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お奉行の町政と名裁き

 天保15年、2月中旬のことだ。新発田領鍋潟新田の百姓、与兵衛、京松、国松、藤内の4名が鉄砲を所持して、新潟町の信濃川沿いにある鳥屋野潟島へ鴨の密猟に出掛けた。しかし、与兵衛たちが乗った舟は、雪解け水に流されて、新潟町の新津屋小路御番所前に流れ着いたところ、新潟奉行所の町役人に見つかり取り押さえられた。吟味に対して、与兵衛たちは、鉄砲は田畑を荒らす猪や鹿を退治するため領主から借りた物だと弁解した。そこで、奉行所は、新発田藩に事実を確認し、証言する役人の出頭を要請した。221日。報せを受けた新発田藩は、あわてて調べたが、鉄砲を貸したとする事実はなかった。鉄砲を所持して他領に入るのは大罪にあたる。新発田藩は、大罪人を自藩から出したくない一心で、密かに手を廻して、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎に相談した。新発田藩から相談を受けた若菜は、修就に報告し指示を仰いだ。

 

 

「新発田藩も、愚かなことをしたものじゃ。奉行所が、百姓が所持しておった鉄砲が、新発田藩が貸し出した物ではないことを見抜けぬとでも思ったのか? そうかといって、真っ正直に裁けば、百姓を大罪に処せねばならなくなる故、新発田藩も何かと困るじゃろ。若菜、この一件はおぬしに任せる」

 

 修就は腹心に委ねることにした。

 

 

「さすれば、新発田藩の役人に百姓と口裏合せるよう入念に入れ知恵致しましょう」

 

 若菜が小声で告げた。

 

 

225日。お白洲には、新発田藩の役人、村役人、百姓4名が呼び出された。お奉行自らが吟味すると聞いた新発田藩の面々は、驚きを隠せない様子であった。修就の傍らに坐った若菜は、新発田藩の役人に目配せした。新発田藩の役人も目で返事した。修就は、上段の間から、白洲に並ぶ者たちを見回すと張りのある声で告げた。

 

 

4人者共、村方田畑を散らす猪鹿おどしのために領主様より貸し渡された鉄砲を持ち、猪鹿をおどしに出て、当節の出水に流され、新津屋小路御番所に流れ着いたものに相違ないな? 」

 

 

「相違ございません」

 

 百姓4名は、平伏したまま口を揃えた。

 

 

「新発田藩では、猪鹿おどしのため、村方へ鉄砲を貸し渡していたことに相違ないか? 」

 

 修就は、今度は新発田藩の役人に訊ねた。

 

 

「相違ございません」

 

 新発田藩の役人も、平伏したまま返事をした。

 

 

「では、当奉行所としては、4人の者共はお構えなし。但し、4人の身柄並びに鉄砲は村役人預けとする」

 

 修就は、ひと呼吸置くと判決を言い渡した。

 

 その後。新発田藩では、重役の評議をした上、新潟奉行所の役人に会釈をすることになった。そこで、沼垂詰の遠藤勇三郎を使者としてお奉行の修就には、銀子3枚、白縮1反。組頭両名には、銀子に2枚、白縮1反。広間役6名には500疋。奉行御用人両名には200疋。組頭御用人両名には100疋が届けられた。贈物を受け取らない主義の修就も、新発田藩の痛々しいまでの気遣いを無下にできず贈物を受領した。この裁きを機に、若菜は、新発田藩から信頼を得ることとなった。

 

 

 

 また、新潟奉行所の晋請にも進展が見られた。47日。役宅予定地の寺町寺大門を組頭両名が晋請目録掛と合同で検分を行い、その2日後、書物方の杉浦忠臓たちに「御晋請御用切」を申し付けた。晋請の際に必要な人足については、以前、町民から、晋請に対して人足を差し出す申し出があったが「肴屋」17軒から150名の人足、川売商から400名の人足の申し出があった。その後、「御役所御申請仕様書」が完成し検断、年寄から下役人に至るまで、冥加金と人足差出願が出された。翌、51日。新潟奉行所晋請の入札が実施された。見事、落札したのは、新発田町の次郎八という地主であった。次郎八は、新発田町に住む高千石余も所持する大地主であると共に、廻米の廻船御用を差配する商人としての顔を持つ。地役人入札では、新潟町片原四之町の藤太郎他2名の組が金769両余で落札した。

