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山脇俊太

 

 こんなに早く会社をあとにするのは久しぶりだなと山脇俊太は腕時計を見た。最近は新商品開発チームのリーダーとして仕事が山積し残業が当たり前になっていたので、やり残した仕事があるのではないかと少し不安になったが、そんな気持ちを振り切るように会社を後にした。

 

 車窓から見える景色がいつもと違うように見えるのは、まだ空に明るさが残っているからだろうなと思いながらつり革を握っていた。会社の駅から自宅の駅まで快速電車で約30分。山ひとつ越えるので30分の間に景色は都会から田舎へと変わっていく。普段、車窓から景色を眺めることもなかったが、この日は、味わうように流れる景色を目で追った。高層ビルが立ち並び、視界を遮っていたが、鉄橋を渡りはじめると視界がパッと広がった。川岸には釣り人の姿が見える。鉄橋を越えると住宅街へと変わった。駅前にはスーパーや商店街が見えてきた。山脇の母校、間中高校の校舎が見え、そこを過ぎると、急に緑が増えはじめトンネルに入る。トンネルをぬけると視界には田んぼが広がる。普段帰宅する時間にはトンネルを抜けても灯りが少なく、こうして田んぼの広がる景色を見渡すことはなかった。山脇は、たまに早く帰宅するのもいいもんだなと思った。

 自宅駅に着いた。山脇は足取りも軽く階段を駆け下り、改札へと向かった。ふと、改札の向こうから視線を感じた。何気なくそちらに視線をやると、その先に男が立っているのが見えた。山脇は男から視線をそらし改札を抜けた。すると、その男が「山脇さん、こんにちは」と声を掛けてきた。山脇が男を見ると、男は右手を上げ白い歯を見せていた。山脇は眉間に皺を寄せながら男の顔をじっと見た。男は白い歯を見せ右手を上げたまま動かない。山脇は男の顔を自分の記憶の中であれこれと検索したがヒットしない。この男とどこかで会ったことがあり、世話になったような気がするのだが、誰だか思い出せなかった。年齢は自分と変わらないように見えるが、笑っている顔は子供のように純粋な表情に見えた。

 男はポロシャツにジャケットを羽織り、下はジーンズ姿というラフな格好だ。仕事関係の知り合いではないなと思った。しかし、遠い昔にどこかで会っている、そう感じた。

「あっ、……、ど、どうも、こんにちわ」山脇は、そう言って首を傾げた。

「こんにちわ」男は笑みを浮かべたまま言った。

「どこかでお会いしてますかね? ごめんなさい、思い出せなくて……」と言って山脇は頭を下げた。

「いえ、気にしないで下さい。僕のことは覚えていないと思います。僕は影山といいます。お疲れのところ申し訳ないんですが、お話したいことがありますので、少しお時間をいただけないでしょうか」男は両手を合わせ拝むようなポーズを見せた。

 山脇は男の顔をじっと見て、口を尖らせ少し眉をひそめたが、「あっ、あー、はい、まぁ、いいですけど」と言った。せっかく仕事が早く終わったので自宅でのんびりしたいな、という気持ちもあったので、ひきつった表情になってしまった。

 山脇は、少し色を失った空を見上げ、どうせ、早く帰ってもやることないしな、と自分に言い聞かせた。

「あそこの珈琲店で、おいしい珈琲を飲みながらお話ししたいんですが」男が高架下にある珈琲店の立て看板を指して少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 看板には『珈琲店リザルブ』とかいてあった。『リザルブ?』山脇はどういう意味だろうと首を傾げた。

 山脇は、この男は悪い人ではない、いや、むしろ良い人だろうと感じていた。それに、この男とは過去にどこかで会っているという、このモヤモヤとしたものを取り除いておきたかったので、珈琲店リザルブに付き合うことにした。

 

 珈琲店リザルブは一年位前にオープンした店で、山脇は毎日のようにこの店の前を通っていたが通勤途中の景色の一部でしかなく、ここの店名がリザルブということをはじめて知った。

 男に連れられてリザルブに入ると、閉店間際のようで他にお客はいなく、カウンターに立つショートカットで背の高い女性が一人で片付けをしていた。

 女性は手を止め「いらっしゃいませ」と閉店間際に来た客にも関わらず心地よい声をかけてくれた。モデルのような容姿で、にこやかな表情を浮かべる女性の姿を見て、山脇の胸がときめいた。この女性の容姿やこの店の内装だけを見ていると、田舎の駅前の珈琲店ではないような錯覚をした。

