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目次

<目次>

 

 (1) みそかの銭

 

 (2) 見知らぬ男がそこに立っていた

 

 (3) あの雪の日のこと

 

 (4) 風強く吹く日


(1) みそかの銭

 

 なんだかんだと言いながら、時は、押し詰まってきました。

 

 江戸の昔といえば、商いの店のものが長屋の人々に、代金の請求にやってくる、そんな頃合いです。

 昔は、味噌も醤油も、それに、酒もかけ売りですから、みそかにその代金を回収にくるんです。

 

 長屋住まいの借り手は、なんだかんだと商人からの催促を逃れようとします。

 その辺の面白おかしいやり取りは、井原西鶴の『世間胸算用』に描かれています。大阪の庶民の方便など、今に通じて実に愉快ではあります。

 

 そんな悠長な時代はさておき、昨今は如何せんどうにも困った話ばかりで嫌になってしまいます。

 

 お隣の韓国との間では、かの国ご自慢の海軍艦艇に対して、我がニッポンの空自の偵察機が、失礼にも、救難にあたっているその艦艇上空を飛行し迷惑をかけてしまったというのです。

 日頃から、よろしく思ってくれていないのですから、それに輪をかけて、失礼なやつだときっと韓国海軍の将兵は思ったことでしょう。

 

 ところが、ニッポン政府はとんでもないって、空自もそんなことはしていないって言うのです。

 だから、ビデオ映像まで公開して……。

 でも、それは証拠にはならないって……。

 

 さぁ、そうなると困ったことになります。

 どちらからの政府が嘘をついていることになります。

 政府が嘘をつくことは、何よりも国際信用を失墜させることになります。

 

 それより何より、軍事を司る部署が嘘で己の行為を糊塗するのは何よりいけません。

 「道」に反することになります。

 ですから、ここは、どちらの政府も、軍も、白黒をつけなくてはなりません。

 

 西鶴が描くほのぼのとした庶民の言い逃れを楽しむわけにはいかないと言うことです。

 

 アメリカにも困ってしまいます。

 あの国は、かつて、株を暴落させて、世界的な恐慌のきっかけを作り出したのですから、しっかりとやってほしいと思っているんです。

 

 まさか、アメリカ大統領が、明日の大晦日、難波の店の番頭さんのごとくに、世界を巡って、金払えなんて言いに行くんじゃないかって、真剣に思っているんです。

 だって、イラクに行ったんでしょう。

 その帰りに、ヨーロッパへ行くなんてわけないことですから。

 ニッポンは、首相がなんとかその矛先を変えようとコネクションを持っていますから、一応は安心ですが、あの方のことですから、除夜の鐘のなる頃、コーンパイプをいなせにくわえて、厚木に降り立ってくるやもしれません。

 

 そのアメリカと喧嘩をしている国はたくさんありますが、とりわけ、大げんかをしているのが偉大なる中華民族の国です。

 

 お前さんのとこの道路、直してやるよと、あるいは、橋を作ってやるよって、満面の笑顔で、すり寄って、時には、その国の実力者に賄賂をかまして、完成したよって、金額はまけてやりまっせ、なんだって、金がないって言うのかい、それは困った、わかった、こうしまひよう、お前さんのとこの港、おいらの国に貸せば、チャラにしてやるって、お国のヤクザも青ざめるようなやりようで、みそかの銭を漁っているんですから、嫌になります。

 

 先だって、三年余り拘束されていた人権弁護士さんの公判が開かれたと言います。

 非公開ですから、その裁判がどうなっているのか皆目わかりませんが、支持者の男が叫んでいました。

 その言葉を聞いて、びっくりしてしまったのです。

 

 「一党独裁、反対」って言うんですから。

 

 この国、きっと、いつの日か、そう、近い将来、人民から、みそかの銭を取られるのではないかって、そのために、人民は金か自由かって、きっと天秤に掛ける時がくるに違いなって、そう思ったんです。

 

 そうそう、忘れてはならないことがありました。

 ニッポンです。

 

 欧米の非難を浴びながらも、悪い奴を留めて、調べに入っています。

 巨悪を叩きのめすのがニッポンのトウキョーチケンです。

 首相だって、経済界の大物だって、御構い無しですから。

 

