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新天地、越後新潟町へ

  修就が、新潟赴任の準備に追われている最中の同年、913日。老中の水野忠邦が、813日に出した「江戸城最寄一円」、「大坂城最寄一円」の上知令が頓挫した責任を取らされる形で罷免された。この上知の目的は、高免の土地を上知すること・幕府財政の基盤を強化すること・飛地を整理することだったが、諸大名や旗本から猛反発が起こり、老中の土井大炊守までもが反対にまわった。その日の夜、水野の屋敷が打ち壊しに遭った。水野の罷免に続いて、改革の立案者として水野派の中心的人物だった勘定吟味役の羽倉外記も、小普請入りし70俵を召し上げられ、勘定吟味役を解任した。

 

  水野失脚の翌日、新潟奉行所の支配組頭の関源之進と平戸新太郎を、明15日に登城させるよう修就へ通達があった。登城した支配組頭両名は、将軍に「御目見蒙上意」御暇拝領物として金壱枚と時服2つ下賜された。水野は、罷免前の8月月28日までは登城して執務を行っていたが、罷免後は登城しなかった。老中罷免の裏舞台では、腹心だったはずの鳥居耀蔵が、老中の土井大炊利位に寝返り機密文書を渡すなど工作を謀ったとする飼い鳥の1人に手を噛まれるという劇的なドンデン返しがあった。修就は、鳥居の裏切りを知り憤慨した。

 

  ある秋晴れの朝。修就は、滝、順次郎、おたま。そして、茂之丞を連れて、おたまの実家である荒井家へ出掛けた。おたまにとって、川村家に嫁いでからはじめての里帰りだ。修就は、いつもなら順次郎に付き添うみきが、用事があるからと朝からどこかへ出掛けて行ったことが気になった。新潟赴任を目前にして、順次郎の世話役を務めることになったツヤが、川村家に出入りするようになった。ツヤは、人見知りしない性格なようで、川村家の女衆ともすぐに打ち解けた。滝は、みきがツヤに嫉妬しているせいで、夫婦仲がうまく行っていないのではないかと余計な心配をしている。修就は、何も起きていない内から口を出すのはやめた方が良いと滝にくぎをさした。

 

「新潟へ旅立つ前に、やっておきたいことでもあったのでしょうよ」

  順次郎は、滝の心配をよそに前向きにとらえていた。翌17日、修就は、清厳寺に参拝して、新潟赴任の報告と安全を祈願した。朝は雲っていたが、荒井夫婦が餞別を持参してあいさつに訪れたころには、すっかり晴れていた。客間の障子を開けて庭を眺めながらお茶を飲んでいるところへ、御庭番家筋の古坂勇次郎と親戚の新六がやって来たため、一段とにぎやかになった。

 

「順次郎殿も、近頃は体調がよろしいようで、ようございました」

  荒井の妻がにこやかに告げた。

 

「新しく我が家に招き入れた世話役のツヤのおかげかもしれません。順次郎さんも、以前と比べてだいぶ明るくなりました」

  滝は、すっかりツヤを気に入った様子で当初は新潟赴任後に住込みを頼むはずが、滝の独断により、日にちを早めて強引にツヤを川村家に迎えて順次郎の身の回りの世話をさせている。ツヤの登場で、本妻であるみきの影が薄くなったのは言うまでもない。

 

  それから数日後の夜。大目付の遠山金四郎景元の妻のけいが川村家を訪れた。けいは、香典返しと共に餞別の品を持参して来た。626日に、金四郎の妹が病死していた。

 

「その節は、お心づくしのお品を頂戴致しましてありがとうございました」

  けいがお礼を述べた。

 

「こちらこそ、けっこうなお餞別を頂戴致しましてかたじけない。金四郎殿には、くれぐれも、よしなにお伝え下され」

  修就は穏やかに言った。

 

  川村家には、榊原主計頭忠義や遠山金四郎景元両家から餞別が届けられたのを機に、荒井家や溝口内膳正などからも続々と餞別が届けられた。また、長岡藩や近隣の諸藩からも餞別が届けられ、川村家の座敷の1つは、餞別の品々で埋め尽くされていた。近隣の諸藩の中でも、新発田藩については、江戸出立の9日前、新発田藩江戸藩邸から餞別として修就へ八丈縞3反と交肴1折、家来両名へ200疋ずつ贈られた。餞別を頂戴する間、修就の方も閏928日の出立を控えて、25日から、幕府の要人や親戚へ暇乞いの挨拶廻りを始めた。

  

  あっという間に、江戸出立の日を迎えた。修就は、妻の滝、娘のテイ、5男の茂之丞、順次郎夫妻、順次郎の世話人として新たに雇い入れたツヤ、家来たちを連れて新潟へ旅立った。江戸の留守宅には、老母のコノと新婚の庄五郎夫妻が残った。滝の実父にあたる宮重の御隠居や荒井夫婦。そして、御膳奉行の中野金四郎の養子になった3男の菖之助も見送りに駆けつけた。

 

「留守宅は、わしがしっかり見守る。安心いたせ」

  宮重の御隠居が、当日ギリギリまで庄五郎とおたまに留守宅のことについて念を押している滝を見兼ねて告げた。

 

「でもねぇ。義母上もお年ですし、もし、何かあったらと考えると心配で」

  滝は、嫁として腰を痛めて以来、急に衰えが見え始めた義母上のコノのことを気にしていた。一方、コノの方は、滝に代わり新妻のおたまを川村家の嫁として立派に教育すると俄然張り切っていた。

 

「滝さん。年寄り扱いしないでおくれよ。私はまだ、嫁のあんたに心配されるほどもうろくしてないよ」

  コノが、ムキになって反論したのがおかしくて一同が笑った。

 

「わしらも近所におる故、心配せんと、おまえさんは、新潟での生活に1日も早く馴れて、修就殿を支えなさい」

  宮重の御隠居が滝を優しい言葉をかけると、滝は、父の優しさが、しみじみと伝わったらしく涙した。

 

「時々、文を頂戴ね」

  おたまが、テイの手を取って手紙の交換を約束している姿を見た滝が泣き笑いした。

 

「おたまとテイは、実の姉妹のようですねぇ」

  滝がつぶやいた時、その隣にいたみきが、下を向いたのを修就は見逃さなかった。一方、順次郎は、みきを気遣う様子はなくツヤと何やら話しをしている。修就は、家族間の新たな悩みの種を見つけたのだった。

 

  板橋の宿には、親戚、友人、同僚、出入り町人など大勢が見送りに駆けつけた。この日、見送りに来たのは、川村本家の新六父子、修就の実姉、お対の嫁ぎ先である御庭番家筋の村垣与三郎、母方の親戚にあたる野辺益之助、修就の実姉の唯の夫でもある明楽大隅守、修就の実姉の唯の嫁ぎ先、禁裏附家筋にあたる明楽八五郎、庄五郎の妻のおたまの実父である荒井甚之丞が送った使者。更に、御庭番家筋の面々、倉地次郎と太郎、倉地久太郎父子、古坂勇次郎、古坂健八郎、倉地鋭三郎、馬場善蔵。その他、大河助七、松浦隼助、土肥十四郎、黒野庄太郎、平野元内明番、高橋与五郎、斎藤東太郎、鳥居市十郎、倉地子三郎などから盛んな見送りを受けた。新潟出立侍従には、広間役の平田与左衛門、定役の小柴喜左衛門、並役の川村晋次郎が務めることになった。

 

  天保14年、102日。修就一行は、大宮宿に最初の宿を取ってから、熊谷宿、新町宿、渋川宿と泊まり重ねて北杢の関所を通過した。中山峠、下動峠を越えると、上州の山路は次第に険阻を増して、雪の嶺を眺めながらの旅路となった。時々、しぐれや浅い雪に遭ったが、越後に足を踏み入れてから、不思議と荒天には遭わなかった。

 

 修就一行は、快調な旅路を重ねた。三国峠を越え、浅貝宿、三俣宿に泊まり、106日には六日町本に至り魚野川を下った。通常、関東から越後へ入る旅人の内、佐渡奉行、村松藩主をはじめとする大半が、六日町からの船便を利用している。船の大きさは、60石積、乗組員7名にて長岡までの船賃は、3564文。荷物を載せた馬は荷宰領の足軽が付き添って陸行する。船は、栃原、堀之内、小千谷に着岸して休憩した後、長岡河岸に着岸した。

 

  出立前の長岡藩の対応により、上知された長岡藩主が、修就一行を迎える感情はいかに複雑なものかと警戒していたが、修就の心配をよそに、長岡の市中に至った一行を、町奉行の槇三左衛門、安田杢両名、郡奉行の木村戸右衛門、代官役の堤善兵衛、柳町茂左衛門の両名など町の辻々が出迎えた。

 

 長岡に着いたその日。修就一行は、長岡町本陣の草間幸左衛門宅に泊まった。早速、長岡藩の使者が訪れて、修就へ旅中無滞珍重と摘綿3把。家来へ200疋ずつ贈られた。また、同じ日。その使者とは別に、もう1人使者が訪れて、京都所司代として在勤中の藩主より、かねてから指示のあった縞紬3反と鮭2尺が修就へ送られた。本陣門前には、長岡藩の足軽が、3つの道具を立てて警固しており、あまりの厳戒態勢に怖れをなしてかいつもは賑やかな茂之丞までもが、音を立てないように気を配り大人しく過ごしていた。長岡町の検断はもちろん、新潟町の検断、年寄、年寄格、仲元方、町代、町代格、仲手代の町役人が、ひっきりなしにあいさつに訪れた。

 

 同年、108日。長岡を発った修就一行は、長岡藩主が提供した屋根を持ち幔幕を張り障子を立てた船に乗り三条へ向かった。三条は、村上藩の内藤紀伊守の領地で陣屋がある。修就一行を乗せた船は、大川津、地蔵堂を経て三条へ到着し1泊した。

