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新潟町での日々、疱瘡から孫を守る

 修就は、好奇心旺盛で、興味を持った物事は自ら経験しなければ我慢できない質だ。寄居浜に出向いた時には、這縄をはかせて尾頭21寸五分もある大鯛を獲った。見聞するだけでは飽き足らず、マメに目にした出来事を反古紙の裏に書き綴る。新潟に赴任して以来、その書き綴った反古紙も書物になるくらいの量になった。

 

例えば、

 

  • 新潟の浜で、体長31寸なる大ヒラメが捕れたこと
  • 目方約400匁の大きな梨が収穫されたこと
  • 目方4800匁の大きな唐ナスが寺町堀の寺の畑になった
  • 目方3貫匁、体長32寸の大鮭が信濃川の鮭漁の網にかかった
  • 目方430匁の雄鳥の大物が捕れた

 

 

 

新潟町に留まらず、近隣の領地についても目を配る修就に、近隣の領主たちは次第に心を寄せるようになった。長男の順次郎もまた、修就を真似て見聞きした出来事を書き留めるようになった。ある日の朝。修就が、身支度を整えていると、順次郎がやって来て、反古紙をわざと修就の足元に落として行った。修就はそれを何気なく拾い上げた。反古紙には「数え年、3歳だが、見た目は、6歳。体重は、67貫。片原下ノ町、塩屋七の娘、なを」と記されていた。早速、順次郎の情報は、修就の反古紙に書き写された。

 

 思えば、江戸で選任され新潟へ赴いた修就の家来たちは、組頭2名、広間役6名。定役20名。並役30名。そして、足軽20名という大所帯であり、妻帯者は、家族を連れて新潟へ赴いた。故郷を離れた遠国で、共に過ごす時間の長い家来たちはもはや、修就にとっては家族同然の存在だ。修就をはじめ家来たちの暮らしは決して楽ではなく、家来たちの中には、江戸へ出張する旅費を修就から建て替えてもらった者もいた。修就は、家来一統に対して倹約を徹底させて来たが、やむを得ず、町人から金を借りる家来もいて、町人から金を借りることを禁ずる通達を出して戒めた。家来たちの間では、在勤1年から2年の間の短い期間で諸事情により新潟を去る者もいれば、その後任として江戸から赴任して来る者もいる。

 

並役の高野大助は、勤務上のことで品々不宣事共があり「慎」を言い渡された後に、老中牧野備前守の申し渡しにより、在勤年数僅か1年と1ヶ月で江戸へ帰った。組頭の成瀬又太郎の場合は、在勤年数1年と1ヶ月にて御用召になり、家族を連れて新潟を去り御勘定組頭に任用された。成瀬の後任には、江戸において小晋請方改役であった今川要作が任命された。組頭の関源之進については、嘉永元年、7月。御料所の代官として御用召になるが、病気のため江戸出立を延期していたところに、養母が病死し35日後出立する届けを出したが、依然、自らの病状が快復しないため、修就は、次男の庄五郎の舅にあたる荒井甚之丞に頼んで、老中伊勢守に内々に後歎申上げ、伊勢守からは今後50日経っても出立できない場合は、再度、指示を仰ぐように差図があった。しかし、11月になると、関は、病状もだいぶ快復したので江戸へ立った。関は、病気がちである事を理由に、勘定奉行の計らいにより御裏御門之頭に任用された。関の後任には、江戸において御勘定評定所留役であった三橋貫之進が着任した。また、定役の深谷一郎と並役の小島安次郎が、在勤2年余で新潟を去った。また、家来たちの中には、新潟でその生涯を終える者もいた。御武器掛兼地方公事方書物方の増淵清三郎や組頭の近藤鉄平は危篤に陥った末病死した。

 

並役の北島三右衛門が他界し折は「病気重体ニ付枕替(葬式)之儀」を組頭から伝えられ、北嶋の家族と修就は、早速、幕閣へ三右衛門の「隠居願」とその忰の吉之丞への「家督相続願」を出した。8月になり、幕閣は隠居と家督相続を認め、惣領息子の吉之丞を父と同様の並役に召し抱える通達が届いた。並役の小暮賢三郎の場合は、家族を巻き込んだ悲劇に見舞われた。小暮は、妻子を連れて新潟に赴任し新潟で、息子が、また1人産まれた。しかし、小暮は妻と3人の息子を残して病死した。惣領息子の鉡之助が、家督を相続し父に代わって並役に抱えられたが、小暮の妻であり鉡之助の母かつは、若くして早くに、夫の死や病気の忰、鉡之助のことを思い悩んだ末、わずか5歳になる末子の金閏之助を道連れに自殺してしまった。その後、家督を継いだ鉡之助は、病死したのか重病に陥ったのか定かではないが、長谷川房之丞を鉡之助の養子とした。房之丞は、鉡之助に代わって召し抱えられた後、修就は、鉡之助の病死届けを出した。