 山脇が女性に見とれている間に、男は一番奥のテーブルまですすんでいた。「どうぞ」と山脇に先に座るように声をあげた。「あっ、あー、すいません」山脇はそう言って、慌ててテーブルまで行き、奥側の椅子に腰かけた。

 席に座ってすぐに、女性が水とおしぼりを運んできてくれた。山脇は女性を見上げて、おしぼりを受けとり、これからはここの常連になろうと決めた。思わぬ収穫があったなと口元を緩ませた。

 

「お疲れのところ、お時間いただき有難うございます」

 珈琲の注文を済ませてから、男はおでこがテーブルにあたるくらいの勢いで頭を下げた。

「いえいえ、あっ、あー、ところで……、お話ってなんでしょうか」山脇はおしぼりで手をふきながら訊いた。

「あっ、はい、実はですね」男がテーブルに両手をついて身を乗り出したところで、女性が珈琲を運んできてくれた。「お待たせしました」

 テーブルに身を乗り出した男は一旦体を起こし、女性に「ありがとう」と言ってから笑みを向けた。

 女性も笑みを返して、細くて白い腕を伸ばし珈琲をテーブルに静かに置いた。珈琲をテーブルに置くときにカチャッと鳴る音までが、山脇には心地よく聞こえた。

「これ、よかったら召し上がって下さい」女性はそう言って、焼き菓子の入った小さな藤籠をテーブルの真ん中に滑らせるように置いた。

「えっ、これサービスですか」男は藤籠の中の焼き菓子を覗いてから女性を見上げて言うと、女性は「さっき試作品が出来上がったので。甘いもの苦手じゃなかったら、どうぞ」と言って、銀色の盆を膝の前で持ち肩をすくめた。

「なんか、懐かしいなぁ。ありがとうございます。遠慮なくいただきます」男は女性に頭を下げた後、山脇に視線を移した。

 山脇は何が懐かしいんだろうと思いながら「ありがとうございます。ちょうど甘いものがほしかったんです」と女性を見上げ笑みを浮かべた。

「では、ごゆっくり」女性はやさしく頭を下げてから踵を返してカウンターへ戻っていった。山脇は女性の後ろ姿を目で追っていた。

 一旦、話が中断してしまい、山脇と男はお互い焼き菓子を口にしてから珈琲を一口飲んだ。

「おーぅ、この焼き菓子も美味しいし、珈琲も旨いな」山脇は初めて入った店の珈琲の味に驚いて声をあげた。毎日のようにこの店の前を通っていたが、こんな美味しい珈琲をだしてる店とは知らなかった。

「そうでしょ、おいしいでしょ。僕のおすすめの珈琲店ですよ」男はそう言って珈琲を口にした。

「本当に美味しい、こんないい店が近くにあったなんて、もっと早く知りたかったなぁ」山脇はそう言ってカウンターに視線をやった。女性は片付けをしているようで下を向いていた。

「この店を気に入ってもらえて良かったです。珈琲も気に入ってくれたようですが、山脇さんは、あの女性にも興味があるようですね」男は女性に視線を移してから山脇の顔を見て、ニヤリと笑みを浮かべた。

「えっ、いや、まぁ、きれいな女性だなと思っただけで……」山脇は頭を掻いた。

「あの女性が、誰だかわかりますか」

「えっ、い、いえ、知りません……」山脇は何度も首を横に振った。

「本当に知りませんか」男は乗り出すように訊いた。

「ええ、知りません。あなたは、あの女性と知り合いなんですか」山脇は目を丸くした。

「知り合いというほどではないですが、昔から顔と名前くらいは知っています。山脇さんも知っているはずですよ。昔に会っているはずです」

「いやー、知らないです。あんなきれいな女性は一度見たら忘れませんよ」

「フフフ、確かにきれいですからね。でも中学生の時に会ってるはずです」

「中学生の時?」山脇はその頃の同級生の顔を思い浮かべ、腕を組んで宙に視線をやった。「いやー、わかりません。誰ですか」

「彼女の名前は遠井美佐です」

「遠井……ですか?」中学校の同級生に遠井はいたけど男だったし……、まさか、あの遠井じゃないよなと思いながら、もう一度女性を見た。

「そう、中学の時、同級生だった遠井のお姉さんですよ。ここは遠井のお姉さんが一年前にはじめたお店なんです」

「えっ、あー、お、お姉さんね。そ、そうなんですか」

 山脇は、この女性が中学の頃、いっしょに遊んでいた遠井の姉ということに驚いたが、それ以上にこの男が遠井を知っていることの方が驚いた。

 遠井とは中学の頃、よく遊んだ。遠井は野球が上手くて高校から野球の名門校に入学し、それからはいっしょに遊ぶことはなかった。甲子園を目指していたが、テレビでその勇姿を見ることはなかった。その後も大学、社会人でも野球を続けているときいていた。中学の頃の記憶だが、女性の黒目の大きい綺麗な瞳は、確かに遠井に似ているような気がした。

