閉じる


第4章 家治、逝く

  家治が床に臥せる日が多くなると、念仏を唱える奥女中たちの声が絶えず聞こえて来た。家斉は、1日中、どこからともなく聞こえて来る念仏にうんざりした。

 

「城内に公方様の重病説が飛び交っておりますが、大納言様は、何か聞いておられますか? 」

  定之助が、家斉の肩をもみながら訊ねた。

 

「鳥居の爺が、御休息之間の前に座り込み公方様をお守りすると息巻いておる。先日、爺が一時席を外した隙に、中へ入ろうとした周防守が戻って来た爺に見つかり、こっぴどく叱りを受けたそうじゃ」

  家斉が面白おかしく言った。

 老中首座の松平康福を追っ払ったとあって、もめごとになると思いきや、鳥居が、高齢で家重の代から仕えていることもあり、さすがに、康福も何も言えなかったらしい。噂では、家治が、家重の逝去を機に幕閣から遠ざかっていた鳥居を呼び戻し老中職に据えたのは、田沼派を牽制する目的があったという。

 

「鳥居殿は、いったい、何から、公方様を守ろうとなさっておられるのですか? 」

  定之助が、家斉の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「さあな。公方様には、1日も早く元気になって頂かなければ困る。こう、朝から晩まで、念仏を聞かされては気が散って学問に身が入らぬ」

  家斉がぼやいた。

 

「鳥居大明神が、公方様をお守りしているのですから念仏など無用ですよね」

  定之助が言った。

 

「暇つぶしに双六でもやるか? 」

  家斉が、近習たちを集めると双六を持ち出した。

 

「そこにおるのは何者でござるか? 」

  木村が、障子に映る人影に向かって訊ねた。

 

「鶴千代じゃ。開けてやるが良い」

  家斉が、木村に障子を開けるよう命じた。

 

「久方ぶりじゃのう」

  家斉が、「宇治之間」に入って来た若侍を手招きした。

 

「こちらは? 」

  木村は、初めて見る品の良い若侍を警戒した。

 

「水戸候の嫡子、鶴千代じゃ」

  家斉は、鶴千代を傍に坐らせると自慢気に紹介した。

 

「この者は、何者ですか? 」

  鶴千代が、定之助に気づき家斉に訊ねた。

 

「この者は、わしの話し相手を務めさせておる中野定之助じゃ」

  家斉が咳払いして言った。

 

「その方。前にどこかで会ったことはないか? 」

  鶴千代が、定之助の顔をのぞき込むと訊ねた。

 

「いえ。それがしは、鶴千代様とは、お初にお目にかかりますが‥ 」

  定之助が目を反らして言った。

 

「双六をしておったところじゃ。おぬしも仲間に入るが良い」

  家斉が、鶴千代に将棋の駒を手渡した。

 

「これは何でござるか? 」

  鶴千代が、将棋の駒を家斉に見せると訊ねた。

 

「将棋の駒じゃ。コマ代わりに使っておる」

  家斉が、サイコロをふるいながら答えた。

 

「数ある駒の中から竜をお選びになるとは、さすがは水戸候の嫡子様。水戸徳川家の嫡子は代々、中納言に任じられます。中納言は唐名で黄門。黄門の異名は竜作の官でござる」

  木村がお世辞を言った。

 

「双六なんぞ童子の遊びじゃ。それよりも、下屋敷へおいでになりませんか? 」

  鶴千代が、将棋の駒を放り出すと家斉を熱心に誘って来た。

 

「水戸の下屋敷へ参るのは久方ぶりじゃのう」

  家斉がうれしそうに言った。

 

「大納言様。水戸徳川家の下屋敷へおいでになるのはいかがなものかと存じます」

  木村があわてて、家斉を廊下の隅に連れ出すと苦言を呈した。

 

「何故、斯様なことを申す? 」

  家斉が木村に詰め寄った。

 

「水戸藩では、光圀公がはじめた大日本史の修事事業を復興させたと聞きます。吉宗公の時代、大日本史は、北朝政党論を唱える現世の皇室に反する南朝を正統化するものとして朝廷献上は実現しなかった。鶴千代君と近しい大納言様にお頼みすれば、公方様に口添え下さると考えておられるやもしれませぬ」

  木村が家斉に耳打ちした。

 

「水戸藩は、財政難で苦しんでいると聞く。財政の立て直しで、それどころではあるまい」

  家斉は、木村の話を鼻であしらった。

 

「大納言様。鶴千代君が、大日本史の話を持ち出して来られたら、それとなく、話を他に反らすのですぞ。長居することなく早めにお帰り下され」

  木村は、西丸御書院番徒士頭の長谷川平蔵を護衛に就かせることで家斉を送り出すことに納得した。

 家斉は、意気揚々と水戸徳川家下屋敷へ向かった。水戸徳川家下屋敷は、大川沿いにある。大川に架かる大川橋を渡れば、参拝客でにぎわう浅草寺の門前町に到る。同じ年生まれの鶴千代とは、物心ついたころから互いの屋敷を行き来する仲だ。春になると、大川沿いの並木道に植えられた桜が満開になる。水戸徳川家下屋敷は、大川に面していることもあり、毎春、庭で花見の宴が開かれる。一橋家に居たころは、家斉も、父と共にお呼ばれに預かった。夏は、川から吹く風が屋敷の中に入り涼しい。家斉は、屋敷が近づくにつれて、昔のことを思い出して胸がいっぱいになった。

 

「大納言様。遠慮は入りません。我が家と思うてごゆるりお過ごしあれ」

  鶴千代が、家斉を庭が見渡せる広間へ案内した。

 

「この者は何者じゃ? 」

  家斉は、茶道具を抱え持って現れた若者に見覚えがないことから不審がり、鶴千代にその若者の素性を訊ねた。

 

「父上が、それがしの近習として召し抱えた熊蔵でござる。茶の湯の心得があると聞いて召し出した次第」

  鶴千代が、茶碗をまわしながら答えた。

 