 

修就は、老母、コノと惣領息子の庄五郎家族を残して、妻の滝、長男の順次郎家族、4男の次郎吉、5男の茂之丞、娘のテイを伴い新潟に赴任した。庄五郎については、引化2年に起きた江戸城本丸炎上の際、良き働きをしたとして褒美を賜り、妻のたまとの間に13女に恵まれるが、初子の長女を生後間もなく失っていた。修就が、新潟に赴任する前に、御書院番の松井斧太郎に嫁いでいた長女のお琴は、母の滝が、新潟と離れていることから、滝の実家である宮重家で男子を出産するが、産後が悪く手当のかいもなく死去した。

 

この訃報が届いた後、お琴の娘、お銀までもがわずか10歳にして病死したことから、修就夫妻は身を引きちぎられるような思いを味わった。一方、新潟に連れて来た妻の滝、長男の順次郎、順次郎の妻、みきの3名は新潟在中に病を患った。滝は、引化2年に瘧を煩い、その後も体調は安定せず、順次郎もまた脚気を患い、2人揃って療養のため出府する許しを得るが、お滝の方はその後も、出府できずに嘉永3年になりやっと出府した。順次郎の妻、みきは、引化4年、5月に崩漏気味になるが、その後、快復をみせ、嘉永4年、正月3日に娘を産んだ。次女のテイは、嘉永5年、10月。金田栄之助に嫁いだ。4男の金四郎は、引化1年、12月に次郎吉と改名した。そして修就と同じ御庭番の家筋である和田多次太夫の孫養子に縁組が決まり、小十人格天守台下御番に取り立てられた。嘉永元年には、和田家の家督を継ぎ同3年には娘も生まれた。その2年後、御庭番の仕事である「内々御用」の見習を始めた。5男の茂之丞は、嘉永2年、11月に元服し修達と名乗った。

 

嘉永元年、1月。修就は、新潟町の経営も安定し御取筒筋(微税)も増して格尽に尽力したということで、幕府から金2枚、時服2つを拝領した。また、組頭以下並役までにもそれぞれ褒美を賜った。

 

それから、2年後。新規に御料所(幕領)になった新潟町は、永世之御規則も立ち湊町の経営も安定して来たとして、修就は「諸太夫」に任じられ、対馬守を名乗ることとなった。長男の順次郎は、新潟在任中、本妻や妾との間に4人の子宝に恵まれたが、その内の3人を亡くした。幼くして早逝した孫たちの中でも、引化2年に生まれた順次郎の息子の越橘は、嘉永3年、2月、疱瘡を患いわずか6才にしてその短い生涯を終えた。疱瘡は、子供の死因の上位に位置していることもあって、幼い子供が、疱瘡から治癒すると丈夫に育つとされ酒湯掛祝いをする風習がある。順次郎の子供たちは、修就夫妻にとって、目の中に入れても痛くない愛しい存在であり、ひとつ屋根の下で同居している身近な家族でもある。

順次郎と妾のツヤとの間に生まれた娘の亀が疱瘡を患い、嘉永3年、正月17日に死去して2か月も満たない内に、同じく、順次郎と妾のツヤとの間に生まれた息子の越橘までもが疱瘡を患い死去したのだ。相次いで、2人の幼子が、疱瘡により亡くなるという悲劇は、修就の心に深く刻まれた。2人の死から1年が過ぎたころ、順次郎と本妻のみきとの間に娘が誕生した。修就は(ぬい)と命名した。

 

嘉永2年の2月。修就の友人である西丸御留守番居の筒井肥前守政憲から手紙が届いた。

 

「おい、滝。ちょっと来てくれ」

  修就は、手紙を読み終えるとすぐ庭に出ていた滝を大声で呼んだ。滝はあわてて屋敷の中に戻ると、修就の待つ寝所へ足早に向かった。

 

「滝です」

  滝は、障子の前に坐ると中へ声を掛けた。障子が開いた瞬間、障子のすぐ後ろに坐っていた順次郎がふり返り見た。順次郎は相変わらず、青白い顔色だったが、頬だけほのかな桜色に色づいてみえた。