 遠井の家に遊びに行った時にお姉さんに挨拶した記憶はあるが、あの頃は遊びに夢中でお姉さんの顔まで覚えていなかった。

 この男はどうして遠井を知っているのだろうか、という謎が一つ増えた。

「遠井を知ってるんですか」山脇はコーヒーカップを片手に持って訊いた。

「えっ、ええ、まあ……、昔は一緒によく遊びましたから。最近は会えてないですが……」男は頭を掻いた。

 やっぱり、この男は昔にどこかで会っている気がする。そう、遠井達と遊んでいた頃だ。しかし、影山という名に記憶はなかった。山脇はじっと男の顔を見た。そして、この男といつ会っていたのか、思い出そうと頭の中をグルグルと回し視線を宙にやった。

 山脇が記憶を探っていると、男が急に口を開いた。

「今日は山脇さんにお願いがあって来たんです」

 男は、これからが本題のようで、背筋を伸ばし、口を真一文字にした。山脇は宙に向けていた視線を男にもどした。

「俺に……、お願い……?」山脇は首を傾げた。そして「な、何でしょう?」と恐る恐る訊いた。

「実はですね、間中高校の同窓会をやってほしいんです」男は山脇の顔をじっと見て言った。

「間中高校の同窓会……、ですか?」

 この男は山脇が間中高校の卒業生であることも知っているようだ。怪しい人物には見えないが少し不気味に思えてきた。

「そうです、お願いします。日時と会場も決めて、ホテルの予約まで済ませています。招待状のハガキも準備しました。幹事を山脇さんにしていますので、あとのことをお願いしたいんです」そう言ってハガキをテーブルの上に置いて山脇の前にすべらせた。

 山脇はハガキを手にとり視線を落とした。

 

《同窓会のご案内》

間中高校15期生の同窓会を催します。

日時 2005年8月21日 17時から

場所 ホテル マナカ

幹事 山脇俊太

 

「えっ、えー、な、なんで、私が幹事なんですか。勝手に名前使って」ハガキを男の前に叩きつけるように返した。

 さすがの山脇も腹が立った。こんな勝手なことをして、協力出来るわけがない。このまま帰ろうと席から立ち上がった。

「申し訳ありません。あなたしか頼る人がいなかったんです。どうか、どうかお願いします」男はおでこをテーブルにつけて頭を下げた。

 カウンターの女性が男の声に驚いて二人に目を向けた。山脇は女性と目があって慌てて笑みを返して頭を下げた。何か事情があるのだろう、そう思うことにした。

「わ、わかりました。頭を上げて下さい」山脇も冷静さを取り戻そうと、腰をおろし、少し冷めた珈琲を口にした。

 男は頭を上げてから山脇をじっと見つめ、もう一度「申し訳ありません」と言って頭を下げた。

「頭を上げて下さい。前向きに考えますが……、まず、何故、同窓会を私が幹事になってやらないといけないのか、その理由を聞かせてください。それ次第でお受けするか決めさせていただきます」

「あっ、は、はい、わかりました。申し訳ありません。では、お話します」男は背筋をピンと伸ばし山脇の目をじっと見た。

「信じられないかもしれませんが、これからお話しすることは全て事実です」男はそう言ってから目を閉じて大きく息を吸った。

 


日下光治

 日下光治はくわえていた煙草を左下にある灰皿に押しつけてから、パチンコ台をバーンと叩き、苛立ちをぶつけた。

「全然、出ないじゃねえか」そう言って立ち上がり、隣の通路に移動した。通路を行ったり来たりして台を品定めし322番台に腰を下ろした。財布から残り少なくなった千円札を取り出しパチンコ台横にある挿入口に入れた。パチンコ玉がジャラジャラと出てくるのを確認して、煙草に火をつけ、フゥーと強い息を吐いた。

 店内に響くBGMと店員の元気な声を聞いて、気合いが入った。「よーし、この台で取り返すぞ」首を左右に折った。

 

