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第8章 大奥の女たち

 治済に大崎をもらい下げ一橋家へ御中臈として引き取らせる件を断る書状を実家へ送りひと段落ついたと思った矢先、京都から新たな問題が舞い込んで来た。天明7年の6月7日。突然、京都やその近郊から大勢の人たちが御所周辺に集まり出し、天明の大飢饉により困窮する民衆の救済を訴えるべく御所の周りを廻り千度参りするという事件が起きた。翌8日。願い事や訴え事の書かれた紙で包まれた銭12文が、御所の南門や唐門に投げ込まれるという事件が起きた。当初は、数人だったが、日を追う毎に数が増え、3日目には、3万余になり、御所を中心とする京都の街は大勢の人たちで溢れ、一躍、お祭り騒ぎになったという。京都所司代は、朝廷に千度参りの差し止めを申し入れるが、朝廷は、信心から発せられたことだとして申し入れを突っぱねたという。後桜町上皇から、3万余の林檎が配られた他、上皇に賛同した公家から茶やおむすびなどの差し入れがあった。この事態を重くみた光格天皇は、京都所司代を通じ幕府に対し飢饉により困窮する民衆の救済を求めて来たのであった。天皇は、即位して以来、中世から途絶えた朝儀の再興や朝権の回復運動に熱心に取り組んでいることから、宝暦事件を引き起こした桃園天皇を彷彿させた。幕府は、天皇が、家斉の将軍就任と天明大飢饉をきっかけに徳政を求めて来るのではないかと懸念した。御千度参りがはじまった1週間後、武家伝奏の油小路隆前は、御所に参内した京都所司代の戸田忠寛と面会し、天皇の意向を受けた関白鷹司輔平の命令伝達と幕府への申し入れを書いた書付を手渡した。幕府は、京都の朝廷からの申し入れが江戸に届く前、五百石の御救い米支給を決定したが、朝廷からの申し入れを受けて更に五百石追加した。江戸では、朝廷が幕府に申し入れする直前の同年、5月22日、幕府は困窮者に対するお救いの実施を決定し、勝手係老中の水野忠友は、町奉行に対し支援を必要とする者の人数の確認を命じた。町奉行は、支援対象者を36万2千人と見積もり、1人につき、米1升の支援を要することを水の忠友へ報告した。町奉行からの報告を受けた水野忠友は、勘定奉行に対して2万両を限度として支援対象者1人当たり銀3匁2分を支給するよう命じ、その数日後には、実際にお救い金として町方に引き渡された。また、5月24日からは、米の最高騰時の約半額で米の割り当て販売を開始し、困窮した者たちは給付されたお救い金で米を購入することができるようになった。同じころ、民の間でも、町内で屋敷持ちの商人や江戸近郊の豪商などが資金を提供し困窮者に対する支援を行い、各町内では、寄合が開かれ、町奉行公認の施行が始められた。

 同年、11月には、施行に尽力した関係者や町に対して褒賞がなされ、総額547両あまりの褒賞金が支払われた。打ちこわし騒動の最中、蓮池院の身内にあたる関東郡代の伊奈忠尊が、勘定所吟味役上首格から小姓番頭格に昇格した。幕府は、代々関東郡代として実績を挙げていた伊奈氏が、米不足が続く江戸に大量の米を集める最適任者であると判断し、伊奈忠尊に江戸町方の救済を行うよう命じたと考えられる。伊奈は、敏速に江戸市中の名主を集めて伊奈氏による町方救済の支援を要請した上、町方救済のため交付された20万両で、関東地方に限らず甲斐、信濃から奥州に至るまで家来を派遣して米を買い集めて、短期間で大量の米を江戸に集めた。6月には、伊奈が買い付けた米が江戸の各町内へ分配され、江戸に活気が戻るきっかけとなった。

 その一方で、町奉行の曲淵景漸は、打ちこわし発生前の町方からの嘆願に真摯な対応を行わずに大騒動を引き起こすきっかけを作った件とと打ちこわし発生時の対応が悪かった件についておとがめを受けて、江戸城西丸御留守居役に左遷された。また南町、北町領両行所の与力の総責任者である年番与力に対しても、江戸追放、お家断絶の処分が下された。大奥では、蓮光院の縁者にあたる伊奈忠尊が、幕府の資金などを使い各地から買い集めた米を江戸市中に放出し事態を収拾させたという話題で持ち切りであった。

 

「天明の打ちこわしの騒動を収拾させたのは、伊奈様の人気と手腕の賜物だと、市中では評判になっているそうよ」

 

「私は、米の買付で御上に借金したけど返せなくて、伊奈家と幕府との間に確執が生じて、御家騒動に発展したと聞いたわ」

 

「もとより、無利子で幕府から借金をしていたというじゃない。危機感を募らせた伊奈氏譜代の家来が伊奈様に連判状を送って家督移譲を迫ったことが、伊奈様の怒りに触れて首謀者が処罰されたそうよ」

 

「蓮光院様の父御が、天領の百姓に栽培を推奨して作らせたのらぼう菜という西洋野菜が、飢餓から民を救ったという逸話も借金と御家騒動で台無しじゃない? 」

 

 上臈御年寄の高丘は、長局中に広まった噂を蓮光院の耳に届かないよう食い止めようと、配下の御中臈たちに監視させて噂する奥女中たちを厳重注意させていた。しかし、噂は、静まることなく桜田屋敷にまで広まった。家治の崩御により、心の病を患っていた蓮光院は、忘れ去られた自分のことが再び、大奥で脚光を浴びていると勘違いした。また、家斉の取り計らいにより、於富付の御中臈に昇進したお伊曰は、火之番だったころ、散々、いびられた先輩女中たちをアゴで使うことに快感を覚えていた。

 

(何故、蓮光院様が奥向におられるのかしら? )

 