 

 

  上知前の新潟では、公事訴訟や死罪仕置に至るまで町政の一切を検断以下町役人が取り仕切っていた。町役人の中には、家業を兼務している者が多くいるせいか、治安の取り締まりは、柔軟で馴れ合いの雰囲気があった。修就が、新潟奉行に着任した途端、治安の取り締まりが厳しくなったとたちまち評判になった。湊町である新潟町には、諸国の商人や船乗り相手の遊女屋が軒を連ねる花街がある。新潟町では、花街の遊女屋で営業する公娼とは別に町民が住む町内で客を取る私娼もいた。私娼が、花街以外で営業しているということは、町の風紀を乱すことになる。

 湊に近いことから、密航により新潟に潜入した無宿者やお尋ね者が入り込む隙を作る。新潟奉行所には、毎日のように無宿の他所者による事件が多数持ち込まれていた。

 

また公事出入も多い。公事の事件については、窃盗、賭博、出奔駈落、張訴、出火、変死など多種多様な事件が持ち込まれる。下手人についても、他町村から新潟町へ入り込んで事件を起こす者や新潟町へ潜入したお尋ね者が多い。遠国奉行においての吟味ものや公事出入りの判例はなく大罪ともなると、他所に問い合わせる他老中迄伺書を提出し指示を受けた上で仕置を行わなければならなかった。修就は、公事方の吟味については、手間を取らないことを心がけやむを得ず、3か月以上かかる場合には、月末毎に報告を求めるよう、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎をはじめとする町役人たちに申し付けた。更に、病による「頼合」は、7日以上になったら「神文状」を差し出すこと。勤務時間については、同役に頼んで早く退散する場合があるが、朝5つ時から夕7時まで勤務し仕事により早出、居残りを致すよう通達した。

新潟湊は、信濃川や阿賀野川を下って来る船と海路で他国から来る船が集まる日本海側有数の湊だ。新潟町には、廻船問屋を営む商人から、廻船への荷物の陸揚げや積み込み、荷造りなどを行う「小揚」と呼ばれる肉体労働者に至るまで、新潟湊に関係する様々な生業が繁栄している。新潟町もまた、生業によって住み分けが成され、大半の生業は株仲間を結成しその営業権を独占しその利権を得るために「法」や「掟」を設けて同業者間で互いに商いを監視し合っている。修就は、「天保の改革」において、株仲間の禁止令を出したにも関わらず、新潟では徹底されておらず、今まで通りの営業が行われていることを知り改革の難しさを実感した。

 

 

「これから、新潟を治めるにあたり、長岡藩領時代の新潟の仕来りを知っておくべきじゃ」

 

 修就は、検断の松浦久兵衛に対し、長岡藩領時代の新潟の仕来りを提出するように申し伝えた。松浦は、命を受けてすぐ、詰所へすっ飛んで行ったと思えば、その数分後には、修就の元に書物を抱えて舞い戻った。

 

 

「おぬし。用意万端ではないか? 」

 

 修就は、書物を手に取ると告げた。松浦はてれ笑いした。その後、修就は松浦をはじめとする新潟町の検断を白洲に呼び出して、市中取り締まりその他の儀、証文を持って申し渡し、読み聞かせの上印形を致させるほど、町役人の働きを認めていることを示し、町役人たちと積極的に交流を深めた。

 

 

 さらに、修就は、新潟奉行着任時に治安の取り締まりを強化するため、「町方定廻り役」と「隠密廻り」という新たな役職を任命した。修就の在任中、「町方定廻り役」を務めたのは、若菜三男三郎をはじめとする6名。中には、隠密掛の経験があったり、御武器掛を兼ねた者もいたり砲術師範役を務める者もおり、腕に覚えのある者たちが集められた。博奕の取締まりも度々行っており、新潟赴任の翌年には、月岡勇次郎をはじめとする6名の足軽が、博奕人を捕えた褒美を賜った。

