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第7章 大崎の恋

 数日後の昼下がり。大崎は、御休息之間に姿を現した。治済から得た情報によれば、横田準松は、政務上の重要な報告を家斉に知られぬようひた隠しにしているという。

 

「公方様。お伝えせねばならぬ儀がございます」

  大崎が、御休息之間上段に居る家斉に近づくとその耳元でささやいた。

 

「今はちと忙しい。次にしてくれるか? 」

  家斉が背を向けたまま言った。

 

「それでは間に合いませぬ」

  大崎は、家斉の傍らに坐ると言い迫った。

 

「相分かった。話すが良い」

  家斉は、筆を置くと大崎の方へ向き直った。

 

「折からの米価の高騰により市中では米屋が襲われる騒動が頻発しています。御側御用取次の横田準松はそれを知っていながら、公方様への報告を怠っております」

  大崎が冷静に告げた。

 

「それはまことか? 」

  家斉が身を乗り出して訊ねた。

 

「民部卿よりこれをお預かりして参りました」

  大崎が、治済から預かった書状を差し出した。それは、治済が、独自に調査した結果を書き起こしたものであった。天明7年の5月。全国各地で打ちこわしが発生し、江戸においても、奉行所も収拾がつかぬ稀に見ぬ激しい打ちこわしが発生した。打ちこわしを目撃した者の話では、打ちこわしに参加した者たちは、世の中を救うためであるという大義名分を掲げて、日ごろ、米を買い占め売り惜しんだ商人たちよ、民の苦しみを思い知るが良いなどと大声を上げていたという。蔵や米問屋が建ち並ぶ浅草蔵前や小網町の辻などの各所に、『天下の大老、御奉行から諸役人に至るまで、米問屋と結託して賂を受け取り、関八州の民を苦しめている。その罪の故、わしらは、打ちこわしを行うに至った。もし、我々、朋輩のうち1人でも捕縛して吟味にかけることすれば、大老をはじめ、お奉行、諸役人に至るまで生かしておけない。我々は、幾らでも大勢で押し寄せるし、そのこと厭いはしない、かくなる上は、人々の生活が成り立っていけるような幕政を叶えること』といった内容が書かれた木綿布の旗が立てられたという。しかし、打ちこわしが発生し、市中が大混乱に陥る中、江戸城内の御用部屋では、町奉行、寺社奉行、勘定奉行が密会し対策を話し合った際、他の2人が町奉行に対し、何故、町奉行自らが指揮を執り、騒動の鎮圧のため現場に出向かないのかと批判した。それに対して、町奉行の曲淵景漸が、「この程度のことで、いちいち、拙者が出向かずとも良いではないか」と反論したという。勘定奉行の久世広民が、「いつもはボヤだけでも出向くのに、こたびのような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはいかなるものか」と厳しく批判した。こたびの打ちこわしで襲撃された商家の件数は5百軒余り。その内、4百軒以上が米屋、搗米屋、酒屋などの食料品関連の商家である。よって、こたびの打ちこわしは、米を中心とした食糧不足に抗議のために起こした食糧暴動であると思われる。

 

「大崎局。余は、そなたのおかげでようやく目が覚めたぞ」

  家斉が、はっとしたように告げた。

 

「民部卿は、腐敗した幕政を立て直すことができるのは公方様しかおられぬ。公方様ならば、正しき御決断をなさると信じていると申しておられました」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 翌日の朝。家斉は、出勤して来た御側御用取次達を御座之間に呼び出した。出勤早々、定之助から、中奥の御座之間で待つようにとの御上意を伝えられた御側御用取次達は何事かと囁き合いながら土圭之間にて、家斉のお出ましを待った。家斉は、約束の時刻よりもわざとおくれて御側衆の前に姿を現した。

 

「それへ」

 御座之間の前に着座平伏した御側御用取次たちに対し、家斉は声をかけた。横田準松が、御座之間に入り、家斉の御前に着座平伏した後、他の者たちも御座之間に入り横田の後ろに横に並んで着座平伏した。

 

「公方様の御尊顔を拝し恐縮至極にございます」

  横田が代表してあいさつした。

 

「苦しゅうない。面を上げぃ」

  家斉が仏頂面で告げた。

 

「いたみいります」

  横田がおずおずと顔を上げた。

 