  9日。一行を乗せた船は、供船2艘、小舟1艘を伴って川を下った。大野においては、新潟町方の出迎え船2艘の他に長岡藩が提供した一行の船を曳く為の6挺艪船四艘。更には、新発田藩が提供した案内船が、修就一行の到着を待っていた。

 

  長岡藩については、修就一行を乗せた船が新潟町に到着した際も一行を乗せた船を曳く為に新潟詰足軽2名ずつ乗った4艘の船を出し長岡藩の中老格、町奉行、郡奉行、代官役などが市中に出て、新潟町に上陸した修就一行を出迎えて寺町通にある仮奉行所へ誘導した。

 

 到着早々、修就は、予定通り仮奉行所に入った。修就が、上段の間に着座すると次の間に控えていた長岡藩の新潟町奉行2名、郡奉行に続いて唐物改役などがあいさつをした。修就は、仮奉行所と居屋敷中を歩き廻り、造作の修理、畳替え、障子張りがすべてなされているかどうか自らの目で確認した。修就は、長岡藩領時代に新潟町のあらゆる町政を取り仕切っていた町役人を停廃することを宣言して、長岡藩領時代から奉行所に勤めている町役人たちを驚かせた。

 

「身共は、もういらねぇってことですか? 」

  新潟奉行所検断の1人の松浦久兵衛が、修就の御前まで進み出て質問した。

 

「そうではない。まあ、落ち着いて最後まで話を聞くが良い」

  修就が冷静に告げた。

 

「お奉行様は、身共が、どれだけ新潟のためにやってきたのか何も知らねぇ故、斯様なことを仰せになれるんですよ」

  松浦の背後には、無言の圧力をかけてくる長岡藩領時代から奉行所に勤める町役人たちが控えていた。修就は立ち上がると皆を見回した。

 

「実は、わしは、古くからおぬしらを存じておるが、定めしおぬしらも、わしのことを存じているはずじゃ。この顔に見覚えはござらぬか? 」

  修就の思いがけない問いかけに、その場が騒然となった。長岡藩領時代からの町役人たちが、互いの顔を見合い耳打ちしているのを修就は、不敵な笑みを浮かべて見据えた。

 

「この新潟に、江戸屋と申す飴売りがおったじゃろ? あれはわしじゃよ」

  修就の言葉に、先ほどまであんなに息巻いていた松浦が、口をあんぐり開けたまま固まった。

 

 新潟奉行着任後。修就は、新潟において、雨、霰、雪、風という荒天が続く1年の内で最も不安定な季節の洗礼を受けた。悪天候の中でも、新潟浜村受け取り作業を行うため、組頭、広間役、定役、並役いずれも野袴を着けて総出勤しなければならなかった。

 

 江戸で選任された他の新潟奉行所構成員たちも続々と、新潟入りを果たした。4日前に、新潟入りした組頭の関源之進は仲番所を受領した。同じく、組頭の成瀬又太郎の方は、三条出船が遅れて15日にやっと到着し仲番所、唐物改番所の他、本町通にある高札場、広小路にある船蔵などを受領した。また、洲崎の番所へは、広間役の村上愛助が出張して建造物と共に備え付けの大筒小筒を引き継いだ。 

 この日、修就は、長岡藩から仲金2100両余を査収した。悪天候に、風邪が重なり、修就は、心身共に不調の状態で受取り作業を進めなければならなかった。新潟地堺の榜杭打ち、囲籾の受領、牢屋の引き継ぎも終わった。

 

  同年、1020日。郷村引渡し申達となったこの日、長岡藩領時代の新潟町奉行の槇三左衛門、安田杢両名。郡奉行の木村戸右衛門以下、町役人たちは全員、麻上下威儀を正しく居間に2列に並んだ。

 

「郷村、諸書物、諸番所その他を受領した」

  修就が申し渡すと、一同平伏した。支配換えの業務を終えた修就は、翌日付で「囲籾請取侯趣申上侯書付」「新潟表御備場洲崎番所其外請取侯趣申上侯書付」と新潟表記録にある御届と共に「郷村諸書物請取侯趣申上侯書付」として、事務完了御届を老中の土井大炊頭利位と真田信濃守幸貫に提出した。修就は手はじめに、組頭を通して、検断や年寄に「今日より奉行所支配と心得」その旨を小前の者まで徹底させよと命じ、1021日の4ツ時には、検断3名を呼び出した。

 

「いろいろご苦労」

  修就は、1間置いた部屋から謝意を表した。検断3名が平伏した。

 

「向後は諸事入念に」

 さらに、修就が申し渡した後、検断3名が、「承知つかまりました」と告げて平伏した。

 

 奉行所の係分担は、組頭2名が相談して、奉行である修就が決定して申し渡すとした。早速、翌日から、新奉行の町内検分が開始された。修就は休む間もなく、翌、225ツ時から、羽織袴姿で洲崎番所をはじめ各番所を廻り夕方に帰着した。その翌日も同じく、5ツ時に奉行所を出て、雪、霰、寒風と相次ぐ悪天候の中、柾谷小路から船に乗り代官島、附寄島、水島、米山前等を検分して提灯をつけて帰着した。24日には、6ツ半時に出立して、浜風が荒れ狂う新潟浜通から関屋、寺尾、青山、内野を通り、五十嵐浜村番所に至るまでの検分を行った。

 

「話には聞いておったが、想像以上にひどい有様じゃ」

  修就は、浜通りを検分する道すがら、飛砂の惨状を目撃し思わず絶句した。

 

「堀直寄様が、元和3年に、巡見した折にも同じようにこの惨状をご覧になり、浜手に河原グミを植えさせたそうにございます。これまで、藩も、砂丘地に植栽するなど手を尽くして参りましたが、この通り、とても人が住める状況ではござらん」

  案内役を務めた長岡藩年寄の又左衛門が恐縮気味に話した。

 

 新潟町には、砂丘があちこちにあるが、信濃川河口に近い日和山は、新潟町で最も高い砂丘の1つだ。日和山の頂からは、海を一望することができる。日和山の下には、新潟町の廻船問屋が共同で作った下小屋があり、各問屋の手代が、毎日のように詰めている。各問屋の手代たちは、交替で日和山の頂に登り新潟湊を監視する。新潟湊に廻船が近づくと、通辞船に乗り込み廻船へ向かうのだ。

  晴れた日は、家族連れが浜辺に円陣を作り食事をするなど、思い思いのひとときを浜辺で過ごす町民の姿が見受けられる。新潟の浜は、町民にとって憩いの場所でもある反面、砂入りや飛砂が発生する不毛な土地でもある。

 

  修就は、検分に立ち会った町民から話を聞き、砂入りがある度に、住処を転々としなければならない町民の苦労を知ると、ただちに、海岸樹木の伐採を厳禁し、奉行所の役人に「砂時計」と「諸苗木植付掛」を任命した。さらに、北蒲原郡方面の漁村に側近を派遣して松苗の育て方を研究させるなど行動を起こした。検分に参加した奉行所に長岡藩領時代から務める町役人たちは日を重ねる内に、修就の多少強引ではあるが、抜群の行動力に一目置くようになった。

 

 新潟着任以来、修就は、時間の許す限り町の巡見に出ることを心がけた。修就が家臣たちを引き連れて町中を廻る様子は、たちまち評判を呼び、町の巡見の触れが来ると沿道まで出て来る野次馬もいた。また、遠方から来ていた商人や百姓が偶然、町で遭遇したお奉行一行の様子を土産話に里へ持ち帰ったことから、上知後、新設された新潟奉行所の初代奉行の風聞は、瞬く間に、新潟町以外にも広まった。

 

「お奉行様がお通りになると、野良犬が吠える故、すげぇうっせえんさ」

  新潟町の店で働く手代が、常連客に吹聴した話は、巡見の際、槍や狭箱、牽付馬などを普段、見慣れていない道端にいる野良犬が、それらをあやしんで一行が通り過ぎるまで吠えまくるので、あまりのやかましさに、町方から出た案内役が犬を追い散らすのだが、そのあわてぶりに反して、追い立てられた野良犬が、いっそうけたたましく吠える様子がまるで、寸劇のようで滑稽だというものだった。

 

「新潟の犬は、それはもう、よく吠えるのじゃ」

  けたたましく、吠える犬を初めて見た日の夜。修就は、妻の滝や子供たちに話し聞かせた。

 

「父上を見て、犬もおそれをなしたのでしょうか? 」

  茂之丞は、修就が威厳に満ちた様子で町中を闊歩している様子を想像したらしい。

 

「案内役に聞いたところ、わしではなく、犬は槍や狭箱、牽付馬などを普段、見慣れていないので怪しんで吠えたのだろうと申しよった」

  修就が苦笑いした。新潟に引っ越して来て以来、町中で目にするもの聞くものすべてが、江戸と異なり話題にこそ欠かさなかった。

 

「父上。北山殿からお聞きしたのですが、この前の巡見の折に、新潟の方言にまつわる滑稽な事件があったそうですね」

  珍しく、順次郎から話をふって来た。この手の話には、いつも黙って聞いているだけだが、新潟に来てから、まるで憑き物が取れたように明るく気さくになった気がする。

 

「もしや、ねまれのことか? 」

  修就が、思い出し笑いをしながら訊ねた。

 

「ねまれとは、何のことですか? 」

  みきが真顔で訊ねた。みきもまた、江戸を出立する前に比べると、自分から会話に加わるようになった。

 

「ねまれというのは、江戸言葉でいう下におれという意味じゃ」

  修就が答えると、みきが、感心したように相槌を打った。

 

「父上が町に姿を現すと、どこからともなく、町民が道の脇に集まり、黒山の人だかりができるそうだ」

  順次郎がみきに言った。

 

「前のお奉行様が、町を巡見なさらなかった故、きっと、物珍しいのですよ」

  滝がすました顔で言った。

 

「案内役が、立ちながら見物している町民を見兼ねて下におれと命じた時のことじゃ。女子供は驚いた顔をするばかりで、どうして良いのか分からぬ様子であった。そこに、検断の松浦が、列から飛び出して来て見物人らに向かって、大声で、ねまれ、ねまれとさけぶと、ふしぎなことに、見物人たちが続々と、土下座し出したのじゃ。後で、聞いた話では、下におれというのをはじめて聞いた見物人は、その意味が分からなかったそうじゃ」