 

「おまえさま。もしや、熱があるのではないですか? 」

  滝は、順次郎の横に腰を降ろすと順次郎の顔を心配そうにのぞき込んだ。

 

「順次郎。もし、辛かったら戻って良いぞ」

  修就が告げると、順次郎は首を横に振った。順次郎は、持病の若年性リウマチに加えて脚気を患っていた。新潟に来たばかりのころは、修就について砲術の稽古をしていたが、最近は、寝たり起きたりをくり返していた。

 

「順次郎さんまでお呼びになって、何かあったのですか? 」

  滝が身を乗り出して訊ねた。

 

「筒井殿から塩引き鮭の令状が届いた。牛痘を植える者は免れるとの風聞が江戸で広まり、年明けから、疱瘡が流行った故、ものの試しに孫に植えさせたら、疱瘡にかからなかったと書いてある。孫を疱瘡で2度も失ったが、もし、この牛痘を手に入れていれば免れたかも知れぬ」

  修就は、滝に筒井から届いた手紙を差し出した。

 

「朗報ですね」

  滝が微笑んだ。

 

「しかりその通りじゃ」

  修就は、早速、江戸から牛痘に関する史料を取り寄せた。

 

 江戸の留守宅から届けられた史料を読んだ修就は、新たな希望を見出した。史料によれば、嘉永2年に日本初の牛痘による種痘が行われた。行ったのは長崎の阿蘭陀商館医であり、インドネシアのバタビアから疱瘡にかかった牛のかさぶたを取り寄せてそのかさぶたを用いて、長崎初の種痘を行ったという。その後、江戸、大坂、福井でも種痘が行われた。江戸で種痘に携わった医師の1人が、越後新発田藩の出身だという。修就は、憎き疱瘡が、孫の命を奪うのを防ぐ策があるということが分かり、うれしさのあまり涙が出た。

 それから数日後の昼下がり。散歩に出ていた順次郎が急いで帰宅した。

 

「おまえさま。走っても大丈夫なのですか? 」

  玄関で出迎えた滝の驚きの声が、庭にいた修就の耳にも届いた。修就は、元服して、いちだんとたくましくなった五男の修達(茂之丞)に剣術の稽古をつけていた。

 

「父上。一大事でございます」

  順次郎が、縁側から庭へ飛び降りると修就に駆け寄った。持病に加えて脚気を患っていたことを忘れさせるその身軽な身のこなしに修就たちは驚かされた。

 

「何かあったのか? 」

  修就が、息をはずませている順次郎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「兄上。とにもかくにもお坐りくだされ」

  修達にうながされて、順次郎は、縁側にどっかりと腰を降ろした。

 

「散歩の途中、北山浄光寺の近くを通りかかった折、境内に長蛇の列ができておりました。列に並んでいた町人から種痘を受けるために並んでいると聞いて急ぎ戻った次第」

  順次郎が青白い顔で答えた。

 

「ただいま帰りました」

  玄関の方から、縫を抱き近所へ散歩に出掛けていた順次郎の本妻のみきの声が聞こえた。

 

「くわしい話はみきにお訊ね下され。わしは、失礼して寝所で休むことにします」

  順次郎は、ふらつきながら立ち上がると寝所へ向かってよろよろと歩いて行った。順次郎と入れ替わりにみきが姿を見せた。縫は、みきの背中におんぶされて気持ちよさそうに眠っていた。

 

「お帰り。親子3人で散歩をして来たのか? 」

  修就は、縁側に上がると縫の寝顔をのぞき込みながらみきに訊ねた。

 

「さようです。体調が良さそうでしたので、散歩にお誘い致したのですが、先にお戻りになられてしまいまして。順次郎様は、無事に、お戻りになられましたか? 」

  みきが、縫を背中から降ろすと言った。

 

「散歩の途中、妻子を残して1人で先に帰るとは、兄上は、よっぽど、あわてていたのでしょうよ」

  修達が、目を覚ました縫をあやしながら言った。

 

「赤子の世話だけでも大変だというのに、病の亭主までついてきてめいわくだったのではないかい? 」

  滝が、お茶と茶菓子を運んで来るとみきに優しい言葉をかけた。

 

「とんでもございません。久しぶりに、一緒に散歩することができて楽しかったです」

  みきが穏やかに言った。

 

