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  家治が床に臥せる日が多くなると、念仏を唱える奥女中たちの声が絶えず聞こえて来た。家斉は、1日中、どこからともなく聞こえて来る念仏にうんざりした。

 

「城内に公方様の重病説が飛び交っておりますが、大納言様は、何か聞いておられますか? 」

  定之助が、家斉の肩をもみながら訊ねた。

 

「鳥居の爺が、御休息之間の前に座り込み公方様をお守りすると息巻いておる。先日、爺が一時席を外した隙に、中へ入ろうとした周防守が戻って来た爺に見つかり、こっぴどく叱りを受けたそうじゃ」

  家斉が面白おかしく言った。

 老中首座の松平康福を追っ払ったとあって、もめごとになると思いきや、鳥居が、高齢で家重の代から仕えていることもあり、さすがに、康福も何も言えなかったらしい。噂では、家治が、家重の逝去を機に幕閣から遠ざかっていた鳥居を呼び戻し老中職に据えたのは、田沼派を牽制する目的があったという。

 

「鳥居殿は、いったい、何から、公方様を守ろうとなさっておられるのですか? 」

  定之助が、家斉の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「さあな。公方様には、1日も早く元気になって頂かなければ困る。こう、朝から晩まで、念仏を聞かされては気が散って学問に身が入らぬ」

  家斉がぼやいた。

 

「鳥居大明神が、公方様をお守りしているのですから念仏など無用ですよね」

  定之助が言った。

 

「暇つぶしに双六でもやるか? 」

  家斉が、近習たちを集めると双六を持ち出した。

 

「そこにおるのは何者でござるか? 」

  木村が、障子に映る人影に向かって訊ねた。

 

「鶴千代じゃ。開けてやるが良い」

  家斉が、木村に障子を開けるよう命じた。

 

「久方ぶりじゃのう」

  家斉が、「宇治之間」に入って来た若侍を手招きした。

 

「こちらは? 」

  木村は、初めて見る品の良い若侍を警戒した。

 

「水戸候の嫡子、鶴千代じゃ」

  家斉は、鶴千代を傍に坐らせると自慢気に紹介した。

 

「この者は、何者ですか? 」

  鶴千代が、定之助に気づき家斉に訊ねた。

 

「この者は、わしの話し相手を務めさせておる中野定之助じゃ」

  家斉が咳払いして言った。

 

「その方。前にどこかで会ったことはないか? 」

  鶴千代が、定之助の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「いえ。それがしは、鶴千代様とは、お初にお目にかかりますが‥ 」

  定之助が目を反らして言った。

 

「双六をしておったところじゃ。おぬしも仲間に入るが良い」

  家斉が、鶴千代に将棋の駒を手渡した。

 

「これは何でござるか? 」

  鶴千代が、将棋の駒を家斉に見せると訊ねた。

 

「将棋の駒じゃ。コマ代わりに使っておる」

  家斉が、サイコロをふるいながら答えた。

 

「数ある駒の中から竜をお選びになるとは、さすがは水戸候の嫡子様。水戸徳川家の嫡子は代々、中納言に任じられます。中納言は唐名で黄門。黄門の異名は竜作の官でござる」

  木村がお世辞を言った。

 

「双六なんぞ童子の遊びじゃ。それよりも、下屋敷へおいでになりませんか? 」

  鶴千代が、将棋の駒を放り出すと家斉を熱心に誘って来た。

 

「水戸の下屋敷へ参るのは久方ぶりじゃのう」

  家斉がうれしそうに言った。

 

「大納言様。水戸徳川家の下屋敷へおいでになるのはいかがなものかと存じます」

  木村があわてて、家斉を廊下の隅に連れ出すと苦言を呈した。

 

「何故、斯様なことを申す? 」

  家斉が木村に詰め寄った。

 

「水戸藩では、光圀公がはじめた大日本史の修事事業を復興させたと聞きます。吉宗公の時代、大日本史は、北朝政党論を唱える現世の皇室に反する南朝を正統化するものとして朝廷献上は実現しなかった。鶴千代君と近しい大納言様にお頼みすれば、公方様に口添え下さると考えておられるやもしれませぬ」

  木村が家斉に耳打ちした。

 

「水戸藩は、財政難で苦しんでいると聞く。財政の立て直しで、それどころではあるまい」

  家斉は、木村の話を鼻であしらった。

 

「大納言様。鶴千代君が、大日本史の話を持ち出して来られたら、それとなく、話を他に反らすのですぞ。長居することなく早めにお帰り下され」

  木村は、西丸御書院番徒士頭の長谷川平蔵を護衛に就かせることで家斉を送り出すことに納得した。

 家斉は、意気揚々と水戸徳川家下屋敷へ向かった。水戸徳川家下屋敷は、大川沿いにある。大川に架かる大川橋を渡れば、参拝客でにぎわう浅草寺の門前町に到る。同じ年生まれの鶴千代とは、物心ついたころから互いの屋敷を行き来する仲だ。春になると、大川沿いの並木道に植えられた桜が満開になる。水戸徳川家下屋敷は、大川に面していることもあり、毎春、庭で花見の宴が開かれる。一橋家に居たころは、家斉も、父と共にお呼ばれに預かった。夏は、川から吹く風が屋敷の中に入り涼しい。家斉は、屋敷が近づくにつれて、昔のことを思い出して胸がいっぱいになった。

 

「大納言様。遠慮は入りません。我が家と思うてごゆるりお過ごしあれ」

  鶴千代が、家斉を庭が見渡せる広間へ案内した。

 

「この者は何者じゃ? 」

  家斉は、茶道具を抱え持って現れた若者に見覚えがないことから不審がり、鶴千代にその若者の素性を訊ねた。

 

「父上が、それがしの近習として召し抱えた熊蔵でござる。茶の湯の心得があると聞いて召し出した次第」

  鶴千代が、茶碗をまわしながら答えた。

 

「背は低いし痩せ過ぎじゃ。斯様にひ弱い体でいざという時、鶴千代を守れるのか? 」

  家斉は、熊蔵を品定めすると言った。

 

「剣術や柔術に優れた近習は他におります故、ご心配にはおよびません。それより、先日、鷹司輔平殿から父上宛てに届いた書状に、帝が公方様の病を知りお心を痛めておられると書いてありましたぞ」

  鶴千代が、お茶をたてる熊蔵を見ながら言った。

 

「帝は、まことに慈悲深いお方じゃのう」

  家斉がお茶を一口飲むと言った。

 

「天明の大飢饉で、江戸だけでなく京や大阪も、大変なことになっているそうです。帝は、江戸では困窮する民に対しいかなる対処をするのか知りたがっているそうでござる」

  鶴千代が、いつになく真面目な顔で言った。

 

「大納言様。御所御用達の菓子はお口に合いますか? 」

  熊蔵がふいに家斉に訊ねた。

 

「美味じゃ」

  家斉は、菓子をひとくちでたいらげると答えた。

 

「大納言様の所存はいかに? 」

  鶴千代が、身を乗り出すと家斉に訊ねた。

 

「わしの考えを聞いても無駄というものじゃ」

  家斉が、手についた粉をはらいながら言った。

 

「帝は聡明なお方でござる。何もご存じないはずがない。江戸の様子をお訊ねになった真意は、幕府に対して、天明の大飢饉により困窮した民への救済をうながしておられるのでしょうよ」

  鶴千代が興奮気味に言った。

 

「流派は? 」

  家斉が、鶴千代の話を無視して熊蔵に話しかけた。

 

「松尾流でございます」

  熊蔵が遠慮気に答えた。

 

「聞き慣れぬ名じゃ」

  家斉がぼそっとつぶやいた。

 

「大納言様。松尾流は、松尾流2代目家元のころから尾張藩の御用を務め、京師においては、公家の鷹司家と近衛家より殊遇を受けております。当家には、葵の御紋入りの茶道具が代々、当主に受け継がれています。お目にかけましょうか? 」

  鶴千代がえへん面で説明した。

 

「いや、けっこう」

  家斉は、これ以上、自慢話を聞きたくないと鶴千代の申し出をつっぱねた。

 

「大納言様。ぜひとも、私を御物茶師に召し抱えて頂きたい」

  突然、熊蔵がその場に平伏して願い出た。

 

「これ、いきなり何を申す? 立場をわきまえよ」

  鶴千代が熊蔵をきつくとがめた。

 

「何故、そこまでして御物茶師になりたい? 」

  家斉が穏やかに訊ねた。

 

「私は、物心つく前に尾張の松尾流家元の養子となり尾張で育ちはしましたが、元々、出白は江戸でございます。御三家の家臣になれたことは家門の誉れではございます。なれど、やはり、私には茶師の方が性に合っている。茶師として幕府にお仕えしたい。何卒、お聞き届け下され」

  熊蔵が深々と頭を下げた。

 

「その業前ならば申し分なかろう。空きがあれば推挙してやる」

  家斉が安請け合いして言った。

 

「よしなにお頼申します」

  熊蔵が明るい声で言った。

 

「そろっと帰城すると致す」

  家斉は、颯爽と部屋を出ると玄関へ歩き出した。

 

「大納言様、お待ちを。お見送り致します」

  鶴千代があわてて、家斉の後を追いかけた。

 

「鶴千代。熊蔵は生まれ持っての茶師じゃ。あやつの茶を飲めばわかる。故に、こたびの一件は穏便に済ませるが良い」

  家斉が、鶴千代の肩に手を置くと言った。

 

「心得ましてござる」

  鶴千代が一礼した。家斉は、鶴千代に見送られて帰路についた。

 

「御物御茶師とは何なのじゃ? 」

  西丸御殿に入る前、家斉はふと、思い出したように長谷川に訊ねた。

 

「朝廷や幕府御用達の茶を調達する茶師のことを御物御茶師といいます。それがしは、熊蔵の素性がいささか気になります。御庭番に探らせましょうか? 」

  長谷川が、神妙な面持ちで告げた。

 

「その必要はない。そもそも、御三家が素性のはっきりせぬ者を仕えさせるわけがなかろう」

  家斉が肩をすくめた。

  

 年が明けた天明5年。意知が死ぬ間際まで取り組んでいた造船計画がついに、日の目を見た。1500石級の俵物廻船「三国丸」が完成したのだ。「三国丸」の三国とは、日本、支那、オランダの3国を示す。造船には、船大工6千名が携わり、費用は、銀159貫かかった。失政と批判が集まる中、大金をかけた一大事業とあって失敗は許されなかった。意次は、蝦夷地へ7万人の移民を送る壮大な計画を胸に秘めていた。多額の予算を幕府の財政から支出することから、これまた失敗の許されない大博打的な一大事業となった。当然、意次は、事業が失敗した場合には、潔く老中を辞職する覚悟で挑んだ。

 

一方、蝦夷地の開発に最後まで反対していた家治の病状は、日増しに悪くなっていた。家斉は、家治の苦しむ姿を見たくない一心で見舞いを先延ばしにしていた。

 

「あれは何者じゃ? 」

  家斉は、側衆にうながされて家治を見舞うため、家治の居る中奥の御休息之間の前まで行った時、見覚えのない奥医師が御休息之間から出て来るところを見かけ、御休息之間の前に坐り出入りする者を鷹のような目で監視している老中の鳥居忠意に訊ねた。

 

「あの者は、主殿頭が、奥医師として新たに登用した町医でござる」

  鳥居が仏頂面で答えた。

 

「一介の町医に、公方様の療治を任せて良いのか? 」

  家斉が訊ねた。

 

「療治を任されていた大八木伝庵が、病を理由に登城せぬ故、やむを得ず療治にあたらせておると聞いております」

  鳥居が困り顔で答えた。

 

「伝庵も、匙を投げたというわけじゃな」

  家斉が御休息之間に入ろうとすると、鳥居が戸の前に立ちはだかった。

 

「大納言様。しばし、お外でお待ち下され」

 

「わしまで通さぬ気か? 」

  家斉が鳥居をにらみつけた。

 

「そうではござらん。半刻前、於知保様が、中にお入りになられたばかりでござる。お出になるまでお待ち下され」

  鳥居が深々と頭を下げた。

 

「於知保様なら、わしの同席をお許しくださるはずじゃ。さっさと聞いて参らぬか」

  家斉が鳥居をうながした。

 

「どうぞ、中へお入り下され」

  少しして、中から初老の女の声が聞こえた。家斉は、慎重に障子を開けた。家治は御休息之間上段に寝ており、於知保は、背筋をピンと伸ばして下段に座っていた。家斉は、於知保の向かい側に着座した。

 

「お見舞いに参ったのじゃが、お目覚めか? 」

  家斉は、首を伸ばして於知保の背後にいる家治の様子を見た。

 

「本日の療治を終えてお休みになっています」

  於知保が静かに答えた。

 

「町医に療治を任せておるというのはまことですか? 」

  家斉が訊ねた。

 

「はい。公方様は、あの者らが療治にあたるようになってから、ますます、お加減が悪くなっている気がしてなりませぬ。先日、あの者らが用意した薬材の中に公方様の療法には用いない種の薬があるのを見た者がおるのです」

  於知保がひそひそ声で言った。

 

「それはさぞかしご心配でしょう。家来に、何の薬なのか調べさせましょう」

  家斉は、於知保から問題となっている薬を預かった。

 

「お頼み申し上げます」

  於知保が頭を下げた時、上段の方からせき込む音が聞こえた。家斉は、於知保が家治の枕元に近づいたのを見届けると、そっと、御休息之間を出た。

 

「大納言様。ずいぶん長々と中におられましたが、於知保様と何の話をなさっていたのでござるか? 」

  鳥居が、御休息之間から出て来た家斉に駆け寄ると訊ねた。

 

「公方様の様子を聞いていた。他に何があると申すか? 」

  家斉がぶっきらぼうに答えた。

 

「大納言様。折り入ってお話がござる」

  鳥居は、家斉を御仏間へ誘導すると辺りを慎重にうかがいながら障子をきっちりと閉めた。

 

「なんか寒くないか? 」

  家斉は、御仏間に入るなり身震いした。

 

「まんがいちの場合に備えて、公方様から、大納言様にお渡しするようにとこれをお預かりしました」

  鳥居が、神妙な面持ちで「御内書」の存在を明らかにした。

 

「おぬしに御内書を預けるとは、もしや、ご覚悟なされているのではあるまい」

  家斉は複雑な気分になった。

 

「ところで、鶴千代君とは、何のお話をなさったのですか? 」

 

「おぬしがそれを知ってどうする? 」

 

「大納言様にかぎって、公方様の信頼を裏切るような行いはなさらぬと信じてはおりますが、大納言様のお立場を考えると、やはり、勤王家といわれる水戸徳川藩家の嫡子とはかかわりを持たぬ方が賢明かと存じます」

 

「おぬしは、わしと鶴千代との仲をさくつもりだろうがそうはさせぬ」

 

「鶴千代君と2人だけでお会いになるのはおやめになるべきかと存じます」

 

「近習の中に裏切り者がおったとはのう」

 

「公方様は、朝廷と幕府との間が上手く行っている時は良いが、悪くなった時、将軍世子が朝廷に近い水戸徳川家の嫡子と結んでいると保守派の幕臣らに知られれば、将軍家への忠誠心がゆらぐのではないかと案じておられるのでしょう」

  鳥居が上目遣いで言った。

 

「ちと考え過ぎではないのかのう」

  家斉は口をとがらせた。

 

「公方様は、ご心労がたまって病になられたのですよ」

  鳥居が告げた。

 

「話が済んだのなら部屋に戻る」

  家斉は、逃げるようにして御仏間を後にした。その瞬間、仏壇に置いてあった歴代将軍の位牌が畳の上に落下した。

 

「位牌がひとりでに落ちるとは不吉じゃ。悪い前兆でなければ良いがのう」

  背後で鳥居の独り言が聞こえたが、家斉はふり返ることなく御仏間を出た。

 

  早速、家斉は、御庭番に命じて薬を調べさせた。その後、お会いして説明したいとの奥医師見習で本草学者の栗本丹州の願い出を許した。

 

「大納言様。この薬の原料は、マンジュサゲの鱗茎でございます」

  栗本が神妙な面持ちで告げた。

 

「マンジュサゲというのは、秋に山里に行くと野に咲いている赤くて、花火のような形をしている花じゃろう? 」

  家斉は書物で得た知識を披露した。

 

「さようです。マンジュサゲは元々唐の花ですが、近年は、我が国の野山でも見ることができます。別名死人花とも呼ばれており、一説では、その名の云われは彼岸に咲くためだとされていますが、扱いを誤ると死を招くためともいわれています」

  栗本が快活に答えた。

 

「それがまことの話であれば、あの奥医師は、公方様のお命を軽んじておるということになるではないか? 」

  家斉が言った。

 

「そうとは限りません。この薬は、マンジュサゲの鱗茎をすり潰した石蒜という薬なのですが、この薬を臓の病による水気やむくみの療治に用いると、神がかった減気が見られます。扱いを間違わなければ、死には至ることはまずありえません」

  栗本が冷静に告げた。

 

「水気やむくみは公方様の証にみられる。療法に間違いはないように思えるが、あやしげな薬を将軍家の療治に用いることはまかりならぬ」

  家斉は考え込んだ。

 

「公方様の病は脚気と聞きましたが、何故、マンジュサゲを用いたのでしょうか? 」

  栗本も考え込んだ。

 

「あれは、脚気の薬ではないのか? 」

  家斉が訊ねた。

 

「あれは肺水腫や悪性腫瘍による水気やむくみを改善する時に用いる薬で、脚気の療治に用いることはありません。おそらく、その医官は、大八木先生とは異なる診立てをしたのではござらんか」

  栗本が冷静に答えた。

 

  翌日。家斉は一晩考えた末、家治の治療にあたっていた奥医師の若林敬順と日向陶庵と御座之間にて対面した。

 

「御意を得ます。奥医師の若林敬順と申します。大納言様の御尊顔を拝し恐悦至極にございます」

 

「御意を得ます。奥医師の日向陶庵と申します。大納言様より、直々に御召し頂き恐悦至極にございます」

 

 両名、その場に平伏し恭しくあいさつした。

 

「その方らの診立てを申すが良い」

  家斉が咳払いして言った。

 

「重い病と存じます」

  若林が答えた。

 

「なれど、まだ望みはございます」

  日向が、神妙な面持ちで答えた。2人が療治のために御休息之間に入ったのを見計らい、家斉も、2人の後をついて行った。

 

「その方らが、公方様の療治を行うところがみたい」

  家斉が2人に告げた。

 

「公方様。大納言様が療治をご覧になりたいと申されていますが、同席頂いてもよろしゅうございますか? 」

  若林が、枕元に座ると家治に声をかけた。家治は、眠っているのか反応がなかった。

 

「公方様。同席をお許し頂きたい」

  家斉は家治の手を握ると言った。

 

「こやつにありのままを見せてやるが良い」

  家治が、目を閉じたままかすれ声で告げた。

 

「かしこまりました」

  若林が緊張した面持ちで返事した。

 

「しかと見るが良い」

  家治が薄目を開けると言った。日向がゆっくりと掛布団をめくった。家斉は思わず、身を乗り出した。家治の手足は、象足のごとく肥大化していた。日向は、家治の着物の裾をめくると、家治の手足にできた水気を見せた。

 

「何としたことか。これほどまでとは思いもせんかった」

  家斉は思わず顔を背けた。家治が目を大きく見開くと、家斉の方に顔を向けた。家斉は、家治の無言の圧力に圧倒させられた。

 

「公方様。こうなったら、唐薬を投薬するしか手立てはございますまい。石蒜という唐薬を用います。扱いは難しいですが、上手く行けば、神がかった減気がみられます」

  若林が神妙な面持ちで告げた。

 

「切腹する覚悟であろうな? 」

  家斉が若林に低い声で訊ねた。

 

「私の診立て通りであれば、公方様の病は投薬すれば治ります」

  若林が、ひるむことなく言い返した。

 