 国民は、そんなトウキョーチケンに喝采を送ってきたのですから、欧米がなんと言おうとも御構い無しにやればいいんです。

 

 悪いやつは、鉄格子越しに年を越すのが一番似合っています。

 

 鯨の件も、思い切ったことを決断しました。

 昔、給食でクジラの竜田揚げを美味しく食べた世代には、なんとも複雑な思いではあります。

 でも、さほどに、あの脂っぽいクジラの竜田揚げの匂いを嗅ぎたいとは思わないのです。

 日本の鯨食文化などと言われても、ピンと来ないのが現状です。

 

 それより何より、てめぇたちの文化観から、クジラやイルカを血塗れにして殺すのが許せねぇって言う、あの言い分が気に入らないのです。

 

 だったら、ニッポンの領海で、誰にも何にも言われずに、やればいいと思っているんです。

 そうすりゃ、文句も言われまいと。

 

 なんだかんだと言いながらも、年は、押し詰まってきました。

 さて、我が宅には借金取りは来るのかしら?

 


(2) 見知らぬ男がそこに立っていた

 

 見知らぬ男に、声をかけられました。

 

 その日、私はいつもと違う体育館に、卓球の練習をしに行ったのです。

 体育館というか、隣の地区の「交流センター」という場所なんです。昔は「公民館」などと言って場所で、集会やそこそこ運動もできる部屋を備えているところなんです。

 

 この日は、チームの練習ではなく、チームの中で、気の合った連中で、最後の練習をしようと、市内の体育館が年末年始で休みなのを、熱心な仲間が「交流センター」であればオープンしていると予約を入れてくれたのです。

 私も誘われて、取り立てて予定もないので、OKとその場所に車を走らせて、出かけたのでした。

 その場所で、私は、見知らぬ男に、声をかけられたのでした。

 

 先生って、その男言うんです。

 先生って、言われて振り向くのですから、私もまだ、前職の色合いが、それも、色濃く残っているんだと感心するのです。

 

 そこに立っていた男は、随分とおじいちゃんでした。

 髪は、もののみごとに白色化しています。

 そして、私を見て、笑顔を見せています。

 

 はて、誰だったか。

 生徒にしては、歳がいきすぎている……。

 

 「太田です。ごぶさたです。いや、こんなところで、先生に会えるなんて……」

 そんなことを言ってくるんです。

 

 私の脳に仕組まれた記憶装置が熱を持つほどに回転をして、記憶の底へと突き進んでいきます。

 

 そうだ、取手の学校時代、主任をしていた時、副担任として配属された数学の先生だって、私の記憶装置が、そこにたどり着いたのです。

 私は、その先生のことを「センキュウ先生」と呼んでいたことも、そして、彼がこの「交流センター」近くに住んでいたこと、さらには、独身主義であったことも、思い出したのです。

 

 記憶って、一つのきっかけで、まるで、すべてが手繰り寄せられるんだって感心しながら、私はセンキュウ先生の前に立っていたのです。

 

 「いや、お懐かしい。」

 そんな言葉を、私はかけました。

 

 それにしても、なんで、ここに居るのって、そんな顔をしていたんだと思います。

 

 だから、センキュウ先生、私、ここの管理の仕事をしているんですよって、私が問う前に、言うのです。

 そうだ、この先生、私が居た取手の学校を辞めて、公立に移っていったんだ……そんなことも記憶の底から浮き上がってきました。

 きっと、その公立を定年で退職して、この交流センターの管理をしているんだなって、そう思ったのです。

 

 私の静岡にいる大学時代の友人も、公立の教師で、定年になって、地域の図書館の館長をしているって言っていましたから、彼もその手合いだって。

 

 しかし、それにしても、老けているなって、私は正直なのでしょうか、それも顔にでてしまったようで、彼、すっかり、爺さんになってしまいましたって、今度は髪に手を当てて言うのです。

 

 彼は、私より年下だったか、いや、一歳ほど上であったかとそんな思案をしながら、私、今でもあの主義を貫いているのって、そう言ったんです。

 彼は、一人、気ままに、人生の最終コーナーを回っているところですって、そう言いました。

 

 いやぁ、この年末に、先生に会えるなんて、いい年の締めくくりになりましたって、彼、頭を下げるんです。

 こちらこそ、でも、よく、声をかけてくれました。ありがとうって、私もそう言ったんです。

 

