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 家治は、西洋の天文学に造詣が深かったため、オランダ通詞の志筑忠雄や本木良永と交流した。本木良衛は、「和蘭地球図説」と「天地二球用法」を刊行して、日本初、コペルニクスの地動説を紹介した。

 志筑忠雄は、「暦象新書」を刊行しケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。また、画家の司馬江漢が、「和蘭天説」を刊行し地動説等の西洋天文学を紹介し「和蘭天球図」という星図を作り、宝暦13年に、世界初のケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした医者の麻田剛立の功績を高く評価した幕府は、麻田の弟子の高橋至時や間重富たちに西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように命じた。

 しかし、老中首座の定信は、天文学の進歩には一切目をくれることなく、享保の改革を手本とする幕府の財政立て直しや農村の再建に重点を置く改革に着手した。幕府は、助郷役軽減や治水植林工事を約束し資金を与えて江戸に出稼ぎに来たまま居着いてしまった百姓たちを故郷へ帰した。

 天明の大飢饉を教訓に、諸藩の大名に対して各地に社倉や義倉を築き穀物を備蓄することを通達した。それと同時に、町奉行所に江戸に町会所を設置し七分積金の制を実施するよう命じた。七分積金とは、各町内が積み立てた救荒基金で町入用の経費を節約した4万両の7割に幕府の献金1万両を加えた基金のことで、町入用の経費は、地主が負担し木戸番銭や修繕等に使用され、復興支援の一環でもあった。さらに、旗本や御家人の救済を図るため、札差しに対して、6年以上前の債権破棄並びに5年以内になされた借金の利子の引き下げを命じた。

 江戸の人口が旧里帰農令により減少したが、天明の大飢饉により、江戸へ流れ出た無宿人や軽罪人たちは牢に収容しきれず溜に集められていた。通常は病にかかった囚人を収容する溜に、無宿人や軽罪人達が溢れ返り市中の治安は悪化していた。定信は、町奉行所や牢屋敷などの報告書を読む内、天明の大飢饉により、住む家や職を失い生活するためにやむを得ず窃盗やスリを犯し罪を償い釈放されても、社会復帰の目途がつかず再び罪を犯してしまい牢逆戻りする者が多くいることに気づいた。

 そこで、過去の政策や文献を見直して参考となるものを模索した。過去には、無宿人を一か所に集めて隔離し、佐渡金山への 水替人足に就かせて更生する制度があった。しかし、水替人足は、非常に厳しい労役を強いられるものであって、更生とは程遠いものだった。また、安永9年に深川茂森町に生活に困窮や逼迫した無宿人たちを収容し、更生や職の斡旋の手助けをする救民施設儲けたが、運営に支障をきたして僅か6年程で閉鎖となっていた。

 犯罪人を更生させるためには、犯罪人の心理を理解し親身になって手助けすることができる人間に任せた方が良いとして、定信は、天明7年に火附盗賊改頭となって以来、数々の難事件を解決させている長谷川平蔵に意見を求めた。長谷川の提案により「人足寄場」が設けられた。軽罪人を収容し職業訓練や職の斡旋を行い更生させることは安永九年と同じだったが、新たに収容期間満了後、江戸での商売を希望する者には土地や店舗を農民には田畑、大工になる者にはその道具を支給する案が採用された。

 

 天明8年に、定信が、御所再建のために上洛した際、安永3年に始まった江戸幕府の公称「一向宗」を「浄土宗」に変更する是非をめぐる浄土宗と浄土真宗の宗名論争に関与する騒動が起きていた。定信が、帰路の途中、箱根峠に差し掛かった際、浅草本願寺の僧3名が待ち伏せしており直訴に踏み切った。

 対処に悩んだ定信は天台宗の輪王寺に相談した。寛政元年の3月。寺社奉行の牧野(備前守)惟成は、公務繁忙を理由に東本願寺に対し「追面御沙汰有之迄、先御願中御心得たるべく候」を申し渡し、増上寺に対し請願の可否を棚上げした。天台宗の輪王寺が仲裁に入り、「1万日のお預かり」をすることになったことで論争の終結に目途がついた。

 

 日本は、長きにわたり鎖国政策を行い、他国の船舶の来航を拒んで来たが、近年、赤蝦夷船が蝦夷地に来航し対応に出た松前藩に対し通商を求める事件や赤蝦夷人が、千島に来日する事件が起きたこともあり、幕府は改めて、異国船渡来の際の処置を令した。

 定信が主導する商業政策は、株仲間や専売制の廃止、特権商人の抑制という風に重商主義政策に対し、真っ向から対立する内容であったが、米価の高騰を防ぐ策として米を大量に使う造酒業に制約を加え生産量の3分の1に削減する酒株統制は引き継がれた。失政により幕府の指導力は低下の意図を辿った。

 幕府では、定信が中心となり古学派や折衷派の勢力に推されて不振気味だった朱子学を幕府公認の学問と定めて再興させるべく学制改革を行うことにした。そこで、半官半民の性格を持っていた聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改めた。

 寛政2年、5月24日には、大学頭の林信敬に対して、林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じる旨を通達し、幕府の儒官の柴野栗山や岡田寒泉にも同様の通達が成された。それだけでは終わらず、湯島聖堂の学問所で行われる講義や役人登用試験の課題も朱子学に限られた。

 また、林信敬の補佐役に、柴野、岡田に加えて、新たに尾藤二洲と古賀精里を招聘して、幕府儒官に任じ湯島聖堂の改築を実施した。寛政4年、9月13日には旗本や御家人の子弟を対象として、朱子学を中心とした「学問吟味」を実施するなど文武を推奨した。あくまでも、朱子学以外の学問の禁止は、江戸の昌平坂学問所にのみにおいてのことだったが、各地の藩校もそれに倣い、朱子学を正学とし他の学問は異学という思想が広まった。

 

 幕閣人事については、定信主導の幕府を支える新たな人材が登用された。天明8年2月に、松平伊豆守系大河内松平家7代の松平信明と若年寄の本多忠籌がそれぞれ側用人に任じられた。

 本多は、定信や信明と異なり蝦夷地の開発に関心を持っていた。一方、田沼派の老中の阿部正倫は在任わずか、11か月にして病を理由に老中を辞職し、老中首座を務めた田沼派の重鎮の松平康福は阿部と共に、天明8年まで持ち堪えるも結局免職となり家督を譲ると間もなく死亡した。また、老中の牧野貞長も寛政2年に辞職し、老中の鳥居忠意もまた、その翌年の寛政3年に眼病を患い辞職した。

