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「生きてるの死んでるの」

 朝の通勤電車の中、座っている人達は、ほぼ寝ている。疲れているのだろう。前の日、仕事や飲みで遅くなったのか、ほぼ皆寝ている。

 私鉄の駅を降りJRの駅に乗り換えで向かって歩いていると、JRに向かう人、すれ違う人達の顔付けが一様に暗いというか、生き生きとしていないのだ。サラリーマン、OL、学生、生き生きとしている人がとにかく少ない。そして私もそのうちの一人である。

 正直、「会社に行くのは嫌だな」という思いで、疲れた身体をなんとか動かして会社に向かっている。仕事が楽しくない。今、50代中盤になって、30数年のサラリーマン人生で初めてと言っていいほど仕事が楽しくない。当然、上司との人間関係のストレス、仕事自体の興味のなさ、それと全て一人で仕事をする。部下もいない、同僚もいない、ただ一人で上司が二人。チームとして仕事をするのではなく、全く一人でやる仕事。孤独であり、逃げ場がない仕事である。

 以前は、組織の一員として、役割を持ったグループとして部下を束ねて仕事をしていた。組織に対する帰属意識、チームとして共通の目標を立て成し遂げた時の喜び、そのようなものがあって、やはり自らが考えて動く、その仕事の根本の当たり前のことが楽しかったのだ。

 そかし、今の仕事には何もない。人が仕事を頑張れるというのは、自分のため、家族を養うためでは決してないと今までのサラリーマン人生で私なりに自負してきたものだった。大きくは、部門全体のため、自分のグループのため、工場勤務のときも工場のため。どの組織にいても、そこの業績を上げるために貢献したいという思いと上司、仲間から認められているという安心感から仕事をやっていても本当に心底楽しかった。残業しても、会社に泊まっても、土日出勤しても目標に向かって皆と進んでいるという思いが実感できたから、頑張れた。そこには、自分のためとか家族を養うためという、仕事を生きる手段としてではなく、もっと大きな大きな目標に向かって進んでいたことが、今振り返ると、仕事を好きになっていた理由だと実感するのだ。

 しかし今の自分の姿は、明らかに家族を養う一手段としてしか会社で働く意味を見いだせていないのだ。だから会社に行くとき、全く生き生きとしていない。重い身体の塊でしかない。

 失礼ながら、電車で疲れて寝ている人、すれ違う人、一緒に駅に向かって歩いている人の中で生き生きとしていない表情に、仕事を生活の手段としか考えられない人達なのかと邪推してしまう。いや邪推するのではなく、その人達の表情から私自身が納得する考えに収れんするからだ。

 黒沢明監督の「生きる」を以前録画していたのを、何気なくみた。市役所の課長を志村喬が演じているが、冒頭のナレーションで仕事をやっている彼を「もう死んでいる」と言わせるのである。このナレーションを聞いたとき私は、ビクリとして、映画が終わってから「生きていることと死んでいること」を実感した。そして私は暗くなった。「俺、もう死んでいるな」と鋭い刃で深く刺された感覚に襲われた。

 私は、今まで仕事に追われつつも、多趣味な人間だ。映画を見て、本を読み、浦和レッズの熱狂的サポーターでいつも埼スタに行くしジムにも行き、家の近くをランニングもする。5日間嫌な思いで仕事をして週末の2日にかける。しかし家庭のこととか、雑事に追われ、したいことが出来ずに週末が終わるときも多い。また、5日間忍耐の日々だ。そう、もう私は立派に「死んでいる」のだ。

 では、「何故趣味を活かして生きないのか」「時間がもったいないだろう」「やりたいことをやればいい」という声も聞こえる。特に自分探しをしている若い人は、そう言うだろう。

 しかし、私の趣味の範囲で何かをやっても、現実的に今のサラリーを得るのは無理だ。これが現実。「人生から逃げてる」「やってみないとわからないじゃないか」「どうして最初から負けることを考えるんだ」という声も私の胸の奥底から聞こえるのだ。