 日下は、隣の席のごま塩頭の男や後ろの席の茶髪の若い女の足元に積み上げられたドル箱に視線を落とし、大きく息を吐いた。自分の財布の中を覗いて札が無くなったのを確認し肩を落として322番台から立ち上がった。

 店内に響くBGMと店員の元気な声が雑音に聞こえた。

 


日下美也子

「ただいま」と沈んだ声が玄関から聞こえてきた。

 息子の光治は、他人とのコミュニケーションを避けてしまっているが、家族との挨拶だけは沈んだ声であってもしてくれた。子供の頃からの習慣がぬけてないことが救いだなと美也子は、そう思いながら、沈んだ声に耳を傾けた。

 しかし、息子の沈んだ声を聞いて嬉しいはずはなかった。台所仕事の手を止め、腕をだらんと垂らし肩を落とした。息子が就職活動もせずパチンコで負けて帰ってきたのだろうと思うと、ため息すら出ない。

「おかえり、又パチンコかい」美也子はキッチンから出てきて眉間に深い皺を寄せ両手を腰にあてた。

「あっ、あー」光治は俯いたまま返事をし、リビングに腰をおろした。

「いいかげんにしなさい。仕事も辞めちゃって遊んでる場合じゃないでしょ。しっかり就職活動してちょうだい」美也子は声を荒げた。

「うるさいな、それぐらいわかってるよ」光治は髪の毛を掻きむしっていた。苛立った様子だった。

「三十歳前にもなって、わかってないでしょ。なんとかしないと知らないわよ」

「わかってるよ。俺だって必死だよ」

 美也子は大きく息を吐いた。

「あなたにハガキが来てたわよ。高校の同窓会の案内みたい」そう言ってテーブルをパンと叩くようにハガキを光治の前に置いた。そして光治に一瞥した。

 光治はハガキを手にとり視線を落とした。

 

《同窓会のご案内》

間中高校15期生の同窓会を催します。

日時 2005年8月21日 17時から

場所 ホテル マナカ

幹事 山脇俊太

 

「ふーん、山脇が幹事か」光治は、そうつぶやいてハガキをテーブルにぽいっと投げた。

「参加するのかい」美也子は息子が同窓会に参加するのか気になっていた。参加してほしい気持ちはあったが、今の状況だと息子も肩身が狭いだろうなと思った。

「わからない」ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。

 光治はテレビのリモコンのスイッチをいれた。同窓会の話題を避けようとしているようだった。テレビから洗剤などの日用品を扱う大手メーカーのCMが流れていた。

「あら、山脇くんの会社のCMね。山脇くん、こんな立派な会社に就職して凄いわ」美也子の言葉は嫌みっぽくなってしまった。

「あっ、あー」光治は、すぐにチャンネルを変えた。今度は光治と同世代のお笑い芸人が出ていた。先週の漫才グランプリで優勝し一躍有名になった漫才コンビだ。二人を祝福する様子が流れていた。光治はテレビを消して、視線を宙にやった。

「無職じゃ恥ずかしくて、皆に顔も合わせられないわね」美也子は口元を歪めて言った。

「そうだな、同窓会までに仕事決めるわ」光治は首の後ろをさすっていた。

「そうね、それがいいわ」美也子はやっと笑みを浮かべた。

 

 小学校、中学校と成績優秀だった光治は、美也子にとっては自慢の息子だった。性格は活発な方ではなかったが、大人しく真面目で、近所では優しく礼儀正しい少年だと評判だった。高校も進学校の間中高校に入学して美也子は鼻が高かった。

 ところが、高校に入ってから家にひきこもりがちになり勉強もしなくなった。なんとか大学には入ったが、大学でも勉強する気もなく中退し、警備のアルバイトでお金を貯めては遊び呆けていた。その後正社員として就職したが、仕事がきついわりに給料が安いと転職を繰り返し、今は無職だ。

 自分に合った仕事を探すと就職活動中だが三十歳前になると、思うような仕事もなく就職活動にも身が入らない。気晴らしにパチンコに行くが負けて帰ってくる、そんな毎日を送っていた。

 


北尾洋輔

 中学校の終業のベルが鳴る。教室から吐き出されるように生徒達が出てきて、廊下が縁日のように、にぎやかになっていた。

 

「大沢、野々村、今日は俺んちに来いよ」北尾洋輔が並んで前を歩く大沢彰と野々村道郎の二人の肩を両手で抱え込むようにして二人の顔の間から首を出した。

 