「背は低いし痩せ過ぎじゃ。斯様にひ弱い体でいざという時、鶴千代を守れるのか? 」

  家斉は、熊蔵を品定めすると言った。

 

「剣術や柔術に優れた近習は他におります故、ご心配にはおよびません。それより、先日、鷹司輔平殿から父上宛てに届いた書状に、帝が公方様の病を知りお心を痛めておられると書いてありましたぞ」

  鶴千代が、お茶をたてる熊蔵を見ながら言った。

 

「帝は、まことに慈悲深いお方じゃのう」

  家斉がお茶を一口飲むと言った。

 

「天明の大飢饉で、江戸だけでなく京や大阪も、大変なことになっているそうです。帝は、江戸では困窮する民に対しいかなる対処をするのか知りたがっているそうでござる」

  鶴千代が、いつになく真面目な顔で言った。

 

「大納言様。御所御用達の菓子はお口に合いますか? 」

  熊蔵がふいに家斉に訊ねた。

 

「美味じゃ」

  家斉は、菓子をひとくちでたいらげると答えた。

 

「大納言様の所存はいかに? 」

  鶴千代が、身を乗り出すと家斉に訊ねた。

 

「わしの考えを聞いても無駄というものじゃ」

  家斉が、手についた粉をはらいながら言った。

 

「帝は聡明なお方でござる。何もご存じないはずがない。江戸の様子をお訊ねになった真意は、幕府に対して、天明の大飢饉により困窮した民への救済をうながしておられるのでしょうよ」

  鶴千代が興奮気味に言った。

 

「流派は? 」

  家斉が、鶴千代の話を無視して熊蔵に話しかけた。

 

「松尾流でございます」

  熊蔵が遠慮気に答えた。

 

「聞き慣れぬ名じゃ」

  家斉がぼそっとつぶやいた。

 

「大納言様。松尾流は、松尾流2代目家元のころから尾張藩の御用を務め、京師においては、公家の鷹司家と近衛家より殊遇を受けております。当家には、葵の御紋入りの茶道具が代々、当主に受け継がれています。お目にかけましょうか? 」

  鶴千代がえへん面で説明した。

 

「いや、けっこう」

  家斉は、これ以上、自慢話を聞きたくないと鶴千代の申し出をつっぱねた。

 

「大納言様。ぜひとも、私を御物茶師に召し抱えて頂きたい」

  突然、熊蔵がその場に平伏して願い出た。

 

「これ、いきなり何を申す? 立場をわきまえよ」

  鶴千代が熊蔵をきつくとがめた。

 

「何故、そこまでして御物茶師になりたい? 」

  家斉が穏やかに訊ねた。

 

「私は、物心つく前に尾張の松尾流家元の養子となり尾張で育ちはしましたが、元々、出白は江戸でございます。御三家の家臣になれたことは家門の誉れではございます。なれど、やはり、私には茶師の方が性に合っている。茶師として幕府にお仕えしたい。何卒、お聞き届け下され」

  熊蔵が深々と頭を下げた。

 

「その業前ならば申し分なかろう。空きがあれば推挙してやる」

  家斉が安請け合いして言った。

 

「よしなにお頼申します」

  熊蔵が明るい声で言った。

 

「そろっと帰城すると致す」

  家斉は、颯爽と部屋を出ると玄関へ歩き出した。

 

「大納言様、お待ちを。お見送り致します」

  鶴千代があわてて、家斉の後を追いかけた。

 

「鶴千代。熊蔵は生まれ持っての茶師じゃ。あやつの茶を飲めばわかる。故に、こたびの一件は穏便に済ませるが良い」

  家斉が、鶴千代の肩に手を置くと言った。

 

「心得ましてござる」

  鶴千代が一礼した。家斉は、鶴千代に見送られて帰路についた。

 

「御物御茶師とは何なのじゃ? 」

  西丸御殿に入る前、家斉はふと、思い出したように長谷川に訊ねた。

 

「朝廷や幕府御用達の茶を調達する茶師のことを御物御茶師といいます。それがしは、熊蔵の素性がいささか気になります。御庭番に探らせましょうか? 」

  長谷川が、神妙な面持ちで告げた。

 

「その必要はない。そもそも、御三家が素性のはっきりせぬ者を仕えさせるわけがなかろう」

  家斉が肩をすくめた。

  

 年が明けた天明5年。意知が死ぬ間際まで取り組んでいた造船計画がついに、日の目を見た。1500石級の俵物廻船「三国丸」が完成したのだ。「三国丸」の三国とは、日本、支那、オランダの3国を示す。造船には、船大工6千名が携わり、費用は、銀159貫かかった。失政と批判が集まる中、大金をかけた一大事業とあって失敗は許されなかった。意次は、蝦夷地へ7万人の移民を送る壮大な計画を胸に秘めていた。多額の予算を幕府の財政から支出することから、これまた失敗の許されない大博打的な一大事業となった。当然、意次は、事業が失敗した場合には、潔く老中を辞職する覚悟で挑んだ。

 

一方、蝦夷地の開発に最後まで反対していた家治の病状は、日増しに悪くなっていた。家斉は、家治の苦しむ姿を見たくない一心で見舞いを先延ばしにしていた。

 

「あれは何者じゃ? 」

  家斉は、側衆にうながされて家治を見舞うため、家治の居る中奥の御休息之間の前まで行った時、見覚えのない奥医師が御休息之間から出て来るところを見かけ、御休息之間の前に坐り出入りする者を鷹のような目で監視している老中の鳥居忠意に訊ねた。

 

「あの者は、主殿頭が、奥医師として新たに登用した町医でござる」

  鳥居が仏頂面で答えた。

 

「一介の町医に、公方様の療治を任せて良いのか? 」

  家斉が訊ねた。

 

