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第2章 天明の大飢饉と蝦夷地開発

  天明3年の312日に岩木山が、同年の76日に浅間山が大噴火して、全国各地に火山灰を降らせた。その直後、川越藩から被害届が老中へ提出された。幕府は、これまで勘定奉行や南町奉行を歴任した他、日光東照宮、禁裏、二条城の修復、諸所の川普請に携わった熟練した役人でもある根岸鎮衛を浅間山の復興工事の巡検役に任じて川越へ派遣した。 

 

根岸は、828日に江戸を出立し翌月の2日には渋川に入り、被災した村々を見て廻り、28日に武蔵国本庄宿にて川越藩の役人と協議を行い、幕府の救済方針を伝えた。

  

火山の噴火は冷害をもたらし、農作物に破壊的な被害をもたらした。浅間山が大噴火した後、火砕流と火砕泥流。それから、吾妻川と利根川の洪水が発生し、死者1千人超の大災害が起きた。群馬県嬬恋村の鎌原地区においては、全域が、土石雪崩に飲み込まれ一瞬にして地下に消えた。村人93名は村の高台にあった観音堂への避難し生き延びたが、477名の村人が犠牲となった。浅間山周辺の被災状況が幕府に伝えられる中、等順という僧侶が、嬬恋村数名の僧侶を随え嬬恋村に赴き被災者の救済を行ったとの話が、江戸の家治の耳にも届いた。等順は、東叡山寛永寺護国院13世住職を務めた後、信州善光寺別当大勧進79世貫主となった人物。等順は、嬬恋村から善光寺へ戻った後、天明の大飢饉飢民救済のため、善光寺所蔵の米麦を全て蔵から出して民に施した。やがて、救済を受けた人々が等順の恩に感謝して集まり、大勧進表大門前にある放生池を掘ったという。

 

天明4年の2月。等順は、融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに簡略化して作成して参拝者へ配布をはじめ、7月には、本堂において浅間山大噴火被災者の追善大法要を執行し、被災者1490人の名が書かれた御経塔婆木を送り、天明5年には、大開帳法要、念仏堂において回向を行った。翌年から、全国的に深刻な飢饉が発生し、飢餓と共に疫病が各地に広まった。全国でおよそ2万人が飢餓や疫病により命を落とした。中でも、東北地方の被害はひどく、白河藩と米沢藩以外の諸藩は、藩内に多くの死者を出した。多くの犠牲者が出た原因として、新田開発や耕地灌漑事業等の行き過ぎた開発が招いた労働不足と強引に治水した河川が耕地に接近し過ぎたことにより、洪水を頻繁に引き起こしたことがある。幕府は、日本各地から米に余裕がある藩は、東北地方に売り惜しみをしないよう御触れを出した。幕府の御触れが出る前に、いち早く、米の買い上げに乗り出した米沢藩と白河藩は、藩内から死者を出すことはなかったが、米沢藩主の上杉鷹山がかねてから、備荒貯蓄制度を進めて、麦作を奨励するなど飢饉に備えた上で、越後や酒田から11605俵の米を買い入れて領民に供出したのに対して、白河藩主の松平定信は、大阪に集まった米を買い占めた上、会津の松平家から、1万石俵を取り寄せて領民に配給した。そのため、幕府の御触れがあったにも関わらず、東北地方へ米が廻らず米価の高騰が起きた。豪農から安くたたいた米を江戸へ廻米して藩が背負った借金の穴埋めし何とか凌ごうとした仙台藩も、深刻な米不足により、藩内で米価が高騰し領民が困窮したため、多くの餓死者を出すことになっていた。引前藩もまた、農民が備蓄していた米を江戸へ廻米し藩の財政の穴埋めをした結果、藩内の米が足りなくなり、多くの餓死者を出した。定信が、藩主を務める白河藩が藩内で1人も餓死者を出さなかったとの噂は江戸に伝わり、幕臣たちの間で定信に対する評価が高まった。しかし、幕閣には、定信の兄にあたる松平定国がいた。定国は家督を相続した後、溜間詰を経て侍従となっていた。定国と定信は不仲であったことから、定国は、定信の入閣に断固として反対した。そこで、定信は、養母の宝蓮院に、自分を入閣させるよう家治に進言して欲しいと頼んだ。