  修就は、手振りを加えて語った。滝をはじめ、修就の話を聞いていた家族が、大きくうなずいた。

 

「ねまれの他にも、わしらが聞いたことのない言葉がまだあるかも知れませんね」

  順次郎が言った。

 

「この際だから、いろいろ調べてみようではないか」

  修就は、書き損じた反古紙の束を用意させると町役人たちに訊きまわり思いつく限りの方言を調べて書き留めた。

 

「調べてみたら、これがなかなか興味深い。新潟では、弟をおじ、妹をおばというらしいが、叔父や叔母との区別がつかずまぎらわしい。この方言を使用することを禁ずることに致そう」

  修就が、おじとおばという新潟の方言を使うことを禁止すると町民から苦情が来た。しかし、修就は断固として撤回しなかった。

 

「お奉行様は、暇さえあれば家来たちを随えて、町中を見て廻りながら、反古紙の裏に何か書き留めているそうだ」

  長岡藩時代から引き続き採用された町役人たちは、何かと用事を作っては誰かの家に集まり情報交換をし合っていた。

 

「お奉行様のお屋敷には、寒暖機というおもしろいものがあるんだぜ」

  ある日。修就から用事を仰せつかった松浦は、お奉行屋敷に入る機会を得た。帰り際、庭先を何気なくのぞくと、新潟ではお目にかかったことのない世にも珍しい道具が置かれていた。好奇心を抑えきれなかった松浦はそれに駆け寄ると、隅々までじっくり眺めた。そこに偶然に通りかかった修就の長男の順次郎が、親切にも、その珍しい道具について教えてくれたのだ。

 

「水銀が中に入っていて、気温を測ることができるそうだ」

  松浦は、寒暖機を図に描いて皆に見せて自慢した。修就は、新潟に来てからは、新潟と江戸両方の気温を記録している。寒暖機は、90度を甚暑、34度を甚寒とする水銀入りの物を使用している。修就に負けず劣らず、順次郎も、はじめて見るもの聞くものすべてを書き留めて、家族に話し聞かせたり、書物にまとめて、後で読み返したりして楽しんでいた。順次郎は、病を患って以来、ずっと関節痛に悩まされており、外を歩き廻ることをなるべく控えていたが、修就の話を聞く内に、封印していたはずの知的好奇心を抑えきれなくなったらしい。

 

「順次郎様。もっと、ゆっくり歩いて下され。転んでケガでもされたら、私が、殿にしかられます」

  順次郎の世話役として、順次郎の外出に同伴しているツヤは、新潟に引っ越して来て以来、すっかり元気になった順次郎にふり回されっぱなしであった。

 

「ツヤ。そなたは、後からゆっくり参るが良い」

  順次郎は、ツヤの心配をよそにどんどん前へ突き進んで行く。

 

「順次郎様。お待ち下され」

  しかも、初老の供侍でさえも、後を追うのに息切れする速さだ。

 

「後から追いつきます故、お先にどうぞ」

  結局、最後には、ツヤもおれて、ゆっくり追いかけることにしたらしい。

 

「新潟に越して来た途端、順次郎は、人が変わったみたいに元気になって、方々を歩き廻っていますよ。これでは、ツヤを連れて来た意味がございませんね」

  滝が、ツヤを江戸の医師の田村玄谷の元に返すのはどうかと言い始めたので、修就は、順次郎の体調が良くなったのは一時的なものかも知れないと言い抑えた。新潟に来てから、ツヤは、世話役というよりむしろ妾に近い存在になってきており、ツヤは本妻のみきよりも長い時間、順次郎の傍にいるため、家来や奉公人たちは、みきではなくツヤを介して順次郎と連絡を取るようになった。

 

 一方、修就は、着任以降、行政人としての手腕を発揮していた。ある日は、新潟湊には田畑がなく取箇はないことを知り、長岡藩領の西川筋粟生津村より下流一帯と、三根山藩領を上知し、出雲崎、水原両代官支配地も加えて、20余万石の土地を新潟奉行支配地として、佐渡奉行と兼帯にすることを取り決めた。新潟着任以来、長岡藩新潟奉行所役宅下屋敷と作事場が、仮の居宅兼新潟奉行所となった。修就は、ここを「仮御役所」を名づけて町役人にも「仮御役所」と呼ぶよう命じた。

 

  江戸を離れる矢先に起きた、修就の才能を認め引き上げてくれた恩人でもある水野忠邦の失脚は修就にとって教訓であり、大きな原動力ともなっていた。修就は、水野のことだから、また、何かの形で返り咲くと信じていた。

  

新潟奉行所の建設は、修就の打ち出した施策の象徴ともなりえる。修就は、長岡藩から引継を受けると、すぐ、新潟奉行所の建設に適した土地の調査を開始して、10月下旬には、案内役を務めた年寄の又左衛門に候補地を伝えた。

 

「これが、新潟奉行所建設候補地をまとめた帳面じゃ。これを基に、新潟奉行所の普請に着手せよ」

  同年、1114日。修就は、広間役の平田与左衛門、定役の杉田弥平次、定役の水谷一郎、並役の北嶋半左衛門および並役の栗原鉄蔵の5名を御申請掛に任命し、新潟奉行所晋請に着手した。

 

「これは何ですか? 」

  広間役の平田が、新潟奉行所建設候補地の帳面の下に重ねられていた帳面に気づくと訊ねた。

 

「ああ、それは御陣屋場所候補地じゃ。勘兵衛には伝えてあるが、この間、毘沙門嶋と馬原嶋の検分を行った折に、御陣屋場所の見立ても併せて行ったのじゃ。目を通しておくように」

 修就が答えると、一同、平伏して「御意」と返事した。

 

  後日、奉行所の普請が発表されると、新潟町民から多数の申し出が殺到した。収拾がつかなくなったため、調査をした上で候補者をしぼった。奉行所の土地は、2157坪あり、敷地には、奉行所と奉行居屋敷の他に白洲、武道練習所、馬術と砲術の練習場、学問所など数種の施設が建つ予定だ。

 

江戸で選任された組頭以下の役宅については、旧長岡藩同心長屋十軒の内6軒を広間役に、残り4軒は、定役20名の内4名の役宅とし、組頭2名、定役16名、並役30名の役宅は、寺院の門前地や新潟町入口に位置する三軒茶屋前に新改築することに決まった。足軽長屋については、定員20名分を建てるところ奉行所内が手狭なので15軒とした。特に、足軽は独身者が多数占めていたこともあり、長屋完成まで、奉行所内の作事小屋を仮宿舎とし、1部屋に3名ずつ住むことになった。滝は、修就から、奉行所と奉行屋敷の候補地を聞くと早速、子供たちを連れて下見に出掛けた。

 

「町から離れた場所ですので、静かで過ごしやすそうですね」

 滝は、町の喧騒から離れた静かな地をいたく気に入った様子だ。

 

「わしもそう考えて決めたのじゃ。幸い、広大な土地が見つかったので良かった。これからは、役人の子弟が学ぶ学問所を作り、上知後の新潟を担う有能な役人を育成すると共に砲術の練習場を設けて家臣共に異国船の攻撃に備えて砲術を訓練させるつもりじゃ」

  修就の頭の中では、明確な未来図がすでに完成していた。新潟において施策を行う一方で、江戸の様子も気がかりだった。

 

  11月初旬に、江戸の屋敷を守る庄五郎から送られて来た書状には、水野忠邦失脚のその後の展開が記されていた。水野の側近とされる幕臣の大半が、水野の失脚により一掃されたにもかかわらず、水野の右腕といわれていた鳥居甲斐守は、依然南町奉行に留任し、同じく、水野政策推進者の榊原主計頭忠義も、勘定奉行に就任するなど、水野の側近の中でも、明暗が分かれる事態が起きた。これは、一時的に、改革の責任者である水野を表舞台から遠ざけることで、改革に向けられた民衆の怒りや疑惑を排除しようとする幕府の謀なのではないかと深読みする幕臣もいるらしい。修就も他人事では済まされない状況に置かれている。現在進行中の施策が失敗すれば、水野と同じ状況が待っているからだ。同年、913日に罷免された水野忠邦の後任に牧野備前守忠雄が就任したことを複雑な思いで受け止めた。

  

 10月に、洲崎番所をはじめとする各番所の検分を行った結果、正徳3年から続く仲制度に、矛盾な点を見つけた修就は、これまで、長岡藩の勘定方から派遣された仲目付が統括していた仲番所を「仲会所」と名称を改め、新潟奉行所の管轄に変更した。それに伴い、船改めの届の書式を定め、広間役、定役、並役の中から、仲金取立掛を任命し、「仲会所」に勤務する仲方役人たちを仲金取立掛に統括させることにした。長岡藩領時代の仲方手代が船荷を改めていたものを仲金取立掛が手代を連れて船改めを行うことに変更した。

 また、同じ船主が所有する船であっても、船から船へ積荷を移す場合は、「役銀」を取り立てることになった。奉行所の役人を置いたのは、唐物抜荷の取締を強化する目的があった。

 

修就は、2度にわたる唐物抜荷が摘発された長岡藩領時代の悪しき慣習を払拭するには膨張していた仲会所の人事整理をしなければならないと考えた。そこで、大胆な人員削減を行い、仲元方頭取の唯七郎、仲元方の梅次郎をはじめ、仲元方見習3名と手代13名。そして、手代見習1名を解雇した。修就が新潟に赴任してから、長岡藩領時代に比べて、仲金の微収は目に見える伸びを見せており、引化元年には、1359両余と2倍以上の増収となった。

 引化43月分の仲金が、2100両余に上り仲はじまって以来の金額を達成した。新潟奉行所の領地で微収される税は、仲の他に土地にかかる地子、年貢、網役のような役銀などがある。それら物成金は、会津経由で江戸の御金蔵へ納められた。

 


