閉じる


上知後の新潟町 海防問題と砲術訓練

 奉行所開設にあたり、海防の強化を訴えて来た修就は、広間役や定役には砲術稽古を職務として義務づけ、町役人に対しては、荻野流師範の修就に入門し砲術稽古を受けるよう申し渡した。しかし、新潟において召し抱えた役人や足軽たちは戸惑っているように見えた。湊の安全を管理する洲崎番所の役人たちも、異国船についての知識が乏しく脅威をさほど感じていないように見受けた。修就は、「洲崎沖合江異国船相見候節心得之覚」を通達して、異国船が出没した際の具体的な策を通達した。この通達は、異国船を発見したら、御役所へ通報し水戸口へ速やかに天渡船を5艘出すこと。長岡藩、村上藩、新発田藩へ援兵を出すよう村継ぎを送るなど記された指示書になっている。また、支配組頭が、洲崎番所に出張した場合、1番船、2番船、3番船を出し異国船が平和の模様であれば、赤旗を振り、1番船から順次、2番、3番と報せることになった。修就は自ら工事現場の検分を行った。

 

着任当初は、新潟で雇った役人はもちろん、江戸から連れて来た家来たちの中にも、砲術に不慣れで鉄砲の取り扱いすら知らなかった者もいたが、修就は、奉行所を新設するにあたり、海防強化を宣言し、広間役や定役には、砲術修業を職務として義務付け奉行所の役人たちには、荻野流砲術師範である修就に入門して訓練を受けるよう命じた。家来たちの多くが、砲術訓練に日々、勤しんでいることが認められて、抱筒目録や抱筒免許の取得する中、定役の古谷栄太郎が、砲術師範役を仰せつかった。長男の順次郎も無事、抱筒目録を賜ることができてお奉行の倅の面子を保った。

 

修就が、新潟に赴いた時からこれまで猛特訓させたかいあり、海岸に設けた打ち場において、大筒の発射訓練ができるぐらいに上達した。

 

822日。修就は、新潟海岸の砂浜に「丁打ち場」を造るよう家来たちに命じた。新潟海岸の砂浜は広く、広い所では78丁ある。広い所に、波打ち際に沿って射撃場を設けさせた。大筒の打ち場から、1丁目ごとに杭を打って行き、隣の関屋村との境界に射撃の目当てとなる大きな目印を立て、弾道に沿った小高い砂丘の上に5か所の矢見塚を設けた。この作業は、丸1日かけて行われた。

 

826日と27日に、新潟海岸の丁打ち場にて丁打ち訓練を行う。町民へ網などの訓練の邪魔となる漁具を出しておかないこと、町方から手伝いを出すこと、お茶出しは町方で受け持つ旨通達せよ」

  修就は、家来たちに砲術訓練の実施を言い渡すと共に、町民への通達を指図した。高札には、新潟海岸で砲術訓練が実施される旨の通達が掲げられた。初の鉄砲稽古の報せは、瞬く間に、新潟町だけでなく近郷の村々にも伝わった。

 

訓練初日。夜が明けると、修就は、組頭両名を随えて奉行の屋敷を出た。この日は朝から快晴で、地平線から昇る朝日に合掌した後、訓練に臨んだ。予定通り、大筒の発射訓練が行われた。

 

「本日はこれまで」

  日が暮れたころ、長男の順次郎が終了の合図をした。訓練はまだ残っていたが、初日ということもあり、暮れ6つに切り上げた。うす暗い道を修就は提灯をつけて帰宅した。屋敷に帰宅して間もなく、御武器掛の北山惣右衛門が報告にやって来た。

 

「殿。北山殿がお見えですよ」

  夕餉の後、修就が、寝所で書物を読んでいると障子越しに滝が来客を告げた。

 

「相分かった」

  修就は書物を閉じると、惣右衛門の待つ客間へ向かった。客間の近くまで来ると、にぎやかな話し声が廊下まで響いていた。

 

「近所迷惑じゃ。声をもっと抑えなさい」

  修就は、客間に入るなり苦言を呈した。大筒の話で盛り上がっていた惣右衛門と順次郎は肩をすくめた。

 

「本日の玉見のご報告に参上致しました」

  惣右衛門が姿勢を正すと告げた。

 

「ご苦労。早速、うかがうと致そう」

  修就が冷静に告げた。

 

500匁玉は17丁余り飛び、100匁玉は関屋村境の目印の遥か遠く19丁から20丁まで飛んでございます」

  惣右衛門が、修就に弾丸を差し出した。それを見て、修就は大きくうなずいた。

 

「この調子で明日も頼むぞ」

  修就が告げた。

 

「御意」

  惣右衛門が頭を下げた。惣右衛門が帰宅した後、滝が、酒と肴を客間へ運んで来た。

 

「あら、北山殿がおられませんねえ」

  滝が、周囲を見回しながら言った。

 

「惣右衛門なら帰ったぞ。明日も、早朝から夜おそくまで訓練じゃ。酒が残っては差し支える」

  修就が咳払いして言った。

 

 翌朝。戸をたたく音で目を覚ました。玄関へ走って行く足音を聞きながら、修就は上体を起こした。縁側に出て空を見上げると、すっかり白みがかっていた。

 

「殿。組頭が到着なされました。早くお身支度を」

  滝が、あわてた様子で駆け寄って来た。

 

「順次郎はいかがした? 」

  滝に身支度を手伝わせながら、修就が訊ねた時にちょうど障子が開いた。

 

「父上。お急ぎ下され。お奉行が遅刻しては家来に示しがつきません」

  順次郎が、すっかり身支度を整えて仁王立ちしていた。

 

「おぬしに急かされる時が来るとはなあ

  修就がぼそっとつぶやいた。

 

「何か、おっしゃいましたか? 

  順次郎が訊ねた。

 

「何でもない。ひとりごとじゃ」

  修就が答えた。

 2日目の訓練は、これまでの訓練の復習のつもりで臨まれた。6ツ半から開始した。この日は、狼煙を上げる訓練も行われた。狼煙は、昼と夜に上げられた。訓練が終了する頃には、夜が更けて空に星が瞬いていた。2日間の訓練を終えて、修就を前に、訓練を受けた者たちが、「ありがとうございました」とあいさつした時、訓練を少し離れた場所で見物していた人々の方から拍手が沸き起こった。2日間、数万あまりの見物人が集まり、ちょっとしたお祭り騒ぎとなった。

 

 順調にも見えた武術・砲術の訓練だったが、10月に入ると、雲行きがあやしくなった。野宮市太夫、書物方の杉浦忠蔵、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎以下定役、並役を含む18名が「砲術不精二付」として破門となったのだ。修就と共に砲術を指導していた古谷から、仕事を理由に何度も訓練を休んでいる者たちがいることを聞いた修就は、名の挙がった家来たちを呼び出して激怒した。

 

「訓練に出ず、貴様らは、いったい、何をしておったのじゃ? 」

  修就は啖呵を切った後、海防を強化するねらいとそのためには何をするべきかを説いた。

 

修就の逆鱗に触れたとして集められた家来たちは、神妙な面持ちで修就の説教を受けた。数日後、若菜の呼びかけで、破門された家臣たちが、修就の元を訪ねて正式に詫びを入れた。しかし、修就の門下には入ることはできず、砲術師範役の古谷栄太郎の門下に入ることを許された。

 

砲術訓練に必要な経費などは幕府から支給されていたが、新潟に割り当てられた大筒は、9門だけで満足の行く数ではなかった。そこで、修就は、幕府の支給に頼らずとも新潟で調達出来ないか調べた。その結果、広間役を通じて、新潟町片原通二之町在住の鋳物師の土屋忠左衛門に大筒の製造を命じた。

 

1貫目と、500目の鋳筒製造を頼みたい」

  修就は、土屋を奉行の屋敷に呼び出すと申し付けた。

 

「お奉行様。申し訳ありませんが、お引き受けできません。他をあたって下され」

  土屋は、大砲は作ったことがないとの理由で1度は辞退した。

 

「案ずるに及ばず。拙者が図面を引く。おぬしは、図面通りに仕上げてくれればそれで良い」

  修就から鋳立て方の教えを受けながら、土屋は、初回に1貫目玉、その後、500目玉鋳筒の積書を出した。修就の図面は、鋳物師の土屋も驚くほどの完成度の高さで大筒の鋳立ては初めてだった土屋だが、100目玉、300目玉、500目玉の大筒を次々と鋳造した。さらに、修就は、火薬の原料となる硝石についても寺院の土から手製しようと試みるが、幕府から認可が下りなかったため取り止めた。

 

慣れて来ると、玉薬の製造を始め組頭の関源之進をはじめ6名がつきっきりの御用係に命ぜられた。幕府からは、公費による大筒稽古打は、56年に、1度の予定で心得ること。但し自前でやるのは勝手であると指示があった。修就は、松代藩の金児忠兵衛から購入したモルチール筒も加え、自費で打揃をする。

 

