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江戸の御庭番

   8代将軍吉宗公の御世から、江戸城に仕える御庭番家筋の一統がいる。御庭番家筋は御直の内々御用が本務であるが、内々御用のない時は将軍ないし世子の身辺を警衛する任務に就いている。川村家は代々、小十人格天守台御庭番を継ぐ家系の一つだ。現在の当主の川村清兵衛修就は、天保8年、家督を継いで以来、十七軒ある御庭番の中で頭角を現し始めていた。

 現在の当主、川村(せい)兵衛(べえ)修就(ながたか)は、江戸城御裏門切手番頭として、江戸城の焼火の間に在籍し裏門を守備して通行を監視する職務に就いている。江戸城御裏門切手番頭は、修就を含めて6名が在籍し留守居の配下にある。修就は、文政4年以来、7回の遠国御用を勤めており将軍の御側御用人からの信頼も篤い。修就自身も、向上心が強く遠国御用の手柄を機に昇進したいと願っていた。

 

 江戸城御裏門切手番頭の詰め所は西の丸だ。代替りした今も、西の丸には、大御所の側近たちが幅を利かせていた。彼らは「西の丸派」と呼ばれ現将軍の家慶公の側近と水面下では対立している。修就は、今のところはどちらにもつかず中立的な立場を取っていた。

 

「川村殿。矢部様がお呼びじゃ」

  同僚のひとりが、江戸城御裏門切手番頭のもう1つの職務である大奥の女中が外出時に提出する許可切手を改めていた修就を呼びに来た。矢部というのは、修就たち「江戸城御裏門切手番頭」の上役の西丸留守居を務める矢部定謙のことだ。矢部は剛直な人柄として知られているが、一方では、大飢饉の折、大坂において救民を掲げて蜂起した大塩平八郎が幕府に提出しようとした「建議書八カ条」のうち六カ条が矢部を弾劾する内容だったことから、あらゆる不正を行って口封じのために証人を殺害したという疑いが持たれている。

 

(いったい、何用でお呼びなのであろう? )

 

 修就は、重い腰を上げると大きく伸びをした。久しぶりに西丸に戻ったかとおもえば、早速、矢部からの呼び出しだ。矢部が、下役を呼ぶ時は注意か叱りのどちらかに限る。こんな毎日が続くのであれば、遠国御用に就いて各地を探索する旅をしていた方がましだと修就は思わず舌打ちした。

 

「川村でございます」

  修就は、障子を半分開けるとその場に平伏した。

 

「入るが良い」

  すると、矢部のとがった声が聞こえた。顔を上げると、矢部が眉間に皺を寄せながら書物を読んでいるが見えた。修就は、遠慮気に部屋の隅に坐った。

 

「もちっと、近う寄らぬか。斯様に離れた所におっては声が届かぬではないか」

  矢部が手招きをしたので、修就は、矢部の向かい側へと移ると矢部の様子をうかがい見た。

 

「おぬしが、老中の水野様の部屋に度々、出入りしておるのを見かけた者がおる。まことの話か? 」

  矢部が上目遣いで訊ねた。

 

「いかにも」

  修就が慎重に返事した。修就たち、御庭番は、天保8年に越後長岡藩領の新潟において唐物抜荷が摘発されて以来、老中の水野忠邦の命を受けて、唐物抜荷の探索を行っていた。最近では、修就と倉地新平のコンビが、新潟に潜入して探索を行い2度目の唐物抜荷摘発につながる重要な証拠をつきとめる大手柄を立てた。

 

「うむ。武蔵川越藩、出羽庄内藩それに越後長岡藩の三方領知替えの件について、おぬしはいかに考える? 遠慮なく申すが良い」

  矢部がなぜか、修就に幕政に対する意見を求めてきた。

 

「大御所の実子、斉省様を養子に迎えた川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な庄内藩領地をねらい幕閣に働きかけたもののようですが、武蔵国川越藩主松平斉典を出羽国庄内へ庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封しようとすれば、庄内藩の士民の強い反発は免れぬと存じます」

  修就は率直に意見を述べた。

 

「遠山殿が申していた通りじゃ」

  矢部が満足気にうなずいた。遠山というのは遠山金四郎景元のことだ。川村家と遠山家は、実父の修富の代から家族ぐるみの親交が続いている。そのため、修就と金四郎は、幼少のころから親しくしている。金四郎は、西丸小納戸頭取、勘定奉行公事方を経て、天保11年の3月。北町奉行に就任し、今まさに出世の花道を歩いているところだ。

 

「我々はこの改革に反対しておる」

  矢部が意外なことを暴露した。

 

「我々というのは、遠山殿も反対しておるということですか? 」

  修就は思わず訊ねた。水野派の中心人物ともいえる2人が改革に反対しているとは驚きを隠せなかった。

 

「さようじゃ」

  矢部が答えた。

 

「斯様に大事なことを何故、それがしにお話しなさるのですか? 」

  修就は、矢部の真意がつかめずとまどった。

 

「話はこれまで。戻ってよろしい」

  矢部は、強引に話を終わらせると修就を下がらせた。修就は、一礼して部屋を後にした。

  

 それから数日後の早朝。修就は身支度を整えた後、網笠を被り「清厳寺へ参る」と妻の滝に告げて屋敷を出た。滝は、修就の姿が見えなくなるまで門の前で見送った。修就は、網笠を目深に被り直すと居屋敷の前の坂を足早に下った。修就が居屋敷を出たほんの数分後、修就の姿を見つけた家用人の江川保右衛門があわてて同じ敷地内に建つ役宅から飛び出して来た。

 

「斯様に朝早く、殿はいったい、どちらへ参られたのですか? 」

  江川は、屋敷の中へ戻ろうとしていた滝を捉まえると訊ねた。

 

「清厳寺ですよ」

  滝が何食わぬ顔で答えると、江川は黙って引き下がった。滝は、川村家に嫁ぐ際に姑のコノから川村家の家訓と共に御庭番の妻としての心構えを教わった。1人で清厳寺へ行くのは、御用がある時だけだ。もちろん、家用人の江川も承知の話であった。

 

 それを証拠にそれから数分後。修就は、清厳寺ではなく日本橋にある伊勢松阪出身の商人が江戸店として創業した老舗呉服店の暖簾をくぐった。

 

「殿様。いらっしゃいませ」

  店の前を掃除していた丁稚が、修就に気づくと愛想良くあいさつした。

 

「番頭の吉平次はおるか? 」

  修就は穏やかに訊ねた。

 

「へい」

  丁稚は、暖簾に手を掛けると修就を店の中へ招いた。開店前ということもあり、手代をはじめ店で働く者たちは皆、開店準備に追われるように忙しく立ち回っていた。1階の見世は広く、帳場だけでも本店一番から10番、東1番から14番まである。また、勘定場や織物方や注文方などの会所がある。大店だといわれているだけあって、市中には珍しい庭付な上に客専用の厠まである。

 

「番頭の吉平次を呼んでくれるか? 」

 

「どうぞ、お上がりなってお待ち下され」

 

 修就に応対した中堅の手代は、修就の話し言葉を聞いて、旗本であると瞬時に判断したらしい。江戸の商人をはじめ町民は旗本贔屓だ。生粋の江戸弁で老若関係なく語尾に「じゃ」と付けて話すのは旗本だけに許されている。