「みき。しばらく、夕餉の仕度の手伝いをしなくて良いですからね。疲れたでしょう? 縫を寝かせている間に、湯屋にでも行ってらっしゃい」

  滝が気前良く言った。

 

「順次郎様は今、どちらに? 」

  みきが落ち着かない様子で訊ねた。

 

「順次郎は寝所で休んでいます」

  滝が穏やかに答えた。

 

「御免つかまつります」

  医師の加藤道逸の声が庭の方から聞こえたので、滝があわてて、立ち上がった。

 

「順次郎殿の様子を見に参りました」

  加藤が滝に会釈すると言った。

 

「加藤先生。実は、順次郎が、散歩から帰った後に体調を崩しまして」

  滝が、事情を話しながら加藤を順次郎の寝所へ連れて行った。

 

「庭から入るとは不作法でござるな」

  修達が、羊羹を口に入れたまま言った。

 

「おぬしも、他人のことを言えた口かのう。食べ物を口の中に残したまま話すとは不作法じゃ」

  修就が厳しい口調でとがめた。

 

「近所へ出掛けて参ります」

  修達がそそくさと、屋敷を後にした。修就と2人残されたみきは、縫の方に向き直った。

 

「みき。ありがとう」

  修就が穏やかに告げた。

 

「お義父上。何故、私に、お礼なんぞおっしゃるのですか? 」

  みきがけげんな表情で訊ねた。

 

「順次郎は、自分に尽くしてきた女房を裏切り妾を作った。あいつの父として、申し訳ないきもちでいっぱいじゃ」

  修就がため息まじりに言った。

 

「お義父上。私は決して、ツヤが、順次郎様のお子を3人産んだことをうらんではいません。むしろ、感謝しております。子が1人もおらぬというのも、順次郎様が、お気の毒だと思っておりました。ツヤが、子を宿したと知った時は、まことに、うれししゅうございました」

  みきが、縫を愛し気に抱き上げると言った。

 

「ならば良いのじゃ。そなたが、白山神社にしばらく通っていたと聞いたものでな。子宝祈願でもしていたのかと思ったわけじゃ」

  修就が、縫に微笑みかけると言った。

 

「それは、江戸で疱瘡が流行っていると聞きました故、子供たちが、疱瘡にかからぬよう祈っていたのです。なれど、それも無駄なことでしたね。お亀も越橘も、可愛い盛りに逝ってしまって。子をもってはじめて、子を失った時の母の苦しみが分かった気がします」

  みきがしみじみと言った。

 

「順次郎のやつ。何故、北山浄光寺へ立ち寄ったのじゃ? 」

  修就は、縫をみきの腕の中から引き取ると訊ねた。縫は、修就の顔をつぶらな瞳で見上げている。

 

「それが、北山浄光寺の門の前を通りかかったところ、種痘と書かれた幟があがっているのが見えまして。その幟を見つけると、順次郎様が、境内の方へ走って行かれました。少しして、門の前で、縫を寝かしつけながら待っていましたら戻って来て、縫に種痘を受けさせれば疱瘡にかからないと、大声でおっしゃっておられました」

 

 

「種痘の免状を持つ医師が、新潟にもおるという話はまことでござったか」

  修就は、縫をみきに手渡すといきおい良く立ち上がった・

 

「今からどちらへ参られますか? 」

  修就が廊下に飛び出すと、ちょうど、滝が前から歩いて来た。

 

「北山浄光寺へ参る。調査致さねばならぬ用件が出来たのじゃ」

  修就が答えると、滝の背後から、順次郎の診察を終えて帰るところだった加藤が顔を出した。

 

「北山浄光寺に住んでいる医者のことなら知っていますよ。たしか、その医師は、赤柴誠斎という名で、その医院は、いつも種痘を受ける子連れで混んでいます。ふつうは12か月待ちのところですが、わしが、順番を早くしてもらえるよう掛け合ってみましょう」

  加藤が気前良く言った。

 

「よしなに頼む」

  修就は深々と頭を下げた。

 

 それから1週間後、みきが、縫を連れて北山浄光寺へ出掛けた。修就が帰宅すると、縫はご機嫌斜めだった。

 

「いかがであった? 」

  夕餉の時、修就がみきに訊ねた。実は、修就は、縫の種痘のことが片時も頭から離れず市中廻りの帰りに、北山浄光寺の門まで行き、中の様子をうかがったのだった。みきと縫は、その時にはもう帰宅した後でいなかったが、門を出て行く母子とすれ違った時、母に手を繋がれた幼子が、泣きべそをかいていたので心配していた。