「療治を任されていた大八木伝庵が、病を理由に登城せぬ故、やむを得ず療治にあたらせておると聞いております」

  鳥居が困り顔で答えた。

 

「伝庵も、匙を投げたというわけじゃな」

  家斉が御休息之間に入ろうとすると、鳥居が戸の前に立ちはだかった。

 

「大納言様。しばし、お外でお待ち下され」

 

「わしまで通さぬ気か? 」

  家斉が鳥居をにらみつけた。

 

「そうではござらん。半刻前、於知保様が、中にお入りになられたばかりでござる。お出になるまでお待ち下され」

  鳥居が深々と頭を下げた。

 

「於知保様なら、わしの同席をお許しくださるはずじゃ。さっさと聞いて参らぬか」

  家斉が鳥居をうながした。

 

「どうぞ、中へお入り下され」

  少しして、中から初老の女の声が聞こえた。家斉は、慎重に障子を開けた。家治は御休息之間上段に寝ており、於知保は、背筋をピンと伸ばして下段に座っていた。家斉は、於知保の向かい側に着座した。

 

「お見舞いに参ったのじゃが、お目覚めか? 」

  家斉は、首を伸ばして於知保の背後にいる家治の様子を見た。

 

「本日の療治を終えてお休みになっています」

  於知保が静かに答えた。

 

「町医に療治を任せておるというのはまことですか? 」

  家斉が訊ねた。

 

「はい。公方様は、あの者らが療治にあたるようになってから、ますます、お加減が悪くなっている気がしてなりませぬ。先日、あの者らが用意した薬材の中に公方様の療法には用いない種の薬があるのを見た者がおるのです」

  於知保がひそひそ声で言った。

 

「それはさぞかしご心配でしょう。家来に、何の薬なのか調べさせましょう」

  家斉は、於知保から問題となっている薬を預かった。

 

「お頼み申し上げます」

  於知保が頭を下げた時、上段の方からせき込む音が聞こえた。家斉は、於知保が家治の枕元に近づいたのを見届けると、そっと、御休息之間を出た。

 

「大納言様。ずいぶん長々と中におられましたが、於知保様と何の話をなさっていたのでござるか? 」

  鳥居が、御休息之間から出て来た家斉に駆け寄ると訊ねた。

 

「公方様の様子を聞いていた。他に何があると申すか? 」

  家斉がぶっきらぼうに答えた。

 

「大納言様。折り入ってお話がござる」

  鳥居は、家斉を御仏間へ誘導すると辺りを慎重にうかがいながら障子をきっちりと閉めた。

 

「なんか寒くないか? 」

  家斉は、御仏間に入るなり身震いした。

 

「まんがいちの場合に備えて、公方様から、大納言様にお渡しするようにとこれをお預かりしました」

  鳥居が、神妙な面持ちで「御内書」の存在を明らかにした。

 

「おぬしに御内書を預けるとは、もしや、ご覚悟なされているのではあるまい」

  家斉は複雑な気分になった。

 

「ところで、鶴千代君とは、何のお話をなさったのですか? 」

 

「おぬしがそれを知ってどうする? 」

 

「大納言様にかぎって、公方様の信頼を裏切るような行いはなさらぬと信じてはおりますが、大納言様のお立場を考えると、やはり、勤王家といわれる水戸徳川藩家の嫡子とはかかわりを持たぬ方が賢明かと存じます」

 

「おぬしは、わしと鶴千代との仲をさくつもりだろうがそうはさせぬ」

 

「鶴千代君と2人だけでお会いになるのはおやめになるべきかと存じます」

 

「近習の中に裏切り者がおったとはのう」

 

「公方様は、朝廷と幕府との間が上手く行っている時は良いが、悪くなった時、将軍世子が朝廷に近い水戸徳川家の嫡子と結んでいると保守派の幕臣らに知られれば、将軍家への忠誠心がゆらぐのではないかと案じておられるのでしょう」

  鳥居が上目遣いで言った。

 

「ちと考え過ぎではないのかのう」

  家斉は口をとがらせた。

 

「公方様は、ご心労がたまって病になられたのですよ」

  鳥居が告げた。

 

「話が済んだのなら部屋に戻る」

  家斉は、逃げるようにして御仏間を後にした。その瞬間、仏壇に置いてあった歴代将軍の位牌が畳の上に落下した。

 

「位牌がひとりでに落ちるとは不吉じゃ。悪い前兆でなければ良いがのう」

  背後で鳥居の独り言が聞こえたが、家斉はふり返ることなく御仏間を出た。

 

  早速、家斉は、御庭番に命じて薬を調べさせた。その後、お会いして説明したいとの奥医師見習で本草学者の栗本丹州の願い出を許した。

 

「大納言様。この薬の原料は、マンジュサゲの鱗茎でございます」

  栗本が神妙な面持ちで告げた。

 

「マンジュサゲというのは、秋に山里に行くと野に咲いている赤くて、花火のような形をしている花じゃろう? 」

  家斉は書物で得た知識を披露した。

 

「さようです。マンジュサゲは元々唐の花ですが、近年は、我が国の野山でも見ることができます。別名死人花とも呼ばれており、一説では、その名の云われは彼岸に咲くためだとされていますが、扱いを誤ると死を招くためともいわれています」

  栗本が快活に答えた。

 

「それがまことの話であれば、あの奥医師は、公方様のお命を軽んじておるということになるではないか? 」

  家斉が言った。

 

「そうとは限りません。この薬は、マンジュサゲの鱗茎をすり潰した石蒜という薬なのですが、この薬を臓の病による水気やむくみの療治に用いると、神がかった減気が見られます。扱いを間違わなければ、死には至ることはまずありえません」

  栗本が冷静に告げた。

 

「水気やむくみは公方様の証にみられる。療法に間違いはないように思えるが、あやしげな薬を将軍家の療治に用いることはまかりならぬ」

  家斉は考え込んだ。

 

「公方様の病は脚気と聞きましたが、何故、マンジュサゲを用いたのでしょうか? 」

  栗本も考え込んだ。

 