 

「いらっしゃいませ」

  しばらくして、恰幅の良い初老の番頭が、奥から出て来ると修就の前に腰をおろした。

 

「よしなに頼む」

  修就が、鍵をちらつかると番頭がうなずいてみせた。

 

 修就は、廊下のつきあたりまで来ると、慣れた手つきで壁を押した。すると、隠し階段が出現した。隠し階段の先には、頑丈な扉がある。この隠し部屋は、普段は鍵がかかっていて開かずの間とされている。店では番頭だけが唯一、隠し部屋の存在を知らされており、御庭番以外の人間は入ることができない。鍵は、御庭番が内々御用を命ぜられた際に将軍の御側用人または老中から直接手渡される。今回、修就は、家慶公の御側用人から内密に調査を命ぜられて鍵を受け取った。他国へ赴く大がかりな探索の他、江戸市中を移動する小回りの探索も時々ある。隠し部屋は、間口9尺奥行2間。裏長屋の広さだ。床敷が4畳半1間で、畳敷が1畳半。畳の上で着替えや身支度を整える。部屋の中には、着物や小物を入れた箪笥、鏡台、行灯そして、長火鉢が備え付けてある。戸を開けた途端、明かり取りの小窓から、朝陽が隠し部屋の中へ差し込み、部屋中に綿ほこりが舞っているのが見えた。

 

  長い間、閉めきっていたため、ほこりが舞うのは仕方がない。修就は、片手で鼻を塞ぎながら、もう一方の手で戸を開けると、素早く中に入って静かに戸を閉めた。修就は、隠し部屋の存在を初めて知った時は胸が躍った。修就の実父、修富も内々御用を勤め、時には大がかりな探索で各地へ旅立ったらしい。遠国御用の任務で各地へ潜入している期間、現地の人間に対して、身分を明かせないことになっているため、その時々に応じた姿に変装しなければならないのだ。

 

 修就は、数ある変装用の衣装や小道具の中から豪商の変装を選んだ。かつらを被ることや商人風の着物を着こなすことは慣れっこだが、町人の話し言葉だけは、いつまでたっても慣れることができない。修就は鏡台の前に坐ると、口癖になっている「じゃ」を語尾に付けない話し方を小声で数回反復練習した。

 

 しばらくして、店の方が、騒がしくなって来たため、修就は速やかに裏門から外に出た。それから、何事もなかったように、横丁から表通りへ飛び出した。日本橋付近は、大勢の人たちが、ひっきりなしに往来し大混雑している。横丁から、見知らぬ商人が出て来て、人ごみにまみれても、気にかける人は誰もいないのだ。そのため、商人に変装した旗本は、誰にも気づかれることなく任務を遂行できる。

 

  天保の大飢饉により、地方から百姓などが大量移住して来たため、江戸の人口は、ここ数年の間で以前の数倍にも膨れ上がった。修就が橋を渡ろうとした時、どこからともなく現れて合流した者がいた。何気なく横を向くと、手代に変装した倅の順次郎だった。

 

「おそいではないか。今まで、どこをほっつき歩いておった? 」

  修就が小声でとがめた。隠密御用を共に務めるのは今日がはじめてだ。初日だというのに、順次郎は約束の場所に現れなかった。

 

「すみません。野暮用がありまして」

  順次郎が平謝りした。

 

「その派手な柄はなんだ? こたびは、豪商と手代でいくとあれほど念を押しておいたではないか? 」

  修就が、順次郎を横目でにらんだ。

 

「芝居見物の客を装うのであれば、着物も新調した方がよろしいかと思いまして」

 

「良いか? 大事なのは見た目ではない。手代になりきることだ」

 

「しかと心得ました」

  順次郎が生返事した。

 

「これでは、先が思いやられる」

  修就は、危なっかしい順次郎に一抹の不安を覚えた。

 

  江戸には、幕府お済みつきの大きな芝居小屋が3軒ある。それらは、総称して『江戸三座』と呼ばれている。上方で盛んだった歌舞伎が江戸にもたらされたのは寛永元年のことだ。初代猿若勘三郎一座が、芝居小屋を建てて興行を始めて以来、『中村座』、『市村座』、『山村座』、『森田座』が、次々と旗揚げしたが、『山村座』は、正徳4年に起きた江戸城大奥女中の芝居見物が発端の『絵島生島事件』により廃絶した。残った三座も、当時、老中だった松平定信が主導した『寛政の改革』の際に、日常髪を楽屋銀杏に紫帽子を被り派手な振袖に羽織という装いをしていた女形の人気歌舞伎役者の瀬川菊之丞が、着物が御禁制の縮緬だったことをとがめられてその場で脱がされたり、芝居小屋は囲いの禁止に値するとして営業を差し止められたりと、数々の差別に遭うなど歌舞伎役者共々不遇の時代を送った。

 

 しかし、大御所の放漫政治が始まると、町人文化が一気に華やいで多くの看板役者が人気を博し、歌舞伎も一時は再興に向かうが、天保に入ると、再び質素倹約が慣行されて、三座共々経営不振に陥った。

  さらに、大飢饉に伴い各地で頻発する一揆や物価の上昇による社会的不安が広がる中、娯楽に金を費やさない傾向が高まり、芝居町では、芝居小屋や茶屋などによる客争奪戦が過熱していた。

 

「芝居見物に来た客よりも、芝居小屋の若衆や茶屋の手代の姿がやけに目立ちますねえ」

  順次郎がつぶやいた。修就は、目当ての茶屋を見つけるとその暖簾をくぐった。『中村座』の隣に店を構えるその茶屋の二階の渡り廊下は『中村座』の桟敷へと繋がっている。

 

「いらっしゃいまし」

  一見、歌舞伎役者と見間違えそうな伊達男風の茶屋の主人が2人を出迎えた。

 

「予約した江戸屋伊左衛門だ」

  修就は、アゴを上げて腹を突き出すようにして告げた。細身の修就が、あみ出した恰幅が良さそうに見える仕草だ。

 

「お待ちしておりました。ささ、上へどうぞ」

  その茶屋の主人が、愛想良く2人をもてなした。2人は、茶屋の草履に履き替えると、履いて来た草履を下足番に渡して若い手代の案内で、茶屋の2階へ上がった。2階の方から、三味線の音色と共ににぎやかな話し声が聞こえて来た。

 

「ところで、旦那様は、当店を初めてでございますか? 」

  若い手代が、2階の廊下に着いたところでふり向きざまに訊ねた。修就は小さくうなずいた。さきほどから、奥の座敷から聞こえるにぎやかな物音が気になっていた。幕府による倹約令がしかれて、武家だけでなく、庶民の間にも質素倹約が広まっていると思っていたが、日中から、働きもせず茶屋の座敷を借りて酒宴を開いてどんちゃん騒ぎをしている不届き者がいるらしい。

 

「あちらは、ずいぶんと、にぎやかですね」

  順次郎が若い手代に話しかけた。

 

「旦那様もよろしければどうぞ」

  若い手代が、手もみをしながら修就にすり寄った。

 

「とんでもない」

  修就はわざと大げさに拒んだ。

 