 ある日の昼下がり。お伊曰は、於富の後を歩いていた時、中庭を挟んで向こう側の廊下を歩いている蓮光院の姿を見かけた。この時の蓮光院は、落飾後ずっと身に着けていた喪服姿ではなく十二単姿だったので驚いた。部屋の外に出ることを嫌い1日中、部屋に閉じ籠り読誦や写経をして過ごしていた蓮光院が、正装姿で再び目の前に姿を現したのだ。お伊曰は、蓮光院の異変を感じ取って胸騒ぎを覚えた。思わず、足を止めて後ろをふり返った時には、すでに、蓮光院の姿はどこにもなかった。幻を見たのかも知れない。お伊曰は、そう思い直して再び歩き出した。実は、蓮光院は、看病人の何気ないひとことで我に返り、大奥で過ごした日々が急に懐かしくなり、気がついたら、大奥向へ足が向いていた。かつて、住んでいた部屋はすでに別の者が使用していた。部屋をのぞいた時、誰もいなかったことからほんの出来心で中へ入った。その時、偶然、机の上に置いてあった文箱を見つけたのだ。好奇心が抑えきれず文箱を開けた。すると、中には書状の束がしまってあった。宛名を見ると、「将軍付老女大崎局様」と書いてあった。蓮光院の脳裏に、10数年前の出来事が甦った。安永2年、疫病が流行し、家治の姫君である万寿姫も、疫病にかかり13歳の若さで早逝した。家治の哀しみは深く、万寿姫の死は、江戸城に暗い陰を落とした。万寿姫付の御中臈だったおさきは、万寿姫の看病をしている間、自らも疫病にかかったとして、静養のため宿下がりを許された。同年、御三卿の一橋治済と正室の於富との間に嫡子となる豊千代が誕生した。大崎は、宿下がりしたまま、大奥に復帰することなく一橋家の御中臈となり、豊千代の乳母になったらしい。乳母には、生母の代わりに乳を与える役目もある。独身で出産未経験のおさきにはできない役目であることから違和感を覚えた。家基の死後、豊千代が、家斉君と名を改め家治の養子となり西丸に遷ったと同時に、将軍付老女として、おさきが再び、大奥に姿を現した。その時、御台所付御中臈のおさきと将軍付老女の大崎とが同一人物であることを、おさきとその昔親しくしていた御年寄筆頭の高丘でさえ、すぐには気づかなかったという。おさきは、背が高いことを気にして猫背で歩く癖があった。そのため、どこか自信がなさそうで地味な印象が強かったが、将軍付老女となって戻ったおさきは貫禄があった。おさきは、御部屋様として一時権勢を振るいながらも、世子の家基逝去により一気に権威を失った哀れな側室の波乱万丈な半生とは対照的で、成り上がりの半生を歩んでいた。おさきは、宿下がりをする前は、御台所付御中臈の1人にすぎなかったが、乳母を務めた豊千代が将軍世子となったため、将軍付老女として帰り咲いたからだ。於知保は、大崎を見かける度惨めな気分に陥った。大崎が、田沼意次を強く意識していることは薄々、勘づいていた。意次は、世継ぎの男子をもうけるが将軍の務めとして家治に側室を持つことを勧め、懇意にしていた御年寄筆頭の松島に局の御中臈の中から側室を出させた。その御中臈が於知保だった。御台所は、まだ、若く子供を望めないわけではなかった。意次からすれば、於知保は思い通りになる側室でしかなかった。於知保が男子を生めば、その子は世子となり松島と結んだ意次の地位は保証される。於知保は男子を産むが、家治公は、御台所の立場を守るため、於知保の産んだ男子を御台所の養子とした。御台所の威厳は保たれたが、生母の於知保の気持ちが収まらなかった。御台所が病死しなければ、於知保は、自らの手で殺めていたかも知れないと思う程、於知保は精神的に追い詰められた。御台所の死後、家基は、於知保が育てることになったが、松島が、何かと、家基の育て方に口を挟んで来た。最初は、松島は、於知保を側室にまで上げてくれた恩人ともあって、素直に従っていたが次第に疎ましくなった。於知保は、取り巻きの御中臈たちを使い、松島に嫌がらせをするようになった。しばらくして、松島は、病を口実に大奥を去った。家治が身罷り桜田屋敷に遷る時、別れのあいさつに訪れた大崎は、憔悴しきった於知保に形式的なあいさつをしただけで労わる言葉のひとつもかけることはなかった。何者かに襲われ負った傷は時と共に癒えたが、心の傷はいっこうに癒えなかった。

 於知保は何かに突き動かされるように喪服を脱ぎ棄て、長い間袖を通していなかった十二単を身に着けた。書状を発見した時、天がついに自分に味方したと直感した。差出人は、御三卿の一橋治済。日付は、田沼派の重鎮、御側御用取次の横田準松が罷免される1週間前になっていた。大崎は、田沼意次の罷免撤回を実現するため、高丘や滝川と行動を共にしていたはずだ。それは、於富の強い意向によるものだった。大崎は、尾張藩主の御屋敷にまで出向き大奥の意向を伝える姿勢を見せながら、裏では、同志を平気で裏切り、治済に寝返っていたのだ。この裏切りを知ったら、於富や高丘は、どうするだろう。於知保は千鳥之間に忍び込むと、高丘が使用している机の上にその書状を置いた。そして、何事もなかったかのように桜田屋敷へ引き返した。於知保が、桜田屋敷へ引き返した後、高丘は、机の上に見慣れぬ書状の束があるのを見つけた。宛名を確認すると、大崎宛ての書状だった。間違えて置かれたと思い大崎に返そうとしたが、中を見たい衝動にかられ、気がつくと、1番上の書状を広げていた。その内容を読んで唖然とした。大崎は、密かに治済と連絡を交わしていたのだ。高丘は、逸る気持ちを抑えながら書状を手に於富の元へ向かった。

 

「於富様にお会いしたい」

  高丘は、障子の前に控えていた御中臈のお伊曰に告げた。

 

「於富様。高丘様がお見えにございます」

  お伊曰が、障子越しに中へ向かって告げた。

 

「通すが良い」

  於富の声が聞こえたと同時に、高丘が、中へ飛び込むと於富の御前に着座した。

 

「ちょうど良いところに参った。近じか、新たな老中が就任する運びとなった。祝儀を用意せねばならぬ故、そなたに相談せねばと考えていたところじゃ」

  於富が穏やかに告げた。

 

「その件でしたら、すでに、於富様の署名付きにて祝儀を贈らせていただきました。それよりも、於富様。折り入って、お伝えせねばならぬ儀があり馳せ参じました。これをご覧下され」

  高丘が、於富に書状を差し出した。

 