「あれは、脚気の薬ではないのか? 」

  家斉が訊ねた。

 

「あれは肺水腫や悪性腫瘍による水気やむくみを改善する時に用いる薬で、脚気の療治に用いることはありません。おそらく、その医官は、大八木先生とは異なる診立てをしたのではござらんか」

  栗本が冷静に答えた。

 

  翌日。家斉は一晩考えた末、家治の治療にあたっていた奥医師の若林敬順と日向陶庵と御座之間にて対面した。

 

「御意を得ます。奥医師の若林敬順と申します。大納言様の御尊顔を拝し恐悦至極にございます」

 

「御意を得ます。奥医師の日向陶庵と申します。大納言様より、直々に御召し頂き恐悦至極にございます」

 

 両名、その場に平伏し恭しくあいさつした。

 

「その方らの診立てを申すが良い」

  家斉が咳払いして言った。

 

「重い病と存じます」

  若林が答えた。

 

「なれど、まだ望みはございます」

  日向が、神妙な面持ちで答えた。2人が療治のために御休息之間に入ったのを見計らい、家斉も、2人の後をついて行った。

 

「その方らが、公方様の療治を行うところがみたい」

  家斉が2人に告げた。

 

「公方様。大納言様が療治をご覧になりたいと申されていますが、同席頂いてもよろしゅうございますか? 」

  若林が、枕元に座ると家治に声をかけた。家治は、眠っているのか反応がなかった。

 

「公方様。同席をお許し頂きたい」

  家斉は家治の手を握ると言った。

 

「こやつにありのままを見せてやるが良い」

  家治が、目を閉じたままかすれ声で告げた。

 

「かしこまりました」

  若林が緊張した面持ちで返事した。

 

「しかと見るが良い」

  家治が薄目を開けると言った。日向がゆっくりと掛布団をめくった。家斉は思わず、身を乗り出した。家治の手足は、象足のごとく肥大化していた。日向は、家治の着物の裾をめくると、家治の手足にできた水気を見せた。

 

「何としたことか。これほどまでとは思いもせんかった」

  家斉は思わず顔を背けた。家治が目を大きく見開くと、家斉の方に顔を向けた。家斉は、家治の無言の圧力に圧倒させられた。

 

「公方様。こうなったら、唐薬を投薬するしか手立てはございますまい。石蒜という唐薬を用います。扱いは難しいですが、上手く行けば、神がかった減気がみられます」

  若林が神妙な面持ちで告げた。

 

「切腹する覚悟であろうな? 」

  家斉が若林に低い声で訊ねた。

 

「私の診立て通りであれば、公方様の病は投薬すれば治ります」

  若林が、ひるむことなく言い返した。

 

「石蒜の原料のマンジュサゲは毒を持った花じゃ。神がかった減気がみられることもあるが、扱いを誤れば死に至るといわれている。斯様に危うい薬を公方様の療治に使うとは、おぬし、正気で申しておるのか? 」

  家斉は思わず声を荒げた。

 

「公方様と同じ病状の患者に、石蒜を投薬して完治した先例はございます。どこの誰から聞いたのか存じませぬが、死に至るというのは、誤って口にした時の話で、こたびの療治は、石蒜を布に包み患部に貼る療法ですので斯様なことはあり得ませぬ」

  日向が冷静に説明した。

 

「まんがいち、体内に入った場合はどうする? 」

  家斉が追及すると、日向は言葉をつまらせた。

 

「素人が四の五の申したところで、療治の邪魔になるだけじゃ。下がるが良い」

  家治が、声をふりしぼるようにして言った。

 

「これにて御免」

  家斉は、今は何を言っても無駄と悟り身を引いた。御休息之間を出ようとした時だった。廊下で言い争う声が耳に飛び込んで来た。障子を開けると、鳥居忠意と意次が、激しく口論をしているのが見えた。

 

「いったい、何があったのじゃ? 」

  家斉は、2人の間に入ると口論になった理由を鳥居に訊ねた。

 

「主殿頭は、公方様の療治に、庶民の療治に用いる薬を投薬させると申しておりますが、まことの話でござるか? 御匙が、公方様に庶民の療治に用いる薬を投薬することは先例のないことでござる」

  鳥居が興奮気味に訴えた。

 

「公方様の病を治す薬がたまたま、庶民の療治に用いる薬であったのじゃ。やむを得ないことではないか? 鳥居殿。おぬしは、公方様をお救いしたくはないのか? 」

  意次が強く反論した。

 

「今しがた、わしも、療治について委細を聞いたところじゃ。まことに大事ないのか? 公方様は信用しきっておられるが、わしは不安で仕方がない」

  家斉が心配そうに言った。

 

「あの者らは、かならずや、公方様を救ってくれるはずじゃ」

  意次は、頭を下げると足早にその場から立ち去った。

  

しかし、心配していたことが現実となった。布に包んで患部に貼ったにも関わらず、傷口に、石蒜が染みるという医療事故が起きたのだ。傷口から体内に侵入した石蒜は、家治の身体を危険な状態に陥らせた。一時、危篤状態になった時、家治が、もうろうとする意識の中で、天上に浮かび上がった意次の幻想を亡者と見間違えて外にも聞こえるような大声で罵った声を偶然、耳にした者が、意次が、家治に手にかけたのだとあらぬ噂を言いふらした。実際は、その時、すでに、意次は、帰宅しており城内にはいなかったのだが、家基が急遽した際に暗殺説が流れたこともあって、真に受ける者が多かった。石蒜を用いた療治が失敗に終わっただけでなく、家治の命を危うくしたとして怒り狂った於知保が、家治に、奥医師2人を罷免し、意次を遠ざけるよう迫ったのは言うまでもない。

 

「石蒜が傷口から体内に入るなんぞ、めったにないことでござる。あの者らは、石蒜を用いた療治に慣れております。こたびの一件は、過ちではなく不慮の事故でござる」

  意次は必死に言い訳した。

 