 

 蝦夷地で、酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となった最上徳内は、江戸にいる青島俊蔵に、時をみて蝦夷地の様子を報せる文を送っていた。寛政元年、国後場所請負人の商人「飛騨屋」との商取引や労働環境に不満を持った国後場所(国後郡)在住のアイヌが、首長のツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害するという事件が起きた直後、国後場所在住のアイヌの蜂起の呼びかけに応じた根室場所ナメシのアイヌが、和人商人を襲う第2の事件が起きた。

 松前藩から派遣された新井田正寿や松井広次たちとツキノエが、アイヌの説得に当たった結果、蜂起したアイヌたちは投降した。その後、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。一部の和人は、蜂起に消極的なアイヌにかくまわれて助かったが、この騒動で、和人71人が犠牲となった。

 松前藩は、「飛騨屋」の責任を問い、場所請負人の権利を剥奪し、後の交易を新たな場所請負人の「阿部屋」主人、村山伝兵衛に請け負わせた。

 

 家斉は、騒動の報告を受けた時、田沼が蝦夷地開発を再開して欲しいと願い出たことを思い出した。意次が、この事態を予測していたとしたら、蝦夷地の開発を中止した定信は、判断を見誤ったことになる。

 幕府は、元蝦夷地探検隊員の青島俊蔵を蝦夷地へ赴かせた。青島は最上を伴い蝦夷地へ赴いたが、2人が蝦夷地に着いたころには騒動は収まっていた。青島から騒動についての報告を受け取った家斉は考え込んだ。

 

「公方様。帰国を延ばし、東西蝦夷の調査を2人にご命じ下され」

  定之助が家斉に進言した。

 

「何故じゃ? 」

  家斉は驚いた表情で訊ねた。まるで自分の心を見透かされたようで気味が悪かった。

 定之助は真摯に訴えた。これを機に、蝦夷地の開発を再開させるべきだ。蝦夷地の開発に着手するきっかけは、もとより北方から赤蝦夷が北千島まで南下してきたからだ。主殿頭主導の幕府は、天明4年から蝦夷地の調査を行い天明6年に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させた。赤蝦夷人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧して、毛皮税などの重税を課したため、アイヌは、経済的に苦しめられたとの報告があり、一部のアイヌは、赤蝦夷から逃れるために南下したと聞いている。

 

「青島には、江戸には戻らず蝦夷地に留まり、最上と共に東西蝦夷地を調査するように伝えよ」

  家斉は、幕府を通している余裕はないと考え独断で調査を命じた。しかし、幕府を通さなかったことで、青島俊蔵と最上徳内は、幕府から事実無根の疑いをかけられる。

 青島俊蔵の帰国がおくれていることに気づいた定信は、松前藩へ青島の消息を訊ねる書状を送った。その後、松前藩から青島が最上と共に調査を装い東西蝦夷地を廻り、アイヌと交流しているとの報告が届いた。

 

 定信は、以前、家斉が蝦夷地の開発を再開させたがっていたことを思い出し、家斉が、独断で調査を行わせているに違いないと考えたが、他の者たちは、御上意だったとは夢にも思わず、青島たちは騒動の真相調査を終えたにもかかわらず、幕府の帰国命令を無視して独断で東西蝦夷地の調査を行いアイヌとの交流をはかったと疑った。青木と最上は、弁解も許されず捕えられた後入牢した。家斉は、青島と最上が入牢した報告を受けるとすぐ、定信を呼んだ。

 

「何故、青島と最上を捕えたのじゃ? 」

  家斉は、定信を見るなり烈火のごとく怒鳴りつけた。

 

「背任の疑いがあり捕えました」

  定信は平然と答えた。

 

「何をもって背任を疑う? 」

  家斉が鼻息荒くして訊ねた。

 

「帰国命令に従わず、独断で蝦夷地に留まり西蝦夷地の調査やアイヌとの交流をはかった。これはまぎれもない背任行為ではござらんか? 」

  定信が神妙な面持ちで答えた。

 

「余が、蝦夷地に留まり、東西蝦夷地を調査するよう命じた。何も問題なかろう。早く釈放せぃ」

  家斉は定信の耳元で怒鳴った。

 

「その話は初耳でござる。何故、ご下命を出す前に相談してくださらなかったのですか? 」

  定信が、耳をさすりながら言った。

 

「蝦夷地開発は、交易のためだけに計画されたのではない。赤蝦夷の南下に備えるために蝦夷地を天領とし、海防を強化するための調査を行う目的もあったのじゃ。そちは、アイヌが、蜂起した理由を考えたことがあるか? 青島が送って来た調査書を読んだが、アイヌがいかに不当な扱いを受けていたのかよくわかった。そちも読んでみるが良い」

  家斉は、調査書を定信に向かって投げつけると言った。定信は、調査書を拾うと読みはじめた。

 

「たしかに、青島の調査書には、松前藩から届いた報告書とは異なる箇所が幾つかござる」 

  定信は目を見開いた。

 

「これでわかったか? ただちに、2人を釈放し調査を続けさせよ」

  家斉が言った。

 

「おそれながら、すでに、手おくれかと存じます」

  定信が神妙な面持ちで言った。

 

「手おくれとな? 何をもって斯様なことを申す? 」

  家斉は定信につかみかかった。

 

「公方様。落ち着いてくだされ」

  2人の様子を見守っていた定之助があわてて、家斉のふり上げた腕を寸前で押さえた。

 

「もう、堪忍袋の緒が切れた。こやつは、一度、痛い目に遭わせないとわからぬのじゃ」

  家斉がわめいた。

 

「おそれながら、老中首座として、2人を釈放し調査を続けさせることは致しかねます。なれど、公方様が、恩赦を与えたことにして無罪放免とするのであれば問題はないかと存じます」

  定信が提案した。

 

「あくまでも、己の意志を曲げないつもりじゃな? 余が恩赦を与えずとも、そちが、余の命に黙って従えば済む話ではないのか? 」

  家斉は、鬼の形相で定信をにらみつけると足早に御座之間を後にした。

 


 それから数日後。家斉が、日課の行水を終えて御休息之間の中に入ろうとした時、定之助があわてた様子で駆け寄って来た。

 

「公方様。一大事でござる」

 

「何事じゃ。騒々しい」

  家斉は着座すると、手ぬぐいで顔や手をふいた。

 