「何じゃ? 」

  於富は、疑うことなく書状に目を通した。

 

「大崎局は、いつから民部卿と文のやり取りをしていたのでございましょうか? その書状の日付は、田沼派の重鎮、御用御取次の横田準松殿が、罷免される3日前になっております。偶然でしょうか? 」

  高丘が神妙な面持ちで告げた。

 

「何たることか」

  於富は、驚きのあまり書状をひざの上に落とした。

 

「中立を守って来られた公方様が、横田殿を罷免したと知り何かあるとは思っていましたが、裏で斯様なやり取りがあったとは、大崎局には失望させられました」

  高丘が、書状を拾い上げるととどめをさした。

 

「そなたは、この書状をどこで手に入れたのじゃ? よもや、盗んだのではあるまい? 」

  於富が身を乗り出すと訊ねた。

 

「机の上に置いてありました。誤って置かれたのかと思い、大崎に返そうかと考えたのですが、念のため、中をたしかめました。あの大崎が、いともたやすく寝返るなど信じられませぬ。民部卿は、いかなる手を使い大崎を味方に引き込んだのでございましょうか? 」

  高丘は、於富が顔を曇らせたのを見てまずいことを言ったと気づいた。

 

「公方様が、横田殿の罷免を決断なされたのには大崎局の進言が大きい。大崎局に対する公方様の信頼は、並大抵のものではないからのう。何せ、物心つく前から傍におるのじゃ。なれど、これがまかり通れば、向後、大崎局の権威はいっそう、高まるに違いない。さすれば、我らの地位が揺らぐことになる。何か、大崎を牽制する良い手立てはないものかのう」

  於富は考え込んだ。

 

「敵に塩を送るというのはいかがでございましょう? 」

  高丘が上目遣いで提案した。

 

「越中殿に取り入るというのはちと気が引けるのう」

  於富は尻込みした。

 

「大奥の御年寄が、表の儀に対し口を挟んでいることを越中殿の耳に入るよう噂を広めるのです。大崎局は、気位が高いところがあります。無礼な態度を取られたら黙っていることはできないはず。2人の間は、険悪になること間違いなしでございます」

  高丘がほくそ笑んだ。

 

「それは良い考えじゃ。ただちに、手の者へ風聞を広めるよう申し伝えよ」

  於富も高丘の考えに乗った。障子に耳をつけて2人の会話を盗み聞きしていたお伊曰は、思わず、声を上げそうになった。そして、於知保を大崎の部屋の近くで見かけたことをなぜか思い出した。高丘が、大崎の書状を持って現れたということは、於知保が大崎の部屋から書状を盗んで、高丘が、それを見つけるよう仕向けたということになる。於知保は、転んでもただでは起き上がらない。桜田屋敷でも暇つぶしができたと喜んでいるに違いない。大崎が、大奥の敵ともする徳川治済と密議を凝らし、田沼派の重鎮、御側御取次の横田準松の罷免を家斉に助言する策略をめぐらしたという噂は、たちまち大奥の奥女中たちの間に広まった。その噂は、広敷役人の知るところとなり、高丘の目論見通り、松平定信の耳にも入った。

 

「大奥の御年寄の分際で、幕閣の人事に口を挟むとは言語道断。これを見逃せば、大奥の改革に支障をきたすことになる」

  定信は、大崎の振る舞いに警戒を強めた。

 

  天明7年の6月19日。定信は、天明の大飢饉での功績が認められ、御三家の支持を受けて老中首座に就任した。定信の肩には、幕府に対する民衆の信頼回復と幕府の財政の立て直しがかかっていた。意次ができなかった大奥の経費削減を成功させることで名声を上げられないかと考えた定信は、切り札を使うことにした。定信は、方々から届いた御祝儀を拒み贈収賄の払拭を試みた。そのため、就任の際に掛かった費用が赤字となった。大奥では、於富を中心に今後の対策が話し合われた。大崎は、治済との関係が、すでに知られているとは夢にも思わず、何食わぬ顔で話し合いの場に出席して、他の御年寄と意見を交わした。

 定信は、翌8年には将軍補佐となり奥向兼帯となった。定信は、ついに、大奥へ足を踏み入れた。大奥女中たちは、戦々恐々としていた。定信は、御坊主の案内で御殿向と長局をくまなく見学した。その昔、田安邸が火事に遭い、大奥に、一時避難をしたことがあった。その時、受けた格別のおもてなしは今も忘れていない。大奥の御年寄をはじめとする奥女中たちは優しく親切だった。その反面、豪華絢爛な衣装や無駄とも思える独自の慣習に戸惑った。定信は、於富にはじまり大奥御年寄たちまであいさつを済ませると、将軍付老女の大崎の元へ勇み足で向かった。大崎へのあいさつを最後にしたのは、印籠を渡すためでもあった。

 

「これからは、御同役故、奥の儀は申し合わせてお勤めいたしましょう」

  一通り、形式的なあいさつを済ませた後、大崎は、満面の笑みを浮かべて告げた。定信は、大崎に、再会した時、一瞬、別人かと思った。遠慮気に近づき、上目遣いで顔色を窺いながら、ためらいがちに話をしたおさきはいなかった。

 

「大奥の年寄の分際で、老中と同役とは何たることか。頭が高かろう」

  定信は、厳しい表情で一喝した。大崎は、思いもしなかった展開に目を丸くした。

 

「慣例を申したに過ぎませぬ。お気に召さずご立腹とあれば罰して下され」

  大崎は、怒りを抑えながらも低姿勢に出た。

 

「大崎局。そなたに申し渡す儀がござる」

  定信は慎重に話を切り出した。

 

「何でございましょうか? 」

  大崎が上目遣いで訊ねた。

 

「そなたが、大奥年寄の分際で幕閣の人事に口を挟んだというのは、まことでござるか? 」

  定信は、大崎を見据えると訊ねた。

 

「私は将軍付老女でございます。公方様から意見を求められれば、お答えしなければなりませぬ。それを幕閣の人事に口を挟んだなど申されますのは心外です」

  大崎は、他の大奥御年寄と一緒にされては困ると権威を主張した。

 

