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第2章 対立

 家治は、西洋の天文学に造詣が深かったため、オランダ通詞の志筑忠雄や本木良永と交流した。本木良衛は、「和蘭地球図説」と「天地二球用法」を刊行して、日本初、コペルニクスの地動説を紹介した。

 志筑忠雄は、「暦象新書」を刊行しケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。また、画家の司馬江漢が、「和蘭天説」を刊行し地動説等の西洋天文学を紹介し「和蘭天球図」という星図を作り、宝暦13年に、世界初のケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした医者の麻田剛立の功績を高く評価した幕府は、麻田の弟子の高橋至時や間重富たちに西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように命じた。

 しかし、老中首座の定信は、天文学の進歩には一切目をくれることなく、享保の改革を手本とする幕府の財政立て直しや農村の再建に重点を置く改革に着手した。幕府は、助郷役軽減や治水植林工事を約束し資金を与えて江戸に出稼ぎに来たまま居着いてしまった百姓たちを故郷へ帰した。

 天明の大飢饉を教訓に、諸藩の大名に対して各地に社倉や義倉を築き穀物を備蓄することを通達した。それと同時に、町奉行所に江戸に町会所を設置し七分積金の制を実施するよう命じた。七分積金とは、各町内が積み立てた救荒基金で町入用の経費を節約した4万両の7割に幕府の献金1万両を加えた基金のことで、町入用の経費は、地主が負担し木戸番銭や修繕等に使用され、復興支援の一環でもあった。さらに、旗本や御家人の救済を図るため、札差しに対して、6年以上前の債権破棄並びに5年以内になされた借金の利子の引き下げを命じた。

 江戸の人口が旧里帰農令により減少したが、天明の大飢饉により、江戸へ流れ出た無宿人や軽罪人たちは牢に収容しきれず溜に集められていた。通常は病にかかった囚人を収容する溜に、無宿人や軽罪人達が溢れ返り市中の治安は悪化していた。定信は、町奉行所や牢屋敷などの報告書を読む内、天明の大飢饉により、住む家や職を失い生活するためにやむを得ず窃盗やスリを犯し罪を償い釈放されても、社会復帰の目途がつかず再び罪を犯してしまい牢逆戻りする者が多くいることに気づいた。

 そこで、過去の政策や文献を見直して参考となるものを模索した。過去には、無宿人を一か所に集めて隔離し、佐渡金山への 水替人足に就かせて更生する制度があった。しかし、水替人足は、非常に厳しい労役を強いられるものであって、更生とは程遠いものだった。また、安永9年に深川茂森町に生活に困窮や逼迫した無宿人たちを収容し、更生や職の斡旋の手助けをする救民施設儲けたが、運営に支障をきたして僅か6年程で閉鎖となっていた。

 犯罪人を更生させるためには、犯罪人の心理を理解し親身になって手助けすることができる人間に任せた方が良いとして、定信は、天明7年に火附盗賊改頭となって以来、数々の難事件を解決させている長谷川平蔵に意見を求めた。長谷川の提案により「人足寄場」が設けられた。軽罪人を収容し職業訓練や職の斡旋を行い更生させることは安永九年と同じだったが、新たに収容期間満了後、江戸での商売を希望する者には土地や店舗を農民には田畑、大工になる者にはその道具を支給する案が採用された。

 

 天明8年に、定信が、御所再建のために上洛した際、安永3年に始まった江戸幕府の公称「一向宗」を「浄土宗」に変更する是非をめぐる浄土宗と浄土真宗の宗名論争に関与する騒動が起きていた。定信が、帰路の途中、箱根峠に差し掛かった際、浅草本願寺の僧3名が待ち伏せしており直訴に踏み切った。

 対処に悩んだ定信は天台宗の輪王寺に相談した。寛政元年の3月。寺社奉行の牧野(備前守)惟成は、公務繁忙を理由に東本願寺に対し「追面御沙汰有之迄、先御願中御心得たるべく候」を申し渡し、増上寺に対し請願の可否を棚上げした。天台宗の輪王寺が仲裁に入り、「1万日のお預かり」をすることになったことで論争の終結に目途がついた。

 

