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目次

<目次>

 

 (1) 月も陽の光を浴びて

 

 (2) 恋につかれた女が一人

 

 (3) 貧者の一両

 

 (4) 心が ホッと


(1) 月も陽の光を浴びて

 

 私の御朱印帳の一頁に、「一陽来復」と墨字でしたためられた一枚があります。

 

 一の字は、力強く太く、陽という字は、最も大きく、そこにはあるのです。

 来復という字もまた、控えめですが、その存在を誇ってそこに書かれています。

 

 「来福」の間違いではないかって、いや、確かにそこには「来復」とあるのです。

 

 その一頁にあるのは、穴八幡宮の御朱印なのです。

 

 早稲田の文学部の正門の向かいにその神社はありました。

 学生時代には、実は、一度もお参りをしたことがないのです。

 あまりに近くにあると、人間というのはいつでもいけるって勝手に思い込み、挙句に、一度も行かずじまい、という変な具合になるものです。

 

 いつだったか、卒業して随分と年月が経った頃です。

 

 仕事の合間に、ちょっと時間ができて、喫茶店で時間を潰すくらいだったら、久しぶりに大学にでも行ってみようと思い立ったのです。

 

 都電に乗って、早稲田の駅に降りて、西門まで歩いて、大隈先生の銅像の脇を通って、そこから見える講堂に感動して、大学時代に、あの講堂の前の石段で、女友達と何やらを語りながら一夜を過ごしたことなどを思い出し、さらに、今度は本部からちょっと離れたところにある文学部まで足をのばしていったのです。

 

 あの喫茶店も、あの定食屋も、何もかも、変わっていないじゃないかと、感動しながら、そういえば、ハングルの看板が増えたなって、どうしてだろうと怪訝に思いながらも、あのスロープが見えてくると、そんな怪訝さも吹っ飛んでいくのです。

 国連ビルと呼んでいたあの校舎が昔と同じようにそびえています。

 右手の奥には、入学式や卒業式を行う体育館があります。狭い構内をめぐり、私はスロープの上から、校門の向こうにあるこんもりとした森の社を見出したのです。

 

 そうだ、今日こそは、寄ってみようと、私は歩みを速めました。

 

 私のかばんには、いつも、一冊の御朱印帳が入っています。

 鎌倉に極楽寺から始まった御朱印帳です。

 東京に出張の折とか、たまに地方に行く時など、用事の合間に社をお参りした証に御朱印をいただくのです。

 

 この日も、用事がなんだかすっかりと忘れましたが、夕方まで時間が空いたのです。

 午後の時間を、はて、どうしたものかと思案して、この行程を思い立った次第なのです。

 そして、夕方までの間、素晴らしい時間を過ごすことができたのです。

 

 『易経』では、六つの陰と陽で季節を表現します。

 

 旧暦十月は「坤為地」といって、すべてが「陰」になる月です。

 そして、冬至がある旧暦十一月になると、「地雷復」となり、「陽」がひとつ表れてくるのです。

 すなわち、これが「一陽」であるのです。

 

 陰極まれば陽に転ず、というわけです。

 だから、それは「福」ではなく、「復」で良いというわけです。

 

 それが、「福」となったのは、縁起をかついでのことだと思いますから、あながち、間違いとも言えませんが、穴八幡宮はそこをきちんと書いて御朱印にしているということになります。

 

 だから、私は、夏至よりも、春分や秋分よりも、何よりも「冬至」が好きなのです。

 

 易学的に言えば、陰が支配する世界が終わりを告げて、陽が復活するのです。

 すなわち、これ以上悪いことは続かない、これからは素晴らしい出来事も目の前に見えてくるのだという前向きな、それはサインだと思うからなのです。

 

 もっと、積極的に考えれば、お前さんのこれまでの苦労はきっと報われるって、太陽が教えてくれているような気がするのです。

 これから先はなんの心配もいらない、まっすぐ、信じる道を突き進みなさいって、そう言ってくれているような気がするのです。

 