「当店では、桟敷席に弁当や茶菓子など飲食物を付けさせて頂いております。どうぞ、芝居をご覧になる間、当店特製の幕の内弁当をお楽しみあれ」

  若い手代はひととおり説明した後、2人を桟敷席まで案内した。修就は、茶屋の2階から直接、芝居小屋の桟敷席まで行くことができる構造を気に入った。席に着くと、座布団と煙草盆が用意してあった。そのすぐ後から、茶屋の若い手代たちが、お茶、弁当、酒の肴、水菓子を運んで来た。修就は、次から次へと運ばれて来る食事に面食らった。

 

「ここからですと、芝居小屋全体が見渡せますね」

  一方、順次郎は、桟敷席の手すりに手を掛けると、身を乗り出すようにして物珍しそうに周囲を見回している。

 

「これ、坐らぬか」

  修就は、茶屋でもらった役付けを膝に置くと順次郎の着物の袖を引っ張った。桟敷席の座布団は、ふかふかで坐り心地が実に良い。芝居小屋は満員御礼。大向こうまで客が押し寄せて、階下の土間は鮨詰め状態だ。どこの芝居小屋も閑古鳥が鳴く状態だと聞いていたが、連日、大当たりを出している興行は、特別なのだと修就は感心した。

 

  開演10分前を切ると、桟敷席も徐々に埋まり出してきた。修就は、お茶をすすりながら何気なく周囲を見渡した。すると、3つ離れた席に並んで坐る女性客3人が目についた。町娘にしては、上等な生地の着物を着ている。厠に立ったついでに、3人の近くへ行き、顔を確認したところ、修就が探していた奥女中たちに間違いなかった。3人は、満面の笑みを浮かべながら楽しそうに話をしていた。

 

「旦那様。向かいの桟敷に坐っている野郎2人が見えますか? あの派手な出で立ちは、世間でかぶきものともてはやされている連中ですぜ」

  順次郎が、箸で向かい側の桟敷席を指し示すと耳打ちした。

 

「ひょっとして、おまえさんのその出で立ちは、あの者らの受け売りなのか? 」

 修就が訊ねた。

 

「違いますよ」

  順次郎が否定した。周囲の桟敷客たちが弁当を食べはじめたのを見計らい、修就も弁当を広げた。折箱の中に、小ぶりで俵型のおにぎりが5つ。その隣には、卵焼き、煮しめ、かまぼこ、豆きんとん、お新香が詰めてあった。桜の形に切ってある煮しめの人参を口に入れた瞬間、口の中に砂糖と醤油をたっぷり使い煮込まなければ出せない老舗の味が広がった。

 

「あの連中が、食しておるのは万久の幕の内ではないですか? 」

  順次郎が口をとがらせた。

 

「こっちの弁当もうまいぞ」

  修就がそう言うと、順次郎が、あろうことか、修就が最後の楽しみに残していた卵焼きを取り上げて口の中に放り込んだ。

 

「まことに美味でございますね」

  順次郎が、口をもぐもぐさせながら言った。

 

「おまえさんというやつはまったく」

  修就は、その屈託のない笑顔を見るなり怒る気が失せた。

 

 弁当を食べ終えると間もなく、幕が開き芝居が始まった。役者が登場する度に歓声がわき起こる。

 「絵島生島の事件以来、寺社参拝の折に芝居見物をする女中も減ったと聞きやしたが、まことにおるのでしょうか? 」

  順次郎が、本来の目的そっちのけで芝居談義をはじめた。一方、修就は、弁当を食べている間も、獲物をねらう鷹のごとく標的を観察し続けていた。数日前、修就は、お美代の方付の女中たちが、歌舞伎役者の話をしているのを通りがかりに耳にした。お美代の方の動向を探っていた時のことだ。

 「顔を向けずに、眼だけ動かして右端を見るのだ。右端にいる娘らは、お美代の方付の女中だ。寺社参拝にかこつけて歌舞伎見物にくり出したのだろう」

  修就は、楊枝を使い歯の隙間を掃除していた順次郎の耳元でささやいた。

 

「四代目は、三代目の養子で下谷の茶屋の倅らしいですよ」

  順次郎がぼそっと言った。順次郎は、標的を前にしても動じない。修就は、なかなか筋があると思った。

 

「どこかで聞いた話だぜ。中村歌右衛門の屋号は、やっぱり中村屋なのかい? 」

 

「ご冗談を。中村というのは名字ですよ。屋号は成駒屋でございます」

 

「おまえさん、やけに詳しいじゃないか? 」

 

「母上の受け売りですけどねえ」

 

「ところで、昨夜はどこへ泊まったのだ? 」

  ひとしきり会話を続けた後、修就はそれとなく訊ねた。

 

「お目当ての奥女中を見つけたことですし、せっかくですから、芝居を見物して帰りませんか? とっちめるのは、小屋を出た後に致しませんか? 」

  つられて白状するとふんだが、順次郎は話をすりかえようとした。

 

「みきが心配しておったぞ。みきは出来た嫁だ。おまえさんのような放蕩息子の嫁を黙って続けておるのだからな」

  修就は受け流されたことが癪で、思わず急所をついた。順次郎はふだんは何も考えてないように見えるが、みきに対して、どこか後ろめたさを感じているらしく、みきの言うことだけは黙って耳を貸す。

 

「甲斐性なしの亭主が一日中、そばにいては、いくらできた女房でも息が詰まるでしょうよ。わしは、あいつにたまには息抜きをさせてあげようと、あえて、外へ出るようにしているのですよ」

  順次郎がやぶれかぶれに言った。

 

「芝居見物に来たのなら、芝居に集中しないか」

  聞き慣れたしゃがれ声に気づいて2人が同時にふり返ると、北町奉行の遠山金四郎が立っていた。

 

「お奉行が、奉行所を留守にしたら町政が滞るのではないか? 」

  修就がすかさず言い返した。

 

「お忍びで市中を検分しておる。ここへは、日中から酒宴が開かれていると聞いて様子を見に寄ったというわけさ」

  口ぶりは昔と同じだが、見た目は若いころとは比べ物にならないくらい、ここ数年で激変した。最近の金四郎は、もともと小太りで丸顔だったのに加えて年中赤ら顔をしている。

 

「一杯ひっかけてきたような顔で、そう言われても納得できないねえ」

  修就が言った。

 

「顔が赤いのは生まれつきだ。酒宴の参加者たちは、倹約令を平気でやぶる者たちへの見せしめとして、八丁堀を呼んで捕らえさせた。噂が広まれば、じきに酒宴は減るだろう」

  金四郎は、修就の横にどっかりと坐ると言った。

 

「おいおい、そこは他人様の席だぜ」

  修就はすかさず指摘した。さっきまで、上品な御隠居風の老人が坐っていたが、いつの間にかいなくなっていた。

 

「おまえさんの横に坐っていた御隠居なら、今しがた、手代に抱えられるようにして階段を降りて行くのを見たぜ」

  金四郎が煙草を吹かせると言った。

 

「さよか」

  修就はつまらなそうに言うと、一口大に切ってある梨をかじった。

 

「遠山のおじさんは、芝居にくわしいのですか? 」

  順次郎が身を乗り出して訊ねた。

 

