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日下光治

 日下光治はくわえていた煙草を左下にある灰皿に押しつけてから、パチンコ台をバーンと叩き、苛立ちをぶつけた。

「全然、出ないじゃねえか」そう言って立ち上がり、隣の通路に移動した。通路を行ったり来たりして台を品定めし322番台に腰を下ろした。財布から残り少なくなった千円札を取り出しパチンコ台横にある挿入口に入れた。パチンコ玉がジャラジャラと出てくるのを確認して、煙草に火をつけ、フゥーと強い息を吐いた。

 店内に響くBGMと店員の元気な声を聞いて、気合いが入った。「よーし、この台で取り返すぞ」首を左右に折った。

 

 日下は、隣の席のごま塩頭の男や後ろの席の茶髪の若い女の足元に積み上げられたドル箱に視線を落とし、大きく息を吐いた。自分の財布の中を覗いて札が無くなったのを確認し肩を落として322番台から立ち上がった。

 店内に響くBGMと店員の元気な声が雑音に聞こえた。

 


日下美也子

「ただいま」と沈んだ声が玄関から聞こえてきた。

 息子の光治は、他人とのコミュニケーションを避けてしまっているが、家族との挨拶だけは沈んだ声であってもしてくれた。子供の頃からの習慣がぬけてないことが救いだなと美也子は、そう思いながら、沈んだ声に耳を傾けた。

 しかし、息子の沈んだ声を聞いて嬉しいはずはなかった。台所仕事の手を止め、腕をだらんと垂らし肩を落とした。息子が就職活動もせずパチンコで負けて帰ってきたのだろうと思うと、ため息すら出ない。

「おかえり、又パチンコかい」美也子はキッチンから出てきて眉間に深い皺を寄せ両手を腰にあてた。

「あっ、あー」光治は俯いたまま返事をし、リビングに腰をおろした。

「いいかげんにしなさい。仕事も辞めちゃって遊んでる場合じゃないでしょ。しっかり就職活動してちょうだい」美也子は声を荒げた。

「うるさいな、それぐらいわかってるよ」光治は髪の毛を掻きむしっていた。苛立った様子だった。

「三十歳前にもなって、わかってないでしょ。なんとかしないと知らないわよ」

「わかってるよ。俺だって必死だよ」

 美也子は大きく息を吐いた。

「あなたにハガキが来てたわよ。高校の同窓会の案内みたい」そう言ってテーブルをパンと叩くようにハガキを光治の前に置いた。そして光治に一瞥した。

 光治はハガキを手にとり視線を落とした。

 

《同窓会のご案内》

間中高校15期生の同窓会を催します。

日時 2005年8月21日 17時から

場所 ホテル マナカ

幹事 山脇俊太

 

「ふーん、山脇が幹事か」光治は、そうつぶやいてハガキをテーブルにぽいっと投げた。

「参加するのかい」美也子は息子が同窓会に参加するのか気になっていた。参加してほしい気持ちはあったが、今の状況だと息子も肩身が狭いだろうなと思った。

「わからない」ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。

 光治はテレビのリモコンのスイッチをいれた。同窓会の話題を避けようとしているようだった。テレビから洗剤などの日用品を扱う大手メーカーのCMが流れていた。

「あら、山脇くんの会社のCMね。山脇くん、こんな立派な会社に就職して凄いわ」美也子の言葉は嫌みっぽくなってしまった。

「あっ、あー」光治は、すぐにチャンネルを変えた。今度は光治と同世代のお笑い芸人が出ていた。先週の漫才グランプリで優勝し一躍有名になった漫才コンビだ。二人を祝福する様子が流れていた。光治はテレビを消して、視線を宙にやった。

「無職じゃ恥ずかしくて、皆に顔も合わせられないわね」美也子は口元を歪めて言った。

「そうだな、同窓会までに仕事決めるわ」光治は首の後ろをさすっていた。

「そうね、それがいいわ」美也子はやっと笑みを浮かべた。

 

 小学校、中学校と成績優秀だった光治は、美也子にとっては自慢の息子だった。性格は活発な方ではなかったが、大人しく真面目で、近所では優しく礼儀正しい少年だと評判だった。高校も進学校の間中高校に入学して美也子は鼻が高かった。