新潟の四季、初孫の死

 毎年、71日から7日まで、新潟町は連休に入り、町をあげて湊祭が大々的に行われる。湊祭の最終日は七夕祭りだ。修就は、3月の白山神社にて行われた春祭と夏祭に行う能興行を例年通り行うことを許可したが、湊祭についても、例年と同様に仕切り通りに行うよう許可した。77日の「住吉祭」は毎年、多くの見物客が見込まれていることから、奉行所一丸となり治安維持に努めた。

 

「己の生業を45日投げ捨て踊っても、それが楽しみならばそれでけっこうじゃ」

 

 修就は新潟の慣習に習い、盆中は仮御役所も休みとした。また、広間役、定役、並役からの願い出を受けて、盆休みに入る前に8月分扶持高を渡した。

 

 

 

711日から13日の3日間、新潟町の本町通に昼と夜の2回盆市がたつ。修就も、検分がてら滝を伴って盆市をのぞいた。13日は、新潟では、お墓参りとお棚参りを行う家が多い。夕暮れ時、町家の門の脇には迎え火が焚かれる。町中の軒下に提灯が吊るされ、日が沈むころ、一斉に灯される。修就は、寺町堀周辺の参道を行き交う浴衣姿に提灯を持つ家族連れを多く見かけた。寺町堀は町と奉行所や寺を区画する堀だ。堀周辺には橋が少なく、西側に建ち並ぶ寺は堀を境内の周囲にめぐらせ参道の脇に池、前寺、堂を設けていた。それらの奥には、大きな本堂や庫裏がある。寺町堀の東側は、寺が建ち並ぶ普段は閑静な場所である西側と打って変わって、日が暮れるとにぎわいを見せる繁華街だ。食品や日用品を売る商店は少なく、妓楼兼旅籠屋や飲み屋が多く店を構えている。墓参りに出掛ける人波の中に、麻上上下の町の重立や羽織袴姿の町民の姿も見られた。

 

 盆踊りは、14日から17日の間に、神社、寺院の境内、町の広場などで行われる。奉行屋敷にも、樽をたたく音や音頭取りの唄う「新潟陣句」の音楽が風に乗って聞こえて来た。仮御役所の門内でも、最終日の夕方、子供達が集まり盆踊りが行われた。その日、盆踊りの手伝いに駆り出された修就の子供たちも、奉行所の役人の子供たちと共に参加した。

 

「盆踊りの間は、若い娘も、夜おそくまで出歩いてもよろしいそうですよ」

 

 娘のテイは、寺院の境内で行われている盆踊りへ向かう若い娘たちを塀越しに羨ましそうに眺めていた。

 若い娘たちの中では、茜染の木綿や縮緬の振袖に白木綿の手ぬぐいを半襟代わりに首に巻き、髪には大きな花の簪を差すのが流行している様子だった。一方、若者は、それぞれが仮装をして踊りを楽しんでいた。女装、僧侶、神官、七福神、奴、浪人など、何でもありの寛容な雰囲気があった。普段は花街にいる遊女たちも、艶やかな出で立ちで参加する。声に自信のある若者が音頭を取り、踊りは夜明けまで続く。修就は、盆踊りに参加したいと子供たちにせがまれたが、夜の外出を許可しなかった。せめて、雰囲気だけでも味あわせてやろうと、仮御役行所の門内で行われた盆踊りの進行を手伝わせたのだ。音頭取りは部屋住の者たちが担当した。

 

「よお、日本一」

 

 盆踊りを見物する人だかりの中から、いせいの良い声援が聞こえた。部屋住の松浦金次郎が、壇上に上り唄い出した直後だ。金次郎は、顔を赤らめながらも美声を張り上げた。

 

 

「殿。あすこをご覧下され。検断の松浦殿が、輪の中央で踊っておりますよ」

 

 横に立っていた滝が、笑いながら修就の肩を軽くたたいた。

 

 修就が、輪の中央を見ると、松浦が得意気に踊っていた。輪の中央に、大人が1人手本として踊ることになってはいたが、息子は音頭取り、父親が手本という組み合わせは珍しいらしく、輪の外側で見物していた者たちの中には、松浦のノリに乗った身ぶり手ぶりに手をたたいて笑い転げる者や声援を送る者などがいて、輪に加わり踊る子供たちよりも、見物している大人たちの方が大いに盛り上がっていた。修就は、松浦の様子を見て苦笑いするしかなかったが、自分の子供たちが、他の子供たちにまぎれて楽しそうに踊る姿を見て満足した。

 

718日。修就は、訓練と慰安を兼ねて水泳訓練や遠出を行った。支配向定役3名、並役6名、部屋住11名による水泳訓練を洲崎御番所辺において実施した。完泳者には、スイカを4つ賞与すると冒頭で告げたので、折り返しで白熱した競争に転じて大いに盛り上がった。水泳訓練が終わった後、修就は、家来たちを引き連れて川上へ登り大川前御番所前において、鮭魚網を引かせ鯔20本、7寸位の鮒などを捕り、組頭以下家来たちに配った。さらに、白山向かいの州で釣りをした後、そこで、網を引いた鯔6本を調理して、家来たちに酒肴を振る舞い月の出を待って帰宅した。

 

 

 

冬の間、新潟の海は荒れる日が続き、新潟湊に出入りする廻船も減り、新潟湊とその周辺は閑散となる。また、川売り業者が総出で、新潟湊付近に繋がれているすべての船を信濃川の川岸に引き上げて、箛や莚で囲う作業に取り掛かる。

 

 一方、砂丘の上に、ひっそりと建つ漁師の家では、浜の男衆が、囲炉裏を囲んで網作りに精を出す。季節が冬でも、日本海が穏やかな日には、漁師たちが、3反の布で作った帆を立てた大きな船に78名で乗り込んで、ヒラメやカレイなどの手操り漁に出る。新潟の漁村は、半漁半農の家が多く、砂丘を開墾して麦、大根、カブなどを作っている。冬になり漁に出ることができない日が続いても、畑で採れた作物で、飢えを凌ぐことができるからだ。

 

 江戸と同様、新潟町も路地が多く、長屋については、隣同士の間が狭いこともあり、1度、火災が発生すれば、たちまち、周囲に火が燃え移り大火災に繋がりやすい。

 

修就は、新潟町では、町火消体制が、きちんとなされていないことに気づいた。長岡藩領時代から、「五人組」という制度が町内ごとにあり、各組内で年ごとに決めた年番が代表で、奉行所にきまりを聞きに行き、地主、家守、店子、借家人を集めてそのきまりを読み聞かせる行事は行われていたが、町内で火事が発生した場合、出火場所に駆けつけて、その状況を奉行所に連絡する者を特に定めておらず、消防道具の保管場所も特定されていなかった。そこで、修就は、町火消体制を整備することにした。町会所の前に立つ高札に掲げられた御触れには以下のことが書かれた。

 

l  「新潟火消人足番組」を結成し、全町を5組に分け、一組70名総勢、350名を配し、各組の竜吐水1挺ずつ備える

 

2  出火の際、その出火場所の風向き、強さなどを見て、奉行所、牢屋敷、出火場所にそれぞれ駆けつける者をあらかじめ定めておき、奉行所役人総出で消火に務める

 

3  消防用具は、保管場所を決め、消防用具入小屋を5か所建てる

 

 

消防組頭取には、給金として1カ年、3両。世話人には、24朱。消防夫には、500文から1貫までの「足留料」が支給されることになった。

 

 

 

昔から、新潟町は、初春のフェーン現象が現れる時期などに、大火に多く見舞われている。修就は、着任後すぐ、防火用井戸を掘ることを許可し、家来全員へ、出火の際の心得を申し渡した。そこまで備えても大火は発生する。嘉永2年、423日には、奉行所内の足軽長屋から出火し1棟を焼き尽くした他、長屋3軒も消防のために取り壊すという大火災が発生した。この大火災で、修就は差控伺いを出した。同年、閏47日。幕閣から「出火遠慮」の通達が届き即座に遠慮に入った。修就は、奉行所の表門や通用門とも閉じさせて、「御用向」と医師以外の通用を禁止し、奉行所内の長屋の窓も閉め切った。江戸の屋敷を守る庄五郎も、この件に連座し「御目見遠慮」になった。遠慮は、閏49日には許され庄五郎の御目見遠慮も許された。焼失した長屋と取り壊した長屋共に翌年の4月に再建された。

 

 修就が、新潟奉行に着任した年の冬。新潟の川村家では、順次郎の身の回りの世話を担う下女として、川村家に入ったツヤが、順次郎の子を懐妊し臨月を迎えていた。本妻の子ではないものの、初孫ということもあり、修就と滝は手放しで喜んだ。

 

 ある日の夕暮れ時。所用の帰り、修就は、僅かなお供を随えて仮御役所へ向かって歩いていた。新潟町近郊の鳥屋野潟近くを通りかかった際、潟の周辺に黒山の人だかりが出来ているのを目撃した。

 

「あれは、何の騒ぎじゃ? 」

 

 修就は、案内役の年寄の又左衛門に様子を見て来るよう命じた。少しして、又左衛門が急ぎ戻って来た。

 

 

「がたがた追いを見物するために、大勢の見物人が、潟の周りに集まっております。ご覧になって行かれますか? 」

 

 又左衛門の説明が終わらない内に、修就は、人だかりに向かって歩き出していた。

 

 

「実に美しい音色じゃ。あの太鼓は、いったい、何で作られておるのじゃ? 」

 

 修就は、熱心に「がたがた追い」を見物した。「がたがた追い」とは、扇網を水中に沈めて、魚を待つ舟から遠く離れた場所に停めたもう1隻の舟の端や太鼓をたたいて、魚を扇網の方へ追い立てる漁法だ。

 

 

「知人が、あの太鼓を作る職人で、がたがた追いに用いる太鼓は、竜眼木でこしらえると聞いた覚えがございます」

 

 又左衛門が答えた。

 

 

「気に入った。早速、竜眼木で、しゃく拍子を作らせるとしよう」

 