 日本は、長きにわたり鎖国政策を行い、他国の船舶の来航を拒んで来たが、近年、赤蝦夷船が蝦夷地に来航し対応に出た松前藩に対し通商を求める事件や赤蝦夷人が、千島に来日する事件が起きたこともあり、幕府は改めて、異国船渡来の際の処置を令した。

 定信が主導する商業政策は、株仲間や専売制の廃止、特権商人の抑制という風に重商主義政策に対し、真っ向から対立する内容であったが、米価の高騰を防ぐ策として米を大量に使う造酒業に制約を加え生産量の3分の1に削減する酒株統制は引き継がれた。失政により幕府の指導力は低下の意図を辿った。

 幕府では、定信が中心となり古学派や折衷派の勢力に推されて不振気味だった朱子学を幕府公認の学問と定めて再興させるべく学制改革を行うことにした。そこで、半官半民の性格を持っていた聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改めた。

 寛政2年、5月24日には、大学頭の林信敬に対して、林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じる旨を通達し、幕府の儒官の柴野栗山や岡田寒泉にも同様の通達が成された。それだけでは終わらず、湯島聖堂の学問所で行われる講義や役人登用試験の課題も朱子学に限られた。

 また、林信敬の補佐役に、柴野、岡田に加えて、新たに尾藤二洲と古賀精里を招聘して、幕府儒官に任じ湯島聖堂の改築を実施した。寛政4年、9月13日には旗本や御家人の子弟を対象として、朱子学を中心とした「学問吟味」を実施するなど文武を推奨した。あくまでも、朱子学以外の学問の禁止は、江戸の昌平坂学問所にのみにおいてのことだったが、各地の藩校もそれに倣い、朱子学を正学とし他の学問は異学という思想が広まった。

 

 幕閣人事については、定信主導の幕府を支える新たな人材が登用された。天明8年2月に、松平伊豆守系大河内松平家7代の松平信明と若年寄の本多忠籌がそれぞれ側用人に任じられた。

 本多は、定信や信明と異なり蝦夷地の開発に関心を持っていた。一方、田沼派の老中の阿部正倫は在任わずか、11か月にして病を理由に老中を辞職し、老中首座を務めた田沼派の重鎮の松平康福は阿部と共に、天明8年まで持ち堪えるも結局免職となり家督を譲ると間もなく死亡した。また、老中の牧野貞長も寛政2年に辞職し、老中の鳥居忠意もまた、その翌年の寛政3年に眼病を患い辞職した。

 

 蝦夷地で、酒造や廻船業を営む商家の島谷屋の婿となった最上徳内は、江戸にいる青島俊蔵に、時をみて蝦夷地の様子を報せる文を送っていた。寛政元年、国後場所請負人の商人「飛騨屋」との商取引や労働環境に不満を持った国後場所(国後郡)在住のアイヌが、首長のツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害するという事件が起きた直後、国後場所在住のアイヌの蜂起の呼びかけに応じた根室場所ナメシのアイヌが、和人商人を襲う第2の事件が起きた。

 松前藩から派遣された新井田正寿や松井広次たちとツキノエが、アイヌの説得に当たった結果、蜂起したアイヌたちは投降した。その後、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。一部の和人は、蜂起に消極的なアイヌにかくまわれて助かったが、この騒動で、和人71人が犠牲となった。

 松前藩は、「飛騨屋」の責任を問い、場所請負人の権利を剥奪し、後の交易を新たな場所請負人の「阿部屋」主人、村山伝兵衛に請け負わせた。

 

 家斉は、騒動の報告を受けた時、田沼が蝦夷地開発を再開して欲しいと願い出たことを思い出した。意次が、この事態を予測していたとしたら、蝦夷地の開発を中止した定信は、判断を見誤ったことになる。

 幕府は、元蝦夷地探検隊員の青島俊蔵を蝦夷地へ赴かせた。青島は最上を伴い蝦夷地へ赴いたが、2人が蝦夷地に着いたころには騒動は収まっていた。青島から騒動についての報告を受け取った家斉は考え込んだ。

 

「公方様。帰国を延ばし、東西蝦夷の調査を2人にご命じ下され」

  定之助が家斉に進言した。

 