 

意次が、幕閣人事に関する法の改正のため周囲に働きかけはじめたそのころ、定信は、江戸に帰る度、幕閣内に知人を増やして情報収集を怠らず入閣の準備を進めていた。天明の大飢饉の功績により入閣が決まるはずであったが、定信の前に、譜代大名は入閣できないとの古い慣習の壁が立ちはだかった。味方であるはずの譜代や親藩の大名たちでさえ、定信の入閣に反対した。天明の大飢饉の発生は、幕政に大きな打撃を与えた。一時、景気が上回ったかのように見えたが、実際は、幕府に運上金や冥加金の上納のためと見せかけ、実は、私腹を肥やすことが目的の献策を行う悪徳商人を増加させることとなった。幕閣内での昇進を目論み、悪徳商人の献策を採用していく幕府役人が現れて、町人と幕府役人との癒着が浮き彫りとなった。

 

 松本が上申してきたのは、連日連夜、意次が自宅に帰らず御用部屋で寝起きしながら施策を考えている最中のことだった。松本は、御用部屋へ出向くと意次に、仙台藩医で蘭学者の工藤平助の著書「赤蝦夷風説考」を手渡した。

 

「北方の商人と赤蝦夷が密交易をしていると書いてあります。密交易の取り締まりに役に立つのではないかとお持ちした次第」

  松本は、書物に見入る意次を見て手ごたえを感じた。

 

 

「実に興味深い内容じゃ。家中の者が、築地にある工藤の屋敷に出入りしておる故、工藤の評判は聞いていたがこれほどまでとはのう」

  意次が何度もうなずきながら言った。

 

 

「工藤殿の話によれば、しばしば、赤蝦夷が蝦夷地に上陸して、食糧や薪炭を求めているようでござる。工藤殿のように交易を認めた方が国益になると考えている蘭学者もおるようでござる」

  松本が、身を乗り出して言った。

 

 

「前置きは良い故、本題に入るが良い。何か、話したいことがあるのじゃろう? 」

  意次には、松本の思惑はお見通しだった。

 

 

「蝦夷地の開発を視野に入れてはいかがかと‥ 」

  松本が、周囲に誰もいないことを確認すると小声で告げた。

 

 

「蝦夷地とな? 」

  意次が目を丸くして言った。

 

「蝦夷地では、海産物が豊富に採れると聞いています。蝦夷地の海産物を長崎に集めて長崎を交易の中継地としてはいかがかと‥ 」

  松本が上目遣いで告げた。

 

「交易の拡大で挽回成るかもしれぬ」

  意次は乗り気だった。

 このころ、赤蝦夷が度々蝦夷地に上陸して、蝦夷地在住の日本人の商人相手に密交易を行っていた。安永7年、国後島のアイヌの長、ツキノエの案内で厚岸に上陸したラストチキンの部下のドミトリー・シャバリンとシベリア貴族のイワン・アンチーピン率いる赤蝦夷の遠征隊が、松前藩士に松前藩主宛ての贈り物を渡して交易を求めた事件があった。松前藩側は、赤蝦夷側の願い出に松前藩の一存では交易を許すことはできないとして、幕府に相談するから、来年、出直すようにと返答した。翌年、赤蝦夷の遠征隊は再来日するが、松前藩は、幕府には報告せず独断で交易を拒否した。ラストチキンは交易するのならば、長崎へ行くよう贈物をつき返されたが、長崎は、赤蝦夷から遠くて不便だと言い残して帰国した。蘭学者や蘭癖大名たちの間では、赤蝦夷の南下政策が問題となっており、その多くが、赤蝦夷の南下を防ぐためには、蝦夷へ進出しその経営を行うべきだと主張していた。一方、評定所の構成員たちは、長崎交易の拡大に向けて動き出した。意次は、意知を長崎へ赴かせて、長崎奉行の久世広民と協議させた。久世は、意次の計画に関心を示して協力を願い出た。

 

