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新潟の四季、初孫の死

 毎年、71日から7日まで、新潟町は連休に入り、町をあげて湊祭が大々的に行われる。湊祭の最終日は七夕祭りだ。修就は、3月の白山神社にて行われた春祭と夏祭に行う能興行を例年通り行うことを許可したが、湊祭についても、例年と同様に仕切り通りに行うよう許可した。77日の「住吉祭」は毎年、多くの見物客が見込まれていることから、奉行所一丸となり治安維持に努めた。

 

「己の生業を45日投げ捨て踊っても、それが楽しみならばそれでけっこうじゃ」

 

 修就は新潟の慣習に習い、盆中は仮御役所も休みとした。また、広間役、定役、並役からの願い出を受けて、盆休みに入る前に8月分扶持高を渡した。

 

 

 

711日から13日の3日間、新潟町の本町通に昼と夜の2回盆市がたつ。修就も、検分がてら滝を伴って盆市をのぞいた。13日は、新潟では、お墓参りとお棚参りを行う家が多い。夕暮れ時、町家の門の脇には迎え火が焚かれる。町中の軒下に提灯が吊るされ、日が沈むころ、一斉に灯される。修就は、寺町堀周辺の参道を行き交う浴衣姿に提灯を持つ家族連れを多く見かけた。寺町堀は町と奉行所や寺を区画する堀だ。堀周辺には橋が少なく、西側に建ち並ぶ寺は堀を境内の周囲にめぐらせ参道の脇に池、前寺、堂を設けていた。それらの奥には、大きな本堂や庫裏がある。寺町堀の東側は、寺が建ち並ぶ普段は閑静な場所である西側と打って変わって、日が暮れるとにぎわいを見せる繁華街だ。食品や日用品を売る商店は少なく、妓楼兼旅籠屋や飲み屋が多く店を構えている。墓参りに出掛ける人波の中に、麻上上下の町の重立や羽織袴姿の町民の姿も見られた。

 

 盆踊りは、14日から17日の間に、神社、寺院の境内、町の広場などで行われる。奉行屋敷にも、樽をたたく音や音頭取りの唄う「新潟陣句」の音楽が風に乗って聞こえて来た。仮御役所の門内でも、最終日の夕方、子供達が集まり盆踊りが行われた。その日、盆踊りの手伝いに駆り出された修就の子供たちも、奉行所の役人の子供たちと共に参加した。

 

「盆踊りの間は、若い娘も、夜おそくまで出歩いてもよろしいそうですよ」

 

 娘のテイは、寺院の境内で行われている盆踊りへ向かう若い娘たちを塀越しに羨ましそうに眺めていた。

 若い娘たちの中では、茜染の木綿や縮緬の振袖に白木綿の手ぬぐいを半襟代わりに首に巻き、髪には大きな花の簪を差すのが流行している様子だった。一方、若者は、それぞれが仮装をして踊りを楽しんでいた。女装、僧侶、神官、七福神、奴、浪人など、何でもありの寛容な雰囲気があった。普段は花街にいる遊女たちも、艶やかな出で立ちで参加する。声に自信のある若者が音頭を取り、踊りは夜明けまで続く。修就は、盆踊りに参加したいと子供たちにせがまれたが、夜の外出を許可しなかった。せめて、雰囲気だけでも味あわせてやろうと、仮御役行所の門内で行われた盆踊りの進行を手伝わせたのだ。音頭取りは部屋住の者たちが担当した。

 

「よお、日本一」

 

 盆踊りを見物する人だかりの中から、いせいの良い声援が聞こえた。部屋住の松浦金次郎が、壇上に上り唄い出した直後だ。金次郎は、顔を赤らめながらも美声を張り上げた。

 

 

「殿。あすこをご覧下され。検断の松浦殿が、輪の中央で踊っておりますよ」

 

 横に立っていた滝が、笑いながら修就の肩を軽くたたいた。

 

 修就が、輪の中央を見ると、松浦が得意気に踊っていた。輪の中央に、大人が1人手本として踊ることになってはいたが、息子は音頭取り、父親が手本という組み合わせは珍しいらしく、輪の外側で見物していた者たちの中には、松浦のノリに乗った身ぶり手ぶりに手をたたいて笑い転げる者や声援を送る者などがいて、輪に加わり踊る子供たちよりも、見物している大人たちの方が大いに盛り上がっていた。修就は、松浦の様子を見て苦笑いするしかなかったが、自分の子供たちが、他の子供たちにまぎれて楽しそうに踊る姿を見て満足した。

 

718日。修就は、訓練と慰安を兼ねて水泳訓練や遠出を行った。支配向定役3名、並役6名、部屋住11名による水泳訓練を洲崎御番所辺において実施した。完泳者には、スイカを4つ賞与すると冒頭で告げたので、折り返しで白熱した競争に転じて大いに盛り上がった。水泳訓練が終わった後、修就は、家来たちを引き連れて川上へ登り大川前御番所前において、鮭魚網を引かせ鯔20本、7寸位の鮒などを捕り、組頭以下家来たちに配った。さらに、白山向かいの州で釣りをした後、そこで、網を引いた鯔6本を調理して、家来たちに酒肴を振る舞い月の出を待って帰宅した。

 

 

 

冬の間、新潟の海は荒れる日が続き、新潟湊に出入りする廻船も減り、新潟湊とその周辺は閑散となる。また、川売り業者が総出で、新潟湊付近に繋がれているすべての船を信濃川の川岸に引き上げて、箛や莚で囲う作業に取り掛かる。

 

 一方、砂丘の上に、ひっそりと建つ漁師の家では、浜の男衆が、囲炉裏を囲んで網作りに精を出す。季節が冬でも、日本海が穏やかな日には、漁師たちが、3反の布で作った帆を立てた大きな船に78名で乗り込んで、ヒラメやカレイなどの手操り漁に出る。新潟の漁村は、半漁半農の家が多く、砂丘を開墾して麦、大根、カブなどを作っている。冬になり漁に出ることができない日が続いても、畑で採れた作物で、飢えを凌ぐことができるからだ。

 

 江戸と同様、新潟町も路地が多く、長屋については、隣同士の間が狭いこともあり、1度、火災が発生すれば、たちまち、周囲に火が燃え移り大火災に繋がりやすい。

 