 

「はい、お蔭様で、無事、種痘を受けさせることができました。ありがとうございます」

  みきが深々と頭を下げた。

 

「父上。縫は、種痘を受けている間、泣かずにおったそうですよ。母親に似て、辛抱強い子ですよ」

  順次郎が微笑んだ。

 

「さもあろう」

  修就が満足気にうなずいた。

 

「帰って来た途端、大泣きして大変でしたけどよく辛抱しましたよ」

  滝が告げた。

 

「縫ちゃんは、これで疱瘡にかかりませんね」

  少し離れた場所で、娘のテイが告げた。縫は、テイに遊んでもらい機嫌を直したようだ。あどけない笑顔でお手玉を投げていた。

 


新潟を去った後の話

 嘉永5年、713日。77日付の「御用召状」が届いた。その後間もなく、修就は江戸に召し出されて、取り急ぎ、出府準備に取りかかり18日には新潟を出立した。会津路を経て宇都宮に出た後、29日に江戸へ着いた。修就は、江戸に着いたその足で江戸城に登城した。それから、参着を報告し老中の問い合わせに「新潟表、市郷井近国迄」替りないことを答えて、勘定奉行など各所へ帰府のあいさつを済ませた。

 

 その夜。修就は、老母のコノと庄五郎家族に再会した。コノは、相変わらず腰痛に悩まされているようだが曾孫を可愛がっていた。庄五郎の妻のたまは、育児と家事に追われていたが幸せそうにみえた。

 江戸を離れる折しも、水野様が罷免されるなど政変が起きた。江戸へ召出される折に何事もないよう願ったが、幸い、江戸はいたって平和じゃ。日常茶飯事、色々な事件が起きる度、家来たちを集めては評議を重ねた新潟での日々が懐かしい」

 修就が遠い目をして言った。修就は、庄五郎と親子水いらず久しぶりに酒を酌み交わした。庄五郎は、待望の嫡男が産まれて父親としての貫禄がついたようにみえた。庄五郎は、修就が新潟赴任中は跡継ぎとして本家を守り、御庭番として真面目に勤仕している。

 

「倅には、庄五郎と名付けました故、それがしは、清兵衛を名乗らせて頂きます」

  庄五郎は深々と頭を下げた。修就は、自分の若いころに似た精悍な顔立ちの旗本を誇らし気に見つめた。滝は、瘧を煩い、一時は家事も出来ない程に体調を崩したが、江戸に帰宅後、徐々に、元気を取り戻した。今では、娘のテイの花嫁修業といい家事をつきっきりで教えている。テイは、金田栄之助との婚儀が決まり落ち着かない様子だ。台所に、並んで立つ母子の後ろ姿をしばらく見られないと思うと、修就は何だか寂しかった。

 

 江戸城登城の折、明日改めて登城するようにとの御用召状が届き、翌日、堺奉行を拝命した。修就は、81日から堺奉行の見習に入った。同じころ、新潟に置いていた家財道具などの荷物を堺の役宅へ運ぶ荷物と江戸の居屋敷に運ぶ荷物とで2手に分けるが、どちらも西廻り航路で運ばせた。堺送りの荷物は、食器類、膳類、火鉢、鳥籠など16個になった。江戸送りの荷物は、硝石、火薬類、合図玉、馬上筒など新潟でも活用した武具類など15個になった。

 

1027日。江戸を出立。江戸から堺までの道程を進む5、6万石の大名格式の行列は堂々たるものだった。江戸を出た後、東海道を上り、箱根の山を越えて1112日。大津に到着した。翌日、京都司代へ行きその次の日、堺へ着任した。

 その後、大坂町奉行、長崎奉行、小晋請奉行、西丸御留守番役、大坂町奉行再任、西丸御留守居役再任。堺赴任時は、自白せず満5年余り女犯の罪で投獄されていた法華宗の僧侶を名口説きにより、見事、自白させたり、荒れ放題だった仁徳天皇陵を修復させたり堺町民から高評価された。大坂赴任時は、大坂奉行を介して、幕府に通商を求めるロシアのプチャーチン提督率いる軍艦「ディアナ号」を、万全の海防を期して粘り強い交渉を重ねた末に追い払うことに成功した。長崎赴任時は、日蘭和親条約の調印に立ち会った。

 

