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第2部 第1章 忠と孝の衝突

 寛政5年。 ついに、中山愛親が松平定信と全面対決する時が来た。中山は、最初から定信を説得する気はなかった。何としても、家斉に拝謁して御所の再建の時のように申し入れを受け入れてもらう強硬手段に出る心づもりだった。定信をはじめとする老中たちは、予想通り、話を聞くどころか理屈を並べて反対して来た。

 

「中山殿。そちらは中奥ですぞ」

  厠に行くフリをして席を立ったまま戻らない中山を心配して捜しに出た武家伝奏の正親町公明が、中奥へ向かって歩いていた中山愛親を見つけてあわてて呼び止めたが、中山愛親は、ふり返ることなく行ってしまった。中奥と表向との境には、上ノ錠口と中奥の2か所あるが、中奥は、土圭之間にあり奥坊主が常勤し表向の役人が無断で中奥に入らないように見張っている。

 

「失礼致す。公方様に御取次願いたい」

  突然、乱入して来た中山に、奥坊主の円成坊があたてふためいた。

 

「円成坊。公方様にお茶を出してくれるか」

  その時、ちょうど、定之助が、土圭之間にやって来て中山と出くわした。

 

「おぬしは‥ 」

  中山は、京都で数回会った顔見知りと再会し思わず、その名を呼ぼうとしたが、中野定之助が、中山の口を手で押さえてため、円成坊には、その先、何を言っているのか聞こえなかった。

 

「只今、お持ちします」

  円成坊は、とりあえずお茶をたて始めた。

 

「何故、公方様のお傍におる? 」

  中山が、定之助に御小納戸部屋へ連れて行かれた後、小声で訊ねた。

 

「成り行きでこうなった。今は、本丸小納戸の中野定之助で通っている」

  定之助が中山に耳打ちした。

 

「また会えてうれしく思う。おぬしが、公方様のお傍におるなら安心だ。頼む。取次いでもらえぬか? 」

  中山は頭が混乱していたが、ここまで来たら引き下がるわけにも行かず、僅かな望みにかけることにした。

 

「良かろう。ここで待っておれ」

  定之助は、中山を御座之間の前に待たせると御休息之間に入った。しばらくして、黒書院の奥の杉戸が開いて、家斉が御座之間に姿を現した。

 

「それへ」

  家斉は上座に着座すると、御座之間の前に着座し平伏す中山愛親に声をかけた。

 

「公方様より、謁見賜り恐悦至極にございます」

  中山は、家斉の御前に着座するとその場に平伏した。

 

「折り入って、余に話とは何じゃ? そちは、たしか例の件で、老中と対談釈明するために登城したのじゃろう? 」

  家斉が穏やかに訊ねた。

 

「老中と話をしたところで、帝のご決心は何も伝わりませぬ。公方様であらば、御尊名頂けるのではないかと、腹をめす覚悟で御目通りを願い出た次第」

  中山が上目遣いで告げた

 

「相当切羽詰まった様子だが、何故、帝のためにそこまでするのじゃ? 」

  家斉は、中山の光格天皇に対する忠誠心に感心した。

 

「公方様も、父御の民部卿に大御所の尊号を差し上げたいとお望みだとお聞き致しました。父御を敬うお気持ちは、帝も将軍も同じかと存じ奉ります」

  中山は情に訴え出た。

 

「越中が申すには、こたびの一件は、忠と孝の衝突だそうじゃ」

  家斉が身を乗り出して言った。

 

「忠と孝でございますか? 」

  中山は首をかしげた。

 中山の問いに対して、家斉は、帝が長い間、途絶えていた朝儀の再興や朝権の回復に熱心なのと同様、老中をはじめ幕閣の首脳たちが失政により、下回った幕府の指導力を回復するため学制改革を行い、朱子学を再興させようとしておる。朱子学は、本来、儒教が徳目とする孝よりも、大義名分、主君への忠。そして、君臣の別に、重きを置いている。故に、父上に尊号を贈る孝を求めても無駄だと冷静に語った。

 

「左様でございましたか、ようやく、謎が解けた気が致します」

  中山は大きくうなずいた。

 

「こたびの一件で、帝も越中の本懐が見えたはず。これ以上、傷を広げぬ方が賢明じゃ。上皇や関白までもが、こたびの一件を深刻に受け止めておる。そちが出たところで、コテンパンにやられるだけじゃ」

  家斉がため息交じりに言った。

 

「処分は覚悟の上でございます。たとえ、死んでも悔いはござらぬ」

  中山がその場に平伏した。

 