修就は、新潟町では、町火消体制が、きちんとなされていないことに気づいた。長岡藩領時代から、「五人組」という制度が町内ごとにあり、各組内で年ごとに決めた年番が代表で、奉行所にきまりを聞きに行き、地主、家守、店子、借家人を集めてそのきまりを読み聞かせる行事は行われていたが、町内で火事が発生した場合、出火場所に駆けつけて、その状況を奉行所に連絡する者を特に定めておらず、消防道具の保管場所も特定されていなかった。そこで、修就は、町火消体制を整備することにした。町会所の前に立つ高札に掲げられた御触れには以下のことが書かれた。

 

l  「新潟火消人足番組」を結成し、全町を5組に分け、一組70名総勢、350名を配し、各組の竜吐水1挺ずつ備える

 

2  出火の際、その出火場所の風向き、強さなどを見て、奉行所、牢屋敷、出火場所にそれぞれ駆けつける者をあらかじめ定めておき、奉行所役人総出で消火に務める

 

3  消防用具は、保管場所を決め、消防用具入小屋を5か所建てる

 

 

消防組頭取には、給金として1カ年、3両。世話人には、24朱。消防夫には、500文から1貫までの「足留料」が支給されることになった。

 

 

 

昔から、新潟町は、初春のフェーン現象が現れる時期などに、大火に多く見舞われている。修就は、着任後すぐ、防火用井戸を掘ることを許可し、家来全員へ、出火の際の心得を申し渡した。そこまで備えても大火は発生する。嘉永2年、423日には、奉行所内の足軽長屋から出火し1棟を焼き尽くした他、長屋3軒も消防のために取り壊すという大火災が発生した。この大火災で、修就は差控伺いを出した。同年、閏47日。幕閣から「出火遠慮」の通達が届き即座に遠慮に入った。修就は、奉行所の表門や通用門とも閉じさせて、「御用向」と医師以外の通用を禁止し、奉行所内の長屋の窓も閉め切った。江戸の屋敷を守る庄五郎も、この件に連座し「御目見遠慮」になった。遠慮は、閏49日には許され庄五郎の御目見遠慮も許された。焼失した長屋と取り壊した長屋共に翌年の4月に再建された。

 

 修就が、新潟奉行に着任した年の冬。新潟の川村家では、順次郎の身の回りの世話を担う下女として、川村家に入ったツヤが、順次郎の子を懐妊し臨月を迎えていた。本妻の子ではないものの、初孫ということもあり、修就と滝は手放しで喜んだ。

 

 ある日の夕暮れ時。所用の帰り、修就は、僅かなお供を随えて仮御役所へ向かって歩いていた。新潟町近郊の鳥屋野潟近くを通りかかった際、潟の周辺に黒山の人だかりが出来ているのを目撃した。

 

「あれは、何の騒ぎじゃ? 」

 

 修就は、案内役の年寄の又左衛門に様子を見て来るよう命じた。少しして、又左衛門が急ぎ戻って来た。

 

 

「がたがた追いを見物するために、大勢の見物人が、潟の周りに集まっております。ご覧になって行かれますか? 」

 

 又左衛門の説明が終わらない内に、修就は、人だかりに向かって歩き出していた。

 

 

「実に美しい音色じゃ。あの太鼓は、いったい、何で作られておるのじゃ? 」

 

 修就は、熱心に「がたがた追い」を見物した。「がたがた追い」とは、扇網を水中に沈めて、魚を待つ舟から遠く離れた場所に停めたもう1隻の舟の端や太鼓をたたいて、魚を扇網の方へ追い立てる漁法だ。

 

 

「知人が、あの太鼓を作る職人で、がたがた追いに用いる太鼓は、竜眼木でこしらえると聞いた覚えがございます」

 

 又左衛門が答えた。

 

 

「気に入った。早速、竜眼木で、しゃく拍子を作らせるとしよう」

 

 修就は、上機嫌でその場から立ち去った。

 

 

 師走1日。奉行屋敷に、組頭以下の役人たちがあいさつに訪れた。修就は、あいさつを受けた後、宴を開いた。江戸から新潟へ赴任して以来、各自、それぞれの仕事に追われ一同が集まることが、なかなかなかったことから、宴席では、話が思った以上に弾んで、誰も腰を上げたがらず、近所の寺までにぎやかな話し声が聞こえるぐらい盛り上がった。深夜になり、近所迷惑になるとしてお開きになった。

 

「久々に呑み過ぎた」

 

 修就は、家来たちが帰った後もひとり、手酌酒で酒を呑み続けていた。

 

 

「殿。ほどほどにしませんと、明日2日酔いになりますよ」

 

 下女にテキパキと指図を出しながら、片づけていた滝が、一段落して近づいて来た。

 

 

「来年は奉行所が完成するし、初孫も産まれる。めでたいことが重なるのは滅多にないことじゃ」

 

 

「殿が、酒を酔っぱらうまで召しあがるのを初めて見ました。久方ぶりに、楽しい酒を呑んで気が緩んだのでしょうか」

 

 滝は、その場で居眠りを始めた修就のカラダの上に掛け布団をかけると、しばらく寝顔を眺めていた。 

 真夜中、修就は、尿意を感じて目を覚ました。自分の寝ていた場所が広間だったことから驚いた。急いで、厠に行き用を足すと寝所へ急いだ。廊下を歩いている途中、庭先に人影を見つけた。

 

「誰じゃ? 斯様な夜更けに、そこで何をしておる? 」

 

 修就は、目を凝らして人影を確認した。

 

 

「申し訳ありません。月があんまりにも美しかった故、つい、見とれてしまいました」

 

 暗闇の中で聞き覚えのある声が聞こえた。次の瞬間、月明かりに照らされて、みきの姿が浮かび上がった。

 

 

「早く、床に入りなさい。おなごがひとりで庭に立っていては物騒じゃ」

 

 修就がとがめた。

 みきは、縁側に上がる時、腰をかがめてめくれた裾を直した。その時、月明かりに照らされたうなじが白く光ったことから、修就はつい目を奪われた。

 

「あの」

 

 みきと目が合ったので、修就はあわてて目を反らした。

 

 

「早く寝所へ戻りなさい」

 

 修就は、寝所へ向かって歩き出した。角を曲がる時、さりげなくふり返ると、みきは縁側に座り夜空を見上げていた。

 

 

「殿? 」

 