 ところが、高校に入ってから家にひきこもりがちになり勉強もしなくなった。なんとか大学には入ったが、大学でも勉強する気もなく中退し、警備のアルバイトでお金を貯めては遊び呆けていた。その後正社員として就職したが、仕事がきついわりに給料が安いと転職を繰り返し、今は無職だ。

 自分に合った仕事を探すと就職活動中だが三十歳前になると、思うような仕事もなく就職活動にも身が入らない。気晴らしにパチンコに行くが負けて帰ってくる、そんな毎日を送っていた。

 


北尾洋輔

 中学校の終業のベルが鳴る。教室から吐き出されるように生徒達が出てきて、廊下が縁日のように、にぎやかになっていた。

 

「大沢、野々村、今日は俺んちに来いよ」北尾洋輔が並んで前を歩く大沢彰と野々村道郎の二人の肩を両手で抱え込むようにして二人の顔の間から首を出した。

 

「今日行っていいのか」一番小柄な大沢は、小さな子供のように目を輝かせ相好を崩した。

「あー、当たり前だ、来いよ」北尾は大沢の方に顔を向けた。

「よーし、今日は何して遊ぼうかな」大沢は思案顔をつくってみせた。

「野々村は来れるか」今度は野々村の方を向いた。

「あー、大丈夫だよ。お邪魔させてもらうよ」野々村は三人の中で一番成績優秀で大人っぽいクールな中学生だ。大沢のように喜びを表現していないが、口元は緩んでいた。

「よーし、決まった」北尾は二人の肩から離れて二人の背中をパーンと叩いた。

「今日は野々村に勉強教えてもらおうぜ」大沢が言った。

「えっ、僕が教えるの?」野々村が自分の鼻に人差し指を向けた。

「そう、野々村が勉強を教える、それで決まり」大沢は野々村に向かって人差し指を向けた。

「おぅ、それがいい」北尾は、野々村に親指を立て笑みを浮かべた。

 野々村は笑って小さく頷いた。少し得意気な表情に見えた。

 北尾と大沢は野々村に勉強を教えてもらうのが大好きだった。教え方が上手いのだろう。勉強が嫌いな二人だが野々村から教わる時だけは楽しかった。

「野々村は絶対に先生になるべきだ。野々村が先生になったら生徒は幸せだろうな」大沢がまた相好を崩した。

「ありがとう、そう言ってもらうとなんか嬉しいな」野々村が口元を緩め、少し照れたような表情をした。

「じゃあ、野々村、今日は数学教えてくれ」北尾がもう一度親指を立て笑った。

「うん、数学がいい」大沢も笑った。

 三人の歩く足が速くなった。

 

 

 北尾澄子

 

「母ちゃん、ただいま。大沢と野々村を連れてきたぞー」玄関から息子洋輔の声が聞こえてきた。「おかえり」と声を張り上げ、玄関へと急いだ。自然と笑みがこぼれる。玄関までいって、息子と友達二人の顔を見ると笑みが花が咲いたように満面になった。白くて丸いマシュマロのような顔がくしゃくしゃになっていた。

「いらっしゃい」細い目を一段と細くして、息子の友達二人に声を掛けた。

「おう、あがれ」洋輔が友達二人に向かって言った。

「おじゃましまーす」小柄で日に焼けたタラコ唇の少年と細くて色白で狐目の少年二人は、目を大きく開け、白い歯をみせた。

 

 息子の洋輔は小学校の頃、友達が出来なかった。体が大きい洋輔は、女の子を泣かせたり、同級生を突き飛ばして怪我をさせたりすることもあった。その度に澄子は学校から呼び出され頭を下げた。本当は心の優しい子なのに、なぜ暴力をふるうのだろうか、父親のいないのが原因なのかと悩んだ。

 中学生になって環境が変わり仲の良い友達でも出来れば息子も変わるのではと澄子はかすかなを期待をよせた。逆に中学生になり体も一回り大きくなった暴力は、手がつけられなくなるのではという不安もあった。

 

 中学生になってすぐのことだった。洋輔がはじめて家に友達を連れて来た。それが大沢と野々村だった。

 体は小さいが愛嬌のある大沢と礼儀正しく優しい瞳をした野々村を見て、息子にはもったいないくらい良い友達が出来たと喜んだ。

 二人は本当に洋輔と仲良くしてくれているようで、澄子は二人に感謝した。二人が遊びに来てくれると嬉しくてたまらなかった。二人と遊ぶようになってから小学校の頃のような暴力も無くなり呼び出されることもなくなった。

