った。私は声を立てて笑いそうだった。葉に、私は決してふれはしなかった。極端に小顔の女の首だけ細い肥満体のような黒いボトルを、不器用につかみ込んだやわらかな葉の手が、やがて、音を立ててコルクを抜いた。

はしたなすぎて哀れなほどに、葉がなみなみと注いだフルート・グラスを私は、愛に持って行ってやった。自分のと、愛のと。受け取ろうとはしない愛の唇の先のすれすれにそのグラスを持っていき、匂いをかがせた。クルグ。不相応に高すぎるシャンパンではない。いつでも愛が飲むのはクルグだった。あの子、と、

「シャンパンの注ぎ方も知らないの。」愛が独り語散てささやく。

「教えてやれば?お前が。」

愛の唇は

「で、」グラスのふちにふれ、すこしだけ泡だったうすく金色を孕み込んだ液体の透明度にその先端をだけふれさせて、自分の唇の周辺をだけ潤し、彼女は言った。「男はあんたが教えるの?」

愛は、私が終に立てた笑い声を聞く。その瞬間に、ふるえた唇と私の手が、愛の腹部に金色がかった液体をこぼす。「教えてやって欲しいの?」かすかに泡立った金色の液体は愛の「お前、」下腹部をなぜて垂れ流れながら、うぶ毛に雑な泡立ちを散らす。

「自分が見てる前で。」

「そういう趣味なの。わたし。」自分の後ろに回りこんだ私に体をすべて預けて仕舞いながら、「うそ。」聴いていた。私の声。

自分を煽って、煽情する

「見たいんでしょ。お前、」

私の声を。彼女は。焦がれたように、愛は

「俺が、あの子を、」

葉を見つめ続けた。

「女に目醒めさせちゃってるところ」

私と同じように。

ないから。」愛が、想い出したように茫然として、つぶやいた。愛はひとりで嫉妬に淫していた。私は愛の頬に口付け、身を捩って、そして私はわざと彼女の体にシャンパンをこぼしてやった。液体は滴った。眼差しが、冷えた金色の温度に冷やされた瞬間の、皮膚の一瞬の失心を感じた。

葉は自分でグラスに注ぎ、何杯か一気に飲み干した。好きなのかも知れなかった。暇さえあれば姉と一緒に飲んでいるのか、それともひとりで飲んだくれているのか。それはわからない。あきらかに飲みなれた人間の飲み方には違いなく、そして、乱れるそぶりなど一切見せない。姉と同じように。頬さえ上気させるでもなく、これはただのおいしい泡つきの水だ、と、そう無言に諭されているような気さえする。

ロリコン?」

不意に愛が言った。私の胸に縋ってしがみついて、その気もない愛撫を乳首に、惰性のままにくれながら。

「だれが?」

「あんた」

「なんで?」

「好きなんでしょ」あの子、と、愛の言葉が言いおわらないうちに私は、押し倒した愛のグラスを傾けて、静かに愛の胸元の皮膚に、シャンパンを垂らした。

「好きだったとしても、同い年くらいじゃない?」

「頭の中は十歳くらいよ」愛は、あお向けてすこししだけのけぞり、液体を受けた。曝された肌の生物の白さの上に、金色が、しずかに泡だって流れて、かすかな淡い、穢れた模様を描く。

それは、色彩を与えるというほどではない。有機体の皮膚にふれれば、その皮膚がいかなる白さを曝していたといえども、液体の命のない金色は淡すぎて、壊されるしかないはかない色彩に過ぎなかった。ただ、美しかった色彩の名残りをだけ暗示した泡だちの明滅は、皮膚の上に、わずかで、そして否定し獲ない痕跡をだけ残して、流れ、すべり、停滞し、ふるえ、息遣う肉体の雑な曲線の無造作なふるえになぶられて堕ち、「飲まないの?」

私は言った。

「体で飲んでるの。」つぶやく。

愛の、私を見上げた眼差しが、私をさかさまに捉えた。「飲ませてよ。もっと。」

私は、自分のグラスも一緒に、全部傾けて愛の体を濡らしてやった。シャンパンの、酸味を散らして饐えた匂いがその周囲に無残に拡がった。彼女の体臭にまざりあいながら。

「見る?」と。

リビングの絨毯の上、その、愛の笑い声が乱した声に、「わたしの、」私はあお向けて、「ね?」葉。「オナニー。」私は見た。ずっと、向こうで絵を修正し続ける葉。もはや彼女は私たちに何の関心も持たない。無理な体勢をそれなりの時間、ひとつの線分さえも描いてももらえないままに取り続けた私の筋肉に、あるいは筋に、かすかな痛みは執拗に残っていた。

私の腹の上に投げ出していた足を開いて、素肌をさらしたまま、愛はそれをしてみせる。両手のひらに、自分の体を好き放題馴れない手付きでまさぐって。

屠殺されたような大声をあげて彼女の左手が私の太ももにしがみついて、愛は、なにかが壊れて仕舞ったように大量の汗をにじませた。私は笑いそうになる。喘ぐ声もなく、無様な汗を垂らし、だらだらと、惰性にかられて目的もなく、自分勝手に私の体をまさぐるばかりで、身を固め、すがりつき、沈黙の中にしずかに息遣いつづけた、そんな数時間前の同じ愛が、眼差しの前で大袈裟な、これみよがしにみだらな声を立てて、派手に背筋をのけぞらせた。眼の前に突き出された、股の間のそれに指はふれ、そのかたちをなぞって誇示するように、これみよがしに曝して、私だけに見せ付け、腰はゆっくりと上下する。終に、私は声を立てて笑う。好き?

愛が言った。

見るの、好き?「ね。」

「大好き。」ややあって、そう言ってやった私は膝枕を付いて、横を向いた眼差しに、愛の装われた嬌態のむこう、沈黙したままの葉の姿を追った。

「見たい?もっと?」

ね?

「見たい。ずっと。」

見てる?

葉の指さきが、カンバスの上の、塗ったばかりの油彩の色彩に一瞬、ふれようとした。

「ずっと?見たいの?」

「ずうっと。」

ふれようとして、一瞬、戸惑う。指さき。褐色の肌。停滞する。

なぜ?

「見て。ずうっと」

「見せて。もっと。」

想った。なにが

なにが起きたの?

「いいよ。見つめて。」

「もっと、

その、指さきの至近距離の、かすかな向こうに。

不意に大きく持ち上げられた愛のふとももが、のけぞって空間に弧を描く。

「なんで?

「好きだから。」私は言って、太ももに口付けてやる。やがて、大きな、もはや本気なのかわざとなのか、区別のつかなくなった声を立てて終った愛が、本当に終ったのかどうか、そんなことはたぶん、本人さえ知らない。あお向けに、空中に四肢を投げ出して、のけぞった背を頭から絨毯に無防備に倒しつけ、荒れた息遣いだけを吐く愛の上に、やがて覆いかぶさった私はその唇に、ながい口付けをくれた。一種の、余興のご褒美のようなものとして。眼差しの向こう、そして少年は血を流し続けた。

色彩を失ったその少年、昏く、翳り、弧を描く両眼の鮮血に無様な鮮度をを見せ付けて。

慶輔。

その、二歳上の男と会ったとき、私は二十歳になったばかりだった。たったひとりで、渋谷のクラブのトイレの前ですれ違ったとき、彼は不意に私に声をかけたのだった。

「お前、好きでしょ?」

これみよがしにだらしなく、それが正式な作法であるかのように壁にもたれて座って、三人の女をはべらしていたその男を、私は見つめた。薄暗く、そして、間歇的に、それぞれに一瞬だけ照らしつけられるけばけばしい照明に引き裂かれて、浮かび上がっては消えていく、その男の薄昏いすがたに、私が受けるべき好意的な印象は何もなかった。場違に、色づいた筋肉質の体の線をくっきりと曝すスーツを着こんで、そしてその商売が透けてみえる煽情的で、軽蔑的な眼差しの女たちはみんな、煙草をすっていた。いいよ。

軽蔑して。彼はまるで、あまりにも素直にそう言っているようだった。

煙が匂った。

「好き?」言って、男は笑った。理沙が死んで仕舞った後だった。一週間と、数日のまえに。だから、だれも私の誕生日を祝おうとする人間はいなく、理沙の部屋に取り残されたまま、私には時間だけが大量に残されていた。近くのクラブにでも、なにかを探しに行くしかする事を想いつかなかった。男が、何を言いたいのかは、すでに察していた。私は彼に笑いかけた。

男は、身をもたげて女たちに言った。ごめん、と。この子、可愛がったげてくる。笑う。それぞれの女たちはそれぞれの口になじった。それぞれの流儀で。女たちの眼差しに、軽度の薬物の匂いがした。錠剤かなにか、そんな程度。ひとりの女の頬にだけ軽いキスをくれて、男は私の腰に手を回した。抗うすべなどなかった。男は誘うことに馴れていて、あまりに自然で、それに抗うことは作法を無視することのようにさえ、想われて仕舞うのだった。そして、それが男の手の内にぎないことを、彼は容赦なく曝して、見せびらかすのをためらいさえしてしない。私は、男を、ほんの一分もかからない理沙の部屋に連れて行った。

マンションのロビーでエレべターを待っている間に、私はその男の美しさには気付いていた。明らかに何かを暗示して止まない、そのくせ、その内側には何の秘密など残ってはいないこともまた明らかな、なんの役に立たない想わせぶりな眼差しを、彼は曝した。そして、それはなぜか、彼の表情は心に咬み付いて仕方ないのだった。

彼が無能な、知性さえない、空っぽのでくの坊に過ぎない事は、見ればすぐにわかって仕舞うのに。お前。

「こんなとこ、住んでるの?」

男は笑いながら言い、でも、と。

「もうすぐ出て行かないと。」

「なんで?」

「借りてる名義人が飛び降りて、死んじゃったから。」

「間借りなの?」

うなづいた私に、男は無意味な喚声をくれた。例えば、眼の前に転んだよちよち歩きの、可愛らしい他人の子供を囃し立てたような、そんな。笑っちゃうね。

男は早口にささやいた。いずれにしても、私がもうすぐ出て行かなければならないのは事実だった。期日は月末。月末までは理沙の契約が残っていた。他の行き場所もなく、両親に連絡を取っているわけでもない私に、オーナーも無理に出ていけとは言獲なかった。犯罪者を見るような、いかがわしい不審の眼差しをくれながらも。警察の処理は事故。転落死だった。警察が部屋に入ってきたとき、テーブルの上には理沙の覚醒剤の粉が散乱していたままだった。それは、理沙の死から三日後のことだった。警官は、私を調べた。私の尿からも、髪の毛からも、薬物反応は出なかった。見てみない振りをして、と、「見殺しにするのも、」ね?「共犯だからね。」

五十代の警官は言った。でも、

「だって、」過呼吸の薬だと言っていた、と想いつきで私は言った。副作用がきつくて、大変なの、と、いつもそう言って嫌がっていた、と。「やばいんだよ。これ。」潤んだ眼で。いつでも、「すぅっごい」副作用のために、うつろで「点つらいの。」焦点のあわない眼差しだけを曝して。