「石蒜の原料のマンジュサゲは毒を持った花じゃ。神がかった減気がみられることもあるが、扱いを誤れば死に至るといわれている。斯様に危うい薬を公方様の療治に使うとは、おぬし、正気で申しておるのか? 」

  家斉は思わず声を荒げた。

 

「公方様と同じ病状の患者に、石蒜を投薬して完治した先例はございます。どこの誰から聞いたのか存じませぬが、死に至るというのは、誤って口にした時の話で、こたびの療治は、石蒜を布に包み患部に貼る療法ですので斯様なことはあり得ませぬ」

  日向が冷静に説明した。

 

「まんがいち、体内に入った場合はどうする? 」

  家斉が追及すると、日向は言葉をつまらせた。

 

「素人が四の五の申したところで、療治の邪魔になるだけじゃ。下がるが良い」

  家治が、声をふりしぼるようにして言った。

 

「これにて御免」

  家斉は、今は何を言っても無駄と悟り身を引いた。御休息之間を出ようとした時だった。廊下で言い争う声が耳に飛び込んで来た。障子を開けると、鳥居忠意と意次が、激しく口論をしているのが見えた。

 

「いったい、何があったのじゃ? 」

  家斉は、2人の間に入ると口論になった理由を鳥居に訊ねた。

 

「主殿頭は、公方様の療治に、庶民の療治に用いる薬を投薬させると申しておりますが、まことの話でござるか? 御匙が、公方様に庶民の療治に用いる薬を投薬することは先例のないことでござる」

  鳥居が興奮気味に訴えた。

 

「公方様の病を治す薬がたまたま、庶民の療治に用いる薬であったのじゃ。やむを得ないことではないか? 鳥居殿。おぬしは、公方様をお救いしたくはないのか? 」

  意次が強く反論した。

 

「今しがた、わしも、療治について委細を聞いたところじゃ。まことに大事ないのか? 公方様は信用しきっておられるが、わしは不安で仕方がない」

  家斉が心配そうに言った。

 

「あの者らは、かならずや、公方様を救ってくれるはずじゃ」

  意次は、頭を下げると足早にその場から立ち去った。

  

しかし、心配していたことが現実となった。布に包んで患部に貼ったにも関わらず、傷口に、石蒜が染みるという医療事故が起きたのだ。傷口から体内に侵入した石蒜は、家治の身体を危険な状態に陥らせた。一時、危篤状態になった時、家治が、もうろうとする意識の中で、天上に浮かび上がった意次の幻想を亡者と見間違えて外にも聞こえるような大声で罵った声を偶然、耳にした者が、意次が、家治に手にかけたのだとあらぬ噂を言いふらした。実際は、その時、すでに、意次は、帰宅しており城内にはいなかったのだが、家基が急遽した際に暗殺説が流れたこともあって、真に受ける者が多かった。石蒜を用いた療治が失敗に終わっただけでなく、家治の命を危うくしたとして怒り狂った於知保が、家治に、奥医師2人を罷免し、意次を遠ざけるよう迫ったのは言うまでもない。

 

「石蒜が傷口から体内に入るなんぞ、めったにないことでござる。あの者らは、石蒜を用いた療治に慣れております。こたびの一件は、過ちではなく不慮の事故でござる」

  意次は必死に言い訳した。

 

「そなたのせいで、公方様は生死の境を彷徨われた。公方様のお命を軽んじ、己の力を過信しておる者共に、療治を任せてはおけぬ。あの者らを登用したそなたの罪は重い。罷免されなかっただけでも有難く思うが良い」

  於知保が鬼の形相で言い放ったという。その時の2人の様子は、誰からともなく、城内に広まり、1度はたち消えた暗殺説がまたもや、ささやかれることとなった。登城を禁じられた2人の代わりに、大八木伝庵を復帰させて家治の療治にあたらせることとなり、意次の立場はますます悪くなった。

 

  7月の半ば。江戸は連日のように大雨が降り続き、江戸の深川、亀戸、下谷、浅草は、浸水し、千住の民家の水位は鴨居まで達した。大雨で水かさが増した河川が氾濫し、大洪水となり、両国橋、新大橋、永代橋が流失した。28日にようやく水が引くと、歌舞伎の芝居小屋の「中村座」と「桐座」に町奉行から避難民への炊き出しの命が下ったため、芝居の出演者をはじめとする芝居小屋の関係者及び芝居町で商いする茶屋などが総出で3日間の炊き出しを行った。この水害は、農作物に深刻な被害をもたらした。凶作による米価の高騰で、市中が騒然となる中、家治暗殺の噂があっという間に城内を飛び出して、市中まで広まった。大奥だけでなく城内まで箝口令を強いているにも関わらず、遠国にいる大名にまで広まっていた。根強い暗殺説が噂される意次を罷免しない家治の心中を誰もが押しはだかった。一説には、律儀な性格が災いして、先代の遺言を頑なに守るあまり、意次を罷免することができないともいわれたが、意次は家治の秘密を握っており、家治が自分を罷免した時は、その秘密を公にするとおどしているのではないかというのが、家斉の見解であった。

 

「大納言様。どちらにおいででしたか? 」

  家斉が厠から戻ると、治済が、仏頂面で家斉を待ちかまえていた。

 

「こたびは何用で、お見えになられたのですか? 」

  家斉が慎重に訊ねた。

 

「今しがた、清水宮内卿と公方様を見舞って来ました」

  治済が咳払いして言った。

 清水宮内卿とは、徳川重好の名称だ。重好は、御三卿の清水徳川家の当主で家治の弟君にあたる。兄弟仲は良く、御台所の五十宮倫子様の御存命中は、夫婦で清水邸を頻繁に訪ねていたという。家基の死後、家治の弟にあたる重好を差し置き、家基の後継者であった家斉が、将軍世子となったこともあり不仲になったとも言われている。最近では、家来の長尾幸兵衛が、主君の重好を将軍職に就けようと意次に、多額の賄賂を贈っていたという疑惑が浮上して問題となっていた。

 

「主殿頭は、越中殿が、公方様を見舞うために登城したと聞きどこかへ走り去ったそうですよ」

  家斉が、父親の大好物である噂話を報告した。家斉は、あの話が真実だから顔を合わすのが気まずくて逃げたのだと考えた。

 

「白河藩へ追いやった負い目から、越中殿と再会するのが気まずかったのでしょう」

  案の定、治済が面白がって言った。

 

「ところで、薩摩守について何かお聞きではござらんか? 」

  家斉は、治済に顔を近づけると小声で訊ねた。

 

「薩摩守が、幕府からカピタンと内通しているとの疑いを持たれておるそうな」

  治済が小声で告げた。

 安永8年から、天明4年の間に3度、カピタンとして長崎出島に赴任したイサーク・ティチングは、島津重豪を通して日本の機密情報を収集しているという噂があったが、確たる証拠がなく蘭癖の大名にありがちな噂に留まった。

 

「主殿頭に、蝦夷地開発に着手するよう仕向けたという噂は、ウソではなさそうでござる」

  家斉は、自分が、蝦夷地開発に協力したことをうやむやにするため、蘭癖として有名な重豪が、カピタンと内通しているという情報を流したのは、治済本人ではないかと疑った。沈黙が一瞬あった後、治済が懐から桃を取り出した。

 

「その桃はいかがなされたのですか? 」

  家斉は、治済が手にしている桃に気づいて訊ねた。瑞々しくて美味しそうだ。

 

「これか? 越中の置き土産じゃよ」

  治済が、美味そうに桃をかじりながら言った。そのころ、お膳所では、於知保が、桃を胸に抱えて膳所に入って来て、自ら桃をむき出したため、お膳所の役人たちが、於知保の周りで右往左往していた。

 

「公方様は、何も召し上がらぬ故、体力がつかぬ。桃ならば、口にして下さるかも知れぬ」

  於知保は、危なっかしい手つきで桃をむいていたが、手元がすべり指を切ってしまった。

 

「あとはそれがしにお任せあれ」

  於知保に付き添って来た意次が見かねて於知保と交替した。

 

「主殿頭。桃はちと、まずいのではござらんか? 」

  周囲を取り囲んでいたお膳所の役人たちは、桃は眺めるだけで将軍の御膳に出す物ではないとされていたことから心配した。

 

「桃は有毒ではないが、本来ならば、将軍の御膳には上がらぬ品じゃ。故に、他言無用じゃ。良いな? 」

 意次が念を押すと、お膳所の役人たちはうなずいてみせた。その後、意次は、器用に桃を食べやすい大きさに切り分けると皿に盛り、御休息之間の前に居た小納戸の林忠英に手渡した。

 

「公方様。越中殿が、献上した白河産の桃でございます。お召し上がりになりませぬか? 」

  於知保が、忠英から桃を載せた皿を受け取ると枕元に置いた。

 

「食わせてくれるか? 」

  家治が頭を横に向けると、目を閉じたまま口を開けた。

 

「早く、元気になって下され」

  於知保が、家治の口の中に桃のかけらを入れた。家治は、桃を半分食べ終えると口を閉じた。

 

「半分もお召し上がりなさったか」

  意次は、下げられた皿を見るなり思わず目頭を押さえた。於知保は、家治が、安らかに眠る姿を確認すると席を外した。意次は、拝謁を許されず御休息之間の外へ追いやられていた。

 

「まだ、そこにおったのか? 公方様は、そなたが、政務をおろそかにすることは望んでおらぬ。戻るが良い」

  厠から戻った於知保は、御休息之間の前に居座る意次をいさめた。

 

「いつまた、病状が変わるかもしれぬ時に、お傍を離れるわけにはまいりませぬ。せめて、お近くで見守ることだけでもお許しを」

  意次が、床に這いつくばるようにして平伏した。

 

「我が傍についておる。それに何かあれば、ただちに処置ができるよう御匙を御座之間に待たせてある。公方様は、そなたとはお会いにならぬと仰せじゃ」

  於知保が意次を追い払った。意次は、肩を落として去って行った。

 

 その日の夜、宿直を務めていた家治付近習の酒井忠香は、上御鈴廊下の杉戸が開いていることに気づいた。

 

「公方様のお渡りはないはずなのに、何故、杉戸が開いておる? 」

  酒井は、定之助を呼ぶと問いただした。

 

「半時前に見廻った折には閉じておりました。御殿向側が、閉め忘れたのではござらんか? 」

  2人は、互いに一歩も譲らぬ勢いで対峙した。その内、二丸御展の方から、女のすすり泣く声と共に、遠く近くから念仏が聞こえて来た。

 

「公方様が病に臥せっておられるというのに、念仏を唱えるとは不謹慎極まりない。注意せねばならぬ」

  酒井は、鼻息を荒くして二丸御殿に向かおうとした。

 

「二丸御殿は、宝蓮院様が、今年の正月に身罷られたのを最後に、どなたもお住まいではないはずです」

  定之助があわてて、酒井を引き留めた。

 

「二丸御殿には、家重公側室の安祥院様もお住まいではなかったか? 久しく、消息を聞いていないが身罷ってはいないはずじゃ」

  酒井が神妙な面持ちで告げた。

 

「だとすると、念仏を唱えておられるのは、安祥院様ということになりますな」

  定之助が言った。将軍側室に注意するなどできない。2人は、互いの顔を見合わせると互いの意思を確認した。その瞬間、後ろの方で閃光が走った。

 

「火事だ」

  2人は、我先に赤い光が漏れている御休息之間へ駆け込んだ。すると、於知保が下段で坐ったまま眠りこけていた。上段からは、獣が威嚇しているような低いうなり声が聞こえて来た。

 

「しっかりして下され」

  定之助が、於知保の肩を強くゆさぶった。

 

「そなたらは何じゃ? 何故、そなたらがここにおる? 」

  於知保は、目を覚ますと目の前にいる2人に驚いた。

 

「ご無事で良うござった。それがしは、てっきり、於知保様まで具合を悪くされたと思いましたよ」

  定之助が安堵のため息をついた。

 

「公方様。ご無事でござるか? 」

  一方、酒井は、慎重に家治の枕元に近づくと家治の顔をのぞき込んだ。家治は、かすかに寝息を立てていた。

 

「安らかに眠っておられるではないか」

  於知保は、酒井の肩越しに家治の寝顔をのぞくと酒井の耳元でささやいた。

 

「今しがた、こちらから、炎が上がっているのが見えました故、公方様の御身に何か起きたのではないかと思い駆けつけましたが、ご無事のようで安堵致しました」

  酒井が、神妙な面持ちで告げた。

 

「夢でも見たのではないか? 何も起こっておらぬ」

  於知保が、きつい口調で言い放った。

 

「何事もないようですし、身共は下がらせて頂きます」

  酒井は、定之助を外へうながすと静かに障子を閉めた。

 

「おふたりはご無事でしたし、これ以上、さわぎ立てぬ方がよろしいのではございませんか? 杉戸の件は不問と致しましょう」

  定之助が上目遣いで酒井に訊ねた。

 

「馬鹿を申すな。曲者が忍び込んでいたらどうする? 何かあったら、我らの首が飛ぶ」

  酒井が、定之助の頭をこづいた。

 

「殿方が、斯様な夜更けに、御殿向で何をなさっておられますか? 」

  2人が詰所の前まで来た時、若い娘の鋭い声が聞こえた。定之助が、声が聞こえた方に燭台を向けると奥女中が仁王立ちしていた。

 

「わしは、小納戸奥之番の中野定之助と申す。杉戸の件で、御錠口番に会う為罷り出た次第」

  定之助が緊張した面持ちで答えた。

 

「私は伊曰と申します。そうとは知らず失礼しました。どうぞ、中にお入り下され」

  お伊曰が、2人を詰所に招き入れた。中では、数名の奥女中が寝ずの番をしていた。

 

「おふたり揃って、おみえになるとは何事でございますか? 」

  御錠口番頭のお登勢が、2人に気づいて歩み寄った。

 

「実は、上御鈴廊下の杉戸が開いていたのを酒井殿が見つけまして、わしは、開けた放した覚えがない故、そなたらに聞きに参った次第」

  定之助が事情を説明した。

 

「何か変わったことがあれば、火之番が気づいて報せが入るはずです。そうであろう? 」

  お登勢が、戸口に立つお伊曰に同意を求めた。

 

「さようでございます」

  お伊曰が、神妙な面持ちで答えた。

 

「我らが御殿向へ入った折、御殿向側から杉戸を閉めたのじゃ。そなたは、我らの後に参ったのではないか? 」

  酒井が、お伊曰に訊ねた。

 

「お疑いでしたら、もう1人おります故、連れて参ります」

  お伊曰が言った。

 

「我らも共に参る」

  酒井と定之助は、お伊日についてもう1人の火之番を捜した。

 

「どこにもおりません。もしや、何かあったのでしょうか? 」

  しばらくして、お伊曰が言った。

 

「行き違いになったのではござらんか? 」

  定之助が言いかけたその時だった。中奥の方から、女の悲鳴が聞こえた。

 

「公方様。ご無事でございますか? 」

  3人は、急いで中奥へ駆けつけた。すると、御休息之間の障子が開いており、於知保が障子の前に倒れているのが見えた。

 

「於知保様の腕から血が出ております」

  お伊曰が、於知保に駆け寄ると於知保を抱き起こした。その時、於知保の左腕の刺し傷に気づいた。

 

「公方様はご無事でござるか? 」

  酒井は急いで、家治の枕元に坐ると家治の顔を手燭で照らした。すると、青白い顔が浮かび上がった。酒井は、家治の変わり果てた姿に息を飲んだ。ほんの数日前は、人相が変わる程腫れ上がっていた頬はけずられたみたいにやせこけ、目の周りは窪んだせいで、眼球が引っ込んで見えた。それはまるで、荒行を終えた高僧のようでもあった。

 

「酒井様。公方様のご様子にお変わりござらんか? 」

  背後から、定之助が酒井に話しかけた。

 

「播磨守。おぬしは御匙を呼んで参れ。お伊曰殿。そなたは、於知保様を頼む」

  酒井は、テキパキと2人に指示を出した。しばらくして、定之助と共に、奥医師の大八木伝庵が御休息之間に現れた。

 

「於知保様。いったい、何が起きたのですか? 」

  伝庵が、御休息之間に入るとすぐ、お伊曰に抱き起された於知保に駆け寄った。

 

「我らが駆けつけた時には、於知保様は、お倒れになっていました」

  お伊曰が青い顔で答えた。

 

「ひとまず、流血はおさまった。御次を呼び、許へお運びせよ」

  伝庵は、於知保に止血を施すとお伊曰に指示を与えた。

 

「承知しました」

  お伊曰は一礼すると外へ出た。

 

「御臨終にございます」

  伝庵は、報せを聞いて集まった者たちの前で、家治の死を宣言した。

 

「於知保様が倒れたというのはまことでござるか? 」

  家斉が、伝庵に訊ねた。

 

「はい。しかるべき処置をした後、傍にいた奥女中に、寝所へ運ぶよう申し伝えました」

  伝庵が冷静に答えた。

 

「何故、於知保様はお倒れになったのじゃ? 」

  家斉が、伝庵に慎重に訊ねた。

 

「於知保様の左腕には、刀傷がございました。おそらく、血を見て気を失われたのではないかと存じます」

  伝庵が答えた。

 

「刀傷とな? 何者の所業でござるか? 」

  意次が驚きの声を上げた。

 

「火之番が1人行方不明になっております。おそらく、その者が何か知っているものと思われます」

  障子の前に控えていた定之助が告げた。

 

「幸い傷は浅く大事に至りませんでしたが、お心が弱っておられます。しばしの間、お傍に人をつけて見守らせた方がよろしいかと存じます」

  伝庵が渋い表情で告げた。

 

「しからば、於知保の方が倒れているのを見つけたというあの奥女中に、引き続き世話をさせてはどうじゃ? 」

  家斉が意次に提案した。

 

「仰せの通りに致します」

  意次は一礼した後、慌ただしい様子で退席した。その後、家斉は、喪服に着替えるため、一旦、宇治之間へ戻った。身支度を整え一息ついているところに鳥居がやって来た。

 

「大納言様。公方様からお預かりした御内書をお届けに罷り出ましてござる」

  鳥居は、神妙な面持ちで家斉に「御内書」と達筆な文字で書かれた懐紙にくるまれた品を手渡した。

 

「これが、公方様が、わしに遺して下さったという御内書なのだな」

  家斉は、懐紙を外して現れた古めかしい書物を注意深く見つめた。

 

「公方様は、上様に御内書の件についてご内密にせよとの遺言を残されました」

  鳥居が神妙な面持ちで告げた。

 

「大義であった。下がるが良い」

  家斉が目頭を押さえながら告げた。鳥居が退席した後、家斉は、書物の表紙を改めて眺めた。その書物の題名は「愚官抄」。鎌倉時代の初期、天台宗僧侶の慈円和尚が書いた第7巻あるという史論書の1冊だ。聞いたことはあったが、実物を見たのははじめてだった。家斉は、所々、シミや小さな破損が見られるその書物のページを慎重にめくった。書物を閉じようとした時だった。書物の間にはさまっていた絵が畳の上に舞い落ちた。

 

「何やら落ちましたぞ」

  その時、ちょうど、家斉の様子を見にやって来た本丸小納戸の中野定之助が、畳の上に落ちた絵を拾い上げた。家斉はとっさに書物を後ろに隠した。

 

「坂上田村麿による清水寺能の光景が描かれていますね」

  定之助が、家斉に絵を返すと告げた。

 

「何故、この絵が、清水寺能を描いた絵だと一目でわかった? 観たことがあるのか? 」

  家斉が、身を乗り出すと訊ねた。

 

「幼少のころ、あるお方のお供で京師へ参った折、清水寺にて行われた能を観ました。その時、演じられていたのが清水寺能でござった」

  定之助が遠い目で覚え語った。

 

「これが、かの有名な清水の舞台か。ここから飛び降りて願掛けする者もいると聞く」

  家斉が、絵を眺めながらつぶやいた。

 