 寝床にもぐりこむと、滝が小声で名を呼んだ。

 

 

「起こしたか? かたじけない」

 

 修就は、布団に入ると顔だけ横に向けた。

 

 

「いったい、今まで、誰とお話されておられたのですか? 」

 

滝からするどい質問が返って来た。

 

 

「みきじゃ。厠に行った後、廊下を歩いていたら、庭先に立って月を眺めておった。もうおそいし、暗い場所に、おなごがひとりでいるのは物騒故、注意した」

 

 修就が答えた。

 

 

「何かあったのでしょうか? 」

 

 滝が訊ねた。

 

 

「妾の腹が、日に日に大きくなるのを目にしている。平気そうにふるまっているが、本心はどうかわからぬ」

 

 修就は、ツヤが、生み月を前に川村家に帰って来たことを気にしていた。産まれるまで、姉の元に身を寄せているはずだったが、初産で初孫ということもあり、滝が、世間体を気にして連れ戻したのだ。実父の修富も、自分自身も、妾を持った経験がないため、本妻と妾が同居するふつうではない状況下で、妾が、本妻より先に懐妊する事態に遭遇したのははじめてのことで、何が正しいのかが分からない。健康なからだを持つ庄五郎が、妾を持つというのであれば、周囲は理解を示しただろうが、病弱なために廃嫡した身の順次郎が、身の回りの世話をしてくれる下女を身ごもらせたのだ。一時は、ツヤを江戸に帰して懐妊を隠すことも考えたが、滝が猛反対した。

 

 

「腹の子は、あなた様の孫なのですよ。存在をお隠しになるなんて、可愛そうだとは思わないのですか? 」

 

 滝が修就に向かい声を荒げたのは、夫婦になって以来、はじめてだ。

 

 

「隠すといっても一時的なことじゃ。本妻に子が産まれた後に公にした方が面目が保てる」

 

 修就は冷静に言った。

 

 

「ツヤが懐妊したことに最初に気づいたのは、誰でもないみきなのです。腹の中では、何を考えているのか知りませんが、みきも、本妻として意地があるのでしょう。妾に子が出来たからぐらいで、いちいち、騒いでは、本妻の威厳が保てません」

 

 滝がきっぱりと言った。

 

 

「懐妊した妾に対する嫉妬心を表に出さぬことが、本妻の誇りだというわけか? 」

 

 修就は、みきの性格は知っているつもりだ。下女を身ごもらせた順次郎に対し、何とも思わないということは、夫婦仲が良くないということも考えられる。さすがに、修就も、この時ばかりは放っておくことはできず、順次郎を呼んで話し合うことにした。

 

 

「おぬしは、身のほどをわきまえず、あろうことか身の廻りの世話をする下女に手を出した。本妻に対して後ろめたさはないのか? 」

 

 修就はめずらしく声を荒げた。

 

 

「みきには、すまないと思っております。なれど、誰も懐妊を喜んでやらなかったらツヤも可哀想です。予期せぬ授かりものでした故、ツヤも、産むかどうか迷ったことでしょうよ。わしの口から、ツヤに産んでくれるように頼みました。わしには子種はないものと、とうの昔に諦めておりました。ツヤが懐妊してくれたおかげで自信を持つことができたわけです」

 

 順次郎が涙ながらに訴えた。

 

 

「おなごの世話役をおぬしの傍に置いたわしらに非がないとはいえぬ。旗本の中には、妾を持つ者も少なくない。なれど、妾が本妻と同じ屋根の下に暮らしながら、子を産み育てることはあまりない。別宅を構える余裕は我が家にはない故、みきには辛抱してもらうしか他にはない」

 

 修就は、滝を介してみきに修就の考えを伝えた。みきは、周囲の心配をよそに、泣きも嘆きもせず平然としていた。

 

 

 師走10日。町会所が仮御役所に先だって御用終いした。町会所とは、町役人が町政を執る場所だ。表門は本町通に面しており、片堀通側にある高さ5間の鐘堂は、町民に時刻を報せている。中は、町役人の詰め所、白洲、囚人篭置き場そして小規模な牢屋がある。毎朝、町方定廻役は、5ツ半時に仮御役所に出勤し御用を聞いた後、町会所に詰める。町方定廻役は、定役2名と並役2名が配置されており、町方から事件の通告があると、下手人捜しと逮捕に向かう。

 

師走の末日。新潟町の古町通や本町通に歳の市が立ち、正月用品を買い求める客で混雑する。滝は、臨月のツヤに留守番を頼み、みきと娘のテイを随えて正月用品の買い出しに出掛けた。修就が、屋敷に帰宅したころ、大荷物を抱えた3人が帰宅した。

 

テイが、白山神社でもらって来た安産の御守を大事そうに持って帰った。28日から晦日まで奉行屋敷には、ひっきりなしに、歳暮の品を持参した町役人や出入りの町人たちがあいさつに訪れ、新潟の川村家は、大掃除をする暇もなく晦日を迎えた。晦日の朝、家族総出で、煤払いや仏壇磨きなどをしているところへ、御武器掛の北山惣右衛門たちが、大掃除の手伝いに駆けつけた。

 

「掃除や仏壇磨きは、わしらにお任せ下され」

 

 惣右衛門は足軽長屋にいた独身の足軽数人を連れて来ると、テキパキと指示を出して、あっという間に大掃除を終わらせた。

 その日の夕方。修就は、仮御役所において、町の重立の年末のあいさつを受けた。町の重立は、揃って裃姿で現れた。帰り道、修就は、晴れ着を着た幼子が、長屋の方から走って来て道へ飛び出したところ、後から追いかけて来た母親に叱られている光景を目にした。 町家の前を通ると、掃除のためなのか戸が開け放たれており、町家の奥が見通せた。うす暗い台所に、塩引き鮭が吊るされているのが見えた。

 

「北山殿が足軽を連れて来て掃除を手伝ってくれました故、おかげさまで無事終えることが出来ました。お礼を兼ねて夕餉に招いたのですがよろしいですか? 」

 

 滝が、修就の着替えを手伝いながら訊ねた。

 

 

「江戸に、家族を置いて、単身新潟に赴いた者も少なくない。その者らを招いて、美味い物でも食わせてあげなさい。誰も晦日の夜に侘しく独りで過ごしたくはなかろう」

 