身じろぎした瞬間に、傍らの、その男の体臭が匂った。クラブの中からずっと、見せびらかすように私の腰を抱き続けていた彼の仕事は、聴かなくても分かった。ホストか、闇金融か。とはいえ、闇金融のありふた安っぽさの変わりに、在り獲ないくらいの安っぽい色気を撒き散らしていたので、彼はホストに違いなかった。男が、すれ違う人目の前で、腰に回した手をわざと誇示し、自分のそんなセクシュアリティをもはや誇らしげに見せつけるのを、私は不意に落とし穴に堕ちこんだような、馬鹿にされた違和感とともに見た。そして、クラブの外で、すれ違う男たちは奇妙な敬意を無言の忌避する眼差しのうちに曝し、女たちは、ふしだらなほどに発情した雌の眼差しを、彼に捧げた。つるみあった女たち同士は、すくなくともその男に焦がれたその瞬間には、在りもしない自分たちの同性愛と、彼への欲望をだけひたすら色づかせた眼差しと、挙動の一つ一つに顕して見せ、ささやきあいながら、とはいえ、彼に話しかけられるわけでもない。家禽のような女たち。

部屋に入った瞬間に、男は嬌声を上げた。すげぇえじゃん言って、ひとりで騒ぎ、笑い、その声が空間に停滞した空気を震わせて、彼の気配は彼の周囲にだけ覚醒し、照明さえつけずに、男はひとつひとつ部屋を確認してまわった。それらの嬌声が意図されたに過ぎないことなど気付いている。最後に辿り着いたリビングの、花だらけの巨大なルーフバルコニーに、もはや我慢できずに男は声を立てて笑い、ひとりではしゃいだ。「ばかなの?」言った。ねぇ。

「まじで、ばか?」

ソファに座った男は、そのままそこの寝転がり、身を投げ出して、「ここ、次の借り手決まってる?」さぁ、ね。言った私に微笑む男の眼差しに、かすかな憂いがうかんだ。

照明さえつけられないままの、月と、星と、地上からの淡い夜の光源にだけ照らされた中に、しずかに男はその、単純すぎて何を考えているのかわからない表情を曝す。男は憂いていた。そう見えるだけで、男はなにも憂いてなどいない、と、そんな事実さえ、男の眼差しは恥じも、隠そうともしない。ね。

俺、ここ、借りる。」男が、つぶやく。「いい?」

ん?

「俺は、

んー

いいよ。別に。」

たぶん、私はまるで、おとなしい家禽じみた眼差しを、男に

「お前も、住むでしょ?」

曝していたに違いない。

「ここに?」

私は男を、息をひそめさえして

「住みなよ」 

見つめていた。

「住んでほしいの?」うなづいた男は、脱色された長い髪の毛を掻き上げ、「住みたいでしょ?」ささやきかけた。

まるで、ふたりの距離がすでにふれあう寸前にまで接近されていたかのように。

「俺と、住みたくない?」

声を立てて笑った私の相手もせずに、「決まり。明日、オーナー紹介して。今日から、ここ、俺の家。」

ジャケットを脱いで、床に放り投げた男は振り向き様に言う。で、さ。

「脱いで。」

 

脱ぎ棄てられた衣服が床に散乱する。私が脱ぎ棄てたもの。私は男の至近距離に近付いてやり、それを、ソファに座った男の鼻のさきに曝して、立つ。男は私を見つめていた。見あげた眼差しが私の体を、残る隙間もなくその視覚の中にだけ姦して行く。容赦もなく。痛々しいほどに勃起した、それに息がかかって、空気がふれる。かすかに開かれた唇から、吐かれた。彼の体の中に彷徨っていた空気だけが。見つめられるにまかせ、私も男を見つめてやった。ねぇ。

男が言う。やばい。

「家帰ってオナニーしていい?」

言って、笑った男の頬を、両手のひらに、ただ、ふざけあって、ふれあって仕舞ったにすぎないほどの軽さで抱いて、「駄目。」私は言った。じゃ、

「さ。」男は「ここでする。」瞬く。

「駄目」

「なんで?」

「まだ駄目。お前の体も、見せてよ。」俺に。

ね?俺にも。」

私たちは、お互いに沈黙した。

見つめ合った時間の、停滞の、惰性の、無言の、あてどもない救いのない経過を愉しみ、「俺の体、見てどうするの?」男は不意に、口走った。聴く。「先にしちゃう気?」男の声。

私は聴いた。

「俺より、先に?びとりで?」てか、

「じゃなくて、」と、言った私の声には、

「むしろ先にいっちゃう気。」

媚がある。私の声に。いかにも穢らしく、どうしようもなく家畜じみた媚。私は私自身を容赦なく軽蔑した。赦し難く生得的な穢れものだった。そして、その軽蔑には何の根拠も見当たらなかった。男を見つめていた。

息をひそめて。かならずしも私にその傾向はなかった。あるいは、十歳くらいのころに、同級生に同性愛に近い、やわらかくて、ただただやさしいだけの情けない感情にふれらたことはあったにしても。まるでそれは他人の感情であるかのように。

なんの煽情もなく、いじましくなるほどに繊細な、壊れそうな、なにをも煽りたてはしない、そのくせどこかで切実な幼い感情。

欲望とも、愛とも、恋とさえも言獲ない。

とはいえ、それはまさに恋というべき感情にほかならなかった。

私は、彼を求めていた。

それは、男の眼の前にさらけ出された私のそれが無残に証明していた。もう

と。我慢が出来ません。生々しいそれが曝している事実。男は、脱ぎもせずにむしろ、見つめ合うだけの無意味な時間をむさぼって、その、想いつめた、鮮明な絶望を浮かべた眼差しが、不意に瞬かれた一瞬、あからさま崩壊を刻んで仕舞って、彼の唇は私のそれにふれていた。一度だけ。

すぐに、離れた。男の息がかかった。愚弄するように。鼻から。そのとき、私の、何にもふれられてはいないそれに、執拗な喪失感と孤独が目醒めた。なぜか、ためらいながらさしだされた舌が、至近距離の空間にいちど戯れて、ふれられたそれが滲み出していた体液をその舌先はすくった。私は男に焦がれた。

私は後ろ手に、そしてかすかに身をのけぞらせた。

口で、好きなだけなぶられて、もはや、自分が穢れきった気がした。まだ、男に抱きしめられてもいないうちに、すでに私の体中に彼の体臭が染みついた気さえしていた。理沙も、そう想ったのだろうか?私に抱かれたとき。腕の中に抱きすくめられるより前に、私の唇だけが嘲笑うようにふれた瞬間にさえも。

そのとき、私が知っていた女は理沙と、そして、あの母親だけだった。美紗子。彼女も倦み、苛まれたに違いない。むしろ、私に焦がれて私を見つめた瞬間に、なんども、その体中に取り返しようもなく、他人の体臭を移されて仕舞った実感に。男の眼差しが、あきらかに私に焦がれていた。

あっけなく、唐突に力尽きた私は息づかい、彼の目の前に、床にあお向けて倒れこみ、そして、彼を待つしかなかった。私に穢された、かるく捲かれた毛先と、悪趣味にはだけさせた胸元を、男は拭いもせずに立ちあがって、私を見下ろし、一枚一枚もったいつけながら脱ぎ棄てていく男の仕草を、眼をそらしままに私は見守る。「見せてみなよ。」男は言った。

素肌を曝して立ちつくしたまま、男は独り語散るように言って、眼差しは表情さえなくその留保もない絶望をだけ訴えた。声はどこかあからさまな軽蔑をだけ曝しながら。何を?

と、私の唇が動く前に、「お前のオナニー」男が言う。見せて、と。

私は反対に、言った。

かすかに微笑み、やがて、私は笑い顔に表情を崩して、「見せてよ」言った私の声を、不意に、はじめて耳にした言葉を聴くように、男は眼差しを戸惑わせた。

俺の?」

頽廃。

私にまたがり、素肌を曝した男が、立ったまま、見下ろした私に焦がれながら自分を慰めた。挑発しようともしない、私を見つめる眼差しの私に無関係な没頭が、私をあざやかに挑発した。私は身を投げ出して、男の眼差しに見つめられるままに任せた。夜の光のない暗さの中でさえも、男の肌の白さはあざやかだった。私は男を見つめ、男にふれられていないすべての皮膚のすべてが倦んだ渇望に耐えがたく苛まれた。

閉じられもしないまぶたが、私の眼差しに鮮明な昏い色彩の喪失を描いていた。その、喪失された色彩の名残りさえないなかに、見たこともない形態の残骸が、どうしようもない孤立を空間に曝して、穿っていた。

なににもふれ獲はしないままに、その翳りはそれが存在したぶんの空間だけを、破壊し、破滅させていた。

男の背後の天井にへばりついて、翳が血を流す。鮮明な、真紅の色彩。ただ、赤い。

上の方に、まっすぐ、そのくせかすかにのたうち回りながら上がっていく、それ。血。

冴えたひたすらな色彩。

その噴き出す箇所が、翳りの口か、目か、そんな場所であるに違いなかった。形態として壊れて仕舞っている、無残な形態。男。それは、まさに、その男以外ではなかった。私の皮膚が、空中に飛び跳ねて落ちた男のそれを受け止めた。胸の皮膚に、その触感がある。垂れ落ちるそれはあやうく右の乳首を回避する。昏い翳りが、私を見つめる。匂う。

そんな気がした。男のそれの匂い。見さえすれば、白いくすんだ色彩を曝して胸に停滞しているに違いないもの。なにも、眼差しに映し出しはしないままに、翳りは。それ。命を発火させるもの。

細胞にあざやかで、取り返しのつかない覚醒をもたらして、そして分裂させるもの。

生命。いのち。

翳りは、眼差しの中で身動きさえしない。色彩の一切を失ったままに、それは沈黙した。ソファーにしがみつくようにして、四つんばいになった男の体を知ったときに、私はその突き出された尻のはじめての感覚に倦んだ。彼の体内の中で、私のそれは、孤独と渇望から終に解き放たれた惨めったらしい救済の、あるいはいいわけしようもないふしだらな惰性に、しずかな発熱を内側に溜め込みながら目醒めつづけていた。好き?

好き。

どうして?

好き。

なにが?

好き。

なんで?

好き。

こんなもの?

好き。

こんなものなの?

好き。

こんなものなの?好きになるって。

好き。

こんなことなの?好きになるって。

好き。

なにがしたいの?

好き。

なにが欲しいの?

好き。

いつ、終わるの?

好き。

いつ、結ばれるの?

好き。

いつ、救われるの?

好き。

いつ、夜が明けるの?

好き。

いつ、朝になるの?

好き。

いつ、眼醒めるの?

好き。

こんなものなの?

好き。

見い出したかった風景は。

好き。

なぜ?

好き。

なぜ肌はかさねあわされるの?