「そなたのせいで、公方様は生死の境を彷徨われた。公方様のお命を軽んじ、己の力を過信しておる者共に、療治を任せてはおけぬ。あの者らを登用したそなたの罪は重い。罷免されなかっただけでも有難く思うが良い」

  於知保が鬼の形相で言い放ったという。その時の2人の様子は、誰からともなく、城内に広まり、1度はたち消えた暗殺説がまたもや、ささやかれることとなった。登城を禁じられた2人の代わりに、大八木伝庵を復帰させて家治の療治にあたらせることとなり、意次の立場はますます悪くなった。

 

  7月の半ば。江戸は連日のように大雨が降り続き、江戸の深川、亀戸、下谷、浅草は、浸水し、千住の民家の水位は鴨居まで達した。大雨で水かさが増した河川が氾濫し、大洪水となり、両国橋、新大橋、永代橋が流失した。28日にようやく水が引くと、歌舞伎の芝居小屋の「中村座」と「桐座」に町奉行から避難民への炊き出しの命が下ったため、芝居の出演者をはじめとする芝居小屋の関係者及び芝居町で商いする茶屋などが総出で3日間の炊き出しを行った。この水害は、農作物に深刻な被害をもたらした。凶作による米価の高騰で、市中が騒然となる中、家治暗殺の噂があっという間に城内を飛び出して、市中まで広まった。大奥だけでなく城内まで箝口令を強いているにも関わらず、遠国にいる大名にまで広まっていた。根強い暗殺説が噂される意次を罷免しない家治の心中を誰もが押しはだかった。一説には、律儀な性格が災いして、先代の遺言を頑なに守るあまり、意次を罷免することができないともいわれたが、意次は家治の秘密を握っており、家治が自分を罷免した時は、その秘密を公にするとおどしているのではないかというのが、家斉の見解であった。

 

「大納言様。どちらにおいででしたか? 」

  家斉が厠から戻ると、治済が、仏頂面で家斉を待ちかまえていた。

 

「こたびは何用で、お見えになられたのですか? 」

  家斉が慎重に訊ねた。

 

「今しがた、清水宮内卿と公方様を見舞って来ました」

  治済が咳払いして言った。

 清水宮内卿とは、徳川重好の名称だ。重好は、御三卿の清水徳川家の当主で家治の弟君にあたる。兄弟仲は良く、御台所の五十宮倫子様の御存命中は、夫婦で清水邸を頻繁に訪ねていたという。家基の死後、家治の弟にあたる重好を差し置き、家基の後継者であった家斉が、将軍世子となったこともあり不仲になったとも言われている。最近では、家来の長尾幸兵衛が、主君の重好を将軍職に就けようと意次に、多額の賄賂を贈っていたという疑惑が浮上して問題となっていた。

 

「主殿頭は、越中殿が、公方様を見舞うために登城したと聞きどこかへ走り去ったそうですよ」

  家斉が、父親の大好物である噂話を報告した。家斉は、あの話が真実だから顔を合わすのが気まずくて逃げたのだと考えた。

 

「白河藩へ追いやった負い目から、越中殿と再会するのが気まずかったのでしょう」

  案の定、治済が面白がって言った。

 

「ところで、薩摩守について何かお聞きではござらんか? 」

  家斉は、治済に顔を近づけると小声で訊ねた。

 

「薩摩守が、幕府からカピタンと内通しているとの疑いを持たれておるそうな」

  治済が小声で告げた。

 安永8年から、天明4年の間に3度、カピタンとして長崎出島に赴任したイサーク・ティチングは、島津重豪を通して日本の機密情報を収集しているという噂があったが、確たる証拠がなく蘭癖の大名にありがちな噂に留まった。

 

「主殿頭に、蝦夷地開発に着手するよう仕向けたという噂は、ウソではなさそうでござる」

  家斉は、自分が、蝦夷地開発に協力したことをうやむやにするため、蘭癖として有名な重豪が、カピタンと内通しているという情報を流したのは、治済本人ではないかと疑った。沈黙が一瞬あった後、治済が懐から桃を取り出した。

 

「その桃はいかがなされたのですか? 」

  家斉は、治済が手にしている桃に気づいて訊ねた。瑞々しくて美味しそうだ。

 

「これか? 越中の置き土産じゃよ」

  治済が、美味そうに桃をかじりながら言った。そのころ、お膳所では、於知保が、桃を胸に抱えて膳所に入って来て、自ら桃をむき出したため、お膳所の役人たちが、於知保の周りで右往左往していた。

 

「公方様は、何も召し上がらぬ故、体力がつかぬ。桃ならば、口にして下さるかも知れぬ」

  於知保は、危なっかしい手つきで桃をむいていたが、手元がすべり指を切ってしまった。

 

「あとはそれがしにお任せあれ」

  於知保に付き添って来た意次が見かねて於知保と交替した。

 

「主殿頭。桃はちと、まずいのではござらんか? 」

  周囲を取り囲んでいたお膳所の役人たちは、桃は眺めるだけで将軍の御膳に出す物ではないとされていたことから心配した。

 

「桃は有毒ではないが、本来ならば、将軍の御膳には上がらぬ品じゃ。故に、他言無用じゃ。良いな? 」

 意次が念を押すと、お膳所の役人たちはうなずいてみせた。その後、意次は、器用に桃を食べやすい大きさに切り分けると皿に盛り、御休息之間の前に居た小納戸の林忠英に手渡した。

 

「公方様。越中殿が、献上した白河産の桃でございます。お召し上がりになりませぬか? 」

  於知保が、忠英から桃を載せた皿を受け取ると枕元に置いた。

 

「食わせてくれるか? 」

  家治が頭を横に向けると、目を閉じたまま口を開けた。

 

「早く、元気になって下され」

  於知保が、家治の口の中に桃のかけらを入れた。家治は、桃を半分食べ終えると口を閉じた。

 