 修就は、行政、財政、司法などに関する重要案件その他事故などは、必ず幕府に報告することを忘れなかった。新潟に赴任して間もない、1028日。新潟奉行所の町方廻りたちが、無宿者の竹川英橘、江戸飯田町「埼玉屋」勘助を含む8名を捕らえた。吟味した結果、竹川英橘は南町奉行で再吟味となり、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が、足軽2名と共に付添で江戸へ送った。

 それから1年後、南町奉行の鍋嶋内匠から、一件落着したことが通達された。また、引化3年、3月。佐渡河内村の入墨者の権吉が、捕らえられて佐渡奉行へ引渡しとなった。時には、江戸においてお尋ね者だった下手人が新潟へ逃亡して来ることもある。

 

 引化4年、7月。新潟奉行所の「町方定廻り役」たちは、江戸、南町奉行の遠山金四郎景元が、その行方を追っていた重要なお尋者、弥留千蔵を捕えて南町奉行所へ引き渡し、また、別の日には、無宿者の定吉を捕らえて関東取締出役に引き渡した。まさしく、江戸と新潟の連携探索の賜物であり、新しい警察組織が上手く動いている証拠でもあった。同年、7月。囚人3名による牢抜け事件が起こった。その内の1人の吉兵衛は、江戸南町奉行の遠山金四郎景元に捕らえられて新潟に連れ戻された。しかし、他の2名は逃走したままだった。修就は、牢守りの足軽を「預け」処分にして、なお、一層、厳重に警固するよう指図したはずだが、翌年の3月には、山の下の無宿者の鉄蔵が牢抜けした。鉄蔵は、羽州鶴ヶ岡辺にいた所を新潟奉行所の捕手方に捕らわれた。その翌月には、無宿の松五郎が牢抜けした。あまりに何度も牢抜けがあったため、修就も、牢守りの足軽に仕置きをするとさすがにマズイと思い、自らも「差控伺」を出したが、老中伊勢守から差控に及ばないとの通達が届いた。

 また、新潟町の漁師と内野村の人足とのケンカ沙汰や博奕も絶えず発生するなど治安維持も、なかなか、大変であることを思い知らされた。

 上知後も、新潟町では唐物抜荷が後を絶たず、片原通六之町の甚之丞を抜荷の唐物を売買した罪で吟味したり、新潟湊へ入津していた肥前国竹崎村の善兵衛の船が抜荷の唐物を運んで来た疑いがあり船荷物をあらためさせたりした。

 修就は、水野が罷免された後もなお、新潟町民に質素倹約を実行させようとしていた。町会所前にて、町役人たちが、町民から押収したビロード鼻緒類を焼き捨てたり、毘沙門嶋の千之助と娘のせきの2人を銀キセルを所持していた疑いで吟味したりしたのは、見せしめだと批判する町人もいた。

 

 

「何をしておるのじゃ? 」

 

 天保15年、7月朔日の朝。修就は、仮御役所に出勤した時、門前に於いて、町役人2名が、数名の町民を門の外へ押し出しているところに遭遇した。仮御役所に押しかけた町民の1人が少し離れた場所で見ていた修就の元に駆け寄ると、その場に土下座して書状を差し出した。

 

 

「お奉行様。何卒、ご覧になって下され」

 

修就は、差し出された書状を受け取ろうとした。その時、騒ぎを聞いて駆けつけた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が間に入り、町人の手から書状を奪い取るとその場で破り捨てた。

 

 

「お奉行様に直談致すとは何事じゃ」

 

 若菜は町民を厳しい口調で諫めた。修就に直訴しようとした町人はすぐさまその場で取り捕えられた。修就は、無言で門をくぐると中へ入った。その後から、若菜が追いかけて来た。

 

 