 

 澄子はジュースや菓子を持って、騒ぎ声がする洋輔の部屋に入った。

「はい、おやつよ」澄子は三人の楽しそうに騒いでいる姿に目を細めた。

「おばちゃん、いつもありがとう」大沢が人懐っこく右手をあげて言った。

「いつもありがとうございます」野々村が礼儀正しく正座をし頭を下げた。

 二人ともタイプは違うけど、本当にいい子だなと思った。

「かあちゃんは、こいつらが遊びに来ると嬉しそうだな」洋輔が大沢の頭を大きな手で押さえながら言った。

「洋輔、友達の頭をそんな風に押さえるもんじゃありません。大沢くんに失礼よ。ごめんね、大沢くん」澄子の眉が八の字になった。

「へへへ、別にいいです。いつもこんなだから」愛嬌ある大沢が首をすくめながら相好を崩した。

「いつもは、こんなおやつなんか無いんだぞ。お前らが遊びにきた時だけ、かあちゃんは特別みたいだ」洋輔の楽しそうな姿を見て、澄子は一段と嬉しくなった。

 

 はじめて大沢と野々村が家に遊びに来た時、澄子は息子に友達が出来たことが嬉しくて、すぐに近くのスーパーにお菓子とジュースを買いに行った。それを出した時の三人の喜ぶ姿を見て、澄子は目を潤ませた。それからは彼らがいつ来てもいいようにと、お菓子とジュースを買い置きしておいた。お菓子とジュースは週に一度は補充しないと間に合わないくらい二人は遊びにきてくれた。

 


遠井信也

 遠井信也と山脇俊太はテーブルに浅く尻を乗せて向かい合い話していた。遠井が野球の面白さを熱心に語りはじめたのがきっかけで、二人は、この休み時間中、ずっとこの体制で話をしていた。

「野球が面白いのは、わかるけど、球場に観に行ったことはないな」

「とりあえず、明日うちに来いよ。プロ野球選手のサインとか見せたいし、明日の試合、テレビ中継あるから一緒に観ようぜ。きっと山脇も野球が好きになるよ」

 遠井の熱心な誘いに山脇も興味を示しているようだった。明日の休みは遠井の家に行って、サイン色紙を見せてもらい、その後テレビで野球観戦をすることが決まった。

「おい、日下、明日遠井の家に遊びに行くんだけど、一緒に行かないか」山脇の後ろに座る日下光治に山脇が声をかけた。

「えっ、あー」日下は読んでいた本から視線を外し、山脇を見上げてから遠井に視線を移した。

「遠井、日下も一緒に行っていいだろ」山脇は顎をつき出すように訊いた。

「当たり前だ、日下とも友達になりたかったからな」

「そうだろ、日下は無口だけど話すと面白いし、良い奴なんだ」

「じゃあ、日下、明日誘いに行くな」山脇は日下に向けて右手を上げた。

「わ、わかった。誘ってくれてありがとう」小さな声で礼を言った。

 山脇と日下は幼なじみで小さい頃から仲良しだ。遠井は二人の関係を羨ましく思っていた。大人しく真面目な日下だが、山脇といる時は楽しそうだった。誰とでも仲良くリーダーシップを発揮し人気者の山脇だが、山脇も日下といる時は特に優しい表情をしていた。

 

「俺の夢は野球選手になることなんだ」遠井が野球のグラブを左手に入れ右手でパンパンと叩きながら、山脇と日下を前にして夢を語った。

 山脇と日下は部屋中に貼ってある、野球選手のポスターやサイン色紙の数に圧倒され、それらを見上げながら遠井の話を聞いていた。

「それにしても、サイン色紙の数がすごいな」山脇がそう言うと日下は隣で頷いていた。

「そうだろ、俺の宝物だ」

「将来は遠井のサインがこうして誰かの部屋に飾られるのかな」山脇にそう言われて、遠井は嬉しそうな表情を浮かべた。

「そうなったら最高だけどな。けど厳しい世界だからな」

「頑張れば、きっとなれるよ」山脇が言うと、遠井は何度も頷いた。

「確かに頑張らないといけないけど、まずは野球を楽しみたいんだ。野球選手になれなくても、将来は野球の楽しさを伝える仕事がしたいんだ」

 遠井の野球への熱い思いに、山脇は感動し羨ましく思った。自分にはこんな熱中できるものがないなと、もう一度部屋中のポスターやサイン色紙を見上げていた。

 