  天明4年の春。意知は、若年寄と将軍側近を兼ね意次の後継者として幕閣の重臣たちから信頼を得つつあった。意次は、意知の才覚を認めていくつかの政策を任せていた。そんなおり、意次は、忙しい合間をぬって久し振りに狩野邸を訪れた。茶と菓子を楽しみながら歓談が始まったが、いつしか、話題は幕政に移行した。

 

長崎交易を拡大する施策は、ちと早まった気が致してならぬ」

  意次は珍しく弱気だった。

 

 「何か問題でも? 」

 

 「倅に大型廻船の調達を任せたのじゃが、交渉中に、色々と問題が起きて頓挫しそうなのじゃよ」

 

 「たしか、カピタンに、船大工と技師の派遣を頼んだのでしたよね? 」

 

 「ティチングが、船大工に余裕がないと断って来たのじゃ。日本人を現地へ赴かせる対案を出したのじゃが、鎖国令を理由にまたもや断られた」

  意次は、大きなため息をつくと言った。

  

「妙ですね。ティチングは、江戸参府の折に、蘭学者や蘭癖大名らと積極的に交流して見聞を深めていると言いますし、堂々と、幕府と交渉できるまたとない好機を逃すはずがござらん」

  狩野が腕を組むと言った。

  

「おそらく、オランダと英国が戦の最中だというのが、まことの理由でござろう。とりあえず、洋式船の設計図等を日本へ送ることでかたをつけた」

  意次が浮かない表情で言った。

  

「何か心配事でもあるのですか? 」

  狩野が訊ねた。

 

 「おぬしに迷惑がかかるおそれがある故、ちと話しにくい」

  意次が言った。

  

「他言致しませぬ」

  狩野が告げた。

 

 「長崎へ赴いた折、妙な噂を耳にしたと意知が、あることを調べ出したのじゃ」

  意次が小声で言った。

 

 「あることとは何ですか? 」

  狩野が訊ねた。

  

「隠し金じゃよ」

  意次が低い声で告げた。狩野が思わぬ話に言葉を失っていると、意次が小声でささやいた。

  

「西国大名は関ケ原の戦以降は幕閣の要職にも就けず、国役や御普請がある度、駆り出されるため、借金がかさみ財政は傾くばかりだそうじゃが、中には、藩政改革に成功して、見事、藩の財政を立て直した逸材もおると聞く」

  

「隠し金を持っているのは、いったい、どこの誰ですか? 」

  狩野が訊ねた。

  

「倅が、事情を知る者を見つけたと申していた。近じか、その者と対面するようじゃ」

  意次が答えた。

 

 「折を見て、公方様にお話なさってはいかがでしょうか? その隠し金が、倒幕運動のためだとすれば、徳川にとって一大事ではござらんか? 」

  狩野が慎重に進言した。

  

「公方様には、はっきりするまで申さぬ所存じゃ」

  その後、意次は、周囲を警戒するように足早に狩野邸を出て行った。

 

  意次は、密かに、幕府へ献上された蘭書の影響を受けて、蘭学者たちと積極的に交流するようになっていた。蘭学者たちの中には、安永7年の6月に、赤蝦夷船が、蝦夷地に来航し松前藩に通商を迫る事件が起きて以来、諸外国の日本への進出に対する海防論を説く者もいた。工藤平助、林子平、本多利明、佐藤信淵などが、赤蝦夷の南下を防ぐためには、幕府が蝦夷地を開拓して、その経営に着手すべきとする積極論を説く一方で、中井竹山や中井履軒は、蝦夷地は国境外の僻地であり、そのような未開地を開発経営することは、むやみに国力を消耗するだけであるとの消極論を説いた。また、積極論者の中には、主戦論を主張する蒲生君生や攘夷論を主張する水戸派もいた。築地の工藤の屋敷には、患者となった数多くの大名やその藩士、伊達重村および伊達家中の者たち。医師で蘭学者の桂川甫周や前野良沢をはじめとする著名な蘭学者、林子平、勤王家の高山彦九郎、南学派の儒者で国学者の谷好井(万六)、賀茂真淵に師事した国学者で歌人の村田春海など多くの文人墨客が出入りしていた。工藤平助は、赤蝦夷人を「赤蝦夷」と呼び、赤蝦夷の南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた「赤蝦夷風説考」や密貿易を防ぐ方策を説いた「報告以言」を著した。