「お奉行様。申し訳ありませんでした。町民がとんだご無礼を働きまして、2度と斯様なことがないようとくと申し付けました故、ご安心下され」

 

 若菜は、修就の目の前に廻ると深々と頭を下げた。

 

 

「町民が、町政に対してこれ程までに関心を示しておるとはのう。以前から、張訴はあったのか? 」

 

 修就は着席すると訊ねた。

 

 

「はあ。こたびで、3度目でございます。張訴は禁止されていますので、訴文はすべて焼き捨てております。713日夜の張訴については署名があった故、翌日、訴人を呼び出して、願筋は町役人へ願立て張訴しないよう申し渡した次第」

 

 

「その都度、注意するしかなかろう。1度でも、張訴を認めたら町政は混乱を極める」

 

 修就は、長岡藩領時代の町政について検断たちから聞いた話をふと思い出した。

 

 上知前、町民は、あらゆる形で町政に関わっていた。町全体が一丸となって、新潟町を作り上げている感じだったという。例えば、髪結渡世者は、冥加金を免除される代わりに2組に分けられ、1組は防火にもう1組は防犯の冥加勤をしていた。「防犯組」は、岡っ引と同じ仕事を引き受けており、下手人の探索や夜間の巡回をしたらしい。

 

 

「町民が奉行所役人へ訴える張訴が、この3ヶ月間で3度も行われております。以前、検断の松浦が、町の惣代としてお奉行様に提出した意見書が、改革の施策に反映されておると、町民の間で風聞が広まっておることもあって、向後も増えることは間違いありません」

 

 若菜の口調は、どこか歯切れが悪く聞こえた。

 

 

「かの吉宗公は、目安箱を設けて町民の意見を市政に役立てようとなさったが、あいにく、わしは抱えている施策で手一杯じゃ。なれど、町民の訴状が他人を陥れるものでなければ焼き捨てなくても良かろう。目安箱の場合も、無記名の訴状は焼き捨て御免となっていったが、きちんと署名がなされておる訴状には、吉宗公も、目をお通しになられて取り入れるに値する意見は取り入れられたと聞いておる」

 

 修就は、新潟を改革するためには、町民の協力は必要不可欠である事を強調した。

 

 

「お奉行様の仰せになることは正論でございます。わしは、今、進めておる施策が十分町民の意見に適っておると信じております。人間というのは、1つ願いが叶うとまた1つ、2つと限りなく欲が出て来るものなのです。その内、町民も理解するはずです」

 

 若菜が穏やかに告げた。

 

 

 

 引化元年、4月。新潟町の信濃川河岸にて新潟町でも珍しい事件が起きた。多門通川端に並べてあった直径、深さ共に6尺余りの肥だめから船に汲み移す作業を行っていた近郷の村人たちが残り少なくなり杓子が届かなくなったので、1人が中に入ったところ毒気にあたり倒れた。助けようして樽の中をのぞいた村人たちも次々と毒気にあたり倒れた。報せを受けた修就は、現場へ医師を赴かせて手当を施したが2名は即死。1名は後日死亡。その他2名は重体。肥だめの中に落ちたとあって、樽から引き揚げられた死体にはハエがたかり、辺りに何とも言えない悪臭が立ちこめた。いち早く、現場に駆けつけた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、仏に手を合わせた後、とっさに着物の袖で鼻を覆った。

 

 

「肥だめの中で、生涯を終えるとは嘆かわしい。毒気のある所には、酢を撒いてから入れとの触れを出しなさい」

 

 修就は、若菜に川村家秘伝の薬「五神錠」を持たせて患者に与えるよう命じた。

 すると、『五神錠』の効き目があったのか、重体だった2名が、意識を取り戻して快復に向かったという。それを聞いて、修就は「五神錠』」を商品化できないかと新潟町の薬問屋に問い合わせてみた。しかし、薬に関しては素人の修就をまともに相手する薬問屋はなかった。

 

 

「薬として店で売りたきゃ、医師にお墨付きをもらわんとなりません」

 

