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足し算

16 足し算

恋人がふいに「7+5が好き」と言った。「8+9はちょっと苦手」

 

「7+5ね」男は言わんとすることが分かったというように応じた。「おれは3+8もけっこう好き。6+7はなんか苦手だけど」

 

「3+8、いいよね」

 

「いいよね。逆だとちょっと違うけど。8+3だと何て言うか……」

 

「分かる」

 

「あと4+9とか?」

 

「それも好き」

 

「いいよね、4+9」

 


失敗二

17 失敗二

コーヒーの乗ったトレイを持って席に向かっていたとき、男はうっかりカップをひっくり返してしまった。

 

すぐに店員が飛んできて、こぼれたコーヒーを拭いてくれた。火傷をしなかったか、荷物は大丈夫だったかなどと気遣われ、男はすっかり申し訳ない気持ちになってしまった。

 

無料で入れ直すという店員の愛想のいい申し出を、男は頑なに固辞した。代わりに、罪滅ぼしの気持ちから、これまで一度も頼んだことのない生クリームがたっぷり乗った飲み物を新たに注文し直した。コーヒーの倍以上の値段だった。同じ店員がその飲み物を作ってくれた。

 

受け渡しのときだった。すっかり恐縮していた男は、指を滑らせてカップを掴みそこねてしまった。

 

カップはカウンターの縁に当たり、下に落ちていった。男は反射的に足を出した。衝撃を緩和するつもりが、むしろ蹴るような具合になってしまった。盛り上がった生クリームを覆うようについていたドーム状のふたが衝撃で弾け飛んだ。

 

プラスチックのカップは横にくるくる回転しながら放物線を描いて飛んでいった。ショーケースや近くの客たちにクリームを撒き散らした挙げ句、カップは鈍い音を立ててフロアに転がり落ちた。

 

男は言葉を失って立ち尽くした。カウンターの向こうの店員もまた身を乗り出したまま表情をなくしていた。店内の誰も何も言わなかった。足を出すなどという余計なことをしなければ、ふたのおかげで被害は最小限で済んだかもしれなかった。

 

男は、ちらりと伺った店員の顔にかすかな殺意が浮かんだのを見てとった。それ以上その場にいられなかった。男は一言も発しないまま、逃げるように店をあとにした。

 

それ以来、男は二度とその店に立ち寄ることはなかった。その店がある通りにも近寄らなかった。まもなく引っ越したのは、その店がある街に住んでいると気持ちが落ち着かなくて仕方ないからだった。

 


デモ

18 デモ

昼休みが終わろうとする頃、男は社員食堂のテレビで新宿でやっているというデモの中継を見かけた。中東で起きている内紛への、先進諸国の武力介入に対する抗議デモだった。

 

空爆で多くの市民が犠牲になっていることを知った男は、居ても立ってもいられない気持ちになり、自分も何か声をあげなければと会社を飛び出していった。

 

中継場所となっていた新宿東口に来てみると、デモはどこにも見当たらなかった。一万人を越える規模と言っていたからすぐに見つかるだろうと、男は通りを探して走り出した。

 

ところが、一時間かけてメインの通りを駆けずり回っても、デモの気配すら見つけることができなかった。「デモはどこでやってるんですか?」男はしまいに通行人に尋ねて回った。みんな眉をひそめて男を避けていった。

 


葬儀

19 葬儀

友人が急逝し、男は葬儀に参列した。

 

坊主が読経している間、見知った顔が順々に焼香をあげていった。友人は内臓のどれかが機能不全になり死んだということだった。なぜか分からないが、男はそのことが次第におかしく思えてきて仕方がなかった。

 

弔問客用のパイプ椅子に座って順番を待つ間、男はうつむいて笑いをこらえた。落ち着いて深呼吸をしようとふと気を緩めたとき、鼻からぶふっと笑いが漏れた。小鼻がひくつき、残りの笑いが一気に噴出しそうになった。男は太ももにぐっと爪を立て、なんとか笑いを飲み込んだ。ぎりぎりセーフだった。

 

ふいに周りを見てはだめだということが意識にのぼった。いったん意識してしまうと、もう見ないではいられなかった。男は視線をあげて周りを見た。

 

儀式めいた雰囲気の中、黒い服の集団が沈んだ表情ですすり泣きをしていた。のっぺりした棺が供花に囲われ、坊主がまるでコントでも演じているかのような大袈裟な唸り声をあげていた。遺影の中の友人は、これでは死んでも仕方ないような半笑いの間抜け面をしていた。