「何を勘違いしているかしらぬが、公方様が大奥の女中へ申し伝えるのは、単なるお話に過ぎぬ。このようなことがまかり通れば他の者に示しがつかぬ。向後、表向の儀に付き、大奥年寄であれ、御台様や側室。はては御側衆であっても、口を挟まぬよう厳重に取り締まることと致す故、心しておくように」

  定信がきっぱりと告げた。

 

「貴殿は、何をもって、ひどい仕打ちをなさるのじゃ? 」

  大崎が定信を非難した。

 

「公方様に心得をお渡しする。その上で、奥女中らには、改めて申し伝える。そなたに先に申し伝えたのは、そなたの行いが、心得に反していたからじゃ。そなたには、相当の処罰を受けてもらうことになる。追って報せる故、しばし、待たれよ」

  定信は、要件だけ告げると足早に立ち去った。大崎は、何が起こったのか理解できなかった。いったい、何をとがめられているのかわからなかった。大奥の御年寄が、幕閣の人事に口を挟むことは今にはじまったことではない。幕政の人事に口出しができるのは、大奥御年寄の特権とも言える。大奥は、政治に参画することができるから正面切っては取り下げられる案件は、大奥の権力が頼りとされる。もし、定信が、長年、誇った大奥の権力を封じ込めてしまったら、大奥を今まで支えてきた多額の賄賂が入らなくなる。大奥の上級女中たちは、年間2千万を超える高給取りだが、地位や権力を保つためには、それなりにお金がかかる。給料だけでは足りないという者も少なくない。足りない分を賄賂で補てんしているのだ。それを断たれたら、大奥の上級女中たちはどう感じるだろう。見せしめにするつもりだろうが、効果は長く続かないだろう。於富が、大崎を処罰することに同意するはずがない。長年、仕えた者を見捨てる薄情な人ではないことはわかっている。大崎は、於富を信じることにした。一方、家斉は、定信から、あいさつもそこそこ心得を突き出されて面食らった。その上、心得に違反した大崎を罰すると言い出したのだ。

 

「就任早々、将軍付老女を罰するとは何たることか」

  家斉は不機嫌を露にした。 

 

「横田準松の罷免は致し方ないことで、いずれは、公方様もそうなさったことと存じますが、大崎局が公方様に横田を罷免するよう言上したとの噂が広まった以上、見過すことはできかねます。それに、大崎局への処罰は格好の見せしめとなり大奥を牽制することとになりましょう」

  定信は堂々と意見を述べた。

 

「なれど、大崎局を処罰するとなれば、於富様や高丘局の2人が黙ってはおるまい。大崎は於富様に長年仕えてきた。高丘局も大崎に信頼を置いている」

  家斉が反論した。

 

「おふたりからはすでに同意を得ております」

  定信が自信を持って答えた。

 

「それはまことでござるか? 」

  家斉は耳を疑った。もしかしたら、於富の耳に、大崎が、治済とただならぬ仲となった話が入ったのではないか。夫と不義密通したとなれば情けをかけようがない。

 

「不義密通の疑いもある故、厳罰に処す所存でござる」

  定信が冷ややかに告げた。

 

「何じゃと? 黙っていれば言いたい放題言いよって。民部卿と大崎局が、不義密通を犯すはずがなかろう」

  家斉は、松平定信に詰め寄った。

 

「公方様」

  部屋の隅に控えていた定之助があわてて止めに入った。

 

「定之助。刀を持って来い」

  家斉が、血走った眼で定之助に命じた。

 

「刀を持ち出すとは、正気の沙汰でござらん。乱心と思われても余儀なし」

  定信が神妙な面持ちで身構えた。

 

「ただちに、今の言葉を撤回せよ。さもなければ、貴様をこの場で成敗してくれるわぃ」

  家斉は、定之助から刀を受け取ると構えた。

 

「罷免を覚悟で奉ります。大崎局は、民部卿と結び公方様に横田準松を罷免するよう進言したことは明らかでござる。大崎局は、民部卿から召し出しがあった日、民部卿に強姦されたという証言もござる。大崎局は、事実が公になることをおそれるあまり、民部卿の沙汰に従ったと思われます」

  定信は、持参した調査書を突き出した。家斉は、逸る気持ちを抑えながら調査書に目を通した。大崎が一橋家に出向いた日、2人は密議を凝らした。その時、徳川治済は、大崎を強姦したという証言がたしかに記されている。さらに、主従の関係を超えて深い仲になった2人は、文を交わして、田沼派の一掃を策略したと調査書に書かれていた。

 

「己を白河へ追いやった張本人を陥れて満足か? 」

  家斉は、調査書を畳の上にたたきつけると嫌みたっぷりに言った。

 

「我が、白河藩主と養子縁組したころは、まだ、家基君は息災であった。民部卿が、主殿頭と共に、我を白河へ追いやったというのは事実無根にござる」

  定信がきっぱりと否定した。

 

「父上と大崎局はどうなるのじゃ? 」

  家斉は声を荒げた。

 

「大崎局が同意の上で事に及んだならば、尚のこと罪は重くなります。その昔、側室が、御褥の折、公方様におねだりをしたことが問題となり、御坊主と御中臈が、監視することになった。残念ながら、城の外までは目が行き届きません。その隙をついて、2人は、密通した上、政敵を廃すことを示し合わせた。本来ならば、死罪あるいは座敷牢に値する大罪でありますが、民部卿は御三卿の当主であり将軍の父にあたる故に、重罪に処すことは難しい。大崎の方も、於富様の申し入れを考慮して、座敷牢よりも軽い刑を考えております」

  定信が冷静に告げた。

 

「貴様はただ、恨みを晴らしたいだけじゃろ? 」

  家斉は、定信の胸座をつかむとドスの利いた声で言った。

 

「何を申されますか? 幕閣の儀に私情を挟むなんぞ致しません。老中首座の座をかけてお誓い申す」

  定信はきっぱりと否定した。

 

「これで、そちは、大奥を敵にまわしたことになる。奥女中らをたやすくあやつれるとは思うなよ? 奥女中は、役人と同じようにはゆかぬ」

  家斉が低い声で言った。

 

「我は主殿頭とは違います。あのお方は、大奥の権力を後ろ盾に成り上がった。幕府の財政を逼迫させた大奥に倹約させなかったのは、大奥に見限られたら終わりだと知っていたからでござる」

  定信が冷ややかに告げた。

 