 修就が、散々店を廻った後に、最後の頼みの綱として本町通に店を構える「田辺薬種店」に「五神錠」を持参すると、初老の女店主が愛想良く告げた。

 

「さようか」

 

 修就は、医師の加藤道逸に相談することにした。

 

 

「川村様。こたびばかりは、お力になれそうもございません」

 

 加藤道逸は、修就の頼みを丁重に断った。それでも、修就は、「五神錠」の商品化をあきらめなかった。

 

 

 

  昨年、検分して飛砂による被害を目の当たりにした修就は、8月、松苗の植付場所の検分を行わせ、「松苗植付出役」2名を任命したが、修就は、上嶋下嶋検地の検分の傍ら小松植付の検分にもよく足を運んだ。13日には、日和山松苗植付場へ出向き、「松苗植付出役」の小倉瀬平へ細かい指示をするなど激励した。松苗植付作業は、願随寺の裏方面から日和山にかけて、松苗3375本植え付けて15日に終了した。この日の夜、修就は、松苗植付に尽力した家来たちを奉行屋敷に招き夜食を振る舞った。

 

 

「予定していた数の松苗の植付が無事、終了致しました」

 

 作業後。検分に訪れた修就に対して、「松苗植付出役」の杉浦三之助が報告を行った。

 

 

「ご苦労。今宵は、我家にて慰労会を開く。出席出来る者は遠慮なく参加するが良い」

 

 修就は、松苗の植付作業に携わっていた者たちを周囲に集めると告げた。

 当直以外の者たちがこぞって、奉行屋敷に集まり宴が始まった。修就は、いつになく上機嫌だった。それというのも、江戸から伴って来た家来たちだけでなく、普段は遠慮がちな旧長岡藩出身の町役人たちも参加していたからだ。

 

1つのことを皆で力を合わせて行うというのは実に良いことです」

 

 「御武器掛兼仲金取立掛」の村上愛助が修就にお酌しながら告げた。

 

 

「しかりその通りじゃ」

 

 修就は、広間の両側に着席している面々を見渡した。

 

 

6月に、水野様が、老中職に返り咲いたそうですね? 」

 

 今度は、組頭の平田与左衛門がお酌に廻って来た。

 

 

「あのお方ならばかならず復職なさると思っていた。めでたいことじゃ」

 

 修就は、老中を罷免された水野忠邦から逃げるような形で新潟に赴任して来たことについてずっと気兼ねしていたため、水野が再任したと知り安堵した。

 

 

「お奉行様。跡継ぎも生まれたことですし、より一層、精進して参りたいと思っております故、よしなにお頼申します」

 

 悪酔いした「苗植付出役」の小倉瀬平が、突然、広間の中央に進み出て大声で宣言して周囲に笑いを誘った。

 炎天下の中で作業した日も多かったせいか、皆、日焼けして健康気に見えた。宴もたけなわ、村上が、修就に「一句お願い致します」と告げた。修就は、おもむろに筆を取ると一句したためた。

 

 

「お奉行様。ぜひとも、お奉行様のお詠みになった句を聞かせて下さい」

 

どこからともなく声が掛かり、修就は和歌を披露した。修就が、和歌を詠む前までどんちゃん騒ぎをしていた広間が一斉に静かになった。

 

 

「うつし植えし、二葉の松に、秋の月。梢の影は、誰か仰がむ」

 

 修就の和歌に感銘を受けた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、この和歌の解釈を日記に記した。

 

 

 新潟では、9月下旬から本格的な鮭漁が始まる。新潟町の信濃川河口で引く地引網は、地元では「大網」と呼ばれ網の権利を持つ事もあり12の網が引かれる。「大網」の他には、朝夕、漁師達が小舟に乗り網の目に鮭が突き刺さるよう網を流す「流し網」や、河口の波に立つ付近に網を仕掛けて置き、時々揚げに行く漁法や網の目にかかった鮭を捕る「さし網」が盛んに行われる。

 