好き。

なぜ?

好き。

なぜ唇はかさねあわされるの?

好き。

なに?

好き。

何の意味があるの?

好き。

なにをして欲しい?

好き。

なんで?

好き。

なんで俺なの?

好き。

どうして?

好き。

どうして君なの?

好き。

なぜ?

好き。

なに?

好き。

いま、俺たちは

好き。

なにをしてるの?

好き。

なにを

好き。

見い出しているの?

好き。あるいは、そして、やがて、まどろんで、眼を開いた朝に、私の皮膚にかけられていたタオルケットと、ソファの体温に温まれた温度があった。私の肌はそれを感じ取っていた。素肌が感じていたその生地の触感は、やだ、やわらかかった。床に座った男は私の傍らに、私の腰に凭れかかって覗き込んだままに、目醒めた私に表情さえ変えないで、むしろ、彼は微笑んでいた。「起きた?」言った。

うなづく。そして、それ以外になし獲る動作などありはしない。

私は、不意に噴き出しそうになるのを堪えなければならなかった。ずぅうっ、と。

男の声を聴く。

「ずっと、見つめてた。」やがて、男の唇が私の唇にかさねられたときに、それが、彼とのはじめてのキスだったことに気付いた。

私はただ、幸せだった。

同性愛。それは、セクシュアリティの問題でも、ましてや人権に関わる問題でさえない気がする。どうしようもなく留保もない、たんなる無根拠な実感として。

それは、存在論の問題、あるいは、存在そのものの留保ない体験に過ぎない。騒ぎ立つ性欲も、その無意識的な根拠も、それに到必然も、諸々の因果関係も、それらはすべて副次的なものにすぎない。ただ、本質的なのは私が彼を愛していること、そして焦がれていること、さらに、なにをやってもその渇望を、満たすことなど出来ない絶望的な袋小路に堕ちて仕舞うこと、それだけだ。

同性愛に社会的容認など必要なく、人権などさらに必要もなく、そして、人権の名における保護も正当化も何も、そんなものはたんなる愚劣な、何かどうでもいい副次的なものへの媚びた融合にすぎない。同性愛に人権学上の正当性を与える事は、例えば海が捲き起こした津波に人権を与えるようとするに等しい。津波は、人間など滅び去っても勝手に捲き起こり、為すべき破壊をしでかして、そして海に消え去っていく。そんなものに、人権など必要なく、人権で覆いつくせるほどなまやさしいものではない。それらは常に、人間を、あるいは精神的存在としての人間の存在そのものを、一瞬で留保なく破壊し、飲み込んで仕舞う。

精神的な美しさも、倫理的な気高さも、なにもかも、精神と名のつくものすべてに、まさに破壊の限りを尽くし、完璧な破滅をだけ、与えて。

その、眼の前の男への愛は、ただただ過酷で、もはや救われる手立てさえなかった。そして、存在そのもに直接、容赦なく、素手でふれて仕舞う愛、そう呼ぶしかない、その、乱れ狂い、浪立ち、荒れ惑い、沈黙し、ひたすらの静謐を刻む、その、ある感情、と、そう呼ばざるを獲ない、その、体験?

固有の、それ。

それを、なにものにも、肉体にも、ましてや性欲や生殖の本能的必然あるいは妥当性に還元することなどいかにしても出来ない、単に不当な事故にすぎないそれは、ただ、精神をだけ輝かせて仕舞うのだった。

精神。

人間だけに固有の、孤独ななにか。男を見つめる眼差しの中に、男を想う心のうちに、確実に、留保もない精神の、その実在だけがきらめいていた。心は、ただ、精神にふれた。

やがて、立ち上がった男の後姿が、私を一瞬で不安と孤独の中に突き堕とす。彼を失って仕舞う可能性の、その無慈悲なまでの現実の現実的な存在が私の皮膚に、筋肉の中、神経系のすべてに、あるいは脳細胞の一番奥の深いところにさえも、ふれて、一気に突き刺さったのだった。どこ。

と。

どこ、行くの?

そう言った私の声を聴き逃した男は、一瞬後れて立ち止まり、振り向き、数秒間見詰め、ん?、と。私はその鼻にかかった音声を聴いた。

「どこ、行くの?」

かすかに立てられた、男のやわらかい笑い声が私の耳にやさしく、ふれた。「水。」

喉、ね?「渇いた。」

私たちの微笑みあう眼差しだけが、空間に交錯し、ね。

ん?「名前。」

それ。私の、その声。「、なに?」

聴く。

「なまえ?」

ん。」

「けー。」ん?

「けい。」

ん、

けいすけ。」

「けー。

「ん。」

「けい。」

笑う。

けいすけ。慶輔。ケイ。

私は彼の名前を了解した。

 

愛たちの居住空間に、まともに閉められたドアなどひとつもありはしなかった。もはや姉妹ふたりしか住んでいないからそうなのか、父親の存命時からそんなものだったかのか、いずれにしても愛が連れ込みさえしなければだれも来る者のない空間の、ドアと言うドアは半開きのままにだらしなく放置され、時に吹き込む風だけがいきなり閉めて、愛をときに驚かせた。玄関のドアさえもが、かすかに反った木枠のせいか、それとも古びた建物の構造自体のゆがみなのか、まともに閉まりきりはしない。それで支障などないのかもしれなかった。巨大なペントハウスで、そしてだれもがそこがビル・オーナーの、あるいはオーナー社長の住居だと知っていて、そして、一階のエントランスはオート・ロックだったのだから。

愛が自分で終った後、私は頬にキスをくれて、勝手にシャワーを浴びて、吊り下げられていた、姉妹どちらのそれなのかも分からないバスタオルで、濡れた体を拭った。リビングに戻れば、愛は肌を曝したままにあお向けてまどろんで、そして、葉は姿を消していた。

立ち止まって、絵を見た。

葉が修正していた白い絵。何が描いてあるのかはわからない。単純に言って仕舞えば、白い、というしかない。とはいえ、そこに何かが描かれていることは分かった。それが何かは分からない。それが何なのか分からないのではない。想い出せないだけだという気がした。想い出したところで、なにが報われ、救済されるというわけでもない。白。

単なる、白い絵。テーブルの影になって、恍惚の中の終わりを偽装して、実際には中断されたままに放置された愛は、身動きさえしないその時には、死んでいるとしか想えなかった。横を向いた彼女の眼差しが、窓の向こうのほうを見上げて、時に、まばたき、その、カーテンの切れ目から差し込まれた日差しに差された腹部は、息遣い、生きてある証拠を刻み、そして、愛は死んでる。そうとしか想えない。

私は、不意に愛を失った喪失感に駆られ、そして、自分の頭の中でだけ、笑った。自虐的な、苦笑、の、ような、もの。

短い、哄笑。

死んだ愛は、私の存在に気付きながら、私の存在には気付こうともしない。私の眼差しにふれられていることを、その体中に、あるいは体毛の一本にさえ意識して仕舞いながら。

葉を探した。

私は、愛を棄て置いたっまに。何かの必然があるわけでもなければ、何の用があるわけでもない。語られるべきなんの言葉も持たない心の中に、自分の、言葉を持たないささやき声だけが連鎖する。さざ浪のように。まるで、今まさに、自分自身とたいせつな対話に明け暮れているかのように。キッチンの中。私を見つけた猫が逃げて、そして、立ち止まって振り返る。

鳴く。

だれ?

と。お前、

だれ?

ひとつ目のトイレ。そこにいないことは、ドアを押す前からすでにわかっていた。

ひとつの目のバスルーム。私が使ったばかりのそこ。開け放たれたドアから、かすかな湿気が空気にふれる。かすかな臭気は、私の体臭の残骸だったのだろうか。いない。

だれも使っていない部屋。死んだ、彼女たちの父親の遺品がそのまま片付けられもせずに残されて、空気は停滞していた。写真立て。本棚の、整理されない蔵書。机に投げ出されたファッション雑誌の裏表紙。それら数冊。ベッドに数せられたままのシーツとぶ厚い蒲団。自殺したのは、冬だったのだろうか。停滞した空気が淀む。匂いがある。古い匂い。放置されたそれらのうちの何の立てた匂いなのかはわからない。

愛の部屋。ドアを押して、完全に開ききった瞬間に、自分たちの籠った体臭が匂った気がした。

だれも使っていない部屋。完全な、ヴォイド。

空虚。

葉の部屋。匂う。彼女の体臭。そこに棄てられ、名残られたもの。空気に撫で付けたように染み付いて、そして、どうしようもなく煽情的な匂い。匂いが命じる。この女を愛せ、と。自分のものにして仕舞え、と。その匂いを撒き散らす驚くほど美しい女は、愛をつぶやくべき言葉をさえもたない。だから、私の唇がつぶやきかけるべき言葉など、存在しない。

もうひとつのバスとトイレ。もはやだれにも使われていないらしいそこの大気は渇ききっていた。そもそもが、各部屋にバスとトイレが設置されているのだから、いまや、たんなる無用の空間にしかすぎないはずだった。排水溝が穢れ、黒ずんでいる。

だれも使っていない部屋。日当たりの良すぎる部屋は痛みが激しく、淡い紋様を散らした壁紙が日に灼けていて四隅をうすくはがし、そして専用のバス・ルームのドアを開けば、排水菅が持ち上げた汚水の匂いがした。

背後のどこかで猫が鳴いた。姿は見えない。振り返っても、あるいは、すくなくとも私はその姿に気付かなかった。

だれも使っていない部屋。たぶん、書斎のようなスペースだったに違いない。壁を占領した棚に、資料、書籍、アナログ盤、CD、散乱したカセットテープにMD。それら。日差しの中に、朽ちていく。古いJBLのスピーカーがひとつだけ。壁の角にぴったりと、一台だけはまり込んで埃りをかぶる。テクニクスのターンテーブル。メーカーの分からない丸っこいラジカセ。

もう一つの、それほど広くないリビング。逆光。葉は、そのルーフバルコニーで、夥しい鉢植えの花に水を遣っていた。北向きの、壁一面に開かれた窓の向こうに明治神宮の森をそのまま開かせる部屋は、葉のアトリエに違いなかった。その部屋にだけ家屋の中に敷き詰められていた絨毯ははがされて、フローリングに替えられていた。おびただしい花々と、観葉植物の瑞々しく冴えて息吹いた匂い、そして壁にでたらめに立てかけられて積まれたキャンバスの、油彩とテラピン・オイルが匂う。腐った脂じみた悪臭。それらの癖のある芳香の、束なって単なる臭気に堕した強烈な匂いの群れは、美しく色づいた女のなまめいた香気などたちどころに消し去って仕舞うしかない。

窓の向こう、ルーフバルコニーに、レース地のカーテン越しの葉のすがたが、かすかな逆光めいた光の中に翳としてうごめいて戯れるのを見る。ようやく彼女の存在に気付いた私は、なぜかあざやかに安堵した。