修就は折りを見て砲術訓練からは身を引き、古谷栄太郎と藤田織部に指導を委ね町政に専念することとした。また、修就は、砲術の他にも家来や部屋住たちに、水泳、馬術、剣術などの武芸も世話役を定めて訓練を行わせた。

  

  江戸では、引化22月に、老中に再任していた水野が隠居したのと入れ替わりに、寺社奉行の阿倍正弘が、25歳の若さで老中に任命されて台頭した。阿倍をはじめとする老中たちは、開国を望む異国船の来航などの対外問題の対応に追われていた。引化元年、7月。阿蘭陀国王の「開国勧告書」が届き、さらに、その2年後には、英国軍艦「マリーナ号」が浦賀に来航した。

 

異国船を目撃したとの情報は逐一、修就の元にも伝えられた。修就は、江戸にいる友人、知人、諸藩などに伝えられた情報について詳細を問い合わせ、常に正確な情報を把握するよう努めた。修就の友人でもある新潟掛勘定奉行榊原主計頭から、蝦夷地へ英船が渡来し松前から固人数を出したとの報せと、能登の黒嶋沖に異国船が出没した件についての問い合わせがあった。村上藩、新発田藩からは、室蘭沖に異国船が現れたとの報せが届いた。後日。村上藩から、広間役へ蝦夷地、室蘭沖に異国船が1艘滞船したので、警備のため、松平志摩守から1番手が派遣された旨の情報が入った。別の日にも、同様のことが、溝口主膳正の家来から報告があった。

 

嘉永元年、4月。羽州飛鳥沖に帆柱3本、3千石程の異国船が出没し大筒を打つ音が3発聞こえたとの庄内藩の通達が村上、新発田両藩から通達され、修就は、速やかに佐渡奉行へ通知した。それから、1か月も経たぬ間に、鼡ヶ(ねずみが)(せき)や粟生嶋沖に異国船が出没したと通達が、前回と同じ方法でもたらされ、修就から佐渡奉行へ通達された。2年後の6月には、佐渡の鷲崎沖にも異国船が現れて、洲崎御番所では、定役2名ずつ泊まらせ、町方の中使1名も詰めさせるなど警戒体勢を取り対応することになった。

 

また、新潟町内においても、新潟の廻船問屋の手船から、越前国の沖合で異国船を見たと云う通報が奉行所にあった。修就は、新潟近海に帆影を発見した場合の通達法を佐渡奉行と連名で幕府に問い合わせた。折り返し、幕府から、指示と共に各自が慎重に備えるようとの通達が届いた。一方で、自ら、情報収集に乗り出すこともあった。修就は、蝦夷地エトモへ渡来した英国船の警備のため、100人余りの人数が武装して函館を通行したのを見聞してきた直乗船頭蒲原郡根屋村の善兵衛から詳しい事情を聴き取るよう町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎に命じた。情報を受けた翌日から、調査を開始し奉行所から町方へ異刻船渡来などの非常の節に、町方人足の動員方法などについて通達を出すと共に、翌日には、新潟湊へ入津する船の船頭以下乗組員の内、沖合に異国船を目撃したり、途中の港などで異国船の渡来に関する情報を見聞きしたりした人は速やかに届け出る旨を町役人を通して廻船宿へ申し渡した。

 

引化元年には、「沖合異国船相見候節心得」を定めた。修就の働きがけに対する町民の反応は良く、それから数日後、廻船宿世話方の利右衛門から23日に入津した松前の甚四郎の船が異国のことを話していた旨の書附が提出された。そのうち、異国船が沖合に出没するだけでなく、船長以下乗組員が上陸する事態が発生した。嘉永2年、隠岐に異国人が上陸したとの通達があった。

 琉球では、来航した仏蘭西船の船長以下乗組員が上陸後、琉球の民に対して乱暴を働く事件が起きるなど、対外問題が深刻化し一段と物々しくなった。

 

引化1年、5月。新潟では、御備船として天渡船4艘が完成した。修就は、新潟出身の者たちの中から、水主頭取を10名、足留水主30名を新たに雇った。河口近くにある洲崎番所には、これまでの町方の小役人が詰めていたのを改め、水主頭取、足留水主、各2名が詰めることになった。新たな組織ができると、早速、これまで備え付けていた長岡藩領時代の武器は、長岡藩に返却し海岸に18町余の大筒打場にするための杭を打った。

 

新潟に異国船が来航した場合の援兵について阿倍伊勢守からの指示が間便で届き、村上藩の内藤紀伊守と村松藩の堀丹波守が、修就の要請で援兵を送ることになった。その後、両藩から問い合わせがある度、修就は両藩に指示を与えた。御台場構築について伺いを幕閣に提出し指示が出ると、早速、築立てに着手し御台場、灯明台、武器蔵、火薬蔵が設けられた。

 

 新設の新潟奉行所晋請は、順調に進んでいた。新潟赴任から1年後には、「御役所御申請仕様帳」もできあがり入札も行われ、役所、役宅、長屋など8200余りで新発田町の市嶋次郎八が落札した。その後、修就は、新潟掛勘定奉行の榊原主計頭と色々と連絡を取り合い、引化元年、7月には、榊原と修就の連名で老中に申請伺いを出した。

 

11月になってようやく、「都面伺之通」と許可が下りた。修就は、許可が届き次第、この晋請によって、物の値段を上げてはならないと云う町触を出し便乗値上げに先手を打った。また、御役所其外普請御用取扱として、御武器掛兼仲金取立掛の村上愛助、御用取扱の小嶋源右衛門そして定役で、砲術師範役の古谷栄太郎の3名を任命していた。

 


新潟町ならではの町政

 引化2年、正月11日。「釿初」を行った。同年、4月には、家来16名を同年54日。「奉行御役宅居間書院上之間物見等」の建前をした。同年、729日には、修就と組頭の関源之進の役宅ができあがり引越することになった。しかし、江戸留守宅から尾張大納言の病気重体との報せが届き、大納言の卒去を考慮して表向きは、27日に引っ越したことにした。

  引化49月、修就は、町会所に町人の希望を集めて、書物方の杉浦忠蔵や並役出役の上田友助に「経書」を講義させた。また、会津藩から贈られた同藩校日新館刊行の「童子訓」を新潟町会所、寄居、流作場へ一部与えて、寺院に対しては、法談・説法の終えた後に婦女子の教育になるような話をするよう勧め「貞烈婦女伝」などの本を与えた。

 

修就は、新潟赴任の翌年9月に検地を実施した上嶋下嶋に初めての検分を行った。上嶋と下嶋の検分に参加した者たちは、「壱之手」は、組頭の関源之進、御役所其外御晋請の村上愛助、組頭の近藤鉄平、組頭の鈴木幸一郎、町方定廻りの高野順蔵、北島半左衛門。「弐之手」は、組頭の成瀬又太郎、組頭の竹川竜太郎、河野幸之助、片原御番所詰の佐藤豊太郎、地方公事方書物方の青木要助だ。寄居村や附寄嶋については、修就の上申により長岡藩から村替上知となり、新潟奉行の御領地とする幕府からの差図があった。3月、長岡藩から請取りを完了した。

 

引化2年、7月。寄居村の名称は「寄居白山外新田」と改められ、新潟町の年寄の忠蔵に庄屋を兼帯させることにした。外新田については、浜手には長岡藩領時代から飛砂防止のため松の植林がされていたが、修就の代になってからも植林に力を注いだ。

 

修就は、家来や町民に対してこの林を「御林」と呼ぶよう申し渡した。また、砂丘だった地の開墾にも力を尽くして耕地を増やすことに成功した。家来たちには、飛砂による被害を抑えるため、作物の作付から収穫までの間、見廻るよう指図した。

 

修就は、この開墾に、出精した町年寄の忠右衛門と平右衛門のそれぞれに褒美金を与え、普請方の丈左衛門には年寄格を申し渡した。附寄嶋については、名称を「流作場新田」と改め後に「新潟浜村之内」と肩書を付けることとにした。

 

誘五郎が庄屋、その倅の誘之助が見習となっていたのを改め、寄居白山外新田同様、新潟町年寄の久蔵の兼帯とした。「流作場新田」は元来島であったことから、度々、水害に襲われた。引化4年、3月には、雪代による出水があり、修就は自ら見廻りに出て被害状況を確認した。その時、百姓の善次郎から「欠込訴え」があり、修就は、その窮状を不憫に思い金200疋を与えた。

  

上知後も、修就を悩ます習慣が、新潟町やその近隣領地には根強く残っていた。その習慣というのは、贈物をすることにより便宜を図るものだ。

 村上藩からは、領内の川下米の手続きに対する返答の御礼として、時候見舞を兼ねた蝋燭を、30目掛1001箱を家来両名へ、修就へは100疋。それから、蝋燭70挺を組頭へ贈られた。この時、使者は、菓子を持参したが修就は受け取らなかった。また、別の日。村上藩から、寒中見舞として鮭塩引が送られて来た。村松藩の場合は、津出米の件を問い合わせて来た時、新潟奉行所の仲方掛3名へ300疋ずつ贈られた。また、村上藩と同様、川下米の件でも贈物を送って来た。高崎藩の場合も、収納米12500俵を、新潟へ川下げする際や寒中見舞の名目で家臣達に贈物を送って来た。会津藩の場合に限り、修就は、家用人2名に贈物を受け取らないよう命じた。贈物について伺書を提出することになっていたが、いつの間にか、事後報告という風な届書に成り代わってしまっていた。修就は、この事実に激怒して届出を提出した広間役を呼び出すと問い正した