 当初は、江戸から単身赴任して来た家来だけに呼び掛けたが、どのように伝わったのか家族を伴って来た家来たちまでもが一家総出で、奉行屋敷に勢揃いしたため、広間は大変にぎやかになった。

 

 

「良い酒を手に入れました故にお持ちしました」

 

 惣右衛門は、来る途中に1杯ひっかけて来た様子だった。

 

 

「わしは、塩鮭を持参致しました」

 

 玄関先で、惣右衛門と一緒になった町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、先に、1升瓶を差し出した惣右衛門を横目で見ながら塩鮭を差し出した。2人に続いて、御武器掛兼仲金取立掛の村上愛助や並役の川村普次郎などが相次いで訪れた。にぎやかな晦日の夜を過ごした。

 

 

 天保15年の正月元旦。修就にとって、今年は新潟奉行として初めて迎える記念すべき正月だ。朝5時。仮御役所に、家来たちが続々と出勤して来た。修就は、まだ夜も明けない内から起きて、身支度を整えると簡単に朝食を済ませた。それから、家の者を起こさないよう静かに屋敷を出た。昨夜は、皆がおそくまで起きていたこともあり、見送りに出たのは滝だけだった。修就が出勤すると、組頭の両名が総ぶれの準備をしていた。

 

「あけましておめでとう」

 

 修就は、新年のあいさつをした。

 

 

「おはようございます」

 

 組頭の両名は、いつも通りのあいさつを返した。

 

 間もなくして、麻上下威儀を正しく、次の間から居間の端まで整然と並んだ組頭、広間役、定役、並役、年寄、足軽、小遣、検断、仲元方が平伏して、上段の間に坐る奉行の修就に年賀のあいさつを行った。その後、修就は家来たちを引き連れて、白山神社に初詣に行き初穂を納めた。修就は、白山神社において、ささやかだが正月気分を味わった。白山神社は、晴れ着などで正装した参拝客で溢れていた。神社の境内では、甘酒が振る舞われ華やかな着物に身を包んだ芸鼓たちが、白山神社の鳥居の前に架かる橋の上で立ち話をしていた。仮御役所へ戻る途中、商家の主人が、手代を随えてあわただしい様子で年始廻りをしている姿を見かけた。その日の夕餉の御膳には、見慣れぬ料理がずらりと並べられていた。

 

「殿が、お手に取られたのはのっぺという料理ですよ」

 

 滝が告げた。

 

 

「のっぺとな? 初めて聞く名じゃ」

 

 修就は、おそるおそる口にした。柔らかく煮てあり食べやすいが、味の方は、微かな塩気を感じるだけで他愛もない。

 

 

「これも、召しあがってみて下され」

 

 滝は、白地の器を指差した。短冊切りにした大根の白と人参の橙色が重なり合い器の白地に映えた。

 

 

「お味はいかがですか? 」

 

「むむ。何だか、甘くて酸っぱい。それに、こ、これは、いったい何じゃ? 」

 

 修就は、妙な舌ざわりを感じて口の中に含んでいた小さく楕円状で堅い所と柔らかい所のある奇妙な食感の物を懐紙の中に吐き出した。

 

 

「父上、それは氷頭(ひず)というものですよ」

 

 テイが、にこにこしながら言った。

 

 

「氷頭とな? 何故、斯様にあやしげなものを入れたのじゃ? 」

 修就はしかめ面で滝に訊ねた。

 

 

「氷頭とは、鮭の頭の先のことです。越後では、昔から珍重されている味だそうです」

 

 滝が答えた。

 

 

「して、この酢が利いたものは何という料理じゃ? 」

 

 修就は、気を取り直して訊ねた。氷頭は、鮭の頭にある透き通った骨のことをいう。越後では、晦日の料理に塩引鮭は不可欠だ。塩引鮭ならば、修就も何度も、口にしたことがあった。

 

 

(なます)う料理ですよ。実は、殿お帰りになる少し前に検断の松浦殿の奥様がお持ち下さったのですよ。ぜひとも、殿に新潟の正月料理を召しあがって頂きたいと申されて、松浦殿が準備させたそうです」

 

 滝が種明かしをした。

 

 

「さようか」

 

 修就はふと、松浦の顔を思い浮かべた。松浦とは、江戸にいるころ、突然、屋敷に押しかけて、新潟の景気回復の施策について切実と語ったあの熱血漢だ。情に篤い男なのだろう。お奉行に、郷土料理を差し入れるとは、なかなか粋なはからいをするものだ。新潟の人たちは内弁慶だが、1度親しくなると親切で情が深い。

 

 正月3日から、個人的にも親しくしている家来たちが奉行屋敷を訪れた。隠密掛の根津奈賀次郎と町方掛差免の小嶋源右衛門とは、「刀目利」を行った。町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎と、並役の川村普次郎とは、「歌会」を開いて三曲合奏した。若菜は、歌会の翌日も訪れて、茂十郎も交えて碁を打った。御武器掛兼地方公事方書物方の平岩勘助久平とは、「将棋」を差した。一方、砲術稽古は、正月関係なく行われていた。日を変えて、組頭両名、家来、部屋住たちが修就の元で稽古に励んだ。

 充実した正月休みを送る修就は、正月11日に祖父となった。順次郎の妾のツヤが、女の子を出産したのだ。18日の七日祝いには、修就が自ら孫に「(くら)」と名付けて赤飯を炊いて祝いをした。赤ん坊は、家を明るくする。その寝顔を眺めるだけで自然と笑みがこぼれる。みきも、赤ん坊を抱いた瞬間だけは笑顔を見せた。しかし、それは束の間の幸せだった。七日祝いの翌日から急に庫の容体が変わり20日に早逝したのだ。庫の亡骸は、寺町通の長善寺に葬られて「百ヶ日」の読経を読んだ。皮肉にも、庫が産まれた11日は、雪の降る寒い日だったが、庫の葬式の日は晴天だった。庫が産まれた日。修就は、江戸にいる老母のコノに年玉として縞つむぎ1反を贈り、孫の誕生の報告と近状を伝える手紙を送ったが、22日に、正月の費用を送金した時は、庫の死を伝える手紙を出すことになってしまい、なかなか、筆が進まなかった。江戸屋敷を守る庄五郎夫妻から香典が送られて来たが、コノからは返事がなかった。

 

 