 ですから、江戸時代の人々は、これを金策にかけて、もう金には苦労しないって、そうありたいって願ってこの社をお参りして、大いに繁盛したというのです。

 

 そう言えば、学生時代、この社が気になっていて、図書館で調べたことがありました。

 随分と、人が出て、賑やかな穴八幡宮の絵図の記憶がかすかに私の脳裏にあるのです。

 

 さて、今年は土曜日の天気の良くない日がその冬至の日ではありました。

 

 それでも、我が宅では、いつものように、かぼちゃを食べ、卓球仲間がくれたゆずを風呂に浮かべて、それを絞って、これもいつものことですが、あちらこちらがチリチリとゆずの強烈な酸で痛くなって、そんな冬至の日を過ごしたのです。

 

 すでに、クリスマスのためのイルミネーションも片付けました。

 あとは正月を迎えるだけというのが、我が宅の毎年の慎ましやかなありようです。

 

 そして、冬至が過ぎると、確かに、日がのびてきていることを実感するのです。

 

 これが何より、私にとっては嬉しいことです。

 私は、外で遊ぶことが好きですから、日がのびることが何よりなのです。

 仕事柄、家に籠ることが多いので、なおのことです。

 

 そうそう、冬至の日の月を見ました。

 夜明け前、西の空に、雲の合間から、煌々と輝く月を。

 

 きっと、太陽の光を思い切り受け止めて、輝いていたのではないかと思います。

 あぁ、「一陽来復」だって、その時、実感をしたのです。

 


(2) 恋につかれた女が一人

 

 ちょっとした酒の席でのことでした。

 

 筑波の土地で生まれ、育った方で、役場に勤めていた人から、この地には伊達藩の領地が飛び地であるんだと聞かされて、なぜか、それが気になって仕方がなく、休日のひと時、なんだかんだと調べてみたんです。

 

 あの独眼竜政宗が徳川幕府から常陸国河内郡を与えられたというのです。

 現在の龍ケ崎市あたりです。

 

 明治になって、常磐線が通るとき、龍ケ崎はそれを拒否したと言います。昔ながらの伊達藩の領地で、それなりの文化を構築していた土地柄です。

 そこを煙を吐いて走る汽車、その騒音をきっと嫌がったのだと思います。

 そのため、龍ケ崎は昔のまま、常磐線は土浦を通り、今、土浦は県南の主要都市となり、県都水戸と並ぶ地位を獲得したというわけです。

 

 その龍ケ崎に、あの政宗も来たという記録があるそうですから、政宗の仙台藩常陸国龍ケ崎領はきっとこの辺りではそれなりに繁栄をしていた土地柄であったと思うのです。

 

 私が暮らすつくばあたりも、その際に幕府から飛び地の領土として伊達に与えられたのだと考えられるのです。

 なにせ、この辺りは災害もなく、人々がほのぼのと暮らしている土地柄です。

 柿がなれば、柿を持ってきてくれるし、ゆずが実れば、棘で腕を傷だけれにしても、それを持ってきてくれる人たちなのです。

 そんな人柄も伊達の影響だと思えば思えるのです。

 

 「伊達者」という言葉があります。

 

 なんでも、秀吉に出陣を命ぜられた政宗は、自軍の足軽たちにもそれなりの立派な備えを与えて三千ほどの隊列を作り、都大路を行進させたといいます。

 それを見た京雀たちが、その華やかさに目を丸くして「伊達者」と喝采したと言います。

 そんな派手好みも、筑波一帯の「七五三」の祝いに残っているのではないかと思っているんです。なにせ、結婚式のように、人を集めて、祝うのですから、東京から来た私などびっくりしたくらいなのですから。

 