「シンヤ」という蚊の鳴くような声と同時に部屋のドアが少し開いた。三人がドアの方に視線をやった。

「あっ、姉ちゃん」遠井が開いたドアの方に向かった。

「お母さん出掛けてるから、とりあえず、さっき焼いた焼き菓子と珈琲持ってきたわ」そう言ってお盆を遠井に渡した。

「姉ちゃん、サンキュー」遠井が盆を受け取った。

「おじゃましています」山脇がドアの外に立つ遠井の姉を覗きこむようにして頭を下げた。続けて日下もペコリと頭を下げた。

「ゆっくりしていってね」遠井の姉が部屋に顔だけ入れて、はにかむような笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」山脇が言うと日下も「ありがとうございます」と続けて言って揃って遠井の姉にもう一度頭を下げた。

「どういたしまして、じゃあごゆっくり」遠井の姉は遠井に視線をやってから、二人に向けて、もう一度、はにかむように笑った。

 


医者になりたい

 寝坊した大沢彰は、中学校まで全速力で走り何とか遅刻せずに間に合った。

 校門に立つ先生が「大沢はいつもギリギリだな、五分だけ早く起きればいいんだぞ。この五分の差が将来大きな差になるかもしれないんだ」と説教した。

「はーい、わかりました~」と大沢は右手を小刻みに振って立ち止まることなく教室へ走って行った。

 説教した先生は、わかってくれてないなと苦笑し、大沢の教室へと向かう後ろ姿を腕を組みながら目で追った。「性格が明るくいい子なんだけどな」と呟いた。

 

 大沢は息を切らし教室に入り北尾の席を見ると、北尾の姿がなかった。大沢は首を傾げた。いつもなら、一番後ろの席でふんぞり返って座り、大沢に向かって右手をあげてから「おぅ、おせえぞ」と言ってくるのだが、どういうわけか今日はいない。無遅刻、無欠席だった北尾なのに、どうしたんだろうかと思った。野々村に訊いたが、心配そうに野々村も首を傾げた。

 

 担任の先生から北尾の母親が入院したので北尾は今日からしばらく休みだと聞いた。入院という言葉がすごく重く感じた。

 その日、家に帰ってから大沢は自分の母親から北尾の母親が生死にかかわる病気だと聞かされて、信じられなかった。北尾の母親のふくよかな顔と明るい笑顔から病気を想像することができなかった。

 その晩、布団に入ってから、北尾の家に遊びに行くとジュースやおやつを出してくれた北尾の母親の笑顔が頭に浮かんだ。絶対に元気になってほしいと天井に向かって手を合わせた。北尾はどんな気持ちで過ごしているんだろうか、そんな事ばかり考え寝返りばかりうった。

 

 次の日も北尾は欠席していた。大沢と野々村は二人で下校した。

「北尾の母ちゃん、重い病気みたいだ。俺の母ちゃんが、そう言ってた」大沢の表情はいつもとは違い曇っていた。

「そうなんだ、病名とかはわからないの」

「重い病気としか聞いてない。聞くのが怖いし」

「そうだな、今僕たちに出来ることは、お母さんが元気になることを祈るだけだ」

「早く元気になってくださーい」大沢が曇天の空に向かって大声を張り上げた。

 

 次の週の月曜日に北尾が登校してきた。大沢がいつものようにギリギリで登校すると、後ろの席に北尾の姿が見えた。「おぅ、おせえぞ」と言って右手を上げた。いつもより声は小さかった。

「北尾、お母さん大丈夫だったか」大沢は北尾の姿を見るなり訊いた。涙が出そうになったのをごまかした。

「先週は母ちゃんが倒れて大変だったよ。今は親戚の家から通ってるから疲れるわ」と笑いながら話してくれたが、その笑顔は少しひきつり無理していると大沢にはわかった。大沢もひきつった笑顔を返して言葉は出なかった。それから数日間は北尾は笑っていても笑顔に無理があるのがわかったので、大沢は北尾の母親の話題をすることはなかった。