清水寺能は、勝ち戦の武将を主人公とする修羅能にござる。大和国の僧の賢心が、京師の清水寺を訪れた折に出会ったほうきを持った少年に素性を訊ねると、地主権現に仕える者であると答えた。僧が、清水の来歴を尋ねると少年は田村麿が建立した謂れを語る。僧は少年と清水の桜を楽しむ。その後、少年は、ひとりで田村堂へ入る。残された僧の前に清水寺門前が現れ清水寺縁起を語り、少年は、田村麿の化身だと告げる。僧が法華経を読経すると、武者姿の田村麿が現れるという筋書きでござると定之助が能弁に語った。

 

「この絵に、斯様な謂れがあったとはのう」

  家斉が言った。

 

「観音の霊力により敵を蹴散らす田村麿の舞はたいそう素晴らしく、いたく感服致しました」

  定之助は、家斉の言葉が耳に入っていない様子で熱く語った。

 

「良い話を聞いた。この絵はしまっておくにはちと惜しい」

  家斉は、腕を組んで思案した。いつでも眺められるようにするにはどうすれば良いか考えた結果、思いついたのが掛け軸に仕立て直すことだ。

 

「その書物は何ですか? 」

  定之助は、家斉の背後に隠された書物を目ざとく見つけると指摘した。

 

「実は、この絵はこの書物の合間に挟まっていたのじゃ」

  家斉は、後ろに隠した「愚官抄」を出して見せた。

 

「愚官抄はまだ、上様にはちと難しいのではないかと存じます」

  定之助が告げた。

 

「もとより読むつもりで持っていたのではない。遺品を頂いたのじゃ」

  家斉は、ムカッと来て思わず口をすべらせた。

 

「この書物を書いたという慈円和尚は後鳥羽上皇の身辺に挙兵の動きがあると知り、西園寺公経と共に反対に出た。これは、挙兵を留まらせるために書いたものだと言われています。結局、後鳥羽上皇は、挙兵した末に敗れ配流となった。慈円和尚の兄にあたる九条兼実の曾孫にあたる仲恭帝が、後鳥羽上皇に連座して廃位されたことに憤慨した慈円和尚は、仲恭帝復位を願う願文を収めたと言われています」

  定之助が、神妙な面持ちで語った。

 

「後鳥羽上皇のことまで知っているとは正直驚いた。史書を読み解くよりも、そちから聞いた方が早いのではないか? 」

  家斉が、感心したように言った。

 

「愚官抄の合間に挟まっていたということは、その絵は後鳥羽上皇を示す絵なのかもしれませぬ。坂上田村麿の化身だとする少年は後鳥羽上皇を示しているに違いない」

  定之助が考え深げに言った。

 

「上様。田沼意次でござる。御目通り願います」

 ふいに、障子の外から意次の声が聞こえた。家斉は、部屋の隅に鎮座していた木村重勇に障子を開けるよう命じた。意次が、障子が開くなり中へ飛び込んで来て家斉の前に着座した。

 

「何用じゃ? 」

  家斉がぶっきらぼうに訊ねた。

 

「一同、御座之間にて上様の御出ましを待っております」

  意次が恭しく告げた。

 

「それがどうした? 評議するのはそちらの役儀じゃ。わしには関係なかろう」

  家斉はそっぽを向いた。

 

「家治公の葬儀や幕閣の新たな人事など評議せねばならぬ儀が山のようにござる。休んでいる暇などございますまい」

  意次が厳しい表情で訴えた。

 

「下がるが良い。わしには評決を伝えるだけでかまわぬ」

  家斉が、追い払う仕草をしてみせた。

 

「何を申されますか? 上様がおられなくては何事もはじまりません。ただちに、政務におつきいただきませんと幕政が滞ってしまいます」

  意次が、やりきれないと言った風に言った。

 

「相分かった」

  家斉は、重い腰を上げると意次を随い御座之間へ向かった。御座之間には、大老、老中、若年寄といった重職に就く者たちが勢揃いしていた。

 

「上様。お待ちしておりました。こたびの議題でござる」

  大老の井伊直幸が、家斉に書状を差し出した。

 

「その方。名を何と申す? 」

  家斉は、書状を受け取ると訊ねた。

 

「大老の井伊直幸と申します」

  直幸は、一礼すると速やかに席に戻り声高々に告げた。

 

「上様が、御出ましになられたことですし評議をはじめます」

  家斉は、周囲を見渡しながら知らぬ顔が多いことに改めて気づかされた。

 

「上様。お渡しした書状をご覧くだされ。まずは誤りがないか確認頂きたい」

  若年寄の井伊直朗が小声で告げた。家斉は、直幸から手渡された評議文書に目を通した。いつ、用意したのか文句のない完璧な内容であった。

 

「通例通り、発葬は9月8日とし墓所は上野の寛永寺となります。その間、新たな幕閣人事が決定となります故、それまでは、今まで通り、各自役務に励むように」

  直幸が告げると、一同が、声を揃えて承知つかまつりましたと大声で返答した。評議の後、家斉は、最後まで居残りぼんやりとその場に坐っていた。

 

「上様。いかがなされましたか? 」

  意次が、まるで尻が畳に張りついたかのようにその場に佇んでいる家斉を見兼ねて声をかけた。

 

「集まった者らの半分も知らぬというに、向後、あの者らと上手くやっていけるのであろうか」

  家斉が重い腰を上げると言った。

 

「上様は、これまで幕政に関わっておられなかった故、全ての者を存じ上げないのは、無理もないことと存じます。追々、近しくなればよろしいのでは」

  意次が穏やかに告げた。

 

「しかりその通りじゃ」

  家斉が相槌を打った。

 そのころ、松平定信は、葬儀の後も江戸に残り表向きには田安家の用事を済ませていると装いながら、在府の譜代や大小の大名たちと会い意次率いる田沼派の一掃と、自らの老中首座就任のための協力を申し入れ今後の作戦を練っていた。また、田沼派一掃に向けて、蝦夷地開発の中止を訴え始めた。世論もそれに応えるかのように、幕政批判をくり返した。幕府は、ひとまず蝦夷地に赴任していた探検隊を帰還させることにした。意次は、探検隊を帰還させることを最後まで反対したが、もはや、それに賛同する者はいなかった。この時から、意次は、真剣に辞職を考えはじめた。蝦夷地開発が頓挫した場合、責任を取り辞職する宣言は実現に近かった。

 

 

 


 家治の死が公表されてから1か月後。家斉は本丸御殿へ遷った。家斉は、御庭番の川村修富を本丸へのお伴に命じ、家治の時代に小納戸を務めた林忠英と中野定之助を引き続き、本丸小納戸に就かせた。また、西丸御殿時代から家斉の近習を務める水野忠成と木村重勇も、家斉と共に西丸御殿から本丸御殿へ遷った。定之助は、家斉から寵愛を受けていることを良いことに家斉の傍を独占し始めた。本丸御殿に遷った2日後の正午過ぎ。家斉は、政務を早々に切り上げると井呂裏之間にて、木村を相手に将棋を打っていた。

 

「上様、いかがなされましたか? 」

  木村は、家斉が打つ手を休めて考え込んだことから心配して訊ねた。

 

「そちは、辞職願を出した主殿頭の真意をいかに考える? 」

  家斉は、意次が辞職を願い出たことに対する意見を木村に求めた。

 

「それがしには何とも‥ 」

  木村は考え込んでしまった。

 

「主殿頭が、自ら御役御免を願い出るとは思いもしませんでしたが、辞めさせる手間が省けて、かえって良かったのではござらんか? 」

  2人の対局を見ていた定之助が、木村を尻目に横から口を挟んだ。

 

「今になって、自ら身を退くとはどうも解せぬ」

  家斉は腕を組んで思案した。周りに流されぬことなく信念を貫いて来た男の引き際にしては、あっさりし過ぎやしないかと思った。

 

「幕政に対する民の批判が強まる中、主殿頭も思うところがあったのでござろう」

  木村が苦み走った顔で告げた。

 

「意次は、わしと交わした約束をまだ果たしておらぬ」

  家斉が口を曲げた。意次から、大奥の改革に着手したという報告は未だ届かない。辞職願を提出したということはその気がないということになる。

 

「主殿頭の辞職を機に、幕閣から、田沼派を一掃なされば良いのではないかと存じます」

  定之助が興奮気味に告げた。

 

「たわけ者。何を申すか? 」

  家斉は、思わずムカッときて定之助の頭をこづいた。家治の死を悼む間もなく、意次を早く罷免しろと催促する父に対し家斉は反発を強めた。

 

「皆がそう申しております」

  定之助が頭をさすりながら言った。

 

「今は喪に服さねばならぬ時じゃ」

  家斉は、意次の辞職を素直に受け入れることができずにいた。

 

「播磨守。ちとよろしいか? 」

  忠英が、遠慮気に井呂裏之間へ入って来た。

 

「こやつめ、推参致しおいて。それがしは、上様と大事なお話をしているのじゃ。うぬには、それがわからぬか? 」

  定之助が厳しい口調でとがめた。

 

「御用達の呉服商が、上様が将軍就任式にお召しになる裃の納入に参ったら、伝えるように申したのは貴殿ではござらんか? 」

  忠英がムキになって言い返した。

 

「それを早く言わぬか? おぬしはいつも一言足りぬ」

  定之助が、忠英の頭を軽くこづいた。

 

「言おうとしたら、貴殿が止めたのでござらんか」

  忠英がしかめ面で反論した。

 

「上様。中座をお許し下され」

  定之助は一礼した後、忠英の尻をたたきながら退席した。

 

「上様。民部卿がお見えでござる」

  しばらくして、忠英が障子越しに告げた。

 

「何? 父上がお見えになっただと? 」

  家斉は急にあせり出した。治済が動き出すと必ず、何かが起きる。

 

「登城されて間もなく、談事部屋にお入りになりましたが、今しがた、退出されて、こちらへ向かわれている次第」

  忠英が冷静に報告した。

 

「今、談事部屋と申したか? 」

  家斉は身を乗り出して訊ねた。

 

「さようです」

  忠英が返答した。

 

「父上の元にも、公方様の遺言を伝える書状が届き、委細をたしかめるために登城なされたのじゃ」

  家斉は、意気揚々と登城する治済の姿を想像して身震いした。

 

「上様。どちらへおでかけですか? 」

  水野忠成は、家斉が部屋から飛び出して来たかと思うと縁側から庭へ飛び降りたので驚いて引き留めた。

 

「父上には、わしは不在だと伝えよ」

  家斉はそう言うと、周囲を慎重にうかがいながら庭を駆け抜けて行った。水野は、あわてて家斉の後を追いかけた。

 

「上様。おケガはござらんか? 」

  水野は、御三丸入口御門の潜り戸の前で家斉に追いついた。家斉は、潜り戸の淵にからだがすっぽりはまってしまい、外へ抜け出すことができず立ち往生していた。水野忠成は、家斉のからだを内へ引き戻した。家斉は、潜り戸の淵からぬけ出た拍子に地面に尻餅をついた。

 

「ちと菓子をひかえねばならぬのう」

  家斉が、水野の肩を借りて上体を起こすと言った。

 

「民部卿と何かあったのですか? 」

  水野が訊ねた。

 

「父上は、田沼派が牛耳る幕閣に強い不満を抱く御三家と結託して政敵の意次を追い出すため、着々と準備をなさって来られた。ついにその時が来たようじゃ」

  家斉は、尻についた砂をはらうと言った。

 

「お会いになれない事情はわかりました。なれど、御忍で城外を散策なさるは、しばし、お控え下され」

  水野が頭を下げて言った。

 

「相分かった。外へは参らぬ故、安心して戻るが良い」

  家斉は、水野を追い返すと奥向の方へ向かった。家斉が、奥向に足を踏み入れた途端、その場に居合わせた奥女中たちが色めきたった。好奇の視線を浴びながら廊下を闊歩していると、庭の方から、何やら威勢の良いかけ声が聞こえた。縁側から庭を眺めると、見知らぬ武家の娘が、数人の奥女中たちと共に額に汗を光らせて薙刀を振っていた。

 

「あの勇ましい女人は何者である? 」

  家斉は、通りかかった奥女中を捉まえると訊ねた。

 

「あの女子は、別式という武芸指南役でございます。種姫様付御中臈らに薙刀や馬術の稽古をつけております」

  奥女中は、お辞儀すると立ち去った。家斉は、一目でその別式の美しさに心奪われた。家斉が見とれていると、その別式が、家斉に気づいてお辞儀をした。

 

「その方。名を何と申す? 」

  家斉は、縁側からその別式に声をかけた。

 

「押田耀と申します」

  耀は、はつらつとした表情で名を名乗った。耀は、先祖代々本丸小姓を務める押田氏の娘で、家治に仕える小姓の押田勝長の妹にあたる。またの名をお楽という。

 

「そなたのような器量良しの女人を別式にとどめておくのは実に惜しいのう。いっそのこと、奥向に仕えたらどうじゃ? 」

  家斉が鼻の下を伸ばした。

 

「いたみいります」

  耀は頭を下げた。

 

「大崎局にそなたを部屋方にするように申し伝える」

  家斉は満面の笑みを浮かべた。

 

「おそれながら、私は、すでに種姫付の御中臈となることが決まっております」

  耀は、お辞儀すると稽古を再開した。

 

 家斉は、その足で大崎の元へ向かった。大崎の部屋を訪ねた時、ちょうど火之番のお伊曰が来ていた。

 

「その方はたしか、火之番のお伊曰ではないか? 」

  家斉が思い出したように言った。

 

「さようでございます」

  お伊曰があわてて、その場に平伏した。

 

「この者をご存じでしたか? 奥女中の分際で御役御免を直訴するとは、身の程をわきまえるよう叱りつけておった次第」

  大崎が、眉間に皺を寄せて言った。

 

「お伊曰はうら若い娘じゃ。成り行きとはいえ、桜田屋敷へ追いやったことは、考えが足りなかったかもしれぬ」

  家斉がお伊曰をかばった。

 

「あろうことか、この娘は、蓮光院様の病は治った故、して差し上げることは何もない、前の職に戻して欲しいと直談したのでございます」

  大崎は、横目でお伊曰をにらむと訴えた。

 

「まことの話でございます。傷の方も治りましたし身の回りのお世話は、御付の御女中らがしております。これ以上、看病は不要かと存じます」

  お伊日はきっぱりと告げた。

 

「そういうわけじゃ」

  家斉が大崎に言った。

 

「蓮光院様を襲った刺客も未だ、見つかっておりませんし、蓮光院様の侍医は、蓮光院様は心の病を患った故、お傍で見守る者がいると申しております。お伊曰は、上様の申し伝えにより、蓮光院様の看病人となりました。故に、私が独断でその任を解くわけにはまいりませぬ」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 

「お伊曰。蓮光院の看病人の任を罷免し、新たに於富様付御中臈を申し伝える。大崎。そなたには、蓮池院の新たな看病人捜しを申し伝える」

  家斉はそれぞれに命令した。

 

「ありがとう存じます」

 

「承知しましてございます」

 

 2人は、それぞれ別の感情を抱きつつ命令を受けた。

 

「もう、下がるが良い」

  大崎は、お伊日を下がらせると御人払いした。

 

「大崎、そなたに申し伝えることがござる」

  家斉が改まって告げた。

 

「私も上様にお話がございます」

  大崎が咳払いして言った。

 

「奥女中に、武芸の稽古をつけておる別式が奥向に出入りしておろう? あの者をそなたの部屋子に抱え申せ」

  家斉が興奮気味に言った。

 

「もしや、耀をお気に召したのですか? おそれながら、あの者はすでに、種姫付の御中臈と決まっております」

  大崎が決り悪そうに告げた。

 

「そなたの力で何とかならぬか? あのまっすぐで大きな瞳が良い。器量が良いだけでなく知性を感じる。何より、勇ましい女人と言うのが気に入った」

  家斉がうっとりした表情で言った。

 

「耀を側室としてお考えですか? 」

  大崎が眉をひそめた。

 

「さもあろう」

  家斉が顔を赤らめた。

 

「側室をお選びになる前に、御内証を決めなければなりませぬ」

  大崎は、家斉の御内証に相応しい御中臈候補に目星をつけたという。

 

「手ほどきを受けずとも何とかなる」

  家斉が逃げ腰で言った。

 

「何事もはじめが肝心だと申します。初の御褥が、向後を左右すると申しても過言ではありませぬ。御年寄衆の評議にて、上様の御内証に相応しい者を何人か選び、絵師を呼んで、候補者の人相書を作らせました故、ご覧に入れましょう」

  大崎は、文箱から絵を数枚取り出すと家斉の前に並べた。

 

「わしには茂姫という許嫁がおる。他の女人を相手にするなどできぬ」

  家斉がめいわくそうに言った。

 

「御内証選びは、一橋家の血筋を将軍家に遺すための大切な儀でございます」

  大崎は、候補者の人相書の1枚を家斉の前に並べた。家斉は、おそるおそるその中の1枚を手に取った。その絵に描かれた娘は、色白のおたふく顔だった。

 

「こやつはちと肥え過ぎじゃ。わしを愚弄しておるのか? 」

  家斉がその1枚をはねつけた。

 

「おまるは、上様より8つ年上ですが、美形で気立ての良い健やかな女人でございます。それに、1度、旗本に嫁いだことがあり、男女の営みを知り得ております。御内証に相応しいと存じます」

  大崎が自信満々に主張した。

 

「何を言われても、気に入らぬものは気に入らぬのじゃ」

  家斉は、大きく首を横に振った。

 

「しからば、他の候補者はいかがでございますか? 」

  大崎が身を乗り出して訊ねた。

 

「この者に決めた。器量良しじゃ」

  家斉は、はねつけた人相書の隣に並べられた人相書を手に取ると、大崎の顔の前につき出した。

 

「上様が、お宇多をお選びになるとは高丘局のよみは、見事にあたりましたな」

  大崎が感心したように言った。

 

「この者は高丘局の縁者か? 」

  家斉が訊ねた。

 

「実を申しますと、お宇多は主殿頭の縁者だということで高丘様が、ぜひにと推挙されたのでございます」

  大崎が小声で答えた。

 

「田沼家の女人を勧めるとは、いかにも田沼贔屓の高丘らしいのう」

  家斉が腕を組むと言った。姿形は好みだがその背後が問題だ。

 

「お宇多は、おやめになられた方がよろしいかと存じます」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 

「何故じゃ? 」

  家斉が、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「上臈御年寄の高丘様の推挙である故、除くことはできず候補者に挙げはしましたが、私は気が進ません」

  大崎は反対の意思を示した。

 

「相分かった。内証の件はそなたに委ねるとしよう」

  家斉は、大崎の勘を信じることにした。

 

「おまかせ下され」

  大崎が深々と頭を下げた。

 

 家斉が、本丸に戻ったのは夕餉の支度が整った後のことだった。家斉の姿が見えると、定之助が駆け寄って来た。

 

「上様。お忘れとは言わせませんぞ。奥向へ参られる時は、お伴しますと申し上げたではござらんか」

  定之助が障子を開けるなり言った。

 

「内々の話をしに参ったのじゃ」

  家斉がぶっきらぼうに言った。

 

「もしや、御内証の方が決まりましたか? 」

  定之助が目を輝かせて訊ねた。

 

「お宇多と申す娘が良かったが、大崎が反対しておる故、別の者に決まるかも知れぬ」

  家斉が答えた。

 

「お宇多? どこかで聞いた名でござるな」

  定之助が考え込んだ。

 

「ここだけの話だが、お宇多は、田沼家の縁者だそうじゃ」

  家斉は、定之助に耳打ちした。

 

「思い出しました。たしか、主殿頭の次女の名がお宇多でござる。若年寄の井伊直朗に嫁いだと聞いていましたが、何故、御内証の候補者になっているのですか? 」

  定之助は興奮気味に訊ねた。

 

「さあな。それより、今、井伊直朗に嫁いでいたと申したか? 」

  家斉は口をとがらせた。

 

「さようでござる。御内証の候補になったということは、離縁したということになりますな。井伊直朗と大老の井伊直幸は共に田沼派でござる。田沼派と縁を切ってまで、娘を上様の御内証にしたかったのでしょうか? 」