 飛び地のことを調べていたら、この仙台藩、愛媛にも領地を持っていたという記事が出てきました。

 愛媛県宇和島にある宇和島藩がそれです。

 徳川幕府初期、まだ、盤石ではなかった幕府から、この伊達政宗という男は随分と気に入られていたのだなぁと思ったのです。

 気に入られていたというより、頼りにされていたのだと思ったのです。

 だから、伊達家を優遇し、さらに力になってほしいと思ったに違いないのです。

 

 そんなことを調べていくと、この宇和島に「天赦園」という庭園があることに行き着きました。「天赦」とは随分と珍しい言葉であるなというのが第一印象でした。

 そして、これも気になって調べてみると、政宗の作った漢詩の中にある言葉だっていうのです。

 

 独眼竜、どうやら、武門ばかりではなく、文門にも長けていたようです。

 で、その漢詩というのが、『酔余口号』と題されて、『馬上少年過ぐ 世は平らかにして白髪多し 残躯は天の赦す所 楽しまずしてこれをいかんせん』というものです。

 

  若い頃は馬上にあっていくさに明け暮れた

  今時代は平和になりあの頃の自分もすっかりと歳をとった

  天に与えられた余生が残っているばかりだ

  これを楽しまずして、どうしようか。

 

 そんな風な漢詩であるというのです。

 

 ところが、結句「不楽是如何」を、「楽しまずんば 是いかん」と読めば、先ほどの解釈が成立しますが、「楽しまず 是いかに」と読めば、意味は、『楽しいとは思えない、これはどうしたことか」となるというのです。

 

 そうなると、意味は全く逆になります。

 天下を取ろうと自分は命を投げ出して戦ってきた。しかるに、天下は徳川に落ち着いた、やむなく、我は徳川の下についておもねっている、だから、白髪となった今、我は楽しいとは思えないのだって。

 

 なんとも文学を好む人間には時間を潰すには絶好の話題です。

 

 そういえば、政宗、支倉常長をローマにまで派遣しています。徳川を差し置いて、そのようなことをするのですから、天下を取りたいという野心はあったはずです。

 だとするなら、「楽しまず是如何に」と解釈した方が面白いと思ったりするのです。

 

 そこで、ハッと気がつくのです。

 この政宗という武門の勇なる人物、同時に、文の達人、きっと、後世に謎を意図的に残したのではないかということに思いが至るのです。

 

 心の中にある二律背反を、私たちに投げかけているのではないかって。

 

 そんなとき、私の耳元であの歌がそっと聞こえてきたのです。

 

  京都大原三千院 恋につかれた女が一人 って。

 

 あの「つかれた」って、「疲れた」、それとも「憑かれた」って。

 だって、この女の心境、そうなるとまるきり違うものになるのですから……。

 

 暖炉で焼いていた焼き芋の美味しそうな匂いがしてきました。

 尽きることのない私の思索も、焼き芋の芳しき香りに負けてしまったようです。

 


(3) 貧者の一両

 

 金にまつわる話というのは、実に、後味の悪いものです。

 

 宝くじを買った時の、私の心模様を伺えば、それがよくわかります。

 もっとも、宝くじを買うに要した金は、その心模様を得たいがための金額だと思えばいいのですから、それはそれでありのなのかもしれません。

 

 どこかのお金持ちが、お年玉をやるって、そんなことをネットでやって話題になっていました。

 富ある人の、それを、富なき人への鼠小僧的小判バラマキとして、褒め称えるのか。それとも、富を持つが故の、驕りと見るべきなのか、私には縁のないことなので、しかとはわかりかねているのです。

 

 昔、太宰の『貧の意地』という作品を読んだことがあります。

 

 うだつの上がらない侍が、年の瀬に、奇妙な言動を口走り、毎度のことと思いながらも、できた女房が、医師をしている兄に泣きつくのです。

 兄はといえば、これもまたできた人間で、縁戚に一人バカがいるのも浮世の味とのたまわり、小判十枚を紙に包んで、「貧病の妙薬、金用丸、よろずによし。」と洒落たことを書いて渡すのです。 

 