 修就は、上機嫌でその場から立ち去った。

 

 

 師走1日。奉行屋敷に、組頭以下の役人たちがあいさつに訪れた。修就は、あいさつを受けた後、宴を開いた。江戸から新潟へ赴任して以来、各自、それぞれの仕事に追われ一同が集まることが、なかなかなかったことから、宴席では、話が思った以上に弾んで、誰も腰を上げたがらず、近所の寺までにぎやかな話し声が聞こえるぐらい盛り上がった。深夜になり、近所迷惑になるとしてお開きになった。

 

「久々に呑み過ぎた」

 

 修就は、家来たちが帰った後もひとり、手酌酒で酒を呑み続けていた。

 

 

「殿。ほどほどにしませんと、明日2日酔いになりますよ」

 

 下女にテキパキと指図を出しながら、片づけていた滝が、一段落して近づいて来た。

 

 

「来年は奉行所が完成するし、初孫も産まれる。めでたいことが重なるのは滅多にないことじゃ」

 

 

「殿が、酒を酔っぱらうまで召しあがるのを初めて見ました。久方ぶりに、楽しい酒を呑んで気が緩んだのでしょうか」

 

 滝は、その場で居眠りを始めた修就のカラダの上に掛け布団をかけると、しばらく寝顔を眺めていた。 

 真夜中、修就は、尿意を感じて目を覚ました。自分の寝ていた場所が広間だったことから驚いた。急いで、厠に行き用を足すと寝所へ急いだ。廊下を歩いている途中、庭先に人影を見つけた。

 

「誰じゃ? 斯様な夜更けに、そこで何をしておる? 」

 

 修就は、目を凝らして人影を確認した。

 

 

「申し訳ありません。月があんまりにも美しかった故、つい、見とれてしまいました」

 

 暗闇の中で聞き覚えのある声が聞こえた。次の瞬間、月明かりに照らされて、みきの姿が浮かび上がった。

 

 

「早く、床に入りなさい。おなごがひとりで庭に立っていては物騒じゃ」

 

 修就がとがめた。

 みきは、縁側に上がる時、腰をかがめてめくれた裾を直した。その時、月明かりに照らされたうなじが白く光ったことから、修就はつい目を奪われた。

 

「あの」

 

 みきと目が合ったので、修就はあわてて目を反らした。

 

 

「早く寝所へ戻りなさい」

 

 修就は、寝所へ向かって歩き出した。角を曲がる時、さりげなくふり返ると、みきは縁側に座り夜空を見上げていた。

 

 

「殿? 」

 

 寝床にもぐりこむと、滝が小声で名を呼んだ。

 

 

「起こしたか? かたじけない」

 

 修就は、布団に入ると顔だけ横に向けた。

 

 

「いったい、今まで、誰とお話されておられたのですか? 」

 

滝からするどい質問が返って来た。

 

 

「みきじゃ。厠に行った後、廊下を歩いていたら、庭先に立って月を眺めておった。もうおそいし、暗い場所に、おなごがひとりでいるのは物騒故、注意した」

 

 修就が答えた。

 

 

「何かあったのでしょうか? 」

 

 滝が訊ねた。

 

 

「妾の腹が、日に日に大きくなるのを目にしている。平気そうにふるまっているが、本心はどうかわからぬ」

 

 修就は、ツヤが、生み月を前に川村家に帰って来たことを気にしていた。産まれるまで、姉の元に身を寄せているはずだったが、初産で初孫ということもあり、滝が、世間体を気にして連れ戻したのだ。実父の修富も、自分自身も、妾を持った経験がないため、本妻と妾が同居するふつうではない状況下で、妾が、本妻より先に懐妊する事態に遭遇したのははじめてのことで、何が正しいのかが分からない。健康なからだを持つ庄五郎が、妾を持つというのであれば、周囲は理解を示しただろうが、病弱なために廃嫡した身の順次郎が、身の回りの世話をしてくれる下女を身ごもらせたのだ。一時は、ツヤを江戸に帰して懐妊を隠すことも考えたが、滝が猛反対した。

 

 

「腹の子は、あなた様の孫なのですよ。存在をお隠しになるなんて、可愛そうだとは思わないのですか? 」

 

 滝が修就に向かい声を荒げたのは、夫婦になって以来、はじめてだ。

 

 

「隠すといっても一時的なことじゃ。本妻に子が産まれた後に公にした方が面目が保てる」

 

 修就は冷静に言った。

 

 

「ツヤが懐妊したことに最初に気づいたのは、誰でもないみきなのです。腹の中では、何を考えているのか知りませんが、みきも、本妻として意地があるのでしょう。妾に子が出来たからぐらいで、いちいち、騒いでは、本妻の威厳が保てません」

 

 滝がきっぱりと言った。

 

 

「懐妊した妾に対する嫉妬心を表に出さぬことが、本妻の誇りだというわけか? 」

 

 修就は、みきの性格は知っているつもりだ。下女を身ごもらせた順次郎に対し、何とも思わないということは、夫婦仲が良くないということも考えられる。さすがに、修就も、この時ばかりは放っておくことはできず、順次郎を呼んで話し合うことにした。

 

 

「おぬしは、身のほどをわきまえず、あろうことか身の廻りの世話をする下女に手を出した。本妻に対して後ろめたさはないのか? 」

 

 修就はめずらしく声を荒げた。

 

 

「みきには、すまないと思っております。なれど、誰も懐妊を喜んでやらなかったらツヤも可哀想です。予期せぬ授かりものでした故、ツヤも、産むかどうか迷ったことでしょうよ。わしの口から、ツヤに産んでくれるように頼みました。わしには子種はないものと、とうの昔に諦めておりました。ツヤが懐妊してくれたおかげで自信を持つことができたわけです」

 

 順次郎が涙ながらに訴えた。

 

 

「おなごの世話役をおぬしの傍に置いたわしらに非がないとはいえぬ。旗本の中には、妾を持つ者も少なくない。なれど、妾が本妻と同じ屋根の下に暮らしながら、子を産み育てることはあまりない。別宅を構える余裕は我が家にはない故、みきには辛抱してもらうしか他にはない」

 

 修就は、滝を介してみきに修就の考えを伝えた。みきは、周囲の心配をよそに、泣きも嘆きもせず平然としていた。

 

 

 師走10日。町会所が仮御役所に先だって御用終いした。町会所とは、町役人が町政を執る場所だ。表門は本町通に面しており、片堀通側にある高さ5間の鐘堂は、町民に時刻を報せている。中は、町役人の詰め所、白洲、囚人篭置き場そして小規模な牢屋がある。毎朝、町方定廻役は、5ツ半時に仮御役所に出勤し御用を聞いた後、町会所に詰める。町方定廻役は、定役2名と並役2名が配置されており、町方から事件の通告があると、下手人捜しと逮捕に向かう。

 

師走の末日。新潟町の古町通や本町通に歳の市が立ち、正月用品を買い求める客で混雑する。滝は、臨月のツヤに留守番を頼み、みきと娘のテイを随えて正月用品の買い出しに出掛けた。修就が、屋敷に帰宅したころ、大荷物を抱えた3人が帰宅した。

 

テイが、白山神社でもらって来た安産の御守を大事そうに持って帰った。28日から晦日まで奉行屋敷には、ひっきりなしに、歳暮の品を持参した町役人や出入りの町人たちがあいさつに訪れ、新潟の川村家は、大掃除をする暇もなく晦日を迎えた。晦日の朝、家族総出で、煤払いや仏壇磨きなどをしているところへ、御武器掛の北山惣右衛門たちが、大掃除の手伝いに駆けつけた。

 

「掃除や仏壇磨きは、わしらにお任せ下され」

 

 惣右衛門は足軽長屋にいた独身の足軽数人を連れて来ると、テキパキと指示を出して、あっという間に大掃除を終わらせた。

 その日の夕方。修就は、仮御役所において、町の重立の年末のあいさつを受けた。町の重立は、揃って裃姿で現れた。帰り道、修就は、晴れ着を着た幼子が、長屋の方から走って来て道へ飛び出したところ、後から追いかけて来た母親に叱られている光景を目にした。 町家の前を通ると、掃除のためなのか戸が開け放たれており、町家の奥が見通せた。うす暗い台所に、塩引き鮭が吊るされているのが見えた。

 

「北山殿が足軽を連れて来て掃除を手伝ってくれました故、おかげさまで無事終えることが出来ました。お礼を兼ねて夕餉に招いたのですがよろしいですか? 」

 

 滝が、修就の着替えを手伝いながら訊ねた。

 

 

「江戸に、家族を置いて、単身新潟に赴いた者も少なくない。その者らを招いて、美味い物でも食わせてあげなさい。誰も晦日の夜に侘しく独りで過ごしたくはなかろう」

 

 当初は、江戸から単身赴任して来た家来だけに呼び掛けたが、どのように伝わったのか家族を伴って来た家来たちまでもが一家総出で、奉行屋敷に勢揃いしたため、広間は大変にぎやかになった。

 

 

「良い酒を手に入れました故にお持ちしました」

 

 惣右衛門は、来る途中に1杯ひっかけて来た様子だった。

 

 

「わしは、塩鮭を持参致しました」

 

 玄関先で、惣右衛門と一緒になった町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、先に、1升瓶を差し出した惣右衛門を横目で見ながら塩鮭を差し出した。2人に続いて、御武器掛兼仲金取立掛の村上愛助や並役の川村普次郎などが相次いで訪れた。にぎやかな晦日の夜を過ごした。

 

 

 天保15年の正月元旦。修就にとって、今年は新潟奉行として初めて迎える記念すべき正月だ。朝5時。仮御役所に、家来たちが続々と出勤して来た。修就は、まだ夜も明けない内から起きて、身支度を整えると簡単に朝食を済ませた。それから、家の者を起こさないよう静かに屋敷を出た。昨夜は、皆がおそくまで起きていたこともあり、見送りに出たのは滝だけだった。修就が出勤すると、組頭の両名が総ぶれの準備をしていた。

 