「帝にこれを差し上げよ」

  家斉は、御座之間を出ようとした中山を呼び止めると、家治の遺品の書物「愚管抄」を手渡した。

 

「あのこれは? 」

  中山は、「愚管抄」を渡した家斉の意図が読めず戸惑った。

 

「余からの贈り物だとお伝えせよ。聡明な帝ならば、余の伝えたい儀が、何なのかお分かりになるはずじゃ」

  家斉が神妙な面持ちで答えた。

 迎え撃つ朝廷側は、光格天皇が、父の典仁親王に『太上天皇号』を宣下することを大反対する定信に対抗し、朝幕間の学問的論争に引き起こした。

 後に、寛政3年の12月。光格天皇は、「群議」を開き、参議以上40名の公卿の内、35名の賛意を得て、尊号宣下の強行を決定することとなる。しかし、大政委任を根拠に、天皇に代わって幕府が、公家を処分できるとの定信側の主張が通り、幕府は、天皇に賛同し協力した公家を処罰したため、中山愛親は、帰洛後、蟄居の上議奏を罷免された。また、幕府は九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰し尊王論者を牽制した。家斉は、幕府に対して父の徳川治済に「大御所」の尊号を与える宣言をしていたため、事件の結末に納得が行かなかった。 

 

「公方様。大御所の尊号の件をめぐり、大きく意見が割れておるようでござる」

  木村は、頭を抱えている家斉の元に良くない報せを持って来た。

 

「さもあろう」

  家斉は平静を装ったが、父親に尊号を与えることすらできないのかとくやしくてたまらなかった。

 

「太上天皇号を拒んだ手前、将軍の父御に大御所の尊号を贈るわけにはゆきませぬと越中殿が、強く主張しております」

  木村が、家斉の心中も知らず冷静に告げた。

 

「白々しい言い訳じゃ」

  家斉は舌打ちした。

 

「公方様。越中殿が、火急の件にて御目通りを願い出ております」

  杉戸越しに定之助の声が聞こえた。

 

「公方様? 」

  木村は、家斉が、勢い良く立ち上がると杉戸の前まで大股で歩いて行くという思わぬ行動に出たのであわてた。木村が止める間もなく、家斉は杉戸を開けた。その瞬間、杉戸の目の前に着座していた定之助が、バランスを崩して後ろに倒れた。

 

「火急の件とは何じゃ? 」

  家斉は、定信を見下ろすと訊ねた。

 

「評議の結果、民部卿に大御所の尊号を贈る件が却下されましたことをお伝えするため、馳せ参じた次第」

  定信が冷静に告げた。

 

「何故、余を除いて評議に踏み切った? 」

  家斉は低い声で訊ねた。

 

「おそれながら、尊号を贈るか否かを決めるのは幕閣でござる。たとえ、貴方様が、将軍であられようとも、幕閣の決定には従って頂かなければなりませぬ」

  定信が告げた。

 

「己を白河藩へ追いやった憎き相手に尊号を贈ることは面白くなかろう。尊号を贈ることは、父上に権威を与えるようなものじゃからな。そちの言動やふるまいは、余と同等であるかのようじゃ。そちは何者として余の前におるのじゃ? 」

  家斉がぶっきらぼうに言った。

 

「今は老中首座として公方様の御前におります」

  定信がきっぱりと告げた。

 

「典仁親王に、尊号を贈ることを反対しておるのは、民部卿に尊号を贈らせないためではないのか? 」

  家斉は、思わず、カッとなり声を荒げた。

 

「帝は、公方様が2度にわたり帝の申し入れをお認めになったことで、公方様に申し入れさえすれば、難題であっても何とかなると勘違いなさったのでござろう。朝廷が、公方様の承認を後ろ盾に、古式にそった大内裏再建に踏み切ったため、幕府は莫大な出費を強いられました。公方様が、これだけ帝に肩入れなさるのは勤王家であるからだと多くの幕臣らが考えたはずです。あれだけ、警告したにも関わらず、あれは、いったい、何のおつもりですか? 」

 定信は冷静に告げた後、すかさず、例の掛け軸を指差した。

 

「気に入っているのじゃ。何が悪い? 」

  家斉が答えた。

 

「公方様がおできにならぬならば、代わりに処分して差し上げます」

  定信は、何を思ったか、掛け軸を床の間から取り去ると畳の上に投げ捨てた。

 

「何をする気じゃ? 」

  家斉は、あわてて掛け軸に駆け寄った。

 