 

「いつから、伺書ではなく届書を提出することになった? 」

  修就は、届書をその広間役につき返した。その後も、会津藩はこりずに贈物を送って来た。この時ばかりは、広間役の平田与左衛門も、修就に伺書を提出して指示を待った。

 

「受納してよろしい。向後も、斯様なことがあれば、組頭と相談の上伺書を提出せよ」

  修就は、平田の提出した伺書を読んだ上で判断した新潟奉行が、会津藩からの贈り物を拒否する姿勢を見せていることが、会津藩の耳にも入ったらしく、会津藩は、どんな場合でも、修就に直接送るのではなく、家用人や広間役へ送って来るようになった。

 

江戸から連れて来た家来たちの間にも、新潟の生活に慣れて、緊張感がどこかうすれて来たことを修就は懸念した。そこで、広間役や定役、組頭などを集めて、下役への指示は同役とよく相談し、奉行の意見を聞いた上で指示することや召捕者や止むを得ずお縄にした者の取り扱いは奉行の内意を確認してから取り計らうことを説き、個人だけの処置を戒め、慎重な取り扱いを促した。

 

 長岡藩領時代から、町民の惣代である検断が町政を取り仕切っていたこともあってか、役人と町人の垣根なく、上知後もなお、町役人が町人の家へ招かれ酒食を御馳走になったり、料理屋でもてなしを受けたりしているとの風聞があった。そこで、嘉永3年、修就は支配所内町人百姓から金銭を借りることを禁じると共に、町人が、町役人に接待することを厳しく取り締まらせた。また、市中定廻役や隠密廻役が、市中見廻りの際、町人に案内を頼む場合、「猥り」にならないよう弁当を家から持参し町家から出させないよう命じた。

 

修就は、着任後、物価に関する触れを5回出した。特に、米の値の高騰は直に町人の生活に影響を及ぼす。新潟湊を出入りする物資は、仲番所を通して行われているが、修就は取引量と金額を把握することに努め、特に米の相場についてくわしかった。

 

嘉永3年、86日。修就は、検断の松浦久兵衛、年寄の忠右衛門、平右衛門の3名に「米方取締掛」を命じた。そして、翌7日は、新潟湊からの津出米が多く窮民による騒動の気配があり、修就は、勤務を終えてから組頭と地方掛の家来たちを集めて対策について協議した。

 

修就は、協議を参考にして、小松屋喜兵衛ら3名を米方取締方に追加任命しその翌日には組頭、地方掛の家来たちと再協議した。また別の日。富裕な町人が、窮民を救うために、1725両を拠出しその内から、1600両を米方取締方に渡して米5009俵を買わせた。また、27日には、極難渋」の者に1人、10日分2升ずつ与えた。この年の初秋。町役人から値安米販売についての願いを聞き届けた。その後は、相場より30文安の198文に売らせることにした。米価の高値は、翌年の8月末になってようやく落ち着いたこともあり、津出米掛の増員を元に復した。

  

修就は、新潟の風土や風習を知るにつれて新潟独特の風俗に疑問を抱くようになった。第1に、湊町は全国各地に存在するが、新潟町のように遊女屋が1か所に集住しておらず、花街の外でも営業しているのは類を見ないということだ。

 

引化1年、6月。町会所の高札場に衣服についての触を出したにも関わらずいまだ徹底せず翌年の湊祭には、触に反した衣服を着た者があったという件で、掛りの町年寄に「慎」の処分を申し渡していた。

 

お奉行様。おそれながら、華美な着物や帯を身に着けていたのが町人だというのは、何かの間違いではござらんか? 」

  処分を言い渡された町年寄が再調査を訴えた。修就は、言い訳だとして聞き捨てようとも考えたが、念のため、家来たちに調査させた。数日後。町方定廻りの矢沢竹臓が、調査報告にやって来た。

 

やはり、町年寄の言い分通りでございました。新潟では、盆踊りには、遊女も参加するそうです。盆踊りの会場で、華美な着物や帯を身に着けた遊女たちを見た者が大勢おります。何であれば、証人を呼んで参りましょうか? 」

 

「うむ。証人を呼ぶには及ばない。おぬしの調査にて相分かった」

 

 修就は、一度、「慎」を申し渡した手前、撤回するわけにも行かず、家来たちを呼び集めると、風紀の取締まりを徹底するよう命じた。

 

「遊女屋について詳しく調査せよ」

  修就は、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が、奉行所へ御用聞きに来た時に呼び寄せて命じた。

 

「御意」

  若菜は町会所へ詰めると、早速、町方廻りたちを遊女屋の調査にあたらせた。23日で調査は終わり、若菜は、報告書にまとめて修就に提出した。

 

[若菜の報告書の内容]

新潟町には長岡藩領時代より、公娼、私娼共に存在している。これについては、他国では、有名な話で多少なりとも湊町の繁栄に繋がっているとは否めない。遊女は特に、花街以外を出歩くことを禁じられていないため、新潟町で行われる行事に参加することができる。また、遊女屋にいたっては、1か所に集住しておらず、「中道」と呼ばれる古町通四番町の西側の地域以外にも、遊女屋が、新潟湊付近に点在し営業している。中には、町人が住む町内で営業している私娼もおり、特に看板は掲げていないため、町人の家と区別がつかぬ遊女屋もある。

 お、新潟町では、私娼を後家と呼ぶが、夫に先立たれて止むを得ず成り下がったわけではない後家が大勢いることから、町人にも悪影響を及ぼし、何度、離縁しても、恥ずかしいと思わないおなごが多くいる。

 

「遊女が自由に町内を出歩き、町人の家と区別なく営業しているだと? どうりで、風紀を取り締ってもいっこうに改善せぬわけじゃ。ほうっておいたら、他所者が入り込む隙を作る原因になりかねない」

  修就は、怒りまかせに若菜の調査書を机の上にたたきつけた。

 

「お奉行様。調査に関する追加事項について報告に馳せ参じました」

  修就が、若菜から調査報告を受けているところに、町方定廻りの高野順蔵が、追加の調査書を手にやって来た。

 

「まだあるのか? 」

  修就は眉を上げると訊ねた。

 

「実は、遊女屋について調べている内にある事実につきあたりました」

  高野が顔を強張らせたので、修就は思わず、つばを飲み込んだ。

 

「前置きは良いから早く申せ。時間の無駄じゃ」

  若菜が声を荒げた。

 

高野は次のように報告した。

 新潟の若い娘の多くは、飯盛り女として、他国の道中筋の宿駅へ奉公に出される。飯盛り女というのは宿駅の女中とは違い、客から申し出があれば、春を売ることもある。それについて、娘を奉公に出した親はもちろん、町民の大半は恥とも思っていない。中には、生活苦でないにも関わらず、手柄顔で奉公に出す親もいる。

 

「お奉行様? 」

  若菜が、険しい表情で話を聞く修就を気遣った。

 

「何としても、悪しき風習を断ち切らねばならぬ。そうではないか? 」

  修就は、若菜を上目遣いで見ると強い口調で告げた。若菜は、おおげさに相槌を打った。修就は、まず、組頭と広間役に風紀粛正と町の治安維持について意見書を提出させることにした。同時に幕閣にも伺書を提出した。

 

意見書がすべて提出されたことを機に、修就は、組頭、広間役、この問題のまとめ役に任命した町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎を集めて評議した。

 

1番の問題は、遊女屋が、1か所に集住しておらぬということです。これについて意見のある方は申すが良い」

  若菜が、あらかじめ用意した議題を発表した。

 

「組頭を代表して申し上げます。町外れにある願随寺裏手の空き地に遊女町を設けて、これまで遊女を置いていた旅篭屋を移してはいかがですか? ついては、遊女を置かない10軒の旅篭屋の営業を許して、はっきりと、遊女屋と区別すれば、風紀や治安の取り締まりになると存じます」

  組頭の今川要助が発言した。

 

「なれど、遊女町を設けたとて、遊女が、遊女町以外へ出歩くことを禁じなければ、風紀の乱れを押さえることは叶わぬ」

  広間役の平田与左衛門に続いて、同役の内田勝次郎も発言した。

 

「遊女屋を1か所にまとめてしまえば、遊女稼業をやめる者も出て来て遊女稼業を許すという御上の仁慈が無駄になるかも知れぬ。それよりも、江戸、深川などのように家作や店を他の商家と違わせて、一目瞭然の構えにし、遊女の名称も、酌取女もしくは茶汲女と改めて風紀を乱さぬように教論した方が良いのではないか? もし、風紀を乱す者有れば処すればよろしい。さすれば、じきに風紀も改まる」