  定之助が、家斉に顔を近づけると言った。

 

「政略結婚には色々あると母上から聞いたことがある。やはり、離縁した理由が気になる」

  家斉が腕を組んで言った。

 

「しからば、弟子に、田沼派の動きを探らせましょう」

  定之助がはりきって言った。

 

「おぬしに弟子などおったか? 」

  家斉が上目遣いで訊ねた。

 

「上様が御物茶師に召し抱えた熊蔵のことでござる。熊蔵の方から、我の弟子にして欲しいと願い出ました故、弟子にしてやりました。実は、奥坊主に空きがあり、上様のご寵愛を受けていると幕閣に働きかけたところ、あの者を奥坊主に召し抱えるお許しを頂きましてございます。これもすべて上様のおかげ。熊蔵には、上様のために身を粉にして働くようにと誓わせました。何なりとお申しつけ下され」

  定之助が得意気に言った。

 

「さよか」

  家斉は、上様のおかげと聞いて気を良くした。

 

「おそれながら、熊蔵が、円成坊と名を改めたいと申し出ました。上様のお許しがあれば、ただちに改めさせたいと存じます」

  定之助が上目遣いで告げた。

 

「しからば、こたびの一件を上手く務め上げたら改名を許すことに致す」

  家斉は条件を出した。

 

「仰せの通りに致します」

  定之助は、にっと笑うと返答した。

 

 家斉が予想した通り、ついに、治済が行動に出た。御三家当主は、それぞれが、田沼意次主導の政策を厳しく批判した上で、幕閣人事の刷新と意次を厳罰に処する旨を幕閣に申し入れたのであった。意次の失脚後もなお、田沼派の幕臣の松平康福が、老中首座に就くなど、幕閣の中枢には、相変わらず、田沼派の幕臣が君臨していた。幕政を強化するとの目的で、鳥居忠意と牧野貞長が、老中職に任ぜられた他、治済は、御三家当主に働きかけると同時に、田沼派の御側御用取次の横田準松を牽制するため、同じく御側御用取次の小笠原信喜を取り込んで、いっせい攻撃を仕掛けてきた。一方、大奥では意次を支持する勢力が残存しており、幕府の財政が悪化する中、大奥を優遇した意次に対する奥女中の信頼は厚く相変わらず人気があった。大奥では、意次と近しい仲であった御年寄筆頭の高丘が中心となり、意次の罷免撤回懇願書が幕閣に提出された。

 

ある日の昼下がり。於富が、御目通りを願い出ていると聞き、家斉は緊張した面持ちで於富と対面した。

 

「お召し上がれ」

  於富が家斉に饅頭を勧めた。

 

「ありがたく頂戴致す」

  家斉は、饅頭を1つ手に取った。

 

「先日、大奥の奥女中らが、主殿頭の罷免撤回懇願書を幕閣に提出しましたが、民部卿が、田沼派を一掃するよう幕閣に働きかけているフシがあり、このままでは、主殿頭の罷免は免れないと危惧し、大奥においても、策を練っておる次第でございます」

  於富が神妙な面持ちで告げた。

 

「何故、奥女中らは、意次の罷免撤回を望んでおるのでござるか? 」

  家斉が素朴な疑問を投げかけた。

 

「これまで、主殿頭は奥向の儀を優遇して下さった。主殿頭には返し切れぬ恩があると、御年寄をはじめ、多くの者らが申しております。その恩を忘れて、身の保全を図ろうとする者は大奥にはおりませぬ。私も、主殿頭の罷免撤回を切に願っております」

  於富の意思は強かった。

 

「わしは、中立を守らねばならぬ」

  家斉がきっぱりと告げた。

 

「それでも、こうして身共の意見に耳をお貸し下さった。感謝致します」

  於富が頭を下げた。

 

「政務が残っています故、これにて御免仕る」

  家斉は、逃げるように御休息之間へ舞い戻った。

 

「上様。ちとお話がござる」

  家斉が御休息之間下段にて政務を行っていると、木村が家斉に耳打ちした。

 

「何じゃ? 」

  家斉が小声で訊ねた。

 

「今朝、御坊主が参りまして今宵はどうかと訊ねられました故、お渡りになるとお答えしましたが問題ござらぬか? 」

  木村が上目遣いで訊ねた。

 

「相分かった」

  家斉は、心ここにあらずの返事をした。その日の午後。家斉が奥泊まりすると聞きつけた定之助が、にこにこしながら近づいて来た。

 

「上様。今宵、奥泊まりなさると聞きましたぞ」

  定之助は、家斉に耳打ちした。

 

「将軍の務めとはいえ、許嫁の茂姫以外の知らぬ女人を抱くのは、どうも気が進まぬ」

  家斉が決り悪そうに言った。

 

「お宇多の件ですが、井伊直朗とお宇多の離縁には、どうやら、御三卿が関与しておるようでござる」

  定之助が小声で言った。

 

「御三卿といえば、田安、一橋、清水の三家じゃ。田安家は当主不在。清水家当主は病に伏しておる。残るは一橋しかおらぬではないか」

  家斉は、まわりくどい言い回しにイラ立った。

 

 家斉が、西丸御殿に遷ると共に、一橋家家老から、小姓組番頭格の西丸御側取次見習いとなった田沼意致の出世は、意次と治済との関係が良好であった時に実現したことであり、治済が、意次を罷免に追い込んだ今となっては、意致の出世は止まるどころか降格も避けられない。家斉は、治済が、井伊家に、将軍の父で御三卿の自分が幕閣に働きかければ、人事はどうとでも変えられると迫り、田沼家との縁を断ち切るよう迫ったのではないかと考えた。

 

「井伊家に限らず、主殿頭のご子息や甥と養子縁組した田沼派の幕臣らが、養子縁組を解消し田沼家と縁を切ることは必至でござろう」

  定之助が神妙な面持ちで告げた。

 

「皆、冷たいのう」

  家斉が皮肉った。

 

「主殿頭が、身の保身を図るため上様に娘を献じたとすれば、お宇多の名が候補に挙がったことも納得が行きます」

  定之助が、家斉の顔をのぞき込むと言った。

 

「大崎が反対しておる故、主殿頭の望み通りには事は運ばぬ。よくぞ、調べてくれた。約束通り熊蔵の改名を認める」

  家斉が憮然とした表情で告げた。

 

 その夜、家斉は、脇差のみの着流しで、定之助を従え上の御錠口まで行くと、奥向へ通ずる上御鈴廊下へ緊張した面持ちで足を踏み入れた。次の瞬間、家斉は、鳴り響いた御出ましを報せる鈴の音に驚き、思わず、足がすくんだ。

 

「お迎えにあがりました」

  上臈御年寄の高丘と表使のお八重が、家斉を出迎えて御小座敷へ先導した。

 

「上様。緊張なさっておられますか? 」

  高丘が、茶碗にお茶を注ぐと訊ねた。

 

「大事ない」

  家斉は強がってみせたが、茶にむせたことで緊張していることがばれた。

 

「何もおそれることはございますまい」

  お八重が、家斉の背中をさすりながら言った。その後、家斉は、高丘に促されて、御内証が待つ寝所に入った。寝所には、布団が4枚並べて敷いてあった。

 

「何故、布団が4枚並んでおるのじゃ? 」

  家斉は高丘に訊ねた。

 

「御内証の他に、添い寝の御中臈と御坊主が控える慣習となっております」

  高丘は言い終えると、家斉をその場に1人残して立ち去った。御内証は、家斉が近づくと両手をついて頭を下げた。

 

「面を上げぃ」

  家斉は、御内証となった御中臈の傍に坐ると命じた。御内証となった御中臈は、おそるおそる顔を上げた。家斉は、御内証となった御中臈の顔を上げた途端、思わず、つばを飲み込んだ。御内証となった御中臈は、はじめて見る顔だった。直前まで、お宇多に決まっていたが、急遽、取り消しとなり、茂姫付の御中臈の中から、幕臣の平塚為喜の娘のお万が選ばれたのだった。

 

「その方、名は何と申す? 」

  家斉が咳払いして言った。

 

「お万と申します」

  お万がうつむき加減で答えた。

 

  翌朝、目を覚ますとすでに隣にお万の姿はなく、家斉は昨夜のことを思い出して余韻にひたっていた。そこへ、高丘がやって来て枕元に坐った。

 

「上様。お目覚めよろしゅうございます」

 

「お万の姿が見えないがどこへ消えた? 」

  家斉は、着物に袖を通すと周囲を見渡した。

 

「上様がお目覚めになる前に退出する掟通り、夜明け前に下がらせました」

  高丘が答えた。

 

「こたびは、上様に、御褥の作法をきちんと指南できる女人を選びましたが、上様のお好みをお教え頂ければ、向後は、できるだけ上様のお好みに添うような女人を選ぶように致します」

  高丘が穏やかに告げた

 

「ところで、お宇多はいかがしたのじゃ? 」

  家斉はそれとなく訊ねた。

 

「お宇多のことをご存じなのですか? 」

  高丘が目を丸くして訊き返した

 

「大崎から御内証の人相書を見せられた故、あの娘を選んだのじゃ。そなたが推挙したと聞いたぞ」

  家斉がぶっきらぼうに答えた。

 

「身元に不都合あり、御召し出しを取り止めたのでございます」

  高丘が気まずそうに答えた。

 

「不採用になったならば仕方がないのう」

  家斉は複雑な気持ちになった。意次の娘が御内証というのもおかしなものだが、お宇多は家斉の好みの女だったので、会って話しがしてみたいと期待もしていた。

 

 治済は、いつ訪ねても家斉が不在なことを不審がるが、ほぼ、意次の引退が決まったこともあり安心しきっていた。田沼派の幕臣たちの間でも、保身のために意次と縁を切る者と大奥と結託する者とに分裂した。老中の水野忠友は、水野家の養子とした田沼意次の4男、意正との養子縁組を解消して実家に戻らせた。水野忠徳と名乗っていた意正は、母方の姓を称して、「田代玄蕃」に改名を余儀なくされた。その一方で、大老の井伊直幸は、同族で若年寄の井伊直朗と共に大奥の御年寄と結ぶと同時に、代替りの後も留任できるようにと老中や御側御用取次たちに賄賂を贈った。

 

「上様。民部卿から書状が届いております」

  定之助が、手つかずの書状の山を横目に今朝、届けられた書状を手渡した。

 

「後で目を通す故、それへ」

  家斉は、未開封の書状の山に加えるように顎で指図した。

 

「上様。何故、民部卿からの書状を後回しになさるのでござるか? 」

  定之助が、難しい表情をしながら書状を書く家斉に訊ねた。

 

「読まぬとは申しておらぬ」

  家斉が、書き終えた書状を折りたたむと答えた。

 

「なれど‥ 」 

  定之助は、どういうわけか引き下がらなかった。

 

「これを田沼意次へ手渡すのじゃ」

  家斉が、定之助に書状を手渡した。

 

「上様。意次殿に書状とは、いったい、どういう風の吹き回しでござるか? 」

  定之助は書状を受け取ると訊ねた。

 

「人づてではなく、かならず、当人に手渡すのだ。良いな? 」

  家斉は、定之助の顔を見つめると念を押した。

 

「承知仕りました」

  定之助は一礼すると引き下がった。

 

 それから数日後、家斉は、御忍で妙法寺へ行った。

 

「上様。客人が、先にお着きになり中でお待ちです」

  住職が出迎えた。

 

「待たせたな」

  家斉は、平伏す客に声を掛けると着座した。

 

「上様より、謁見を賜り恐悦至極に存じます」

  意次が、緊張した面持ちであいさつをした。

 

 「堅苦しいあいさつは抜きにして楽にせよ」

  家斉が穏やかに告げた。

 

 「いたみいります」

  意次が背を正した。

 

 「そちに対する風当たりは相当強い。嵐の目に身をおいておるようじゃ」

  家斉が神妙な面持ちで告げた。

 

 「お恥ずかしい限りでござる」

 意次が神妙な面持ちで告げた。

 

 「12月27日をもって謹慎を解く故、そのつもりで、来年の年賀の席に出席するが良い」

 家斉は、言うことだけ言い終えると立ち上がった。意次は、一瞬、驚いた表情で、家斉を仰ぎ見たが、すぐにその場に平伏した。境内で待たされていた定之助は、家斉が入ったと思ったら、すぐに出て来たので何事かと駆け寄った。

 

「上様。どなたと会っておられたのですか? 」

 定之助が訊ねた。

 

「参るぞ」

 家斉は、定之助の問いに答えることなく颯爽と馬にまたがった。

 

「上様は、誰と会っておった? 」

 定之助は、家斉を見送るため外に出て来た住職を捉まえると小声で訊ねた。

 

「さあ、存じ上げませぬ」

 住職は、口止めされているらしく白を切った。

 

「何をしておる」

 家斉は、ついて来ない定之助を急かした。

 

 「ただいま、参ります」

 定之助は、住職をにらむと馬にまたがり家斉の後を追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 年が明けて、江戸城で催された年賀の席において、謹慎の身の意次が、老中に準ずる席次に参列したことに参加した者たちは驚きを隠せなかった。意次は、普段と変わりない様子で堂々と振舞った。年賀の席の後、家斉は、意次を御座之間に呼んだ。

 

「そちを呼んだのは言うまでもない。老中復帰に相応しい役儀を申し渡すためじゃ。奥向の費が、幕府の財政を圧迫しておることはそちも知っておろう? 奥向に、無用な費を控えるように申し伝えよ」

  家斉は、意次の出世の後押しをしてきた大奥に対して出費を抑えるように苦言を呈することが、はたしてできるかと意次を試した。

 

「奥向には、綱吉公の御台所付の常盤井が上臈御年寄として権勢を振るった時代から、京風の華美な風習が根強く残っていまして、今までも、華美な風習や無駄遣いを改めさせようと、倹約断行に乗り出した者共が、ことごとく、左遷や罷免に追いやられている始末でござる。奥向に無用な費を控えるように申し伝えることは、はなはだ難しいことと存じます」

  意次は予想通り断って来た。

 

「大奥の支援を得て出世したそちにとって、大奥を敵に回すことはたやすいことではなかろう。なれど、そちが幕閣で生き残る道は、大奥に質素倹約を強いる道しか他にないのじゃ」

  家斉は、印籠を意次に渡すつもりで言い放った。

 

「上様。おそれながら、お願いしたい儀がござる」

  意次が頭を下げた。

 

「何じゃ? 」

  家斉が咳払いして言った。

 

「蝦夷地の探検隊に参加した最上徳内が、蝦夷地に戻ることを願い出ております。調査は中止となりましたが、あの者が、蝦夷地の開発に懸ける思いは並大抵のものではござらん。松前藩の動向も気になりますし、蝦夷地の調査は、やはり、続けるべきかと存じます。探検隊を再び蝦夷地へ赴かせることをお許し頂きたい」

  意次が必死に訴えた。

 

「最上は、幾度となく蝦夷へ侵入しようとして松前藩に目をつけられているそうではないか? 斯様な不届き者を蝦夷へ赴かせる訳には行かぬ」

  家斉がため息交じりに言った。

 

「おそれながら、何かが起きてからではおそいと存じます。先日、赤蝦夷人が蝦夷地に迫っているとの報告が幕閣にござった。赤蝦夷は、我が国との通商を要望しておるようでござる。また、赤蝦夷は長崎などに開港して蝦夷地の金銀を発掘し交易を開くことを提案する絶世論家もおります。是非ともこれを一読いただきたい」

  意次は、家斉に工藤平助著の「赤蝦夷風説孝」を差し出した。

 

「相分かった。老中らに、蝦夷地開発を再開するべきか否かを評議させる」

  家斉は、神妙な面持ちで書物を受け取ると告げた。

 

幕政を重臣に委ねるのではなく、向後は、将軍親政をお考えになるべきかと存じます」

  意次は、幕政の一線から退いてはいたが今も尚行く末を案じていた。

 

「先代はどうあれ、わしは委ねたつもりはない」

  家斉が咳払いして言った。

 

「ところで、御休息之間の床の間にかかっていた掛け軸ですが、外された方がよろしいかと存じます」

  意次は、なぜか、床の間に飾られていた掛け軸の話を持ち出した。

 

「何故じゃ? 」

  家斉が訊ねた。

 

「他の掛け軸になされた方が賢明かと存じます」

  意次が意味深な台詞を残した。

 

 天明7年の春。意次の罷免撤回嘆願書が幕府に提出された直後、治済は、大崎宛てに、次期老中首座に松平定信を推挙する旨の書状を送った。定信がいかに、老中首座に相応しい人物なのかを褒め称える内容であった。大崎から書状を見せられた家斉は、御三家から申し出があったこともあり、どちらにつくべきか迷っていた。幕閣内では、老中の水野忠友が中心となり、家重の時代に将軍の縁者を幕政に関与させてはならないという御上意があったと主張し、定信の老中首座就任を反対していたが、治済は、将軍の縁者とは、母方の親類の外戚をさし、定信は、それにあたらないと主張した。そこで、家斉は、田沼意次の罷免撤回を望んでいると思われる上臈御年寄の高丘と御年寄の滝川を呼び出して、詳しい話を聞くことにした。大奥では、徳川治済の味方となった他の御年寄たちの目があるため、場所は、普段は外に出ることの叶わない奥女中も表向き代参と称して、外出することができる増上寺を選んだ。大崎と共に増上寺に参拝した2人は、寺僧に2人に会いたいという要人が待っていると聞いて緊張した面持ちで母屋へ向かった。2人が案内されたのは、増上寺にある将軍の間であった。この時、初めて、2人は、自分たちを待つ貴人が、将軍様であることを知ったのであった。

 

「その方らを召し出したのは言うまでもない。田沼意次の進退について、意見を聞くためである」

  家斉は、いつになく厳しい表情で家斉の前に両手をついて平伏す2人に告げた。

 

「身共は、主殿頭の罷免撤回を切に願っております。何卒、お聞き入れ下され」

  はじめに、高丘が緊張した面持ちで告げた。

 

「そのためには、御三家や御三卿を納得させる大義名分がなくてはならぬ」

  家斉は、父の偉大さに改めて圧倒されていた。

 

「おそれながら奉ります。御三家が、主殿頭の後任に推挙すると思われる越中様の出白は、御三卿の一家にあたる田安徳川家である上、妹御は、先代の養女にあたる種姫様にございます。家重公の御代、将軍の親類を重職につけることを禁じると内規で定められているとして、親藩にあたる越中殿を幕閣の重職にあたる老中首座につけるのは、はなはだ難しきことであると、身共は言上する所存でございます」

  続いて、滝川が恭しく述べた。

 

「わしも、それについては聞き及んでおる」

  家斉は考え込んだ。親藩は、法の定めにより幕閣の重職にはつけない。立派な反対理由になるかも知れない。

 

「将軍就任を控えておられる大事な時期に、斯様な事態になり申し訳ございませぬ。なれど、越中殿が老中主座に就くこと相成れば、奥向に対する風当たりが、今にも増して強くなるのではないかと、皆が、不安に思っていることを御尊名賜りたく存じます」

  高丘がきっぱりと告げた。

 

「わしとて、何も考えていないわけではない。ただ、国の本幹を揺るがす大義故に、慎重に取り計らわねばならぬ」

  家斉は顔を曇らせた。正直、何も思い浮かばなかった。将軍となることが出来たのも父の力こそあれなのだ。偉大な父に敵うはずがない。

 

「上様。おそれながら、お願いしたい儀がございます」

  大崎は、その場に平伏すと話を切り出した。

 

「遠慮はいらぬ。何なりと申すが良い」

  家斉は、大崎の顔をのぞき込んだ。

 

「私に、将軍付老女として幕府の意向を御三家へ伝える役儀を果たさせて頂きとうございます」

  大崎が顔を上げると告げた。

 

「相分かった。そなたに任せよう。明日にでも、尾張藩邸に赴きこれを渡すのじゃ」

  家斉は、書状を大崎に手渡した。

 

「かしこまりました」

  大崎は、書状を頭上に掲げた状態で深々と頭を下げた。

 

