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第5章 表と裏の勢力争い

 家治の死が公表されてから1か月後。家斉は本丸御殿へ遷った。家斉は、御庭番の川村修富を本丸へのお伴に命じ、家治の時代に小納戸を務めた林忠英と中野定之助を引き続き、本丸小納戸に就かせた。また、西丸御殿時代から家斉の近習を務める水野忠成と木村重勇も、家斉と共に西丸御殿から本丸御殿へ遷った。定之助は、家斉から寵愛を受けていることを良いことに家斉の傍を独占し始めた。本丸御殿に遷った2日後の正午過ぎ。家斉は、政務を早々に切り上げると井呂裏之間にて、木村を相手に将棋を打っていた。

 

「上様、いかがなされましたか? 」

  木村は、家斉が打つ手を休めて考え込んだことから心配して訊ねた。

 

「そちは、辞職願を出した主殿頭の真意をいかに考える? 」

  家斉は、意次が辞職を願い出たことに対する意見を木村に求めた。

 

「それがしには何とも‥ 」

  木村は考え込んでしまった。

 

「主殿頭が、自ら御役御免を願い出るとは思いもしませんでしたが、辞めさせる手間が省けて、かえって良かったのではござらんか? 」

  2人の対局を見ていた定之助が、木村を尻目に横から口を挟んだ。

 

「今になって、自ら身を退くとはどうも解せぬ」

  家斉は腕を組んで思案した。周りに流されぬことなく信念を貫いて来た男の引き際にしては、あっさりし過ぎやしないかと思った。

 

「幕政に対する民の批判が強まる中、主殿頭も思うところがあったのでござろう」

  木村が苦み走った顔で告げた。

 

「意次は、わしと交わした約束をまだ果たしておらぬ」

  家斉が口を曲げた。意次から、大奥の改革に着手したという報告は未だ届かない。辞職願を提出したということはその気がないということになる。

 

「主殿頭の辞職を機に、幕閣から、田沼派を一掃なされば良いのではないかと存じます」

  定之助が興奮気味に告げた。

 

「たわけ者。何を申すか? 」

  家斉は、思わずムカッときて定之助の頭をこづいた。家治の死を悼む間もなく、意次を早く罷免しろと催促する父に対し家斉は反発を強めた。

 

「皆がそう申しております」

  定之助が頭をさすりながら言った。

 

「今は喪に服さねばならぬ時じゃ」

  家斉は、意次の辞職を素直に受け入れることができずにいた。

 

「播磨守。ちとよろしいか? 」

  忠英が、遠慮気に井呂裏之間へ入って来た。

 

「こやつめ、推参致しおいて。それがしは、上様と大事なお話をしているのじゃ。うぬには、それがわからぬか? 」

  定之助が厳しい口調でとがめた。

 

「御用達の呉服商が、上様が将軍就任式にお召しになる裃の納入に参ったら、伝えるように申したのは貴殿ではござらんか? 」

  忠英がムキになって言い返した。

 

「それを早く言わぬか? おぬしはいつも一言足りぬ」

  定之助が、忠英の頭を軽くこづいた。

 

「言おうとしたら、貴殿が止めたのでござらんか」

  忠英がしかめ面で反論した。

 

「上様。中座をお許し下され」

  定之助は一礼した後、忠英の尻をたたきながら退席した。

 

「上様。民部卿がお見えでござる」

  しばらくして、忠英が障子越しに告げた。

 

「何? 父上がお見えになっただと? 」

  家斉は急にあせり出した。治済が動き出すと必ず、何かが起きる。

 

「登城されて間もなく、談事部屋にお入りになりましたが、今しがた、退出されて、こちらへ向かわれている次第」

  忠英が冷静に報告した。

 

「今、談事部屋と申したか? 」

  家斉は身を乗り出して訊ねた。

 

「さようです」

  忠英が返答した。

 

「父上の元にも、公方様の遺言を伝える書状が届き、委細をたしかめるために登城なされたのじゃ」

  家斉は、意気揚々と登城する治済の姿を想像して身震いした。

 