 なんだか、旧知の間柄の人間に、偶然、会えるなんて素晴らしいって、そう思ったのです。

 

 だって、お互い、年を経て、長い年月会っていなければ、すれ違ってもわからない、それをちょっとした面影で、間違いかもしれないのを勇気を出して、声をかけてくれたんです。

 ありがたいこと、この上ないことです。

 

 待てよ、そうではなくて、彼の変容ほどに、私が変わっていないせいかもしれないって、その時思ったのです。

 彼のように髪の色も変われば、あるいは、明らかに爺さんになっていれば、瞬間的に、はて誰だったかとは思うものの、声をかけるまでにはいかないはず、それが証拠に、私は記憶をフル回転して思い出したのですから。

 

 先生は、まったく変わりませんね。

 あの当時のままだ。

 それは言い過ぎだよって心に思いつつ、それでも、破顔している自分がそこにいたのです。

 先生、あの件で、学校を辞めたんですよねって、彼言います。その後、土浦の学校に移ったことは知らなかったようで、それを言いますと、そりゃ、良かったって、安堵してくれたんです。

 

 心配をしていてくれたんです。

 あの件で、ゴタゴタしていたことを。

 

 私は練習を終えて、管理室にいる彼に、また会いましょうと声をかけて、年の瀬の寒波襲来で冷え込んだつくばの街の我が宅に通じる抜け道に入っていったのでした。

 


(3) あの雪の日のこと

 

   あの雪の日のことを思い出します。

   校門から玄関まで、そこにあった道さえもわからなくなったほどの雪が降った朝でした。

 

   ネットに、本日は十時から始業とします。

 自宅の積雪がひどい場合は無理して登校しなくていいです。

 

 そんな情報を発信するために、私は早くから学校に出ていました。

   こんなときこそ、私の出番だと、大雪だとか、大雨だとかの日には、とりわけ張り切る癖が私にはあったのです。

 

 その日も、タイヤを冬用のに変えて、用意万端、ライトをつけて、新雪を小気味好く踏んで、しかし、細心の注意を払って、決して狭い道に入らぬように、大通りだけを通って、出校しました。

   職員室に待機していると、上司から電話が入ります。

   予報では、雪は峠を過ぎて、夜明けと同時に天気は回復となっています。

   しかし、交通機関の乱れ、いろいろなところからやってくる生徒の自宅付近の状況を鑑みて、先に示した、情報をネットで発信し、生徒はそれを見て、登校をしてくることになります。

 

   熱心な教師たちが続々と出勤してきます。

   女性の先生を電話番に残して、私たちは雪かきに出かけました。

   昨日のうちに準備しておいた雪かき用のシャベル、それに普通のシャベルもかき集めて、二十本ほど、校門から玄関までの道筋を作ります。

 

   雪かきというのは重労働です。

   気温は低いのに、みな、ワイシャツ姿です。

   野球部の生徒、サッカー部の生徒たちが、顧問教師に言われて、汗だくの先生方からシャベルを譲り受けて、雪かきをしてくれます。

 

   小学生や中学生ではなかなか手伝いはできませんが、高校生になると、本当によくやってくれます。

   上司も出勤してきて、彼もまた、寒い中、現場に出てきて、生徒や教師を激励してくれました。

 

   ここで、ちょっとしたことで、揉め事が起こっていたのです。

   教員同士でです。

   何があったかと言えば、野球部の顧問であった教師が、バスケ部の顧問であった教師と言い争っていたのです。

 

   私は、上司と現場にいて、生徒に指示をしたり、怪我がないように、生徒のことですから、こういう時は張り切ってしまいます、だから目を光らせて、疲れた様子の生徒に休息を与えたり、バカな話をして、和ませていたのです。

 ですから、口論のありようは見てはいないのです。

 

   あとで、私は、その口論のありようを聞くことになるのですが、バスケ部の顧問は、雪かきで怪我をしたら、近々予定されている公式戦に支障を来たすと言って、生徒を雪かきに出さなかったのです。

   それだけではなく、そのバスケ部顧問の教師、上司のことを、現場に出て、あのように振る舞うのは良くない、上に立つ者はしかるべき場所で指揮すべきであると言ったというのです。

 

   それを野球部の顧問教師が咎め、口論になったというのです。

 