毎年、山間の村は腰丈まで雪が積もるといわれている雪国、越後新潟の冬を初めて体感した新潟の川村家一同の間では、庫が亡くなった喪失感もあって風邪が流行した。修就、滝、テイ、茂之丞の順に感染し相次いで床に伏せった。滝、テイ、茂之丞の3名は風邪をこじらせ、医師の加藤道逸を呼んで薬を処方してもらった。

修就は、政務が待ったなしに立て込んでいて、孫の死を哀しんでいる暇はなかった。年明け早々、未組織であった水主頭取、足留水主の組織に着手した。118日には、古洲崎町の徳左衛門ら4名を水主頭取に任命し、42斗二人扶持を与え、足留水主は、一人扶持で15人を任命した。それから、翌215日。修就は、非常時に駆けつける人足30名、足留水主頭15名に鑑札を渡した。また、足軽の重立を世話役という正式名称にするなど着々支配向きの整備を進めた。

組織の整備と同時進行で、新潟奉行建設が着々と進められていた。昨年、新潟奉行所候補地が決まった後、関屋村地内に新しい「御仕置場」の晋請に着手し、今年の130日には、修就自ら縄張りを検分し、154方にすることを決定している。さらに、216日には、役所普請仕様帳の読み合わせをやり、翌、217日以降、普請目論見掛は役所へ詰め切りで仕事に取りかかった。

 

 

 


お奉行の町政と名裁き

 天保15年、2月中旬のことだ。新発田領鍋潟新田の百姓、与兵衛、京松、国松、藤内の4名が鉄砲を所持して、新潟町の信濃川沿いにある鳥屋野潟島へ鴨の密猟に出掛けた。しかし、与兵衛たちが乗った舟は、雪解け水に流されて、新潟町の新津屋小路御番所前に流れ着いたところ、新潟奉行所の町役人に見つかり取り押さえられた。吟味に対して、与兵衛たちは、鉄砲は田畑を荒らす猪や鹿を退治するため領主から借りた物だと弁解した。そこで、奉行所は、新発田藩に事実を確認し、証言する役人の出頭を要請した。221日。報せを受けた新発田藩は、あわてて調べたが、鉄砲を貸したとする事実はなかった。鉄砲を所持して他領に入るのは大罪にあたる。新発田藩は、大罪人を自藩から出したくない一心で、密かに手を廻して、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎に相談した。新発田藩から相談を受けた若菜は、修就に報告し指示を仰いだ。

 

 

「新発田藩も、愚かなことをしたものじゃ。奉行所が、百姓が所持しておった鉄砲が、新発田藩が貸し出した物ではないことを見抜けぬとでも思ったのか? そうかといって、真っ正直に裁けば、百姓を大罪に処せねばならなくなる故、新発田藩も何かと困るじゃろ。若菜、この一件はおぬしに任せる」

 

 修就は腹心に委ねることにした。

 

 

「さすれば、新発田藩の役人に百姓と口裏合せるよう入念に入れ知恵致しましょう」

 

 若菜が小声で告げた。

 

 

225日。お白洲には、新発田藩の役人、村役人、百姓4名が呼び出された。お奉行自らが吟味すると聞いた新発田藩の面々は、驚きを隠せない様子であった。修就の傍らに坐った若菜は、新発田藩の役人に目配せした。新発田藩の役人も目で返事した。修就は、上段の間から、白洲に並ぶ者たちを見回すと張りのある声で告げた。

 

 

4人者共、村方田畑を散らす猪鹿おどしのために領主様より貸し渡された鉄砲を持ち、猪鹿をおどしに出て、当節の出水に流され、新津屋小路御番所に流れ着いたものに相違ないな? 」

 

 

「相違ございません」

 

 百姓4名は、平伏したまま口を揃えた。

 

 

「新発田藩では、猪鹿おどしのため、村方へ鉄砲を貸し渡していたことに相違ないか? 」

 

 修就は、今度は新発田藩の役人に訊ねた。

 

 

「相違ございません」

 

 新発田藩の役人も、平伏したまま返事をした。

 

 

「では、当奉行所としては、4人の者共はお構えなし。但し、4人の身柄並びに鉄砲は村役人預けとする」

 

 修就は、ひと呼吸置くと判決を言い渡した。

 

 その後。新発田藩では、重役の評議をした上、新潟奉行所の役人に会釈をすることになった。そこで、沼垂詰の遠藤勇三郎を使者としてお奉行の修就には、銀子3枚、白縮1反。組頭両名には、銀子に2枚、白縮1反。広間役6名には500疋。奉行御用人両名には200疋。組頭御用人両名には100疋が届けられた。贈物を受け取らない主義の修就も、新発田藩の痛々しいまでの気遣いを無下にできず贈物を受領した。この裁きを機に、若菜は、新発田藩から信頼を得ることとなった。

 

 

 

 また、新潟奉行所の晋請にも進展が見られた。47日。役宅予定地の寺町寺大門を組頭両名が晋請目録掛と合同で検分を行い、その2日後、書物方の杉浦忠臓たちに「御晋請御用切」を申し付けた。晋請の際に必要な人足については、以前、町民から、晋請に対して人足を差し出す申し出があったが「肴屋」17軒から150名の人足、川売商から400名の人足の申し出があった。その後、「御役所御申請仕様書」が完成し検断、年寄から下役人に至るまで、冥加金と人足差出願が出された。翌、51日。新潟奉行所晋請の入札が実施された。見事、落札したのは、新発田町の次郎八という地主であった。次郎八は、新発田町に住む高千石余も所持する大地主であると共に、廻米の廻船御用を差配する商人としての顔を持つ。地役人入札では、新潟町片原四之町の藤太郎他2名の組が金769両余で落札した。

 

 

  上知前の新潟では、公事訴訟や死罪仕置に至るまで町政の一切を検断以下町役人が取り仕切っていた。町役人の中には、家業を兼務している者が多くいるせいか、治安の取り締まりは、柔軟で馴れ合いの雰囲気があった。修就が、新潟奉行に着任した途端、治安の取り締まりが厳しくなったとたちまち評判になった。湊町である新潟町には、諸国の商人や船乗り相手の遊女屋が軒を連ねる花街がある。新潟町では、花街の遊女屋で営業する公娼とは別に町民が住む町内で客を取る私娼もいた。私娼が、花街以外で営業しているということは、町の風紀を乱すことになる。