確かに、最初にこの部屋に入った時には、眼差しは彼女のすがたをそこに、すでに捉えていた。

絵。さまざまな絵。白一色の、同じような絵。

そして、人体を模したのかも知れない、そんな暖色の、どこかむごたらしい色彩がゆがんだ空間に停滞して、崩壊した形態のなかに、単なる色彩としてだけうち棄てられた、抽象的な?具象画、の、ようなもの。根拠はないが、それが人体であることをだけは留保なく認識させる。ひとつの鮮明な、網膜における皮膚感覚として。

あるいは、色彩をだけ、荒れ狂わせたもの。かさねられ、荒れ狂わされたそれは、もはや昏い、としか言獲ない。穢い、という感覚が、一つのはっきりした価値観であることを、それは明示していた。混乱した色彩の戯れに過ぎないそれは、もはや、穢いとさえ言獲ないのだった。それらはただ、昏く、明瞭で固有なそれらの色彩と形態だけを曝す。

その三つの連作の群れ、なのだろうか。それらのヴァリエーションが、描きかけのそれをもふくめて、散乱する。あるいはそれらは、彼女が頭の中に抱えた、疾患か破綻の病状証明だったのかもしれない。

自分を見つめる私に、葉は気付かない。気付くはずも無い。彼女の眼差しはいま、花と流し込まれるやわらかな水流にだけ注がれていて、彼女は私の姿など見ていない。言葉という音のない、静寂の彼女の世界に、いま、私は完璧に存在しない。

私がその至近距離の背後に、大声で叫んだとしても。自分でこの胸を刺し、腹を引き裂いて臓腑を引き出して、激怒した怒号を上げてみたとしても。あるいはたとえ、その視界に端に私の翳くらいはふれさせて仕舞ったとしても。いま、花に捧げられる水の流れのきらめきを見ている彼女は決して、私を知らない。私の存在は、風に揺れた樹木の葉のこすれあう、誰を振り向かせない音響に等しい。

ルーフに出て、素肌を外気に曝した。そこに人の眼は存在しない。すべての建物より頭ひとつ高い、かつての合法、新法上の違法の建造物は、たんなる6階の高さの中で、地上に対して驚くほど孤独だった。素足にこまやかなじゃりの触感があった。

背後に近づく私に、背を向けたままの葉は無防備な後姿を曝していた。声をかけるすべもない。いくら接近したとしても、彼女にふれて無理やり振り向かせる以外に、彼女に私の存在を教えるすべなどない。

近づけば、彼女の体臭と、豊かにあふれた髪の毛と、纏われた衣類の布地があざやかに匂う。たしかに、美しい女。そうであるには違いない。だれをも愛する事のない、その。差し伸ばされた指先が、その肩に触れようとした瞬間に、葉は振り向いた。

眼差しが、無表情なままに私を捉えた。

軽蔑とともに、彼女に責められた気がした。眼差しは何も語らず、空虚なままだった。洞穴のように。

心がいつか、欲望にふれた、のではなかった。例えば、性的な欲望に。

ただ、唇。彼女の、その、ふれられ、愛され、いつくしまれるためだけにそこに存在していたような、ただ、冴えて、やわらかな息吹きだけを立ててそこにある彼女の唇に、私の、空中に戸惑って停滞した指先は、ふれようとした。

指先はそっと、音もなく伸ばされた。だれの許可も、私自身の許可さえもなく。

「やめて。」

葉が、言った。

私はその声を聴いた。低めのやわらかな音色。いわばヴィオールの高音。指先は、自分の存在そのものを恥じた。永遠の穢れものとして。

さわっちゃだめ。「苦しくなるよ。」色彩。眼差しには、すでにあざやかな色彩が浮かんでいたのかもしれない。その、あざやすぎる黒眼には。私が見過ごしてただけで。息づき、息吹き、そこにずっと存在していたのかもしれない。私をじっと、一心に見つめながら。私は、彼女が曝す無機的な黒目の輝きを、見つめた。「さわる、けど、

ね?

そう言って、「どうせ、」葉は微笑みむ。「苦しむけど。」声。ね。

低音楽器が鳴らした高音のようなそれは、やわらかすぎて耳に音色を残さないままに、記憶にだけはその痕跡を残して仕舞う。そんな彼女の音声を、私は頭の中に反芻していた。私を避けるように、至近距離の、ふれあわないぎりぎりを通り抜けていく葉の、髪の毛が匂った。匂い立つ女が、文字通り芳香を撒き散らして、いたずらに、装うこともなく目にふれられたものの片っ端を破滅させていく。そんな、残酷さが実感された。「覚えてる?」

壁際に立ち止まり、日差しを浴びて、持っていた小さなピンク色の、子供用のふるい如雨露を入り口近くの棚に置く。「私のこと。」

だれを?

「忘れた?」

なに?と、言った私は、戸惑いながら、なにに戸惑えばいいのかさえ分からない。「あなたが殺した女。」

だれ?

その言葉を、私がつぶやくことはなかった。私はむしろ、彼女に見惚れるばかりで、もとからその言葉の意味さえ聴き取ってなどいなかったのかもしれなかった。「理沙。」知ってた?

「本名は、マリア・ソーマ

想い出す。

堕ちる女。私を抱きしめようとして。「想い出せるでしょ?彼女だったら。」

「なんで知ってるの?」

「わたしだから。」入って、と。

葉は言った。日差しの中から室内に入ると、その一瞬に視界は昏らむ。たいして暗くもないはずの室内が、あざやかな暗やみとしてだけ曝されていた。油絵。オイル。植物。匂い立つあらゆる臭気の束が、葉のなまめいた匂いを一瞬で消して仕舞ったことに、私は喪失感にだけ駆られた。「話せるの?」と、そう言った言葉に、最初に驚いたのは私だった。口に出したいのは「え?」そんな言葉ではなかった。「なに?え」声。

え?

と、そう言った、葉の声。かすかにしかめられた眉。私は、彼女の声を聴いた。

「なに?」

話せるんだ。」葉が声を立てて笑い、私は彼女に微笑みをくれた。「ばか。」てか、さ。

「知ってるでしょ。」葉が言う。「なにもかも。忘れた?私は話さないだけ。話したくないから。聴かないだけ。もう全部、聴いてちゃったから。」なにを?

「すべてを。」

無意味に、眼差しは彷徨うようにアトリエの中を徘徊し、植物の群れを確認する。彼女の眼差しのうちにだけ。息遣い、その、私の眼にふれる皮膚の単なるたたずまいさえもが、彼女が生きてそこに在ることを証明していた。「あなたも、そうでしょ?」

振り向いた彼女が言った。「なんども、なんども。時間さえも無関係に、」ね?「なんどもなんども生まれ変わって、なんどもわたしを抱いたこと。」不意に、「愛したこと」掻きあげた指先が「憎んだこと」その長い「絶望したこと、そして」髪の毛を乱す。「歎いたこと」眼差しの中に、「悔やんだこと」彼女はただ「ときには、」ね?「殺して、」微笑みながら、その「さらには」ん。「裏切って」見つめる視線の中に「売り飛ばして」私を「救って」捉えた。「強姦さえして」まばたきもせずに。「自殺させて」知っていた。私は「忘れた?」確かに、「いっぱいのたくさんの」彼女を愛していた。「無限の、」ずっと、「彼女たちを」永遠よりも長く。

でしょ?

時の無造作にして無際限な決して時を同じうしない散乱の中に。

葉は、言った。

「抱く?」

その瞬間にまぶたに曝された葉の瞬きが、私をおののかせた。

「欲しいんでしょ?」

あるいは

「やりたい?」

一瞬だけその唇の先にちいさく乱れて吐かれた息が、

「それとも、ね?」

彼女が笑っていることを隠しようもなくあざやかに

「してあげようか?」

明かした。

「お姉ちゃんみたいに。」葉は「自分で。」笑う。「して、見せてあげようか?」声を立てて。「よだれ出ちゃう?馬鹿な犬っころみたいに。」笑っちゃう。笑い声に乱れて、「お姉ちゃん、いっつもそう。」わなないて、好き放題に「知ったかぶりするの。」浪立つ声。ね?

「ぜんぜん、うぶなくせに。ほとんど、なんにも知らないくせに。ビッチっぽく。お尻の穴まで知りつくしてるみたいに。でも、いい。」不意に落とされた眼差しが、はっきりと彼女の眼差しに悲しみの翳りを刻んだ。「もうすぐ死んじゃうから。」

「なんで?」

「私と一緒。」一緒?

「自殺、みたいな?」笑う。その「あの、」眼差しに、「理沙ちゃんみたいに。」屈託はない。

見詰め合う眼差しだけを、私たちは愉しんだ。なにもかも知っている気がした。確かに、私は葉を知っていた。それは間違いではなかった。彼女を、あるいは、いま、そこに彼女としてあるには違いないそれを、確かに私はなんども抱いた。時には、殴り殺しさえして。その直後に、止め処もない嗚咽のうちの悔恨に駆られながら。時には、彼女のこめかみに当てられた私の手のひらのうちの銃の、その銃口は彼女を射殺した。一瞬の、容赦のない嗜虐に煽られながら。あるいは、いいよ。言った。

お前の好きにしろ。

私は彼女が私を見棄てるのを許した。背中を焼く熾き火に焼かれながら。後ろ手に縛られた手首が、空をつかんだ。そして、やがては、ふれた。唇に。私の唇は、涙した彼女の唇にに、そのふたりだけの婚礼の日に。最期の時期、人類たちが滅びていくさなかの最後に。あるいは、そして、それ。それら。しずれにせよ、すべて、私はすでにすべてを知っていた。ペンローズの意識?正確な理論的根拠は知らない。意識の特異なる無限の記憶。ね?

想い出したように、葉は言った。「見る?」

言葉さえ、私は忘れていた。眼差しの中に、愛する、そして、愛した、あるいは、愛している彼女の姿があって、その眼差しが私を見つめていた。「見たいでしょ?」

服を脱ぎ捨てる彼女を、私は止めなかった。「見たくって、」私は眼をそらした。そらされた眼差しは「ね?」フローリングに映えたなにかの翳の「舐めたくって、」淡い形態だけを見い出し、「むしゃぶりついて、」気配の中に、眼差しの先に「でろでろにして、」初めて顕わされた、その、「ぐっ、」あまりにも「ぐっちゃぐちゃにして、」美しすぎた身体に、私は「べっろべろ、」意識さえ「びっちゃびちゃ、」消滅させて、「ぐでーんっ、」焦がれた。その限界を「って。」超えて仕舞いそうになった瞬間に、そこで、「ね?」すべてを曝していた彼女は「違う?」言った。待って。

ね?」

待って。

それが、耳元でささやかれたように、私は感じた。私の眼をそらし続けた眼差しは、終にその、至近距離にむき出されていたはずの彼女の素肌を捉えはしないままに、そして葉は部屋を出て行ったのだった。そのまま。ドアを開いたままに。

 

 

 

 


わたしを描く女 #3

 

 

 

 

 

取り残されたアトリエの中は、単なる孤独を突きつけるだけの為すすべもない空間に過ぎない。

私は、空間のすべてに対して孤立していた。そこで私を受け入れるものは何もなかった。あるいはそのやわらかな腕に抱きしめてくれるべきのかもしれない葉さえもが、喪失されていた。私はすでに、留保なく破滅していた。目に映るもの、それらのそのすべてが、ことごとく悲しい。ただ切実で、そして、体中を、決して滅び獲はしない魂ごと切り刻んで仕舞うばかりに。

私はそのとき、すでに気付いていた。ひしゃげ、ゆがみ、ぐじゃぐじゃな変形を曝し、ただその色彩と形態の残骸だけを曝したそれらの絵。アトリエの隅に、うち棄てられたように薄い埃りをかぶった無数の油彩画のいくつかは、葉がいま描いてる、正確に言えば、これから彼女が書こうとしている絵そのものなのだった。それらは、間違いなく私のこの肉体だった。すくなくとも、彼女の眼差しが解像した限りにおける。

彼女が、わざわざポーズを取らせた私に対して、いまさら絵筆を取ろうとはしなかった理由など明らかだった。彼女はすでに、私の絵を描き上げていた。「モデルになってよ。」そう言ったのは、愛だった。

「いいでしょ?」モデル?