「政策が失敗した時は全ての責任を取ってもらう故、心してかかるが良い」

  家斉はくるりと背を向けた。

 

「勿論、失敗した時は、老中首座を降りる覚悟で取り組む所存でござる」

  定信は、堂々と胸を張って宣言した。

 

 それから数日後、治済は登城禁止と蟄居に処され、大崎は御次に降格となった。将軍付老女から一介の奥女中となった大崎についていた部屋子たちは、新たな職場へ異動となった。噂が広まっていたため、誰も、大崎の降格に驚く様子はなかったが、今後、大崎に、どのように接したらよいか新たな悩みが増えたことは間違いなかった。

 

「いつから遷って来るのかしら」

 

「同役とはいえ、元将軍付老女を何と、お呼びしたらよろしいのでしょうか? 」

 

 大崎の上役になる者や相部屋になる者たちは気が気でなかった。高丘は、開け放たれた座敷を眺めながら、於知保が、桜田屋敷へ遷る日の前夜のことを思い起こした。家基が身罷った後、自分は於知保を見限った。しかし、於知保は、恨み言を言うことはなかった。ただ、心なしか寂し気だった。御台所や側室の栄華は移り気でもろいが、大奥御年寄は違う。よっぽどのことが起こらぬ限り、1度、その座に就けばあとは安泰だ。大崎のように、将軍付老女まで登り詰めたのに、一時の油断ですべてを失ってしまうとは、哀れというより滑稽としか思えない。年を取り高い地位を得たおかげで、鼻っぱしらが強くなり面が厚くなっただけで、大崎は、おさきだった時代から何ら変わっていなかったのだ。

 

 大崎は、御次に降格する前に、1週間だけ宿下がりを許された。宿下がりの間、若いころ、世話になった元奥女中のおまつが、養女一家と同居する御屋敷に厄介になることにした。一橋家に居るころもほとんど外出することがなかったため、御伴して来た奥女中の監視の目はあるが、市中を自由に歩けることは何よりうれしかった。宿下がりを願い出たのは、ある者の墓参りする目的もあった。1日目はどこにも出掛けずお屋敷で過ごし、その後、最終日まで江戸の名所を見て廻り買い物を楽しんだ。

 最終日、大崎は、意次の眠る墓地へ足を運んだ。あんなに、憎んでいたというのに死んでこの世にいないと考えると、憎しみはいつの間にか消えていた。残ったのは哀しい過去だけだった。意次の墓の近くまで行くと、何者かが先にお参りをしていた。

 

「生前、お世話になった者です。お参りさせて下され」

  大崎は遠慮気にその者に話しかけた。

 

「もしや、 貴女様は、奥女中でございますか? 」

  

 

「おさきと申します。主殿頭には、生前、お世話になった故、墓参りに参った次第」

  

 その凛々しい顔立ちの若侍は、大崎に興味を持った。大崎も、その若侍に好感を抱いた。大崎は、墓前に花を添え心ゆくまで手を合わせた後、帰路に着いた。

 

「お待ち下され」

  大崎が、墓地を出ようとした時だった。境内の方から、先程の若侍が駆け寄って来た。大崎はお辞儀した。

 

「この後、本堂で祖父のためにお経を上げて頂くのですが、よろしければ、どうぞ」

  その若侍が穏やかに告げた。大崎は、せっかくの誘いを断るのも失礼だと思い、その若侍について本堂へ行った。読経は30分程で終わった。

 

「これにて失礼します」

  大崎は、住職が読誦を終え退席したのを見計らい、前席にすわっていたその若侍に声をかけて去ろうとした。

 

「大崎局」

  大崎は、名を呼ばれた気がして後ろをふり返った。大崎を呼び止めたのは、美しい武家の娘だった。

 

「あの。どちら様でございますか? 」

  大崎は、けげんな表情でその美しい娘を見た。

 

「お忘れでございますか? 田沼意次の娘のお宇多です。その節は、お世話になりました。本日は、父上のため、お墓参りをして頂きましてありがとう存じます」

  お宇多がお辞儀した。

 

「叔母上が、大奥御年寄と知り合いとは驚きました」

  若侍がうれしそうに言った。

 

「もう、御年寄ではございませぬ」

  大崎が決り悪そうに言った。

 

「龍助、そなたは先に帰りなさい」

  お宇多は、若侍を先に帰るよううながした。田沼龍助は、名残惜しそうに、何度も後ろをふり返りながら歩き去った。大崎は、「龍助」という名を聞いて、ハッとした。

 

「生前、父上から口止めされていたのですが、貴女様にここでお会いできたのも、何かの縁かと存じます。お伝えせねばならぬことがあります故、しばし、お付き合い願います」

  お宇多は、門前町にある水茶屋の前に置かれた長椅子に大崎を導くと、話を切り出した。

 

「龍助とそなたが呼んでいたのは、主殿頭のお孫さんですか? 」

  大崎が穏やかに訊ねた。

 

「あの子は可哀そうな子なのです。父である意知の死後、家督を継いだものの、新たに、老中首座に就かれた越中殿のお沙汰により、領地へ下向することも、公方様に御目通りすることも叶いませぬ。その上、従五位以下の官位すら与えてもらえません。いくら何でもひどい仕打ちでございます。父上が失政を犯したと陰口をたたかれたせいで、あの子まで白い目で見られているのです」

  お宇多がくやしそうに唇をかんだ。

 

「聞いてはおらぬようだが、私は、田沼派の重鎮であった横田準松の罷免を公方様に進言した張本人じゃ。横田殿は、最後まで主殿頭を支援続け御意思を受け継ごうと頑張っておられたのに、私は、元主への忠誠心で皆を裏切ったのじゃ」

  大崎は、お茶を一口飲むと言った。

 

「いずれは罷免されただろうと、生前、父上も申しておりました。大崎局が、悪いわけではございませぬ。それより、お話ししたいことがございます」

  お宇多は、大崎のひざに手を置くと告げた。大崎は、視線を感じて路地の方を何気なく見た。すると、龍助が大崎の方を見ていた。

 

「大崎局が、我が家に初めてお見えになったのは、あの子が産まれる少し前のことでした。あの後、一橋家にご奉公なされたとお聞きしましたが、赤子はどうなさったのですか? 」