 家斉は、2度にわたり大崎を尾張藩邸に遣わせ拒否の回答をしたが、治済が、先手を打ち尾張藩主の徳川宗睦や水戸藩主の徳川治保と密議を凝らして説得にあたっていた。しかし、治済は、定信が意中の人物だと発言することを控えた。治済は、御三家の方から、定信が意中の人物だと言い出すように仕向けたのであった。意次の失脚はもはや避けては通れない状況に遭った。大崎が尾張藩邸から戻ったと知った家斉は、早速、大崎を御座之間へ召し出した。

 

「して、向こうの出方はどうじゃった? 」

  家斉が身を乗り出すと訊ねた。

 

「こたびで2度目ということもあって、先方も慣れたものでございます。世間話をした後、体よくあしらわれましたが、こちらとしても引き下がるわけにはまいりませぬ。どうにか、ねばって、家用人に書簡を届けることができました」

  大崎が穏やかに答えた。

 

「将軍の書状を無下にはできるわけなかろう」

  家斉が大きくうなずいた。

 

「そういえば、偶然、あるお方にお会いしました」

  大崎が上目遣いで告げた。

 

「ほお。どなたと会ったのじゃ? 」

  家斉が訊ねた。

 

「松尾流の家元でございます。家元に、それとなく、元水戸徳川家家臣の熊蔵についてうかがったのですが、そのような者は預かっておらぬそうです。いったい、どういうことなのでしょうか? あの者は、まことに、松尾流の御茶師なのでございましょうか? 」

  大崎が、顔を近づけると小声で言った。

 

「水戸徳川家が、素性に疑わしき者を召し抱えるはずがなかろう。偽言だとしたら、鶴千代もぐるになって、わしを騙していたことになるではないか? 」

  家斉がムキになって反論した。

 

「もうひとつ、お伝えせねばならぬことがございます。私が、尾張藩邸を訪ねる前日、薩摩守が奥向へ訪ねて来られて、上様は、主殿頭を罷免するおつもりなのかとお訊ねになりました。何故、斯様なことをお訊ねになるのかとお聞きしましたところ、中野定之助が、居屋敷にて催した茶席にて、招いた者らの前で、上様は、近じか、主殿頭を罷免し田沼派の幕臣らを一掃なさる所存だと申したそうなのでございます。それを聞いた直後は信じがたかったのでございますが、とくと考えますれば、私が、上様より尾張藩邸へ赴くことを申し伝えられたあの日、あの者から、民部卿のご様子を訊ねられました。あの者は、上様に何か申しておりませんでしたか? また、勝手な真似をしているのではないかと不安で仕方がございませぬ」

  大崎は心配そうに言った。

 

「余計なまねをしおって。これではすべてが台無しではないか」

  家斉は肩を怒らせた。

 

「少なくとも、薩摩守は、主殿頭が、老中を罷免になることを望んではおらぬようです。薩摩守が、お味方になってくだされば心強い」

  大崎が声をはずませた。

 

意次の取り計らいにより、岳父は、御三家に準ずる待遇を受け、江戸城の殿席も、大廊下の間に移されたと聞く。岳父は、そのことで意次に恩を感じておるのかもしれぬ」

  家斉は腕を組んで思案した。

 

「何故、民部卿は、主殿頭を罷免なさりたいのでございましょうか? 以前はそうではなかったはずです。おふたりの間には、いったい、何があったのでしょうか? 」

  大崎が不安そうに言った。家斉も大崎と同じ思いだった。

 

 天明7年、4月15日。家斉は、征夷大将軍に就任した。正式に将軍に就任したことにより役儀が増えて、家斉は多忙を極めた。一方、幕閣の人事論争は、意次が、老中依願御役御免し鴈之間詰となったことにより、一時休戦を迎えた。

 

ある日の昼下がり、家斉は、政務の合間をぬって御忍で外出した。浅草寺に参拝後、伝法院で休んでいると、お伴して来た小納戸の定之助がすり寄って来た。

 

「公方様。民部卿は、田沼派が牛耳っている幕閣においては、役人の登用は、器量ではなく、幕閣や大奥の重役の間ではびこる賂により左右されていると危惧しておられます。吉宗公が行った享保の改革にならい、民の信頼を得る政を行うためには、堅実で政に明るい者を老中とし、優れた人材を登用するべきだとお考えにてござる。大崎局を公方様の名代として、尾張藩へ出向かせて説得を試みたところで民部卿との間に確執が残るだけでござる」

  定之助が意気揚々と進言した。

 

「父上は、越中がまだ賢丸と呼ばれていた時代、余を家基君の有力な後継者とするため、意次を田安家に遣わせ上意と欺き、田安家に、賢丸と白河藩主との養子縁組を迫ったのじゃ。田沼一族は代々、一橋家の家老を務めるいわば一橋の舎人家じゃ。父上は、御三家と御三卿を丸め込んで、意次を幕閣から追い出し政敵であったはずの越中を意次の後任に据えようとお考えなのじゃろ」

  家斉は、治済に脅威を感じていた。

 

「大崎局は、一橋家の御中臈時代、主の民部卿を慕っていたと聞き覚えがござる。好いている主に頼まれたら嫌とは言えぬでござろう」

  定之助がカステラを出すと言った。

 

「大崎が父上を慕っていただと? そんなはずはない」

  家斉は、強い口調で否定した後、カステラをひとくちで食べた。

 

「大崎局は、その昔、おさきという名で奥勤めをなさっていたことがあり、大崎と名を変えて、将軍付老女として再び大奥に現れた時には誰もが驚いたそうでございます。おそらく、そのころ、大奥を訪れた一橋民部卿に見初められて、一橋家の御中臈としてもらい下げられたのではないでしょうか? そうなると、大崎局は、於富様より先に一橋様に見初められたことになりますが、何故、側室になさらなかったのでしょうか? 」

 定之助が身を乗り出して言った。


 数日後の昼下がり。大崎は、御休息之間に姿を現した。治済から得た情報によれば、横田準松は、政務上の重要な報告を家斉に知られぬようひた隠しにしているという。

 

「公方様。お伝えせねばならぬ儀がございます」

  大崎が、御休息之間上段に居る家斉に近づくとその耳元でささやいた。

 

「今はちと忙しい。次にしてくれるか? 」

  家斉が背を向けたまま言った。

 

「それでは間に合いませぬ」

  大崎は、家斉の傍らに坐ると言い迫った。

 

「相分かった。話すが良い」

  家斉は、筆を置くと大崎の方へ向き直った。

 

「折からの米価の高騰により市中では米屋が襲われる騒動が頻発しています。御側御用取次の横田準松はそれを知っていながら、公方様への報告を怠っております」

  大崎が冷静に告げた。

 

「それはまことか? 」

  家斉が身を乗り出して訊ねた。

 

「民部卿よりこれをお預かりして参りました」

  大崎が、治済から預かった書状を差し出した。それは、治済が、独自に調査した結果を書き起こしたものであった。天明7年の5月。全国各地で打ちこわしが発生し、江戸においても、奉行所も収拾がつかぬ稀に見ぬ激しい打ちこわしが発生した。打ちこわしを目撃した者の話では、打ちこわしに参加した者たちは、世の中を救うためであるという大義名分を掲げて、日ごろ、米を買い占め売り惜しんだ商人たちよ、民の苦しみを思い知るが良いなどと大声を上げていたという。蔵や米問屋が建ち並ぶ浅草蔵前や小網町の辻などの各所に、『天下の大老、御奉行から諸役人に至るまで、米問屋と結託して賂を受け取り、関八州の民を苦しめている。その罪の故、わしらは、打ちこわしを行うに至った。もし、我々、朋輩のうち1人でも捕縛して吟味にかけることすれば、大老をはじめ、お奉行、諸役人に至るまで生かしておけない。我々は、幾らでも大勢で押し寄せるし、そのこと厭いはしない、かくなる上は、人々の生活が成り立っていけるような幕政を叶えること』といった内容が書かれた木綿布の旗が立てられたという。しかし、打ちこわしが発生し、市中が大混乱に陥る中、江戸城内の御用部屋では、町奉行、寺社奉行、勘定奉行が密会し対策を話し合った際、他の2人が町奉行に対し、何故、町奉行自らが指揮を執り、騒動の鎮圧のため現場に出向かないのかと批判した。それに対して、町奉行の曲淵景漸が、「この程度のことで、いちいち、拙者が出向かずとも良いではないか」と反論したという。勘定奉行の久世広民が、「いつもはボヤだけでも出向くのに、こたびのような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはいかなるものか」と厳しく批判した。こたびの打ちこわしで襲撃された商家の件数は5百軒余り。その内、4百軒以上が米屋、搗米屋、酒屋などの食料品関連の商家である。よって、こたびの打ちこわしは、米を中心とした食糧不足に抗議のために起こした食糧暴動であると思われる。

 

「大崎局。余は、そなたのおかげでようやく目が覚めたぞ」

  家斉が、はっとしたように告げた。

 

「民部卿は、腐敗した幕政を立て直すことができるのは公方様しかおられぬ。公方様ならば、正しき御決断をなさると信じていると申しておられました」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 翌日の朝。家斉は、出勤して来た御側御用取次達を御座之間に呼び出した。出勤早々、定之助から、中奥の御座之間で待つようにとの御上意を伝えられた御側御用取次達は何事かと囁き合いながら土圭之間にて、家斉のお出ましを待った。家斉は、約束の時刻よりもわざとおくれて御側衆の前に姿を現した。

 

「それへ」

 御座之間の前に着座平伏した御側御用取次たちに対し、家斉は声をかけた。横田準松が、御座之間に入り、家斉の御前に着座平伏した後、他の者たちも御座之間に入り横田の後ろに横に並んで着座平伏した。

 

「公方様の御尊顔を拝し恐縮至極にございます」

  横田が代表してあいさつした。

 

「苦しゅうない。面を上げぃ」

  家斉が仏頂面で告げた。

 

「いたみいります」

  横田がおずおずと顔を上げた。

 

「昨年は風冷害により、全国各地で凶作となり米の収穫高が激変したという。米価の高騰により困窮する民はおらぬか心配じゃ。幕府は去る天明6年、天明4年に施行された米穀売買勝手令を再発布し米の流通を活性化させることにより、米価の引き下げを図ったというが、その後の報告が届いておらぬというのはどういうわけじゃ? 」

  家斉が厳しい口調で問いただした。

 

「家治公崩御という凶事に老中首座の罷免が重なり、政局に混乱が生じました故、報告がおくれた次第」

  横田が冷静に答えた。

 

「幕閣で何が起きていようと、民には一切関わりのないことではないのか? 斯様な言い訳は通用せぬ」

  家斉が冷ややかに告げた。

 

「江戸や大阪へ向けて流通は活性化したものの、自由化を図ったことが災いして、脇々米屋素人という定められた業者以外の商人が投機目的で米を買い占めたため、流通量は思いの他増えず米価沸騰はおさまりませんでした。結句、成果を上げることなく米穀売買勝手令は、昨年末に廃すことになった次第」

  横田が神妙な面持ちで告げた。

 

「勿論、町政を預かる町奉行は、ただちに、対策を練り対処したのであろうな? 」

  家斉は横田を見据えると訊ねた。

 

「連日のように、米価が高騰したことにたまりかねた町民が、御番所前へ多勢で押しかけてお救い願いを出すようになり、町奉行以下諸役人共は、その対応に追われておるようでござる」

  横田のすぐ後ろにいた小笠信喜が冷静に告げた。

 

「連日、御番所前へ押しかけてお救い願いを出す者が絶えないというのは見過ごせぬ」

  家斉が腕を組むと言った。

 

「何とか食いつなぐようにとの趣旨と思われる通達を行ったようでござる」

  横田がすかさず告げた。

 

「困窮する民を多く抱えた各町では、町名主や町年寄の自粛要請がなされお救い願いに至らなかったということもございますし、お救い願いがあまりにも殺到したため収拾がつかなくなり、南北の年番名主からのお救い願いを却下したと聞いております」

  小笠原が、町奉行所の対応を批判した。

 

「若狭守。その話をどこの誰から聞き知ったのじゃ? 町奉行から通達の後は、平穏無事だという報告があったではないか? 」

  横田がふり返ると反論した。

 

「町奉行からの報告に納得が行かず独断で調べた次第」

  小笠原が毅然とした態度で答えた。

 

「米がなければ他の物を食えば良い。高値でも、無理に買おうとする故、問屋や仲買が儲けようと出し惜しみをして値が上がるのじゃ。精を出して働けばその内景気も良くなる」

  横田は強気な態度を示した。

 

「両国橋や馬喰所に置かれたお救小屋を視察しましたが、列に並んだすべての者に、おむすびが行き渡ったのか定かではござらぬ。このままでは、餓死者が出るかもしれません」

  小笠原は、横田の隣に進み出ると訴えた。

 

「ますます、見過せぬ」

  家斉が横田をチラリと見やった。

 

「公方様。町奉行以下諸役人らは、休日返上で連日対応に追われております。いましばらく、お待ち下され。かならずや騒ぎを鎮めることでしょう」

  横田が神妙な面持ちで告げた。

 

「そちは、御用取次を何と心得る? 」

  家斉は、横田をにらみつけると訊ねた。

 

「御上意を老中に上奏を公方様にお伝えする役儀を持つ者でござる」

  横田が答えた。

 

「して、そちの元には報告が来ているはずだが、余には何も伝わっておらぬ。そちは、役儀を怠ったことになるのではないか? 」

  家斉は、疑うような眼つきで訊ねた。

 

「さようなことは断じてござらん」

  横田が身の潔白を主張した。

 

「もう良い」

  家斉は、もう、話しても無駄だと匙を投げた。先代の時と同様にして、側近たちは、将軍の手をわずらわせることなく、自分たちの力で解決しようと考えているのだ。その忖度が家斉をイラつかせた。家斉は、何よりも自分がないがしろにされることを嫌った。自分の知らないところで、重要なことが決定している状況に不満を抱かずにはいられなかった。

 横田の頑なな態度を目の当たりにして、自分の目や耳でたしかめなくては気が済まなくなっていた。このころ、町奉行所は、問屋や仲買に対して米の代わりとなる大豆の値を下げるように命じ民に対しては大豆を主食にすることを勧めた。また、一部の仲買商から米を購入できるようにすると通達した。しかし、米価は、高騰した時価のままとしたことから米価高騰に苦しむ民の支援にはならず、奉行所への批判は高まるばかりであった。町奉行所は、売り惜しむ商家に立ち入り検査を行い厳しく取り締るが効果は、一向に見られなかった。生活苦により家賃を払えなくなり食糧の入手が困難になった多数の貧民が、江戸市中にあふれ望みの綱を断たれ生きる希望を失った人たちが、橋から身投げする事件が相次いで起きていた。餓死や自殺の一歩手前まで追い詰められた人々が、世直しのため打ちこわしに立ち上がったのであった。

 

「巡検に参るぞ」

  家斉は、居てもたってもいられず定之助を随え御忍で市中の巡検に出掛けることにした。変装は慣れたもので誰にも気づかれぬことなく市中を歩き回った後、思い立って、町奉行所へ向かった。門前に来た時、家斉が身分を明かすと門番はあわてて将軍の御成りを町奉行に報せた。

 

「御成の際は、前もって報せて頂かないと困ります。何か不手際がございましたか? 」

  月番の北町奉行の曲淵景漸が、忙しなそうに家斉と対面した。

 

「さぞかし、その方らも、こたびの騒動の収拾に難儀しておるのではないかと思い、労いに参った次第じゃ」

  家斉が言った。

 

「いたみいります」

  曲淵が深々と頭を下げた。

 

「ここに来るまで市中を見て回ったが、幕閣へ上がった報告とは、だいぶ、異なっていた。通りすがりの町人から巷で広まる噂を聞いたのだが、そちは、救いを求めて押しかけた町民に対し、町人は米を食うものではない。米がないならば何でも食えと一喝した挙句、犬や猫を食えと追い返したというではないか? まことの話ならば聞き捨てならぬ」

  家斉が単刀直入に言った。

 

「公方様。それは誤解でござる。幕閣の沙汰に従い、米の代用品として大豆を主食とするよう通達を出したのですが、大豆を主食とすれば疫病や脚気になるなどの風説が、市中に広まりまして町民が御番所に大勢押しかけ、一時、町政が滞る騒ぎになったため、やむをえず追い返したのでござる。通達に従わずわがままを通そうとする町民を諫め言う事を聞かせることこそ役人の務めでござる。何も食物は米だけではございますまい。米がなくとも、他の食物で食いつなげばよろしい」

  曲淵が必死に言い訳した。

 

「その心無い言葉が、民心を傷つけ打ちこわしを引き起こしたのではないか? 」

  家斉が言った。

 

「それがしは、幕府から申し伝えられたことをそのまま民に伝えたに過ぎません」

  曲淵は、言い逃れようと必死になっていた。

 

「斯様な空言は聞く耳持たぬ」

  家斉は、一瞬、ムカッと来たがすぐ我に返ると冷静に振舞った。たしかに曲淵景漸の台詞に聞き覚えがある。御側御用取次の横田準松が、苦し紛れに言い放った台詞と全く同じであった。

 

「おそれながら、町民に限らず物価の高騰により困窮しておるのは、身共、武家とて同じにござる」

  曲淵が言った。

 

「その方らの処分については追って報せる」

  家斉は、言い訳がましい曲淵の態度にあきれかえりながらも毅然とした態度を示した。この日、家斉は、城門が閉まる寸前まで町奉行所で諸役人たちと話し合った。中奥に戻ると、意次が、御座之間で待ち構えていた。意次は、老中を依願退職した後も鴈之間に出勤していた。

 

「鴈之間詰となってから、ちっとも、姿を見せないと思えば待ち伏せか」

  家斉は、意次を見るなりくさい顔をした。

 

「お疲れのところかたじけのうござる。折り入って、公方様にお話があり罷り出ましてござる」

  意次が緊張した面持ちで告げた。

 

「余は疲れておる。手短に申せ」

  家斉がぶっきらぼうに言った。

 

「公方様。病につき辞すことをお許し下され」

  意次が、緊張した面持ちで「病気御断」を提出した。

 

「そちが病だとは信じられぬ。いったい、何の病にかかったのじゃ? 」

  家斉は、いつまでも健在だとばかり思っていた意次が病になったと知り、あまりの衝撃に書状を受け取る手が震えた。

 

「忙しさにかまけて、不摂生な生活を送ったことによりそのツケがまわったものと思われます」

  意次が冷静に告げた。

 

「席だけ残して、快復したら復帰すれば良かろう。そちが辞したら、そちのために、今まで頑張って来た者らはどうなるのじゃ? 」

  家斉は、大奥の奥女中たちの悲しむ姿が目に浮かび感情的になった。

 

「心残りがあるとしたら、政務が忙しく家庭を顧みなかったことでござる。余生は、家族と過ごすことをお許し下され」

  意次が悲痛な表情で訴えた。

 

「御三家が、ますます、つけあがることは目に見えておるが、余儀なしことじゃ」

  家斉はやり切れなかった。

 

「それがしは、老中職を全うしたと自負しております。先日、先代の見舞いに登城した越中殿にお会いし久方ぶりに話をしたのですが、越中殿より白河藩主との養子縁組の件で、それがしを恨んでいたが、そのくやしさが良き藩主となり見返す力にもなったと言われ、救われた思いがしました。何と申しても、越中殿の政に対する姿勢が素晴らしい。それがしが果たせなかった大奥の改革を越中殿に託しました」

  意次が穏やかに告げた。

 

「和睦したとは、実にめでたい。越中も藩主として苦労したことで丸くなったのであろう。そちは、余の願いを受け入れ一度は留まってくれた。こたびは、そちの本懐を余が受け入れる番じゃ」

