閉じる


第3章 意知暗殺事件

 天明2年の11月。幕府は、長崎の出島に滞在中のオランダ商館長のイサーク・ティチングに対して、バタビアから船大工と技師の派遣を要請した。しかし、ティチングは、派遣できる船大工がいないとして要請を拒んだ。そこで、ティチングとの交渉を担当した意次は、日本人をバタビアに派遣する対案を提示するが、またもや鎖国令を根拠に拒否された。翌年の9月、幕府は、再度西洋船の技術指導等を要請すると共に大坂から長崎へ銅を輸送する廻船の難破が多いことを理由に、オランダ船の模型と船大工の派遣を再度要請した。ティチングは、最後にはおれて1度帰国した後の天明4年の7月に模型を引き渡した。

 

  天明4年の322日の夜。意知は、隠し金の情報を提供すると申し出た者と会うため「龍口亭」へ行った。その後、意知が帰宅しなかったことから、意知の家族は意次に意知が行方不明になっていることを報せた。意次は、家中の者たちに意知を捜させたが、意知を見つけ出すことはできなかった。意知が行方不明となったのは、天明の大飢饉をきっかけに社会不安が高まり、江戸の治安が悪化していた時期と重なった。天災が相次ぎ、世情不安が生じたのはすべて、田沼意次の失政によるものとの落書きが江戸に広まった。本来、政策の審議や立案を担当しているのは、評定所の構成員たちであって、意次1人が独断で決めているわけではないが、世間では意次の独断と見なされた。

 

「これで田沼の天下も終わりじゃ」

  「世情不安が生じたのはすべて田沼の失政によるもの」と書かれたビラが、あちこちで出回る中、江戸市中にある廃屋の中でほくそ笑む者がいた。

 

 

「九八郎殿がまた、幕閣に幕政に対する意見書を提出したそうな」

 

 

「植崎殿もようやるのう」

 

 

「主殿頭を失脚させるまで頑張るつもりでしょう」

  浅葱裏たちが、たき火を囲みながら話しているところに、市中を巡検しに出掛けていた仲間が戻って来た。

 

 

「市中の様子はどうじゃった? 」

  佐野が、戻って来た仲間の1人に訊ねた。

 

 

「どこかの屋敷から念仏が聞こえた。丑3つ時に聞く念仏の声は、うす気味悪くてかなわん」

  仲間の1人がぼやいた。

 

 

「天災や不況で苦しんでいる人が、それだけ、たくさんいるというあらわれだ」

  佐野が編み笠をかぶると言った。

 

 

「おでかけですか? 」

  

「ああ。ちと野暮用でな」

  佐野が、江戸城へ向かって歩いていると前方に白い影が見えた。白い影は、目に見ぬ速さで、佐野の目の前に移動した。佐野は、ただならぬ殺気を感じて脇差しに手をかけた。

  

「貴様が新番士の佐野政事か? 」

  黒雲に隠れていた月が顔を出すと、月光に照らされて白い影が浮かび上がった。よく見ると、天狗のお面をかぶった白装束の男がいた。

 

 「いかにも」

  佐野が答えた。

  

「七曜紋を背負った者は天罰をくらうであろう」

  どこからともなく低い声が響いた。

 

 「七曜紋とな? 」

  佐野は目を見開いた。七曜紋は田沼の家紋だ。

  

「そして、貴様は、世直し将軍と称賛を浴びることになる」

 

 「はあ? たわけたことを申すでない」

  佐野は笑い飛ばしたが、白天狗の預言が現実のものとなる。

 

  天明4年の324日の朝。泊り番だった佐野は厠から出ると、詰所に向かって中庭に面した廊下を歩いていた。33晩、降り続いた雨で、中庭の真ん中には、大きな水たまりができていた。佐野はふと、昨夜のことを思い出して立ち止まった。その時だ。庭の方から悲鳴が聞こえた。急いで庭に飛び出すと、掃除之者の植崎九八郎が、水たまりの傍で腰を抜かしていた。

 

「九八郎殿。いかがした? 」

  佐野は、庭に飛び降りると九八郎の元に駆けつけた。

 

 「ひ、人が、死んでいる」

  植崎が、水たまりを指差してさけんだ。

 

 「誰か。誰かおらぬか」

  佐野は、城内の方へ向かって助けを呼んだ。佐野の声を聞きつけて、近くにいた人たちが集まって来た。

  