「昨年は風冷害により、全国各地で凶作となり米の収穫高が激変したという。米価の高騰により困窮する民はおらぬか心配じゃ。幕府は去る天明6年、天明4年に施行された米穀売買勝手令を再発布し米の流通を活性化させることにより、米価の引き下げを図ったというが、その後の報告が届いておらぬというのはどういうわけじゃ? 」

  家斉が厳しい口調で問いただした。

 

「家治公崩御という凶事に老中首座の罷免が重なり、政局に混乱が生じました故、報告がおくれた次第」

  横田が冷静に答えた。

 

「幕閣で何が起きていようと、民には一切関わりのないことではないのか? 斯様な言い訳は通用せぬ」

  家斉が冷ややかに告げた。

 

「江戸や大阪へ向けて流通は活性化したものの、自由化を図ったことが災いして、脇々米屋素人という定められた業者以外の商人が投機目的で米を買い占めたため、流通量は思いの他増えず米価沸騰はおさまりませんでした。結句、成果を上げることなく米穀売買勝手令は、昨年末に廃すことになった次第」

  横田が神妙な面持ちで告げた。

 

「勿論、町政を預かる町奉行は、ただちに、対策を練り対処したのであろうな? 」

  家斉は横田を見据えると訊ねた。

 

「連日のように、米価が高騰したことにたまりかねた町民が、御番所前へ多勢で押しかけてお救い願いを出すようになり、町奉行以下諸役人共は、その対応に追われておるようでござる」

  横田のすぐ後ろにいた小笠信喜が冷静に告げた。

 

「連日、御番所前へ押しかけてお救い願いを出す者が絶えないというのは見過ごせぬ」

  家斉が腕を組むと言った。

 

「何とか食いつなぐようにとの趣旨と思われる通達を行ったようでござる」

  横田がすかさず告げた。

 

「困窮する民を多く抱えた各町では、町名主や町年寄の自粛要請がなされお救い願いに至らなかったということもございますし、お救い願いがあまりにも殺到したため収拾がつかなくなり、南北の年番名主からのお救い願いを却下したと聞いております」

  小笠原が、町奉行所の対応を批判した。

 

「若狭守。その話をどこの誰から聞き知ったのじゃ? 町奉行から通達の後は、平穏無事だという報告があったではないか? 」

  横田がふり返ると反論した。

 

「町奉行からの報告に納得が行かず独断で調べた次第」

  小笠原が毅然とした態度で答えた。

 

「米がなければ他の物を食えば良い。高値でも、無理に買おうとする故、問屋や仲買が儲けようと出し惜しみをして値が上がるのじゃ。精を出して働けばその内景気も良くなる」

  横田は強気な態度を示した。

 

「両国橋や馬喰所に置かれたお救小屋を視察しましたが、列に並んだすべての者に、おむすびが行き渡ったのか定かではござらぬ。このままでは、餓死者が出るかもしれません」

  小笠原は、横田の隣に進み出ると訴えた。

 

「ますます、見過せぬ」

  家斉が横田をチラリと見やった。

 

「公方様。町奉行以下諸役人らは、休日返上で連日対応に追われております。いましばらく、お待ち下され。かならずや騒ぎを鎮めることでしょう」

  横田が神妙な面持ちで告げた。

 

「そちは、御用取次を何と心得る? 」

  家斉は、横田をにらみつけると訊ねた。

 

「御上意を老中に上奏を公方様にお伝えする役儀を持つ者でござる」

  横田が答えた。

 

「して、そちの元には報告が来ているはずだが、余には何も伝わっておらぬ。そちは、役儀を怠ったことになるのではないか? 」

  家斉は、疑うような眼つきで訊ねた。

 

「さようなことは断じてござらん」

  横田が身の潔白を主張した。

 

「もう良い」

  家斉は、もう、話しても無駄だと匙を投げた。先代の時と同様にして、側近たちは、将軍の手をわずらわせることなく、自分たちの力で解決しようと考えているのだ。その忖度が家斉をイラつかせた。家斉は、何よりも自分がないがしろにされることを嫌った。自分の知らないところで、重要なことが決定している状況に不満を抱かずにはいられなかった。