「今日行っていいのか」一番小柄な大沢は、小さな子供のように目を輝かせ相好を崩した。

「あー、当たり前だ、来いよ」北尾は大沢の方に顔を向けた。

「よーし、今日は何して遊ぼうかな」大沢は思案顔をつくってみせた。

「野々村は来れるか」今度は野々村の方を向いた。

「あー、大丈夫だよ。お邪魔させてもらうよ」野々村は三人の中で一番成績優秀で大人っぽいクールな中学生だ。大沢のように喜びを表現していないが、口元は緩んでいた。

「よーし、決まった」北尾は二人の肩から離れて二人の背中をパーンと叩いた。

「今日は野々村に勉強教えてもらおうぜ」大沢が言った。

「えっ、僕が教えるの?」野々村が自分の鼻に人差し指を向けた。

「そう、野々村が勉強を教える、それで決まり」大沢は野々村に向かって人差し指を向けた。

「おぅ、それがいい」北尾は、野々村に親指を立て笑みを浮かべた。

 野々村は笑って小さく頷いた。少し得意気な表情に見えた。

 北尾と大沢は野々村に勉強を教えてもらうのが大好きだった。教え方が上手いのだろう。勉強が嫌いな二人だが野々村から教わる時だけは楽しかった。

「野々村は絶対に先生になるべきだ。野々村が先生になったら生徒は幸せだろうな」大沢がまた相好を崩した。

「ありがとう、そう言ってもらうとなんか嬉しいな」野々村が口元を緩め、少し照れたような表情をした。

「じゃあ、野々村、今日は数学教えてくれ」北尾がもう一度親指を立て笑った。

「うん、数学がいい」大沢も笑った。

 三人の歩く足が速くなった。

 

 

 北尾澄子

 

「母ちゃん、ただいま。大沢と野々村を連れてきたぞー」玄関から息子洋輔の声が聞こえてきた。「おかえり」と声を張り上げ、玄関へと急いだ。自然と笑みがこぼれる。玄関までいって、息子と友達二人の顔を見ると笑みが花が咲いたように満面になった。白くて丸いマシュマロのような顔がくしゃくしゃになっていた。

「いらっしゃい」細い目を一段と細くして、息子の友達二人に声を掛けた。

「おう、あがれ」洋輔が友達二人に向かって言った。

「おじゃましまーす」小柄で日に焼けたタラコ唇の少年と細くて色白で狐目の少年二人は、目を大きく開け、白い歯をみせた。

 

 息子の洋輔は小学校の頃、友達が出来なかった。体が大きい洋輔は、女の子を泣かせたり、同級生を突き飛ばして怪我をさせたりすることもあった。その度に澄子は学校から呼び出され頭を下げた。本当は心の優しい子なのに、なぜ暴力をふるうのだろうか、父親のいないのが原因なのかと悩んだ。

 中学生になって環境が変わり仲の良い友達でも出来れば息子も変わるのではと澄子はかすかなを期待をよせた。逆に中学生になり体も一回り大きくなった暴力は、手がつけられなくなるのではという不安もあった。

 

 中学生になってすぐのことだった。洋輔がはじめて家に友達を連れて来た。それが大沢と野々村だった。

 体は小さいが愛嬌のある大沢と礼儀正しく優しい瞳をした野々村を見て、息子にはもったいないくらい良い友達が出来たと喜んだ。

 二人は本当に洋輔と仲良くしてくれているようで、澄子は二人に感謝した。二人が遊びに来てくれると嬉しくてたまらなかった。二人と遊ぶようになってから小学校の頃のような暴力も無くなり呼び出されることもなくなった。

 

 澄子はジュースや菓子を持って、騒ぎ声がする洋輔の部屋に入った。

「はい、おやつよ」澄子は三人の楽しそうに騒いでいる姿に目を細めた。

「おばちゃん、いつもありがとう」大沢が人懐っこく右手をあげて言った。

「いつもありがとうございます」野々村が礼儀正しく正座をし頭を下げた。

 二人ともタイプは違うけど、本当にいい子だなと思った。

「かあちゃんは、こいつらが遊びに来ると嬉しそうだな」洋輔が大沢の頭を大きな手で押さえながら言った。

「洋輔、友達の頭をそんな風に押さえるもんじゃありません。大沢くんに失礼よ。ごめんね、大沢くん」澄子の眉が八の字になった。

「へへへ、別にいいです。いつもこんなだから」愛嬌ある大沢が首をすくめながら相好を崩した。

「いつもは、こんなおやつなんか無いんだぞ。お前らが遊びにきた時だけ、かあちゃんは特別みたいだ」洋輔の楽しそうな姿を見て、澄子は一段と嬉しくなった。

 