 ただ、悲しいかな、人間には、生きていてポイントが必ずあるのだ。今私は今年で56歳になる。今年、下の娘が私大に入る、家のローンもまだ残っている。今のサラリーがどうしても必要なのだ。

 勝負に出れない、打って出る勇気もない、何もかもから逃げている。やはり私は「死んでいる」のだ。唯、私が生きて感じ、考え想像したことを「書く」このことのみが、私が「生きてる」瞬間なのだ。

 


「愛犬」

 八年前から犬を飼っている。シーズとポメラニアンのミックス、男の子である。下の娘(当時小学4年生)が、犬を飼いたいと言っていたので、何気なくペットショップに入った。ゲージに入れられている犬たちは、みな血統書付きで驚くほど値段が高い。犬ってこんなに高いんだと思いふと視線を下げた時、彼と出会ったのだ。

 彼は、安い犬四匹ほどゲージに入っていて、四匹とも私にアピールをしている。その中で特に私の目を引いたのが彼だった。可愛いのだが、どこか自信ななそうに遠慮がちにしている。私が彼を抱き上げると、喜んだ顔をして可愛くなった。下の娘も気に入り、彼を買おうとしたとき、店の人が「この犬は噛み癖があるんですよ」と注意をした。人を噛むから今まで売れなかったそうだ。この噛み癖が彼の自信のなさなのかと思った。可愛い顔と自信のなさ、そのアンバランスが何故か私をひきつけ、私は彼を買おうとした。

 そして抱っこして、私がそっと、指を出したとき、確かに齧ってきた。結構痛かった。でも私は、痛がらず、「痛くないよ、でも噛んだらだめだよ」と言って、もう一度指を出すと今度は、噛むのだか、前とは全然違う甘噛みになって、全く痛くなかった。これには、店の人もビックリして私は彼を買うことに決めたのだ。

 いま、彼(名前はマイケル)は、八歳になり、体力もかなり落ちてきているが、相変わらずデスクで書き物をしている私のそばから離れない。犬を飼って八年になるが、今でも犬が家にいる現実が信じられない。ぬいぐるみが動いている、確かに呼吸をしていることに。また、マイケルが、いないことも考えられない。

 お姉ちゃんは、去年結婚して家を出て、下の娘は、今年から大学生で、今バイトで家にいないときのほうが多い。だから、家には、嫁とマイケルと私の3人(?)だけ。もしマイケルがいなかったら、なんとことは考えたくもない。それほど、マイケルがいることに救われてもいるのだ。

 八年という歳月は長い。この間に我が家にはいろいろな変化があって、そのすべてをマイケルとともに生きてきたからだ。マイケルは、どんな気持ちでこの変化を感じ、考えていたのか。私は、実感としてマイケルと一緒に生きてきたという思いだ。マイケルと以心伝心だと、おおげさかもしれないが、真剣に感じている。特にマイケルと散歩しているときは、どのコースを行きたいのか、おしっこがしたいのか、うんちがしたいのか、もっと歩きたいのか、マイケルの気持ちがリードを伝わってはっきりとわかるのだ。人馬一体ではなく、まさしく人犬一体になっているのだ。時には、私が疲れていて、散歩のコースを短くしたいなと思ってマイケルを誘導すると最初は、止まって言うことを聞かないが、私が、疲れているから頼むよという哀願をすると素直に短いコースに納得する。

 人間と犬は言葉が通じないが心は通じる。そして徐々に私の言葉を理解してくる。「昼寝するぞ」とマイケルに言うとマイケルは私のベッドに乗せてくれと身を寄せてきて、一緒にベッドで昼寝する。マイケルも吠える。それは、「ご飯が食べたい」のか、「散歩に連れてけ」なのか、「一緒に遊んで」なのか、マイケルの吠えるタイミングで私も理解する。人間と犬は言葉も通じるのだ。八年という歳月がいつしか以心伝心から一心同体まで昇華してマイケルは、まさしくともに生きてきた、生きていく家族そのものであるのだ。


この本の内容は以上です。


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