 横田の頑なな態度を目の当たりにして、自分の目や耳でたしかめなくては気が済まなくなっていた。このころ、町奉行所は、問屋や仲買に対して米の代わりとなる大豆の値を下げるように命じ民に対しては大豆を主食にすることを勧めた。また、一部の仲買商から米を購入できるようにすると通達した。しかし、米価は、高騰した時価のままとしたことから米価高騰に苦しむ民の支援にはならず、奉行所への批判は高まるばかりであった。町奉行所は、売り惜しむ商家に立ち入り検査を行い厳しく取り締るが効果は、一向に見られなかった。生活苦により家賃を払えなくなり食糧の入手が困難になった多数の貧民が、江戸市中にあふれ望みの綱を断たれ生きる希望を失った人たちが、橋から身投げする事件が相次いで起きていた。餓死や自殺の一歩手前まで追い詰められた人々が、世直しのため打ちこわしに立ち上がったのであった。

 

「巡検に参るぞ」

  家斉は、居てもたってもいられず定之助を随え御忍で市中の巡検に出掛けることにした。変装は慣れたもので誰にも気づかれぬことなく市中を歩き回った後、思い立って、町奉行所へ向かった。門前に来た時、家斉が身分を明かすと門番はあわてて将軍の御成りを町奉行に報せた。

 

「御成の際は、前もって報せて頂かないと困ります。何か不手際がございましたか? 」

  月番の北町奉行の曲淵景漸が、忙しなそうに家斉と対面した。

 

「さぞかし、その方らも、こたびの騒動の収拾に難儀しておるのではないかと思い、労いに参った次第じゃ」

  家斉が言った。

 

「いたみいります」

  曲淵が深々と頭を下げた。

 

「ここに来るまで市中を見て回ったが、幕閣へ上がった報告とは、だいぶ、異なっていた。通りすがりの町人から巷で広まる噂を聞いたのだが、そちは、救いを求めて押しかけた町民に対し、町人は米を食うものではない。米がないならば何でも食えと一喝した挙句、犬や猫を食えと追い返したというではないか? まことの話ならば聞き捨てならぬ」

  家斉が単刀直入に言った。

 

「公方様。それは誤解でござる。幕閣の沙汰に従い、米の代用品として大豆を主食とするよう通達を出したのですが、大豆を主食とすれば疫病や脚気になるなどの風説が、市中に広まりまして町民が御番所に大勢押しかけ、一時、町政が滞る騒ぎになったため、やむをえず追い返したのでござる。通達に従わずわがままを通そうとする町民を諫め言う事を聞かせることこそ役人の務めでござる。何も食物は米だけではございますまい。米がなくとも、他の食物で食いつなげばよろしい」

  曲淵が必死に言い訳した。

 

「その心無い言葉が、民心を傷つけ打ちこわしを引き起こしたのではないか? 」

  家斉が言った。

 

「それがしは、幕府から申し伝えられたことをそのまま民に伝えたに過ぎません」

  曲淵は、言い逃れようと必死になっていた。

 

「斯様な空言は聞く耳持たぬ」

  家斉は、一瞬、ムカッと来たがすぐ我に返ると冷静に振舞った。たしかに曲淵景漸の台詞に聞き覚えがある。御側御用取次の横田準松が、苦し紛れに言い放った台詞と全く同じであった。

 

「おそれながら、町民に限らず物価の高騰により困窮しておるのは、身共、武家とて同じにござる」

  曲淵が言った。

 

「その方らの処分については追って報せる」

  家斉は、言い訳がましい曲淵の態度にあきれかえりながらも毅然とした態度を示した。この日、家斉は、城門が閉まる寸前まで町奉行所で諸役人たちと話し合った。中奥に戻ると、意次が、御座之間で待ち構えていた。意次は、老中を依願退職した後も鴈之間に出勤していた。

 

「鴈之間詰となってから、ちっとも、姿を見せないと思えば待ち伏せか」

  家斉は、意次を見るなりくさい顔をした。

 

「お疲れのところかたじけのうござる。折り入って、公方様にお話があり罷り出ましてござる」

  意次が緊張した面持ちで告げた。

 

「余は疲れておる。手短に申せ」

  家斉がぶっきらぼうに言った。

 

「公方様。病につき辞すことをお許し下され」

  意次が、緊張した面持ちで「病気御断」を提出した。

 

「そちが病だとは信じられぬ。いったい、何の病にかかったのじゃ? 」

  家斉は、いつまでも健在だとばかり思っていた意次が病になったと知り、あまりの衝撃に書状を受け取る手が震えた。

 