「手燭を持て」

  定信は、その場に居合わせた木村に火を持って来るよう命じた。木村は状況がつかめぬまま、命令に従い手燭を定信に手渡した。定信は、定之助に桶一杯の水を運ばせると手燭を掛け軸に近づけた。

 

「おおい、やめぬか。やめろと申すのが聞こえぬか? 」

  家斉が、ただならぬ気配を察して声を上げた。その声もむなしく、定信が掛け軸に火をつけた。勢い良く燃え上がった掛け軸を前に家斉は腰を抜かした。

 

「正気でござるか? 火つけは大罪ですぞ」

  定之助が、火を消そうと桶に近づいたその時だった。お茶を運んで来た円成坊が、血相を変えて駆けつけると、桶の水を燃えている掛け軸にかけた。掛け軸の火は、消し止められたが、絵の部分を残して黒焦げになった。

 

「危うく火事になるところでしたぞ」

  木村が定信を非難した。

 

「火は消し止められたが、掛け軸が黒焦げになった。どうしてくれる」

  家斉は半泣き状態だった。

 

「いっそのこと燃えてしまった方が清々致しましょう」

  定信は、家斉に捨てる決心をつけさせるために火をつける暴挙に出たのだ。定信は、黒焦げになった掛け軸を手に御休息之間を出ようとした。

 

「お待ち下され」

  円成坊が、定信の目の前に立ちはだかった。

 

「何の真似じゃ? 」

  定信は、円成坊を見据えると訊ねた。

 

「お茶を召し上がってからお帰り下され」

  円成坊は、定信の腕をつかむとその場に坐らせた。

 

「斯様な時に茶など飲めるか」

  家斉も、木村に促されて着座した。

 

「心を落ち着かせて、私の話をお聞き下され」

  円成坊は、その場に居る人数分のお茶を出すと告げた。

 

「ちと苦いが、これは何じゃ? 」

  家斉が、お茶を一口飲むなり顔をしかめた。

 

「煎茶にございます」

  円成坊が、すかさず言った。

 

「話には聞いたことはあるが口にするのは初めてじゃ」

  木村が、茶碗の底を見つめながらつぶやいた。

 

「たしかに心が落ち着く」

  定信が小さく息をついた。

 

「実は、この掛け軸の絵の下にはもう1枚別の絵がございます」

  円成坊は、絵を掛け軸から慎重にはがしながら言った。円成坊が言った通り、絵の下から別の絵がまた現れた。

 

「絵が、2枚重なっていたとはちっとも気づかなかった」

  家斉は、下になっていた絵を食い入るように見つめた。

 

「おそらく、何者かが、後からこの絵の上に紙を重ね貼り別の絵を描いたのでしょう」

  円成坊が神妙な面持ちで告げた。

 

「誰が何為に斯様な小細工をしたと申すか? 」

  定信が言った。

 

「円成坊。2枚の絵が重なっていることを見抜いたぐらいじゃ。そちは、この絵について、何か知っておるのであろう? 」

  家斉が円成坊に訊ねた。

 

「上の絵は、演者の姿や着物の家紋を変えただけで、あとは全く同じでございます」

  円成坊は、上の絵を家斉に手渡した。

 

「そちの申す通りじゃ。演者の姿と着物の家紋以外、同じに見える」

  家斉は、2枚の絵を見比べると言った。

 

「何故、演者の面と着物の家紋は変えられたのじゃ? 」

  定信が円成坊に訊ねた。

 

「おそらく、もとよりあった絵を見た者が何かを伝えるために手を加えたのだと存じます。もともと、この絵は、美濃の日龍峰寺で行われたお能の様子が描かれています」

  円成坊が説明した。

 

「その美濃の寺の周りには竹林があるのか? 」

  家斉が身を乗り出して訊ねた。

 

「ございます」

  円成坊は、定信を横目で見ながら答えた。

 

「そんなはずはない。どう見ても清水寺ではないか? 」

  定信が声を荒げた。

 

「そう言えば、美濃に、本堂が清水寺本堂の舞台造りと同じ高野山真言宗の寺があると聞いた覚えがござる」

  定之助が、思い出したように言った。

 それに対して、定信は、御用絵師の狩野惟信の講釈をうのみにして、法華経を読誦する東国方の僧は天台宗の僧侶を示すと考えて、この演者は、おそらく、天台座主である閑院宮直仁親王第二王子、公啓入道親王。坂上田村麿が着ている着物の家紋は、閑院宮家の家紋の閑院菊である故、この演者は、おそらく、光格天皇の父にあたる閑院宮典仁親王。そして、清水寺門前の方は、鷹司家の家紋の牡丹である故、この演者は、光格天皇の叔父にあたる関白の鷹司輔だと主張した。