 湊に近いことから、密航により新潟に潜入した無宿者やお尋ね者が入り込む隙を作る。新潟奉行所には、毎日のように無宿の他所者による事件が多数持ち込まれていた。

 

また公事出入も多い。公事の事件については、窃盗、賭博、出奔駈落、張訴、出火、変死など多種多様な事件が持ち込まれる。下手人についても、他町村から新潟町へ入り込んで事件を起こす者や新潟町へ潜入したお尋ね者が多い。遠国奉行においての吟味ものや公事出入りの判例はなく大罪ともなると、他所に問い合わせる他老中迄伺書を提出し指示を受けた上で仕置を行わなければならなかった。修就は、公事方の吟味については、手間を取らないことを心がけやむを得ず、3か月以上かかる場合には、月末毎に報告を求めるよう、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎をはじめとする町役人たちに申し付けた。更に、病による「頼合」は、7日以上になったら「神文状」を差し出すこと。勤務時間については、同役に頼んで早く退散する場合があるが、朝5つ時から夕7時まで勤務し仕事により早出、居残りを致すよう通達した。

新潟湊は、信濃川や阿賀野川を下って来る船と海路で他国から来る船が集まる日本海側有数の湊だ。新潟町には、廻船問屋を営む商人から、廻船への荷物の陸揚げや積み込み、荷造りなどを行う「小揚」と呼ばれる肉体労働者に至るまで、新潟湊に関係する様々な生業が繁栄している。新潟町もまた、生業によって住み分けが成され、大半の生業は株仲間を結成しその営業権を独占しその利権を得るために「法」や「掟」を設けて同業者間で互いに商いを監視し合っている。修就は、「天保の改革」において、株仲間の禁止令を出したにも関わらず、新潟では徹底されておらず、今まで通りの営業が行われていることを知り改革の難しさを実感した。

 

 

「これから、新潟を治めるにあたり、長岡藩領時代の新潟の仕来りを知っておくべきじゃ」

 

 修就は、検断の松浦久兵衛に対し、長岡藩領時代の新潟の仕来りを提出するように申し伝えた。松浦は、命を受けてすぐ、詰所へすっ飛んで行ったと思えば、その数分後には、修就の元に書物を抱えて舞い戻った。

 

 

「おぬし。用意万端ではないか? 」

 

 修就は、書物を手に取ると告げた。松浦はてれ笑いした。その後、修就は松浦をはじめとする新潟町の検断を白洲に呼び出して、市中取り締まりその他の儀、証文を持って申し渡し、読み聞かせの上印形を致させるほど、町役人の働きを認めていることを示し、町役人たちと積極的に交流を深めた。

 

 

 さらに、修就は、新潟奉行着任時に治安の取り締まりを強化するため、「町方定廻り役」と「隠密廻り」という新たな役職を任命した。修就の在任中、「町方定廻り役」を務めたのは、若菜三男三郎をはじめとする6名。中には、隠密掛の経験があったり、御武器掛を兼ねた者もいたり砲術師範役を務める者もおり、腕に覚えのある者たちが集められた。博奕の取締まりも度々行っており、新潟赴任の翌年には、月岡勇次郎をはじめとする6名の足軽が、博奕人を捕えた褒美を賜った。

 修就は、行政、財政、司法などに関する重要案件その他事故などは、必ず幕府に報告することを忘れなかった。新潟に赴任して間もない、1028日。新潟奉行所の町方廻りたちが、無宿者の竹川英橘、江戸飯田町「埼玉屋」勘助を含む8名を捕らえた。吟味した結果、竹川英橘は南町奉行で再吟味となり、町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が、足軽2名と共に付添で江戸へ送った。

 それから1年後、南町奉行の鍋嶋内匠から、一件落着したことが通達された。また、引化3年、3月。佐渡河内村の入墨者の権吉が、捕らえられて佐渡奉行へ引渡しとなった。時には、江戸においてお尋ね者だった下手人が新潟へ逃亡して来ることもある。

 

 引化4年、7月。新潟奉行所の「町方定廻り役」たちは、江戸、南町奉行の遠山金四郎景元が、その行方を追っていた重要なお尋者、弥留千蔵を捕えて南町奉行所へ引き渡し、また、別の日には、無宿者の定吉を捕らえて関東取締出役に引き渡した。まさしく、江戸と新潟の連携探索の賜物であり、新しい警察組織が上手く動いている証拠でもあった。同年、7月。囚人3名による牢抜け事件が起こった。その内の1人の吉兵衛は、江戸南町奉行の遠山金四郎景元に捕らえられて新潟に連れ戻された。しかし、他の2名は逃走したままだった。修就は、牢守りの足軽を「預け」処分にして、なお、一層、厳重に警固するよう指図したはずだが、翌年の3月には、山の下の無宿者の鉄蔵が牢抜けした。鉄蔵は、羽州鶴ヶ岡辺にいた所を新潟奉行所の捕手方に捕らわれた。その翌月には、無宿の松五郎が牢抜けした。あまりに何度も牢抜けがあったため、修就も、牢守りの足軽に仕置きをするとさすがにマズイと思い、自らも「差控伺」を出したが、老中伊勢守から差控に及ばないとの通達が届いた。

 また、新潟町の漁師と内野村の人足とのケンカ沙汰や博奕も絶えず発生するなど治安維持も、なかなか、大変であることを思い知らされた。

 上知後も、新潟町では唐物抜荷が後を絶たず、片原通六之町の甚之丞を抜荷の唐物を売買した罪で吟味したり、新潟湊へ入津していた肥前国竹崎村の善兵衛の船が抜荷の唐物を運んで来た疑いがあり船荷物をあらためさせたりした。

 修就は、水野が罷免された後もなお、新潟町民に質素倹約を実行させようとしていた。町会所前にて、町役人たちが、町民から押収したビロード鼻緒類を焼き捨てたり、毘沙門嶋の千之助と娘のせきの2人を銀キセルを所持していた疑いで吟味したりしたのは、見せしめだと批判する町人もいた。

 

 

「何をしておるのじゃ? 」

 

 天保15年、7月朔日の朝。修就は、仮御役所に出勤した時、門前に於いて、町役人2名が、数名の町民を門の外へ押し出しているところに遭遇した。仮御役所に押しかけた町民の1人が少し離れた場所で見ていた修就の元に駆け寄ると、その場に土下座して書状を差し出した。