 

「両者の意見、しかと聞き入れた」

 

 若菜が告げた。若菜が、修就の傍に近寄り耳打ちすると、修就がうなずいた。

 

「願随寺裏手は砂地であり、とても家を建てられるような所ではない。なお、町に散在している遊女屋は、商人、旅人、船方、在方がそれぞれ利用しやすい所にある。この点からも、願随寺裏手は適地ではござらぬ」

  若菜の発言に、組頭衆や広間役たちは異論がある様子で釈然としない雰囲気になった。

 

「若菜殿の御意見はとくとお聞かせ願おう 」

  組頭の鈴木幸一郎が告げた。修就は咳払いした。

 

[若菜の提案]

 以前、御役所や役宅を作ろうとした馬嶋一帯に、遊女屋を設けるのが、最善の策である。そして、古町2、3、5、6之町、寺町2、3、5、4之町、ダッポン小路、熊谷小路、坂内小路、毘沙門嶋、龍照寺前に散在する遊女稼業の者すべてここに移す。馬嶋は、市中より離れていることから、風紀を乱す心配なし。取り締まりしやすい。町づくりは。公娼、私娼共遊女を人夫に雇い、その賃金は、遊女屋と廻船問屋が折半する。分散していた遊女屋が、馬嶋に集まれば評判となり、入船も増えて廻船問屋も利潤が上がる。したがって、廻船問屋は、快く賃金を出すだろう。遊女は、それを元手に商いをはじめることもできる。また、多額な金を費やして、奉行所と役宅を建てるよりも、願随寺や、龍照寺門前へ建てる方が極めて有利だ。その跡地には、一部町会所へ渡し、他は売却して、その代金を馬嶋へ移った者へ引越料として与えれば、御上の仁恵をありがたく思うだろう。

 

 若菜は自信満々に発言したが、若菜の意見は却下された。

 

幕閣からは、新潟の場合、廻船で湊へ入る船乗りが泊まるのだから、遊女屋は「廻船宿」または「泊茶屋」。遊女は「飯盛女」または「洗濯女」の名称に改め、着物など身に着けるものはすべて華美にならないよう取締まる策を立てるよう指示があった。

 

修就は、「飯盛女」は、風紀を退廃させる要因だと考えるに至った。そこで、「飯盛女」の対応について、同じく繁栄している湊町である浦賀の奉行所に照会した。浦賀の奉行所からの返答は、浦賀は、諸国廻船の船着き場であるからして、完全に遊女屋を一掃した場合、返って、弊害を生ずるおそれがある。それで、遊女屋は、5軒とし、1軒に10名の「洗濯女」と呼ばれる遊女を置くことを許しているという内容だった。

 

 引化元年、9月。修就は、遊女屋の営業を古町通と寺町通2之町から6之町にかけての地域と熊谷小路と毘沙門嶋に限り許可を出した。また、遊女屋と、遊女の名称を地域別に改めることとした。

 

古町通と寺町通では遊女屋を「泊茶屋」とし遊女を「茶汲女」とした。熊谷小路と毘沙門嶋では、遊女屋を「船宿」とし遊女を「洗濯女」とした。この地域以外で、営業している遊女屋は、翌年の3月までに許可地域へ移り許可地域内でも、これを機に、住居替えをするなどして、遊女屋は集住するよう通達した。このころ、「泊茶屋」136軒。「船宿」18軒が営業していた。さらに、修就は、私娼の取り締まりについて、新潟奉行所の地方掛に評議させて、幕府の盗賊方の八田五郎左衛門にも伺書を提出した。盗賊方の返答は、私娼を置く宿に行き召し捕えるべしとの内容だった。この内容に納得が行かなかった修就は、組頭と広間役たちに評議させた。召し捕っただけでは、ほとぼりが冷めたらまた横行してくるおそれがある。これは、頭の上を煩く飛んでいるはえを追い払うようなもので、取り締まりの策を立てるべきだとの結論に至った。この年の冬には、新潟町で、営業する遊女屋すべてが、公許地域へ引越が完了し、改めた名称も、定着しつつあった。

 

 翌年の正月。修就は、「為申聞候覚」を町人に触れ、なおいっそう、町の風紀更正をうながした。遊女屋の件は、ひとまず落着したがまだ、根本的な問題の解決には至っていなかった。そこで、修就は「六論衍義」を新潟町に与え風俗を改めるよう教論した。

 

「遊女屋の件は一応、落着をみたが、さらなる上は町民教化にある。町役人共よ。ことわざ臭い部屋に長くおると、臭さを感じなくなるというが、おぬしらも、新潟の悪習にいつの間にか染まり、町民指導を忘れてはならぬぞ」

 修就は、検断以下町役人たちを前にして啖呵を切った。

 

「悪習とは何のことですか? 」

  誰からともなく質問が返って来た。

 [修就の言い分]

 新潟においては、後家暮らしのおなごの独り者が多く、どうも、風紀を乱しておる。娘を嫁にやったり、婿を取ったりする場合、夫を何度も替えても平気とするのはおなごの貞心を失っておる証拠だ。人妻でありながら、ややもすれば、金銭の貯えさえあれば、おなごでも、自立できるなどという考えを持ち、敬わなければならない夫を軽視し離縁することも恥じとしない風潮がある。これらは、後家暮らしの悪習の影響である。町役人たるものは、こういった考えのおなごに対し教戒をくわえ、一家の主人をたてて家庭を整えさせるようせねばならぬ。

 

 修就は、持論を打ち出して検断以下、町役人たちを説き伏せた。

 

 また、町民に対して、町中男女衣服および菓子の触れを出し風紀の取り締まりを行うが、花街では相変わらず、派手で豪華な着物を着ている芸鼓の姿が見られた。

 

中秋の名月でもある同年915日。修就は、組頭や晋請掛りの家来たちを新居に招いて引っ越し祝いをやった。翌、1023日には、新しい牢屋が完成。寺町堀と鍛冶小路の角にあった牢屋も移転した。11月末には、三献茶屋御長屋が完成。これにて、新規建築に取り掛かった晋請はすべて完了したが、長岡藩から引き継いだ同心の役宅だけはそのまま使用しており、その改築もしなければならなかった。この晋請も、翌年の閏5月には完了した。

 

この晋請により、修就は、褒美として家慶公から時服2着を拝領。普請掛りの家来たちも褒美を下賜した。晋請請負人の市島次郎八へは、修就が、請負額の216732分余を下すことを申し渡した。

修就は、奉行所を新設するにあたりこだわったのは、新潟奉行所に勤務する役人たちの子弟の教育だ。引化2年。奉行所の敷地内に奉行所の役人の子弟を教育する「観光館」を設立した。元来、長岡には「崇徳館」という藩校はあるが、奉行所の役人となるべく教育を施す学校はこれまでなかった。

 

引化4年には、経学講釈所が、町会所内に設けられた。経学講釈所設立の目標は、町役人の教養と向上、儒教、精神による網紀粛正である。毎月、「観光館」から講師を派遣して、大学、中庸、論語、孟子の講義を行うこととなった。正月21日には、四書の素読などを終了した町民の子弟を寺子屋に集めて扇子を賞与する慣習ができた。

 

町政については、新潟町白山と長岡藩領寄居との間に地境について争いが起きたが、34日には落着し、老中の牧野備前守忠雄に報告した。37日。修就が、江戸から取り寄せた種を庭の花壇に撒いていた時、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が奉行屋敷へ馳せ参じた。

 

「お奉行様。小嶋殿の娘が、今朝方、息を引き取ったそうですよ」

 

「断を届け出てから、何日も経っておらぬではないか? 」

 

 修就は驚きを隠せなかった。町方掛差免の小嶋源右衛門の娘とは、何度か会って話したことがある。正月3日に川村家を訪れた際、源右衛門は、娘の病状が快復に向かっていると喜んでいたが、それは一時的な快復に過ぎなかったのだろう。娘を大切に育てていた源右衛門の哀しみを思うと胸が痛んだ。孫の庫が急死した時も、源右衛門は、自分の身内が亡くなったかのように葬式で号泣していた。

 

「源右衛門も、さぞかし辛いことじゃろ。気のすむまで休むようにと伝えよ」

 

「それがそうでもないようなのです。もう何も思い残すことはないと、葬儀を終え次第、すぐにでも復帰するつもりのようです」

 

 若菜は静かに告げた。修就は、「さようか」と大きくうなずいた。

 

 修就は、新潟奉行着任後、真っ先に検分を行い問題視された飛砂の被害や長年、新潟町が悩まされている信濃川の洪水に対応する晋請にも、本格的に取り組み始めた。去、23日。信濃川の出水で堤防が切れたこともあり、復旧と予防に力を入れることになった。また、川除と共に問題となっていた防砂の晋請も進められた。同年、312日。洲崎道新規砂除目論見の所と寄居裏の砂除取浚箇所の検分を行った。41日には、昨年の128日、修就が自ら杭出しの検分を行い関係絵図と書面を提出させた白山裏の工事が7分完成した。