 

男には、すべてがわざと自分を笑わせようとしているように思えた。そうとしか思えなかった。男は自分で自分の笑いを押さえ込むかのように椅子の上で体を右に左によじった。

 

焼香の順番が来ると、男はくしゃみと放屁を交互に我慢しているような歩き方で、一歩また一歩と前に進み出た。喉の辺りがやけにくすぐったかった。それが全身に広がって行くような気がした。

 

そうしてはだめだと分かっていたのに、男はまたしても顔をあげて正面の遺影を見た。まるで対比効果を狙ったかのような、バカ丸出しの顔をした友人の写真が飾られていた。

 

己に強く禁じれば禁じるほど笑えて仕方なかった。力を入れて口を閉じると、笑いはすべて鼻の穴から出ていった。大量の空気とともに鼻水の飛沫が飛んだ。男は唇まで垂れた鼻水をあわてて袖でぬぐった。

 

男はこの友人がある有名タレントの物真似を披露した過ぎし日のことを思い浮かべた。憐れと言ってもいいくらいのひどい出来だった。そのくせ本人は得意げなのだった。この友人はまったくどうしようもない愚か者だった。本当を言うと、心の内では友人だと思ったことなどなかった。借りた金を返さずに済んでラッキーだった。

 

男は友人が物真似をした有名タレントももはや故人となったことを思い返した。みんな死ぬのだなと思った。そう考えるとこれ以上ないおかしさが込み上げてきた。男が再び吹き出すと、焼香台の香木が四方八方に飛び散った。絵に描いたような見事な飛び散り方だった。それがいっそうおかしさを誘った。

 

もうだめだった。男はこれ以上の被害の拡大を防ごうとして、両手で顔を覆った。声をあげて泣き真似をすることで笑いを打ち消そうとしたが、自分自身以外の誰もごまかせていなかった。

 

男はおかしさにぷるぷると震える手を焼香台に伸ばしたが、そこにはもう香木は残っていなかった。自分がやったのだった。

 

男は、見れば笑いが込み上げてくると分かっている遺族たちの顔を絶対に見ないようにした。男は親族たちを見た。彼らが、まるで奇怪なものを見るような目で自分を見てくるその目つきがおかしくてたまらなかった。

 

堤防は崩れ去った。男はひいひい言いながら膝をつくと、そのまま床に身を投げ出した。床の上を転げ回りながら、まるで壊れた水道管のように笑った。

 

男は、それでもまだすべてを諦めていないかのように、這いつくばって席に戻った。その途中、込み上げた笑いを飲み込んだ拍子に屁を放った。濁音混じりの大きな音がして、男は思わず自分で笑った。

 

儀式は何事もなかったかのようにしめやかに進行した。男はその後もたびたび笑いの波に襲われたが、椅子にしがみついて何とかこらえた。本当のところ、男はまったく笑いをこらえられていなかった。

 

参列者たちが送迎バスで火葬場に移動すると、男は遺族や他のものたちの手で火葬炉に放り込まれ、火をつけられた。

 


事件

20 事件

ある日、男が住む部屋に突然警察が訪ねてきた。ドアの叩き方で警察だと分かった。男は要心してドアを開けなかった。

 

警察は近所で起きた強盗事件のことで話が聞きたいと言った。ドアを開けて顔を見せてほしいと言われると、男はこれは罠だと気がついた。

 

捕まるわけにはいかなかった。男は急いで窓のところへ行き、ベランダから逃げ出した。すでに警察が回り込んでいた。男は裏の畑であっけなく捕らえられると、車に押し込まれた。

 

警察は自分たちは警察のような格好をし、警察がやるようなことをしているが、本当は警察ではないのだと言った。男は自分がどこへ連れて行かれるのか知りたかった。警察のふりをした連中は教えられないと言った。なぜと問うと連中はむっつり黙り込んだ。

 

男はなぜ自分が捕まえられなければならないのか、その理由も知らなかった。

 

男の家の近所では、男が忽然と消えたことを誰も不審がらなかった。翌週、男の部屋に見ず知らずの男がやって来て、何食わぬ顔でそこに住みはじめた。近所の誰も、やはりこのことをおかしいと思わなかった。

 

その男は、部屋にあった家具や家電を自分のもののように使った。もといた男の痕跡はあっという間になくなってしまった。

 


この本の内容は以上です。


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