「葉の。」

早朝、ベッドの上、自分の体に注がれたシャンパンの匂いにむせ返りさえしながら、愛はつぶやく。「なに描いてるのかわかんない、単なるおあそびばっかしてる。あの子、」暇なのよ。なんにも「いいでしょ?」描くものがなくて

「いい?」

私が声を立てて笑う。愛はそのふしだらな音律を聴く。耳を澄まし、眼を細め、色気のない乳首を勃たせたままで。私の笑い声は、愛にとっては同意にほかならなかった。来なよ。

愛は、そう言った。

ふたたび辿り着いたリビングは明るい。北向きのそこは、日差しをやさしく、そこにいる人間たちのすべての毒気を抜き去りながら、ただ、ひたすらに明るい。匂いさえない明るさが停滞する。

無理やり連れてこられて、フルートグラスをつかんだままの葉をリビングの中央に立たせて、その正面に立った愛はなんども大声を出す。「か。ぁー」表情のない葉を「く。」覗き込んで、さらに「描く。」身振りと「かっ」手振りをくわえ、愛の「く、」手が「ぅうー」諭すように「かっくっ」フルートグラスを奪うのを、私は「がっが、」見た。

声を立てて笑った。私は。聴く。かっ、

く。その夥しいヴァリエーションの反覆。

そして私は、たがて眼をそらしたままの葉がスケッチブックに書いたまるっこい文字の指示の通りに体を捻じ曲げて、腕を後ろ手にもたげ、尻を突き出したのだった。

穢らしい、家畜かなにかのように。

差し込まれていた指先が肛門から引き抜かれて、慶輔がその匂いを鼻に嗅いでみせた。不意の、若干だけ自虐的かつ嗜虐的あるいは倒錯的な戯れのあたりさわりのないありふれたひとつとして。恥じらい。

「お前の、」

恥らう。私は。ね?

「匂い、するんだけど。」

言って笑った慶輔の顔の前に、わざと無様に尻を突き出して、初めて人眼にじかに曝した私のそれを、私は恥じていた。赤面さえして。慶輔の指先に移ったその体臭、あるいは、私自身の鼻腔にさえも匂われた気さえした体内の、生き生きとした臭気の在り様をも含めて。まともではない慶輔の、狂った奴隷に堕した気がしていた。そして、慶輔は私に抗うことなどできない下等な奴隷に過ぎなかった。彼の眼にし、鼻にかがれ、舌が味わい、皮膚がふれる、その、私のすべてが彼を容赦なく虜にしている事は知っていた。慶輔は犬だった。

慶輔は、私の、理沙の部屋で夜を明かした次の日の午前中に、直接オーナーを探し出してひとりで話をつけて仕舞った。マンションの管理人に聴きだしたのだった。その六十過ぎの二人の管理人たちが、私をうとましがっていることは知っていた。彼らにとって私とは、公式には事故死であっても、要するに早い話が自殺した、風俗嬢でジャンキーの頭のおかしな女が勝手に連れ込んでいた、管理組合の申請もなければもちろん承認もない二十歳になったばかりで住所不定の同居人だった。彼らがそんな私を良く想うはずもなく、そして結局は、所詮は、彼らは世慣れた慶輔の敵ではなかった。ほんの数分で下僕のように、ただ自分に尽くすことだけがとりえの犬っころを二匹、慶輔は捕まえた。そこは、もともとは分譲マンションだったので、オーナーはもちろん個人だった。私は、男なのか女なのかは知らない。そして、後れて部屋を訪れた四十代の不動産屋の口ぶりから察すれば、六十歳以上の女性らしく想われた、このマンションの数戸を所有しているらしいその人物は、事故物件になって仕舞った、マンションの中で一番高くていい部屋を、ただただ歎いていた。取引法上は、物件内における事故の存在は二世代前まで新規契約者に説明しなければならない義務があった。もう高くは貸せないわよ、と。「あんないい部屋なのに。」部屋の管理はその不動産屋が一手に引き受けていた。部屋まで訪れた不動産屋は、数分の間ごねてみせ、職務上の疑いの眼差しを慶輔と私に、交互に向けた。話が流れることなどありえなかった。不動産屋自身が言ったように、オーナーは慶輔をすでに信用しきっていて、さらにどうせ事故物件には違いなく、いずれにしても、冷却期間は必要なのだった。彼にとって、物件の冷却に私と慶輔くらいふさわしい存在はいなかった。二日後に持ってきた賃貸契約書のドラフトに、この物件での自殺、覚醒剤等禁止薬物の使用等反社会的行為があった場合、即刻立退きの上賃借人の全責任とする、と、書き込まれた追加文に、私は声を立てて笑いながら、自殺が禁止薬物の乱用と等しく、自殺した後も全責任を取らされる反社会的行為であることを知った。

初めて慶輔が私を、あるいは私が慶輔を、要するに私たちの体がお互いの体を初めて抱いた日、その終った後に、倦怠じみたまどろみのなか、深い午前から午後にまで、ただ戯れるだけの時間を濫費し、やがて私たちは夕焼けていく空を見た。

ルーフ・バルコニーに出れば、その西の空いっぱいに夕暮れの色彩が、空に曝されていた。その、みずからの素の色彩を無防備に曝した空のあられもない色彩が、巨大で、原始的な痴態にさえ想われて、私はそれをもはやふしだらにさえ想う。留保なく大きな、数億年の時間にわたって繰り広げられる、何をも見い出しはしない天体の無残なポルノ・ショー。人間種が滅びた後においても、もはや人間たちの眼にふれないままに、それらは飽かず繰り返されるに違いないのだった。人間が生まれもしない、カンブリア期の、あるいはその前の、冥王期の長大な時間の流れのなかにあってさえ、あるいは棲息する何ものかの眼差しか、眼差し以外の何らかの知覚かが、それを捉えるか、捉えられもしないままに、ただ、その光に差されていたに違いない野生の、ただひたすら剝き出しの光。いいかげん、

と。

服くらい着ろよ。」

お前、全裸のままの慶輔が、リビングのソファに横たわったままにそう言い、「てか、」私は不意に振り向きた眼差しに、その「そういう、趣味?」微笑みを見る。「お前、まさか。」慶輔は声を立てて笑った。

西向きの窓から差した光に、慶輔の肉体さえもが照らし出されて、彼の眼差しの中に、日差しの破滅的な紅彩に染まって仕舞ったに違いない私の素肌は、光に着色された複雑な色彩を曝しているに違いなかった。

「来いよ。」

言った。それは、私だった。私は笑い出して仕舞いそうだった。

「そこへ?」

慶輔の声。聴く。

「やだよ。」

私は幸せだった。満たされ、そして

「露出狂じゃないんだから、ごめん」

彼を愛していた。

「お前と違って。」

終に笑い出して仕舞った私に、つられた慶輔がたてた笑い声が耳の至近距離をなぜた気がした。見ないよ。

つぶやく。

だれも。」

私は。

「ここにはね?」

笑う。

「だれの視線も、」

ね、

ないから。」

立ち上がった慶輔の、私に愛されるためだけにあった身体は、ただ、私にとって美しい。なにがどう美しいのではない。それは暴力として、ひたすらに美しさだけをそこに存在させて、私を無残に打ちのめして孤立させ、放置して仕舞う。

ルーフ・バルコニーの、上空の風が慶輔の髪を乱した。

乱れて、彼の唇にふれた数本の髪の毛に、私は私たちが結ばれてあることを実感した。それはただ切実で、あざやかで、しかも不意に背後にささやかれたような、かすかな認識として。私は慶輔の髪の毛にふれて、親指はその鼻のかたちを確認した。

私たち口付け合うしかない。だから、私たちは口付けあう。私たちのそれ、勃起しはじめたもの自身が、意識の下方でふれあった、そのお互いの触感を確認しあう。抱きしめはせずに、ただ、至近距離の中に、それとそれが不意にふれあい続けるのを、私たちは愉しんだ。

 

確かに、鮮明な記憶として、どれも明らかに見たことが在る絵画がうずめたアトリエの空間に、倦んで私は行き場所を失った。その空間のなから、私は出て行くしかなかった。突き刺さって、私の骨を砕いて仕舞うような、そんなあきらかな質感を持った孤立が私を苛んでいた。植物のすべてが、私にあられもない沈黙だけを、さまざまに固有な研ぎ澄まされた牙として曝した。

葉は帰ってこなかった。

リビングに戻ると、愛は絨毯の上に身を横たえたままに、背中を向けていた。その向こうに、素肌を曝したままの葉が立っている事には気付いていた。葉は壁にもたれ、窓の向こうを見ていた眼差しを、私に投げた。私は眼をそらしていた。あえて、私は見ない。葉を。彼女は、どうしても美しかった。犯罪をさえ犯して仕舞え。わたしだけの為に。たとえ、それがわたしを容赦なく無慈悲に穢すことにならざるを獲なかったとしても、と。

その皮膚も、体の線も、色彩も、色合いも、髪の毛の一本さえもが、鮮明に命じていることは知っていた。彼女を見つめること自体がすでに、犯罪にすぎなかった。私は、彼女を見つめはしない。そして私は、彼女に姦され、すでに犯罪者にされていた。私は葉を愛していた。

自分をまたいで、眼そらしたままに葉に近づこうとする私の足に、不意に、愛がふれた。それは、かすかに伸ばされた指先が皮膚に、かろうじてふれ獲たにすぎなかった。足元の、体を横向きに投げ出した、すべてを放棄して脱力した女の、その身体を見た。痩せた、虚弱な、老いさらばえ始めた、ただただ見苦しいそれ。もう若くない。そして、生まれたときからすぐに、生まれたものは老いさらばえ始めなければならない。愛が、私を求めている事は、言葉も眼差しも何の表情もないままに、すでに私に理解されていた。倒れ臥して力尽きた女の傍らに、私はひざまづくようにすわり、その頬に触れた。愛はまばたきもせずに、床のすれすれの何かを見つめ、そして、私に視線を投げようともしない。私の存在など、気付いてさえいないかのように。