「半分もお召し上がりなさったか」

  意次は、下げられた皿を見るなり思わず目頭を押さえた。於知保は、家治が、安らかに眠る姿を確認すると席を外した。意次は、拝謁を許されず御休息之間の外へ追いやられていた。

 

「まだ、そこにおったのか? 公方様は、そなたが、政務をおろそかにすることは望んでおらぬ。戻るが良い」

  厠から戻った於知保は、御休息之間の前に居座る意次をいさめた。

 

「いつまた、病状が変わるかもしれぬ時に、お傍を離れるわけにはまいりませぬ。せめて、お近くで見守ることだけでもお許しを」

  意次が、床に這いつくばるようにして平伏した。

 

「我が傍についておる。それに何かあれば、ただちに処置ができるよう御匙を御座之間に待たせてある。公方様は、そなたとはお会いにならぬと仰せじゃ」

  於知保が意次を追い払った。意次は、肩を落として去って行った。

 

 その日の夜、宿直を務めていた家治付近習の酒井忠香は、上御鈴廊下の杉戸が開いていることに気づいた。

 

「公方様のお渡りはないはずなのに、何故、杉戸が開いておる? 」

  酒井は、定之助を呼ぶと問いただした。

 

「半時前に見廻った折には閉じておりました。御殿向側が、閉め忘れたのではござらんか? 」

  2人は、互いに一歩も譲らぬ勢いで対峙した。その内、二丸御展の方から、女のすすり泣く声と共に、遠く近くから念仏が聞こえて来た。

 

「公方様が病に臥せっておられるというのに、念仏を唱えるとは不謹慎極まりない。注意せねばならぬ」

  酒井は、鼻息を荒くして二丸御殿に向かおうとした。

 

「二丸御殿は、宝蓮院様が、今年の正月に身罷られたのを最後に、どなたもお住まいではないはずです」

  定之助があわてて、酒井を引き留めた。

 

「二丸御殿には、家重公側室の安祥院様もお住まいではなかったか? 久しく、消息を聞いていないが身罷ってはいないはずじゃ」

  酒井が神妙な面持ちで告げた。

 

「だとすると、念仏を唱えておられるのは、安祥院様ということになりますな」

  定之助が言った。将軍側室に注意するなどできない。2人は、互いの顔を見合わせると互いの意思を確認した。その瞬間、後ろの方で閃光が走った。

 

「火事だ」

  2人は、我先に赤い光が漏れている御休息之間へ駆け込んだ。すると、於知保が下段で坐ったまま眠りこけていた。上段からは、獣が威嚇しているような低いうなり声が聞こえて来た。

 

「しっかりして下され」

  定之助が、於知保の肩を強くゆさぶった。

 

「そなたらは何じゃ? 何故、そなたらがここにおる? 」

  於知保は、目を覚ますと目の前にいる2人に驚いた。

 

「ご無事で良うござった。それがしは、てっきり、於知保様まで具合を悪くされたと思いましたよ」

  定之助が安堵のため息をついた。

 

「公方様。ご無事でござるか? 」

  一方、酒井は、慎重に家治の枕元に近づくと家治の顔をのぞき込んだ。家治は、かすかに寝息を立てていた。

 

「安らかに眠っておられるではないか」

  於知保は、酒井の肩越しに家治の寝顔をのぞくと酒井の耳元でささやいた。

 

「今しがた、こちらから、炎が上がっているのが見えました故、公方様の御身に何か起きたのではないかと思い駆けつけましたが、ご無事のようで安堵致しました」

  酒井が、神妙な面持ちで告げた。

 

「夢でも見たのではないか? 何も起こっておらぬ」

  於知保が、きつい口調で言い放った。

 

「何事もないようですし、身共は下がらせて頂きます」

  酒井は、定之助を外へうながすと静かに障子を閉めた。

 

「おふたりはご無事でしたし、これ以上、さわぎ立てぬ方がよろしいのではございませんか? 杉戸の件は不問と致しましょう」

  定之助が上目遣いで酒井に訊ねた。

 

「馬鹿を申すな。曲者が忍び込んでいたらどうする? 何かあったら、我らの首が飛ぶ」

  酒井が、定之助の頭をこづいた。

 

「殿方が、斯様な夜更けに、御殿向で何をなさっておられますか? 」

  2人が詰所の前まで来た時、若い娘の鋭い声が聞こえた。定之助が、声が聞こえた方に燭台を向けると奥女中が仁王立ちしていた。

 

「わしは、小納戸奥之番の中野定之助と申す。杉戸の件で、御錠口番に会う為罷り出た次第」

  定之助が緊張した面持ちで答えた。

 

「私は伊曰と申します。そうとは知らず失礼しました。どうぞ、中にお入り下され」

  お伊曰が、2人を詰所に招き入れた。中では、数名の奥女中が寝ずの番をしていた。

 

「おふたり揃って、おみえになるとは何事でございますか? 」

  御錠口番頭のお登勢が、2人に気づいて歩み寄った。

 

「実は、上御鈴廊下の杉戸が開いていたのを酒井殿が見つけまして、わしは、開けた放した覚えがない故、そなたらに聞きに参った次第」

  定之助が事情を説明した。

 

「何か変わったことがあれば、火之番が気づいて報せが入るはずです。そうであろう? 」

  お登勢が、戸口に立つお伊曰に同意を求めた。

 

「さようでございます」

  お伊曰が、神妙な面持ちで答えた。

 

「我らが御殿向へ入った折、御殿向側から杉戸を閉めたのじゃ。そなたは、我らの後に参ったのではないか? 」

  酒井が、お伊曰に訊ねた。

 

「お疑いでしたら、もう1人おります故、連れて参ります」

  お伊曰が言った。

 

「我らも共に参る」

  酒井と定之助は、お伊日についてもう1人の火之番を捜した。

 