  家斉は、「病気御断」を受理した。

 意次の辞意表明は伏せられたが、幕閣は、以前から、御三家から要請されていた田沼派の重鎮横田準松の失脚に向けて動き出した。田沼派の御側御用取次として横田の右腕として活躍していた本郷泰行が解任されたことは、田沼派の幕臣たちにとって寝耳に水の出来事であった。当初、横田を標的としていた治済だが、思いの他、横田の権勢が強く思い通りに行かなかった。そこで、横田が信頼する本郷泰行を失脚させることにより、横田を動揺させ追い詰める作戦に切り替えた。横田は、治済の挑発に抵抗していたが、治済は、大崎を通じ家斉に英断を迫った。

 

「公方様。横田殿は、田沼派の重鎮でございます。主殿頭は長きにわたり、公方様の寵愛をお受けになり老中と側用人とを兼任しておられました。家重公と家治公は、主殿頭を信頼し政を委ねておられました。主殿頭は、まさに側用人政治を行ったと申しても過言ではありませぬ。田沼意次の栄華を傍でつぶさに見ていた横田殿のことですから、政局が混乱している今こそ、公方様を無体にして政を行おうと考えてもおかしくございませぬ。都合が悪くなった時は、ご上意と偽るおそれもございます」

  大崎が、横田準松を罷免するよう家斉に迫った。

 

「しかりその通りじゃ。余も、あの者と直に話し合いあの者の面の皮が、いかに厚いかを思い知った。民部卿は、いずれ、あの者が余をないがしろにすることを見越した上で、あの者を罷免するよう進言なされたのじゃ。そうに決まっとる」

  家斉は、改めて父の偉大さに感動した。

 

「幕閣の人事権を御三家に握らせてはなりませぬ。公方様が自ら、沙汰を下し、将軍家の威光をお示し下され」

  大崎は、家斉の手を取ると強く握った。

 田沼意致の病を知った治済は、家斉に書状を送り報告した。病により気が弱くなっていた意致は抵抗する力もなく免職に応じ、菊之間縁詰となった。田沼派一掃に集中する治済に対し、定信擁立を機に幕政の刷新を目論む御三家は、目的のためなら手段を選ばぬ治済のやり方に不快感を示すようになった。これでは、定信が、老中首座となっても、治済が将軍の父という立場を利用して幕政に干渉してくることは目に見えている。次第に、御三家は治済を警戒するようになり、両者の間には不穏な空気が流れはじめた。家斉は、本郷と意致の罷免撤回を求め登城しない横田を呼び出した。

 

「本来ならば、そちを真っ先に罷免すべき所をあえてそうしなかったのは、そちに、冷静にこたびの一件を考えて欲しかったからじゃ」

  家斉は横田を見据えた。

 

「公方様。何卒、お考え直し下され。それがしを罷免なされたら、後悔なさりますぞ」

  横田が険しい表情で告げた。

 

「たわけ者。貴様ごときを罷免させたところで後悔などせぬわ」

  家斉は、厳しい口調で言い返した。横田は、家斉の剣幕に驚いたらしく大人しくなった。

 

 翌日、家斉は、ついに横田準松を罷免した。本郷泰行、田沼意致に続き、横田が罷免されたことにより、御側御用取次は、治済に加担した反田沼派の小笠原信喜ただ1人となった。老中首座の松平康福と老中の牧野貞長は、田沼意次失脚後も定信の老中就任に抵抗していた。家斉は、気が晴れるどころがますますイラ立ちを募らせた。イライラすると、無性に甘い物を口にしたくなる。抑えていた欲求が積もり積もったイラ立ちにより爆発して、気がつくと、山のように積み上げられていたはずの饅頭がなくなり丸高坏が空になっていた。家斉は、口の周りと指にべったりとついた餡を見るなり自責の念にかられた。

 

「公方様。ちと食い過ぎではござらんか」

  木村が、物の数分で空になった丸高坏を下げると言った。

 

「正しい決断をしたはずなのに、何故迷うことがある? 」

  家斉は、畳の上でのたうちまわった。

 

「公方様。民部卿が、御目通りを願っておられます」

  忠英が障子越しに中へ告げた。

 

「病とでも言って帰って頂け」

  家斉は、今は誰とも会う気がしなかった。

 

「何が病じゃ。病人が、饅頭をたらふく食えるわけがなかろう」

  治済が、土圭之間にいた近習たちの制止をふり切ると家斉の元に乗り込んだ。

 

「民部卿。お控え下され。おそれ多くも公方様の御前でござる」

  木村が治済をとがめるも、治済は、木村を無視して家斉の前に勢い良く着座した。

 

「まことに心を病んでおる。お引き取り下され」

  家斉は上体を起こすと言った。

 

「公方様に、折り入ってお願いしたき儀があり罷り出ました」

  治済がその場に平伏した。

 

「父上の御所望通り田沼派は一掃しました。他に何を御所望でござるのか? 」

  家斉が冷ややかに告げた。

 

「将軍付老女の大崎局をもらい受けたい」

  治済が緊張した面持ちで願い出た。

 

「今、何と申したか? 」

  家斉は身を乗り出して訊ねた。

 

「大崎局を一橋家の御中臈として迎え入れたいと考えております」

  治済がきっぱりと答えた。

 

「悪い冗談を申しますな」

  家斉が言った。

 

「冗談ではござらん」

  治済が言った。

 

「この件について、於富様と茂姫は承知しておるのですか? 」

  家斉は眉をひそめた。

 

「ふたりには、公方様の許しを得てから話す所存にござる」

  治済は決り悪そうに答えた。

 

「大崎局が、将軍付老女だということをお忘れですか? 」

  家斉は、幼少時代から見守ってくれた大崎を手放すことは考えられなかった。

 

「承知の上でお願い致しております」

  治済が神妙な面持ちで告げた。

 

「人の一生を左右しかねない大事を余の一存で聞き入れることはできかねます。しばし、時を頂きたい」

  家斉は、冷静を装ったが内心は心がざわついた。急に、治済が若さに陰りのある孤独な男に見えてきた。

 

「松心尼」

  治済が帰った後、家斉は御坊主を呼んだ。少しして障子が開き、剃髪し男物の羽織と袴を着用した中年の女が姿を現した。

 

「今宵は奥泊まりを致す。奥向へ伝えよ」

  家斉は、落ち着かない様子で告げた。

 

「承知しました。今宵は、どなたを御所望なさいますか? 」

  松心尼がすました顔で訊ねた。

 

「於富様を」

  家斉が咳払いして言った。

 

「公方様、母御との同衾だけはなりませぬ」

  松心尼が驚きの声を上げた。

 

「たわけ者。母上と交わるとでも思ったか? 母上と夜通し話がしたい故、そう伝えよ」

  家斉が声を荒げた。

 

「承知しました」

  松心尼は、身を小さくすると静かに障子を閉めた。しばらくして、定之助がやって来た。

 

「いざ参らん」

  家斉は、定之助を随え御鈴廊下を渡ると御小座敷へ入った。御小座敷には、於富が待っていた。

 

「今宵は、母上とふたりだけで話がしたい。そちらは席を外してもらえるか? 」

  家斉が穏やかに命を下した。

 

「皆の者。下がるぞ」

  高丘が、周囲にいた者たちを率いて御小座敷を出て行った。

 

「折り入って、私にお話したいことは何でございますか? 」

  於富が訊ねた。

 

「父上が、大崎局をもらい下げたいと願い出ました」

  家斉が神妙な面持ちで答えた。

 

「それはまことの話でございますか? 」

  於富は、動揺を隠し切れずひざの上にお茶をこぼした。

 

「まことの話じゃ」

  家斉は、於富のひざをふきんでふく手伝いをしながら言った。

 

「殿が、大崎局を側室になさるとは思いもよらぬことです」

  於富が青い顔で告げた。

 

「まだ決まったわけではござらぬ。中奥と一橋家の近習衆の合意も得ておりませぬ」

  家斉が於富をなぐさめた。

 

「公方様も、さぞかし、驚かれたことと存じます」

  於富が言った。

 

「母上が拒まれるのであれば断ります」

  家斉は、於富の顔を見つめると言った。

 

「いえ、公方様の仰せの通りに致します」

  於富は、決心を固めたように告げた。於富は、床に入るとすぐ寝息をたてた。家斉は、於富の傍らに横になると目を閉じた。しかし、脳裏に浮かんでくるのは、治済と大崎が、仲睦まじく過ごす姿であった。今まで一度も、大崎を女として見たことがなかったが、大崎は、隣に眠る母より若くて美しい。治済が傍に置きたいと望む気持ちもわからなくもない。大崎は、家斉の乳母となったばかりに結婚も出産も経験しないまま死ぬまで大奥に居るはめになった。一橋家の御女中だったならば、結婚の機会があったかも知れない。家斉は、悩みに悩み抜いた末、朝一番に、大崎を呼び出して本心を聞き出すことにした。

 

 翌朝。家斉は、一睡も出来ず朝を迎えた。於富は、迎えに上がったお付の御中臈を随えて、御小座敷を後にした。於富と入れ替わりに、障子の向こうから大崎の声が聞こえた。家斉は自ら障子を開けた。家斉は大崎を中に引き入れると、御小座敷の前に控えていた御中臈に人払いを命じた。

 

「面を上げよ」

  家斉が静かに告げた。

 

「何故、私をお呼びになったのでございますか? 」

  大崎が顔を上げると訊ねた。

 

「民部卿が、そなたをもらい下げたいと申し出た。そなたも同意の上なのか? 」

  家斉が冷静に尋ねた。

 

「よもや、まことに、公方様へ願い出るとは思いもよりませんでした」

  大崎は決り悪そうに言った。

 

「於富様は、民部卿の正室故に意見をおうかがいした」

  家斉が咳払いして言った。

 

「於富様には、まことに申し訳ないことを致しました」

  大崎が頭を下げた

 

「於富様は余に従うと申された。不公平であってはならぬと考え、そなたを呼んだのじゃ。して、何か申したいことはあるか? 」

  家斉は、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「私も、公方様の仰せの通りに致す所存でございます」

  大崎は深々と頭を下げた。

 

「そなたにひとつ聞きたいことがある」

  家斉は、大崎の傍らに坐ると小声でささやいた。

 

「何なりとお聞き下され」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 

「父上のお手はついたのか? 」

  家斉は慎重に訊ねた。大崎は、一瞬肩をびくつかせた。

 

「やはりそうか。そなたは、まことに正直者じゃのう。一度きりなのだろうな? 」

  家斉は、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「お許し下され。あれは、若気の至りでございました。2度と致しませぬ」

  大崎は、畳に額を押しつけると必死に詫びた。

 

「そなたが悪いのではない。悪いのはそなたを我物にしようとした男の方じゃ。誰に聞かれても、何もないと白を切るのじゃ。そなたの名誉を守るためにもそれが良い。認めたら、そなたも民部卿もただではすまされぬ」

  家斉は、大崎の背中を優しくさすると言った。

 

「公方様。お気遣い頂き感謝致します」

  大崎は思わず涙ぐんだ。治済と関係を結んだことを悔やみ、自分を責めていた分、家斉の優しさが身に染みた。家斉に続いて大崎が御小座敷を出る直前、廊下を走り去る人影があった。大崎は、涙をふいて気持ちを入れ替えると何事もなかったように毅然とした態度で廊下を歩いて行った。

 


 治済に大崎をもらい下げ一橋家へ御中臈として引き取らせる件を断る書状を実家へ送りひと段落ついたと思った矢先、京都から新たな問題が舞い込んで来た。天明7年の6月7日。突然、京都やその近郊から大勢の人たちが御所周辺に集まり出し、天明の大飢饉により困窮する民衆の救済を訴えるべく御所の周りを廻り千度参りするという事件が起きた。翌8日。願い事や訴え事の書かれた紙で包まれた銭12文が、御所の南門や唐門に投げ込まれるという事件が起きた。当初は、数人だったが、日を追う毎に数が増え、3日目には、3万余になり、御所を中心とする京都の街は大勢の人たちで溢れ、一躍、お祭り騒ぎになったという。京都所司代は、朝廷に千度参りの差し止めを申し入れるが、朝廷は、信心から発せられたことだとして申し入れを突っぱねたという。後桜町上皇から、3万余の林檎が配られた他、上皇に賛同した公家から茶やおむすびなどの差し入れがあった。この事態を重くみた光格天皇は、京都所司代を通じ幕府に対し飢饉により困窮する民衆の救済を求めて来たのであった。天皇は、即位して以来、中世から途絶えた朝儀の再興や朝権の回復運動に熱心に取り組んでいることから、宝暦事件を引き起こした桃園天皇を彷彿させた。幕府は、天皇が、家斉の将軍就任と天明大飢饉をきっかけに徳政を求めて来るのではないかと懸念した。御千度参りがはじまった1週間後、武家伝奏の油小路隆前は、御所に参内した京都所司代の戸田忠寛と面会し、天皇の意向を受けた関白鷹司輔平の命令伝達と幕府への申し入れを書いた書付を手渡した。幕府は、京都の朝廷からの申し入れが江戸に届く前、五百石の御救い米支給を決定したが、朝廷からの申し入れを受けて更に五百石追加した。江戸では、朝廷が幕府に申し入れする直前の同年、5月22日、幕府は困窮者に対するお救いの実施を決定し、勝手係老中の水野忠友は、町奉行に対し支援を必要とする者の人数の確認を命じた。町奉行は、支援対象者を36万2千人と見積もり、1人につき、米1升の支援を要することを水の忠友へ報告した。町奉行からの報告を受けた水野忠友は、勘定奉行に対して2万両を限度として支援対象者1人当たり銀3匁2分を支給するよう命じ、その数日後には、実際にお救い金として町方に引き渡された。また、5月24日からは、米の最高騰時の約半額で米の割り当て販売を開始し、困窮した者たちは給付されたお救い金で米を購入することができるようになった。同じころ、民の間でも、町内で屋敷持ちの商人や江戸近郊の豪商などが資金を提供し困窮者に対する支援を行い、各町内では、寄合が開かれ、町奉行公認の施行が始められた。

 同年、11月には、施行に尽力した関係者や町に対して褒賞がなされ、総額547両あまりの褒賞金が支払われた。打ちこわし騒動の最中、蓮池院の身内にあたる関東郡代の伊奈忠尊が、勘定所吟味役上首格から小姓番頭格に昇格した。幕府は、代々関東郡代として実績を挙げていた伊奈氏が、米不足が続く江戸に大量の米を集める最適任者であると判断し、伊奈忠尊に江戸町方の救済を行うよう命じたと考えられる。伊奈は、敏速に江戸市中の名主を集めて伊奈氏による町方救済の支援を要請した上、町方救済のため交付された20万両で、関東地方に限らず甲斐、信濃から奥州に至るまで家来を派遣して米を買い集めて、短期間で大量の米を江戸に集めた。6月には、伊奈が買い付けた米が江戸の各町内へ分配され、江戸に活気が戻るきっかけとなった。

 その一方で、町奉行の曲淵景漸は、打ちこわし発生前の町方からの嘆願に真摯な対応を行わずに大騒動を引き起こすきっかけを作った件とと打ちこわし発生時の対応が悪かった件についておとがめを受けて、江戸城西丸御留守居役に左遷された。また南町、北町領両行所の与力の総責任者である年番与力に対しても、江戸追放、お家断絶の処分が下された。大奥では、蓮光院の縁者にあたる伊奈忠尊が、幕府の資金などを使い各地から買い集めた米を江戸市中に放出し事態を収拾させたという話題で持ち切りであった。

 

「天明の打ちこわしの騒動を収拾させたのは、伊奈様の人気と手腕の賜物だと、市中では評判になっているそうよ」

 

「私は、米の買付で御上に借金したけど返せなくて、伊奈家と幕府との間に確執が生じて、御家騒動に発展したと聞いたわ」

 

「もとより、無利子で幕府から借金をしていたというじゃない。危機感を募らせた伊奈氏譜代の家来が伊奈様に連判状を送って家督移譲を迫ったことが、伊奈様の怒りに触れて首謀者が処罰されたそうよ」

 

「蓮光院様の父御が、天領の百姓に栽培を推奨して作らせたのらぼう菜という西洋野菜が、飢餓から民を救ったという逸話も借金と御家騒動で台無しじゃない? 」

 

 上臈御年寄の高丘は、長局中に広まった噂を蓮光院の耳に届かないよう食い止めようと、配下の御中臈たちに監視させて噂する奥女中たちを厳重注意させていた。しかし、噂は、静まることなく桜田屋敷にまで広まった。家治の崩御により、心の病を患っていた蓮光院は、忘れ去られた自分のことが再び、大奥で脚光を浴びていると勘違いした。また、家斉の取り計らいにより、於富付の御中臈に昇進したお伊曰は、火之番だったころ、散々、いびられた先輩女中たちをアゴで使うことに快感を覚えていた。

 

(何故、蓮光院様が奥向におられるのかしら? )

 

 ある日の昼下がり。お伊曰は、於富の後を歩いていた時、中庭を挟んで向こう側の廊下を歩いている蓮光院の姿を見かけた。この時の蓮光院は、落飾後ずっと身に着けていた喪服姿ではなく十二単姿だったので驚いた。部屋の外に出ることを嫌い1日中、部屋に閉じ籠り読誦や写経をして過ごしていた蓮光院が、正装姿で再び目の前に姿を現したのだ。お伊曰は、蓮光院の異変を感じ取って胸騒ぎを覚えた。思わず、足を止めて後ろをふり返った時には、すでに、蓮光院の姿はどこにもなかった。幻を見たのかも知れない。お伊曰は、そう思い直して再び歩き出した。実は、蓮光院は、看病人の何気ないひとことで我に返り、大奥で過ごした日々が急に懐かしくなり、気がついたら、大奥向へ足が向いていた。かつて、住んでいた部屋はすでに別の者が使用していた。部屋をのぞいた時、誰もいなかったことからほんの出来心で中へ入った。その時、偶然、机の上に置いてあった文箱を見つけたのだ。好奇心が抑えきれず文箱を開けた。すると、中には書状の束がしまってあった。宛名を見ると、「将軍付老女大崎局様」と書いてあった。蓮光院の脳裏に、10数年前の出来事が甦った。安永2年、疫病が流行し、家治の姫君である万寿姫も、疫病にかかり13歳の若さで早逝した。家治の哀しみは深く、万寿姫の死は、江戸城に暗い陰を落とした。万寿姫付の御中臈だったおさきは、万寿姫の看病をしている間、自らも疫病にかかったとして、静養のため宿下がりを許された。同年、御三卿の一橋治済と正室の於富との間に嫡子となる豊千代が誕生した。大崎は、宿下がりしたまま、大奥に復帰することなく一橋家の御中臈となり、豊千代の乳母になったらしい。乳母には、生母の代わりに乳を与える役目もある。独身で出産未経験のおさきにはできない役目であることから違和感を覚えた。家基の死後、豊千代が、家斉君と名を改め家治の養子となり西丸に遷ったと同時に、将軍付老女として、おさきが再び、大奥に姿を現した。その時、御台所付御中臈のおさきと将軍付老女の大崎とが同一人物であることを、おさきとその昔親しくしていた御年寄筆頭の高丘でさえ、すぐには気づかなかったという。おさきは、背が高いことを気にして猫背で歩く癖があった。そのため、どこか自信がなさそうで地味な印象が強かったが、将軍付老女となって戻ったおさきは貫禄があった。おさきは、御部屋様として一時権勢を振るいながらも、世子の家基逝去により一気に権威を失った哀れな側室の波乱万丈な半生とは対照的で、成り上がりの半生を歩んでいた。おさきは、宿下がりをする前は、御台所付御中臈の1人にすぎなかったが、乳母を務めた豊千代が将軍世子となったため、将軍付老女として帰り咲いたからだ。於知保は、大崎を見かける度惨めな気分に陥った。大崎が、田沼意次を強く意識していることは薄々、勘づいていた。意次は、世継ぎの男子をもうけるが将軍の務めとして家治に側室を持つことを勧め、懇意にしていた御年寄筆頭の松島に局の御中臈の中から側室を出させた。その御中臈が於知保だった。御台所は、まだ、若く子供を望めないわけではなかった。意次からすれば、於知保は思い通りになる側室でしかなかった。於知保が男子を生めば、その子は世子となり松島と結んだ意次の地位は保証される。於知保は男子を産むが、家治公は、御台所の立場を守るため、於知保の産んだ男子を御台所の養子とした。御台所の威厳は保たれたが、生母の於知保の気持ちが収まらなかった。御台所が病死しなければ、於知保は、自らの手で殺めていたかも知れないと思う程、於知保は精神的に追い詰められた。御台所の死後、家基は、於知保が育てることになったが、松島が、何かと、家基の育て方に口を挟んで来た。最初は、松島は、於知保を側室にまで上げてくれた恩人ともあって、素直に従っていたが次第に疎ましくなった。於知保は、取り巻きの御中臈たちを使い、松島に嫌がらせをするようになった。しばらくして、松島は、病を口実に大奥を去った。家治が身罷り桜田屋敷に遷る時、別れのあいさつに訪れた大崎は、憔悴しきった於知保に形式的なあいさつをしただけで労わる言葉のひとつもかけることはなかった。何者かに襲われ負った傷は時と共に癒えたが、心の傷はいっこうに癒えなかった。