「本多利明が、青島俊蔵と最上徳内の釈放を求める書状を幕閣に提出しました」

  定之助が神妙な面持ちで告げた。

 

「弟子の窮地を見過ごすわけはないとは思っていたが、ついに、動いたか」

  家斉が言った。

 

「なれど、時すでにおそしです。今朝早く、青島俊蔵が牢死したとの報告がござった」

  定之助が浮かない表情で告げた。

 

「牢死とな? 越中の奴め。青島を牢死させるとはまかりならぬ」

  家斉は、拳で畳を数回たたくと言った。

 

「側用人の本多忠籌を横目として越中殿につけては? 本多殿は早くから海防積極論を説き、蝦夷地を天領として開拓を進め赤蝦夷の南下に対抗するべきだと主張しています。もはや、越中殿に太刀打ちできるのはあの者しかおりませぬ」

  定之助が思わぬ提案をした。

 

「越中は、今まで通り蝦夷地は松前藩が統治するべきだと押し切っておる。幕閣の中に、本多以外、蝦夷地開発の再開に賛同する者がおれば話は別だが、あの石頭に1人で立ち向かうのは無理じゃ」

  家斉がアゴをさすりながら言った。

 

「美濃国大垣藩主の戸田氏教を覚えていますか? あの者を老中に登用してはいかがでござるか? 父の松平武元殿に似て聡明で実直な男だと聞いております」

  定之助は、対抗馬として新たな人材の登用を進言した。

 

「本多に戸田か。あの2人ならば申し分ないが、越中と互角に意見を交わせる立場にならねば太刀打ちできぬ」

  家斉が、まんざらでもない風に言った。

 かつて、田沼意次が権勢を誇ったのも、意次を支持する派閥があったからこそだ。今の家斉には、老中首座として活躍する定信に太刀打ちできるような味方が幕閣にはいない。定信が老中首座でいる限り、どんなに正論を説いたところで、家斉の意見はまず通らないだろう。戸田氏教は、治済が御三家に老中首座の適任者として挙げた定信以外の3名の内の1人だ。

 

「聞くに、越中殿は、石門心学を学ばれたとか。わしが、本多殿に、石門心学を通じて、越中殿と近しくなるよう進言致しましょう」

  定之助が言った。

 

「石門心学とは、いかなる学問なのじゃ? 」

 

 家斉は、初めて聞く学問に関心を示した。

 

「石門心学とは、中期の思想家、石田梅岩を開祖とする倫理学の一派で、平民の為の平易で実践的な道徳教でござる」

  定之助がえへん面で答えた。

 

「幕閣には、越中の右腕と言われている老中の松平信明や側衆の加納久周がおる。何といっても強敵はあやつじゃの」

  家斉はそう言い終えるなり、せんべいを思い切り音を立ててかじった。

 

「あやつとは、いったい、どなたのことでござるか? 」

  定之助は、家斉に顔を近づけると小声で訊ねた。

 

「水野為長じゃよ。田安家から近習として白河藩に入り越中が、老中首座に就いた後も、側近として仕えておるようじゃが、世情に精通しておって話が面白い。越中に仕えておらねば、余が召し抱えておったわぃ」

  家斉が、近くに会った黄表紙の山を手元に引き寄せると答えた。

 

「公方様。それは、もしや、鸚鵡返文武二道ではござらんか? 」

  定之助は、黄表紙の山のてっぺんを食い入るように見つめると訊ねた。

 

「先だって、御忍で祥雲寺へ行った折、謁見した蔦屋が参考になればと何冊か献じたのじゃ。斯様に面白き書物の出版を禁じるなど勿体ない」

  家斉が言った。家斉は、最近は暇さえあれば黄表紙を読みふけっている。

 

「公方様。これだけはお読みくださいますな」

  定之助は、恋川春町の著書「鸚鵡返文武二道」を素早く手に取ると後ろ手に隠した。

 

「これ。何を隠した? そちも読みたければいくらでも貸してやる。ただし、余が読み終わった後じゃぞ」

  家斉は、定之助の後ろに廻ると、「鸚鵡返文武二道」を奪い返した。

 

「公方様がこれを読んでおられることが越中殿の耳に入ったら、大騒ぎになりますぞ」

  定之助が神妙な面持ちで告げた。

 

「何故、読んではならぬ? 理由を申せ」

  家斉は、「鸚鵡返文武二道」を定之助の鼻先につきつけると問い詰めた。

 

 定之助が淡々と語り始めた。「鸚鵡返文武二道」は、恋川春町が、朋誠堂喜三二が著した「文部二道万石通」の続編を意図して書いたものと知り、定信は密かに、水野を市中へ買いに走らせ手に入れたようだが、「文部二道万石通」と同じく、幕政を批判する内容が書かれていた上、題名や表現が定信が著した「鸚鵡言」を風刺していたため、定信は事情を聞こうと恋川を呼んだ。しかし、恋川はいっこうに登城しないどころか、奉行所の役人が恋川の自宅を訪ねたところ、屋敷はもぬけの殻だったことから、長谷川平蔵をはじめとする先手組が、恋川の行方捜しに駆り出されという。

 

「何とかならぬのか? 恋川春町までもが、青島の二の舞になってはいたたまれぬ」

  家斉は、たかが、書物に目くじらを立てる定信を理解できなかった。

 

「もう、江戸の外へ逃げたのではござらんか? 」

  定之助が他人事のように言った。

 

「長谷川が、江戸の外へ取り逃がすはずがない。まだ、江戸の何処かに隠れているに違いない。あやつらより先に見つけ出してかくまうのじゃ。これ以上、犠牲者を出したくない」

  家斉が定之助に耳打ちした。

 

「越中殿にかくまったことを知れたら処罰されます故、それだけはできかねます」

  定之助は命令を拒んだ。

 

「恋川春町は自害したと市中に広めれば良かろう」

  家斉は密かに、御庭番に恋川春町の探索を命じて捜し出させると、とある場所にかくまった。それから、恋川春町自害の噂を市中に流して、恋川春町は死んだと世間を欺き江戸の外へ逃がしたのだった。定信が中心となって進めている政策のひとつとされる処士横断の禁は、洒落本、狂歌本、黄表紙、浮世絵の刊行や販売等の出版統制に留まらず、洒落本作者の山東京伝や版元の主人、蔦屋重三郎の処罰まで及んだ。蔦屋は、朋誠堂喜三二の黄表紙を出版し、ヒットさせたのを境に日本橋へ進出を決め、今では、狂歌師や絵師たちの人気作家を数多く抱える版元に成長した。