「何故じゃ? 」

  家斉は驚いた表情で訊ねた。まるで自分の心を見透かされたようで気味が悪かった。

 定之助は真摯に訴えた。これを機に、蝦夷地の開発を再開させるべきだ。蝦夷地の開発に着手するきっかけは、もとより北方から赤蝦夷が北千島まで南下してきたからだ。主殿頭主導の幕府は、天明4年から蝦夷地の調査を行い天明6年に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させた。赤蝦夷人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧して、毛皮税などの重税を課したため、アイヌは、経済的に苦しめられたとの報告があり、一部のアイヌは、赤蝦夷から逃れるために南下したと聞いている。

 

「青島には、江戸には戻らず蝦夷地に留まり、最上と共に東西蝦夷地を調査するように伝えよ」

  家斉は、幕府を通している余裕はないと考え独断で調査を命じた。しかし、幕府を通さなかったことで、青島俊蔵と最上徳内は、幕府から事実無根の疑いをかけられる。

 青島俊蔵の帰国がおくれていることに気づいた定信は、松前藩へ青島の消息を訊ねる書状を送った。その後、松前藩から青島が最上と共に調査を装い東西蝦夷地を廻り、アイヌと交流しているとの報告が届いた。

 

 定信は、以前、家斉が蝦夷地の開発を再開させたがっていたことを思い出し、家斉が、独断で調査を行わせているに違いないと考えたが、他の者たちは、御上意だったとは夢にも思わず、青島たちは騒動の真相調査を終えたにもかかわらず、幕府の帰国命令を無視して独断で東西蝦夷地の調査を行いアイヌとの交流をはかったと疑った。青木と最上は、弁解も許されず捕えられた後入牢した。家斉は、青島と最上が入牢した報告を受けるとすぐ、定信を呼んだ。

 

「何故、青島と最上を捕えたのじゃ? 」

  家斉は、定信を見るなり烈火のごとく怒鳴りつけた。

 

「背任の疑いがあり捕えました」

  定信は平然と答えた。

 

「何をもって背任を疑う? 」

  家斉が鼻息荒くして訊ねた。

 

「帰国命令に従わず、独断で蝦夷地に留まり西蝦夷地の調査やアイヌとの交流をはかった。これはまぎれもない背任行為ではござらんか? 」

  定信が神妙な面持ちで答えた。

 

「余が、蝦夷地に留まり、東西蝦夷地を調査するよう命じた。何も問題なかろう。早く釈放せぃ」

  家斉は定信の耳元で怒鳴った。

 

「その話は初耳でござる。何故、ご下命を出す前に相談してくださらなかったのですか? 」

  定信が、耳をさすりながら言った。

 

「蝦夷地開発は、交易のためだけに計画されたのではない。赤蝦夷の南下に備えるために蝦夷地を天領とし、海防を強化するための調査を行う目的もあったのじゃ。そちは、アイヌが、蜂起した理由を考えたことがあるか? 青島が送って来た調査書を読んだが、アイヌがいかに不当な扱いを受けていたのかよくわかった。そちも読んでみるが良い」

  家斉は、調査書を定信に向かって投げつけると言った。定信は、調査書を拾うと読みはじめた。

 

「たしかに、青島の調査書には、松前藩から届いた報告書とは異なる箇所が幾つかござる」 

  定信は目を見開いた。

 

「これでわかったか? ただちに、2人を釈放し調査を続けさせよ」

  家斉が言った。

 

「おそれながら、すでに、手おくれかと存じます」

  定信が神妙な面持ちで言った。

 

「手おくれとな? 何をもって斯様なことを申す? 」

  家斉は定信につかみかかった。

 

「公方様。落ち着いてくだされ」

  2人の様子を見守っていた定之助があわてて、家斉のふり上げた腕を寸前で押さえた。

 

「もう、堪忍袋の緒が切れた。こやつは、一度、痛い目に遭わせないとわからぬのじゃ」

  家斉がわめいた。

 

「おそれながら、老中首座として、2人を釈放し調査を続けさせることは致しかねます。なれど、公方様が、恩赦を与えたことにして無罪放免とするのであれば問題はないかと存じます」

  定信が提案した。

 

「あくまでも、己の意志を曲げないつもりじゃな? 余が恩赦を与えずとも、そちが、余の命に黙って従えば済む話ではないのか? 」

  家斉は、鬼の形相で定信をにらみつけると足早に御座之間を後にした。