「上様。どちらへおでかけですか? 」

  水野忠成は、家斉が部屋から飛び出して来たかと思うと縁側から庭へ飛び降りたので驚いて引き留めた。

 

「父上には、わしは不在だと伝えよ」

  家斉はそう言うと、周囲を慎重にうかがいながら庭を駆け抜けて行った。水野は、あわてて家斉の後を追いかけた。

 

「上様。おケガはござらんか? 」

  水野は、御三丸入口御門の潜り戸の前で家斉に追いついた。家斉は、潜り戸の淵にからだがすっぽりはまってしまい、外へ抜け出すことができず立ち往生していた。水野忠成は、家斉のからだを内へ引き戻した。家斉は、潜り戸の淵からぬけ出た拍子に地面に尻餅をついた。

 

「ちと菓子をひかえねばならぬのう」

  家斉が、水野の肩を借りて上体を起こすと言った。

 

「民部卿と何かあったのですか? 」

  水野が訊ねた。

 

「父上は、田沼派が牛耳る幕閣に強い不満を抱く御三家と結託して政敵の意次を追い出すため、着々と準備をなさって来られた。ついにその時が来たようじゃ」

  家斉は、尻についた砂をはらうと言った。

 

「お会いになれない事情はわかりました。なれど、御忍で城外を散策なさるは、しばし、お控え下され」

  水野が頭を下げて言った。

 

「相分かった。外へは参らぬ故、安心して戻るが良い」

  家斉は、水野を追い返すと奥向の方へ向かった。家斉が、奥向に足を踏み入れた途端、その場に居合わせた奥女中たちが色めきたった。好奇の視線を浴びながら廊下を闊歩していると、庭の方から、何やら威勢の良いかけ声が聞こえた。縁側から庭を眺めると、見知らぬ武家の娘が、数人の奥女中たちと共に額に汗を光らせて薙刀を振っていた。

 

「あの勇ましい女人は何者である? 」

  家斉は、通りかかった奥女中を捉まえると訊ねた。

 

「あの女子は、別式という武芸指南役でございます。種姫様付御中臈らに薙刀や馬術の稽古をつけております」

  奥女中は、お辞儀すると立ち去った。家斉は、一目でその別式の美しさに心奪われた。家斉が見とれていると、その別式が、家斉に気づいてお辞儀をした。

 

「その方。名を何と申す? 」

  家斉は、縁側からその別式に声をかけた。

 

「押田耀と申します」

  耀は、はつらつとした表情で名を名乗った。耀は、先祖代々本丸小姓を務める押田氏の娘で、家治に仕える小姓の押田勝長の妹にあたる。またの名をお楽という。

 

「そなたのような器量良しの女人を別式にとどめておくのは実に惜しいのう。いっそのこと、奥向に仕えたらどうじゃ? 」

  家斉が鼻の下を伸ばした。

 

「いたみいります」

  耀は頭を下げた。

 

「大崎局にそなたを部屋方にするように申し伝える」

  家斉は満面の笑みを浮かべた。

 

「おそれながら、私は、すでに種姫付の御中臈となることが決まっております」

  耀は、お辞儀すると稽古を再開した。

 

 家斉は、その足で大崎の元へ向かった。大崎の部屋を訪ねた時、ちょうど火之番のお伊曰が来ていた。

 

「その方はたしか、火之番のお伊曰ではないか? 」

  家斉が思い出したように言った。

 

「さようでございます」

  お伊曰があわてて、その場に平伏した。

 

「この者をご存じでしたか? 奥女中の分際で御役御免を直訴するとは、身の程をわきまえるよう叱りつけておった次第」

  大崎が、眉間に皺を寄せて言った。

 

「お伊曰はうら若い娘じゃ。成り行きとはいえ、桜田屋敷へ追いやったことは、考えが足りなかったかもしれぬ」

  家斉がお伊曰をかばった。

 