 娯楽を含む風紀取り締まりが厳しくなる中、蔦屋が刊行した山東京伝の作品が摘発されたのだった。その一方で、定信と対談したことが話題を呼び、その名声が全国に広まったことにより、来阪する諸大名や旗本たちの招きや、学主を務める学問所に訪問する諸藩士や学者の数が増えたという儒学者もいた。その名を中井竹山と言い、大阪の学問所「懐徳堂」の4代目学主を務める他、海防の消極論者として、蝦夷地は国境外の僻地であり、そのような未開地を開発経営することは、いたずらに国力を消耗するだけであると説き、定信の信頼を勝ち取っていた。定信が来阪したのは、老中になって間もなくのことで、定信は、3日という短い滞在期間に、中井を引見し、政治から、経済、学問に至るまで中井竹山に諮問した。会見は4時間にも及んだという。この会見に刺激を受けた中井は、後日、「草茅危言」を書き、定信に献上した。

 定信は、元々、隠密の下にまた隠密をつけるなど神経質で疑り深い性格だったが、幕政に対する政治批判を禁じ、蘭学を公の機関から徹底的に廃止し蘭学者を公職から追放しても尚、不安が消える事はなかった。林子平が著した「海国兵談」を読んだ時、ついに、抑えていた感情が爆発したらしい。定信は、幕閣以外の者が幕政に容喙することは御法度であるとの大義名分により、林が、「須佐屋」から自主出版した海防の必要性を説いた「海国兵談」と藩政について説いた「富国策」の2作品の発禁処分と版木没収の処分を下した。

 この処分について、異議を唱える者もいた。中でも、「海国兵談」の序を書いた工藤は不満を募らせていた。その点に関して、蝦夷地開発の再開を拒む定信に対して不満を募らせていた家斉と利害が一致した。意次が死去した後も、田沼家に仕えていた田沼家用人の井上伊織を通じて、工藤は家斉と謁見することとなった。謁見の場となった祥雲寺に何故か治済の姿もあった。祥雲寺は、歴代徳川将軍に単独で謁見することができる独礼の格式があり鷹狩の休養地にもなっていた。また、御三卿の一橋歴代当主が度々、来訪する寺でもあった。

 

「何故、父上がこの場におられるのですか? 」

  家斉は、治済が同席すると聞いていなかったので警戒した。

 

「円成坊から、公方様が謁見をお許しになったと聞き同席させて頂くことに致しました」

  治済が、円成坊が淹れた茶を味わいながら答えた。

 

「円成坊。父上が申されたことはまことの話でござるか? 」

  家斉は、極秘の内に謁見を進めたいと考えていただけに治済の登場に戸惑いを隠せなかった。

 

「はい。民部卿には並々ならぬ恩がござります故、公方様が当寺に来訪なさることを隠すことはできませんでした。なれど、私は、どなたと会われるかまでは申しておりません」

  円成坊が決り悪そうに答えた。

 

「左様か。こたびは父上に免じて許すが、2度目はないと心しておくのじゃ」

  家斉は、円成坊を横目でにらんだ。

 

「ははあ」

  円成坊はその場に平伏した。

 

「して、父上に並々ならぬ恩があると言うのはどういうわけか聞かせてもらおうか」

  家斉が腕を組むと言った。

 

「当寺が金森家の菩提寺だった御縁で、私は江戸に下って間もないころ、当寺でしばらく厄介になっておりました。そのころ、来訪なされた民部卿と近しくなり、身の上話を致しましたところ、水戸様のお屋敷で私が捜している絵と同じ絵をご覧になったと申された故、何とか、水戸様にお仕えすることはできないかと頼んだ次第」

  円成坊が、神妙な面持ちで事情を話した。

 

「わしは、こやつを不憫に思い鶴千代君の近習が急死したことを思い出して、一橋家の遠縁だとしてこやつを近習に推挙してやりました。てっきり、水戸家にあるものと思っていましたが、公方様の元に渡っていたとは縁があったのですな」

  治済が咳払いして言った。

 

「父上が、こたびの謁見についてお知りになった経緯はわかりましたが、円成坊は、余が誰と対面するのか話さなかったはずじゃ。何故、父上は、謁見のことをお知りに? 」

  家斉が、治済に慎重に訊ねた。

 

「工藤本人から聞き知りました」

  治済が答えた。

 

「こうなったら、同席を許す他ありませんな」

  家斉は、治済もまた同じ意見を持っていると確信した。工藤は、2人の会話が終わると同時に姿を現した。

 

「こたびは、公方様より謁見賜りまして恐悦至極にございます。御目通りを願いましたのは、林子平の処罰の件で、ぜひとも公方様にお伝えしたき儀があった故のことにございます」

  工藤が神妙な面持ちで話を切り出した。

 

「余もそちと同意見じゃ。林が説いた海防論は理に適っておる。まさしく、余が考えていた通りのことが書かれてあった。聞くに、そちには多くの支援者がいるそうではないか? 林が処罰を受けたことによりそちも連座するのではないかと案じている者もおるようじゃ。幕閣に、そちを擁護する上奏が届いておる故、連座することはまずない。それが聞きたくて、謁見を願ったのでござろう? 」

  家斉が穏やかに告げた。

 

「私が拝謁を願い出たは保身ではなく、公方様が下々の意見に耳をお貸しくださると聞いたからでございます。おそれながら、海防を強化すべき時に鎖国を理由に何もしないというのはいかがなものかと存じます」

  工藤が真摯に訴えた。

 

「敵に攻められてから、何とかしようとしてもおそい。どうも、越中は、国や民のためというよりも、己の信念を曲げたくないだけに思えてならぬ」

  家斉が言った。

 

「幕臣の間でも海防の強化を主張する者もいる。本多忠籌は、赤蝦夷の南下に備えて、海防を強化するためには、松前藩領となっている蝦夷地を天領とし開拓を進めるべきだと申していました。なれど、越中殿は、旧来通り松前藩が統治するべきとの考えを譲るつもりはないようじゃ」

  治済が、わざと大きなため息をこぼした。

 

「余は、幕閣に、海防積極論者を据えるよう働きかけるつもりじゃ」

  家斉が言った。

 

「そうして頂けると、海防積極論がより通りやすくなります。海防の重要性を説いた書物が幕臣の間にも出回り、密かに廻し読みされているようです。世論が味方につくのは必至と存じます」

  工藤が確信を込めて告げた。

 