  お宇多は、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「我が子は、もとより里子に出すことになっておりました故、行方は存じませぬ。この手で、1度も抱いてやることができなかったことが今でも悔いてなりませぬ」

  大崎が悲痛な面持ちで答えた。

 

「実は、龍助は、兄の実子ではございませぬ。それを知ったのは兄が亡くなった後で、ひょっとして、大崎局が産んだ子が龍助かもしれないと考え、父に訊いてみたのですが、父は答えてくださらなかった」

  お宇多が神妙な面持ちで告げた。

 

「それがまことの話であれば、主殿頭に感謝せねばならぬ。私の産んだ子は、産まれてはならぬ子だった故、あの子の実父の名も明かすことはできませぬ」

  大崎がうつむき加減で言った。

 

「明かせぬおかたとは、いったい、どなたなのですか? 」

  お宇多が訊ねた。大崎は首を横に振った。

 

「お宇多殿。世の中には知らぬ方が良いこともありますよ」

 

 

「お言いの通りにございます。私としたことが失礼しました。そろそろ、戻ります。お会いできてうれしゅうございました。お達者で」

 お宇多は、そそくさと帰って行った。

 

 大崎は、お宇多は、突拍子もないことを言うものだ。見当違いも良いところだと思った。生き別れた我が子が、意次の孫であるはずがない。田沼意次は、我が子と一緒にいては情が移り決心が揺らぐとして、大崎が寝ている間に、我が子をどこかへ連れて去った薄情な男だ。せめて、乳をあげたかった。乳房がうずく度、我が子が乳を求めて泣いているのではないかと心配になった。大崎は、何度も、誰にもらわれたかだけでも知りたいと頼んだが、意次は、とうとう、死ぬまで教えてくれなかった。

  

 天明7年の11月15日に、茂姫は、近衛家の養女として家斉に嫁ぎ御台所となり、近衛是子と名を改めた。これを機に、大奥は武家風に一新され、御年寄たちは、奥女中たちに質素倹約を命じた。

 一方、宿下がりを終え大奥へ戻った大崎は、新人ばかりいる相部屋へ移った。おさきと名を変えたこともあって、大崎がかつて、将軍付老女だったことを同室の者たちは知らなかった。また、箝口令が敷かれ、おさきの過去を知る者も、大崎におさきとして接するよう努めた。高丘は、大奥に平和がようやく戻ったと安堵した。お伊曰は、おさきの姿を見かける度、自責の念にかられていた。このまま黙っておくこともできたが、罪悪感で一杯になり、とうとう、おさきを捉まえて使用していない部屋へ引き込むと、知っていることを洗いざらい話した。

 

「やはりそうでしたか。文箱にしまっておいた書状が無くなっていた故、妙だと思ったのだ。謎が解けて胸につかえていたものが取れた気がする。教えてくれて礼を申す」

  おさきは、怒るどころか安堵した様子であった。

 

「蓮光院様に復讐したいとは思わないのですか? 」

  お伊曰は、おさきの顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「復讐からは何も生まれぬ。過ぎたことだと忘れる方が賢明です」

  おさきは、穏やかに告げると持ち場へ戻った。

 将軍付老女まで上り詰めた人は、やはり、人間が出来ている。お伊曰は、おさきに尊敬の念を抱いた。於富の部屋に戻ると、高丘が来ていた。お伊曰は、いつものようにお茶を出すと下がった。

 

「待ちやぁ」

  高丘が、障子を閉めようとしたお伊曰を呼び止めた。

 

「何か? 」

  お伊曰は、高丘の向かい側に坐り直した。

 

「おまえは、たしか、蓮光院様の看病役を務めておったな? 」

  高丘は、お伊曰を見据えると訊ねた。

 

「さようです」

  お伊曰は嫌な予感がした。

 

「二丸御殿におられる安祥院様にお仕えせよ。今いる看病人が使えぬ故、暇を出した」

  高丘が涼しい顔で告げた。

 

「私は、御上意を受け於富様付となりました。故に、公方様のお許しなくして他へ移ることはできかねます」

  お伊曰はダメもとで拒んだ。

 

「大奥の人事権は御年寄筆頭が持つ。こればかりは、将軍とて口出しはできぬ。これを安祥院様の御膳に混ぜるのじゃ」

  高丘は、懐から懐紙に包んだ粉薬を取り出すとお伊曰の手に握らせた。

 

「もしや、安祥院様に毒を盛れとお命じですか? 」

  お伊曰は、驚きのあまり飛び上がった。

 

「安祥院様が二丸御殿にお住まいだと知る者は、今では私と大崎局だけじゃ。大崎は、御次に降格した故、奥向から出ることはまずない。安祥院様は、このごろ、風邪が長引き床に臥せりがちだそうじゃ。ぽっくり逝ったとしてもあやしまれることはない」

  高丘が小声で言った。

 

「何故、安祥院様を亡き者となさるのでございますか? 奥医師が、安祥院様のおからだを調べれば、毒を盛られたと気づくはずです。安祥院様の死に疑問を持たれたら、御膳を出した私が真っ先に疑われて死罪に処されます。いくら、高丘局のご命令でも命を懸けることだけはできかねます」

  お伊曰は青い顔で訴えた。

 

「野良犬同然だったおまえを奥女中にしてやった恩を忘れたか? 私が、手を差し伸べなければ、今ごろ、おまえは、吉原に身売りされていたのだぞ」

  高丘が、お伊曰の肩をはげしくゆさぶった。

 

「他のことでご恩をお返しします。故に、人殺しだけはご勘弁くだされ。死んだ兄に、あの世で会わす顔がなくなります」

  お伊曰は涙ながらに訴えた。

 

「おまえの亡くなった兄は人殺しではないか? 人殺しの妹の分際で、いまさら、何を申す? おまえが、罪人の妹だと公方様が知ったらどうお思いになるかのう」

  高丘が不敵な笑みを浮かべた。

 

「それだけはおやめ下され。兄の無念を晴らせなくなります。わかりました。安祥院様の御膳に混ぜるだけでよろしゅうございますか? まことに、私は、死なずに済みますよね? 」

  お伊曰は、粉薬を見つめると覚悟を決めた。

 

「しばしの間、身を隠せるように手配する故、案ずるには及ばぬ」

  高丘は、お伊曰の涙を指で拭うと言った。

 