 元治元年、70歳にして御役御免となり、慶応3年、家督を惣領息子の清兵衛(庄五郎)に譲り、自らは隠居した。修就が現役を引退した慶応3年、1014日。慶喜公が自ら大政奉還を行った。

 

 そのころ、江戸から遠く離れた越後新潟町では、新潟奉行所に外国奉行並の糟屋義明が現れた。慶応元年より、白石千別が新潟奉行を務めていたが、糟屋は現職に就いたまま新潟奉行を兼務する形で、白石と共同で新潟を治めて行くことになった。この時、糟屋は、外国奉行の調役1名、定役1名、定役並1名そして新潟と佐渡併せて8名の英語通訳を幕府に願い出た。

 

  大政奉還と同時期、英国公使のハリー・パークスが、新潟湊を佐渡の夷湊を補助湊とすることを条件に開港場とすることに同意した。英国が、新潟湊の開港に同意したことを機に、新たに、新潟奉行に着任した両名は、開港後に訪れるだろう異国人への対応を見据えて施策を実行に移した。しかし、戊辰戦争が勃発したため実現しなかった。

 戊辰戦争の間も、新潟開港に向けて準備は進行していたが、終に、翌年の61日。新潟沖に、薩摩の乾行丸と長州の丁卯丸が入津して、新潟を防備していた米沢と会津の東北同盟軍とが激突した。戦火の中、会津藩は、幕府から蒲原郡の幕府領を預けられたということを根拠に、新潟奉行所に対して新潟町の支配権を引き渡すことを要求した。新潟奉行所や新潟町民は、会津の進駐軍が乱暴な振る舞いをしていたことから、会津藩が新潟町と新潟湊を治めることを拒否した。そのため、新潟において、砲兵差図役頭取と、新潟奉行所の組頭を務めていた田中廉太郎は、米沢藩に新潟町と新潟湊の支配を委任した。米沢藩支配となった新潟では、新潟奉行所が消滅し、米沢藩に会津藩、仙台藩、庄内藩が加わり新潟湊を管理することになった。

 

 戊辰戦争勃発により、正式には開港していなかった新潟だが、開港期日を過ぎたことを理由に、プロシア人やイタリア人など外国人の姿が新潟町でも見られるようになった。

 

修就が、新潟奉行着任当時、唐物抜荷が摘発されたが、最近になって、越後の海岸にて、異国人が密貿易を行っているとの風聞が江戸にも伝わった。新政府は、戦争中のため異国人の安全は保障できないので、開港延期を諸国へ通達した。

 

 江戸の屋敷で隠居生活を営んでいた修就の元に新潟から手紙が届いた。修就に手紙を書いたのは、新潟奉行所を辞職して同じく隠居の身にあった松浦久兵衛だった。2人は、身分の垣根を越えて、修就が新潟を離れた後も、時候見舞を贈り合う仲だった。

 

「滝。戦で新潟湊の開港が延期になっただけでなく、新潟町も米沢藩領となり、奉行所は閉鎖されたそうじゃ」

  修就は、縁側で滝と2人お茶をすすっていた。

 

「奉行所の閉鎖を目の当たりにして、松浦殿もさぞかし、気を落としていることでしょうよ」

  滝が静かに告げた。

 

「いんにゃ、それが違うのじゃ。松浦は、気を落としているどころか、開港準備に担ぎ込まれて、毎日、忙しくしているそうじゃ」

  修就は、隠居して居屋敷にくすぶっている自身に嫌気がさしていたので、松浦の活躍を知り、自分も何かまた、新しいことに挑戦したいきもちがわき起こった。

 

「開港準備ですか? 復興でそれどころではないと存じます」

  滝がけげんな表情で言った。

 

「この手紙が書かれたのは8月ごろじゃ。今は9月下旬。敗戦後、新潟を占領していた新政府軍も引き上げ、新政府軍が設けた越後府が廃止されて、新たに新潟府が設けられたらしい」

  修就は、表舞台から去った後もなお、日本の行く末に関心を持ち続けていた。隠居を目前に造らせた書斎には、新潟赴任時に、新潟神明の神主で画家の才もあった行田和泉(魁庵)に描かせた肖像画を飾った。机に向かう度、肖像画を描かせた当時の自分に見守られている気がした。

 

 「義父上。縫を見かけませんでしたか? 」

  その日の昼下がり。修就が書斎に籠もっていると、順次郎の妻のみきが、血相を変えて駆け込んで来た。

 