 

井上伊織がある時「主君が、富も禄も官位も、申し分ないのに、後世に残るような大事業を望んでいるのだ」と、工藤に相談を持ちかけると、工藤は、蝦夷地を開拓し日本の領地として貢租を取ることこそ後世に残る大業だと提案した。蝦夷地を治める松前藩は、過去に国後や択捉など39の島々を描いた自藩領地図を幕府に献上し、十州島、唐太、千島列島、勘察加は松前藩領であると幕府に対して報告している。国後や択捉の首長たちが、松前藩主を訪ね献上品を贈っていることから、松前藩と国後や択捉とが友好関係であることがうかがえる。宝暦4年、松前藩家臣の知行地として国後島だけでなく、択捉島や得撫島を含む国後場所が開かれ、国後島の泊には交易の拠点と共に藩の出先機関にあたる「運上屋」が置かれていた。安永2年になると、商人の「飛騨屋」が、国後場所での交易を請け負うようになった。「赤蝦夷風説考」を献上した後、外国との抜荷の弊害とその防止策について論じた「報国以言」を提出した。意次は、評定所の政策会議の場で蝦夷地を長崎のような交易地として開発し、赤蝦夷との交易で得た利益を幕府の財政の補填にあてることや蝦夷地を天領とし北方警備を行うことを主張した。しかし、莫大な予算がかかる上、蝦夷地を治める藩主の松前道広の行状が問題となった。松前は、家督を継いだ後、遊女を妾にするなど遊興にふけり、商人から金を借りまくった挙句、多額の借金をつくり藩政を貧窮させたことについて、幕府から何度も注意を受けていた。幕府からは嫌われていたが、御三卿の一橋家当主の治済、仙台藩主の伊達重村、薩摩藩主の島津重豪などと交友関係にあった。松前は、以前にも赤蝦夷人の来航を幕府に報告せず、独断で蝦夷地での交易を拒否したことがあったことから、蝦夷地の開発や赤蝦夷人との交易を実現するためには、松前と協力関係を築く必要があった。意次は、家斉の父にあたる治済が、松前と親しいことを思い出して、治済に協力を頼むため、まずは家斉を取り込む作戦に出た。

 

  家斉は、意次の策略にはまったとは夢にも思わず、意次の熱心な勧めにより医師で蘭学者の桂川甫周と対面した。対面場所に指定されたのは、城内ではなく、日本橋室町にある版元「須佐屋」の主、市兵衛所有の店舗兼町家であった。意次は、家斉に対面場所を商家に指定した理由について、蘭学を良く思わない者たちに気づかれないようにするためだとし、「須佐屋」は、これまで、蘭方医学や異国に関する書物を多く手掛けた実績があり、市兵衛本人もぜひにと乗る気であるとの理由を挙げた。意次は、市中を検分することは、家斉の役に立つと力説した後、家斉が、羽目を外さぬよう監視する約束を取りつけて家治から許しを得た。家斉は、意次の監視はあるもののひさしぶりに、城の外に出ることができてうれしかった。

 

「表からでは人目につきます故、裏手から入りましょう」

  意次は、「須佐屋」の辺りまで来ると家斉を裏口へ案内した。表のにぎわいぶりに比べて裏通りは、人通りも少なく空き地が目立った。

 

「お待ちしておりました。ささ、どうぞ、中へお入り下され」

  店主である須佐屋市兵衛が自ら、家斉と意次を出迎えた。案内された客間に入ると、医者で蘭学者の桂川甫周が待っていた。

  

「御意を得ます。町医の桂川甫周と申します。本日は、大納言様より、拝謁賜り恐悦至極に奉ります」

  桂川が平伏した。

 

 「苦しゅうない。面を上げよ」

  家斉が咳払いして言った。

  

「大納言様は、おぬしが翻訳に参加し、おぬしの父が、公方様に献じた解体新書をご覧になり、謁見をお許し下さったのじゃぞ」

  意次は、桂川にことの経緯を説明した。

  