「いかにも。何でも聞いてくれ」

  金四郎が答えた。

 

「手前はこの芝居を少なくとも2回は見物しています。この芝居に出て来る飴売が評判になって、今では、こどもから芸鼓までが真似をしておるのですよね? 」

  順次郎がうれしそうに言った。

 

「それは、ちと違うのではないか? わしは、元屋根職人が、おなごの恰好でおなごの声色を出して飴を売ったところ、市中で大流行した故、中村座お抱えの戯作者が、その飴売を台本に登場させたと聞きおよんでおる」

  金四郎が反論すると、今度は、修就が、順次郎の顔を見やった。飴売の件は修就も知っている。しかし、金四郎と順次郎のどちらの説が正しいのかまでは分からない。

 

 そうこうしている内に幕間になった。階下の土間では、弁当や茶などを売り歩く売り子や買ったばかりの弁当を広げて談笑する客の姿が見てとれた。一方、桟敷席は、空席が目立ち始めた。幕間を利用して、茶屋に一旦戻り、それぞれ自由に過ごすのが桟敷席の特権なのだ。修就は、順次郎と金四郎と共に桟敷席を立つと茶屋へ戻ることにした。茶屋へ続く廊下を歩いていた時、前方から、お美代の方付の奥女中たちが歩いているのが見えた。修就は、決行するなら今しかないと思い立った。

 

「そなたらは奥女中ではないか? 町娘のフリをして芝居見物とは、いい度胸をしているではないか? 」

  修就は、お美代の方付女中たちに近づくと呼び止めた。

 

「いやですよ。あたしらは、奥女中なんかじゃありませんよ」

  奥女中たちは、この場におよんでしらばっくれた。

 

「この顔を忘れたとは言わせないぞ」

  修就は、女中たちに顔を近づけた。

 

「こたびだけは、見逃しては下さらぬか? 」

  奥女中の1人が、慣れた手つきで修就の手に金子をにぎらせようとした。どうやら、賄賂のつもりらしい。

 

「姑息な真似をして、心証を悪くするとは思わないのか? 」

  修就は、その奥女中に金子をつき返した。

 

「せめて、芝居がはねるまで待って頂けませんか? 」

  奥女中の1人が半泣き状態で懇願した。

 

「できぬ相談じゃ」

  修就がきびしい口調で言い放つと、奥女中たちが、内輪もめをはじめた。若い娘たちがケンカしていると誰かが通報したらしい。駆けつけた同心とその子分たちが、奥女中たちを番所へしょっぴいて行った。

 

「芝居小屋でお縄になるとは、こりゃまた面倒なことになった」

  修就は、同心たちにしょっぴかれた奥女中たちを追いかけて、連れ戻さなければならなくなりあせった。

 

「父上は先にお戻り下さい。あとのことは、わしにお任せあれ」

  順次郎がいつになく頼もしく見えた。

 

「おまえさんが乗り込んだら、ややこしい話になる。ここは、わしらに任せろ」

  金四郎が告げた。

 

「北町奉行が、番所にしょっぴかれた奥女中たちに関わるのはよろしくないのではないか? 」

 修就が訊ねた。

 

「今しがた、やって来た同心は、金さんと呼ばれていた時分に、さんざん、世話になったおやじさんだ。大事ない」

  金四郎は、修就の心配をよそに順次郎を連れて番所へ向かった。

 


矢部定謙、失脚

 この年の9月某日。修就は、老中の水野忠邦から呼び出しを受けた。

 

「おぬしが以前提出した調査書を読ませてもらった。まことによく調査致したな。おぬしの調査書を公方様がご覧になりおぬしに会いたいと仰せじゃ」

  水野は、修就の調査書の完成度に感銘を受けて家慶公に献上したという。

 

「拙者のような若輩者が記した書を公方様に読んで頂けるとはありがたき幸せに存じます。ましては、謁見をお許し頂けるなどとは恐れ多い話でござる」

  修就はすっかり舞い上がった。

 

「話はそれだけじゃ。戻るが良い」

  水野は、言うことだけ言うと忙しなそうに退室を促した。

 

  それから、瞬く間に時が過ぎ去り謁見の日が訪れた。

 

「調査書を基に、越後新潟に関する史料を作成し提出致すが良い」

 

「御意」

 

 家慶公の命を受けて、修就は『北越秘説』という史料を幕閣に提出することになった。『北越秘説』は、御目見え以上の旗本ならば、誰でも借り入れることができたため、たちまち、江戸城中の話題をさらった。『北越秘話』は、唐物抜荷事件を追う関東取締出役の探索にも強い影響を及ぼし、ついに、越後長岡藩領の新潟町へ捕手方が派遣されて本格的な唐物抜荷探索が始まった。

 

  天保12年の閏1月。大御所が崩御なされた。それから、盛大な葬儀を終えた江戸城に激震が走った。大御所の存命中、成りを潜めていた老中の水野忠邦が、いよいよ動き始めたのだ。水野は、家慶公からの信頼を後ろ楯に、幕政が腐敗した原因を作ったのは、賄賂政治を行っていた大御所の側近であり、幕府の財政を逼迫させた原因を作ったのは、大奥であるとし、大御所の側近、水野忠篤、林忠英そして、美濃部茂育を罷免しただけではなく、さらなる上は、大奥で権勢を誇っていた中臈たちをも罷免した。大御所のご寵愛を受け、次々と、娘たちを有力大名に嫁がせた側室のお美代の方は、大御所の側近、林肥後守、水野美濃守。そして、美濃部筑前守たちと結託して、大御所の遺言書を捏造して娘婿や孫を次期将軍に据えようと謀ったが、大御所の正室の広大院が、その謀略を見抜いて家慶公に密告した。

 

 その結果、お美代の方と側近たちの野望は未遂に終わった。発覚後、お美代の方と結託した側近たちは罷免された。お美代の方は、押込を命ぜられた上に、剃髪することも認められなかった。

 

  同じころ、大奥の女中が頻繁に下総中山の智泉院へ参拝に出掛けて住職の日尚たちと淫らな事を重ねると云う破廉恥な事件が発覚した。寺社奉行の阿倍正弘は、事件を起こした女中たち、住職の日尚、僧侶の日啓を召し捕り遠島に処した。

  一方、水野は、遠山金四郎景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直。そして、後藤三右衛門を登用して改革に本腰を入れた。

 

「水野様が、享保、寛政の政治に復帰するように努力せよと申し渡した覚書を見たかい? 」

 

「大御所が崩御して間もないというのに、段取りが早すぎないか? 」

 

 江戸城内では、改革の話で持ち切りだった。しかし、修就は、意見することはひかえて、成り行きを見守ることにした。

  

 昨年の11月。越後新潟町において、新潟町の廻船問屋『小川屋』の主、小川屋金右衛門が、石見船から買い取り売り捌いた唐物が長崎奉行の発行する手板がついていなかった事から、新潟町の商人たちが長崎や長門の船が積んで来た手板のない不正品を買い取ったり長崎から仕入れたりして売りさばいていたことが明るみに出た。

 