 まぁ、ここまでは「いい話」ではありますが、この侍、同じうだつの上がらない侍たちを呼んで、宴席を張るのです。

 そして、自慢げに小判十枚を誇らしげに見せます。 

 貧乏人というのは、わずかばかりの金を得れば、それを誇らしく思うものなのです。 

 それは時代を経ても一向に変わることなくあるのです。

 

 で、話はここで一転します。

 

 小判が一枚足りないと、一番の年長の侍が言い出したのです。

 しかし、うだつの上がらない侍、こういう時は、侍の心を取り戻し、いや実は、この宴席のために一両使った、だから、それでいいのだと、その場をしのごうとします。

 呼んだ仲間に、無用の嫌疑をかけることを嫌ったのです。

 

 しかし、年寄りというのはこういう時、その微妙な空気が読めません。

 

 だから、いや確かに、わしは先ほど、お前様の小判を手にしたとき十枚あったことを見ておると言い張るのですから、しょうもありません。

 さらに、この年寄り、衣服を脱いで、ふんどし一丁になって、我が身の潔白をやったもんだから、他の者たちも、そうぜざるを得ずになってしまったのです。

 

 物語は、そこに一人の好漢を配します。

 

 一人の男が立ち上がり、我が懐には小判一枚、確かにあり、しかし、これは我が物であって、そなたのものではない。しかるに、ここまでことが及べば、いかに言葉を弄しも詮無い、我が身の潔白を果たすため、我は腹を切ると言い出したのです。 

 

 皆で、そこまでせぬともと大騒ぎになりますが、その時、あれだけ探してなかった小判が、行灯のそばに落ちていることに皆が気がつくのです。

 

 これにて一件落着かと思いきや、物語はさらに二転します。

 

 女房が土間から走り込んできて、その手には一両小判が、お下げ申した惣菜の入った重箱の裏にこれがひっついていたと言うのです。

 

 さぁ、意地と面子の張り合いをモットーとする侍たち一堂目を見合わせます。

 

 このうだつのあがらない侍、どっかと腰を据えて、きっと、この騒ぎに呆れ果て、一両小判を投げた方がいるに違いない、ぜひ、お申し出をと言うのです。

 しかし、誰も自分がやったとは言いません。

 そこで、くだんのうだつのあがらない侍、わかりました、ではこうしましょう、玄関の薄暗いところにこの一両小判を置いておきますから、お一人づつお帰りになる際に、これを投じられたお方はお取りになっていってください、と。

 そして、この一両小判は、本来の主に戻ったと言う話です。

 

 この女房、落ちぶれてもさすがに侍と名のつく男たちは違うとしみじみ思ったと言う、そんな話なのです。

 

 こんな物語を読むと、拘置所に長の月日留め置かれたレバノン人のことを思ってしまいます。

 何があったかはわかりませんが、同じ社内の中で、ともに仕事をしていた者たちが、いがみ合って、貶めあっている、そんな姿にも、あのレバノン人と同じく、なんだか胡散臭さを抱いてしまうのです。

 

 きっと、そんなことが、世界中の会社で日々内紛という形でなされているのかと思うと、そうした彼らに、この一両に託された思いやりを丸めて飲ませてやりたいと思うのです。

 

 欧米には、ノブレス・オブリージュという観念があると言います。

 高い地位にあるものは、奉仕と犠牲、高い品性を発揮すべしという教えです。 

 取るに足らない、情けない侍たちの、その心には、確かにこれと同じ気概があったことを太宰の文学で、私は知るのです。

 だから、大企業を統帥するお歴々には、それがないとしか思えないのです。 

 ましてや、ポケットマネーでお小遣いをあげるよっていうお方の品性はいかん、と思う次第なのです。

 


(4) 心が ホッと

 

 友人Kから、一枚のハガキが送られてきました。

 

 今時、なんだろうと、裏面を見ますと、彼お得意のイラストの下に、こんな一文が記されていました。

 「引退しました」

 