 その後、お伊曰は、安祥院暗殺が決まった理由を知らされないまま、命じられた通り看病役に就いた。安祥院が寝起きしている部屋の障子は所々に破れがあり、畳は黄ばみすえた匂いがした。御付の御女中2人も、安祥院と同じ年頃に見えた。

 

「篤子。そなたが戻ってくれてうれしい」

  安祥院は半ボケしているらしく、お伊曰が、何度違うと訂正しても、篤子という御女中と間違えるため、その内、訂正するのが面倒になり篤子を演じるようになった。奇しくも、安祥院暗殺決行日は、家斉が、ひさしぶりにお渡りする日だった。公方様を迎えるにあたり、奥女中たちが御褥のことにかかりきりになるこの日を選んだのは、御褥の準備で二丸御殿に、いっそう、目が行き届かなくなり、不審な動きがあっても目立たないと言うのが理由らしい。

 

「いかがなされた? 」

  安祥院付の御女中のお園が、お伊曰が、御膳を安祥院に出すのを躊躇していることに気づき訊ねた。

 

「先に中へ入っていてくだされ。お出しする物が1品足らぬ故、急ぎ、御膳所へ伝えに参ります」

  お伊曰は、御膳所に向かうふりしてお園を先に部屋の中へ入るよううながした。お園は、首をかしげながらも先に部屋の中へ入った。お伊曰は、周囲に誰もいないことを確認すると、懐に隠し持っていた毒を取り出した。お伊曰が、毒を汁物の中に入れようとしたその瞬間だった。

 

「火事でございます。早くお逃げ下され」

  奥向の方から、きな臭い匂いが漂って来たと同時に、金切り声が聞こえた。お伊曰は、その声に驚き毒を懐にしまった。

 

「何事じゃ? 」

  先に部屋の中へ入っていたお園が、襖を半分開けて顔だけ出した。

 

「奥向が火事のようです」

  お伊曰が青い顔で答えた。

 

「御膳は私がお出しする故、そなたは、奥向の様子を見て参るが良い」

  お園がしっかりとした口調で告げた。お伊曰は、助かったと思い奥向へ走った。火事が起きなければ、今ごろ、人を殺していたところだ。奥向に着くと、長局の奥女中たちの相部屋がある方から黒い煙が出ているのが見えた。

 

「火元はどちらですか? 」

  お伊曰は、ちょうど逃げて来た奥女中を捉まえると訊ねた。

 

「御次部屋のようですが、火之番が消し止めまして、ボヤで済んだそうです」

  その奥女中が、息を弾ませながら答えた。

 

「教えてくれてありがとう」

  お伊曰は、その奥女中に礼を言うと火元の御次部屋を念のため見に行った。御次部屋の前には、黒山の人だかりができていた。お伊曰は、黒山の人だかりから抜け出して来た奥女中と危うくぶつかりそうになった。とっさに、その奥女中の顔を見た。ぶつかりそうになったのは、奥女中ではなく蓮光院付の御中臈だった。

 

「お伊曰殿ではありませぬか。ここで何をしておられる? 」

  蓮光院付御中臈のお伝は、お伊曰に気づくと一瞬、驚いた表情をしたが、すぐに能面のようなすました顔に戻りお伊曰を問いただした。

 

「お伝殿こそ、いかがなされましたか? 」

  お伊曰は、ムカッときて言い返した。

 

「奥向が火事だと聞き、様子を見に参ったの次第」

  お伝は、明らかに何かを隠しているように見えた。

 

「桜田屋敷からわざわざ参ったですか? 」

  お伊曰は、お伝の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「これにて失礼致します」

  お伝は、足早にその場を立ち去った。二丸御殿に戻ろうと、廊下を歩いている時だった。襷掛けをした奥女中たちが向かい側から走って来た。

 

「蓮光院付御中臈のお伝を見かけなかったか? 」

  その内の1人が、すれ違い様にお伊曰に訊ねた。

 

「お伝殿でしたら桜田屋敷へ戻りました。お伝殿がいかがなされましたか? 」

  お伊曰は聞き返した。

 

「御次部屋から火が出る直前、お伝が出て来るのを見た者がおる。事情を問うため捕えに参ったのだが、桜田屋敷に戻ったのか。教えて頂いて礼を申す」

  その奥女中は、お辞儀すると仲間と共に桜田屋敷へ向かった。

 お伊曰はふいに、大崎のことを思い出した。たしか、大崎は御次に降格したはずだ。急に、大崎の安否が気になり、二丸御殿に戻るのを止めて大崎を捜すことにした。そのころ、大崎は、就寝中に火事に気づき着の身着のままで外へ飛び出したところに偶然、部屋の前を通りがかった御坊主の松心尼に助けられて難を逃れていた。

 

「軽い火傷で済んで良かったではないか」

  松心尼は、大崎を御仏間に引き入れると傷の手当をした。

 

「もしや、そなたは、松島局ですか? 」

  大崎は、聞き覚えのある声に気づき訊ねた。

 

「その名を呼ばれたのは久方ぶりじゃ」

  松心尼が照れくさそうに言った。

 

「大奥を去ったと聞いていましたが、御坊主になられていたとは、今まで、気づきませんで失礼致しました」

  大崎は深々と頭を下げた。

 

「誰にも気づかれぬ方がかえって都合が良い。未練がましいと思われるかも知れぬが、権力を失っても、長い月日を過ごした大奥を去ることは忍び難く、いかなる身分でも良い故、残る道はないかと先代に願い出たところ、御坊主にしてくださったのじゃ」

  松心尼が穏やかに事情を語った。

 

「何か、気がかりなことでもあったのですか? 」

  大崎は自分に重ねて訊ねた。大崎は、御次に降格されても大奥に残ろうと決意したのは、家斉の行く末を見届けたかったからだ。

 

「家斉公が将軍となられた後、幕閣を主導していた寵臣の主殿頭と田沼派の重臣らが罷免された。老中首座に就いた越中殿は、祖父の功績を受け継ぎ、大奥の改革に乗り出す気じゃ。長い間、大奥は、御台様に随伴した御年寄筆頭の高丘局やその配下の者らによって牛耳られてきた。なれども、今まで通りのようにはいかなくなるかもしれぬ。越中殿が、高丘局らをいかなる手段でやり込めるか見物じゃ」