 『北越秘説』を基に、新潟町に赴き唐物抜荷を探索していた関東取締出役は、新潟町の豪商たちをはじめ、事件に関与した疑いのある新潟町の商人たちを召し捕り江戸へ送った。現在、吟味途中ではあるが主謀者とされる肥前国長崎の粂吉や、2度目の関与とされる三条屋忠助は処罰を免れないといわれている。新潟町において唐物抜荷が摘発されたのは、自分達の手柄あってこそだと自負する修就は、いつか、自分にも、上知後の新潟の運営に携わる機会が訪れるかもしれないと予感した。

 

  天保12年、513日。修就は、老中の水野忠邦の信任を得て勘定吟味役に抜擢された。勘定吟味役の定員は、4名から6名。勘定奉行以下勘定所関係の勝手方全般を監察する。

 どこの部署でも、新参者は、勤番の度に弁当の菜を用意して長く勤務している古参の者に勧める慣例がある。夜番の時は、前もって仕出し屋にあつらえておいた一汁一菜の弁当を受け持つ当番につかされる。また、おやつ時に、菓子を振る舞う甘番というものもある。それも上等の菓子を用意しなければならない。異例の昇進をした者の中には、嫉妬やねたみを受けて足元をすくわれないように、古参の者や同僚達を招いて酒席を設けてもてなす者もいる。弁当の菜や菓子については、川村家に出入りしている商人に相談して相応しいものを用意して事なきを得たが、宴席については一筋縄には行かなかった。古参と同僚は共通して、質素倹約を宣言しており宴席に出席したがらなかったからだ。前職の江戸城御裏門切手番頭の時は、勤務外に茶屋で酒を呑み美妓を囲んでいる者もいた。仕事と私生活を区別して、臨時収入は豪快に使うのが粋だとする緩やかな雰囲気があった。しかし、勘定所は常に、殺伐とした雰囲気だ。同僚は話しかけても素っ気ないし、必要なことしか話さない。右も左も分からない新参者の修就は、仕事を教わるのにも気を遣った。そうこうしている間にも、『天保の改革』が着々と進められていた。

  

 修就の元上役、矢部定謙は、修就より一足先に西丸を去り南町奉行所へ異動になった。矢部が、南町奉行に任命されたのは、老中の水野忠邦が昨年から問題とされていた三方領知替えの検証を『天保の改革』の構成員である矢部に行わせるためだと、修就は直感した。

 

 検証結果を聞いた家慶公は、三方領知替えの必要性を認めず再吟味を具申した。結局、7月には、家慶公の裁断により転封は中止となった。

 

 しょせん、水野の鶴の一声で集められた者たちだ。皆がみんな、同じ志を抱いているとは限らない。早くも構成員たちの間では、『天保の改革』に対する肯定派と否定派とにわかれて不穏な空気が流れ出した。修就の知る限りでは、北町奉行の遠山金四郎景元と南町奉行の矢部定謙の2人は反対派で、肯定派の1人の目付の鳥居耀蔵とは対立関係にあった。また、目付の鳥居耀蔵、天文方見習兼御書物奉行の渋川敬直、金座御金改役の後藤光享の3名は、水野の側近中の側近とされ「水野の三羽鳥」とも呼ばれた。

  

 修就が、勘定吟味役となって間もないころに、旗本と御家人の債権未払調査の命が下された。

 

「近頃、旗本や御家人の未払いの債権が増えているようだ。ただちに、検証し結果を報告せよとのお達しじゃ」

  江戸には、参勤交代で、江戸に隔年で滞在する諸国の大名に随って滞在する江戸詰勤番の他、将軍直属の旗本や御家人がいる。知行高一万石未満の将軍直属の家臣で、将軍にお目通りを許された御目見以上の役職に就いている武士を「旗本」と言い、それ以下を「御家人」と云う。通常、旗本は、側衆、留守居、町奉行などの幕政に関わる役職に就くが、この頃、御家人や旗本も含めて役に就いていない「浪人」が、数多くいた。旗本の報酬は、領地を与えられる「知行取」と、米を支給される「蔵米取」であるが、この二つだけでは、生活が苦しく役職を得て支給される手当は、貴重な収入だ。

 

 「蔵米取」は、低い身分の旗本や御家人が、浅草にある幕府の米蔵から春、夏、冬の3期に分けて支給を受ける方式で「知行取」は、役職就きの旗本がその石高分の収穫のある知行知地を与えられ年貢米を給与とする方式になっている。旗本や御家人は、その時の幕府による「御張紙値段」の換算率にしたがい幕府から給金として支給される蔵米を自家で食べる分の米を除いた残りの分を米蔵の近所で商いをしている「札差」と呼ばれる商人たちに売り、現金に換えてそれを生活費にあてている。札差の中には、代理の引き取りで得た手数料で、私腹を肥やして、幕府専門に金を貸す商いを専任する者達も現れた。修就ら勘定吟味役は、手分けして札差にあたり、債権未払の旗本や御家人を割り出した。

 

 千石取りは、用人、近習、徒士の士分の者だけでも23人を使用することが定められているので、債権未払の旗本の中には役職付の者たちもいた。生活費を稼ぐだけでも大変な中で、使用人の面倒まで見なければならない。使用人を多く抱える旗本にとって、人件費は頭を抱える問題だ。修就も他人事ではなかった。

 

「こちらとしても、困っているのだよ。これ以上、未払いが増えたら、うちは店をたたんで一家離散するしか他にない」

  札差の間では、物価上昇に併せて金利を上げる所まで出て来た。札差が、金利を上げた事で利子が上乗せされ金を借りた旗本や御家人は借りた金額の倍を支払わなければならない状況に陥り利子を払うために自転車操業で借金を重ねている苦しい状況が調査により分かった。

 

 幕府は、結果を踏まえて『相対済令』を公布すると同時に、一般貸借金利を、年15分から、12分に引き下げた。更に、札差に対して、旗本、御家人の未払債権をすべて無利子とし元金の返済を20年賦とする無利子賦返済令を発布した。この法令により、元金の返済が可能になり倒産を免れた札差もいた。しかし、無利子としたことにより利子で私腹を肥やしていた札差が貸し渋るようになり、借金で生活費や人件費などを工面していた旗本や御家人の中には借金が出来ずに困窮する者も出て来た。

 

 暮れも押し迫るころ、金四郎が、久しぶりに川村家へやって来た。あまりの激務に痩せたというが、見ためはそう変わっていない。金四郎は、腰を降ろすなり話し始めた。

 

「まったくもって、あのお方にはついてゆけぬ。幕府と町民との板挟みになっている部下の苦労も知らないで、倹約令を強行して風俗取締をせよと圧力をかけてこられる」

 

「去年の今頃は、文渓堂が、書物の売り出しを中止させられたり、巷で人気の作家の本が没収されたりと、何かと江戸中の版元や貸本屋が騒がしかった」

  修就が他人事のように言った。

 

「年間、どれだけの量の書物が世に出されると思う? すべてを摘発するなんぞ無理な話じゃ」

  金四郎が大きなため息をついた。

 

「歌舞伎も、取締の対象になっているのですか? 」

  お茶を運んで来た妻の滝が、めずらしく話にわり込んで来た。

 

「昨日。水野様から、歌舞伎三座の所替えや歌舞伎役者の身持ち風俗に関する風聞書を渡されたよ。検証して意見書を出すよう命ぜられた」

  金四郎はそう言うと、お茶うけに出された羊羹をひときれ口にした。

 