「いたみいります」

  桂川が深々と頭を下げた。

  

「おぬしは、中川と共に、カピタンの江戸参府随行した医学者から、外科術を学んそうじゃが、その医学者について大納言様に話すが良い」

  意次が咳払いして言った。

 桂川は、息つく間もなく語り出した。安永5年、我々は、江戸参府に随伴して来たオランダ商館医のツンベルクから外科手術を学びました。ツンベルクは、安永4年に長崎出島に赴任して以来、商館医としてだけでなく、日本における植物学や蘭学。西洋における東洋学の発展に貢献した。我々は、先生が江戸在住の折に宿を訪ねて、先生から、蘭方医学だけでなく、蘭学や西洋文化などを学びました。先生は、梅毒に対して「昇汞」を処方する水銀療法を行い、多くの患者の命を救った名医とたいそう評判となりました。この療治は驚くべき効果があるとして、通詞の吉雄耕牛たちに伝授されました。

 

 

「商館医から蘭方医学の知識を得ても、役立てる場がなければ、宝の持ち腐れになるのではないか? 」

  家斉は率直に訊ねた。

  

「しかりその通りでござる。医学を志す者は各々で、師匠の元に寄宿して医術を学ぶのが通例ですが、漢方医学に限ります。鎖国下において、蘭方医学を進んで学ぼうとする者はいないに等しいでしょう」

  意次が厳しい面持ちで言った。

 

 「多紀元徳が、医学館の創立を幕府へ申し入れたとお聞きしました。幕府の医学館が創立した暁には、ぜひとも、我々、蘭方医学を学んだ医者も教官として登用して頂きたく存じます」

  桂川が深々と頭を下げた。

 

 「多紀元徳とは何者じゃ? 」

  家斉が興味津々で意次に訊ねた。

  

「多紀というのは奥医師のことでして、安永6年に、広恵済急方と申す救急医療手引書を公方様に献上しました。子息の元簡も医者となり、安永6年に公方様に謁見した次第」

  意次が穏やかに説明した。

 

 「さよか」

  家斉が、あくびをかみ殺してつぶやいた。

  

「何卒、公方様にこちらをお渡し願います」

  桂川が、風呂敷包を差し出した。

 

「これは書物じゃな? 」

  家斉が、風呂敷の形と重さで中身を言い当てた。

 

 「もしや、これは、おぬしが著した書であるか? 」

  意次は、「万国図説」と表紙に書いてある書物を手に取ると訊ねた。

 

 「さようで」

  桂川が照れくさそうに答えた。

 

 「面白そうじゃのう」

  家斉が横からのぞくと言った。

 

 

「大納言様。よろしければ、当店がこれまで刊行した書物を何冊かお持ちになりますか? 必ずや、お気に召していただけると存じます」

  須佐屋市兵衛が愛想良く告げた。

 

 「小難しい学問書ではなく、異国について書かれているものが良い」

  家斉は、うれしそうに言った。須佐屋市兵衛が手をたたくと、ひとりでに襖が開いて隣の部屋に置かれた書物の山が目の前に現れた。

  

「これはお勧めでございます」

  須佐屋市兵衛が、何にしようか迷ってなかなか決められない家斉を見兼ねて、煙草商の平秩東作が松前や江差に滞在した時、アイヌの風俗や蝦夷地の風土について見聞したことを記した「東遊記」など数冊を手渡した。

  

「また、何か、良いものが出たら届けるが良い」

  家斉が上機嫌で告げた。

  

「かしこまりました」

  須佐屋市兵衛が、満面の笑みを浮かべながら返事をした。

 

 「大納言様は、異国に関心をお持ちのようでござるな」

  意次がさり気なく話を切り出した。

  

「父上が、松前藩主と親しくしておられる故、蝦夷地を訪れるアイヌやシベリア、赤蝦夷の人たちの話を聞く内、興味を持ったというわけじゃ」

  意次の予想通り、家斉は、治済を通じて蝦夷地の情報を得ていた。

  