「忙しさにかまけて、不摂生な生活を送ったことによりそのツケがまわったものと思われます」

  意次が冷静に告げた。

 

「席だけ残して、快復したら復帰すれば良かろう。そちが辞したら、そちのために、今まで頑張って来た者らはどうなるのじゃ? 」

  家斉は、大奥の奥女中たちの悲しむ姿が目に浮かび感情的になった。

 

「心残りがあるとしたら、政務が忙しく家庭を顧みなかったことでござる。余生は、家族と過ごすことをお許し下され」

  意次が悲痛な表情で訴えた。

 

「御三家が、ますます、つけあがることは目に見えておるが、余儀なしことじゃ」

  家斉はやり切れなかった。

 

「それがしは、老中職を全うしたと自負しております。先日、先代の見舞いに登城した越中殿にお会いし久方ぶりに話をしたのですが、越中殿より白河藩主との養子縁組の件で、それがしを恨んでいたが、そのくやしさが良き藩主となり見返す力にもなったと言われ、救われた思いがしました。何と申しても、越中殿の政に対する姿勢が素晴らしい。それがしが果たせなかった大奥の改革を越中殿に託しました」

  意次が穏やかに告げた。

 

「和睦したとは、実にめでたい。越中も藩主として苦労したことで丸くなったのであろう。そちは、余の願いを受け入れ一度は留まってくれた。こたびは、そちの本懐を余が受け入れる番じゃ」

  家斉は、「病気御断」を受理した。

 意次の辞意表明は伏せられたが、幕閣は、以前から、御三家から要請されていた田沼派の重鎮横田準松の失脚に向けて動き出した。田沼派の御側御用取次として横田の右腕として活躍していた本郷泰行が解任されたことは、田沼派の幕臣たちにとって寝耳に水の出来事であった。当初、横田を標的としていた治済だが、思いの他、横田の権勢が強く思い通りに行かなかった。そこで、横田が信頼する本郷泰行を失脚させることにより、横田を動揺させ追い詰める作戦に切り替えた。横田は、治済の挑発に抵抗していたが、治済は、大崎を通じ家斉に英断を迫った。

 

「公方様。横田殿は、田沼派の重鎮でございます。主殿頭は長きにわたり、公方様の寵愛をお受けになり老中と側用人とを兼任しておられました。家重公と家治公は、主殿頭を信頼し政を委ねておられました。主殿頭は、まさに側用人政治を行ったと申しても過言ではありませぬ。田沼意次の栄華を傍でつぶさに見ていた横田殿のことですから、政局が混乱している今こそ、公方様を無体にして政を行おうと考えてもおかしくございませぬ。都合が悪くなった時は、ご上意と偽るおそれもございます」

  大崎が、横田準松を罷免するよう家斉に迫った。

 

「しかりその通りじゃ。余も、あの者と直に話し合いあの者の面の皮が、いかに厚いかを思い知った。民部卿は、いずれ、あの者が余をないがしろにすることを見越した上で、あの者を罷免するよう進言なされたのじゃ。そうに決まっとる」

  家斉は、改めて父の偉大さに感動した。

 

「幕閣の人事権を御三家に握らせてはなりませぬ。公方様が自ら、沙汰を下し、将軍家の威光をお示し下され」

  大崎は、家斉の手を取ると強く握った。

 田沼意致の病を知った治済は、家斉に書状を送り報告した。病により気が弱くなっていた意致は抵抗する力もなく免職に応じ、菊之間縁詰となった。田沼派一掃に集中する治済に対し、定信擁立を機に幕政の刷新を目論む御三家は、目的のためなら手段を選ばぬ治済のやり方に不快感を示すようになった。これでは、定信が、老中首座となっても、治済が将軍の父という立場を利用して幕政に干渉してくることは目に見えている。次第に、御三家は治済を警戒するようになり、両者の間には不穏な空気が流れはじめた。家斉は、本郷と意致の罷免撤回を求め登城しない横田を呼び出した。

 

「本来ならば、そちを真っ先に罷免すべき所をあえてそうしなかったのは、そちに、冷静にこたびの一件を考えて欲しかったからじゃ」

  家斉は横田を見据えた。

 

「公方様。何卒、お考え直し下され。それがしを罷免なされたら、後悔なさりますぞ」

  横田が険しい表情で告げた。

 