「縫なら、帰ったと思ったら、また、出掛けたぞ」

  修就は、読みかけの書物を閉じると答えた。

 

「それはまことの話ですか? 」

  みきが肩を落とし訊ねた。

 

「みき。買物に出掛ける故、留守を頼みますよ」

  そこへ、滝がやって来た。

 

「義母上。縫がまた、お稽古をさぼったようなのです」

  みきが滝に言った。

 

「親の希望を子に押しつけても無駄ですよ。いいかげん、あきらめなさい」

  滝がみきをとがめた。

 

「縫を捜しに行って来ます。義父上。もし、縫が帰ったら、お師匠さんの元へ行くよう伝えてください」

  みきは、滝が止めるのをふり切り外へ飛び出して行った。

 

「殿。私も買い物へ出掛けて来ますよ」

  滝が修就に言った。

 

「留守番なら慣れておる」

  修就は、ずれた眼鏡を直すと言った。みきの後に、滝が出掛けてしばらくして、玄関の戸が開く音が聞こえた。

 

「ごめんなせ―」

  修就は、大声に驚き飛び起きた。あわてて、玄関先まで駆けつけると、白髪の老人が、背を向けて草履を脱いでいるところだった。

 

「どなたですか? 」

  修就は、おそるおそる老人の背中をつついた。

 

「あっきゃあ、お奉行様」

  その老人がふり返った。だいぶ老けたが、その顔に見覚えがあった。

 

「松浦久兵衛!何故、おぬしがここにおる? 」

  修就は思わず、大声を上げた。

 

「突然、うかがってすいません。急に東京行きが決まった故、連絡する間もなかったもので」

  松浦久兵衛が決り悪そうに言った。

 

「元気そうで何より。まことにおぬしなのだな? 」

  修就は、松浦を招き入れると訊ねた。

 

「はあ。お奉行様もお元気そうで良かった」

  松浦がにこにこしながら言った。

 

 2人は、客間に向かい合った。お互い年を取ったという話からはじまり修就が新潟に赴任していた当時のことや家族のことなど昔話に花咲かせた。

 

「そーいえば、ばっか、静かですね。お奉行様、おひとりで住んでいなさるのですか? 」

  しばらくして、松浦は、家族が誰もあいさつに顔を出さないことに気づきソワソワし出した。もしかしたら居ても出て来ない。自分は招かざる客なのかと心配になったらしい。修就は客間に案内した後、松浦が話しかけて来たのでお茶を出す機会を逃して、2人は茶も飲まずに、2時間近く話し込んでいたのだ。

 

「出掛けているだけでじき戻る。そろっと、妻が買い物から帰っても良いころなのじゃが。見て参るとするか」

  修就がさり気なく立ち上がった。様子を見に行くのを口実にお茶を用意しようというわけだ。

 

「いぎしなに寄っただけ故、そろっと、けえります。どうぞおかまいなく」

  松浦がそそくさと帰り支度をはじめた。

 

 修就が帰ろうとする松浦を玄関先で引き止めているところへ、滝が、縫と共に帰宅した。縫は、松浦に会釈すると屋敷の中に入った。

 

「いったい、どこまで、買い物に出掛けていたのじゃ? 」

  修就は思わず、声を荒げた。普段なら、1時間程で帰って来るはずなのに、今日に限って、3時間も留守にしていたからだ。

 

「あらまあ。誰かと思ったら、新潟の松浦殿ではございませんか? 」

  滝が明るい声で言った。

 

「そうじゃ。せっかく、遠い所から来てくれたというのに、そなたがおらなかった故、何のおもてなしもできなかった」

  修就は、滝が無視したので口をとがらせた。

 年を取るにつれだんだん、気難しくなって来た修就は隠居して以来、口細かくなったこともあり、滝も、聞き流すことが多くなっていた。茶葉や菓子がどこにあるのかわからないし、お茶の淹れ方も分からない。妻なしでは客をもてなすことすらできないのだ。

 

「オレなんかのために、いさかいはおやめ下され」

  松浦があわてて2人の間に入った。

 

「松浦。見苦しいところをみせてしまったのう。仕切り直しに一杯やらないか? 」

  修就は、盃で酒を呑む仕草をしてみせた。

 

「それならば酒のご用意致します」

  滝が告げた。

 

「このあと、約束がある故、けえります」

  松浦は颯爽と屋敷を後にした。修就と滝は、松浦の姿が見えなくなるまで見送った。

 