「あろうことか、この娘は、蓮光院様の病は治った故、して差し上げることは何もない、前の職に戻して欲しいと直談したのでございます」

  大崎は、横目でお伊曰をにらむと訴えた。

 

「まことの話でございます。傷の方も治りましたし身の回りのお世話は、御付の御女中らがしております。これ以上、看病は不要かと存じます」

  お伊日はきっぱりと告げた。

 

「そういうわけじゃ」

  家斉が大崎に言った。

 

「蓮光院様を襲った刺客も未だ、見つかっておりませんし、蓮光院様の侍医は、蓮光院様は心の病を患った故、お傍で見守る者がいると申しております。お伊曰は、上様の申し伝えにより、蓮光院様の看病人となりました。故に、私が独断でその任を解くわけにはまいりませぬ」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 

「お伊曰。蓮光院の看病人の任を罷免し、新たに於富様付御中臈を申し伝える。大崎。そなたには、蓮池院の新たな看病人捜しを申し伝える」

  家斉はそれぞれに命令した。

 

「ありがとう存じます」

 

「承知しましてございます」

 

 2人は、それぞれ別の感情を抱きつつ命令を受けた。

 

「もう、下がるが良い」

  大崎は、お伊日を下がらせると御人払いした。

 

「大崎、そなたに申し伝えることがござる」

  家斉が改まって告げた。

 

「私も上様にお話がございます」

  大崎が咳払いして言った。

 

「奥女中に、武芸の稽古をつけておる別式が奥向に出入りしておろう? あの者をそなたの部屋子に抱え申せ」

  家斉が興奮気味に言った。

 

「もしや、耀をお気に召したのですか? おそれながら、あの者はすでに、種姫付の御中臈と決まっております」

  大崎が決り悪そうに告げた。

 

「そなたの力で何とかならぬか? あのまっすぐで大きな瞳が良い。器量が良いだけでなく知性を感じる。何より、勇ましい女人と言うのが気に入った」

  家斉がうっとりした表情で言った。

 

「耀を側室としてお考えですか? 」

  大崎が眉をひそめた。

 

「さもあろう」

  家斉が顔を赤らめた。

 

「側室をお選びになる前に、御内証を決めなければなりませぬ」

  大崎は、家斉の御内証に相応しい御中臈候補に目星をつけたという。

 

「手ほどきを受けずとも何とかなる」

  家斉が逃げ腰で言った。

 

「何事もはじめが肝心だと申します。初の御褥が、向後を左右すると申しても過言ではありませぬ。御年寄衆の評議にて、上様の御内証に相応しい者を何人か選び、絵師を呼んで、候補者の人相書を作らせました故、ご覧に入れましょう」

  大崎は、文箱から絵を数枚取り出すと家斉の前に並べた。

 

「わしには茂姫という許嫁がおる。他の女人を相手にするなどできぬ」

  家斉がめいわくそうに言った。

 

「御内証選びは、一橋家の血筋を将軍家に遺すための大切な儀でございます」

  大崎は、候補者の人相書の1枚を家斉の前に並べた。家斉は、おそるおそるその中の1枚を手に取った。その絵に描かれた娘は、色白のおたふく顔だった。

 

「こやつはちと肥え過ぎじゃ。わしを愚弄しておるのか? 」

  家斉がその1枚をはねつけた。

 

「おまるは、上様より8つ年上ですが、美形で気立ての良い健やかな女人でございます。それに、1度、旗本に嫁いだことがあり、男女の営みを知り得ております。御内証に相応しいと存じます」

  大崎が自信満々に主張した。

 

「何を言われても、気に入らぬものは気に入らぬのじゃ」

  家斉は、大きく首を横に振った。

 

「しからば、他の候補者はいかがでございますか? 」

  大崎が身を乗り出して訊ねた。

 

「この者に決めた。器量良しじゃ」

  家斉は、はねつけた人相書の隣に並べられた人相書を手に取ると、大崎の顔の前につき出した。

 