   一方は、冬のシーズンに公式戦がある部活、だから、指を痛めたり、足腰に違和感を持つようでは勝つ試合にも勝てないという、その言い分、よくわかります。

   また、一方は、なんでも鍛錬になると、そして、公のために尽くすことも、チームプレーでは大切、よほどのバカをしなければ、つまり、ふざけたりしなければ、怪我などするはずもないと、これもまたよくわかります。

 

   しかし、そこに上司の姿勢に関して、疑義が提供されるなどと、私も上司も思いもよりませんでした。

 

   彼らはそれぞれ監督として、それぞれのゲームで指揮をとります。

   彼らは、生徒とともに、グラウンドにも、コートの中にも入れないのです。しかるべき場所で声をだし、激励し、勝つための作戦を授けるのです。

 

   バスケの顧問も、つい、上司などと発言をしてしまったようですが、実際は、監督である自分たちのありようを言いたかったというのですから、それに、上司はそのような些細なことは気にしません。

 

   ですから、このことはあと腐れなく、雪の日のちょっとした出来事ぐらいで終わったのです。

 

   それから、何年か経ち、あの二人が再び、しでかしたのです。

   二人とも、それぞれ、職責を担う立場になっています。

   そして、また、雪が降ったのです。

 

   それも、大雪です。前日の午後早くに降り始め、予報では今夜から明日朝にかけて、降り続くというので、周辺の学校とも連絡を取り合って、翌日は休校と決まりました。

 生徒は休校ですが、教員はそうではありません。無理をせずに出向し、翌々日登校してくる生徒のために雪かきをしなくてはなりません。

   そこで、再び、あの二人がぶつかったのです。

 

   一方は、先生方の先頭に立って雪かきを、また一方は、職員室に居続けたのです。

   大汗をかいて戻ってきた教師が、一言、先生もほかの先生が汗流していますから、手伝ってやってくださいと言ったのです。

 なんの嫌味もなく、なんの棘もなく、ところが、そう言われた教師は、だからダメなんだよ、それなりの立場にあるものは、居るべき場所というのがあるんだよって、横柄に言ったのです。

 

   近くで、その会話のやり取りを聞いていた私は、あの先生、以前、私に上司のことを言ったのではないと言い訳をしたけれど、どうやら、そうではなかったのだなと、私は思ったのです。

 

   上に立つものが、現場に出るべきなのか否かについて、私は、出るべきだと思っているのです。そうでなければ、部下はついてこないし、仕事もうまくいかなくなります。

 

   サマワに駐屯した自衛隊の話を聞いたことがあります。

   そこでは現地の人たちが、作業時間を過ぎても作業を継続していたと言います。ほかの国の基地では、彼らは時間がくれば、途中でも仕事を放り出して帰ってしまうのに、自衛隊の基地ではそうではないと随分と評判になったと言います。

 その理由は、自衛隊の基地では、自衛隊員も、上官さえも、ともに働いていたからだと言うのです。

 

   それに、長の年月、駐屯していれば、トラブルも発生すると言います。

   しかし、自衛隊の基地ではそれさえもなかったと言うのです。

 

   これが、私の上役は現場にあるべしと言う理屈を補強するかどうかはわかりません。

   あのバスケの顧問、そんな姿勢でしたから、同僚からも冷たい視線を浴びて、結局、ほかの学校に移ることになってしまったのです。

 

   あちらの学校でも大いに活躍し、バスケでも県内トップレベルになるほどの成果をあげて、頑張っているなと思っていたのですが、先日、知り合いの教師から電話をもらい、あの先生、生徒に手を出して、懲戒解雇になったと言うことを聞いたのです。

 

   私、そのことを聞いて、やはり、人間は立場ではなく、皆と一緒に汗を流した方がいいって思ったのです。

 


(4) 風強く吹く日

 

 何が怖いって、あの空気をつんざく風の音ほど恐ろしいものはありません。

 

 書斎にある暖炉の小口から、不気味な音を立てて、その音が迫ってくるんです。この間は、家まで揺れるんですから困ってしまいます。

 筑波山から吹き降ろされる風は、殊の外強くてうんざりしているのです。

 

 でも、なんでだろうと、なんで怖いって感じるのだろうって、不思議に思っているのです。

 