 

「越中は、この絵を掛け軸に仕立て直して床の間に飾った余を勤王家の味方だと決めつけ、帝が、何度も、幕府に対して申し入れを行うのは、余のせいじゃと言いよった」

  家斉がため息交じりに言った。

 

「下絵は、勤王家を示す絵でないことは明らかです」

  円成坊がきっぱりと断言した。

 

「言われてみれば、下絵は、坂上田村麿ではなく、その化身とされている童子になっていますね」

  定之助が冷静に告げた。

 

 円成坊が、下絵について解説しはじめた。これは、承久の乱の前日、後鳥羽上皇率いる倒幕軍が、出陣を控え志気を高めるため修羅能を行ったとの筋書きで描かれているのは、まさしく、坂上田村麿の化身だとする童子が田村堂に入り、1人取り残された東国方の僧の前に清水寺門前が現れ、清水寺縁起を語る場でございます。後鳥羽上皇は、菊紋の家紋から考えると清水寺門前を演じておられる。田村堂に入った坂上田村麿の化身とする童子が着ている着物の柄は都忘れ。都忘れといえば、佐渡に配流となった順徳帝。法華経を読誦する東国方の僧は、土御門帝の皇胤と言われている日蓮宗の開祖の日蓮でございます。屋根に隠れる日は、上の絵と同じく帝の死を示します。

 円成坊は、説明を終えると木村に訊ねた。

 

絵の舞台となった日龍峰寺でございますが、龍と聞いて思いつくことはございますか? 」  

 

「承久の乱時の執権は北条義時だとすると、北条氏の家紋ではないか? 」

  木村が目を見開いた。

 

「北条氏の家紋は鱗紋。鱗は、魚や蛇、龍の鱗を示すとされています」

  円成坊が、定信の方を見ると言った。

 

「下の絵を描いたのは何者じゃ? 」

  家斉が、円成坊に訊ねた。

 

「絵の端に、裏梅鉢の家紋が描いてある」

  定信は、絵師の正体を示すだろう証をめざとく見つけた。

 

「おそらく、それは金森家の家紋です」

  木村が定信に言った。

 

「勤王家を思わせる絵の下に、改易となった金森家の家紋が描かれた絵が隠されているとは、ますます、わからなくなって来た」

  家斉は頭を抱えた。

 

「円成坊。そちは、いったい何者なのじゃ? 何故、この絵が下にあるとわかった? 」

  定之助は円成坊に訊ねた。

 

「実は、この絵は、父の形見でございます。江戸屋敷に飾ってあったのですが、御家がお取り潰しになった直後に紛失しました。水戸様の御屋敷にあると風の噂で聞きやんごとなきお方のツテを頼り、鶴千代君にお仕え致しましたが、見つけることができませんでした。よもや、公方様の手元にあったとは思いもしませんでした」

  円成坊は、感極まったのか涙をこぼした。

 

「もしや、そちは美濃郡上藩主だった金森頼錦の子であったか? 」

  定信は、円成坊の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「はい」

  円成坊は鼻をすすると答えた。

 

「公方様。何卒、この絵を私にお返し頂きたく存じ奉ります」

  円成坊が、声をふるわせながら願い出た。

 

「よかろう。持って行くが良い」

  家斉は快く絵を円成坊に返した。

 

「その絵は、やはり、処分なされた方がよろしいかと存じます」

  定信が上の絵について言った。

 

「たかが絵ではないか? これを見て勤王家だと申す者は愚か者じゃ」

  家斉は絵を手放す気はなかった。

 

「人目にふれる場に飾られるのだけはおやめ下され。我は、公方様の御為を思い、あえて、苦言を呈しておるのでござる」

  定信は、引き下がるどころか強気な態度で迫った。

 

「そちが、掛け軸を燃やそうとした過ちは水に流す。故に、この絵を所有することを認めろ」

  家斉は交換条件を出した。

 

「これ以上、議論する余地はござらぬ。我は、これにて御免仕る」

  定信は、疲れた顔で御座之間を出て行こうとした。

 

「あと、もう1つ条件がある。蝦夷地の開発を再開させよ」

  家斉は、定信の背中に向かってさけんだ。松平定信は、ふり返ることなく、歩いて行った。