「たわけ者。貴様ごときを罷免させたところで後悔などせぬわ」

  家斉は、厳しい口調で言い返した。横田は、家斉の剣幕に驚いたらしく大人しくなった。

 

 翌日、家斉は、ついに横田準松を罷免した。本郷泰行、田沼意致に続き、横田が罷免されたことにより、御側御用取次は、治済に加担した反田沼派の小笠原信喜ただ1人となった。老中首座の松平康福と老中の牧野貞長は、田沼意次失脚後も定信の老中就任に抵抗していた。家斉は、気が晴れるどころがますますイラ立ちを募らせた。イライラすると、無性に甘い物を口にしたくなる。抑えていた欲求が積もり積もったイラ立ちにより爆発して、気がつくと、山のように積み上げられていたはずの饅頭がなくなり丸高坏が空になっていた。家斉は、口の周りと指にべったりとついた餡を見るなり自責の念にかられた。

 

「公方様。ちと食い過ぎではござらんか」

  木村が、物の数分で空になった丸高坏を下げると言った。

 

「正しい決断をしたはずなのに、何故迷うことがある? 」

  家斉は、畳の上でのたうちまわった。

 

「公方様。民部卿が、御目通りを願っておられます」

  忠英が障子越しに中へ告げた。

 

「病とでも言って帰って頂け」

  家斉は、今は誰とも会う気がしなかった。

 

「何が病じゃ。病人が、饅頭をたらふく食えるわけがなかろう」

  治済が、土圭之間にいた近習たちの制止をふり切ると家斉の元に乗り込んだ。

 

「民部卿。お控え下され。おそれ多くも公方様の御前でござる」

  木村が治済をとがめるも、治済は、木村を無視して家斉の前に勢い良く着座した。

 

「まことに心を病んでおる。お引き取り下され」

  家斉は上体を起こすと言った。

 

「公方様に、折り入ってお願いしたき儀があり罷り出ました」

  治済がその場に平伏した。

 

「父上の御所望通り田沼派は一掃しました。他に何を御所望でござるのか? 」

  家斉が冷ややかに告げた。

 

「将軍付老女の大崎局をもらい受けたい」

  治済が緊張した面持ちで願い出た。

 

「今、何と申したか? 」

  家斉は身を乗り出して訊ねた。

 

「大崎局を一橋家の御中臈として迎え入れたいと考えております」

  治済がきっぱりと答えた。

 

「悪い冗談を申しますな」

  家斉が言った。

 

「冗談ではござらん」

  治済が言った。

 

「この件について、於富様と茂姫は承知しておるのですか? 」

  家斉は眉をひそめた。

 

「ふたりには、公方様の許しを得てから話す所存にござる」

  治済は決り悪そうに答えた。

 

「大崎局が、将軍付老女だということをお忘れですか? 」

  家斉は、幼少時代から見守ってくれた大崎を手放すことは考えられなかった。

 

「承知の上でお願い致しております」

  治済が神妙な面持ちで告げた。

 

「人の一生を左右しかねない大事を余の一存で聞き入れることはできかねます。しばし、時を頂きたい」

  家斉は、冷静を装ったが内心は心がざわついた。急に、治済が若さに陰りのある孤独な男に見えてきた。

 

「松心尼」

  治済が帰った後、家斉は御坊主を呼んだ。少しして障子が開き、剃髪し男物の羽織と袴を着用した中年の女が姿を現した。

 

「今宵は奥泊まりを致す。奥向へ伝えよ」

  家斉は、落ち着かない様子で告げた。

 

「承知しました。今宵は、どなたを御所望なさいますか? 」

  松心尼がすました顔で訊ねた。

 

「於富様を」

  家斉が咳払いして言った。

 

「公方様、母御との同衾だけはなりませぬ」

  松心尼が驚きの声を上げた。

 

「たわけ者。母上と交わるとでも思ったか? 母上と夜通し話がしたい故、そう伝えよ」

  家斉が声を荒げた。

 

「承知しました」

  松心尼は、身を小さくすると静かに障子を閉めた。しばらくして、定之助がやって来た。

 

「いざ参らん」

  家斉は、定之助を随え御鈴廊下を渡ると御小座敷へ入った。御小座敷には、於富が待っていた。

 

「今宵は、母上とふたりだけで話がしたい。そちらは席を外してもらえるか? 」

  家斉が穏やかに命を下した。

 