 好きで読む『平家物語』や、授業で教材として使った『方丈記』の、あの「安元の大火」が印象にあるからだろうかなんて思ったりするのです。

 

 「七珍万宝さながら灰塵」に、「その費えいくそばくぞ」と書かれた、安元三(1177)年四月二十八日の火事です。

 「風烈しく吹きて靜かならざりし夜」の出来事でした。

 都の三分の一が消失し、死ぬる者数千人と、鴨長明は記録するのです。

 

 それが私の心に突き刺さっているのかもしれません。

 

 いや、関東大震災の、祖母から聞いた話が心にいまだに衝撃となってくすぶっているのかもしれないのです。

 

 私の祖母、くめと言う名の天理教の神様となって祀られている方から聞いた話です、

 

 住まいは、中川という小さな川のほとり、その向こうに、荒川が流れています。

 今はそこに高速道路がかけられ、見事な吊り橋がその威容を誇っていますが、その話を聞いた頃は、中川の土手に立てば、遥か彼方まで見通せる良いところでした。

 その荒川の向こうを指して、火柱が上がって、それが巻くように、時々、斜めになって動くんだ。その火柱の下で何万人もの人間が焼け死んだだよって、そう語ったのです。

 

 「火災旋風」と言うやつです。

 

 大正十二(1923)年九月一日、11時58分32秒に発生した大地震です。

 この日も風が強く吹いていたと言います。

 地震発生時、南南西12.3メートルの風が吹いていました。

 中心気圧は、997hPaの台風の風です。

 風は、西寄りの風から、夕方は西風、夜になると北風に変わり、風速は22メートルになっていきました。

 これが、火災旋風を起こし、避難していた東京市民を襲ったのですから、たまりません。

 

 きっと、このくめ婆さんの話も、私の心に突き刺さっているに違いありません。

 

 いや、もう一つあった。

 母から聞いた話です。

 そして、永井荷風の『断腸亭日乗』の記載もまた、私の心に突き刺さっているではないかと。

 

 昭和二十(1945)年三月九日、その日付が変わった十日のことです。

 

 母の話は殊の外リアルでした。

 なにせ、あの中川に、水ぶくれに膨れ上がった人間がプカプカと流れてきたと言うのですから。それも一体や二体ではなく、あたり一面だって言うのです。

 煙に巻かれ、熱さに囲まれ、それから逃げようと、人々は川の中に飛び込んだのです。その上を風に煽られた炎が覆い、人々は窒息、あるいは溺れて、あのザマになったと言うのです。

 

 この時も、北西からの季節風が強く吹いていました。

 それが、焼夷弾から誘発された火災をさらに大きくしたのです。

 荷風は、九日夜、下町が空襲で焼ける様を遠望し、その火はやがて、自分が暮らす館「偏奇館」をも炎に包む様を描いているのです。

 外遊で得た書物が館と共に燃えていく様に、底知れぬ恐怖感を持ったものでした。

 

 風が強く吹く日には、とてつもなく恐ろしいことが起こるのだと言う思いが、どうやら私の心には鋭く刺さっているようです。

 

 あの日、平成二十三(2011)年三月十一日は、どうだっただろうかって。

 私、さほどの恐怖心を、あの時は、感じていないのです。

 

 その日は、金曜日でした。

 14時46分18秒、職員室の机が揺れ、山積みになった書類の束が崩れ、給湯室にあった食器棚の観音扉が開いて、職員のコップが音を立てて落ちていました。

 断続的に発生する地震の揺れの中で、生徒たちを誘導し、校庭に待機させました。

 雪が舞い散っていました。

 大小の揺れは止むことなく続きます。

 しかし、風はさほどに強くは吹くことはありませんでした。

 

 次第に暗くなるなか、生徒を体育館に誘導し、保護者の迎えを待ちます。

 車のヘッドライトをつけて、体育館内を照らします。

 明け方近く、全生徒を返し、私もまた、家に帰ったのです。

 

 しかし、私が遭遇したあの未曾有の大災害は、強い風が吹くこともなく、だから、私は、腹をすかせながらも、ある程度冷静にことを運ぶことができたのではないかと思っているんです。

 

 この日、書斎から、道一本向こうの研究所の松林が一つの生き物のように揺れ動く様を見ると、私は、自分が体験していない、あれらの出来事を思い、心が重苦しくなるのです。

 



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