 はじめて大沢と野々村が家に遊びに来た時、澄子は息子に友達が出来たことが嬉しくて、すぐに近くのスーパーにお菓子とジュースを買いに行った。それを出した時の三人の喜ぶ姿を見て、澄子は目を潤ませた。それからは彼らがいつ来てもいいようにと、お菓子とジュースを買い置きしておいた。お菓子とジュースは週に一度は補充しないと間に合わないくらい二人は遊びにきてくれた。

 


遠井信也

 遠井信也と山脇俊太はテーブルに浅く尻を乗せて向かい合い話していた。遠井が野球の面白さを熱心に語りはじめたのがきっかけで、二人は、この休み時間中、ずっとこの体制で話をしていた。

「野球が面白いのは、わかるけど、球場に観に行ったことはないな」

「とりあえず、明日うちに来いよ。プロ野球選手のサインとか見せたいし、明日の試合、テレビ中継あるから一緒に観ようぜ。きっと山脇も野球が好きになるよ」

 遠井の熱心な誘いに山脇も興味を示しているようだった。明日の休みは遠井の家に行って、サイン色紙を見せてもらい、その後テレビで野球観戦をすることが決まった。

「おい、日下、明日遠井の家に遊びに行くんだけど、一緒に行かないか」山脇の後ろに座る日下光治に山脇が声をかけた。

「えっ、あー」日下は読んでいた本から視線を外し、山脇を見上げてから遠井に視線を移した。

「遠井、日下も一緒に行っていいだろ」山脇は顎をつき出すように訊いた。

「当たり前だ、日下とも友達になりたかったからな」

「そうだろ、日下は無口だけど話すと面白いし、良い奴なんだ」

「じゃあ、日下、明日誘いに行くな」山脇は日下に向けて右手を上げた。

「わ、わかった。誘ってくれてありがとう」小さな声で礼を言った。

 山脇と日下は幼なじみで小さい頃から仲良しだ。遠井は二人の関係を羨ましく思っていた。大人しく真面目な日下だが、山脇といる時は楽しそうだった。誰とでも仲良くリーダーシップを発揮し人気者の山脇だが、山脇も日下といる時は特に優しい表情をしていた。

 

「俺の夢は野球選手になることなんだ」遠井が野球のグラブを左手に入れ右手でパンパンと叩きながら、山脇と日下を前にして夢を語った。

 山脇と日下は部屋中に貼ってある、野球選手のポスターやサイン色紙の数に圧倒され、それらを見上げながら遠井の話を聞いていた。

「それにしても、サイン色紙の数がすごいな」山脇がそう言うと日下は隣で頷いていた。

「そうだろ、俺の宝物だ」

「将来は遠井のサインがこうして誰かの部屋に飾られるのかな」山脇にそう言われて、遠井は嬉しそうな表情を浮かべた。

「そうなったら最高だけどな。けど厳しい世界だからな」

「頑張れば、きっとなれるよ」山脇が言うと、遠井は何度も頷いた。

「確かに頑張らないといけないけど、まずは野球を楽しみたいんだ。野球選手になれなくても、将来は野球の楽しさを伝える仕事がしたいんだ」

 遠井の野球への熱い思いに、山脇は感動し羨ましく思った。自分にはこんな熱中できるものがないなと、もう一度部屋中のポスターやサイン色紙を見上げていた。

 

「シンヤ」という蚊の鳴くような声と同時に部屋のドアが少し開いた。三人がドアの方に視線をやった。

「あっ、姉ちゃん」遠井が開いたドアの方に向かった。

「お母さん出掛けてるから、とりあえず、さっき焼いた焼き菓子と珈琲持ってきたわ」そう言ってお盆を遠井に渡した。

「姉ちゃん、サンキュー」遠井が盆を受け取った。

「おじゃましています」山脇がドアの外に立つ遠井の姉を覗きこむようにして頭を下げた。続けて日下もペコリと頭を下げた。

「ゆっくりしていってね」遠井の姉が部屋に顔だけ入れて、はにかむような笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」山脇が言うと日下も「ありがとうございます」と続けて言って揃って遠井の姉にもう一度頭を下げた。

「どういたしまして、じゃあごゆっくり」遠井の姉は遠井に視線をやってから、二人に向けて、もう一度、はにかむように笑った。

 



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