「どこにもおりません。もしや、何かあったのでしょうか? 」

  しばらくして、お伊曰が言った。

 

「行き違いになったのではござらんか? 」

  定之助が言いかけたその時だった。中奥の方から、女の悲鳴が聞こえた。

 

「公方様。ご無事でございますか? 」

  3人は、急いで中奥へ駆けつけた。すると、御休息之間の障子が開いており、於知保が障子の前に倒れているのが見えた。

 

「於知保様の腕から血が出ております」

  お伊曰が、於知保に駆け寄ると於知保を抱き起こした。その時、於知保の左腕の刺し傷に気づいた。

 

「公方様はご無事でござるか? 」

  酒井は急いで、家治の枕元に坐ると家治の顔を手燭で照らした。すると、青白い顔が浮かび上がった。酒井は、家治の変わり果てた姿に息を飲んだ。ほんの数日前は、人相が変わる程腫れ上がっていた頬はけずられたみたいにやせこけ、目の周りは窪んだせいで、眼球が引っ込んで見えた。それはまるで、荒行を終えた高僧のようでもあった。

 

「酒井様。公方様のご様子にお変わりござらんか? 」

  背後から、定之助が酒井に話しかけた。

 

「播磨守。おぬしは御匙を呼んで参れ。お伊曰殿。そなたは、於知保様を頼む」

  酒井は、テキパキと2人に指示を出した。しばらくして、定之助と共に、奥医師の大八木伝庵が御休息之間に現れた。

 

「於知保様。いったい、何が起きたのですか? 」

  伝庵が、御休息之間に入るとすぐ、お伊曰に抱き起された於知保に駆け寄った。

 

「我らが駆けつけた時には、於知保様は、お倒れになっていました」

  お伊曰が青い顔で答えた。

 

「ひとまず、流血はおさまった。御次を呼び、許へお運びせよ」

  伝庵は、於知保に止血を施すとお伊曰に指示を与えた。

 

「承知しました」

  お伊曰は一礼すると外へ出た。

 

「御臨終にございます」

  伝庵は、報せを聞いて集まった者たちの前で、家治の死を宣言した。

 

「於知保様が倒れたというのはまことでござるか? 」

  家斉が、伝庵に訊ねた。

 

「はい。しかるべき処置をした後、傍にいた奥女中に、寝所へ運ぶよう申し伝えました」

  伝庵が冷静に答えた。

 

「何故、於知保様はお倒れになったのじゃ? 」

  家斉が、伝庵に慎重に訊ねた。

 

「於知保様の左腕には、刀傷がございました。おそらく、血を見て気を失われたのではないかと存じます」

  伝庵が答えた。

 

「刀傷とな? 何者の所業でござるか? 」

  意次が驚きの声を上げた。

 

「火之番が1人行方不明になっております。おそらく、その者が何か知っているものと思われます」

  障子の前に控えていた定之助が告げた。

 

「幸い傷は浅く大事に至りませんでしたが、お心が弱っておられます。しばしの間、お傍に人をつけて見守らせた方がよろしいかと存じます」

  伝庵が渋い表情で告げた。

 

「しからば、於知保の方が倒れているのを見つけたというあの奥女中に、引き続き世話をさせてはどうじゃ? 」

  家斉が意次に提案した。

 

「仰せの通りに致します」

  意次は一礼した後、慌ただしい様子で退席した。その後、家斉は、喪服に着替えるため、一旦、宇治之間へ戻った。身支度を整え一息ついているところに鳥居がやって来た。

 

「大納言様。公方様からお預かりした御内書をお届けに罷り出ましてござる」

  鳥居は、神妙な面持ちで家斉に「御内書」と達筆な文字で書かれた懐紙にくるまれた品を手渡した。

 

「これが、公方様が、わしに遺して下さったという御内書なのだな」

  家斉は、懐紙を外して現れた古めかしい書物を注意深く見つめた。

 

「公方様は、上様に御内書の件についてご内密にせよとの遺言を残されました」

  鳥居が神妙な面持ちで告げた。

 

「大義であった。下がるが良い」

  家斉が目頭を押さえながら告げた。鳥居が退席した後、家斉は、書物の表紙を改めて眺めた。その書物の題名は「愚官抄」。鎌倉時代の初期、天台宗僧侶の慈円和尚が書いた第7巻あるという史論書の1冊だ。聞いたことはあったが、実物を見たのははじめてだった。家斉は、所々、シミや小さな破損が見られるその書物のページを慎重にめくった。書物を閉じようとした時だった。書物の間にはさまっていた絵が畳の上に舞い落ちた。

 

「何やら落ちましたぞ」

  その時、ちょうど、家斉の様子を見にやって来た本丸小納戸の中野定之助が、畳の上に落ちた絵を拾い上げた。家斉はとっさに書物を後ろに隠した。

 

「坂上田村麿による清水寺能の光景が描かれていますね」

  定之助が、家斉に絵を返すと告げた。

 

「何故、この絵が、清水寺能を描いた絵だと一目でわかった? 観たことがあるのか? 」

  家斉が、身を乗り出すと訊ねた。

 

「幼少のころ、あるお方のお供で京師へ参った折、清水寺にて行われた能を観ました。その時、演じられていたのが清水寺能でござった」

  定之助が遠い目で覚え語った。

 

「これが、かの有名な清水の舞台か。ここから飛び降りて願掛けする者もいると聞く」

  家斉が、絵を眺めながらつぶやいた。

 

清水寺能は、勝ち戦の武将を主人公とする修羅能にござる。大和国の僧の賢心が、京師の清水寺を訪れた折に出会ったほうきを持った少年に素性を訊ねると、地主権現に仕える者であると答えた。僧が、清水の来歴を尋ねると少年は田村麿が建立した謂れを語る。僧は少年と清水の桜を楽しむ。その後、少年は、ひとりで田村堂へ入る。残された僧の前に清水寺門前が現れ清水寺縁起を語り、少年は、田村麿の化身だと告げる。僧が法華経を読経すると、武者姿の田村麿が現れるという筋書きでござると定之助が能弁に語った。