 

 

「お奉行様。何卒、ご覧になって下され」

 

修就は、差し出された書状を受け取ろうとした。その時、騒ぎを聞いて駆けつけた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎が間に入り、町人の手から書状を奪い取るとその場で破り捨てた。

 

 

「お奉行様に直談致すとは何事じゃ」

 

 若菜は町民を厳しい口調で諫めた。修就に直訴しようとした町人はすぐさまその場で取り捕えられた。修就は、無言で門をくぐると中へ入った。その後から、若菜が追いかけて来た。

 

 

「お奉行様。申し訳ありませんでした。町民がとんだご無礼を働きまして、2度と斯様なことがないようとくと申し付けました故、ご安心下され」

 

 若菜は、修就の目の前に廻ると深々と頭を下げた。

 

 

「町民が、町政に対してこれ程までに関心を示しておるとはのう。以前から、張訴はあったのか? 」

 

 修就は着席すると訊ねた。

 

 

「はあ。こたびで、3度目でございます。張訴は禁止されていますので、訴文はすべて焼き捨てております。713日夜の張訴については署名があった故、翌日、訴人を呼び出して、願筋は町役人へ願立て張訴しないよう申し渡した次第」

 

 

「その都度、注意するしかなかろう。1度でも、張訴を認めたら町政は混乱を極める」

 

 修就は、長岡藩領時代の町政について検断たちから聞いた話をふと思い出した。

 

 上知前、町民は、あらゆる形で町政に関わっていた。町全体が一丸となって、新潟町を作り上げている感じだったという。例えば、髪結渡世者は、冥加金を免除される代わりに2組に分けられ、1組は防火にもう1組は防犯の冥加勤をしていた。「防犯組」は、岡っ引と同じ仕事を引き受けており、下手人の探索や夜間の巡回をしたらしい。

 

 

「町民が奉行所役人へ訴える張訴が、この3ヶ月間で3度も行われております。以前、検断の松浦が、町の惣代としてお奉行様に提出した意見書が、改革の施策に反映されておると、町民の間で風聞が広まっておることもあって、向後も増えることは間違いありません」

 

 若菜の口調は、どこか歯切れが悪く聞こえた。

 

 

「かの吉宗公は、目安箱を設けて町民の意見を市政に役立てようとなさったが、あいにく、わしは抱えている施策で手一杯じゃ。なれど、町民の訴状が他人を陥れるものでなければ焼き捨てなくても良かろう。目安箱の場合も、無記名の訴状は焼き捨て御免となっていったが、きちんと署名がなされておる訴状には、吉宗公も、目をお通しになられて取り入れるに値する意見は取り入れられたと聞いておる」

 

 修就は、新潟を改革するためには、町民の協力は必要不可欠である事を強調した。

 

 

「お奉行様の仰せになることは正論でございます。わしは、今、進めておる施策が十分町民の意見に適っておると信じております。人間というのは、1つ願いが叶うとまた1つ、2つと限りなく欲が出て来るものなのです。その内、町民も理解するはずです」

 

 若菜が穏やかに告げた。

 

 

 

 引化元年、4月。新潟町の信濃川河岸にて新潟町でも珍しい事件が起きた。多門通川端に並べてあった直径、深さ共に6尺余りの肥だめから船に汲み移す作業を行っていた近郷の村人たちが残り少なくなり杓子が届かなくなったので、1人が中に入ったところ毒気にあたり倒れた。助けようして樽の中をのぞいた村人たちも次々と毒気にあたり倒れた。報せを受けた修就は、現場へ医師を赴かせて手当を施したが2名は即死。1名は後日死亡。その他2名は重体。肥だめの中に落ちたとあって、樽から引き揚げられた死体にはハエがたかり、辺りに何とも言えない悪臭が立ちこめた。いち早く、現場に駆けつけた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、仏に手を合わせた後、とっさに着物の袖で鼻を覆った。

 

 

「肥だめの中で、生涯を終えるとは嘆かわしい。毒気のある所には、酢を撒いてから入れとの触れを出しなさい」

 

 修就は、若菜に川村家秘伝の薬「五神錠」を持たせて患者に与えるよう命じた。

 すると、『五神錠』の効き目があったのか、重体だった2名が、意識を取り戻して快復に向かったという。それを聞いて、修就は「五神錠』」を商品化できないかと新潟町の薬問屋に問い合わせてみた。しかし、薬に関しては素人の修就をまともに相手する薬問屋はなかった。

 

 

「薬として店で売りたきゃ、医師にお墨付きをもらわんとなりません」

 

 修就が、散々店を廻った後に、最後の頼みの綱として本町通に店を構える「田辺薬種店」に「五神錠」を持参すると、初老の女店主が愛想良く告げた。

 

「さようか」

 

 修就は、医師の加藤道逸に相談することにした。

 

 

「川村様。こたびばかりは、お力になれそうもございません」

 

 加藤道逸は、修就の頼みを丁重に断った。それでも、修就は、「五神錠」の商品化をあきらめなかった。

 

 

 

  昨年、検分して飛砂による被害を目の当たりにした修就は、8月、松苗の植付場所の検分を行わせ、「松苗植付出役」2名を任命したが、修就は、上嶋下嶋検地の検分の傍ら小松植付の検分にもよく足を運んだ。13日には、日和山松苗植付場へ出向き、「松苗植付出役」の小倉瀬平へ細かい指示をするなど激励した。松苗植付作業は、願随寺の裏方面から日和山にかけて、松苗3375本植え付けて15日に終了した。この日の夜、修就は、松苗植付に尽力した家来たちを奉行屋敷に招き夜食を振る舞った。

 

 

「予定していた数の松苗の植付が無事、終了致しました」

 

 作業後。検分に訪れた修就に対して、「松苗植付出役」の杉浦三之助が報告を行った。

 

 

「ご苦労。今宵は、我家にて慰労会を開く。出席出来る者は遠慮なく参加するが良い」

 

 修就は、松苗の植付作業に携わっていた者たちを周囲に集めると告げた。

 当直以外の者たちがこぞって、奉行屋敷に集まり宴が始まった。修就は、いつになく上機嫌だった。それというのも、江戸から伴って来た家来たちだけでなく、普段は遠慮がちな旧長岡藩出身の町役人たちも参加していたからだ。

 