「寛政の改革に似て来た気がする」

  修就がぼそっと言った。

 

「どうやら、水野様は、改革を名目に町人から娯楽までも奪うおつもりのようですね」

  滝はいきおい良く立ち上がったかと思うと、部屋を出る際、障子をぴしゃりと閉めた。

 

「お滝さんは、歌舞伎のこととなると、どうしてあんなに熱くなるんだい? 」

  金四郎が訊ねた。

 

「滝は、ああ見えて成田屋贔屓でねえ。倹約令のせいで、芝居が見られなくなるかと考えると、不安で仕方がないのだろうよ」

  修就は、冷静に答えるとお茶をすすった。

 

「移転先を捜す手間を考えただけで頭が痛くなる。歌舞伎は、風俗悪化の根源だと考える者も少なくない。それに、役者や小屋の関係者にだって生活がある。役者の奢多については、厳罰すれば良い話じゃ」

  金四郎は、すでに心決めているようにもみえた。

 

「おぬしは、愚痴をこぼすためだけに来たのか? 」

  修就が訊ねた。

 

「実は、おぬしに折り入って相談があって参った次第」

  金四郎は背を正すと告げた。

 

「仕事の相談ならば、悪いがおことわりだ」

  修就が嫌そうに言った。互いの仕事には口を挟まない。それが2人の間のルールだったはずだ。

 

「相談したいこととは、おぬしもよく知る矢部殿のことじゃ」

  金四郎が、切羽詰まった様子で話し始めた。矢部という言葉が出た瞬間、修就は嫌な予感がした。

 

「水野様から、矢部殿の身辺を調査するように命ぜられたのだが、正直言って気が進まぬ。矢部殿とは、これまで共に改革に反対して来たいわば同志の様な間柄じゃ。同志の身辺を調査するということは、つまり、味方を売るのと同然ではないか? 」

 

「ひょっとして、水野様と矢部様を天秤にかけておるのか? 」

  修就は、金四郎は、自分と違って人情があると思った。もし、修就が金四郎であれば、迷うことなく水野の命に従う。

 

「どうしたら良いだろうか? 知恵を貸してくれぬか? 」

  金四郎が深々と頭を下げた。

 

「もし、固辞したとすれば、おぬしの身が危うくなる。水野様は、一見、温厚そうに見えるが、おのれに刃向かう者には容赦なく潰しにかかる怖い面もおありじゃ。もしや、これを契機に、おぬしら2人を仲間割れさせようとお考えなのではないか? 」

  修就が慎重に言った。

 

「やっぱり、おぬしもそう思うか? 」

  金四郎が身を乗り出して訊ねた。

 修就はふと、かかりつけの医師の田村玄谷が、老母のコノの診察をしに川村家を訪れた際、話していたことを思い出した。矢部の老母も、田村玄谷に診てもらっていたことから、自然と話題に上ったのだ。田村玄谷の話では、矢部は、103日に老母の看病をするため、「断」を届出てひと月休んだという。コノは、仕事を休んでまで実母の看病をした矢部を親孝行だと褒めた後、修就に対しては、もし、自分が重病になり看病が必要になることがあっても、仕事を休んだりせず、下男や下女に看病を任せなさいと言った。それでも、修就は、娘が病になった際は「断」を届出て看病した実父の修富の話を聞いていたので、自分も家族が重病になった時には「断」を届出て看病すると決めていたとコノに告げると、コノは、当時とは異なり今は家族以外の者に看取りを委ねるだけの貯えは十分あるからときっぱりと固辞した。

 

「どうかしたのか? 」

  修就が、急に黙り込んだので金四郎が心配そうに訊ねた。

 

「矢部様は、おぬしが、矢部様の身辺調査を命ぜられたことを知ることはなかろう。矢部様は、母御の看病をするため断を届出られた。母御が心配でそれどころではないはずじゃ」

  修就は、コノから聞いた話を説明した後、自分の考えを告げた。

 

「どうするべきか教えてほしい」

  金四郎が言いせまった。

 

「先手必勝じゃ」

  修就が告げた。

 

「先手必勝とな? 」

  金四郎が、目を見開いて訊き返した。修就は、金四郎に頭にひらめいた作戦を事細かく話した。重要なことは、おぬしに対する矢部様の怨み辛みを集中させないことだ。まずは、目付の鳥居様に近づいて、この問題に関わる様に仕向ける。このところ、矢部様がおぬしと組んで、改革を真っ向から反対し民心を得ていることを鳥居様は、快く思ってはおらぬ。そこを突く。

 

「なるほど。分かったぞ。鳥居様を悪役に仕立てるわけだな? わしも謀られたと見せかければ、事なきを得るというわけか? そのためには何をすれば良いのじゃ? 」

  金四郎が興奮気味に訊ねた。

 修就はさらに饒舌に作戦を語った。矢部様のことだから、たたけばいくらでもホコリが出て来るはず。調査で浮上したことを問題視して関係者を居宅に集めて吟味する。その時、鳥居様を立ち会わせる。さすれば、矢部様は、おぬしではなく鳥居様にまず目を向けるはず。町奉行は老中の配下。目付がわざわざ、配下でもない町奉行の吟味に立ち会うのはどう考えても不自然だ。何かあると誰しも考えるだろう。

 

「早速、矢部殿の身辺を洗いざらい調べて吟味致すとしよう。鳥居様を言い含めるのは、お安い御用じゃ」

  金四郎は、来た時とうって変わって上機嫌で川村家を後にした。

 

  修就の読み通り、ちょっとたたいただけで、矢部定謙の弱みは怖いくらいたくさん出て来た。矢部定謙に対して反感を持つ人間は思いの他多くいて、色々な話が聞けたらしい。中には、矢部が若いころ、古参が、矢部に嫌がらせをするために弁当の残りでお粥を作ることを命じた際、腹を立てた矢部は、お粥に灯明の油を入れて古参に出して大騒ぎになった。この騒動が、上役の耳に入り、矢部は辞表を出すが、かえって、その潔さが立派であるとして許され、古参の方が、処罰されたという逸話もあった。

 

 金四郎は、北町奉行の権限を利用して、買上米不正事件の関係者を居宅に呼び出して吟味した。その時、鳥居が同席したことが波紋を呼んだ。矢部については、不正があったことを知りながら見逃し、不正事実に絡んだ斬殺事件が御奉行の役宅で起きたにも関わらずこれもまた、見逃したことは職務怠慢であり、非がありながら無実を吹聴したことは解任を免れない罪だとされた。

 

 老母の死後もなお喪に服すとして、公務を休み復帰後も登城することなく役宅で業務を行っていた矢部定謙は、職を辞した後は桑名藩預かりとなった。矢部が辞職したことにより、金四郎は、矢面に立たされることになる。矢部の後任として南町奉行に着任したのは鳥居耀蔵だった。

 


江戸の情勢と越後新潟の唐物抜荷騒動落着

  矢部の辞職を前にして『株仲間解散令』のお達しがあったため、金四郎は、奉行交替劇を見守るどころではなかったらしい。これまで、江戸の商人たちは、幕府公認の同業組合を作っていた。組合を作ることにより、組合員以外の商人の同業営業を禁ずる独占販売が保証された。これは、幕府が、組合を公認する見返りとして運上金と冥加金を組合に上納させるからくりがあった。