寛政2年、4月16日。本多忠籌は、老中格となり侍従に任官した。入牢していた最上徳内は一時、病にかかるものの、本多利明たちによる釈放運動もあったが、何よりも、将軍の恩赦は効果てきめんで、最上徳内は即座に放免となった。家斉は、最上徳内を普請役に命じると共に、蝦夷地の開発再開の重要性を幕閣に説いた。釈放後、最上は、幕府が、松前藩に命じていたアイヌの待遇改善が行われているか実情を探るため蝦夷地へ赴くこととなった。最上は蝦夷地上陸後、精力的に国後や択捉からウルップ北端まで、各地を巡り調査を行った。最上は、蝦夷地に滞在した経験を活かし交易状況を視察しつつ、藩士に量秤の統一等を指示。アイヌには作物の栽培法等を伝授し、厚岸に神明社を奉納して教化も試みた。更に、赤蝦夷南下に伴い漂流民への対応問題が浮上した。日本と国交を結んでいない赤蝦夷やアメリカ等の諸国に漂流後、現地人に救助された日本人は、帰国の術はない為、長期滞在はやむを得なかった。その一方、正式に日本と国交を結んでいる朝鮮に漂着した日本人は、保護下に置かれ帰国の目途もついた。たとえ、帰国出来たとしても、帰国後は、他国への渡航を禁じられた上、死亡時は、幕府に届け出なければならない。

 

 天明2年の12月。駿河沖で遭難した大黒屋光太夫をはじめとする伊勢国の船「神昌丸」の乗組員17名が、約8ヶ月の漂流の末船内で死亡した1名を除く16名が、赤蝦夷帝国の属領となっているアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。極寒の地で仲間を次々と失いながらも、四年後。現地の赤蝦夷人たちの協力を得て作った船でカムチャツカ(カムシヤツカ)に渡った。翌年に、カムチャツカを出発し、オホーツク(ヲホツカ)、ヤクーツク(ヤコツカ)を経由。寛政元年。イルクーツク(イルコツカ)に到着した。

 大黒屋光太夫たちには、日本へ帰国する術がなく赤蝦夷に永住する覚悟でいたが、望郷の思いを捨て切ることができなかった。光太夫は、日本へ帰国する手段を模索していた時、スゥエーデン系のフィンランド出身の博物学者のキリル・ラスクマンと出会った。キリルは、自然研究の傍ら、イルクーツク郊外のガラス工場設立計画に携わっていた。キリルは、師と仰ぐカール・ツンベルクがかつて、出島(現長崎市)に留学した際に著した「日本植物誌」を読んで以来、日本に興味を抱くようになったという。

 親日家のキリルは最初、光太夫たちから日本の情報が聞きたくて対面したが、光太夫たちが帰国を切望していることを知ると、全面的に協力すると申し出た。それ以来、光太夫たちは、ラクスマン一家と家族のように親しくなった。キリル・ラスクマンの協力により、帰国を願う嘆願書を女帝エカチェリーナ2世へ送るが、光太夫たちを赤蝦夷に帰化させる方針でいたイルクーツク総督府によって破棄された。

 寛政3年、キリルは、光太夫を伴い、直接、女帝エカチェリーナ2世に、大国屋光太夫たちの帰国を直訴しようと、同年、1月15日。帝都サンクトペテルブルクに向け出発した。キリルと光太夫は 2月19日にペテルブルクに到着した。しかし、着くまでの間、キリルは、腸チフスにかかり病に倒れた。光太夫は、キリルの回復を祈りながら必死に介護した。大国屋光太夫の願いが天に届いたのか、それから3ヶ月後、キリル・ラクスマンは回復した。2人は、ツァールスコエ・セローに行幸していたエカチェリーナ2世を追って、同年、5月8日、ツァールスコエ・セローに赴いた。

 5月28日。光太夫はついに、エカチェリーナ2世の謁見を賜り、帰国の許可を嘆願した。エカチェリーナ2世は、積極的対外政策を行っていたため、日本人漂流者を帰国させれば、鎖国の日本も通商に応じるかも知れないと期待して帰国を許可した。エカチェリーナ2世は、外務参事院議長(外務大臣)アレクサンドル・ベズボロドコ公爵に、漂流民送還の命を下し、9月29日。光太夫たちの漂流民送還の勅令が出された。

 光太夫は、エカチェリーナ2世が進める文化事業に参加して世界言語の比較辞典の改定に携わった。光太夫と共に生き残った漂流民の中には、キリスト教徒になる者もいて、庄蔵と新蔵は、日本語教師として赤蝦夷に残ることを望んだ。

 

 寛政4年、9月3日、光太夫をはじめとする日本人漂流者3名は、赤蝦夷帝国使節のアダム・ラスクマンに伴い、根室に来航し念願の帰国を果たした。それから間もなくして、松前藩から、日本人漂流民が、根室に来航した赤蝦夷船に乗っているとの報告が幕府に届いた。

 同じころ、家斉は、江戸幕府第11代将軍就任を祝う慶賀使節の正使として江戸を上がった宜野湾朝祥から、松前藩が赤蝦夷や満州と密交易を行っているとの情報を得ていた。家斉の話を聞いて、定信も思うところがあったらしく、家斉の命令に素直に従い、最上徳内に樺太調査を命じて蝦夷地へ赴かせた。

 最上徳内は、宜野湾朝祥の情報を裏づける確かな手がかりを持ち帰った。松前藩から、赤蝦夷のラスクマンが通商を求めて根室に来航したとの報告が幕府に届いたのは、最上徳内が、松前藩の赤蝦夷や満州との密貿易や、アイヌへの弾圧を調査する密命を受けて、松前に戻った直後のことだった。今回は、通商を求めるだけでなく伊勢の船頭の大黒屋光太夫をはじめとする日本人漂流民一行の返還のためだという。

 寛政4年、4月20日に起きたフランス革命戦争により、仏蘭西の隣に位置するオーストラリア領ネーデルランドも戦場と化した。赤蝦夷側は、極東の千島を領土宣言したオランダの海軍力が手薄になったのを見計らい、日本に来航したのであった。

 今まで、頑なに蝦夷地の開発や赤蝦夷などの外交を拒んで来た定信が急に方針を変えた裏に、水戸藩士の警告があったことに誰も気づく様子はなかった。しかし、家斉だけは、水戸藩の鶴千代君から一連のやり取りを聞いて知っていた。かねてから、水戸藩の藩政に参与していた水戸藩士の立花翠軒が、天下の三大患について定信に上書して蝦夷地侵略などを警告したという。勤王家で知られる水戸藩の藩士の警告に耳を貸すとは信じがたかったが、家斉が、最上徳内に松前藩の赤蝦夷や満州との密貿易やアイヌへの弾圧を調査する密命を下したことを黙認しただけでなく、赤蝦夷との外交問題を評議の場で口にしたという。