 

引化4年、324日早朝。新潟において強い地震に襲われた。この地震は、世にいう善光寺地震と考えられる。新潟奉行所の被害については、行灯が倒れるほどではないが、池の水が67尺も打ち上げられた。修就は直ちに、町廻り掛の家来と町役人たちを呼び出し、火ノ元や入津している船のことなどを指図した。26日になると、信濃川の水が赤土を溶かしたように赤く濁った。さらに、29日には、信州善光寺や柏崎与板の被害状況が続々と伝えられた。修就自ら市中を視察したが、新潟町は、民家の屋根石が、道端に転げ落ちたり、汲んでおいた水がこぼれたりした程度で被害は最小限に留まった。

修就は、新潟赴任後、自ら各地へ検分や視察を行って来た。引化3年には、水原へ出向き水原代官の小笠原信助と対面した後、陣屋の中にある戦国の武将の杉原常陸介の墓を詣でた。


新潟町での日々、疱瘡から孫を守る

 修就は、好奇心旺盛で、興味を持った物事は自ら経験しなければ我慢できない質だ。寄居浜に出向いた時には、這縄をはかせて尾頭21寸五分もある大鯛を獲った。見聞するだけでは飽き足らず、マメに目にした出来事を反古紙の裏に書き綴る。新潟に赴任して以来、その書き綴った反古紙も書物になるくらいの量になった。

 

例えば、

 

  • 新潟の浜で、体長31寸なる大ヒラメが捕れたこと
  • 目方約400匁の大きな梨が収穫されたこと
  • 目方4800匁の大きな唐ナスが寺町堀の寺の畑になった
  • 目方3貫匁、体長32寸の大鮭が信濃川の鮭漁の網にかかった
  • 目方430匁の雄鳥の大物が捕れた

 

 

 

新潟町に留まらず、近隣の領地についても目を配る修就に、近隣の領主たちは次第に心を寄せるようになった。長男の順次郎もまた、修就を真似て見聞きした出来事を書き留めるようになった。ある日の朝。修就が、身支度を整えていると、順次郎がやって来て、反古紙をわざと修就の足元に落として行った。修就はそれを何気なく拾い上げた。反古紙には「数え年、3歳だが、見た目は、6歳。体重は、67貫。片原下ノ町、塩屋七の娘、なを」と記されていた。早速、順次郎の情報は、修就の反古紙に書き写された。

 

 思えば、江戸で選任され新潟へ赴いた修就の家来たちは、組頭2名、広間役6名。定役20名。並役30名。そして、足軽20名という大所帯であり、妻帯者は、家族を連れて新潟へ赴いた。故郷を離れた遠国で、共に過ごす時間の長い家来たちはもはや、修就にとっては家族同然の存在だ。修就をはじめ家来たちの暮らしは決して楽ではなく、家来たちの中には、江戸へ出張する旅費を修就から建て替えてもらった者もいた。修就は、家来一統に対して倹約を徹底させて来たが、やむを得ず、町人から金を借りる家来もいて、町人から金を借りることを禁ずる通達を出して戒めた。家来たちの間では、在勤1年から2年の間の短い期間で諸事情により新潟を去る者もいれば、その後任として江戸から赴任して来る者もいる。

 

並役の高野大助は、勤務上のことで品々不宣事共があり「慎」を言い渡された後に、老中牧野備前守の申し渡しにより、在勤年数僅か1年と1ヶ月で江戸へ帰った。組頭の成瀬又太郎の場合は、在勤年数1年と1ヶ月にて御用召になり、家族を連れて新潟を去り御勘定組頭に任用された。成瀬の後任には、江戸において小晋請方改役であった今川要作が任命された。組頭の関源之進については、嘉永元年、7月。御料所の代官として御用召になるが、病気のため江戸出立を延期していたところに、養母が病死し35日後出立する届けを出したが、依然、自らの病状が快復しないため、修就は、次男の庄五郎の舅にあたる荒井甚之丞に頼んで、老中伊勢守に内々に後歎申上げ、伊勢守からは今後50日経っても出立できない場合は、再度、指示を仰ぐように差図があった。しかし、11月になると、関は、病状もだいぶ快復したので江戸へ立った。関は、病気がちである事を理由に、勘定奉行の計らいにより御裏御門之頭に任用された。関の後任には、江戸において御勘定評定所留役であった三橋貫之進が着任した。また、定役の深谷一郎と並役の小島安次郎が、在勤2年余で新潟を去った。また、家来たちの中には、新潟でその生涯を終える者もいた。御武器掛兼地方公事方書物方の増淵清三郎や組頭の近藤鉄平は危篤に陥った末病死した。

 

並役の北島三右衛門が他界し折は「病気重体ニ付枕替(葬式)之儀」を組頭から伝えられ、北嶋の家族と修就は、早速、幕閣へ三右衛門の「隠居願」とその忰の吉之丞への「家督相続願」を出した。8月になり、幕閣は隠居と家督相続を認め、惣領息子の吉之丞を父と同様の並役に召し抱える通達が届いた。並役の小暮賢三郎の場合は、家族を巻き込んだ悲劇に見舞われた。小暮は、妻子を連れて新潟に赴任し新潟で、息子が、また1人産まれた。しかし、小暮は妻と3人の息子を残して病死した。惣領息子の鉡之助が、家督を相続し父に代わって並役に抱えられたが、小暮の妻であり鉡之助の母かつは、若くして早くに、夫の死や病気の忰、鉡之助のことを思い悩んだ末、わずか5歳になる末子の金閏之助を道連れに自殺してしまった。その後、家督を継いだ鉡之助は、病死したのか重病に陥ったのか定かではないが、長谷川房之丞を鉡之助の養子とした。房之丞は、鉡之助に代わって召し抱えられた後、修就は、鉡之助の病死届けを出した。

 

修就は、老母、コノと惣領息子の庄五郎家族を残して、妻の滝、長男の順次郎家族、4男の次郎吉、5男の茂之丞、娘のテイを伴い新潟に赴任した。庄五郎については、引化2年に起きた江戸城本丸炎上の際、良き働きをしたとして褒美を賜り、妻のたまとの間に13女に恵まれるが、初子の長女を生後間もなく失っていた。修就が、新潟に赴任する前に、御書院番の松井斧太郎に嫁いでいた長女のお琴は、母の滝が、新潟と離れていることから、滝の実家である宮重家で男子を出産するが、産後が悪く手当のかいもなく死去した。

 

この訃報が届いた後、お琴の娘、お銀までもがわずか10歳にして病死したことから、修就夫妻は身を引きちぎられるような思いを味わった。一方、新潟に連れて来た妻の滝、長男の順次郎、順次郎の妻、みきの3名は新潟在中に病を患った。滝は、引化2年に瘧を煩い、その後も体調は安定せず、順次郎もまた脚気を患い、2人揃って療養のため出府する許しを得るが、お滝の方はその後も、出府できずに嘉永3年になりやっと出府した。順次郎の妻、みきは、引化4年、5月に崩漏気味になるが、その後、快復をみせ、嘉永4年、正月3日に娘を産んだ。次女のテイは、嘉永5年、10月。金田栄之助に嫁いだ。4男の金四郎は、引化1年、12月に次郎吉と改名した。そして修就と同じ御庭番の家筋である和田多次太夫の孫養子に縁組が決まり、小十人格天守台下御番に取り立てられた。嘉永元年には、和田家の家督を継ぎ同3年には娘も生まれた。その2年後、御庭番の仕事である「内々御用」の見習を始めた。5男の茂之丞は、嘉永2年、11月に元服し修達と名乗った。

 

嘉永元年、1月。修就は、新潟町の経営も安定し御取筒筋(微税)も増して格尽に尽力したということで、幕府から金2枚、時服2つを拝領した。また、組頭以下並役までにもそれぞれ褒美を賜った。

 

それから、2年後。新規に御料所(幕領)になった新潟町は、永世之御規則も立ち湊町の経営も安定して来たとして、修就は「諸太夫」に任じられ、対馬守を名乗ることとなった。長男の順次郎は、新潟在任中、本妻や妾との間に4人の子宝に恵まれたが、その内の3人を亡くした。幼くして早逝した孫たちの中でも、引化2年に生まれた順次郎の息子の越橘は、嘉永3年、2月、疱瘡を患いわずか6才にしてその短い生涯を終えた。疱瘡は、子供の死因の上位に位置していることもあって、幼い子供が、疱瘡から治癒すると丈夫に育つとされ酒湯掛祝いをする風習がある。順次郎の子供たちは、修就夫妻にとって、目の中に入れても痛くない愛しい存在であり、ひとつ屋根の下で同居している身近な家族でもある。

順次郎と妾のツヤとの間に生まれた娘の亀が疱瘡を患い、嘉永3年、正月17日に死去して2か月も満たない内に、同じく、順次郎と妾のツヤとの間に生まれた息子の越橘までもが疱瘡を患い死去したのだ。相次いで、2人の幼子が、疱瘡により亡くなるという悲劇は、修就の心に深く刻まれた。2人の死から1年が過ぎたころ、順次郎と本妻のみきとの間に娘が誕生した。修就は(ぬい)と命名した。