1つのことを皆で力を合わせて行うというのは実に良いことです」

 

 「御武器掛兼仲金取立掛」の村上愛助が修就にお酌しながら告げた。

 

 

「しかりその通りじゃ」

 

 修就は、広間の両側に着席している面々を見渡した。

 

 

6月に、水野様が、老中職に返り咲いたそうですね? 」

 

 今度は、組頭の平田与左衛門がお酌に廻って来た。

 

 

「あのお方ならばかならず復職なさると思っていた。めでたいことじゃ」

 

 修就は、老中を罷免された水野忠邦から逃げるような形で新潟に赴任して来たことについてずっと気兼ねしていたため、水野が再任したと知り安堵した。

 

 

「お奉行様。跡継ぎも生まれたことですし、より一層、精進して参りたいと思っております故、よしなにお頼申します」

 

 悪酔いした「苗植付出役」の小倉瀬平が、突然、広間の中央に進み出て大声で宣言して周囲に笑いを誘った。

 炎天下の中で作業した日も多かったせいか、皆、日焼けして健康気に見えた。宴もたけなわ、村上が、修就に「一句お願い致します」と告げた。修就は、おもむろに筆を取ると一句したためた。

 

 

「お奉行様。ぜひとも、お奉行様のお詠みになった句を聞かせて下さい」

 

どこからともなく声が掛かり、修就は和歌を披露した。修就が、和歌を詠む前までどんちゃん騒ぎをしていた広間が一斉に静かになった。

 

 

「うつし植えし、二葉の松に、秋の月。梢の影は、誰か仰がむ」

 

 修就の和歌に感銘を受けた町方定廻り差免公事方当分勤の若菜三男三郎は、この和歌の解釈を日記に記した。

 

 

 新潟では、9月下旬から本格的な鮭漁が始まる。新潟町の信濃川河口で引く地引網は、地元では「大網」と呼ばれ網の権利を持つ事もあり12の網が引かれる。「大網」の他には、朝夕、漁師達が小舟に乗り網の目に鮭が突き刺さるよう網を流す「流し網」や、河口の波に立つ付近に網を仕掛けて置き、時々揚げに行く漁法や網の目にかかった鮭を捕る「さし網」が盛んに行われる。

 

99日晴れ。修就は家来たちと洲崎から天渡船四艘に乗り、湊口外から海岸に沿って関屋村付近の河岸に出向き鮭網漁を見分した。この日の検分は、奉行所内で用務のある者を除き役人のほとんどが参加したこともありにぎやかだった。修就は、その夜、当直だった御武器掛兼仲金取立掛の村上愛助、定役の大嶋茂十郎、「苗植付出役」の小倉瀬平の3人を奉行屋敷に招いて漁で獲った魚を御馳走した。

 

 

修就は、何かと行事にかこつけては家来たちを奉行屋敷に招く。家来たちもまた、修就の誘いを喜んで受けた。「月見」と称して、組頭の平田与左衛門、「御武器掛兼仲金取立掛」の村上愛助。そして、「御武器掛兼定役」の小尾勘五郎が泊まりに来たが、その日は夕方から雨が降り、肝心の月は出ず、月見に用意した御供えを肴に呑み明かした。

 

江戸と違い、新潟では娯楽と呼べるようなものが少なく、江戸から赴任して来た者たちにとっては、いまいち物足りなかった。そのせいか、江戸から送られて来る手紙が待ち遠しくもあった。修就は、家来たちを集めて砲術や異国線について話し合うことが何よりの楽しみだ。夕餉の後、酒を酌み交わしながら、明け方まで、修就が議題に上げた事柄について、とことん議論を重ねる。家来たちも、酔いにまかせて日頃考えていることについて述べることで憂さを晴らした。

 

 

 

 修就は、新潟を治めるためには、新潟を知らなくてはならないという信念を貫いた。関屋の検分に続いて、松ヶ崎方面へ巡検に出向いた。この日は、朝6ツ時には、奉行屋敷を出て、大川前から、船で沼垂に渡り、牡丹山村、木戸村、寺山新田、海老ヶ瀬村を経て、津島屋へ行き、そこから、渡船で松ヶ崎村へ渡った。同村庄屋の吉郎左衛門方にて、4ツ時前に、昼弁当を食べ、新潟、村上方面の海岸線の景色や、雲がかかった越後の山脈を観賞した。その後、通船川から松崎村へ上陸し、河渡村へ出た。そこで、大仏庵の石塔を見物した後、同所から船で、大川前へ上陸し、夕方頃帰宅した。

 

 

地引網は、漁師だけでなく地元民総出で行われる。修就一行が、松ヶ崎に出向いた時、ちょうど、地引網の真っただ中で、浜辺には、多くの地元民が集まり掛け声を上げながら網を引いていた。網の1番端の印の大樽がだんだん見えて来ると、上空に群がっていたカモメの大軍が、網にかかった鰯目がけて水面に急降下して来る。網を引く人たちは、せっかくの鰯をカモメに横取りされないよう急いで網を引いた後、引き上げられた網に群がり鰯の争奪戦をくり広げる。鰯は、「鮮度が命」だと鰯を売り歩くボテ振りはいう。また、新潟町近郷の農家では、刈り入れの時期を迎え、刈り取られた稲が干してある稲架が数多くみられた。修就一行があぜ道を通り過ぎた時、黄金色の稲穂が棚引く田に入り収穫作業に勤しんでいた百姓たちが、一斉に腰を上げて仰ぎ見る様子が長閑な田舎の風情を感じさせた。

 

 

109日。修就が新潟奉行着任1周年を迎えたことを記念して、新潟の川村家では、赤飯を炊いて祝った。赤飯は、その日のうちに、出勤していた奉行所の役人たちにも振る舞われた。一方、江戸からは、不穏な報せが相次いで届いた。8月に、御庭番家筋の村垣左太夫病死。10月には、新潟奉行就任から色々と世話となっていた土井大炊頭御勝手掛が、病気のために退職した。1227日に起きた江戸大火の後は、江戸の留守宅の安否を気にして、落ち着かない日々を送った。正月、年賀のあいさつを告げる手紙が江戸から届き、新潟の川村家は、ようやく新年を迎えられた。

 

 

 

 

 


奥付



【2019-01-28】新潟湊の夜明け~新潟上知編


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著者 : きの しゆう
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