  松心尼が不敵な笑みを浮かべると言った。

 

「大奥の行く末を見たいというだけで大奥に残ったのですか? 」

  大崎は、もっと大きな志があると期待したのでガッカリした。

 

「大奥ほど面白き場はない。家斉公は、父御から子を多く持てと尻をたたかれているそうじゃ。御坊主は、中奥への出入りを許され御褥の監視をするのが役儀だ。御年寄だったころより、多くを深く知ることができる」

  松心尼は、懐から帳面を取り出すと大崎に差し出した。

 

「これは何でございますか? 」

  大崎は、帳面を手に取るとページをめくった。

 

「隠居後の楽しみに、見たり聞いたりしたことを書き留めておる。中には、門外不出の事もある故、肌身離さず持ち歩かねばならぬ。そなたのことも書いてあるぞ」

  松心尼は大崎について記されたページをめくって見せた。大崎は、誰も知らないはずの事実が記されていたため驚愕した。

 

「勿論、名は別人にしたし、誰かわからないよう工夫して書いておる。故に、そなたのことを書いたとしても気づく者はおらぬ」

  松心尼は、あっけらかんとして言った。

 

「高丘局に知られたらただでは済まされませぬ。ただちに、お止め下され」

  大崎は、帳面を松心尼に突き返した。

 

「越中殿が、その内、あの者を大奥から追い払う故、問題なかろう」

  松心尼は口をとがらせた。

 

「もしや、越中殿とお知り合いでしたか? 」

  大崎が身を乗り出して訊ねた。

 

「ああ、そうじゃ。見逃してくれるなら、そなたが返り咲きするための後ろ盾を頼んでやっても良いぞ」

  松心尼が上目遣いで言った。

 

「いまさら、高丘局に、そなたのことを告げ口して取り入る気はございませぬ。むしろ、大きな後ろ盾を得たいと考えていました。まことに、越中殿に頼んで頂けるのでございますか? 」

  大崎は、ワラにもすがる思いで訊ねた。

 

「越中殿は、奥向の間者となる者を捜しておる。そなたを推挙しよう」

  松心尼が、満面の笑みを浮かべて言った。

 

「よしなにお頼申します」

  大崎は、自分を陥れた相手だろうと身の安全が図れるなら、間者でも何でもやる気でいた。

 

「これからは、我らは同志じゃ」

  松心尼は、大崎の肩を優しくたたいた。

 

 一方、お伊曰は、一晩中、大崎を捜したが見つけ出すことができないまま朝を迎えた。二丸御殿の安祥院の部屋に戻ると、安祥院と御女中たちの姿はどこにもなく掃除された殺風景の部屋に、お伊曰の手荷物が置かれていた。

 

「まだおったのか」

  お伊曰が呆然と佇んでいるところにお園がやって来た。

 

「安祥院様と他の方はいかがなされましたか? 」

  お伊曰は、逸る気持ちを押さえて訊ねた。安祥院を殺してはいない。粉薬を入れる寸前に、ボヤ騒ぎがあり、結局、朝まで部屋には戻らなかった。

 

「安祥院様は、昨夜、急に大奥を去ることが決まり、二丸御殿をお出になったのだ。他の者は安祥院様に随伴した」

  お園が無表情で告げた。

 

「何故、急に、大奥を去ることが決まったのですか? 」

  お伊曰は興奮気味に訊ねた。

 

「幕命じゃ」

  お園は、こめかみを押さえながら答えた。一晩中、起きていたらしく、眼は充血しており顔色も悪い。

 

「それでは、私は、奥向へ戻ってもよろしゅうございますか? 」

  お伊曰は、手荷物を胸に抱えると訊ねた。

 

「戻るが良い」

  お園は、お伊曰を送り出すと掃除を始めた。お伊曰は、奥向に戻ることができてうれしかったが高丘の反応がこわかった。

 

「高丘局がそなたを呼んでいたぞ」

  於富は、お伊曰を見つけるなり言った。お伊曰は、重い足取りで、高丘の元へ向かった。高丘は、お伊曰が遠慮気に戸口に立つと手招きした。

 

「申し訳ございませぬ。とうとう、殺めることができませんでした」

  お伊曰は、言われる前に謝ろうと頭を下げた。

 

「大義であった。使わなかったのなら返すが良い」

  高丘は、怒っている様子はなくいつもと変わらなかった。

 

「急に大奥を去られるとは驚きました」

  お伊曰は粉薬を返すと言った。

 

「公方様のお耳に入り、穏便に済ますようにとの御上意があったそうじゃ」

  高丘が冷静に告げた。

 

「何故、安祥院様を暗殺なさろうとしたのか教えて頂けますか? 」

  お伊曰は思い切って訊ねた。

 

「家治公が身罷られた日の夜、二丸御殿から念仏が聞こえたそうじゃ。それまでも、家治公が床に就かれて以来、幾度となく念仏が聞こえたという。故に、側衆の中には、家治公は、呪詛されたのではないかと疑う者もいて密かに調べさせたところ、安祥院付の御女中たちが、城下の寺へ祈祷に通っていたことがわかった。おそらく、念仏を唱えていたのは、あの者らということになったわけじゃ」

  高丘が神妙な面持ちで語った。

 

「お付きの者の所業を何故、主である安祥院様が、命をもって償う必要があるのですか? 御女中らを追い出せば良い話ではないですか? 」

  お伊曰が険しい表情で訊ねた。

 

「こたびの一件は、主の不始末と相成ったわけじゃ。女の業や女の執念というものが、この大奥に渦巻いていることを忘れるでない。気を抜けば足元をすくわれる。信じられるのは己のみじゃ」

  高丘が低い声で告げた。

 

「高丘様。これで恩は十分返せましたよね? 」

  お伊曰がおびえた目で訊ねた。

 

「まだじゃ。おまえには、向後も引き続き働いてもらわねばならぬ。時が来たら、連絡する。あやしまれぬ前に戻られよ」

  高丘は、冷たく言い放つとお伊曰を部屋の外に追い出して障子を閉めた。お伊曰は思わず身震いした。死ぬまで買い殺されるのだ。高丘は、おそろしい人だと改めて思った。