「実は、蝦夷地の開発計画が持ち上り蝦夷地を調査するため、幕府の探検隊が結成される運びと相成ったのですが、松前藩主の松前道広が、以前、赤蝦夷人の来航を報告せず、独断で蝦夷地での交易を拒否した一件が問題となり、計画が難航しておりまして‥ 」

  意次が困り顔で言った。

  

「父上に、松前藩との交渉をお願いすれば、何とかしてくださるはずじゃ」

  家斉は、意次に誘導されているとはつゆ知らず安請け合いして言った。

  

「いたみいります。民部卿にご賛同いただければ、蝦夷地の開発計画は、成功したのも同然でござる」

  意次がすかさずごまをすった。

  

「わしを信じて計画を進めるが良い」

  家斉が自信を持って告げた。

 

 「成功した暁には、民部卿の名を後世に残すとお伝え下され」

  意次もまた、調子の良いことを言った。

  

城に戻る途中、浅草に立ち寄った。浅草寺周辺は、年中人通りが多いため、仲見世を歩くことはできなかったが、遠巻きに、にぎやかな市中の様子を見ることができた。浅草本願寺の横を通りかかった時だ。家斉は、若い男女が楽しそうに集まる様子が気になり足を止めた。

 

「あれはいったい、何の集まりなのじゃ? 」

  家斉が意次に訊ねた。 

 

「あれは、御講小袖という寺の行事でござる。若い門徒が、新調した着物を着て報思講に参詣するのが門徒方のならわしで、男子は、肩衣を着用することになっております。また、男女の出会いの場でもあり、報思講で出会って夫婦となる者も多いと聞きます」

  意次が丁寧に説明した。

  

「庶民は自ら許嫁を選べるのか」

  家斉がうらやましそうに言った。

  

「大納言様。おそれながら、蝦夷地開発の件ですが、折を見て、それがしから、公方様へ報告致します故、民部卿に仲立ちを頼んだ件は、ご内密に願い奉ります」

  意次は、口止めすることを忘れなかった。計画の途中で、家治に知られることあれば頓挫になることは間違えなかった。

 

  松島に代わり、御年寄筆頭の座に就いた高丘は、大奥に来た当初は、御台所の五十宮倫子様が降嫁した時の京師から御伴して来た御中臈の1人に過ぎなかったが、容姿が美しく才媛だったことから、御中臈の中で頭角を現して、明和8年の8月。御台所が34歳の若さで急遽した後も、御年寄筆頭の次席として権威を振るっていた。高丘が御年寄筆頭の座に就けた勝因は、早くから、将軍の側近や諸大名と積極的に交流を持ち信頼を得たことだ。御部屋様として権勢を誇った於知保さえも、高丘の権威の高さには太刀打ちできない。高岳は、家基が急逝した後、新たに世子となった家斉と共に西丸に遷った将軍生母の於富や家斉の婚約者の茂姫に対して、敬意を払うようになり、於知保をないがしろにしはじめた。

 

その一方、意次は、大奥の権力を頼りとしていた。意次と於富の父親、岩本正利が同期だった縁で、於富は、意次の推薦で本丸の奥勤めをしていた時、大奥を訪れた御三卿の一橋治済の目に止まり、治済が家治に於富を所望したため、於富は、一橋家の御中臈となりのちに治済の側室となった。意次が西丸に遷った於富や茂姫の元に、まっさきにあいさつに向かいご祝儀の品を送ったことは言うまでもない。将軍生母や世子の婚約者と結んでおけば、田沼の立場は安泰となる。

 

治済が、松前藩主の松前にねばり強い交渉を行った結果、蝦夷地へ幕府の探検隊を派遣することが決定した。事務方には、勘定奉行の松本秀持。勘定組頭には、土山宗次郎など数名が任ぜられた。普請方には、越後蒲原出身で幕府役人の山口鉄五郎が任ぜられ、幕府の探検隊には、幕府普請役兼探検家の最上徳内をはじめ、青島俊蔵、大石逸平、庵原弥六などが参加する運びとなった。蝦夷地の開発と共に長崎交易拡大のための造船計画が水面下で進められていた。