「上様が、お宇多をお選びになるとは高丘局のよみは、見事にあたりましたな」

  大崎が感心したように言った。

 

「この者は高丘局の縁者か? 」

  家斉が訊ねた。

 

「実を申しますと、お宇多は主殿頭の縁者だということで高丘様が、ぜひにと推挙されたのでございます」

  大崎が小声で答えた。

 

「田沼家の女人を勧めるとは、いかにも田沼贔屓の高丘らしいのう」

  家斉が腕を組むと言った。姿形は好みだがその背後が問題だ。

 

「お宇多は、おやめになられた方がよろしいかと存じます」

  大崎が神妙な面持ちで告げた。

 

「何故じゃ? 」

  家斉が、大崎の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「上臈御年寄の高丘様の推挙である故、除くことはできず候補者に挙げはしましたが、私は気が進ません」

  大崎は反対の意思を示した。

 

「相分かった。内証の件はそなたに委ねるとしよう」

  家斉は、大崎の勘を信じることにした。

 

「おまかせ下され」

  大崎が深々と頭を下げた。

 

 家斉が、本丸に戻ったのは夕餉の支度が整った後のことだった。家斉の姿が見えると、定之助が駆け寄って来た。

 

「上様。お忘れとは言わせませんぞ。奥向へ参られる時は、お伴しますと申し上げたではござらんか」

  定之助が障子を開けるなり言った。

 

「内々の話をしに参ったのじゃ」

  家斉がぶっきらぼうに言った。

 

「もしや、御内証の方が決まりましたか? 」

  定之助が目を輝かせて訊ねた。

 

「お宇多と申す娘が良かったが、大崎が反対しておる故、別の者に決まるかも知れぬ」

  家斉が答えた。

 

「お宇多? どこかで聞いた名でござるな」

  定之助が考え込んだ。

 

「ここだけの話だが、お宇多は、田沼家の縁者だそうじゃ」

  家斉は、定之助に耳打ちした。

 

「思い出しました。たしか、主殿頭の次女の名がお宇多でござる。若年寄の井伊直朗に嫁いだと聞いていましたが、何故、御内証の候補者になっているのですか? 」

  定之助は興奮気味に訊ねた。

 

「さあな。それより、今、井伊直朗に嫁いでいたと申したか? 」

  家斉は口をとがらせた。

 

「さようでござる。御内証の候補になったということは、離縁したということになりますな。井伊直朗と大老の井伊直幸は共に田沼派でござる。田沼派と縁を切ってまで、娘を上様の御内証にしたかったのでしょうか? 」

  定之助が、家斉に顔を近づけると言った。

 

「政略結婚には色々あると母上から聞いたことがある。やはり、離縁した理由が気になる」

  家斉が腕を組んで言った。

 

「しからば、弟子に、田沼派の動きを探らせましょう」

  定之助がはりきって言った。

 

「おぬしに弟子などおったか? 」

  家斉が上目遣いで訊ねた。

 

「上様が御物茶師に召し抱えた熊蔵のことでござる。熊蔵の方から、我の弟子にして欲しいと願い出ました故、弟子にしてやりました。実は、奥坊主に空きがあり、上様のご寵愛を受けていると幕閣に働きかけたところ、あの者を奥坊主に召し抱えるお許しを頂きましてございます。これもすべて上様のおかげ。熊蔵には、上様のために身を粉にして働くようにと誓わせました。何なりとお申しつけ下され」

  定之助が得意気に言った。

 

「さよか」

  家斉は、上様のおかげと聞いて気を良くした。

 

「おそれながら、熊蔵が、円成坊と名を改めたいと申し出ました。上様のお許しがあれば、ただちに改めさせたいと存じます」

  定之助が上目遣いで告げた。

 

「しからば、こたびの一件を上手く務め上げたら改名を許すことに致す」

  家斉は条件を出した。

 

「仰せの通りに致します」

  定之助は、にっと笑うと返答した。

 