 於知保は何かに突き動かされるように喪服を脱ぎ棄て、長い間袖を通していなかった十二単を身に着けた。書状を発見した時、天がついに自分に味方したと直感した。差出人は、御三卿の一橋治済。日付は、田沼派の重鎮、御側御用取次の横田準松が罷免される1週間前になっていた。大崎は、田沼意次の罷免撤回を実現するため、高丘や滝川と行動を共にしていたはずだ。それは、於富の強い意向によるものだった。大崎は、尾張藩主の御屋敷にまで出向き大奥の意向を伝える姿勢を見せながら、裏では、同志を平気で裏切り、治済に寝返っていたのだ。この裏切りを知ったら、於富や高丘は、どうするだろう。於知保は千鳥之間に忍び込むと、高丘が使用している机の上にその書状を置いた。そして、何事もなかったかのように桜田屋敷へ引き返した。於知保が、桜田屋敷へ引き返した後、高丘は、机の上に見慣れぬ書状の束があるのを見つけた。宛名を確認すると、大崎宛ての書状だった。間違えて置かれたと思い大崎に返そうとしたが、中を見たい衝動にかられ、気がつくと、1番上の書状を広げていた。その内容を読んで唖然とした。大崎は、密かに治済と連絡を交わしていたのだ。高丘は、逸る気持ちを抑えながら書状を手に於富の元へ向かった。

 

「於富様にお会いしたい」

  高丘は、障子の前に控えていた御中臈のお伊曰に告げた。

 

「於富様。高丘様がお見えにございます」

  お伊曰が、障子越しに中へ向かって告げた。

 

「通すが良い」

  於富の声が聞こえたと同時に、高丘が、中へ飛び込むと於富の御前に着座した。

 

「ちょうど良いところに参った。近じか、新たな老中が就任する運びとなった。祝儀を用意せねばならぬ故、そなたに相談せねばと考えていたところじゃ」

  於富が穏やかに告げた。

 

「その件でしたら、すでに、於富様の署名付きにて祝儀を贈らせていただきました。それよりも、於富様。折り入って、お伝えせねばならぬ儀があり馳せ参じました。これをご覧下され」

  高丘が、於富に書状を差し出した。

 

「何じゃ? 」

  於富は、疑うことなく書状に目を通した。

 

「大崎局は、いつから民部卿と文のやり取りをしていたのでございましょうか? その書状の日付は、田沼派の重鎮、御用御取次の横田準松殿が、罷免される3日前になっております。偶然でしょうか? 」

  高丘が神妙な面持ちで告げた。

 

「何たることか」

  於富は、驚きのあまり書状をひざの上に落とした。

 

「中立を守って来られた公方様が、横田殿を罷免したと知り何かあるとは思っていましたが、裏で斯様なやり取りがあったとは、大崎局には失望させられました」

  高丘が、書状を拾い上げるととどめをさした。

 

「そなたは、この書状をどこで手に入れたのじゃ? よもや、盗んだのではあるまい? 」

  於富が身を乗り出すと訊ねた。

 

「机の上に置いてありました。誤って置かれたのかと思い、大崎に返そうかと考えたのですが、念のため、中をたしかめました。あの大崎が、いともたやすく寝返るなど信じられませぬ。民部卿は、いかなる手を使い大崎を味方に引き込んだのでございましょうか? 」

  高丘は、於富が顔を曇らせたのを見てまずいことを言ったと気づいた。

 

「公方様が、横田殿の罷免を決断なされたのには大崎局の進言が大きい。大崎局に対する公方様の信頼は、並大抵のものではないからのう。何せ、物心つく前から傍におるのじゃ。なれど、これがまかり通れば、向後、大崎局の権威はいっそう、高まるに違いない。さすれば、我らの地位が揺らぐことになる。何か、大崎を牽制する良い手立てはないものかのう」

  於富は考え込んだ。

 

「敵に塩を送るというのはいかがでございましょう? 」

  高丘が上目遣いで提案した。

 

「越中殿に取り入るというのはちと気が引けるのう」

  於富は尻込みした。

 

「大奥の御年寄が、表の儀に対し口を挟んでいることを越中殿の耳に入るよう噂を広めるのです。大崎局は、気位が高いところがあります。無礼な態度を取られたら黙っていることはできないはず。2人の間は、険悪になること間違いなしでございます」

  高丘がほくそ笑んだ。

 

「それは良い考えじゃ。ただちに、手の者へ風聞を広めるよう申し伝えよ」

  於富も高丘の考えに乗った。障子に耳をつけて2人の会話を盗み聞きしていたお伊曰は、思わず、声を上げそうになった。そして、於知保を大崎の部屋の近くで見かけたことをなぜか思い出した。高丘が、大崎の書状を持って現れたということは、於知保が大崎の部屋から書状を盗んで、高丘が、それを見つけるよう仕向けたということになる。於知保は、転んでもただでは起き上がらない。桜田屋敷でも暇つぶしができたと喜んでいるに違いない。大崎が、大奥の敵ともする徳川治済と密議を凝らし、田沼派の重鎮、御側御取次の横田準松の罷免を家斉に助言する策略をめぐらしたという噂は、たちまち大奥の奥女中たちの間に広まった。その噂は、広敷役人の知るところとなり、高丘の目論見通り、松平定信の耳にも入った。

 

「大奥の御年寄の分際で、幕閣の人事に口を挟むとは言語道断。これを見逃せば、大奥の改革に支障をきたすことになる」

  定信は、大崎の振る舞いに警戒を強めた。

 

  天明7年の6月19日。定信は、天明の大飢饉での功績が認められ、御三家の支持を受けて老中首座に就任した。定信の肩には、幕府に対する民衆の信頼回復と幕府の財政の立て直しがかかっていた。意次ができなかった大奥の経費削減を成功させることで名声を上げられないかと考えた定信は、切り札を使うことにした。定信は、方々から届いた御祝儀を拒み贈収賄の払拭を試みた。そのため、就任の際に掛かった費用が赤字となった。大奥では、於富を中心に今後の対策が話し合われた。大崎は、治済との関係が、すでに知られているとは夢にも思わず、何食わぬ顔で話し合いの場に出席して、他の御年寄と意見を交わした。

 定信は、翌8年には将軍補佐となり奥向兼帯となった。定信は、ついに、大奥へ足を踏み入れた。大奥女中たちは、戦々恐々としていた。定信は、御坊主の案内で御殿向と長局をくまなく見学した。その昔、田安邸が火事に遭い、大奥に、一時避難をしたことがあった。その時、受けた格別のおもてなしは今も忘れていない。大奥の御年寄をはじめとする奥女中たちは優しく親切だった。その反面、豪華絢爛な衣装や無駄とも思える独自の慣習に戸惑った。定信は、於富にはじまり大奥御年寄たちまであいさつを済ませると、将軍付老女の大崎の元へ勇み足で向かった。大崎へのあいさつを最後にしたのは、印籠を渡すためでもあった。

 

「これからは、御同役故、奥の儀は申し合わせてお勤めいたしましょう」

  一通り、形式的なあいさつを済ませた後、大崎は、満面の笑みを浮かべて告げた。定信は、大崎に、再会した時、一瞬、別人かと思った。遠慮気に近づき、上目遣いで顔色を窺いながら、ためらいがちに話をしたおさきはいなかった。

 

「大奥の年寄の分際で、老中と同役とは何たることか。頭が高かろう」

  定信は、厳しい表情で一喝した。大崎は、思いもしなかった展開に目を丸くした。

 

「慣例を申したに過ぎませぬ。お気に召さずご立腹とあれば罰して下され」

  大崎は、怒りを抑えながらも低姿勢に出た。

 

「大崎局。そなたに申し渡す儀がござる」

  定信は慎重に話を切り出した。

 

「何でございましょうか? 」

  大崎が上目遣いで訊ねた。

 

「そなたが、大奥年寄の分際で幕閣の人事に口を挟んだというのは、まことでござるか? 」

  定信は、大崎を見据えると訊ねた。

 

「私は将軍付老女でございます。公方様から意見を求められれば、お答えしなければなりませぬ。それを幕閣の人事に口を挟んだなど申されますのは心外です」

  大崎は、他の大奥御年寄と一緒にされては困ると権威を主張した。

 

「何を勘違いしているかしらぬが、公方様が大奥の女中へ申し伝えるのは、単なるお話に過ぎぬ。このようなことがまかり通れば他の者に示しがつかぬ。向後、表向の儀に付き、大奥年寄であれ、御台様や側室。はては御側衆であっても、口を挟まぬよう厳重に取り締まることと致す故、心しておくように」

  定信がきっぱりと告げた。

 

「貴殿は、何をもって、ひどい仕打ちをなさるのじゃ? 」

  大崎が定信を非難した。

 

「公方様に心得をお渡しする。その上で、奥女中らには、改めて申し伝える。そなたに先に申し伝えたのは、そなたの行いが、心得に反していたからじゃ。そなたには、相当の処罰を受けてもらうことになる。追って報せる故、しばし、待たれよ」

  定信は、要件だけ告げると足早に立ち去った。大崎は、何が起こったのか理解できなかった。いったい、何をとがめられているのかわからなかった。大奥の御年寄が、幕閣の人事に口を挟むことは今にはじまったことではない。幕政の人事に口出しができるのは、大奥御年寄の特権とも言える。大奥は、政治に参画することができるから正面切っては取り下げられる案件は、大奥の権力が頼りとされる。もし、定信が、長年、誇った大奥の権力を封じ込めてしまったら、大奥を今まで支えてきた多額の賄賂が入らなくなる。大奥の上級女中たちは、年間2千万を超える高給取りだが、地位や権力を保つためには、それなりにお金がかかる。給料だけでは足りないという者も少なくない。足りない分を賄賂で補てんしているのだ。それを断たれたら、大奥の上級女中たちはどう感じるだろう。見せしめにするつもりだろうが、効果は長く続かないだろう。於富が、大崎を処罰することに同意するはずがない。長年、仕えた者を見捨てる薄情な人ではないことはわかっている。大崎は、於富を信じることにした。一方、家斉は、定信から、あいさつもそこそこ心得を突き出されて面食らった。その上、心得に違反した大崎を罰すると言い出したのだ。

 

「就任早々、将軍付老女を罰するとは何たることか」

  家斉は不機嫌を露にした。 

 

「横田準松の罷免は致し方ないことで、いずれは、公方様もそうなさったことと存じますが、大崎局が公方様に横田を罷免するよう言上したとの噂が広まった以上、見過すことはできかねます。それに、大崎局への処罰は格好の見せしめとなり大奥を牽制することとになりましょう」

  定信は堂々と意見を述べた。

 

「なれど、大崎局を処罰するとなれば、於富様や高丘局の2人が黙ってはおるまい。大崎は於富様に長年仕えてきた。高丘局も大崎に信頼を置いている」

  家斉が反論した。

 

「おふたりからはすでに同意を得ております」

  定信が自信を持って答えた。

 

「それはまことでござるか? 」

  家斉は耳を疑った。もしかしたら、於富の耳に、大崎が、治済とただならぬ仲となった話が入ったのではないか。夫と不義密通したとなれば情けをかけようがない。

 

「不義密通の疑いもある故、厳罰に処す所存でござる」

  定信が冷ややかに告げた。

 

「何じゃと? 黙っていれば言いたい放題言いよって。民部卿と大崎局が、不義密通を犯すはずがなかろう」

  家斉は、松平定信に詰め寄った。

 

「公方様」

  部屋の隅に控えていた定之助があわてて止めに入った。

 

「定之助。刀を持って来い」

  家斉が、血走った眼で定之助に命じた。

 

「刀を持ち出すとは、正気の沙汰でござらん。乱心と思われても余儀なし」

  定信が神妙な面持ちで身構えた。

 

「ただちに、今の言葉を撤回せよ。さもなければ、貴様をこの場で成敗してくれるわぃ」

  家斉は、定之助から刀を受け取ると構えた。

 

「罷免を覚悟で奉ります。大崎局は、民部卿と結び公方様に横田準松を罷免するよう進言したことは明らかでござる。大崎局は、民部卿から召し出しがあった日、民部卿に強姦されたという証言もござる。大崎局は、事実が公になることをおそれるあまり、民部卿の沙汰に従ったと思われます」

  定信は、持参した調査書を突き出した。家斉は、逸る気持ちを抑えながら調査書に目を通した。大崎が一橋家に出向いた日、2人は密議を凝らした。その時、徳川治済は、大崎を強姦したという証言がたしかに記されている。さらに、主従の関係を超えて深い仲になった2人は、文を交わして、田沼派の一掃を策略したと調査書に書かれていた。

 

「己を白河へ追いやった張本人を陥れて満足か? 」

  家斉は、調査書を畳の上にたたきつけると嫌みたっぷりに言った。

 

「我が、白河藩主と養子縁組したころは、まだ、家基君は息災であった。民部卿が、主殿頭と共に、我を白河へ追いやったというのは事実無根にござる」

  定信がきっぱりと否定した。

 

「父上と大崎局はどうなるのじゃ? 」

  家斉は声を荒げた。

 

「大崎局が同意の上で事に及んだならば、尚のこと罪は重くなります。その昔、側室が、御褥の折、公方様におねだりをしたことが問題となり、御坊主と御中臈が、監視することになった。残念ながら、城の外までは目が行き届きません。その隙をついて、2人は、密通した上、政敵を廃すことを示し合わせた。本来ならば、死罪あるいは座敷牢に値する大罪でありますが、民部卿は御三卿の当主であり将軍の父にあたる故に、重罪に処すことは難しい。大崎の方も、於富様の申し入れを考慮して、座敷牢よりも軽い刑を考えております」

  定信が冷静に告げた。

 

「貴様はただ、恨みを晴らしたいだけじゃろ? 」

  家斉は、定信の胸座をつかむとドスの利いた声で言った。

 

「何を申されますか? 幕閣の儀に私情を挟むなんぞ致しません。老中首座の座をかけてお誓い申す」

  定信はきっぱりと否定した。

 

「これで、そちは、大奥を敵にまわしたことになる。奥女中らをたやすくあやつれるとは思うなよ? 奥女中は、役人と同じようにはゆかぬ」

  家斉が低い声で言った。

 

「我は主殿頭とは違います。あのお方は、大奥の権力を後ろ盾に成り上がった。幕府の財政を逼迫させた大奥に倹約させなかったのは、大奥に見限られたら終わりだと知っていたからでござる」

  定信が冷ややかに告げた。

 

「政策が失敗した時は全ての責任を取ってもらう故、心してかかるが良い」

  家斉はくるりと背を向けた。

 

「勿論、失敗した時は、老中首座を降りる覚悟で取り組む所存でござる」

  定信は、堂々と胸を張って宣言した。

 

 それから数日後、治済は登城禁止と蟄居に処され、大崎は御次に降格となった。将軍付老女から一介の奥女中となった大崎についていた部屋子たちは、新たな職場へ異動となった。噂が広まっていたため、誰も、大崎の降格に驚く様子はなかったが、今後、大崎に、どのように接したらよいか新たな悩みが増えたことは間違いなかった。

 

「いつから遷って来るのかしら」

 

「同役とはいえ、元将軍付老女を何と、お呼びしたらよろしいのでしょうか? 」

 

 大崎の上役になる者や相部屋になる者たちは気が気でなかった。高丘は、開け放たれた座敷を眺めながら、於知保が、桜田屋敷へ遷る日の前夜のことを思い起こした。家基が身罷った後、自分は於知保を見限った。しかし、於知保は、恨み言を言うことはなかった。ただ、心なしか寂し気だった。御台所や側室の栄華は移り気でもろいが、大奥御年寄は違う。よっぽどのことが起こらぬ限り、1度、その座に就けばあとは安泰だ。大崎のように、将軍付老女まで登り詰めたのに、一時の油断ですべてを失ってしまうとは、哀れというより滑稽としか思えない。年を取り高い地位を得たおかげで、鼻っぱしらが強くなり面が厚くなっただけで、大崎は、おさきだった時代から何ら変わっていなかったのだ。

 

 大崎は、御次に降格する前に、1週間だけ宿下がりを許された。宿下がりの間、若いころ、世話になった元奥女中のおまつが、養女一家と同居する御屋敷に厄介になることにした。一橋家に居るころもほとんど外出することがなかったため、御伴して来た奥女中の監視の目はあるが、市中を自由に歩けることは何よりうれしかった。宿下がりを願い出たのは、ある者の墓参りする目的もあった。1日目はどこにも出掛けずお屋敷で過ごし、その後、最終日まで江戸の名所を見て廻り買い物を楽しんだ。

 最終日、大崎は、意次の眠る墓地へ足を運んだ。あんなに、憎んでいたというのに死んでこの世にいないと考えると、憎しみはいつの間にか消えていた。残ったのは哀しい過去だけだった。意次の墓の近くまで行くと、何者かが先にお参りをしていた。

 

「生前、お世話になった者です。お参りさせて下され」

  大崎は遠慮気にその者に話しかけた。

 

「もしや、 貴女様は、奥女中でございますか? 」

  

 

「おさきと申します。主殿頭には、生前、お世話になった故、墓参りに参った次第」

  

 その凛々しい顔立ちの若侍は、大崎に興味を持った。大崎も、その若侍に好感を抱いた。大崎は、墓前に花を添え心ゆくまで手を合わせた後、帰路に着いた。

 

「お待ち下され」

  大崎が、墓地を出ようとした時だった。境内の方から、先程の若侍が駆け寄って来た。大崎はお辞儀した。

 

「この後、本堂で祖父のためにお経を上げて頂くのですが、よろしければ、どうぞ」

  その若侍が穏やかに告げた。大崎は、せっかくの誘いを断るのも失礼だと思い、その若侍について本堂へ行った。読経は30分程で終わった。

 

「これにて失礼します」

  大崎は、住職が読誦を終え退席したのを見計らい、前席にすわっていたその若侍に声をかけて去ろうとした。

 

「大崎局」

  大崎は、名を呼ばれた気がして後ろをふり返った。大崎を呼び止めたのは、美しい武家の娘だった。

 

「あの。どちら様でございますか? 」

  大崎は、けげんな表情でその美しい娘を見た。

 

「お忘れでございますか? 田沼意次の娘のお宇多です。その節は、お世話になりました。本日は、父上のため、お墓参りをして頂きましてありがとう存じます」

  お宇多がお辞儀した。

 

「叔母上が、大奥御年寄と知り合いとは驚きました」

  若侍がうれしそうに言った。

 

「もう、御年寄ではございませぬ」

  大崎が決り悪そうに言った。

 

「龍助、そなたは先に帰りなさい」

  お宇多は、若侍を先に帰るよううながした。田沼龍助は、名残惜しそうに、何度も後ろをふり返りながら歩き去った。大崎は、「龍助」という名を聞いて、ハッとした。

 