 水戸徳川藩主の徳川光圀がはじめた「大日本史」は、もとより、幕府のために、朱子学の思想に基づいて日本のこれまでの歴史を見直す目的があったと言われていたため、定信は、「大日本史」の編纂には反対しなかった。朱子学を突き詰めていくと、尊王攘夷の思想に傾くとは考えなかったらしい。長い間、鎖国を行って来た日本では、幕府がオランダ商館との窓口となり世界情勢の収拾を行っていたが、幕閣の中でも、欧州で起きた産業革命により、英国やフランスなどが近代社会に転換し、やがて、南下政策をはじめて、強大化する脅威を感じる者はほとんどいなかった。

 

 島津重豪は、若いころから蘭学を学びヨーロッパ文明に興味を持ち、時々洋学者を招いては、西洋科学技術の習得に励んでいた。西洋文化の研究に公金を費やし、5百万石の負債を抱えることになった。

 このころ、幕府だけでなく、諸藩も、財政難に苦しみ巨額の借金を抱えている藩も少なくなかった。厳しい規制や効率の悪い藩制度の下では、画期的な改革は難しく、家来の家禄の減額あるいは借り上げを行うしかなかった。そんな状況の中で、重豪に抜擢された調所広郷は、借金を無利子で250年の分割払いといった強硬手段に出た。

 幕府は、アダム・ラクスマンが、江戸に出向き漂流民の引き渡しなど通商交渉を進める意思が強いことを思い知らされたが、定信は、宣諭使として目付の石川忠房や村上大学を派遣し漂流民を受け入れるが、総督ピールの信書の受理は受け入れない姿勢を見せ、それでもなお、通商を要求して来た場合、長崎に廻航させる指示と使節を丁寧に処遇するよう命令を2人に出した。

 

 翌、寛政5年の3月。2人は松前に到着した。幕府側としては、ラクスマン一行を陸路により松前に赴かせ、そこで交渉する方針を示したが、陸路により松前へ向かうことを赤蝦夷側が拒否したため、日本側の船が同行して 砂原まで船で行くこととなった。

 しかし、ラスクマン一行が乗っていた「エカテリーナ」号は、濃霧に遭い、同行した「貞祥丸」とはぐれて単独で6月8日。箱館(現函館)に入港した。ラクスマン一行は、箱館から陸路により松前へ向かい、6月20日。松前に到着し、翌日。松前藩浜屋敷において、石川をはじめとする幕府の役人との交渉に臨んだ。交渉は2度に渡ったが、石川は、定信から命令された通り長崎以外で国書を受理する出来ないため、退去するよう伝えると共に、ラスクマンを通じ、「請取証」を赤蝦夷側に届け、日本人の漂流民の大黒屋光太夫と磯吉を引き取った。

 また、石川は、帰国のあいさつに訪れたアダム・ラスクマンに宣諭使両名の署名入りの「お赤蝦夷国の船壱艘長崎に至るためのしるしのこと」と書かれた長崎への入港許可証を交付した。ラクスマンと決別する時、光太夫は、ラクスマンの足下にひざまずくと、これまでの恩義に深い謝意を示した。ラスクマン一行は、6月30日に松前を発ち、7月16日に箱館を出港した。その後、長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。

 

 家斉は、光太夫と磯吉が、家斉と謁見するため登城する話をまとめようとした。しかし、世界情勢は緊迫した状況にあり、もし、オランダがフランスに占領された場合、赤蝦夷が、江戸に乗り込んで来る可能性があり、もしくは、千島領やオランダ商館の権利がフランスに移る可能性や英国が乗り込んで来て、三つ巴の戦場となる可能性があると海防消極論者たちが主張してきた。

 これより前、定信は、江戸湾などの海防強化と共に朝鮮通信使の接待の縮小を主張していた。本来ならば、将軍が就任した時期に朝鮮通信使来日となるが、定信は一旦は、いつも通りの要請を行いながらも、後になって3ヶ月後の6月に、派遣延期要請するため使者を朝鮮へ使者を遣わせた。しかし、朝鮮側は、派遣延期は前例がない上、理由も納得が行かないとして、一時、使者が偽使扱いされる騒ぎとなった。朝鮮側は、日本側に質問状を送るが幕府は返答しなかったため、交渉は一旦、お流れとなった。その事実を知った家斉は、派遣延期の理由を定信たちに問いただした。さすがに、定信もこれではいけないと考えたらしく、寛政3年。幕府は、江戸ではなく対馬での易地聘礼を打診した。

 

「年来の凶作により通信使を迎えるのは負担となるのはわかるが、交渉を止めた手前、江戸ではなく対馬でというのは誠意が伝わらぬ」

  家斉は、定信を御座之間に呼びつけると不満を訴えた。

 

「中止ではなく延期でござる。朝鮮は、何かにかっこつけて幕府を批判したがっているだけに過ぎませぬ。放っておけば、じきに大人しくなります」

  定信は、朝鮮側の苦情など、どこ吹く風の様子だった。家斉は、定信が朝鮮通信使を冷遇するのは、負担になるからだけではないのではと勘ぐった。朝鮮側が対馬における聘礼には従えないが、一旦、通信使派遣を延期するという回答をしたため、ひとまず問題は解決をみた。朝鮮通信使派遣の件は、定信の意見を通したが、今回ばかりは、何としても実現させたいと家斉は考えた。

 

「越中殿に伝えずとも、まことに、よろしいのでござるか? 」

  定之助は、定信が、伊豆や相模の海岸を巡視するため江戸を発つときをめがけて、光太夫と磯吉を江戸城に招くという家斉の計画を不安に感じた。

 

「越中に話せば、真っ向から反対するに決まっとる」

  家斉が言った。

 

「越中殿は、赤蝦夷使節を幕府が受け入れたことが他国に知れれば、向後、日本近海を脅かす異国の船が増えるとお考えになり、海防を強化するため、自ら巡視に赴かれると申された。ご立派ではござらんか」

  定之助が言った。

 

「そちは、いつから越中の味方についた? 裏切ることはまかりならぬぞ」

  家斉が定之助をギロリとにらんだ。

 