  老中の田沼意次が権勢を振るっていた時代には、運上金や冥加金の増徴計画まであり幕府の財政の貴重な収入源の1つでもあった。しかし、老中の水野忠邦は、株仲間の存在こそが物価が高騰した原因だと指摘した。共に戦って来た同志を失ったことにより、金四郎の中で張りつめていた糸が切れたらしい。

 

 これまで、異を唱えながらも、最後は、水野に従って来た金四郎が、ここに来て、修就も驚く反撃に出たのだ。金四郎は『株仲間の解散令』を市中に申し渡さないといった風に抵抗する姿勢を続けた。

 

 株仲間の解散により、白米、塩、味噌、醤油、酒、灯油が値下げし町民の生活は守れたが、これまで、株仲間が中心だった江戸の流通が混乱を極めて一時的に滞った。一か八か、金四郎は、江戸市中の商人たちを奉行所の白洲に集めた。そして、お奉行から呼び出され不安な面持ちの一同に対して、士農商工の身分の話を手はじめに、衣食に関する奢侈を禁ずる趣旨。それから、何かある度に、奉行所へ訴え出ることに対する戒め。大名と町人の格式の違いを主張し身分相応質素に努め贅沢を慎むべきであり、もし、法に逆らうことがあれば厳罰に処すると説いた。金四郎は、白洲の一件で町民の支持を受けることになった。金四郎の名声をより世間に轟かせたのは、芝居小屋の廃止に反対して、浅草猿若町への移転をとめた金四郎の働きに感謝した歌舞伎の関係者たちによる金四郎の活躍を基に描かれた芝居の上演だ。その芝居は、金四郎に似た正義感の強い主人公が、悪役に仕立てられた水野と鳥居をせいばいする痛快劇となっていた。

  

 以前から、英国、露西亜、仏蘭西、米国などの蒸気船が全国各地で目撃されていたが、鎖国を行っている日本には、世界情勢が殆ど伝わっていなかった。幕府は、肥前国長崎に設けた阿蘭陀商館に日本との交易を許可する見返りとして、「阿蘭陀風説書」を提出させるなどして世界情勢についての情報を得ていた。

 

 老中の水野忠邦は、阿蘭陀商館を通して、欧州や欧米諸国の情報を集めさせた。諸外国が日本に開国を要求する目的は補給と交易の為の港を手に入れて日本と交易することにより利益を得ることだということが分かった。特に、米国は東洋諸国進出を目論みそのためには、日本をはじめ、東洋の東側の島々を拠点とする必要があるとみている様に感じた。

 

 鎖国とはいえ、西洋の軍事力に目を向けて西洋式砲術を早くから学んで来た者たちが幕閣には数多くいた。国内には砲術の流派が8派ある。

 

 修就は、砲術家の荻野安重が創設した荻野流砲術の免許皆伝者だ。自分だけでなく、長男の順次郎、2男で惣領息子の庄五郎を修就の砲術の先輩の篠山十兵衛の元で学ばせた。修就の砲術の腕を見込んだ水野は、修就が、拝領地内に砲術の練習場を設けることを許可した。

 

  天保12年、59日。武州徳丸原において、『天保の改革』構成員の1人で砲術家の高島秋帆を指揮者とする西洋砲術の演習が行われたことを機に、徳丸原は幕府の砲術訓練場所となっていた。同年、825日には、吹上園において幕臣による砲術の上覧が行われ国内の8流派の砲術家が腕を競い合った。修就は、海防の重要性を強調した上で北国方面の海岸防備の取組みが、長岡藩は不十分であることを指摘し新潟上知の必要性を訴える意見書を水野に提出した。

 

   そのころ、新潟町で起きた唐物抜荷事件が落着し召し捕られた者たちに処罰が下った。この事件の首謀者とされる肥前国長崎の粂吉は、江戸十里四方と肥前、越後からの追放となり、2度にわたり関与したとされる三条屋忠助は、江戸十里四方追放となった。新潟町の豪商『津軽屋』の若旦那、高橋次郎左衛門と『当銀座屋』の若旦那、善平は後見を受けていたことが認められ無罪放免となった。

 

2度目の摘発のきっかけを作った『小川屋』の主、小川屋金右衛門は、利益没収と過料で済んだ。刑は軽いが新潟町全体で処分を受けた者は、44名、他地域を含めると107名になる。吟味中に、抜荷の唐物を運んだとされる船頭8名が牢死し、新潟町の3名が捕まることを怖れて逃亡した。唐物抜荷事件が落着したことで水野は、修就の提出した意見書を見るなり、川村修就という御庭番の才能を再評価した。

 

  『天保の改革』開始から3年の月日が流れた。このころになると、鳴り物入りではじまった改革にも、ほころびが見えるようになった。桑名藩預かりとなった矢部定謙が罷免、改易に追い込んだ老中の水野忠邦たちに対する抗議のため、自ら絶食した末に病死した。矢部が命がけで反対した『株仲間解散令』は、結果的には、江戸を中心とする経済に混乱をもたらし、人々を苦しめることになったため、矢部の正当性が認められた。

 

 一方、『遠山の金さん』の上演後、一躍、北町奉行として注目を集めることになった遠山金四郎景元は、芝居小屋や床見世に対する弾圧に続き、寄席の削減を強行しようとする水野に禁止項目に含まれていた女浄瑠璃を出す寄席の営業停止に関する伺書を提出したが、水野は寄席の全面撒廃を主張した。それに対して、金四郎は、芸人の失業と日雇い人の娯楽が消える怖れがあるとして反対した。世論も手伝い、一部の寄席は、営業を許可されたが、興行は、娯楽とは縁遠い教育物に限られた。

 

 幕府の財政を司る勝手方に就いている修就にとっても、『天保の改革』は大きく影響を及ぼした。幕府の最大の収入源は、諸藩の農村から徴収する年貢である。幕府財政赤字を解消するための苦肉の策として、幕府は、寛永通宝一文銭の約8枚分の重量で換算すると百文銭に相当する天保通宝を大量に鋳造し流通させた。

 

 幕府の財政は一時的に回復をみせるが、貨幣経済の発達により、江戸で一旗揚げようと地方から江戸へ移る人たちが増えた。そのため、江戸の人口が増大する一方で、農村の人口が減ると共に年貢が減少した。幕府は、『人返し令』を施行し江戸に移住した地方の農村出身の人たちを強制的に帰郷させた。

 

 商人として、改革を補佐して来た後藤三右衛門は、物価が高騰した原因は、天保二朱金や天保小判など悪貨発行をくり返したことにあるとする上申書を老中の水野忠邦に提出した。後藤は、南町奉行の鳥居耀蔵や天文方見習兼御書物奉行の渋川敬直と共に、水野の腹心として知られていただけに、水野の権威も地に落ちたと噂する幕臣もいた。天保小判の鋳造は幕府に多大な利益をもたらしていたが、後藤が指摘した通り、江戸の商品流通に混乱を招いたことは明らかだった。後藤の上申書は受領されて、天保小判の鋳造は、一時中断されることになった。

 