 

嘉永2年の2月。修就の友人である西丸御留守番居の筒井肥前守政憲から手紙が届いた。

 

「おい、滝。ちょっと来てくれ」

  修就は、手紙を読み終えるとすぐ庭に出ていた滝を大声で呼んだ。滝はあわてて屋敷の中に戻ると、修就の待つ寝所へ足早に向かった。

 

「滝です」

  滝は、障子の前に坐ると中へ声を掛けた。障子が開いた瞬間、障子のすぐ後ろに坐っていた順次郎がふり返り見た。順次郎は相変わらず、青白い顔色だったが、頬だけほのかな桜色に色づいてみえた。

 

「おまえさま。もしや、熱があるのではないですか? 」

  滝は、順次郎の横に腰を降ろすと順次郎の顔を心配そうにのぞき込んだ。

 

「順次郎。もし、辛かったら戻って良いぞ」

  修就が告げると、順次郎は首を横に振った。順次郎は、持病の若年性リウマチに加えて脚気を患っていた。新潟に来たばかりのころは、修就について砲術の稽古をしていたが、最近は、寝たり起きたりをくり返していた。

 

「順次郎さんまでお呼びになって、何かあったのですか? 」

  滝が身を乗り出して訊ねた。

 

「筒井殿から塩引き鮭の令状が届いた。牛痘を植える者は免れるとの風聞が江戸で広まり、年明けから、疱瘡が流行った故、ものの試しに孫に植えさせたら、疱瘡にかからなかったと書いてある。孫を疱瘡で2度も失ったが、もし、この牛痘を手に入れていれば免れたかも知れぬ」

  修就は、滝に筒井から届いた手紙を差し出した。

 

「朗報ですね」

  滝が微笑んだ。

 

「しかりその通りじゃ」

  修就は、早速、江戸から牛痘に関する史料を取り寄せた。

 

 江戸の留守宅から届けられた史料を読んだ修就は、新たな希望を見出した。史料によれば、嘉永2年に日本初の牛痘による種痘が行われた。行ったのは長崎の阿蘭陀商館医であり、インドネシアのバタビアから疱瘡にかかった牛のかさぶたを取り寄せてそのかさぶたを用いて、長崎初の種痘を行ったという。その後、江戸、大坂、福井でも種痘が行われた。江戸で種痘に携わった医師の1人が、越後新発田藩の出身だという。修就は、憎き疱瘡が、孫の命を奪うのを防ぐ策があるということが分かり、うれしさのあまり涙が出た。

 それから数日後の昼下がり。散歩に出ていた順次郎が急いで帰宅した。

 

「おまえさま。走っても大丈夫なのですか? 」

  玄関で出迎えた滝の驚きの声が、庭にいた修就の耳にも届いた。修就は、元服して、いちだんとたくましくなった五男の修達(茂之丞)に剣術の稽古をつけていた。

 

「父上。一大事でございます」

  順次郎が、縁側から庭へ飛び降りると修就に駆け寄った。持病に加えて脚気を患っていたことを忘れさせるその身軽な身のこなしに修就たちは驚かされた。

 

「何かあったのか? 」

  修就が、息をはずませている順次郎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「兄上。とにもかくにもお坐りくだされ」

  修達にうながされて、順次郎は、縁側にどっかりと腰を降ろした。

 

「散歩の途中、北山浄光寺の近くを通りかかった折、境内に長蛇の列ができておりました。列に並んでいた町人から種痘を受けるために並んでいると聞いて急ぎ戻った次第」

  順次郎が青白い顔で答えた。

 

「ただいま帰りました」

  玄関の方から、縫を抱き近所へ散歩に出掛けていた順次郎の本妻のみきの声が聞こえた。

 

「くわしい話はみきにお訊ね下され。わしは、失礼して寝所で休むことにします」

  順次郎は、ふらつきながら立ち上がると寝所へ向かってよろよろと歩いて行った。順次郎と入れ替わりにみきが姿を見せた。縫は、みきの背中におんぶされて気持ちよさそうに眠っていた。

 

「お帰り。親子3人で散歩をして来たのか? 」

  修就は、縁側に上がると縫の寝顔をのぞき込みながらみきに訊ねた。

 

「さようです。体調が良さそうでしたので、散歩にお誘い致したのですが、先にお戻りになられてしまいまして。順次郎様は、無事に、お戻りになられましたか? 」

  みきが、縫を背中から降ろすと言った。

 

「散歩の途中、妻子を残して1人で先に帰るとは、兄上は、よっぽど、あわてていたのでしょうよ」

  修達が、目を覚ました縫をあやしながら言った。

 

「赤子の世話だけでも大変だというのに、病の亭主までついてきてめいわくだったのではないかい? 」

  滝が、お茶と茶菓子を運んで来るとみきに優しい言葉をかけた。

 

「とんでもございません。久しぶりに、一緒に散歩することができて楽しかったです」

  みきが穏やかに言った。

 

「みき。しばらく、夕餉の仕度の手伝いをしなくて良いですからね。疲れたでしょう? 縫を寝かせている間に、湯屋にでも行ってらっしゃい」

  滝が気前良く言った。

 

「順次郎様は今、どちらに? 」

  みきが落ち着かない様子で訊ねた。

 

「順次郎は寝所で休んでいます」

  滝が穏やかに答えた。

 

「御免つかまつります」

  医師の加藤道逸の声が庭の方から聞こえたので、滝があわてて、立ち上がった。

 

「順次郎殿の様子を見に参りました」

  加藤が滝に会釈すると言った。

 

「加藤先生。実は、順次郎が、散歩から帰った後に体調を崩しまして」

  滝が、事情を話しながら加藤を順次郎の寝所へ連れて行った。

 

「庭から入るとは不作法でござるな」

  修達が、羊羹を口に入れたまま言った。

 

「おぬしも、他人のことを言えた口かのう。食べ物を口の中に残したまま話すとは不作法じゃ」

  修就が厳しい口調でとがめた。

 

「近所へ出掛けて参ります」

  修達がそそくさと、屋敷を後にした。修就と2人残されたみきは、縫の方に向き直った。

 

「みき。ありがとう」

  修就が穏やかに告げた。

 

「お義父上。何故、私に、お礼なんぞおっしゃるのですか? 」

  みきがけげんな表情で訊ねた。

 

「順次郎は、自分に尽くしてきた女房を裏切り妾を作った。あいつの父として、申し訳ないきもちでいっぱいじゃ」

  修就がため息まじりに言った。

 

「お義父上。私は決して、ツヤが、順次郎様のお子を3人産んだことをうらんではいません。むしろ、感謝しております。子が1人もおらぬというのも、順次郎様が、お気の毒だと思っておりました。ツヤが、子を宿したと知った時は、まことに、うれししゅうございました」

  みきが、縫を愛し気に抱き上げると言った。

 

「ならば良いのじゃ。そなたが、白山神社にしばらく通っていたと聞いたものでな。子宝祈願でもしていたのかと思ったわけじゃ」

  修就が、縫に微笑みかけると言った。

 

「それは、江戸で疱瘡が流行っていると聞きました故、子供たちが、疱瘡にかからぬよう祈っていたのです。なれど、それも無駄なことでしたね。お亀も越橘も、可愛い盛りに逝ってしまって。子をもってはじめて、子を失った時の母の苦しみが分かった気がします」

  みきがしみじみと言った。

 

「順次郎のやつ。何故、北山浄光寺へ立ち寄ったのじゃ? 」

  修就は、縫をみきの腕の中から引き取ると訊ねた。縫は、修就の顔をつぶらな瞳で見上げている。

 

「それが、北山浄光寺の門の前を通りかかったところ、種痘と書かれた幟があがっているのが見えまして。その幟を見つけると、順次郎様が、境内の方へ走って行かれました。少しして、門の前で、縫を寝かしつけながら待っていましたら戻って来て、縫に種痘を受けさせれば疱瘡にかからないと、大声でおっしゃっておられました」

 

 

「種痘の免状を持つ医師が、新潟にもおるという話はまことでござったか」

  修就は、縫をみきに手渡すといきおい良く立ち上がった・

 

「今からどちらへ参られますか? 」

  修就が廊下に飛び出すと、ちょうど、滝が前から歩いて来た。

 

「北山浄光寺へ参る。調査致さねばならぬ用件が出来たのじゃ」

  修就が答えると、滝の背後から、順次郎の診察を終えて帰るところだった加藤が顔を出した。

 

「北山浄光寺に住んでいる医者のことなら知っていますよ。たしか、その医師は、赤柴誠斎という名で、その医院は、いつも種痘を受ける子連れで混んでいます。ふつうは12か月待ちのところですが、わしが、順番を早くしてもらえるよう掛け合ってみましょう」

  加藤が気前良く言った。

 

「よしなに頼む」

  修就は深々と頭を下げた。

 