ながい、無意味な、あるいは、その意味をついにだれにも探ることが出来なかった沈黙の後で、愛が不意に声を立てて笑った。

私を見つめ、首を一瞬もたげて、髪を乱れさせ、いきなりあお向けた体をくねらせて、折り曲げ、ひん曲げさえして、そして彼女は笑う。肺を引き攣らせながら。ふしだらにもたげた両足をばたつかせ、恥じらいを知った手のひらは口を覆い、いずれにしても笑う。愛は。声もなく。その、乱れて図れる息遣いだけで。その指先が痙攣した。まぶたが引き攣って、首が左右に回されて、首筋に力みすぎた凹凸がはっきりと、何かの破綻を暗示しながら刻印されて、腹部の不規則な浪打ちが、そして、愛は笑う。何も言わずに葉はリビングを出て行った。

きれいでしょ?」

愛が言った。前触れもなく、いつか笑いやんでいた愛は、

「あの子でも、」

その眼差しにあざやかな絶望を曝す。

「何人なんだろ?」あの子、あいつ。」

眼差しは茫然と、

「ハーフなの?」

んー。愛がつぶやく。

元無国籍児」パパが拾ってきたの。

空虚な、為すすべもない、ただ単なる絶望。と、絶望と、そうとしか結局は言って仕舞うしかない、彼女の眼差しに浮かんだ悲しみ。の、ような。

そんな。愛が、眼差しに曝した表情を私は見ていた。

「わたしが十八歳のとき。あの子、」その眼差しは私をは捉えずに、「十三歳だった。」私のすれすれを通り抜けた背後のそばに棄てられる。

「二年前に、どこかのアパートから千葉?埼玉かな。忘れちゃった。この話、ほら。

「あんまり、しないから。」でしょ?

私の腕が、愛を

「ね、

抱いた。

「発見されたのよ。」保護されてお母さんとか、」んーとか、

抱かれるままに、愛はやがて胸元にかさねられていた腕さえなげ出して、

「お父さんとか?そういう」なんか、「ね。」悲しい子なのよ。「ね?」

完全に脱力されたその

「ご両親とかそういうの、いなくなって。」で、ね。「なんか

上半身のあられもない体重を預けた。

「裁判?民事?みたいな無国籍児の」それ、ね。

私の腕に。

「それ、パパがやってあげてた。」だから、さ、

「なんか、ひとりでもう、壊れちゃってたらしいよ。きったない、ごみだらけのアパートの中で。」ごみ屋敷。「十歳くらいで。」ね?「くっ、

く、

「くっ

く、くさ。「くっ、」

くっさいの。

「おもしろそうだね。」不意に私は言った。その、自分の声に、私自身が戸惑う。「お前。まるで、他人の不幸が」

「おもしろがってるみたい?」悲しみさえ渇ききって、枯渇した先に薄い歎きだけを停滞させた、そんな、どこかうつろな表情を崩さないままに、愛がつぶやいた。その、かすかにひらかれた唇に。「かもね。」

「嫌いなの?」

んーと、不意に鼻に音声を鳴らした愛は、「たぶん。」私をは見つめない。絨毯の先の、なにかに視線を投げ棄てたままに、それを見つめるわけでもなくて、「わたし、」てか、「嫌いって言うより」ね、「憎んでるよね。むしろ。」ね?きっと。間違いなく。」

「なんで?」

そのとき、私は低く声を立てて笑っていた。茫然としたままに、そして私がつぶやいた言葉を愛は聴いた。なんでだよ。やがて愛はひとりで笑った。私の言葉には、その音声に、明らかに愛への軽蔑が感じられた。「わかんない。」なんでだろう?

ささやく。

早口に。「でも、ね。」最初さいしょ、ね。「最初に来たときのあの子って、ほんとに」ほんっ、「穢いの。」と。ほんっと。ほんっ「むちゃくちゃ」とに。「穢くて」もう

愛は笑った。声も立てずに、その言葉をだけ笑いに乱れた息に荒らせて。笑っちゃう。

もう「でも、さ。」ほんと、ね?」笑っちゃうんだけど、

「いまじゃ、むしろお前のほうが穢いじゃん。」

私は声を立てて、間歇的に笑い続けていた。むしろ、愛は侮辱され、軽蔑され、差別的に蔑視され、罵られ、人格さえ否定され、家畜扱いすらされて、なじりつくされることをだけ望んでいる気がした。お前なんか、

「もう、加齢臭ただよっちゃってさ。しみだらけ。口もとにも皺、見え隠れしてて。ひどいよね。劣化しちゃった感じ?無残極まりないよ、お前。半端じゃない。もはや。もとから大した女じゃなかったんだろうけど、若けりゃともかくさ体、本来ももともと女の魅力ゼロじゃん?全体的に在り獲ないよね。なんで俺がいかないかわかる?無理。いけないの。お前なんか抱きたくないもん。完全に無理だからね。する気にもなれない。勃たないよ。無理やり勃たせてやってんの分かる?他の女のこと考えて。お前の存在自体が無理。なんか、くさいよ。もはや腐敗臭。穢い。お前、自分が穢いの知ってる?腐りかけ。知ってた?もうなんか、見苦しくって穢いのな。お前って。なんとなく。記録的に魅力ないよ。存在として。だから、ホストなんか買うんじゃん?お前。何人目?しょうもない男に金払って抱かれるの?もう、女として終ってるよ。手遅れ状態だよね。たぶんさ間違いなく、」死んだほうがいいと想うよ。そう言って耳元にささやき、微笑みかけた私にやさしい眼差しをくれて、愛は、ねぇ。

言った。

「あの子のこと、好き?」

悲しいほどにそれは、やさしいだけの澄んだ眼差しだった。

私を、見い出してさえいない気がした。「お前よりは好き。ぜっんぜん」眼差し。「比較できる対象でさえないよね。」

愛の黒目が、震えもせずに私を見つめていた。

なにをも責めないままに。知ってる。愛は、そうささやいた。眼差しは、私のすべてを受け入れて、赦していた。言葉を吐いていく愛の唇が、かすかにだけ言葉にかたちを崩していくのを、私は見守っていた。「俺が、さ。」

見つめる私の眼差しが、ただ、「あの女とやったらどうする?」留保もなく嗜虐の色を曝していることは知っている。

「殺す。」愛が不意に、我に返って言った。「たぶん。きっと。間違いなく。100パーセント。それ以上。」

「なんで?」ねぇ。

身を起こしながら愛がつぶやき、ね?私に身を預けて、私は感じる。「ね。ね?」愛の胸元の皮膚が腕にふれる、そのやわらかな触感。

垂れ堕ちる髪の毛。私の胸元にふれる、雑に束なったそれ。息遣い。そして「知ってる?」体温。わたし、

「あんたのこと、好きなの。」

「ばか?」

笑った私に、愛は反応など示さない。「すごい、好き。」

「頭おかしい?」

「自分で信じられないくらい。」

「終に、頭、」

「初めて」

「ぶっ壊れちゃった?」

「初めて知った。だれか、」

「てか、お前、」

「本気に好きになるって

「頭の中にさ、なんか」

「そっかぁって。」

「変な虫」

そっか、」

「飼ってる?」

「こういうことなのか。って」

「腐っちゃった?むしろ、」

「死にたい。なんか、このまま」

「脳みそ腐っちゃったでしょ?」

「見つめたまま死んでもいい。いやだけど。」

「おねがい。」

「死にたくないけど。絶対。けど

「死んで。」

「でもね、別に」

「きもちわるいから。」

「幸せになりたいとか、ないよ。」

「やばいよ。お前。」

「いいよ。別に」

「ばかすぎ。まじで、」

「愛されなくても。でも」

「死んだほうがいいから。」

ね?でもでも、さ、」

「もう、完全終ってる。お前、」

「好きなの。死にそう。」

「まじで糞」

「好き。好きなの。」

「頼むから、」

好き。」

「死んで。」

のけぞるように顎を突き出した愛は、上目遣いに笑っていた私を見つめる。表情は歎き続けたままに、変わらない。ずっと。私は彼女への、振って沸いた鮮明すぎる軽蔑をだけ曝す笑い崩れた顔を、彼女の目の前に突き出してやったまま、その、眉をなぜた。

指先に。

そして指先は優しく、そのやわらかく、短い毛先の触感を感じて、

「なんか、お前

なぞる。そっと、その

「存在自体が穢い。」

まぶたの形態を。かすかに、

「鏡見たこと在る?」

まばたく、それ。繊細な、

「豚の糞以下だよね。

そして指先が、鼻の隆起をおびえながら

「もはや人間じゃないよ。」

這う。息づく、

「体全体でお前、」

皮膚。潤った、その

「汚物だもん。てか、」

愛の皮膚。息づかう、彼女のもはや

「くさっ。匂うよ。」

吐息に近いひそかな息がふれて、

「生きてて、お前

やがてふれた唇に、指先は

「恥ずかしくない?」

恥らう。そのやわらかすぎる、

人間存在の辱。お前、」

触感に。

「むしろ豚の汚物以下だよ。」

私は彼女に口付けた。その唇に。不意に愛の下腹部を這った指先は、潤ったそれを確認した。股を開いて、愛は戯れようとする私の指先を受け入れ、その閉じられない眼差しが見つめていたのは私だけだった。

不意に、愛が笑った。なに?

「どうしたの?」

言った私に言葉も返さずに、私を上目に見つめ続けながら、声を立てて笑い続ける愛はその眼差しに何かを確信して、私を戸惑わせるほかないのだが、私は、あるいは、微笑む。愛に。わかった。

と。わかっちゃった。そんな言葉をその脳裏に無数に反芻し続けているに違いない、愛の眼を剝いた顔に不意に見惚れて仕舞いさえしながら、老いさらばえかけたその女。あきらかに、その皮膚のたたずまいのすべて、色彩以前の色あいにおいてすでに、これみよがしに彼女にすべてにおいて老いていく、その突端の劣化があざやかに目醒め続けていた。いかなる明確な劣化をもいまだ曝し始めないままに。愛は色褪せ始めていた。私は微笑んでいた。

なんだよ。」

つぶやき、ささやかれた私の声を聞く。愛は。そして私の指は彼女の内部をいつくしむ。その粘膜の形態を、決して傷付けはしないようにこまかな注意と、ときに唐突なおびえをさえ一瞬だけ曝しながら、なぜるように、やわらかく、そしてそれ、爪を立てて引っ掻いて仕舞えば、簡単に傷付けて仕舞うに違いないもの。そんな指が、彼女の体内のそこに存在している。

愛。

笑う。彼女が、声を立てて。

聴く。

乱れた息。

なにかの唐突な発作のような

その、彼女の間歇的な笑い声に、不意に乱れる、それ。

息遣い。

曝された腹部の、胸元の、うすく浮いたあばらの形態の、不規則で荒れた浪立ち。

彼女の肌。産毛のかすかな光沢。ねぇ。

「笑っちゃうの。

「なに?」知ってる?