 

 大沢と野々村は久しぶりに北尾と三人で下校した。北尾の母親が入院してからは、三人で下校していなかった。北尾は授業が終わると先に一人で帰っていった。

 先に帰るな、と言って笑って帰っていったが、大きな背中が丸く小さくなっていた。

 病院に寄っているのか、親戚の家なのでまっすぐに帰らないといけなかったのか、わからなかった。

 野々村も今はそっとしておいてやろうと言った。大沢もそう思った。

 今日は北尾から一緒に帰ろうと声を掛けてくれた。大沢は野々村と顔を見合わせて笑みを浮かべた。

 北尾がちょっと寄り道しようぜと言って、川の土手を駆け上がって行った。二人は北尾を追いかけた。北尾は土手に座り込み、川を眺めていた。

 川が夕日で黄金色に輝いていた。北尾は黙って、それを眺めていた。北尾の顔も黄金色になっていて、少し笑みを浮かべているように見えた。少し沈黙の時間があった。鉄橋を渡る電車が見え、三人は電車を目で追っていた。電車が鉄橋を過ぎると同時に大沢が口を開いた。

「今日は親戚の家じゃないのか」

 北尾が大沢を見上げた。

「おぅ、今日はおばちゃんがうちに来てくれてるんだ。うちの掃除してくれてる」

「そ、そうか」

「母ちゃんの手術はうまくいったみたいで、もうすぐ退院だから」北尾から笑顔が出た。久しぶりに見る顔だと思った。

 大沢と野々村は胸をなでおろした。大沢と野々村にも笑顔が戻り、二人は北尾の両隣に座った。

「よかったな」と北尾に声をかけて、北尾の顔を見ると北尾の目が潤んでいるのがわかった。それを見て大沢も涙が出そうになったが必死で堪え、目頭をおさえた。野々村が北尾と大沢の顔を見ながら何度も頷いていた。

 その後、三人は黙って夕日と川の流れを眺めていた。夕日はゆっくりと沈んでいき、川は静かに流れていた。

「俺、医者になりたいな」北尾が急に言った。

「医者……?」大沢は北尾の口から出た言葉に驚くように目を丸くした。北尾に医者のイメージがなかった。野々村の方が医者らしいなと思った。

「そうだ、母ちゃんの命を救ってくれた医者みたいになりたい。人の命を救う仕事がしたいんだ」北尾の目は、また潤んでいた。

「医者になるのって難しいんじゃないのか」

「あー、今の俺じゃ無理だろうな。俺は今から野々村に勉強教えてもらって、間中高校に入学する。そして大学の医学部を目指すんだ」北尾が少し色を失った空を見上げて涙を拭った。

「また、僕?」野々村が自分の鼻に人差し指を向けた。そして笑った。

 大沢は北尾がすごく大人に見えた。自分には何の夢もないし、ぼーっと生きてるだけだなと思った。

「大沢と野々村は夢とかないの?」北尾は川の方を向いたまま訊いた。

「僕は研究者か教師になりたい」野々村が言った。

「俺は何も考えてないな。俺に向く仕事なんてあるのかな」大沢は下を向いた。

「そうだなぁー、大沢はムードメーカーだし、俺はお前と一緒にいると楽しいから、人を楽しませる仕事なんかがいいんじゃないか」大沢の肩に手をかけた。

「そうかなぁ」大沢は少し照れた。自分といると楽しいと言ってもらったことが嬉しかった。

「僕もそう思う。大沢は明るいから、きっと向いてる」

「お前といると本当、楽しいからいっしょに間中高校目指そうぜ」北尾が親指を立てて大沢に向けた。

「俺の学力じゃ間中高校は無理だよ」

「なに言ってんの、お前は俺よりは頭いいだろ」

「そうだな、それは言えてる」大沢が笑った。

「お前、そこは否定しろよ」北尾は笑いながら大沢の頭を平手で叩いた。

 大沢は北尾が元気になったことが嬉しかった。自分も勉強して間中高校を目指してみよう。そして人を楽しませる仕事について考えてみようと思った。

「お前も俺といっしょに野々村に勉強教えてもらえ」

「OK、それがいい」

「僕が?」野々村は、また自分の鼻に人差し指を向けた。そして笑った。

 



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