 それから1週間後、みきが、縫を連れて北山浄光寺へ出掛けた。修就が帰宅すると、縫はご機嫌斜めだった。

 

「いかがであった? 」

  夕餉の時、修就がみきに訊ねた。実は、修就は、縫の種痘のことが片時も頭から離れず市中廻りの帰りに、北山浄光寺の門まで行き、中の様子をうかがったのだった。みきと縫は、その時にはもう帰宅した後でいなかったが、門を出て行く母子とすれ違った時、母に手を繋がれた幼子が、泣きべそをかいていたので心配していた。

 

「はい、お蔭様で、無事、種痘を受けさせることができました。ありがとうございます」

  みきが深々と頭を下げた。

 

「父上。縫は、種痘を受けている間、泣かずにおったそうですよ。母親に似て、辛抱強い子ですよ」

  順次郎が微笑んだ。

 

「さもあろう」

  修就が満足気にうなずいた。

 

「帰って来た途端、大泣きして大変でしたけどよく辛抱しましたよ」

  滝が告げた。

 

「縫ちゃんは、これで疱瘡にかかりませんね」

  少し離れた場所で、娘のテイが告げた。縫は、テイに遊んでもらい機嫌を直したようだ。あどけない笑顔でお手玉を投げていた。

 


新潟を去った後の話

 嘉永5年、713日。77日付の「御用召状」が届いた。その後間もなく、修就は江戸に召し出されて、取り急ぎ、出府準備に取りかかり18日には新潟を出立した。会津路を経て宇都宮に出た後、29日に江戸へ着いた。修就は、江戸に着いたその足で江戸城に登城した。それから、参着を報告し老中の問い合わせに「新潟表、市郷井近国迄」替りないことを答えて、勘定奉行など各所へ帰府のあいさつを済ませた。

 

 その夜。修就は、老母のコノと庄五郎家族に再会した。コノは、相変わらず腰痛に悩まされているようだが曾孫を可愛がっていた。庄五郎の妻のたまは、育児と家事に追われていたが幸せそうにみえた。

 江戸を離れる折しも、水野様が罷免されるなど政変が起きた。江戸へ召出される折に何事もないよう願ったが、幸い、江戸はいたって平和じゃ。日常茶飯事、色々な事件が起きる度、家来たちを集めては評議を重ねた新潟での日々が懐かしい」

 修就が遠い目をして言った。修就は、庄五郎と親子水いらず久しぶりに酒を酌み交わした。庄五郎は、待望の嫡男が産まれて父親としての貫禄がついたようにみえた。庄五郎は、修就が新潟赴任中は跡継ぎとして本家を守り、御庭番として真面目に勤仕している。

 

「倅には、庄五郎と名付けました故、それがしは、清兵衛を名乗らせて頂きます」

  庄五郎は深々と頭を下げた。修就は、自分の若いころに似た精悍な顔立ちの旗本を誇らし気に見つめた。滝は、瘧を煩い、一時は家事も出来ない程に体調を崩したが、江戸に帰宅後、徐々に、元気を取り戻した。今では、娘のテイの花嫁修業といい家事をつきっきりで教えている。テイは、金田栄之助との婚儀が決まり落ち着かない様子だ。台所に、並んで立つ母子の後ろ姿をしばらく見られないと思うと、修就は何だか寂しかった。

 

 江戸城登城の折、明日改めて登城するようにとの御用召状が届き、翌日、堺奉行を拝命した。修就は、81日から堺奉行の見習に入った。同じころ、新潟に置いていた家財道具などの荷物を堺の役宅へ運ぶ荷物と江戸の居屋敷に運ぶ荷物とで2手に分けるが、どちらも西廻り航路で運ばせた。堺送りの荷物は、食器類、膳類、火鉢、鳥籠など16個になった。江戸送りの荷物は、硝石、火薬類、合図玉、馬上筒など新潟でも活用した武具類など15個になった。

 

1027日。江戸を出立。江戸から堺までの道程を進む5、6万石の大名格式の行列は堂々たるものだった。江戸を出た後、東海道を上り、箱根の山を越えて1112日。大津に到着した。翌日、京都司代へ行きその次の日、堺へ着任した。

 その後、大坂町奉行、長崎奉行、小晋請奉行、西丸御留守番役、大坂町奉行再任、西丸御留守居役再任。堺赴任時は、自白せず満5年余り女犯の罪で投獄されていた法華宗の僧侶を名口説きにより、見事、自白させたり、荒れ放題だった仁徳天皇陵を修復させたり堺町民から高評価された。大坂赴任時は、大坂奉行を介して、幕府に通商を求めるロシアのプチャーチン提督率いる軍艦「ディアナ号」を、万全の海防を期して粘り強い交渉を重ねた末に追い払うことに成功した。長崎赴任時は、日蘭和親条約の調印に立ち会った。

 

 元治元年、70歳にして御役御免となり、慶応3年、家督を惣領息子の清兵衛(庄五郎)に譲り、自らは隠居した。修就が現役を引退した慶応3年、1014日。慶喜公が自ら大政奉還を行った。

 

 そのころ、江戸から遠く離れた越後新潟町では、新潟奉行所に外国奉行並の糟屋義明が現れた。慶応元年より、白石千別が新潟奉行を務めていたが、糟屋は現職に就いたまま新潟奉行を兼務する形で、白石と共同で新潟を治めて行くことになった。この時、糟屋は、外国奉行の調役1名、定役1名、定役並1名そして新潟と佐渡併せて8名の英語通訳を幕府に願い出た。

 

  大政奉還と同時期、英国公使のハリー・パークスが、新潟湊を佐渡の夷湊を補助湊とすることを条件に開港場とすることに同意した。英国が、新潟湊の開港に同意したことを機に、新たに、新潟奉行に着任した両名は、開港後に訪れるだろう異国人への対応を見据えて施策を実行に移した。しかし、戊辰戦争が勃発したため実現しなかった。

 戊辰戦争の間も、新潟開港に向けて準備は進行していたが、終に、翌年の61日。新潟沖に、薩摩の乾行丸と長州の丁卯丸が入津して、新潟を防備していた米沢と会津の東北同盟軍とが激突した。戦火の中、会津藩は、幕府から蒲原郡の幕府領を預けられたということを根拠に、新潟奉行所に対して新潟町の支配権を引き渡すことを要求した。新潟奉行所や新潟町民は、会津の進駐軍が乱暴な振る舞いをしていたことから、会津藩が新潟町と新潟湊を治めることを拒否した。そのため、新潟において、砲兵差図役頭取と、新潟奉行所の組頭を務めていた田中廉太郎は、米沢藩に新潟町と新潟湊の支配を委任した。米沢藩支配となった新潟では、新潟奉行所が消滅し、米沢藩に会津藩、仙台藩、庄内藩が加わり新潟湊を管理することになった。

 

 戊辰戦争勃発により、正式には開港していなかった新潟だが、開港期日を過ぎたことを理由に、プロシア人やイタリア人など外国人の姿が新潟町でも見られるようになった。

 

修就が、新潟奉行着任当時、唐物抜荷が摘発されたが、最近になって、越後の海岸にて、異国人が密貿易を行っているとの風聞が江戸にも伝わった。新政府は、戦争中のため異国人の安全は保障できないので、開港延期を諸国へ通達した。

 

 江戸の屋敷で隠居生活を営んでいた修就の元に新潟から手紙が届いた。修就に手紙を書いたのは、新潟奉行所を辞職して同じく隠居の身にあった松浦久兵衛だった。2人は、身分の垣根を越えて、修就が新潟を離れた後も、時候見舞を贈り合う仲だった。

 

「滝。戦で新潟湊の開港が延期になっただけでなく、新潟町も米沢藩領となり、奉行所は閉鎖されたそうじゃ」

  修就は、縁側で滝と2人お茶をすすっていた。

 

「奉行所の閉鎖を目の当たりにして、松浦殿もさぞかし、気を落としていることでしょうよ」

  滝が静かに告げた。

 

「いんにゃ、それが違うのじゃ。松浦は、気を落としているどころか、開港準備に担ぎ込まれて、毎日、忙しくしているそうじゃ」

  修就は、隠居して居屋敷にくすぶっている自身に嫌気がさしていたので、松浦の活躍を知り、自分も何かまた、新しいことに挑戦したいきもちがわき起こった。

 

「開港準備ですか? 復興でそれどころではないと存じます」

  滝がけげんな表情で言った。

 

「この手紙が書かれたのは8月ごろじゃ。今は9月下旬。敗戦後、新潟を占領していた新政府軍も引き上げ、新政府軍が設けた越後府が廃止されて、新たに新潟府が設けられたらしい」

  修就は、表舞台から去った後もなお、日本の行く末に関心を持ち続けていた。隠居を目前に造らせた書斎には、新潟赴任時に、新潟神明の神主で画家の才もあった行田和泉(魁庵)に描かせた肖像画を飾った。机に向かう度、肖像画を描かせた当時の自分に見守られている気がした。

 