「あけましておめでとう」

 

 修就は、新年のあいさつをした。

 

 

「おはようございます」

 

 組頭の両名は、いつも通りのあいさつを返した。

 

 間もなくして、麻上下威儀を正しく、次の間から居間の端まで整然と並んだ組頭、広間役、定役、並役、年寄、足軽、小遣、検断、仲元方が平伏して、上段の間に坐る奉行の修就に年賀のあいさつを行った。その後、修就は家来たちを引き連れて、白山神社に初詣に行き初穂を納めた。修就は、白山神社において、ささやかだが正月気分を味わった。白山神社は、晴れ着などで正装した参拝客で溢れていた。神社の境内では、甘酒が振る舞われ華やかな着物に身を包んだ芸鼓たちが、白山神社の鳥居の前に架かる橋の上で立ち話をしていた。仮御役所へ戻る途中、商家の主人が、手代を随えてあわただしい様子で年始廻りをしている姿を見かけた。その日の夕餉の御膳には、見慣れぬ料理がずらりと並べられていた。

 

「殿が、お手に取られたのはのっぺという料理ですよ」

 

 滝が告げた。

 

 

「のっぺとな? 初めて聞く名じゃ」

 

 修就は、おそるおそる口にした。柔らかく煮てあり食べやすいが、味の方は、微かな塩気を感じるだけで他愛もない。

 

 

「これも、召しあがってみて下され」

 

 滝は、白地の器を指差した。短冊切りにした大根の白と人参の橙色が重なり合い器の白地に映えた。

 

 

「お味はいかがですか? 」

 

「むむ。何だか、甘くて酸っぱい。それに、こ、これは、いったい何じゃ? 」

 

 修就は、妙な舌ざわりを感じて口の中に含んでいた小さく楕円状で堅い所と柔らかい所のある奇妙な食感の物を懐紙の中に吐き出した。

 

 

「父上、それは氷頭(ひず)というものですよ」

 

 テイが、にこにこしながら言った。

 

 

「氷頭とな? 何故、斯様にあやしげなものを入れたのじゃ? 」

 修就はしかめ面で滝に訊ねた。

 

 

「氷頭とは、鮭の頭の先のことです。越後では、昔から珍重されている味だそうです」

 

 滝が答えた。

 

 

「して、この酢が利いたものは何という料理じゃ? 」

 

 修就は、気を取り直して訊ねた。氷頭は、鮭の頭にある透き通った骨のことをいう。越後では、晦日の料理に塩引鮭は不可欠だ。塩引鮭ならば、修就も何度も、口にしたことがあった。

 

 

(なます)う料理ですよ。実は、殿お帰りになる少し前に検断の松浦殿の奥様がお持ち下さったのですよ。ぜひとも、殿に新潟の正月料理を召しあがって頂きたいと申されて、松浦殿が準備させたそうです」

 

 滝が種明かしをした。

 

 

「さようか」

 

 修就はふと、松浦の顔を思い浮かべた。松浦とは、江戸にいるころ、突然、屋敷に押しかけて、新潟の景気回復の施策について切実と語ったあの熱血漢だ。情に篤い男なのだろう。お奉行に、郷土料理を差し入れるとは、なかなか粋なはからいをするものだ。新潟の人たちは内弁慶だが、1度親しくなると親切で情が深い。

 

 正月3日から、個人的にも親しくしている家来たちが奉行屋敷を訪れた。隠密掛の根津奈賀次郎と町方掛差免の小嶋源右衛門とは、「刀目利」を行った。町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎と、並役の川村普次郎とは、「歌会」を開いて三曲合奏した。若菜は、歌会の翌日も訪れて、茂十郎も交えて碁を打った。御武器掛兼地方公事方書物方の平岩勘助久平とは、「将棋」を差した。一方、砲術稽古は、正月関係なく行われていた。日を変えて、組頭両名、家来、部屋住たちが修就の元で稽古に励んだ。

 充実した正月休みを送る修就は、正月11日に祖父となった。順次郎の妾のツヤが、女の子を出産したのだ。18日の七日祝いには、修就が自ら孫に「(くら)」と名付けて赤飯を炊いて祝いをした。赤ん坊は、家を明るくする。その寝顔を眺めるだけで自然と笑みがこぼれる。みきも、赤ん坊を抱いた瞬間だけは笑顔を見せた。しかし、それは束の間の幸せだった。七日祝いの翌日から急に庫の容体が変わり20日に早逝したのだ。庫の亡骸は、寺町通の長善寺に葬られて「百ヶ日」の読経を読んだ。皮肉にも、庫が産まれた11日は、雪の降る寒い日だったが、庫の葬式の日は晴天だった。庫が産まれた日。修就は、江戸にいる老母のコノに年玉として縞つむぎ1反を贈り、孫の誕生の報告と近状を伝える手紙を送ったが、22日に、正月の費用を送金した時は、庫の死を伝える手紙を出すことになってしまい、なかなか、筆が進まなかった。江戸屋敷を守る庄五郎夫妻から香典が送られて来たが、コノからは返事がなかった。

 

 

毎年、山間の村は腰丈まで雪が積もるといわれている雪国、越後新潟の冬を初めて体感した新潟の川村家一同の間では、庫が亡くなった喪失感もあって風邪が流行した。修就、滝、テイ、茂之丞の順に感染し相次いで床に伏せった。滝、テイ、茂之丞の3名は風邪をこじらせ、医師の加藤道逸を呼んで薬を処方してもらった。

修就は、政務が待ったなしに立て込んでいて、孫の死を哀しんでいる暇はなかった。年明け早々、未組織であった水主頭取、足留水主の組織に着手した。118日には、古洲崎町の徳左衛門ら4名を水主頭取に任命し、42斗二人扶持を与え、足留水主は、一人扶持で15人を任命した。それから、翌215日。修就は、非常時に駆けつける人足30名、足留水主頭15名に鑑札を渡した。また、足軽の重立を世話役という正式名称にするなど着々支配向きの整備を進めた。

組織の整備と同時進行で、新潟奉行建設が着々と進められていた。昨年、新潟奉行所候補地が決まった後、関屋村地内に新しい「御仕置場」の晋請に着手し、今年の130日には、修就自ら縄張りを検分し、154方にすることを決定している。さらに、216日には、役所普請仕様帳の読み合わせをやり、翌、217日以降、普請目論見掛は役所へ詰め切りで仕事に取りかかった。

 

 

 


お奉行の町政と名裁き

 天保15年、2月中旬のことだ。新発田領鍋潟新田の百姓、与兵衛、京松、国松、藤内の4名が鉄砲を所持して、新潟町の信濃川沿いにある鳥屋野潟島へ鴨の密猟に出掛けた。しかし、与兵衛たちが乗った舟は、雪解け水に流されて、新潟町の新津屋小路御番所前に流れ着いたところ、新潟奉行所の町役人に見つかり取り押さえられた。吟味に対して、与兵衛たちは、鉄砲は田畑を荒らす猪や鹿を退治するため領主から借りた物だと弁解した。そこで、奉行所は、新発田藩に事実を確認し、証言する役人の出頭を要請した。221日。報せを受けた新発田藩は、あわてて調べたが、鉄砲を貸したとする事実はなかった。鉄砲を所持して他領に入るのは大罪にあたる。新発田藩は、大罪人を自藩から出したくない一心で、密かに手を廻して、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎に相談した。新発田藩から相談を受けた若菜は、修就に報告し指示を仰いだ。

 

 

「新発田藩も、愚かなことをしたものじゃ。奉行所が、百姓が所持しておった鉄砲が、新発田藩が貸し出した物ではないことを見抜けぬとでも思ったのか? そうかといって、真っ正直に裁けば、百姓を大罪に処せねばならなくなる故、新発田藩も何かと困るじゃろ。若菜、この一件はおぬしに任せる」

 

 修就は腹心に委ねることにした。

 

 

「さすれば、新発田藩の役人に百姓と口裏合せるよう入念に入れ知恵致しましょう」

 

 若菜が小声で告げた。

 

 

225日。お白洲には、新発田藩の役人、村役人、百姓4名が呼び出された。お奉行自らが吟味すると聞いた新発田藩の面々は、驚きを隠せない様子であった。修就の傍らに坐った若菜は、新発田藩の役人に目配せした。新発田藩の役人も目で返事した。修就は、上段の間から、白洲に並ぶ者たちを見回すと張りのある声で告げた。

 

 

4人者共、村方田畑を散らす猪鹿おどしのために領主様より貸し渡された鉄砲を持ち、猪鹿をおどしに出て、当節の出水に流され、新津屋小路御番所に流れ着いたものに相違ないな? 」

 

 

「相違ございません」

 

 百姓4名は、平伏したまま口を揃えた。

 

 

「新発田藩では、猪鹿おどしのため、村方へ鉄砲を貸し渡していたことに相違ないか? 」

 

 修就は、今度は新発田藩の役人に訊ねた。

 

 

「相違ございません」

 

 新発田藩の役人も、平伏したまま返事をした。

 

 

「では、当奉行所としては、4人の者共はお構えなし。但し、4人の身柄並びに鉄砲は村役人預けとする」

 

 修就は、ひと呼吸置くと判決を言い渡した。

 

 その後。新発田藩では、重役の評議をした上、新潟奉行所の役人に会釈をすることになった。そこで、沼垂詰の遠藤勇三郎を使者としてお奉行の修就には、銀子3枚、白縮1反。組頭両名には、銀子に2枚、白縮1反。広間役6名には500疋。奉行御用人両名には200疋。組頭御用人両名には100疋が届けられた。贈物を受け取らない主義の修就も、新発田藩の痛々しいまでの気遣いを無下にできず贈物を受領した。この裁きを機に、若菜は、新発田藩から信頼を得ることとなった。

 

 

 