言った。

「感じてるの。」わたし。「いま。」

もはや、耐えられないように声を立てて笑った。愛が。そして、私も彼女のために笑ってやった。彼女と同じように。空間に、私たちの笑い声が、それらだけ、絡まりあって消え去っているに違いない。為すすべもない。

きったなくて、ね。穢くて「笑うしかなかったの。」そう、愛は言った。葉の事を。まともに、自分の身の回りのこともできないの。「あの子、」まともな、お風呂の入り方も知らない。だって「だってさ。ね。」笑った。「一緒にお風呂、入れたら中でおしっこしちゃうのね。笑う。」まじ。ほんと、「まじ笑うよ。」笑った。ひっぱたきそうになったけど。「パパ慈善家だったから。」じゃん?「で、パパの遣ってること、正しいわけじゃんじゃん?」じゃない?「人道的に?社会的に?人間として?日本人として?」人権擁護の国際的軌範に則る倫理的個人のなさるるべき良識的行為の一端、的な?てか、みたいな?」でしょ?「なんかわかるよね?だから、「言えないの。」じゃん?

私は愛の首を抱いてやり、愛は、その背中を私に預けた。私たちは微笑みあいながら身を曲げて、その、私の指先が愛にゆっくりと、出入りしていくのを、見ていた。体液に濡らされながら。

あの子が、何やっても。と。

言った。「スパゲッティ、手で食べ始めても、」まじ。「何、」ね、「なに食べもくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃべったべったできったなくってもうさ、」ね?「んーね。」でも、「疲れた。すうっごく、」わかるよね?「なんか、一緒にいて、」ん?「んーん、「すごい疲れた。」

「殺してやりたいくらい?」

「んーいや、なんか「てか、ね?」消したい。消しゴムで。全部。消してやりたい。むしろ。」

愛の足の指がのけぞって、かすかに拡げられていた。私の腕を挟みこみもせずに、ただ大きく開け拡げられただけの太ももが与えた完全な自由の中で、私の腕がかすかな動きを空間に刻んだ。指に体内の温度があった。暖かいとは決っして感じられないほどに、単なるありふれた温度。いかにも、ありふれた触感。人体のそれである以上、そうでしか在り獲ないだろうその質感。ふれられるべき、あるいは、ふれれば感じられてしかるべき、当然の感覚の群れの散乱。拡げられた股の向こう、眼差しの先に拡がった、広い、絨毯の白い光沢の少し先で、不意に色彩が失堕していた。愛。幼い、見たこともない少女が私を見つめて言葉を失っている。

その、色彩をなくした少女がただ血を流す。床にさかさまに張り付いて、彼女は両手、らしき、たこの触手のような何本かのやわらい突起をゆっくりと、時間の中で行為するということ自体を嘲笑って哄笑し、侮辱して辱めきったほどの緩慢さで上下させ、吐かれる血。

ねぇ。

流れ出す。

ね?

耳元に、愛が言う。

「信じられる?」

なに?」

まっすぐに、彼女の吐いていく血の鮮明な色彩が、斜めに下降してどこまで堕ちていく。私はそれを見つめる。目と、鼻と、口と。それら、色彩の細い線は束なって、ひたすらにあざやかに赤く、空間に自由に戯れながら、

「愛してるの。

笑う。かすかに、小さく。短く。

ほんの数秒の。

「あなたを。信じられない

滅びたもの。その色彩さえをもも滅ぼして仕舞った、愛、その少女の昏い翳に、もはや表情などない。

あるいはもとから。すでに。

なにも。

そこにただ存在しながら、永遠。彼女がむさぼるしかない永遠をただ、自分で、その一切の自覚もないままにむさぼり続けているに違いない、翳りの抱え込んだ永遠。血。なぜ、こんなにも、

ねぇ。」

それはあざやかなのだろう?

「好きなの。

口付けて遣った、愛の頬に、かすかにうぶ毛に荒れた、やわらかな触感があった。唇は

「なんでじぶんでも、

ふれる。

そんなこと、「ね?」信じられもしないのに、何で、「ね?」

至近距離の愛の眼差しはむしろ、私を見留めさえできないままに、呆然と、そして彼女は私を捉えて離さない。

「わたし、あんたのこと、」やだ。ね?「まじ?」やだ。「愛してんの?」

なんで?

「わたし、まじ、愛してんの?」

鮮血。色彩の鮮度。

「ね、

声。

まじで?」

耳元の愛の声だけを聴く。

愛がいつか涙ぐんで、泣き出しもせずにただ、その、自分の悲しみにだけ淫していたことには気付いていた。「なんか、かわいいね。」

愛が言った。

「なんで?ねぇ、」なんで、こんな「なんか、」ね。なんか、「めちゃくちゃ、」これ、「ね。」めっちゃくっちゃにん。「かわいいんだけど」その、眼差しが、自分のそれと、それと戯れた私の指先を見ている事は知っている。

 

「仕事、なに?」

慶輔が、自分の上に覆いかぶさった私のわき腹を、繊細な、ふれていることそれ自体を否定したかのような手のひらの愛撫、とでも、そう言うしかない、ふれるという以前のなにか、そのみもふたもなくやわらかいあてどもなさを曝して仕舞いながら、「お前、

なにして、食ってんの?

私は声を立てて笑った。

なに?」その、慶輔のあられもない戸惑いがむしろ私をまごつかせた。

「なにどうしたの?」

「働いたことないよ。

「一度も?困らないの?」

「だって、金なんかだれか払うじゃん。言った私は眼を伏せた。かならずしも、羞じたわけではなかった。確かに、私は自分でまともに金など払った事はなかった。それはいつでも他人の仕事だった。女たちは、かならずしも自分が愛されているわけでもない私にただ奉仕しなければならず、男たちは私に気を使って物事を処理しなければならない。私のために。それが当然なのだから、むしろ私が自分の手を穢すことなど愚かなことだったし、そもそも、彼女たちや彼らが望んでいることではなかった。理沙が残した口座には、まだ大量に手付かずの金が残っていたし、そして、そもそも、もとから理沙の手渡す金で生きていた。身寄りのない理沙が残した金は、すべて私のものになるしかなかった。いずれにしても、私に貢ぎ、奉仕する彼女たちあるいは彼らのために、私は何もしないでそこにいてやらなければならなかった。私を取り巻く人々を辱めでないいてやるために。慶輔が立てた笑い声が、私を不意に恥らわせた。

ねぇ。」慶輔が言う。

声、慶輔の。私を容赦なく軽蔑した声を、私は嫌悪し、同時に自分自身を嫌悪していた。「お前、俺と一緒に働かない?」

「ホスト?」

「何で知ってるの?言ってないじゃん。」

「見れば分かる。」知っていた。慶輔は私を片時も手放したくないのだった。ずっと自分のそばに置いて、あるいは、ずっと、私のそばに添わせて欲しいのだった。それは、あるいは、いずれにしても、私の求めていることでもあった。「何もしなくていいよ。」慶輔が言った。「女のほうが勝手に、全部自分でやるから。寄り添ってやればいいんだよ。気を回して。ね?って。ね?って、だよね、って、さ。女を見て遣ればいいんだよ。話し聴いてやって。それだけ。馬鹿だから。所詮、あいつら。可愛いけどね。だから、それだけで、あとは世界が勝手に回る。」

慶輔は、耳元に立てられた私の意図的な笑い声を聴き、触感。至近距離にふれ合って、決してかさなり合いわないままに、その、お互いを受け入れるためには存在しはしないその、半ば萎え、半ば勃起しかけたあたたかな部分が、それぞれに留保もない孤独と、容赦もない孤立にむしろただ沈黙してみせながら、たわむれにふれあう息吹きを感じあった。

それは、そこに隠しようもなく存在していた。自分が存在していることを、ふれあう一瞬に、無慈悲なまでに実感していた。それはもはや認識だった。あるいは、灼けつくような。

絶望的なまでの。

もっと、と。それらはお互いに、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、ふれあった事にさえ気付き獲ないほどの、かすかな、ほのかな、瞬間の、音もない、気配もない、その、接触、した、かも、しれない、ただただ淡い接近をだけ求めていた。

射精?そんなものは、もはや、たんなる家畜の戯れにすぎない。私は慶輔を愛していた。

留保なく。

「独立するの。おれ。もうすぐ。」んー完全に、だってさ、独立もしないホストなんて」ま、なんか、「糞じゃない?だから」完全にオーナーって言うか、「金はやくざの人が出すんだけど。」そういうんじゃない。残念。「たいしたことないよ。」半独立?みたいな?「怖い?だいじょうぶ?」ま、ね。ま、「いい奴だよ。檜山って言うまー馬鹿なおっさんだから。」まーまーまーまー「ただの。ただの馬鹿。いいヤツ。」まじだから。これ「一緒に」笑う。もはや、「てか、」もはや笑うから。「手伝ってよ。

やがて私たちは、開かれた眼差しのままに見詰め合う。お互いの唇をむさぼりあいながら横向きに、頬にだけお互いの手のひらを回して、終には完全に勃起したそれぞれの先端をかさね合わせて戯れたのだった。うすく、執拗に先端を濡らしたものを互いにまぜあわせて仕舞いながら。果てることさえもなく、濫費される時間をだけもてあそんで。

店の中で、慶輔が言ったとおりに女は勝手に群れてきた。歌舞伎町という町の中の限られた空間の中に、押しかけた女たちの眼差しが交錯する。出会ったその夜の、明けた日にやがて暮れていった夜には、慶輔は私を彼の在籍店に連れ込んだ。すぐに、女たちは新人の匂いを嗅いで、しっぽを振った。

いつでも、どこでも、女たちの眼差しが私を捉えた。店の外、どこか落ち着く場所をさがしてうろついた路上でも、デパートの中でも、ショップで、女たちに私の衣服を選ばせたときにも。すれ違いざまにも、どこでも。食事の隙に、コーヒーを飲む隙に、いつでもそれらの眼差しが、私を、決して私には聴き取られないように顰められてささやかれたささやきの、その声の群れは、眼差しの群れと一緒になって、私をただ、煽情しようとしていた。どう?

わたしは、どう?

慶輔は陽気に、私を煽った。女、食いついてくるね。笑って。お前の体臭、シャブでもまぜてない?