「公方様。誤解でござる」

  定之助があわてて言った。

 

「越中の肩を持ったではないか? それが証じゃ」

  家斉が低い声で言った。

 

「信じて下され」

  定之助が平謝りした。

 

「くれぐれも、越中には知られぬように用心して準備を進めよ」

  家斉は、本多忠籌や戸田氏教に謁見の準備を任じた。しかし、宣諭使を務めた石川忠房に光太夫と磯吉との連絡役を任じたことが思わぬ誤算を招いた。石川は、定信から保護した漂流民の護送について聞かれて、うっかり、口をすべらしてしまったのだ。定信に、計画が漏れたと知った途端、本多と戸田は急に、及び腰となり中止を願い出た。

 

「いまさら、何を申す? 御上意だと着き通せば何てことなかろう」

  家斉は、2人を説得にかかった。

 案の定、定信は、光太夫と磯吉が謁見することを反対した。定信は、光太夫と磯吉を学のない水夫と見下し、水夫の分際で将軍謁見とは、おそれ多いことだと鼻であしらった。家斉は、それを聞いた時、かつて、光格天皇が父の典仁親王に尊号を贈ろうとした時、家斉も、治済に尊号を贈ることを望んだが、定信が即刻、却下したことを思い出し、沸々と怒りが込み上げて来た。

 世間では、定信が首座となって以降の政策は、武士を主体としたもので農民をないがしろにしているとの悪評が広まりはじめていた。民心を得たいと願う家斉にとって、光太夫と磯吉を城に招き赤蝦夷について話を聞くことは、民に親しみやすい将軍と印象づける絶好の機会となる。

 

 家斉は、定信を説得するため、御座之間ではなく城の外に呼び出した。定信は、迎えに来た定之助に連れ出された先が、隅田川沿いの渡し場だったことに驚きを隠せなかった。渡し場には1艘の屋形船が停めてあった。

 

「我は、急ぎ片付けねばならぬ政務を抱えておる。悠長に、川遊びをする暇はござらん」

  定信は、その屋形船に乗ることを拒んだ。

 

「そうおっしゃらず、さぁさぁ、お乗り下され」

  定之助は、定信を強引に船上へ誘った。船内からは、楽し気な舟唄が聞こえて来た。

 

「越中。待っておったぞ」

  家斉が定信を手招きした。

 

「公方様。これはいったい? 」

  定信は、落ち着かない様子で家斉の向かい側に着座した。

 

「話は船が出てからじゃ」

  家斉の合図で、船頭が屋形船を漕ぎ出した。家斉は、御膳には一切、手をつけず、直立不動で着座する定信を見ながら御膳に箸をつけた。屋形船が、隅田川を遡り、4月には、満開を迎える隅田川沿いの桜並木が一望できる付近に差し掛かった時、家斉は、ようやく、話を切り出した。

 

「あすこを見るが良い。吉宗公が植えさせた吉野の桜が蕾をつけておるではないか」

 

 

「おそれながら、我には、花見をする余裕などありませぬ」

  定信が呆れた顔で言った。

 

「吉宗公は、庶民にも娯楽が必要だと両国の川開きと共に吉野から取り寄せた桜を江戸の各所に植えさせて、庶民に憩いの場をお与えになった。そちは、御上の財政再建のためだと、質素倹約を強いるばかりで民心を無視しておる」

  家斉は、そう言い終えるなり大きなくしゃみをした。

 

「金をかけない娯楽はいくらでもござる」

  定信は、家斉にちり紙を差し出すと言った。

 

「赤蝦夷の漂流民の件だが、密航を企てた者が、帰国を望むはずがないと思うが、そちは、何故、あやつらを罪人とみなすのじゃ? 」

  家斉は本題に入った。

 

「あの者らを帰国させることは、赤蝦夷に我国へ攻め込む機会を与えるようなもの。厳しく罰せねばならぬと存じます」

  定信がきっぱりと告げた。

 

「その石頭につける薬はなさそうじゃの」

  家斉は、わざとらしくため息をついた。

 

「我の留守中は、全ての者に登城を禁じる所存にござる」

  定信が、上目遣いで家斉を見ると告げた。

 

「何だと? 」

  家斉は思わず、カッときて定信につかみかかった。

 

「公方様。杯が空いておりますぞ」

  傍らで、2人を見守っていた定之助が2人の間に割って入ると、すかさず、家斉公が手に持っていた杯に甘酒を注いだ。

 

「この先で下船させて頂きたく存じ奉ります」

  定信が浮腰で言った。

 

「四の五の言わずお酌せぃ」

  家斉は、甘酒を一気に飲み干すと空いた杯を定信につき出した。定信は渋々、定之助から銚子を受け取ると家斉の杯に甘酒を注いだ。

 

「そちも謁見に同席致すが良い。江戸湾の巡視は延期せよ」

  家斉は、定信に杯を持たせるとその杯に酒を注いだ。

 

「公方様。海防は、一刻を争う重要事項故、延期するわけにはまいりませぬ。罪人に謁見賜るなどあってはならぬことと存じます」

  定信は心痛な面持ちで告げた。

 

「将軍補佐の役儀を見誤ってはおらぬか? 」

  家斉が定信をにらみつけた。

 

「失格だと仰せになるならば、いっそのこと罷免して下され」

  定信は、家斉が、自分を罷免することはないとわかっていて脅しをかけた。いつもなら、ここで話が終わるところだが、今回ばかりはいつもと違った。

 

「百歩譲って、その傲慢な態度は老婆心と受け取ろう。なれど、何かある度に、罷免にしろとなど脅しをかけて来るのはいかがなものかのう」

  家斉が言った。

 

「脅しではなく覚悟だと思って下され」

  定信がきっぱりと告げた。

 

「そちの覚悟、しかと受け止めた」

  家斉が、定信を見据えると告げた。

 

「公方様が、罪人の謁見をお許しになるというのならば、我は、身を退かせて頂きます」

  定信は、辞職願を家斉の御前に置いた。家斉は、定信は罷免覚悟で反対しているのだと理解した。しかし、意次の場合は失政の責任を取る意味での辞職願だったが、定信の場合は駆け引きとも取れた。家斉は辞職願を受理した。定信は、一瞬、驚いた表情で家斉を見たが、家斉は、何食わぬ顔で席を立った。

 

「まことに、越中殿を罷免なさるおつもりですか? 」

  江戸城に戻った後、定之助が訊ねた。

 