「生前、父上から口止めされていたのですが、貴女様にここでお会いできたのも、何かの縁かと存じます。お伝えせねばならぬことがあります故、しばし、お付き合い願います」

  お宇多は、門前町にある水茶屋の前に置かれた長椅子に大崎を導くと、話を切り出した。

 

「龍助とそなたが呼んでいたのは、主殿頭のお孫さんですか? 」

  大崎が穏やかに訊ねた。

 

「あの子は可哀そうな子なのです。父である意知の死後、家督を継いだものの、新たに、老中首座に就かれた越中殿のお沙汰により、領地へ下向することも、公方様に御目通りすることも叶いませぬ。その上、従五位以下の官位すら与えてもらえません。いくら何でもひどい仕打ちでございます。父上が失政を犯したと陰口をたたかれたせいで、あの子まで白い目で見られているのです」

  お宇多がくやしそうに唇をかんだ。

 

「聞いてはおらぬようだが、私は、田沼派の重鎮であった横田準松の罷免を公方様に進言した張本人じゃ。横田殿は、最後まで主殿頭を支援続け御意思を受け継ごうと頑張っておられたのに、私は、元主への忠誠心で皆を裏切ったのじゃ」

  大崎は、お茶を一口飲むと言った。

 

「いずれは罷免されただろうと、生前、父上も申しておりました。大崎局が、悪いわけではございませぬ。それより、お話ししたいことがございます」

  お宇多は、大崎のひざに手を置くと告げた。大崎は、視線を感じて路地の方を何気なく見た。すると、龍助が大崎の方を見ていた。

 

「大崎局が、我が家に初めてお見えになったのは、あの子が産まれる少し前のことでした。あの後、一橋家にご奉公なされたとお聞きしましたが、赤子はどうなさったのですか? 」

  お宇多は、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「我が子は、もとより里子に出すことになっておりました故、行方は存じませぬ。この手で、1度も抱いてやることができなかったことが今でも悔いてなりませぬ」

  大崎が悲痛な面持ちで答えた。

 

「実は、龍助は、兄の実子ではございませぬ。それを知ったのは兄が亡くなった後で、ひょっとして、大崎局が産んだ子が龍助かもしれないと考え、父に訊いてみたのですが、父は答えてくださらなかった」

  お宇多が神妙な面持ちで告げた。

 

「それがまことの話であれば、主殿頭に感謝せねばならぬ。私の産んだ子は、産まれてはならぬ子だった故、あの子の実父の名も明かすことはできませぬ」

  大崎がうつむき加減で言った。

 

「明かせぬおかたとは、いったい、どなたなのですか? 」

  お宇多が訊ねた。大崎は首を横に振った。

 

「お宇多殿。世の中には知らぬ方が良いこともありますよ」

 

 

「お言いの通りにございます。私としたことが失礼しました。そろそろ、戻ります。お会いできてうれしゅうございました。お達者で」

 お宇多は、そそくさと帰って行った。

 

 大崎は、お宇多は、突拍子もないことを言うものだ。見当違いも良いところだと思った。生き別れた我が子が、意次の孫であるはずがない。田沼意次は、我が子と一緒にいては情が移り決心が揺らぐとして、大崎が寝ている間に、我が子をどこかへ連れて去った薄情な男だ。せめて、乳をあげたかった。乳房がうずく度、我が子が乳を求めて泣いているのではないかと心配になった。大崎は、何度も、誰にもらわれたかだけでも知りたいと頼んだが、意次は、とうとう、死ぬまで教えてくれなかった。

  

 天明7年の11月15日に、茂姫は、近衛家の養女として家斉に嫁ぎ御台所となり、近衛是子と名を改めた。これを機に、大奥は武家風に一新され、御年寄たちは、奥女中たちに質素倹約を命じた。

 一方、宿下がりを終え大奥へ戻った大崎は、新人ばかりいる相部屋へ移った。おさきと名を変えたこともあって、大崎がかつて、将軍付老女だったことを同室の者たちは知らなかった。また、箝口令が敷かれ、おさきの過去を知る者も、大崎におさきとして接するよう努めた。高丘は、大奥に平和がようやく戻ったと安堵した。お伊曰は、おさきの姿を見かける度、自責の念にかられていた。このまま黙っておくこともできたが、罪悪感で一杯になり、とうとう、おさきを捉まえて使用していない部屋へ引き込むと、知っていることを洗いざらい話した。

 

「やはりそうでしたか。文箱にしまっておいた書状が無くなっていた故、妙だと思ったのだ。謎が解けて胸につかえていたものが取れた気がする。教えてくれて礼を申す」

  おさきは、怒るどころか安堵した様子であった。

 

「蓮光院様に復讐したいとは思わないのですか? 」

  お伊曰は、おさきの顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「復讐からは何も生まれぬ。過ぎたことだと忘れる方が賢明です」

  おさきは、穏やかに告げると持ち場へ戻った。

 将軍付老女まで上り詰めた人は、やはり、人間が出来ている。お伊曰は、おさきに尊敬の念を抱いた。於富の部屋に戻ると、高丘が来ていた。お伊曰は、いつものようにお茶を出すと下がった。

 

「待ちやぁ」

  高丘が、障子を閉めようとしたお伊曰を呼び止めた。

 

「何か? 」

  お伊曰は、高丘の向かい側に坐り直した。

 

「おまえは、たしか、蓮光院様の看病役を務めておったな? 」

  高丘は、お伊曰を見据えると訊ねた。

 

「さようです」

  お伊曰は嫌な予感がした。

 

「二丸御殿におられる安祥院様にお仕えせよ。今いる看病人が使えぬ故、暇を出した」

  高丘が涼しい顔で告げた。

 

「私は、御上意を受け於富様付となりました。故に、公方様のお許しなくして他へ移ることはできかねます」

  お伊曰はダメもとで拒んだ。

 

「大奥の人事権は御年寄筆頭が持つ。こればかりは、将軍とて口出しはできぬ。これを安祥院様の御膳に混ぜるのじゃ」

  高丘は、懐から懐紙に包んだ粉薬を取り出すとお伊曰の手に握らせた。

 

「もしや、安祥院様に毒を盛れとお命じですか? 」

  お伊曰は、驚きのあまり飛び上がった。

 

「安祥院様が二丸御殿にお住まいだと知る者は、今では私と大崎局だけじゃ。大崎は、御次に降格した故、奥向から出ることはまずない。安祥院様は、このごろ、風邪が長引き床に臥せりがちだそうじゃ。ぽっくり逝ったとしてもあやしまれることはない」

  高丘が小声で言った。

 

「何故、安祥院様を亡き者となさるのでございますか? 奥医師が、安祥院様のおからだを調べれば、毒を盛られたと気づくはずです。安祥院様の死に疑問を持たれたら、御膳を出した私が真っ先に疑われて死罪に処されます。いくら、高丘局のご命令でも命を懸けることだけはできかねます」

  お伊曰は青い顔で訴えた。

 

「野良犬同然だったおまえを奥女中にしてやった恩を忘れたか? 私が、手を差し伸べなければ、今ごろ、おまえは、吉原に身売りされていたのだぞ」

  高丘が、お伊曰の肩をはげしくゆさぶった。

 

「他のことでご恩をお返しします。故に、人殺しだけはご勘弁くだされ。死んだ兄に、あの世で会わす顔がなくなります」

  お伊曰は涙ながらに訴えた。

 

「おまえの亡くなった兄は人殺しではないか? 人殺しの妹の分際で、いまさら、何を申す? おまえが、罪人の妹だと公方様が知ったらどうお思いになるかのう」

  高丘が不敵な笑みを浮かべた。

 

「それだけはおやめ下され。兄の無念を晴らせなくなります。わかりました。安祥院様の御膳に混ぜるだけでよろしゅうございますか? まことに、私は、死なずに済みますよね? 」

  お伊曰は、粉薬を見つめると覚悟を決めた。

 

「しばしの間、身を隠せるように手配する故、案ずるには及ばぬ」

  高丘は、お伊曰の涙を指で拭うと言った。

 

 その後、お伊曰は、安祥院暗殺が決まった理由を知らされないまま、命じられた通り看病役に就いた。安祥院が寝起きしている部屋の障子は所々に破れがあり、畳は黄ばみすえた匂いがした。御付の御女中2人も、安祥院と同じ年頃に見えた。

 

「篤子。そなたが戻ってくれてうれしい」

  安祥院は半ボケしているらしく、お伊曰が、何度違うと訂正しても、篤子という御女中と間違えるため、その内、訂正するのが面倒になり篤子を演じるようになった。奇しくも、安祥院暗殺決行日は、家斉が、ひさしぶりにお渡りする日だった。公方様を迎えるにあたり、奥女中たちが御褥のことにかかりきりになるこの日を選んだのは、御褥の準備で二丸御殿に、いっそう、目が行き届かなくなり、不審な動きがあっても目立たないと言うのが理由らしい。

 

「いかがなされた? 」

  安祥院付の御女中のお園が、お伊曰が、御膳を安祥院に出すのを躊躇していることに気づき訊ねた。

 

「先に中へ入っていてくだされ。お出しする物が1品足らぬ故、急ぎ、御膳所へ伝えに参ります」

  お伊曰は、御膳所に向かうふりしてお園を先に部屋の中へ入るよううながした。お園は、首をかしげながらも先に部屋の中へ入った。お伊曰は、周囲に誰もいないことを確認すると、懐に隠し持っていた毒を取り出した。お伊曰が、毒を汁物の中に入れようとしたその瞬間だった。

 

「火事でございます。早くお逃げ下され」

  奥向の方から、きな臭い匂いが漂って来たと同時に、金切り声が聞こえた。お伊曰は、その声に驚き毒を懐にしまった。

 

「何事じゃ? 」

  先に部屋の中へ入っていたお園が、襖を半分開けて顔だけ出した。

 

「奥向が火事のようです」

  お伊曰が青い顔で答えた。

 

「御膳は私がお出しする故、そなたは、奥向の様子を見て参るが良い」

  お園がしっかりとした口調で告げた。お伊曰は、助かったと思い奥向へ走った。火事が起きなければ、今ごろ、人を殺していたところだ。奥向に着くと、長局の奥女中たちの相部屋がある方から黒い煙が出ているのが見えた。

 

「火元はどちらですか? 」

  お伊曰は、ちょうど逃げて来た奥女中を捉まえると訊ねた。

 

「御次部屋のようですが、火之番が消し止めまして、ボヤで済んだそうです」

  その奥女中が、息を弾ませながら答えた。

 

「教えてくれてありがとう」

  お伊曰は、その奥女中に礼を言うと火元の御次部屋を念のため見に行った。御次部屋の前には、黒山の人だかりができていた。お伊曰は、黒山の人だかりから抜け出して来た奥女中と危うくぶつかりそうになった。とっさに、その奥女中の顔を見た。ぶつかりそうになったのは、奥女中ではなく蓮光院付の御中臈だった。

 

「お伊曰殿ではありませぬか。ここで何をしておられる? 」

  蓮光院付御中臈のお伝は、お伊曰に気づくと一瞬、驚いた表情をしたが、すぐに能面のようなすました顔に戻りお伊曰を問いただした。

 

「お伝殿こそ、いかがなされましたか? 」

  お伊曰は、ムカッときて言い返した。

 

「奥向が火事だと聞き、様子を見に参ったの次第」

  お伝は、明らかに何かを隠しているように見えた。

 

「桜田屋敷からわざわざ参ったですか? 」

  お伊曰は、お伝の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「これにて失礼致します」

  お伝は、足早にその場を立ち去った。二丸御殿に戻ろうと、廊下を歩いている時だった。襷掛けをした奥女中たちが向かい側から走って来た。

 

「蓮光院付御中臈のお伝を見かけなかったか? 」

  その内の1人が、すれ違い様にお伊曰に訊ねた。

 

「お伝殿でしたら桜田屋敷へ戻りました。お伝殿がいかがなされましたか? 」

  お伊曰は聞き返した。

 

「御次部屋から火が出る直前、お伝が出て来るのを見た者がおる。事情を問うため捕えに参ったのだが、桜田屋敷に戻ったのか。教えて頂いて礼を申す」

  その奥女中は、お辞儀すると仲間と共に桜田屋敷へ向かった。

 お伊曰はふいに、大崎のことを思い出した。たしか、大崎は御次に降格したはずだ。急に、大崎の安否が気になり、二丸御殿に戻るのを止めて大崎を捜すことにした。そのころ、大崎は、就寝中に火事に気づき着の身着のままで外へ飛び出したところに偶然、部屋の前を通りがかった御坊主の松心尼に助けられて難を逃れていた。

 

「軽い火傷で済んで良かったではないか」

  松心尼は、大崎を御仏間に引き入れると傷の手当をした。

 

「もしや、そなたは、松島局ですか? 」

  大崎は、聞き覚えのある声に気づき訊ねた。

 

「その名を呼ばれたのは久方ぶりじゃ」

  松心尼が照れくさそうに言った。

 

「大奥を去ったと聞いていましたが、御坊主になられていたとは、今まで、気づきませんで失礼致しました」

  大崎は深々と頭を下げた。

 

「誰にも気づかれぬ方がかえって都合が良い。未練がましいと思われるかも知れぬが、権力を失っても、長い月日を過ごした大奥を去ることは忍び難く、いかなる身分でも良い故、残る道はないかと先代に願い出たところ、御坊主にしてくださったのじゃ」

  松心尼が穏やかに事情を語った。

 

「何か、気がかりなことでもあったのですか? 」

  大崎は自分に重ねて訊ねた。大崎は、御次に降格されても大奥に残ろうと決意したのは、家斉の行く末を見届けたかったからだ。

 

「家斉公が将軍となられた後、幕閣を主導していた寵臣の主殿頭と田沼派の重臣らが罷免された。老中首座に就いた越中殿は、祖父の功績を受け継ぎ、大奥の改革に乗り出す気じゃ。長い間、大奥は、御台様に随伴した御年寄筆頭の高丘局やその配下の者らによって牛耳られてきた。なれども、今まで通りのようにはいかなくなるかもしれぬ。越中殿が、高丘局らをいかなる手段でやり込めるか見物じゃ」

  松心尼が不敵な笑みを浮かべると言った。

 

「大奥の行く末を見たいというだけで大奥に残ったのですか? 」

  大崎は、もっと大きな志があると期待したのでガッカリした。

 

「大奥ほど面白き場はない。家斉公は、父御から子を多く持てと尻をたたかれているそうじゃ。御坊主は、中奥への出入りを許され御褥の監視をするのが役儀だ。御年寄だったころより、多くを深く知ることができる」

  松心尼は、懐から帳面を取り出すと大崎に差し出した。

 

「これは何でございますか? 」

  大崎は、帳面を手に取るとページをめくった。

 

「隠居後の楽しみに、見たり聞いたりしたことを書き留めておる。中には、門外不出の事もある故、肌身離さず持ち歩かねばならぬ。そなたのことも書いてあるぞ」

  松心尼は大崎について記されたページをめくって見せた。大崎は、誰も知らないはずの事実が記されていたため驚愕した。

 

「勿論、名は別人にしたし、誰かわからないよう工夫して書いておる。故に、そなたのことを書いたとしても気づく者はおらぬ」

  松心尼は、あっけらかんとして言った。

 

「高丘局に知られたらただでは済まされませぬ。ただちに、お止め下され」

  大崎は、帳面を松心尼に突き返した。

 

「越中殿が、その内、あの者を大奥から追い払う故、問題なかろう」

  松心尼は口をとがらせた。

 

「もしや、越中殿とお知り合いでしたか? 」

  大崎が身を乗り出して訊ねた。

 

「ああ、そうじゃ。見逃してくれるなら、そなたが返り咲きするための後ろ盾を頼んでやっても良いぞ」

  松心尼が上目遣いで言った。

 

「いまさら、高丘局に、そなたのことを告げ口して取り入る気はございませぬ。むしろ、大きな後ろ盾を得たいと考えていました。まことに、越中殿に頼んで頂けるのでございますか? 」

  大崎は、ワラにもすがる思いで訊ねた。

 

「越中殿は、奥向の間者となる者を捜しておる。そなたを推挙しよう」

  松心尼が、満面の笑みを浮かべて言った。

 

「よしなにお頼申します」

  大崎は、自分を陥れた相手だろうと身の安全が図れるなら、間者でも何でもやる気でいた。

 

「これからは、我らは同志じゃ」

  松心尼は、大崎の肩を優しくたたいた。

 

 一方、お伊曰は、一晩中、大崎を捜したが見つけ出すことができないまま朝を迎えた。二丸御殿の安祥院の部屋に戻ると、安祥院と御女中たちの姿はどこにもなく掃除された殺風景の部屋に、お伊曰の手荷物が置かれていた。

 

「まだおったのか」

  お伊曰が呆然と佇んでいるところにお園がやって来た。

 

「安祥院様と他の方はいかがなされましたか? 」

  お伊曰は、逸る気持ちを押さえて訊ねた。安祥院を殺してはいない。粉薬を入れる寸前に、ボヤ騒ぎがあり、結局、朝まで部屋には戻らなかった。

 

「安祥院様は、昨夜、急に大奥を去ることが決まり、二丸御殿をお出になったのだ。他の者は安祥院様に随伴した」

  お園が無表情で告げた。

 

「何故、急に、大奥を去ることが決まったのですか? 」

  お伊曰は興奮気味に訊ねた。

 

「幕命じゃ」

  お園は、こめかみを押さえながら答えた。一晩中、起きていたらしく、眼は充血しており顔色も悪い。

 

「それでは、私は、奥向へ戻ってもよろしゅうございますか? 」

  お伊曰は、手荷物を胸に抱えると訊ねた。

 

「戻るが良い」

  お園は、お伊曰を送り出すと掃除を始めた。お伊曰は、奥向に戻ることができてうれしかったが高丘の反応がこわかった。

 

「高丘局がそなたを呼んでいたぞ」

  於富は、お伊曰を見つけるなり言った。お伊曰は、重い足取りで、高丘の元へ向かった。高丘は、お伊曰が遠慮気に戸口に立つと手招きした。

 

「申し訳ございませぬ。とうとう、殺めることができませんでした」

  お伊曰は、言われる前に謝ろうと頭を下げた。

 

「大義であった。使わなかったのなら返すが良い」

  高丘は、怒っている様子はなくいつもと変わらなかった。

 

「急に大奥を去られるとは驚きました」

  お伊曰は粉薬を返すと言った。

 

「公方様のお耳に入り、穏便に済ますようにとの御上意があったそうじゃ」

  高丘が冷静に告げた。

 

「何故、安祥院様を暗殺なさろうとしたのか教えて頂けますか? 」

  お伊曰は思い切って訊ねた。

 

「家治公が身罷られた日の夜、二丸御殿から念仏が聞こえたそうじゃ。それまでも、家治公が床に就かれて以来、幾度となく念仏が聞こえたという。故に、側衆の中には、家治公は、呪詛されたのではないかと疑う者もいて密かに調べさせたところ、安祥院付の御女中たちが、城下の寺へ祈祷に通っていたことがわかった。おそらく、念仏を唱えていたのは、あの者らということになったわけじゃ」

  高丘が神妙な面持ちで語った。

 

「お付きの者の所業を何故、主である安祥院様が、命をもって償う必要があるのですか? 御女中らを追い出せば良い話ではないですか? 」

  お伊曰が険しい表情で訊ねた。

 

「こたびの一件は、主の不始末と相成ったわけじゃ。女の業や女の執念というものが、この大奥に渦巻いていることを忘れるでない。気を抜けば足元をすくわれる。信じられるのは己のみじゃ」

  高丘が低い声で告げた。

 

「高丘様。これで恩は十分返せましたよね? 」

  お伊曰がおびえた目で訊ねた。

 

「まだじゃ。おまえには、向後も引き続き働いてもらわねばならぬ。時が来たら、連絡する。あやしまれぬ前に戻られよ」

  高丘は、冷たく言い放つとお伊曰を部屋の外に追い出して障子を閉めた。お伊曰は思わず身震いした。死ぬまで買い殺されるのだ。高丘は、おそろしい人だと改めて思った。

 



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