 この友は、私にとって、かけがいのない友なのです。

 私と違って、社交的で、活発、しかも、謙虚な男なのです。

  

 ある時、御茶ノ水で、二人して、喫茶店に入った時、彼のコーヒーの中に、ハチが入っていたんです。

 彼、それを見て、店員を呼んで、事情を言って、交換してくれるって、そう言ったんです。店は、当然のごとく、恐縮し、責任者がやってきて平謝りです。

 彼、新しいのと交換してくれればそれでいいですからって、今時のクレーマーのように、店で大騒ぎすることもなく、静かに言うだけだったんです。

 以来、私はそんな彼を尊敬しているのです。

 

 話はちょっと時と場所を変えます。

 

 私の教え子で、大学に行く学力は十分にあったのですが、なにせ、父を亡くし母一人の家庭、家では進学資金は容易に出せない、本人も、就職して家を助けたいと、そう言うのです。

 

 この子は、併願で入ってきた子です。

 募集担当をしていた私が中学校の先生にお願いされて、何としても合格させてくれって言われていた子なのです。お金の問題で、公立と本人が気に入った私の学校しか受験しないからって。

 滑り止めに、私立を複数受けるのが当たり前の時代に、この子はそうではなかったのです。

 

 母親にわがままを言ったのか、あるいは、高校くらい好きな学校に入れてやりたいと母親が思ったのかどうかはわかりませんが、その彼女、合格した公立ではなく、私の学校を選び、私が担任するクラスに入ってきたのです。

 

 卒業を前に、君は就職して何をしたいんだと聞きますと、コピーライターになりたいって言うんです。

 授業中、私がある新聞社の出版局でそのような仕事をしていたことを話していましたから、その影響もあったのだと思うんです。

 そうなれば、授業と関係のない話をした私にも多少の責任はあると、私、思ったのです。

 

 ここで、友人Kと私の教え子が接点を持ちます。

 

 だから、私、広告宣伝の会社を立ち上げて、独立して、表参道にオフィスを持っていた彼に連絡を取ったのです。

 ともかく、連れて来いって言うので、制服姿の彼女を連れて、表参道の小洒落た喫茶店で、友人Kに彼女を会わせたのです。

 

 K、教え子に、字を書かせたり、広告宣伝に関するであろう横文字をこれでもかと浴びせてくるのです。

 きっと、彼なりに試験をしていたのだと思います。

 Kが友人と二人で細々とやっている会社です。人を雇うことは、その人に年間何百万を渡すことになるのです。

 私、彼の経営者としてのシビアな側面をこの時垣間見たのです。

 

 いかに、友人の推薦であろうとも、使えない人間を雇うほど、会社は大きくはないのです。

 

 K、私と教え子に向かって言いました。

 コピーライターと言ったって、はい、明日からそうしてっていって、食っていけるほど甘くはないから、見習いで勉強しながら、事務所の雑用をしてもらうと言うのではどうですかって、コピーライターでダメなら、その時は、雑用でやればいいしと、そう言ってくれたのです。

 

 もちろん、私の教え子、お願いしますって頭を下げました。

 

 あれから、何十年もたちました。

 教え子、いまだに私に賀状を送ってくるんです。

 そこで働いていたコピーライター氏と結婚したこと。彼女によく似た女の子を授かったこと。そんなことを綴って、毎年賀状を寄越すんです。

 だから、会うことはなくても、彼女のことをよく知っているという具合なのです。

 

 今年の彼女の賀状にこうありました。

 

 「Kさん、会社を解散します。私の主人、これから独立していきます。娘は二十歳を迎えます」

 

 これで、すべてがつながりました。

 我が友人Kは、自らの事務所を畳み、後進にすべてを譲ったのです。

 そして、その後進の伴侶が、私の教え子だったのです。

 

 なんだか、心が、私、ホッとしているんです。

 

 Kに会いに行かなくてはいけないと、感謝の言葉を彼に直接言わなくてはいけないと思っているんです。

 



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