歌舞伎町の有名人だった慶輔がはべらした私を、町の中で知らないものはほとんどいなくなった。知らないものは、町の外から来たものに過ぎず、そんなものは町の中では軽蔑の対象に過ぎないのだった。町の外では、留保泣く軽蔑の対象に過ぎないこの町の中では。

慶輔が自分の店を作るのには、半年近くかかった。内装の片っ端に、慶輔が文句ばかりつけたからだった。だれもが、慶輔は成功すると想っていた。そして、事実彼は成功した。

初めて愛と会ったとき、それは半年前だった。私の相棒のようなものだった、同い歳の零一という名のホスト、本名は知らない。彼が紹介した男客の連れだった。そのIT系べンチャーの社長だった男客は、かならずしも同性愛者ではなかった。彼がはべらしていた水商売の女たちとの関係の中で、勝手に零一を見初めたのだった。二十歳近く年下の零一と、単純に気が合っていた。取引先の女社長なのだ、と零一は言った。だから、「彼女に一番いいの紹介してって。で、さ。

「俺?」

そ。」

無意味に豪奢な更衣室で、私はみんなの前で、人眼を避けて零一の頬に口付けて遣った。慶輔の店に流れてきた零一の、新人時代の手ほどきは私がした。男の手ほどきも。彼が私に焦がれて仕舞ったのは、初めて彼を見たときにすぐにわかった。その、私を見つめた一瞬の眼差しの鮮度に。私に手ほどきした慶輔がそうだったように。取り立てて、なにが美しいというわけではない。けれども、零一には暴力の匂いがした。計算された理論的な破壊ではなくて、突発的で、理不尽で、飽きっぽく、そして無意味な破壊。いつでも予感される、いつかの破滅と不幸、と、そう言うよりはむしろ単なる行き止まりの絶望。そしてそのいつかがいつなのか、だれにも分からないのだった。そんな、いわば、あからさまに無残までにエロティックな匂いがした。女たちは彼に群がった。実際に、彼が破滅的な、自滅に似た死をとげたときも、だれも驚かなかった。街が、自殺あるいは不審死として曖昧に処理して仕舞った彼の、だれにとっても理解し難い謎の死を、だれもが理解し、許し、ただ悲しんだ。

愛がまともに男など知りもしない事は見れば分かった。男に抱かれたことばかりか、誰かの女になったことさえないかも知れない。その、明らかな兆候が、どこにどうというわけではなくて、全身から匂った。あっさりとして、さばさばしていて、女っぽくなくて、むしろあけすけな女に見せながら、彼女は執拗な殻を感じさせた。装われない凜とした気配が、余計に愛の、いわば生まれつきの純潔を曝したてた。愛が私に堕ちるに違いない事は、遠めに零一に指さされた瞬間に、私はすでに気付いていた。初めて相手をしたときに、愛は一度も私をまともに見なかった。私が話しかける言葉も、ことごとく無視するか、理不尽にすべて否定して、「あー。ごめん。」それで終わりだった。「全然違うから。」どこからどう見ても、「ごめんね。」愛は不機嫌だった。「ごめん。わたし、違うんだ。」零一も、彼女を連れてきた男も「あんた、間違ってるよ。」不審がっていた。「無理して話しかけないでいいよ。」あえて言葉にしない、その「てか、」眼差しのうちにだけ。「黙っててくれる?」私はすでに愛が、もはや私なしでは生きていくことさえ出来ずに、たんなる私の下僕にさえ成り下がって仕舞っていることなど、笑わずにはいられないくらに気付いていた。

すでに、もはや、愛はただの、私の子飼いの家畜に過ぎなかった。私をそのひそめ、そらした眼差しの片隅に気配としてだけ捉えて仕舞った瞬間から。

二週間後、愛は一人で来た。私を指名して。来なかった二週間の間の、懊悩と葛藤らしきものが、眼差しの奥に追い詰められた色彩を与えていた。

何も話さずに、私の顔さえも見ずに、ただ傍らに、姿勢だけをただしてむしろ、貞淑な貴婦人めかして座っている彼女に、私は彼女が曝すのと同じだけの沈黙をくれた。

数分の後、愛が、ながいながい沈黙に終に耐えられなくなって、私を振り向き見て仕舞った瞬間に、「なんで?」

私は言った。

「なんで、お前俺に夢中なの?」

愛は、微笑んだ私につられたように、容赦もなく微笑みにその老いさらばえかけた顔を崩し、ね。

「なんで?」つぶやく私の、その気もない、表情さえない顔に見惚れた。

ばか。」

言った愛が、唇のなかだけで、声も立てずに笑った。ねぇ。

「なんで?」愛。年増の貞淑な淑女。

正しく、教科書じみた姿勢のまま、「なんで、さ。」ささやく。ね、

なんで

「ばれちゃうの?」

「わかるよ。」だから

だから、ね?だから、

「なんで分かるの?」気持ちね、

わたしの気持ち。」

「だって、俺もお前、好きだもん。」

それは教科書通りの返答とは言獲なかった。あまりにも女が追い詰められていたので、私は私が愛しているという設定を、持ち込んでやるしかなかった。つまりは、愛は私を追い詰めることに成功していたのだった。意図もしないままに。

声を立てて、愛は笑った。上半身を瀟洒にまげて、すべての挙動に所作の美しさを装わせて神経質なほどに、凛として、清楚で、そして、愛は幸せだった。

たぶん、あきらかに、生まれて初めて女に生まれた意味にふれたに違いなかった。家畜。

90年代のバブル経済がはじけた直後の歌舞伎町は、どうしようもなく潤っていた。金もなければ未来もない、自殺するか金を借りるかしかする事がない男たち。いまだに死んでいないというだけの存在価値しかない男たちと、馬鹿な行き場所のない女たちから巻き上げた金で、闇金融たちはこれ以上ないほどに潤った。バブルがはじけたあとのバブルに、彼らはいいまだかつてないくらいに潤っていた。貧しく病んだ発展不能国家だった中国から、生き伸びるために渡ってきたチャイニーズ・マフィアたちが大陸流儀の暴力と犯罪をかさね、町を彩った。歌舞伎町を一歩出れば、生気もない疲れ果てた男たちが、小さな、未来もない金のために朝から晩まで町を闊歩していた。やや猫背で、早足で。私たちに軽蔑をくれながら、私たちよりはるかに飢えて。この国が崩壊して、破滅して、滅びて仕舞っていることを、私は眼差しの中に実感した。そして、それは単なる事実だった。歌舞伎町の外の彼らはすべて、その国家と国旗と憲法と文化とをも含めて、身の回りのすべてを完璧に崩壊させて仕舞い、生きながらに絶滅していた。

私は笑うしかなかった。滅びたなら、死んで仕舞えばいいのに。にもかかわらず、とっくのむかしに、完膚なきまでに滅びていた没落のヨーロッパや、爆弾も落ちないまま焦土と化して十年以上立ったアメリカも結局はそうだったように、彼らは生存して未来の命をつないでいた。生存者たちの生には、それがどんなに切実な何かを孕んでいようとも、どうしようもない滑稽さがあった。ネオ・ナチの孕む、あるいはネット時代の日本の、今更の右翼や良識派、あるいはアメリカのリベラリストや保守主義者、彼らが曝すのと同じ、笑うしかない滑稽さ。ヒトラーとナチスが、あるいは旧大日本帝国がすでに夥しく孕んでいた滑稽さ。アメリカの国旗がどうしようもなく孕む滑稽さ。大韓民国と北朝鮮がなにをやっても撒き散らして仕舞う滑稽さ。目に映るものすべてを茶番に変えて仕舞う、留保もない滑稽さ。終には、ツイン・タワーとペンタゴンを炎につつんだイスラム教徒の原理主義者たちが、そのもっともあざやかな滑稽さを曝すことに成功した。

燃え上がる都市。歌舞伎町。いずれにしても、ハオという偽名のチャイニーズが火を放って、ある雑居ビルを焼き堕として仕舞うまでの期間、歌舞伎町はならず者たちの美しく、猥雑な唯一無二の居城だった。

葵、と名のった四十代の女は、当時のi-mode付きの携帯電話の画像データを、私の全裸体で埋めた。そのくせ、私に指一本、現実にはふれることが出来なかった。眼差しに焦がれただけの色を、無残なまでに曝して、ただ、ふれあいそうな距離のかすかな隔たりをだけ愉しんだ。

ひなた、という店名の風俗嬢は、私の体など求めなかった。ただ、私に寄り添われることだけ求めて、ねぇ。つぶやく。見つめててもいい?私は彼女の髪を書き上げてやり、わたし、まだ、ヴァージンなの。言って、ひなたは自分の嘘に酔った。本番以外では、稼げない借金塗れの女。

蘭という源氏名のキャバクラ嬢は、私に自分の所持金を片っ端から貢ぐことによって、彼女固有の安心を獲た。つかんだ金のすべてを、私のために浪費しなければ気がすまなかった。私はその押し付けがましい自分勝手な浪費ぐせに飽きて、倦んだ。

美容形成外科の女医者、何かのベンチャー企業の女社長、そして、大量の、歌舞伎町と言う風俗街に棲息したあぶく銭をつかんだ女たちが、大量の金銭を私に貢いで、結局は、私に狂った記憶をだけ獲得した。想い出したくもないはずの、とはいえかつて愛した男として、なんども脳裏にやわらかい痛みとともに想い出し続けたに違いない男。愛。誰かを本当に愛して仕舞った人間は、みんな、例外なく、症例としてうまく分類できない鮮明な狂気そのもの正気の破綻としての、ある、あまりにもあざやかで固有の破滅そのものを、それぞれに、それぞれの流儀で曝した。決して精神疾患には処理できない赤裸々な発狂。そして、慶輔を愛している私が、あるいは私を愛している慶輔が、お互いに対して無防備に曝すのも、間違いなく留保もない狂気の眼差し以外でないことも、私はすでに気付いていた。私たちは、狂っていた。精神。結局は、それが終に愛というかたちで姿を顕したとき、曝され獲るのは狂気そのも、それ以外ではなかった。なにもかもが無残だった。なにもかもに敗北していた。ベッドに座り込んだ慶輔を押し倒して、その大きく開かれた太ももの前にひざまづいた。窓越しに、午前の浅い時間の日差しが当った。

斜めに。

慶輔と両手のひらを組んで、私は唇だけで彼にふれる。そっと、それに息を吹きかけて戯れながら。慶輔は声をさえ立てないままに、私のその行為にあえて逆らおうとはしない。なすがままに。私の唇が、彼をむさぼる。果てることもできない、かすかな接触と、接触されないままに屹立した私の抱えた孤独とが、脈打って倦み、私たちは息遣う。くわえ込みはしないで、舌の先だけでなぞる。その、愛しいものの、愛しい形態を。

確認したのは、その触感と、体温と、舌に残ったかすかな味覚。あるいは、それがにじませたものの。知っていた。彼のそれが、私の舌が残した唾液の質感に鮮明な、いたたまれないある喜びのような感覚に倦んで、しずかに目舞っていることを。射精して果てることなど赦さない。本当に、気が狂って仕舞うまで、中途半端でいたたまれないかすかな感覚と時間の濫費だけをむさぼっていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

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《雨の中の風景》連作:

 

  

 

堕ちる天使

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《雨の中の風景》連作:

 

 

  

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《雨の中の風景》連作:

 

 

 

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それら花々は恍惚をさえ曝さない

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 わたしを描く女

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奥付


わたしを描く女


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著者 : Seno Le Ma
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