 また、新潟奉行所の晋請にも進展が見られた。47日。役宅予定地の寺町寺大門を組頭両名が晋請目録掛と合同で検分を行い、その2日後、書物方の杉浦忠臓たちに「御晋請御用切」を申し付けた。晋請の際に必要な人足については、以前、町民から、晋請に対して人足を差し出す申し出があったが「肴屋」17軒から150名の人足、川売商から400名の人足の申し出があった。その後、「御役所御申請仕様書」が完成し検断、年寄から下役人に至るまで、冥加金と人足差出願が出された。翌、51日。新潟奉行所晋請の入札が実施された。見事、落札したのは、新発田町の次郎八という地主であった。次郎八は、新発田町に住む高千石余も所持する大地主であると共に、廻米の廻船御用を差配する商人としての顔を持つ。地役人入札では、新潟町片原四之町の藤太郎他2名の組が金769両余で落札した。

 

 

  上知前の新潟では、公事訴訟や死罪仕置に至るまで町政の一切を検断以下町役人が取り仕切っていた。町役人の中には、家業を兼務している者が多くいるせいか、治安の取り締まりは、柔軟で馴れ合いの雰囲気があった。修就が、新潟奉行に着任した途端、治安の取り締まりが厳しくなったとたちまち評判になった。湊町である新潟町には、諸国の商人や船乗り相手の遊女屋が軒を連ねる花街がある。新潟町では、花街の遊女屋で営業する公娼とは別に町民が住む町内で客を取る私娼もいた。私娼が、花街以外で営業しているということは、町の風紀を乱すことになる。

 湊に近いことから、密航により新潟に潜入した無宿者やお尋ね者が入り込む隙を作る。新潟奉行所には、毎日のように無宿の他所者による事件が多数持ち込まれていた。

 

また公事出入も多い。公事の事件については、窃盗、賭博、出奔駈落、張訴、出火、変死など多種多様な事件が持ち込まれる。下手人についても、他町村から新潟町へ入り込んで事件を起こす者や新潟町へ潜入したお尋ね者が多い。遠国奉行においての吟味ものや公事出入りの判例はなく大罪ともなると、他所に問い合わせる他老中迄伺書を提出し指示を受けた上で仕置を行わなければならなかった。修就は、公事方の吟味については、手間を取らないことを心がけやむを得ず、3か月以上かかる場合には、月末毎に報告を求めるよう、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎をはじめとする町役人たちに申し付けた。更に、病による「頼合」は、7日以上になったら「神文状」を差し出すこと。勤務時間については、同役に頼んで早く退散する場合があるが、朝5つ時から夕7時まで勤務し仕事により早出、居残りを致すよう通達した。

新潟湊は、信濃川や阿賀野川を下って来る船と海路で他国から来る船が集まる日本海側有数の湊だ。新潟町には、廻船問屋を営む商人から、廻船への荷物の陸揚げや積み込み、荷造りなどを行う「小揚」と呼ばれる肉体労働者に至るまで、新潟湊に関係する様々な生業が繁栄している。新潟町もまた、生業によって住み分けが成され、大半の生業は株仲間を結成しその営業権を独占しその利権を得るために「法」や「掟」を設けて同業者間で互いに商いを監視し合っている。修就は、「天保の改革」において、株仲間の禁止令を出したにも関わらず、新潟では徹底されておらず、今まで通りの営業が行われていることを知り改革の難しさを実感した。

 

 

「これから、新潟を治めるにあたり、長岡藩領時代の新潟の仕来りを知っておくべきじゃ」

 

 修就は、検断の松浦久兵衛に対し、長岡藩領時代の新潟の仕来りを提出するように申し伝えた。松浦は、命を受けてすぐ、詰所へすっ飛んで行ったと思えば、その数分後には、修就の元に書物を抱えて舞い戻った。

 

 

「おぬし。用意万端ではないか? 」

 

 修就は、書物を手に取ると告げた。松浦はてれ笑いした。その後、修就は松浦をはじめとする新潟町の検断を白洲に呼び出して、市中取り締まりその他の儀、証文を持って申し渡し、読み聞かせの上印形を致させるほど、町役人の働きを認めていることを示し、町役人たちと積極的に交流を深めた。

 

 

 さらに、修就は、新潟奉行着任時に治安の取り締まりを強化するため、「町方定廻り役」と「隠密廻り」という新たな役職を任命した。修就の在任中、「町方定廻り役」を務めたのは、若菜三男三郎をはじめとする6名。中には、隠密掛の経験があったり、御武器掛を兼ねた者もいたり砲術師範役を務める者もおり、腕に覚えのある者たちが集められた。博奕の取締まりも度々行っており、新潟赴任の翌年には、月岡勇次郎をはじめとする6名の足軽が、博奕人を捕えた褒美を賜った。

 修就は、行政、財政、司法などに関する重要案件その他事故などは、必ず幕府に報告することを忘れなかった。新潟に赴任して間もない、1028日。新潟奉行所の町方廻りたちが、無宿者の竹川英橘、江戸飯田町「埼玉屋」勘助を含む8名を捕らえた。吟味した結果、竹川英橘は南町奉行で再吟味となり、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が、足軽2名と共に付添で江戸へ送った。

 それから1年後、南町奉行の鍋嶋内匠から、一件落着したことが通達された。また、引化3年、3月。佐渡河内村の入墨者の権吉が、捕らえられて佐渡奉行へ引渡しとなった。時には、江戸においてお尋ね者だった下手人が新潟へ逃亡して来ることもある。

 

 引化4年、7月。新潟奉行所の「町方定廻り役」たちは、江戸、南町奉行の遠山金四郎景元が、その行方を追っていた重要なお尋者、弥留千蔵を捕えて南町奉行所へ引き渡し、また、別の日には、無宿者の定吉を捕らえて関東取締出役に引き渡した。まさしく、江戸と新潟の連携探索の賜物であり、新しい警察組織が上手く動いている証拠でもあった。同年、7月。囚人3名による牢抜け事件が起こった。その内の1人の吉兵衛は、江戸南町奉行の遠山金四郎景元に捕らえられて新潟に連れ戻された。しかし、他の2名は逃走したままだった。修就は、牢守りの足軽を「預け」処分にして、なお、一層、厳重に警固するよう指図したはずだが、翌年の3月には、山の下の無宿者の鉄蔵が牢抜けした。鉄蔵は、羽州鶴ヶ岡辺にいた所を新潟奉行所の捕手方に捕らわれた。その翌月には、無宿の松五郎が牢抜けした。あまりに何度も牢抜けがあったため、修就も、牢守りの足軽に仕置きをするとさすがにマズイと思い、自らも「差控伺」を出したが、老中伊勢守から差控に及ばないとの通達が届いた。

 また、新潟町の漁師と内野村の人足とのケンカ沙汰や博奕も絶えず発生するなど治安維持も、なかなか、大変であることを思い知らされた。

 上知後も、新潟町では唐物抜荷が後を絶たず、片原通六之町の甚之丞を抜荷の唐物を売買した罪で吟味したり、新潟湊へ入津していた肥前国竹崎村の善兵衛の船が抜荷の唐物を運んで来た疑いがあり船荷物をあらためさせたりした。

 修就は、水野が罷免された後もなお、新潟町民に質素倹約を実行させようとしていた。町会所前にて、町役人たちが、町民から押収したビロード鼻緒類を焼き捨てたり、毘沙門嶋の千之助と娘のせきの2人を銀キセルを所持していた疑いで吟味したりしたのは、見せしめだと批判する町人もいた。

 

 

「何をしておるのじゃ? 」

 

 天保15年、7月朔日の朝。修就は、仮御役所に出勤した時、門前に於いて、町役人2名が、数名の町民を門の外へ押し出しているところに遭遇した。仮御役所に押しかけた町民の1人が少し離れた場所で見ていた修就の元に駆け寄ると、その場に土下座して書状を差し出した。

 

 

「お奉行様。何卒、ご覧になって下され」

 

修就は、差し出された書状を受け取ろうとした。その時、騒ぎを聞いて駆けつけた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が間に入り、町人の手から書状を奪い取るとその場で破り捨てた。

 

 

「お奉行様に直談致すとは何事じゃ」

 

 若菜は町民を厳しい口調で諫めた。修就に直訴しようとした町人はすぐさまその場で取り捕えられた。修就は、無言で門をくぐると中へ入った。その後から、若菜が追いかけて来た。

 

 

「お奉行様。申し訳ありませんでした。町民がとんだご無礼を働きまして、2度と斯様なことがないようとくと申し付けました故、ご安心下され」

 

 若菜は、修就の目の前に廻ると深々と頭を下げた。

 

 

「町民が、町政に対してこれ程までに関心を示しておるとはのう。以前から、張訴はあったのか? 」

 

 修就は着席すると訊ねた。

 

 

「はあ。こたびで、3度目でございます。張訴は禁止されていますので、訴文はすべて焼き捨てております。713日夜の張訴については署名があった故、翌日、訴人を呼び出して、願筋は町役人へ願立て張訴しないよう申し渡した次第」

 

 

「その都度、注意するしかなかろう。1度でも、張訴を認めたら町政は混乱を極める」

 

 修就は、長岡藩領時代の町政について検断たちから聞いた話をふと思い出した。

 

 上知前、町民は、あらゆる形で町政に関わっていた。町全体が一丸となって、新潟町を作り上げている感じだったという。例えば、髪結渡世者は、冥加金を免除される代わりに2組に分けられ、1組は防火にもう1組は防犯の冥加勤をしていた。「防犯組」は、岡っ引と同じ仕事を引き受けており、下手人の探索や夜間の巡回をしたらしい。

 

 

「町民が奉行所役人へ訴える張訴が、この3ヶ月間で3度も行われております。以前、検断の松浦が、町の惣代としてお奉行様に提出した意見書が、改革の施策に反映されておると、町民の間で風聞が広まっておることもあって、向後も増えることは間違いありません」

 

 若菜の口調は、どこか歯切れが悪く聞こえた。

 

 

「かの吉宗公は、目安箱を設けて町民の意見を市政に役立てようとなさったが、あいにく、わしは抱えている施策で手一杯じゃ。なれど、町民の訴状が他人を陥れるものでなければ焼き捨てなくても良かろう。目安箱の場合も、無記名の訴状は焼き捨て御免となっていったが、きちんと署名がなされておる訴状には、吉宗公も、目をお通しになられて取り入れるに値する意見は取り入れられたと聞いておる」