 家斉が予想した通り、ついに、治済が行動に出た。御三家当主は、それぞれが、田沼意次主導の政策を厳しく批判した上で、幕閣人事の刷新と意次を厳罰に処する旨を幕閣に申し入れたのであった。意次の失脚後もなお、田沼派の幕臣の松平康福が、老中首座に就くなど、幕閣の中枢には、相変わらず、田沼派の幕臣が君臨していた。幕政を強化するとの目的で、鳥居忠意と牧野貞長が、老中職に任ぜられた他、治済は、御三家当主に働きかけると同時に、田沼派の御側御用取次の横田準松を牽制するため、同じく御側御用取次の小笠原信喜を取り込んで、いっせい攻撃を仕掛けてきた。一方、大奥では意次を支持する勢力が残存しており、幕府の財政が悪化する中、大奥を優遇した意次に対する奥女中の信頼は厚く相変わらず人気があった。大奥では、意次と近しい仲であった御年寄筆頭の高丘が中心となり、意次の罷免撤回懇願書が幕閣に提出された。

 

ある日の昼下がり。於富が、御目通りを願い出ていると聞き、家斉は緊張した面持ちで於富と対面した。

 

「お召し上がれ」

  於富が家斉に饅頭を勧めた。

 

「ありがたく頂戴致す」

  家斉は、饅頭を1つ手に取った。

 

「先日、大奥の奥女中らが、主殿頭の罷免撤回懇願書を幕閣に提出しましたが、民部卿が、田沼派を一掃するよう幕閣に働きかけているフシがあり、このままでは、主殿頭の罷免は免れないと危惧し、大奥においても、策を練っておる次第でございます」

  於富が神妙な面持ちで告げた。

 

「何故、奥女中らは、意次の罷免撤回を望んでおるのでござるか? 」

  家斉が素朴な疑問を投げかけた。

 

「これまで、主殿頭は奥向の儀を優遇して下さった。主殿頭には返し切れぬ恩があると、御年寄をはじめ、多くの者らが申しております。その恩を忘れて、身の保全を図ろうとする者は大奥にはおりませぬ。私も、主殿頭の罷免撤回を切に願っております」

  於富の意思は強かった。

 

「わしは、中立を守らねばならぬ」

  家斉がきっぱりと告げた。

 

「それでも、こうして身共の意見に耳をお貸し下さった。感謝致します」

  於富が頭を下げた。

 

「政務が残っています故、これにて御免仕る」

  家斉は、逃げるように御休息之間へ舞い戻った。

 

「上様。ちとお話がござる」

  家斉が御休息之間下段にて政務を行っていると、木村が家斉に耳打ちした。

 

「何じゃ? 」

  家斉が小声で訊ねた。

 

「今朝、御坊主が参りまして今宵はどうかと訊ねられました故、お渡りになるとお答えしましたが問題ござらぬか? 」

  木村が上目遣いで訊ねた。

 

「相分かった」

  家斉は、心ここにあらずの返事をした。その日の午後。家斉が奥泊まりすると聞きつけた定之助が、にこにこしながら近づいて来た。

 

「上様。今宵、奥泊まりなさると聞きましたぞ」

  定之助は、家斉に耳打ちした。

 

「将軍の務めとはいえ、許嫁の茂姫以外の知らぬ女人を抱くのは、どうも気が進まぬ」

  家斉が決り悪そうに言った。

 

「お宇多の件ですが、井伊直朗とお宇多の離縁には、どうやら、御三卿が関与しておるようでござる」

  定之助が小声で言った。

 

「御三卿といえば、田安、一橋、清水の三家じゃ。田安家は当主不在。清水家当主は病に伏しておる。残るは一橋しかおらぬではないか」

  家斉は、まわりくどい言い回しにイラ立った。

 