「桔梗之間へ運ぼう」

  数名の有志により屍が城内へ担ぎ込まれた。桔梗之間には、番医の峯岸春庵と天野良順がいた。騒ぎを聞きつけ駆けつけた大目付の松平忠郷と目付の柳生久通は、事情を聞く名目で、通報者の佐野をその場で取り押さえた。一方、植崎はすきを見て逃げ出した後で、佐野は、野次馬の好奇な視線にさらされながら連行された。

  

「山城守ではないか」

  柳生が、屍の顔にかぶせられていた天狗のお面を外して現れた顔を見るなりさけんだ。

  

「主殿頭をお呼びせねばなりますまい」

  忠郷が柳生に告げた。

  

「いや待て。山城守の亡骸を田沼邸へ運び出すが先じゃ」

  柳生は、意知の亡骸を田沼邸へ運ばせた。

 

 その時、峯岸も、柳生の命により田沼邸へ赴いた。意次が、変わり果てた姿となった意知と再会したのはその日の夜だった。その日の内に、佐野は、吟味を受けることなく投獄された。そして、翌日には切腹を申し渡された。幕府には、乱心による犯行との報告が行った。調書によると、午の刻。政務を終えた老中たちが次々と、退出をしはじめた。老中に続いて、若年寄たちも、政務を終えた者から1人、2人と帰りはじめた。若年寄の田沼意知が、中之間から桔梗之間の間に差し掛かった時だった。新番士の佐野政言が、直所から走り出て来て意知に斬りかかったのだ。佐野は、騒ぎを聞きつけて駆けつけた大目付の松平忠郷と目付の柳生主膳政道により、その場で捕えられた。斬られた田沼意知の方は、血まみれでその場に倒れていた。番医師の峯岸春庵と天野良順が、意知の手当に任じられたが、意知は、手当の甲斐なく、その日の内に死去したと記されていた。江戸市中では、佐野政事による田沼意知殺傷事件の顛末が書かれた瓦版が飛ぶように売れ、田沼家の七曜紋を縁起の悪い紋と中傷する落書きがあふれて、佐野は、一夜にして失政を行う田沼意次の嫡子を亡き者として、田沼派の権勢を地の底に落とした「世直し将軍」と称賛を浴びた。佐野が葬られた浅草本願寺が、佐野の墓参りをする庶民でにぎわう一方、田沼邸は、中傷する文が記された紙で包んだ石が投げ込まれる被害に遭った。

 

 事件から3日後の夜。編み笠をかぶった数名の武士が続々と、愛宕にある青松寺の中へと消えた。本堂では青松寺の僧侶たちが待機していて、訪れた武士たちを隠し部屋へと先導した。

 

 

「貴様は大罪を犯した。命が欲しければ、京兆の首を持ち帰れ」

  隠し部屋の中では、浅葱裏が、紫頭巾をかぶった武士にどなられていた。

 

 

「お許し下され。あの夜は、しきりに雨が降っていまして、傘に隠れて姿形がよく見えず、家紋が似ていた故に見誤ってしまいました」

  浅葱裏が血相を変えて平謝りした。

 

 

「佐野のやつを身代わりにしてかたをつけました故、我らの所業とは、誰も思わぬはず」

  着物の下に襦袢を着た武士が言った。

 

 

「それにしても、世直し将軍とはまた、上手い手を思いつきましたな」

  部屋の後ろに立つ武士がふっと笑った。

  

「今の今までどこをほっつき歩いておった? 」

  着物の下に襦袢を着た武士が、部屋の中に入って来た武士に向かって言った。

 

 

「仕方がなかろう。追ってを巻くうちに道に迷ったのじゃ」

  その武士が、肩で息をしながら言った。

  

「追ってとな? よもや、正体がばれたのではあるまいな? 」

  紫頭巾をかぶった武士が詰め寄った。

  

「実際に、追っての姿を見たわけではない。そんな気がしただけだ。用心に越したことはないだろう」

  その武士が冷静に答えた。

 

 「油断は禁物じゃぞ。京兆が、命欲しさに幕府に寝返るかもしれぬ」

  紫頭巾をかぶった武士が低い声で告げた。

  

「別の刺客を送りました故、ご安心下され。次こそは息の根を止めてみせましょう」 

  部屋の後ろに立つ武士が告げた。

  

「同心が、表にうろついているのを見張り役が見かけたそうです。やつらが来る前に、早く、この場からお発ち下され」

  合羽を着た武士が部屋に駆け込んで来た。隠し部屋に集まっていた者たちは、足早に、寺の裏門から外へ抜け出すと散り散りになって闇夜へ消え去った。