 「義父上。縫を見かけませんでしたか? 」

  その日の昼下がり。修就が書斎に籠もっていると、順次郎の妻のみきが、血相を変えて駆け込んで来た。

 

「縫なら、帰ったと思ったら、また、出掛けたぞ」

  修就は、読みかけの書物を閉じると答えた。

 

「それはまことの話ですか? 」

  みきが肩を落とし訊ねた。

 

「みき。買物に出掛ける故、留守を頼みますよ」

  そこへ、滝がやって来た。

 

「義母上。縫がまた、お稽古をさぼったようなのです」

  みきが滝に言った。

 

「親の希望を子に押しつけても無駄ですよ。いいかげん、あきらめなさい」

  滝がみきをとがめた。

 

「縫を捜しに行って来ます。義父上。もし、縫が帰ったら、お師匠さんの元へ行くよう伝えてください」

  みきは、滝が止めるのをふり切り外へ飛び出して行った。

 

「殿。私も買い物へ出掛けて来ますよ」

  滝が修就に言った。

 

「留守番なら慣れておる」

  修就は、ずれた眼鏡を直すと言った。みきの後に、滝が出掛けてしばらくして、玄関の戸が開く音が聞こえた。

 

「ごめんなせ―」

  修就は、大声に驚き飛び起きた。あわてて、玄関先まで駆けつけると、白髪の老人が、背を向けて草履を脱いでいるところだった。

 

「どなたですか? 」

  修就は、おそるおそる老人の背中をつついた。

 

「あっきゃあ、お奉行様」

  その老人がふり返った。だいぶ老けたが、その顔に見覚えがあった。

 

「松浦久兵衛!何故、おぬしがここにおる? 」

  修就は思わず、大声を上げた。

 

「突然、うかがってすいません。急に東京行きが決まった故、連絡する間もなかったもので」

  松浦久兵衛が決り悪そうに言った。

 

「元気そうで何より。まことにおぬしなのだな? 」

  修就は、松浦を招き入れると訊ねた。

 

「はあ。お奉行様もお元気そうで良かった」

  松浦がにこにこしながら言った。

 

 2人は、客間に向かい合った。お互い年を取ったという話からはじまり修就が新潟に赴任していた当時のことや家族のことなど昔話に花咲かせた。

 

「そーいえば、ばっか、静かですね。お奉行様、おひとりで住んでいなさるのですか? 」

  しばらくして、松浦は、家族が誰もあいさつに顔を出さないことに気づきソワソワし出した。もしかしたら居ても出て来ない。自分は招かざる客なのかと心配になったらしい。修就は客間に案内した後、松浦が話しかけて来たのでお茶を出す機会を逃して、2人は茶も飲まずに、2時間近く話し込んでいたのだ。

 

「出掛けているだけでじき戻る。そろっと、妻が買い物から帰っても良いころなのじゃが。見て参るとするか」

  修就がさり気なく立ち上がった。様子を見に行くのを口実にお茶を用意しようというわけだ。

 

「いぎしなに寄っただけ故、そろっと、けえります。どうぞおかまいなく」

  松浦がそそくさと帰り支度をはじめた。

 

 修就が帰ろうとする松浦を玄関先で引き止めているところへ、滝が、縫と共に帰宅した。縫は、松浦に会釈すると屋敷の中に入った。

 

「いったい、どこまで、買い物に出掛けていたのじゃ? 」

  修就は思わず、声を荒げた。普段なら、1時間程で帰って来るはずなのに、今日に限って、3時間も留守にしていたからだ。

 

「あらまあ。誰かと思ったら、新潟の松浦殿ではございませんか? 」

  滝が明るい声で言った。

 

「そうじゃ。せっかく、遠い所から来てくれたというのに、そなたがおらなかった故、何のおもてなしもできなかった」

  修就は、滝が無視したので口をとがらせた。

 年を取るにつれだんだん、気難しくなって来た修就は隠居して以来、口細かくなったこともあり、滝も、聞き流すことが多くなっていた。茶葉や菓子がどこにあるのかわからないし、お茶の淹れ方も分からない。妻なしでは客をもてなすことすらできないのだ。

 

「オレなんかのために、いさかいはおやめ下され」

  松浦があわてて2人の間に入った。

 

「松浦。見苦しいところをみせてしまったのう。仕切り直しに一杯やらないか? 」

  修就は、盃で酒を呑む仕草をしてみせた。

 

「それならば酒のご用意致します」

  滝が告げた。

 

「このあと、約束がある故、けえります」

  松浦は颯爽と屋敷を後にした。修就と滝は、松浦の姿が見えなくなるまで見送った。

 

「忙しないお方ですね。久方ぶりに参られたと思えば、風のようにお帰りになってしまった」

  玄関に入ろうとした時、滝が言った。

 

「新政府の役人と英国領事が新潟に来ることが決まり、新潟府の使者の1人として打合せを行うため東京に出張したと申していたが、出張の合間を縫って、わざわざ、あいさつに参ったのじゃろ。義理堅い男じゃ」

  修就は、松浦の生き生きとした姿を見せつけられた気がした。同じ隠居の身であったはずなのに、松浦は、新潟府に求められて重要な役目を仰せつかった。比べて、自分は、あれだけの輝かしい実績がありながら、隠居後はどこからもお呼びがかからない。あまりに暇を持て余していたので、家督を継いだ清兵衛から、滝と夫婦水入らずで旅にでも出たらいかがですかと気遣われる始末だ。

 

 それから数日後。修就は、朝早く出掛けて夕方に帰宅するようになった。修就が、どこに行き何をしているのかは誰も聞かなかった。それぞれの生活で忙しく、御隠居の行動をいちいち詮索する余裕がなかったからだ。それでも、妻の滝だけは、修就の変化に薄々気づいていた。

 

「殿。何を考えておられますか? 」

  ある日。滝は、思い余って、いつものように出掛けようとする修就を引き留めた。

 

「大事ない。ただ、夢を形にするだけじゃ」

  修就は、穏やかに告げると出掛けて行った。

 

  慶応4年、97日。新政府は、年号を明治と改めると同時に、江戸を東京と改める。特命全権公使のハリー・パークスは、英国臣民へ、これまで治安悪化のため、新潟開港が暫時延期されている旨を報知していたが、来たる11日をもって、新潟が英国との交易に対して開放される旨を通知した。新潟初代領事には、大坂や兵庫の領事代理を務めているフレデリック・ラウダーが任命された。

  その後、ラウダー一行は、東京都別手組に厳重警護されながら陸路にて新潟へ向かった。一方、新潟開港事務を行うため、外国官権判事の三沢揆一郎と水野千波も江戸を出立した。しかし、ラウダー一行が新潟に到着した時、廃止された越後府が未だ、新潟を統轄している状態にして越後府の知事を称する四条隆平は長岡におり、新潟府の知事に任命された西園寺公望も就任を固辞したまま新発田に滞在していた。

 

 ラウダー一行を出迎える新潟府の役人たちの中に、松浦久兵衛の姿はなかった。この時、松浦は、倅の金次郎と共に英国領事館の候補地を廻り大家と交渉を重ねていた。新潟は他の開港場と異なり、異国人は、新潟市内どこでも家や店を借りて住むことができることにはなっていたが、ほとんどの大家は、前例がないことを理由に異国人に貸し渋った。とりあえず、勝楽寺を間借りすることになり、ラウダー一行は勝楽寺へ移った。

 

同じころ、東京の法眼坂の居屋敷の縁側にて、薬の調合を試みる老人の姿があった。修就は、松浦の頑張りに刺激を受けて、長年の夢だった薬屋開店に向けて準備を進めていた。店舗も見つかり後は、来年の開店を待ちわびていた。新しい店は「知春園」と命名した。代々、川村家に受け継がれた「五神錠」を大々的に売り出す予定だ。

 

「そろそろ、新潟に着いたころですかね」

  修就が、縁側に坐りぼんやりと空を眺めていた時、順次郎がふいに、空の鳥籠を手に現れた。順次郎は、江戸に戻った後すぐ、鳩を飼い始めた。

 

順次郎が、あらかじめ足に手紙を結び付けたその鳩は、順次郎の合図で開け放たれた鳥籠から空へ飛び立つとしばらく帰らず、数日後、いつの間にか鳥籠に帰って来ていることがある。

 

新潟では、勝楽寺を出て歩き出した松浦久兵衛の目の前を1羽の鳩が急降下した。松浦は、慣れた手つきで鳩を抱き上げると足に結び付けてあった手紙に気づき、笑みを浮かべて空を見上げた。今日もまた東京と新潟。遠く離れた場所で、新しい歴史が刻まれようとしている。遠く離れた場所で、同じ空の下、修就と松浦は、互いのことを思い出して懐かしんだ。松浦が手紙を外すと、順次郎の鳩は、遠い空へと飛び立った。

 

 

 


奥付



【2019-01-31】新潟湊の夜明け~新潟上知編


http://p.booklog.jp/book/125570


著者 : きの しゆう
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/dy6m9cnik/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/125570



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト




この本の内容は以上です。


読者登録

きのしゆうさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について