 家斉が、西丸御殿に遷ると共に、一橋家家老から、小姓組番頭格の西丸御側取次見習いとなった田沼意致の出世は、意次と治済との関係が良好であった時に実現したことであり、治済が、意次を罷免に追い込んだ今となっては、意致の出世は止まるどころか降格も避けられない。家斉は、治済が、井伊家に、将軍の父で御三卿の自分が幕閣に働きかければ、人事はどうとでも変えられると迫り、田沼家との縁を断ち切るよう迫ったのではないかと考えた。

 

「井伊家に限らず、主殿頭のご子息や甥と養子縁組した田沼派の幕臣らが、養子縁組を解消し田沼家と縁を切ることは必至でござろう」

  定之助が神妙な面持ちで告げた。

 

「皆、冷たいのう」

  家斉が皮肉った。

 

「主殿頭が、身の保身を図るため上様に娘を献じたとすれば、お宇多の名が候補に挙がったことも納得が行きます」

  定之助が、家斉の顔をのぞき込むと言った。

 

「大崎が反対しておる故、主殿頭の望み通りには事は運ばぬ。よくぞ、調べてくれた。約束通り熊蔵の改名を認める」

  家斉が憮然とした表情で告げた。

 

 その夜、家斉は、脇差のみの着流しで、定之助を従え上の御錠口まで行くと、奥向へ通ずる上御鈴廊下へ緊張した面持ちで足を踏み入れた。次の瞬間、家斉は、鳴り響いた御出ましを報せる鈴の音に驚き、思わず、足がすくんだ。

 

「お迎えにあがりました」

  上臈御年寄の高丘と表使のお八重が、家斉を出迎えて御小座敷へ先導した。

 

「上様。緊張なさっておられますか? 」

  高丘が、茶碗にお茶を注ぐと訊ねた。

 

「大事ない」

  家斉は強がってみせたが、茶にむせたことで緊張していることがばれた。

 

「何もおそれることはございますまい」

  お八重が、家斉の背中をさすりながら言った。その後、家斉は、高丘に促されて、御内証が待つ寝所に入った。寝所には、布団が4枚並べて敷いてあった。

 

「何故、布団が4枚並んでおるのじゃ? 」

  家斉は高丘に訊ねた。

 

「御内証の他に、添い寝の御中臈と御坊主が控える慣習となっております」

  高丘は言い終えると、家斉をその場に1人残して立ち去った。御内証は、家斉が近づくと両手をついて頭を下げた。

 

「面を上げぃ」

  家斉は、御内証となった御中臈の傍に坐ると命じた。御内証となった御中臈は、おそるおそる顔を上げた。家斉は、御内証となった御中臈の顔を上げた途端、思わず、つばを飲み込んだ。御内証となった御中臈は、はじめて見る顔だった。直前まで、お宇多に決まっていたが、急遽、取り消しとなり、茂姫付の御中臈の中から、幕臣の平塚為喜の娘のお万が選ばれたのだった。

 

「その方、名は何と申す? 」

  家斉が咳払いして言った。

 

「お万と申します」

  お万がうつむき加減で答えた。

 

  翌朝、目を覚ますとすでに隣にお万の姿はなく、家斉は昨夜のことを思い出して余韻にひたっていた。そこへ、高丘がやって来て枕元に坐った。

 

「上様。お目覚めよろしゅうございます」

 

「お万の姿が見えないがどこへ消えた? 」

  家斉は、着物に袖を通すと周囲を見渡した。

 

「上様がお目覚めになる前に退出する掟通り、夜明け前に下がらせました」

  高丘が答えた。

 

「こたびは、上様に、御褥の作法をきちんと指南できる女人を選びましたが、上様のお好みをお教え頂ければ、向後は、できるだけ上様のお好みに添うような女人を選ぶように致します」

  高丘が穏やかに告げた

 

「ところで、お宇多はいかがしたのじゃ? 」

  家斉はそれとなく訊ねた。

 

「お宇多のことをご存じなのですか? 」

  高丘が目を丸くして訊き返した

 

「大崎から御内証の人相書を見せられた故、あの娘を選んだのじゃ。そなたが推挙したと聞いたぞ」

  家斉がぶっきらぼうに答えた。

 