「忙しないお方ですね。久方ぶりに参られたと思えば、風のようにお帰りになってしまった」

  玄関に入ろうとした時、滝が言った。

 

「新政府の役人と英国領事が新潟に来ることが決まり、新潟府の使者の1人として打合せを行うため東京に出張したと申していたが、出張の合間を縫って、わざわざ、あいさつに参ったのじゃろ。義理堅い男じゃ」

  修就は、松浦の生き生きとした姿を見せつけられた気がした。同じ隠居の身であったはずなのに、松浦は、新潟府に求められて重要な役目を仰せつかった。比べて、自分は、あれだけの輝かしい実績がありながら、隠居後はどこからもお呼びがかからない。あまりに暇を持て余していたので、家督を継いだ清兵衛から、滝と夫婦水入らずで旅にでも出たらいかがですかと気遣われる始末だ。

 

 それから数日後。修就は、朝早く出掛けて夕方に帰宅するようになった。修就が、どこに行き何をしているのかは誰も聞かなかった。それぞれの生活で忙しく、御隠居の行動をいちいち詮索する余裕がなかったからだ。それでも、妻の滝だけは、修就の変化に薄々気づいていた。

 

「殿。何を考えておられますか? 」

  ある日。滝は、思い余って、いつものように出掛けようとする修就を引き留めた。

 

「大事ない。ただ、夢を形にするだけじゃ」

  修就は、穏やかに告げると出掛けて行った。

 

  慶応4年、97日。新政府は、年号を明治と改めると同時に、江戸を東京と改める。特命全権公使のハリー・パークスは、英国臣民へ、これまで治安悪化のため、新潟開港が暫時延期されている旨を報知していたが、来たる11日をもって、新潟が英国との交易に対して開放される旨を通知した。新潟初代領事には、大坂や兵庫の領事代理を務めているフレデリック・ラウダーが任命された。

  その後、ラウダー一行は、東京都別手組に厳重警護されながら陸路にて新潟へ向かった。一方、新潟開港事務を行うため、外国官権判事の三沢揆一郎と水野千波も江戸を出立した。しかし、ラウダー一行が新潟に到着した時、廃止された越後府が未だ、新潟を統轄している状態にして越後府の知事を称する四条隆平は長岡におり、新潟府の知事に任命された西園寺公望も就任を固辞したまま新発田に滞在していた。

 

 ラウダー一行を出迎える新潟府の役人たちの中に、松浦久兵衛の姿はなかった。この時、松浦は、倅の金次郎と共に英国領事館の候補地を廻り大家と交渉を重ねていた。新潟は他の開港場と異なり、異国人は、新潟市内どこでも家や店を借りて住むことができることにはなっていたが、ほとんどの大家は、前例がないことを理由に異国人に貸し渋った。とりあえず、勝楽寺を間借りすることになり、ラウダー一行は勝楽寺へ移った。

 

同じころ、東京の法眼坂の居屋敷の縁側にて、薬の調合を試みる老人の姿があった。修就は、松浦の頑張りに刺激を受けて、長年の夢だった薬屋開店に向けて準備を進めていた。店舗も見つかり後は、来年の開店を待ちわびていた。新しい店は「知春園」と命名した。代々、川村家に受け継がれた「五神錠」を大々的に売り出す予定だ。

 

「そろそろ、新潟に着いたころですかね」

  修就が、縁側に坐りぼんやりと空を眺めていた時、順次郎がふいに、空の鳥籠を手に現れた。順次郎は、江戸に戻った後すぐ、鳩を飼い始めた。

 

順次郎が、あらかじめ足に手紙を結び付けたその鳩は、順次郎の合図で開け放たれた鳥籠から空へ飛び立つとしばらく帰らず、数日後、いつの間にか鳥籠に帰って来ていることがある。

 

新潟では、勝楽寺を出て歩き出した松浦久兵衛の目の前を1羽の鳩が急降下した。松浦は、慣れた手つきで鳩を抱き上げると足に結び付けてあった手紙に気づき、笑みを浮かべて空を見上げた。今日もまた東京と新潟。遠く離れた場所で、新しい歴史が刻まれようとしている。遠く離れた場所で、同じ空の下、修就と松浦は、互いのことを思い出して懐かしんだ。松浦が手紙を外すと、順次郎の鳩は、遠い空へと飛び立った。

 

 

 


奥付



【2019-01-31】新潟湊の夜明け~新潟上知編


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著者 : きの しゆう
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