「皆の者。下がるぞ」

  高丘が、周囲にいた者たちを率いて御小座敷を出て行った。

 

「折り入って、私にお話したいことは何でございますか? 」

  於富が訊ねた。

 

「父上が、大崎局をもらい下げたいと願い出ました」

  家斉が神妙な面持ちで答えた。

 

「それはまことの話でございますか? 」

  於富は、動揺を隠し切れずひざの上にお茶をこぼした。

 

「まことの話じゃ」

  家斉は、於富のひざをふきんでふく手伝いをしながら言った。

 

「殿が、大崎局を側室になさるとは思いもよらぬことです」

  於富が青い顔で告げた。

 

「まだ決まったわけではござらぬ。中奥と一橋家の近習衆の合意も得ておりませぬ」

  家斉が於富をなぐさめた。

 

「公方様も、さぞかし、驚かれたことと存じます」

  於富が言った。

 

「母上が拒まれるのであれば断ります」

  家斉は、於富の顔を見つめると言った。

 

「いえ、公方様の仰せの通りに致します」

  於富は、決心を固めたように告げた。於富は、床に入るとすぐ寝息をたてた。家斉は、於富の傍らに横になると目を閉じた。しかし、脳裏に浮かんでくるのは、治済と大崎が、仲睦まじく過ごす姿であった。今まで一度も、大崎を女として見たことがなかったが、大崎は、隣に眠る母より若くて美しい。治済が傍に置きたいと望む気持ちもわからなくもない。大崎は、家斉の乳母となったばかりに結婚も出産も経験しないまま死ぬまで大奥に居るはめになった。一橋家の御女中だったならば、結婚の機会があったかも知れない。家斉は、悩みに悩み抜いた末、朝一番に、大崎を呼び出して本心を聞き出すことにした。

 

 翌朝。家斉は、一睡も出来ず朝を迎えた。於富は、迎えに上がったお付の御中臈を随えて、御小座敷を後にした。於富と入れ替わりに、障子の向こうから大崎の声が聞こえた。家斉は自ら障子を開けた。家斉は大崎を中に引き入れると、御小座敷の前に控えていた御中臈に人払いを命じた。

 

「面を上げよ」

  家斉が静かに告げた。

 

「何故、私をお呼びになったのでございますか? 」

  大崎が顔を上げると訊ねた。

 

「民部卿が、そなたをもらい下げたいと申し出た。そなたも同意の上なのか? 」

  家斉が冷静に尋ねた。

 

「よもや、まことに、公方様へ願い出るとは思いもよりませんでした」

  大崎は決り悪そうに言った。

 

「於富様は、民部卿の正室故に意見をおうかがいした」

  家斉が咳払いして言った。

 

「於富様には、まことに申し訳ないことを致しました」

  大崎が頭を下げた

 

「於富様は余に従うと申された。不公平であってはならぬと考え、そなたを呼んだのじゃ。して、何か申したいことはあるか? 」

  家斉は、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「私も、公方様の仰せの通りに致す所存でございます」

  大崎は深々と頭を下げた。

 

「そなたにひとつ聞きたいことがある」

  家斉は、大崎の傍らに坐ると小声でささやいた。

 

「何なりとお聞き下され」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 

「父上のお手はついたのか? 」

  家斉は慎重に訊ねた。大崎は、一瞬肩をびくつかせた。

 

「やはりそうか。そなたは、まことに正直者じゃのう。一度きりなのだろうな? 」

  家斉は、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「お許し下され。あれは、若気の至りでございました。2度と致しませぬ」

  大崎は、畳に額を押しつけると必死に詫びた。

 

「そなたが悪いのではない。悪いのはそなたを我物にしようとした男の方じゃ。誰に聞かれても、何もないと白を切るのじゃ。そなたの名誉を守るためにもそれが良い。認めたら、そなたも民部卿もただではすまされぬ」

  家斉は、大崎の背中を優しくさすると言った。

 

「公方様。お気遣い頂き感謝致します」

  大崎は思わず涙ぐんだ。治済と関係を結んだことを悔やみ、自分を責めていた分、家斉の優しさが身に染みた。家斉に続いて大崎が御小座敷を出る直前、廊下を走り去る人影があった。大崎は、涙をふいて気持ちを入れ替えると何事もなかったように毅然とした態度で廊下を歩いて行った。