  一方、幕閣内では、開国を求め度々来航する異国船に対応するべく施策が話し合われていた。幕臣の中では、開国派と攘夷派にわかれた。老中の水野忠邦は、隣国の清国が、アヘン戦争で英国に敗れた末に不平等条約である『南京条約』を締結されたことを受けて『異国船打払令』を取り消して、改めて、遭難船に限り必要な水や燃料を与え穏便に追い返すという『薪水給与令』を出した。攘夷派は、海外情勢に詳しい訳ではなく単に、日本の海域を脅かす異国船に反発している傾向が見られ、その根底には現在の幕政を批判することにより、幕府を倒し新たな体制を築こうとする目的があった。

 

それに対して、開国を主張する幕臣の中でも、鎖国を緩和し補給など最低限の要求を受け入れる意見と諸外国の要求拒否、開戦拒否、大型船を所有の点では前者と共通するが、軍備を整えるために必要な財源を開国や開港によりもたらされる交易の利益をあてる意見があった。

 

 修就の周辺でも、異国船や兵器の話で持ち切りだ。川村家には、連日のように、親しい幕臣や家来たちが集まり、互いに持ち寄った情報を交換し共有していた。

 

「近頃、出没しておる黒船は、大型の帆船で船体を黒く塗られておるのは、今までにも度々目にしたことがあるポルトガルや阿蘭陀船と同じであるが、驚くことに、今までより、数倍の馬力があるそうじゃ」

  大筒下役の北山惣右衛門が興奮気味に話した。

 

「その船は蒸気船に違いない」

  御持之頭明キ組同心の若菜三男三郎が得意気に告げた。

 

「若菜。蒸気船は、何で動いておるのか知っておるか? 」

  修就がすかさず訊ねた。ポルトガルや阿蘭陀の船は、唐船と区別するために黒船と称されることが多い。最近、阿蘭陀商館や唐屋敷のある肥前国長崎以外の国の海域にも頻繁に現れるようになったため、町民の間でも目撃者が多数いた。

 

「その件は存じ上げません」

  若菜が答えた。

 

「蒸気船とは、船体横に付いた水車なるものを回して動く船じゃ。日本が鎖国を行っている間、諸外国はめざましい発展を遂げた。開国派の幕臣の間では、海防を強化すべきだという意見を多く耳にする。諸外国の軍事力に、右往左往するような外交では、清国の二の舞になるという上申書が、幕閣に殺到しておるそうじゃ」

  修就は、先日、老中の水野忠邦から浦賀、下田、羽田の江戸湾防備体制を視察する話があることを聞いて、江戸湾の御備場御用掛の推挙を頼んでいた。

 

  そんなある日のことだ。修就は、勤務の後に水野の部屋を訪ねた。水野は、執務中だったが、修就を快く受け入れた。

 

「水野様。お願いしたき儀がござる」

  修就はその場に土下座した。

 

「なんじゃ? 」

  水野がけげんな表情で訊ねた。

 

「江戸湾の御備場御用掛の件、ぜひとも、それがしを推挙頂きたいと存じます」

  修就は顔を上げると、真っ直ぐな目で水野を見つめた。

 

「おぬしが提出した意見書にある通り、北国方面の海防防備に関して長岡藩が不十分だとすれば、新潟上知後の海防強化を考える良い機会かも知れぬ」

  水野は、江戸湾の御備場御用掛に修就を推挙することを快諾した。

 

  天保13年、1018日から1210日。修就は、希望通り、浦賀、下田、羽田の江戸湾海防備体制を視察する御備場御用掛に任命された。浦賀、下田、羽田の中でも修就は浦賀に最も注目した。江戸へ入る廻船は必ず、浦賀の奉行所の検問を受けなければならない。廻船は、積荷の石高に応じた石銭と、乗組員に応じた問屋料を納める。西岸には、百軒もの廻船問屋がある。入江の南側の入口付近に、浦賀奉行所があり岸には、船番所、入江沿いの突き当りに廻船問屋が建ち並んでいた。一方、東岸には、主に千鰯問屋が20軒程あった。異国船が出没するようになって間もないころ、江戸湾の最も狭くなる所で浦賀がすぐ外側にある観音崎の富津線は、軍事防衛線としての役割を付与された。異国船が、内海へ侵入しようとした時に、ここで、撃退することになっているため『打ち沈め線』と呼ばれている。水野は『薪水給与令』を出し直したが、元の『異国船打払令』に戻すべきとする意見も根強く、観音崎の富津線は継続されていた。全国各地の廻船が集まる湊町という点では、越後長岡藩領の新潟湊と同じであるが、大きく異なっている点は海防だ。新潟湊には台場がない。また、洲崎番所には、町方の小役人が詰めているだけで水主の人数が十分でなく、いざ、異国船が現れた際の具体策が定められていない状況だ。

  

  視察から帰ると、修就は、越後長岡藩領の新潟の海防に関する伺書を老中の水野忠邦に提出した。水野は、修就の意見書を基にして新潟上知への準備に取り掛かった。

 

 これまでの功績から考えても、修就が初代新潟奉行に任命されることは間違えなかった。修就は、新潟上知の実現に向けて『北越秘説』の続編でもある『北越秘説附言』を書き長岡藩江戸藩邸留守居へ2冊まとめて送った。

 

 御庭番が、新潟に潜入して唐物抜荷探索を行っていたとは夢にも思っていない長岡藩江戸藩邸留守居は、どこかの藩の者が、嫌がらせ目的で送って来たものだろうと放置した。しかし、偶然、江戸に出張していた新潟奉行所の役人がそれを持ち帰った。新潟奉行所では、江戸の幕臣が書いたという調査書が物議を醸し出していた。その内容があまりにも詳細で、藩の者でなければ知り得ないようなことまで記されていたからだ。

 

  同じころ、江戸市中は、歌舞伎、寄席、床見世などが廃れて人情本も貸本屋の店先に並ばなくなり、町民の娯楽と呼べるものが規制されたせいで活気を失くしつつあった。特に、芝居小屋は、閑古鳥が鳴いた状態で、芝居見物客を相手に商いをしていた多くの店が経営困難に陥り、次々と店を閉めていた。そんな中、芝居好きが歯ぎしりする事件が起きた。名門成田屋の頭領として人気を博していた歌舞伎役者の市川海老蔵が、奢侈を禁じる改革により、南町奉行所に召喚され手鎖の上家主預かりに処された後に江戸十里四方追放に処されて江戸を去ったのだ。修就の妻、滝は、大事に保管していた市川海老蔵の役者絵をたき火に投げ入れて全部燃やしてしまった。

 

「何も、そこまでせぬとも良かろうに」

  娘のテイから、事の次第を聞いた修就は滝をなだめた。

 

「これは、すべて殿の御為にございます。私はこれまで、自分勝手に振る舞って参りました。その天罰をくらったのです。贔屓にしていた海老蔵が江戸を去った今、芝居には何の未練もございませぬ。全部燃やして、返ってすっきり致しました」

  滝が、さっぱりとした表情で告げた。修就は、滝の決意を知りこれ以上は何も申さないと心決めた。

 


奥付



【2019-01-21】新潟湊の夜明け~新潟上知編


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著者 : きの しゆう
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