 

「この絵に、斯様な謂れがあったとはのう」

  家斉が言った。

 

「観音の霊力により敵を蹴散らす田村麿の舞はたいそう素晴らしく、いたく感服致しました」

  定之助は、家斉の言葉が耳に入っていない様子で熱く語った。

 

「良い話を聞いた。この絵はしまっておくにはちと惜しい」

  家斉は、腕を組んで思案した。いつでも眺められるようにするにはどうすれば良いか考えた結果、思いついたのが掛け軸に仕立て直すことだ。

 

「その書物は何ですか? 」

  定之助は、家斉の背後に隠された書物を目ざとく見つけると指摘した。

 

「実は、この絵はこの書物の合間に挟まっていたのじゃ」

  家斉は、後ろに隠した「愚官抄」を出して見せた。

 

「愚官抄はまだ、上様にはちと難しいのではないかと存じます」

  定之助が告げた。

 

「もとより読むつもりで持っていたのではない。遺品を頂いたのじゃ」

  家斉は、ムカッと来て思わず口をすべらせた。

 

「この書物を書いたという慈円和尚は後鳥羽上皇の身辺に挙兵の動きがあると知り、西園寺公経と共に反対に出た。これは、挙兵を留まらせるために書いたものだと言われています。結局、後鳥羽上皇は、挙兵した末に敗れ配流となった。慈円和尚の兄にあたる九条兼実の曾孫にあたる仲恭帝が、後鳥羽上皇に連座して廃位されたことに憤慨した慈円和尚は、仲恭帝復位を願う願文を収めたと言われています」

  定之助が、神妙な面持ちで語った。

 

「後鳥羽上皇のことまで知っているとは正直驚いた。史書を読み解くよりも、そちから聞いた方が早いのではないか? 」

  家斉が、感心したように言った。

 

「愚官抄の合間に挟まっていたということは、その絵は後鳥羽上皇を示す絵なのかもしれませぬ。坂上田村麿の化身だとする少年は後鳥羽上皇を示しているに違いない」

  定之助が考え深げに言った。

 

「上様。田沼意次でござる。御目通り願います」

 ふいに、障子の外から意次の声が聞こえた。家斉は、部屋の隅に鎮座していた木村重勇に障子を開けるよう命じた。意次が、障子が開くなり中へ飛び込んで来て家斉の前に着座した。

 

「何用じゃ? 」

  家斉がぶっきらぼうに訊ねた。

 

「一同、御座之間にて上様の御出ましを待っております」

  意次が恭しく告げた。

 

「それがどうした? 評議するのはそちらの役儀じゃ。わしには関係なかろう」

  家斉はそっぽを向いた。

 

「家治公の葬儀や幕閣の新たな人事など評議せねばならぬ儀が山のようにござる。休んでいる暇などございますまい」

  意次が厳しい表情で訴えた。

 

「下がるが良い。わしには評決を伝えるだけでかまわぬ」

  家斉が、追い払う仕草をしてみせた。

 

「何を申されますか? 上様がおられなくては何事もはじまりません。ただちに、政務におつきいただきませんと幕政が滞ってしまいます」

  意次が、やりきれないと言った風に言った。

 

「相分かった」

  家斉は、重い腰を上げると意次を随い御座之間へ向かった。御座之間には、大老、老中、若年寄といった重職に就く者たちが勢揃いしていた。

 

「上様。お待ちしておりました。こたびの議題でござる」

  大老の井伊直幸が、家斉に書状を差し出した。

 

「その方。名を何と申す? 」

  家斉は、書状を受け取ると訊ねた。

 

「大老の井伊直幸と申します」

  直幸は、一礼すると速やかに席に戻り声高々に告げた。

 

「上様が、御出ましになられたことですし評議をはじめます」

  家斉は、周囲を見渡しながら知らぬ顔が多いことに改めて気づかされた。

 

「上様。お渡しした書状をご覧くだされ。まずは誤りがないか確認頂きたい」

  若年寄の井伊直朗が小声で告げた。家斉は、直幸から手渡された評議文書に目を通した。いつ、用意したのか文句のない完璧な内容であった。

 

「通例通り、発葬は9月8日とし墓所は上野の寛永寺となります。その間、新たな幕閣人事が決定となります故、それまでは、今まで通り、各自役務に励むように」

  直幸が告げると、一同が、声を揃えて承知つかまつりましたと大声で返答した。評議の後、家斉は、最後まで居残りぼんやりとその場に坐っていた。

 

「上様。いかがなされましたか? 」

  意次が、まるで尻が畳に張りついたかのようにその場に佇んでいる家斉を見兼ねて声をかけた。

 

「集まった者らの半分も知らぬというに、向後、あの者らと上手くやっていけるのであろうか」

  家斉が重い腰を上げると言った。

 

「上様は、これまで幕政に関わっておられなかった故、全ての者を存じ上げないのは、無理もないことと存じます。追々、近しくなればよろしいのでは」

  意次が穏やかに告げた。

 

「しかりその通りじゃ」

  家斉が相槌を打った。

 そのころ、松平定信は、葬儀の後も江戸に残り表向きには田安家の用事を済ませていると装いながら、在府の譜代や大小の大名たちと会い意次率いる田沼派の一掃と、自らの老中首座就任のための協力を申し入れ今後の作戦を練っていた。また、田沼派一掃に向けて、蝦夷地開発の中止を訴え始めた。世論もそれに応えるかのように、幕政批判をくり返した。幕府は、ひとまず蝦夷地に赴任していた探検隊を帰還させることにした。意次は、探検隊を帰還させることを最後まで反対したが、もはや、それに賛同する者はいなかった。この時から、意次は、真剣に辞職を考えはじめた。蝦夷地開発が頓挫した場合、責任を取り辞職する宣言は実現に近かった。