99日晴れ。修就は家来たちと洲崎から天渡船四艘に乗り、湊口外から海岸に沿って関屋村付近の河岸に出向き鮭網漁を見分した。この日の検分は、奉行所内で用務のある者を除き役人のほとんどが参加したこともありにぎやかだった。修就は、その夜、当直だった御武器掛兼仲金取立掛の村上愛助、定役の大嶋茂十郎、「苗植付出役」の小倉瀬平の3人を奉行屋敷に招いて漁で獲った魚を御馳走した。

 

 

修就は、何かと行事にかこつけては家来たちを奉行屋敷に招く。家来たちもまた、修就の誘いを喜んで受けた。「月見」と称して、組頭の平田与左衛門、「御武器掛兼仲金取立掛」の村上愛助。そして、「御武器掛兼定役」の小尾勘五郎が泊まりに来たが、その日は夕方から雨が降り、肝心の月は出ず、月見に用意した御供えを肴に呑み明かした。

 

江戸と違い、新潟では娯楽と呼べるようなものが少なく、江戸から赴任して来た者たちにとっては、いまいち物足りなかった。そのせいか、江戸から送られて来る手紙が待ち遠しくもあった。修就は、家来たちを集めて砲術や異国線について話し合うことが何よりの楽しみだ。夕餉の後、酒を酌み交わしながら、明け方まで、修就が議題に上げた事柄について、とことん議論を重ねる。家来たちも、酔いにまかせて日頃考えていることについて述べることで憂さを晴らした。

 

 

 

 修就は、新潟を治めるためには、新潟を知らなくてはならないという信念を貫いた。関屋の検分に続いて、松ヶ崎方面へ巡検に出向いた。この日は、朝6ツ時には、奉行屋敷を出て、大川前から、船で沼垂に渡り、牡丹山村、木戸村、寺山新田、海老ヶ瀬村を経て、津島屋へ行き、そこから、渡船で松ヶ崎村へ渡った。同村庄屋の吉郎左衛門方にて、4ツ時前に、昼弁当を食べ、新潟、村上方面の海岸線の景色や、雲がかかった越後の山脈を観賞した。その後、通船川から松崎村へ上陸し、河渡村へ出た。そこで、大仏庵の石塔を見物した後、同所から船で、大川前へ上陸し、夕方頃帰宅した。

 

 

地引網は、漁師だけでなく地元民総出で行われる。修就一行が、松ヶ崎に出向いた時、ちょうど、地引網の真っただ中で、浜辺には、多くの地元民が集まり掛け声を上げながら網を引いていた。網の1番端の印の大樽がだんだん見えて来ると、上空に群がっていたカモメの大軍が、網にかかった鰯目がけて水面に急降下して来る。網を引く人たちは、せっかくの鰯をカモメに横取りされないよう急いで網を引いた後、引き上げられた網に群がり鰯の争奪戦をくり広げる。鰯は、「鮮度が命」だと鰯を売り歩くボテ振りはいう。また、新潟町近郷の農家では、刈り入れの時期を迎え、刈り取られた稲が干してある稲架が数多くみられた。修就一行があぜ道を通り過ぎた時、黄金色の稲穂が棚引く田に入り収穫作業に勤しんでいた百姓たちが、一斉に腰を上げて仰ぎ見る様子が長閑な田舎の風情を感じさせた。

 

 

109日。修就が新潟奉行着任1周年を迎えたことを記念して、新潟の川村家では、赤飯を炊いて祝った。赤飯は、その日のうちに、出勤していた奉行所の役人たちにも振る舞われた。一方、江戸からは、不穏な報せが相次いで届いた。8月に、御庭番家筋の村垣左太夫病死。10月には、新潟奉行就任から色々と世話となっていた土井大炊頭御勝手掛が、病気のために退職した。1227日に起きた江戸大火の後は、江戸の留守宅の安否を気にして、落ち着かない日々を送った。正月、年賀のあいさつを告げる手紙が江戸から届き、新潟の川村家は、ようやく新年を迎えられた。

 

 

 

 

 


奥付



【2019-01-28】新潟湊の夜明け~新潟上知編


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著者 : きの しゆう
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