「越中は、言葉だけでなく態度で示してきた。こたびばかりは、まことに辞する覚悟なのではないかのう」

  家斉は、事ある毎に定信に妨害されるのが我慢ならなかった。定信が辞表を提出したことで、家斉も罷免する気が起こったのだ。

 

「越中殿も、早まったことをなされましたな」

  定之助が言った。

 

「越中の奴めは、余には何もできぬと高をくくっておるのじゃろ。あやつが、辞したいのであれば引き留めるつもりはない」

  家斉は口を曲げた。

 

「主殿頭でしたら、公方様に同調なさったでしょうな」

  定之助が遠い目で言った。

 

「しかりその通りじゃ。主殿頭であれば、余の考えを受け入れた」

  家斉は考え深げにうなずいた。

 

 それから、数日後。定信一行は江戸を発ち、予定通り、三島から天城を超えて片瀬に至った。伊豆相模の海岸を巡視し海防のため浜に松を植樹するよう指示した。

 家斉は、定信の留守中、江戸を発つ前、定信より届け出のあった辞職届けを改めて受理した。これは、1月に判決が出た尊号一件の影響があったといわれた。幕臣たちの間では、光格天皇が、実父にあたる典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとした時、家斉が、治済に大御所の尊号を贈り西丸御殿に招こうとして、定信から猛反対されたことを根に持ち罷免したのだという噂が広まった。

 中山愛親と伝奏の正親町公明の2名は幕府の召喚を受けた。中山は、一件紛糾の責任を問われ、閉門100日に処されると共に議奏を解任された。正親町公明は、50日の逼塞に処された。定信は、出張中に辞職願が受理され江戸に帰国した直後罷免を申し渡された。罷免直後に行われた謁見の場に現れた定信の様子はいつも通りに見受けた。一方、江戸に送検送還された大黒屋光太夫と磯吉は、奉行所において形式的な吟味と審問を受けた後、家斉より、謁見を賜るため江戸城の吹上御殿へ移動した。2人と共に江戸に送還された後、家斉より謁見を賜るはずであった小市は、壊血病にかかり若死にしていた。小市の妻には、幕府より、銀10枚と遺品が下げ渡された。

 

 謁見の場に姿を見せた光太夫と磯吉に、家斉と列席した定信をはじめとする諸臣たちは驚かされた。光太夫にいたっては、赤蝦夷に滞在する間、伸ばしたと思われる長髪を3つに編んで後ろに垂らした髪型で、胸にはエカテリーナ2世から賜った金メダルをぶら下げ、筒袖の外套に黒皮の長靴を履いた洋装姿であった。磯吉もまた、光太夫とほぼ同じ洋装姿であった。光太夫の態度は、実に堂々としたもので諮問を担当した桂川甫周の質問に対しても、ケチのつけようのないしっかりとした受け答えをした。

 光太夫は、息つく間もなく、赤蝦夷へ漂流した後、赤蝦夷帝国内を渡り歩いた苦労話にはじまり、厳冬の中、仲間を相次いで失った悲劇、赤蝦夷で知り合った人たちについて、皇帝への謁見、日本帰国までの経緯。赤蝦夷の風俗から衣服、文字、什器類、民族、赤蝦夷で訪問した諸施設や諸貴族の館の様子に至るまで余すことなく語った。家斉は、すっかり、光太夫の話に聞き惚れてしまった。話が終わるころには、光太夫を側近にしたいとまで思ったが、褒奨金を与えるのが精一杯であった。光太夫は、故郷の会津へ帰国を望んだが、幕府は帰国することは許可せず、手当金を貰いながら薬草園で暮らすことになった。

 

 謁見の後、定信は、吹上御殿の庭を散策する家斉一行を見送ると退出のため席を立った。

 

「越中殿」

  定之助はとっさに、目の前を通り過ぎようとした定信を呼び止めた。

 

「何用じゃ? 」

  定信が、足を止めると穏やかに訊ねた。

 

「おそれながら、今ならまだ、間に合うのではござらんか? 貴殿のようなお方が辞されるとは、まことに残念極まりない。公方様は、越中殿が早まったことをしたと詫びられればお許しになります。お2人の間には、主君と臣下以上の絆があると存じます」

  定之助は真摯に訴えた。家斉は、経験を積まれ以前に比べると、しっかりして来たが、まだ、まだ、苦言を呈してくれる年長者が必要だと感じていた。

 

「我がお傍におると、公方様は、まことの君主にはなれぬと気づいたのじゃ。我は、公方様が、転ばぬように申す先から手を出してしまう。利発な公方様は、それをうるさいとお感じになる。公方様のお傍にいる人間は、そちのように、同じ志を抱き共に歩く者が相応しい。我は、大人しく身を引くまでじゃ」

  定信の横顔には哀愁が漂っていた。

 

「それがしのような半端者が、公方様と共に歩くなど滅相もござらぬ。今は苦言をうるさいとお感じになられたとしても、この先、苦難に直面なさる時があれば、越中殿を頼りになさるはず。まだ、公方様には杖が必要かと存じます。何卒、お考え直しを」

  定之助が深々と頭を下げた。

 

「杖とは、面白きことを申すではないか? 公方様は、杖なしの方が歩きやすいのではないのかのう。これからは、おぬしが手綱を締めて、危うい方へ行こうとなさった時は、正しい方へお進みになるようお支えせよ。杖で暴れ馬の頭や腹をたたいたところで何にもならぬ。わっはっは」

  定信が豪快に笑った。定之助は、定信の思わぬ態度に唖然とした。

 

「行かずとも良いのか? 公方様が険しい顔でこちらをご覧になられておるぞ」

  定信が、定之助の背中を軽く前へ押した。

 

「お引き留めして失礼申した。これにて御免仕る」

  定之助は、あわてふためいた様子で家斉の元へ駆けて行った。

 

 定信の失脚後、家斉は、しばらく、将軍親政を行うことはなかった。新たに、老中首座に就いた松平信明が、定信の改革方針だけでなく、反骨精神まで受け継いだことを後に知ることとなる。蝦夷地開発については、積極的であったが、幕府の財政は、相変わらず、火の車で困難な道程であった。意次の娘のお宇多が大奥に奉公に上がったり、種姫に従い紀州藩の奥向に仕えていた押田耀が大奥に復帰したりと大奥に喜ばしい変化があったため、家斉の関心は自然と奥向に向くのであった。

 

 


奥付



家斉と2人の宰相~若いころの徳川家斉のものがたり


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著者 : きの しゆう
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