 

 修就は、新潟を改革するためには、町民の協力は必要不可欠である事を強調した。

 

 

「お奉行様の仰せになることは正論でございます。わしは、今、進めておる施策が十分町民の意見に適っておると信じております。人間というのは、1つ願いが叶うとまた1つ、2つと限りなく欲が出て来るものなのです。その内、町民も理解するはずです」

 

 若菜が穏やかに告げた。

 

 

 

 引化元年、4月。新潟町の信濃川河岸にて新潟町でも珍しい事件が起きた。多門通川端に並べてあった直径、深さ共に6尺余りの肥だめから船に汲み移す作業を行っていた近郷の村人たちが残り少なくなり杓子が届かなくなったので、1人が中に入ったところ毒気にあたり倒れた。助けようして樽の中をのぞいた村人たちも次々と毒気にあたり倒れた。報せを受けた修就は、現場へ医師を赴かせて手当を施したが2名は即死。1名は後日死亡。その他2名は重体。肥だめの中に落ちたとあって、樽から引き揚げられた死体にはハエがたかり、辺りに何とも言えない悪臭が立ちこめた。いち早く、現場に駆けつけた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、仏に手を合わせた後、とっさに着物の袖で鼻を覆った。

 

 

「肥だめの中で、生涯を終えるとは嘆かわしい。毒気のある所には、酢を撒いてから入れとの触れを出しなさい」

 

 修就は、若菜に川村家秘伝の薬「五神錠」を持たせて患者に与えるよう命じた。

 すると、『五神錠』の効き目があったのか、重体だった2名が、意識を取り戻して快復に向かったという。それを聞いて、修就は「五神錠』」を商品化できないかと新潟町の薬問屋に問い合わせてみた。しかし、薬に関しては素人の修就をまともに相手する薬問屋はなかった。

 

 

「薬として店で売りたきゃ、医師にお墨付きをもらわんとなりません」

 

 修就が、散々店を廻った後に、最後の頼みの綱として本町通に店を構える「田辺薬種店」に「五神錠」を持参すると、初老の女店主が愛想良く告げた。

 

「さようか」

 

 修就は、医師の加藤道逸に相談することにした。

 

 

「川村様。こたびばかりは、お力になれそうもございません」

 

 加藤道逸は、修就の頼みを丁重に断った。それでも、修就は、「五神錠」の商品化をあきらめなかった。

 

 

 

  昨年、検分して飛砂による被害を目の当たりにした修就は、8月、松苗の植付場所の検分を行わせ、「松苗植付出役」2名を任命したが、修就は、上嶋下嶋検地の検分の傍ら小松植付の検分にもよく足を運んだ。13日には、日和山松苗植付場へ出向き、「松苗植付出役」の小倉瀬平へ細かい指示をするなど激励した。松苗植付作業は、願随寺の裏方面から日和山にかけて、松苗3375本植え付けて15日に終了した。この日の夜、修就は、松苗植付に尽力した家来たちを奉行屋敷に招き夜食を振る舞った。

 

 

「予定していた数の松苗の植付が無事、終了致しました」

 

 作業後。検分に訪れた修就に対して、「松苗植付出役」の杉浦三之助が報告を行った。

 

 

「ご苦労。今宵は、我家にて慰労会を開く。出席出来る者は遠慮なく参加するが良い」

 

 修就は、松苗の植付作業に携わっていた者たちを周囲に集めると告げた。

 当直以外の者たちがこぞって、奉行屋敷に集まり宴が始まった。修就は、いつになく上機嫌だった。それというのも、江戸から伴って来た家来たちだけでなく、普段は遠慮がちな旧長岡藩出身の町役人たちも参加していたからだ。

 

1つのことを皆で力を合わせて行うというのは実に良いことです」

 

 「御武器掛兼仲金取立掛」の村上愛助が修就にお酌しながら告げた。

 

 

「しかりその通りじゃ」

 

 修就は、広間の両側に着席している面々を見渡した。

 

 

6月に、水野様が、老中職に返り咲いたそうですね? 」

 

 今度は、組頭の平田与左衛門がお酌に廻って来た。

 

 

「あのお方ならばかならず復職なさると思っていた。めでたいことじゃ」

 

 修就は、老中を罷免された水野忠邦から逃げるような形で新潟に赴任して来たことについてずっと気兼ねしていたため、水野が再任したと知り安堵した。

 

 

「お奉行様。跡継ぎも生まれたことですし、より一層、精進して参りたいと思っております故、よしなにお頼申します」

 

 悪酔いした「苗植付出役」の小倉瀬平が、突然、広間の中央に進み出て大声で宣言して周囲に笑いを誘った。

 炎天下の中で作業した日も多かったせいか、皆、日焼けして健康気に見えた。宴もたけなわ、村上が、修就に「一句お願い致します」と告げた。修就は、おもむろに筆を取ると一句したためた。

 

 

「お奉行様。ぜひとも、お奉行様のお詠みになった句を聞かせて下さい」

 

どこからともなく声が掛かり、修就は和歌を披露した。修就が、和歌を詠む前までどんちゃん騒ぎをしていた広間が一斉に静かになった。

 

 

「うつし植えし、二葉の松に、秋の月。梢の影は、誰か仰がむ」

 

 修就の和歌に感銘を受けた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、この和歌の解釈を日記に記した。

 

 

 新潟では、9月下旬から本格的な鮭漁が始まる。新潟町の信濃川河口で引く地引網は、地元では「大網」と呼ばれ網の権利を持つ事もあり12の網が引かれる。「大網」の他には、朝夕、漁師達が小舟に乗り網の目に鮭が突き刺さるよう網を流す「流し網」や、河口の波に立つ付近に網を仕掛けて置き、時々揚げに行く漁法や網の目にかかった鮭を捕る「さし網」が盛んに行われる。

 

99日晴れ。修就は家来たちと洲崎から天渡船四艘に乗り、湊口外から海岸に沿って関屋村付近の河岸に出向き鮭網漁を見分した。この日の検分は、奉行所内で用務のある者を除き役人のほとんどが参加したこともありにぎやかだった。修就は、その夜、当直だった御武器掛兼仲金取立掛の村上愛助、定役の大嶋茂十郎、「苗植付出役」の小倉瀬平の3人を奉行屋敷に招いて漁で獲った魚を御馳走した。

 

 

修就は、何かと行事にかこつけては家来たちを奉行屋敷に招く。家来たちもまた、修就の誘いを喜んで受けた。「月見」と称して、組頭の平田与左衛門、「御武器掛兼仲金取立掛」の村上愛助。そして、「御武器掛兼定役」の小尾勘五郎が泊まりに来たが、その日は夕方から雨が降り、肝心の月は出ず、月見に用意した御供えを肴に呑み明かした。

 

江戸と違い、新潟では娯楽と呼べるようなものが少なく、江戸から赴任して来た者たちにとっては、いまいち物足りなかった。そのせいか、江戸から送られて来る手紙が待ち遠しくもあった。修就は、家来たちを集めて砲術や異国線について話し合うことが何よりの楽しみだ。夕餉の後、酒を酌み交わしながら、明け方まで、修就が議題に上げた事柄について、とことん議論を重ねる。家来たちも、酔いにまかせて日頃考えていることについて述べることで憂さを晴らした。

 

 

 

 修就は、新潟を治めるためには、新潟を知らなくてはならないという信念を貫いた。関屋の検分に続いて、松ヶ崎方面へ巡検に出向いた。この日は、朝6ツ時には、奉行屋敷を出て、大川前から、船で沼垂に渡り、牡丹山村、木戸村、寺山新田、海老ヶ瀬村を経て、津島屋へ行き、そこから、渡船で松ヶ崎村へ渡った。同村庄屋の吉郎左衛門方にて、4ツ時前に、昼弁当を食べ、新潟、村上方面の海岸線の景色や、雲がかかった越後の山脈を観賞した。その後、通船川から松崎村へ上陸し、河渡村へ出た。そこで、大仏庵の石塔を見物した後、同所から船で、大川前へ上陸し、夕方頃帰宅した。

 

 

地引網は、漁師だけでなく地元民総出で行われる。修就一行が、松ヶ崎に出向いた時、ちょうど、地引網の真っただ中で、浜辺には、多くの地元民が集まり掛け声を上げながら網を引いていた。網の1番端の印の大樽がだんだん見えて来ると、上空に群がっていたカモメの大軍が、網にかかった鰯目がけて水面に急降下して来る。網を引く人たちは、せっかくの鰯をカモメに横取りされないよう急いで網を引いた後、引き上げられた網に群がり鰯の争奪戦をくり広げる。鰯は、「鮮度が命」だと鰯を売り歩くボテ振りはいう。また、新潟町近郷の農家では、刈り入れの時期を迎え、刈り取られた稲が干してある稲架が数多くみられた。修就一行があぜ道を通り過ぎた時、黄金色の稲穂が棚引く田に入り収穫作業に勤しんでいた百姓たちが、一斉に腰を上げて仰ぎ見る様子が長閑な田舎の風情を感じさせた。

 

 

109日。修就が新潟奉行着任1周年を迎えたことを記念して、新潟の川村家では、赤飯を炊いて祝った。赤飯は、その日のうちに、出勤していた奉行所の役人たちにも振る舞われた。一方、江戸からは、不穏な報せが相次いで届いた。8月に、御庭番家筋の村垣左太夫病死。10月には、新潟奉行就任から色々と世話となっていた土井大炊頭御勝手掛が、病気のために退職した。1227日に起きた江戸大火の後は、江戸の留守宅の安否を気にして、落ち着かない日々を送った。正月、年賀のあいさつを告げる手紙が江戸から届き、新潟の川村家は、ようやく新年を迎えられた。

 

 

 

 

 


奥付



【2019-01-28】新潟湊の夜明け~新潟上知編


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著者 : きの しゆう
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