「身元に不都合あり、御召し出しを取り止めたのでございます」

  高丘が気まずそうに答えた。

 

「不採用になったならば仕方がないのう」

  家斉は複雑な気持ちになった。意次の娘が御内証というのもおかしなものだが、お宇多は家斉の好みの女だったので、会って話しがしてみたいと期待もしていた。

 

 治済は、いつ訪ねても家斉が不在なことを不審がるが、ほぼ、意次の引退が決まったこともあり安心しきっていた。田沼派の幕臣たちの間でも、保身のために意次と縁を切る者と大奥と結託する者とに分裂した。老中の水野忠友は、水野家の養子とした田沼意次の4男、意正との養子縁組を解消して実家に戻らせた。水野忠徳と名乗っていた意正は、母方の姓を称して、「田代玄蕃」に改名を余儀なくされた。その一方で、大老の井伊直幸は、同族で若年寄の井伊直朗と共に大奥の御年寄と結ぶと同時に、代替りの後も留任できるようにと老中や御側御用取次たちに賄賂を贈った。

 

「上様。民部卿から書状が届いております」

  定之助が、手つかずの書状の山を横目に今朝、届けられた書状を手渡した。

 

「後で目を通す故、それへ」

  家斉は、未開封の書状の山に加えるように顎で指図した。

 

「上様。何故、民部卿からの書状を後回しになさるのでござるか? 」

  定之助が、難しい表情をしながら書状を書く家斉に訊ねた。

 

「読まぬとは申しておらぬ」

  家斉が、書き終えた書状を折りたたむと答えた。

 

「なれど‥ 」 

  定之助は、どういうわけか引き下がらなかった。

 

「これを田沼意次へ手渡すのじゃ」

  家斉が、定之助に書状を手渡した。

 

「上様。意次殿に書状とは、いったい、どういう風の吹き回しでござるか? 」

  定之助は書状を受け取ると訊ねた。

 

「人づてではなく、かならず、当人に手渡すのだ。良いな? 」

  家斉は、定之助の顔を見つめると念を押した。

 

「承知仕りました」

  定之助は一礼すると引き下がった。

 

 それから数日後、家斉は、御忍で妙法寺へ行った。

 

「上様。客人が、先にお着きになり中でお待ちです」

  住職が出迎えた。

 

「待たせたな」

  家斉は、平伏す客に声を掛けると着座した。

 

「上様より、謁見を賜り恐悦至極に存じます」

  意次が、緊張した面持ちであいさつをした。

 

 「堅苦しいあいさつは抜きにして楽にせよ」

  家斉が穏やかに告げた。

 

 「いたみいります」

  意次が背を正した。

 

 「そちに対する風当たりは相当強い。嵐の目に身をおいておるようじゃ」

  家斉が神妙な面持ちで告げた。

 

 「お恥ずかしい限りでござる」

 意次が神妙な面持ちで告げた。

 

 「12月27日をもって謹慎を解く故、そのつもりで、来年の年賀の席に出席するが良い」

 家斉は、言うことだけ言い終えると立ち上がった。意次は、一瞬、驚いた表情で、家斉を仰ぎ見たが、すぐにその場に平伏した。境内で待たされていた定之助は、家斉が入ったと思ったら、すぐに出て来たので何事かと駆け寄った。

 

「上様。どなたと会っておられたのですか? 」

 定之助が訊ねた。

 

「参るぞ」

 家斉は、定之助の問いに答えることなく颯爽と馬にまたがった。

 

「上様は、誰と会っておった? 」

 定之助は、家斉を見送るため外に出て来た住職を捉まえると小声で訊ねた。

 

「さあ、存じ上げませぬ」

 住職は、口止めされているらしく白を切った。

 

「何をしておる」

 家斉は、ついて来ない定之助を急かした。

 

 「ただいま、参ります」

 定之助は、住職をにらむと馬にまたがり家斉の後を追いかけた。