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狂人の日常

 関西地方のとある街に単身者用のワンルームアパートが建っている。

 ―クレーン肝粕園。

 そのアパートの四階に、麦原という年金暮らしの独居老人が住んでいる。

 六十を過ぎた麦原は何もすることなく部屋の中で煙草を吸っていた。散々吸った挙句、中々止まらない咳をし続ける。

 女連れの大学生の住人がまるで「そうしないと死ぬ呪い」にかかっているのではないかと疑いたくなる程に、ドアを力強く閉めた。反射的に麦原は、

「じゃかあしい、殺すぞ! ボケー!」

 と叫ぶ。

 女が大学生に訪ねる。

「何、今の声?」

「ああ、このアパートな、キチガイが住んでるんだ」

 ドアを閉めた大学生は麦原の声がした方を睨んでいた。麦原はドアの覗き穴から大学生が階段を降りていくのを確認すると、また激昂する。

「殺すぞ! ボケー!」

 麦原は床や壁を殴り蹴り続ける。ひとしきり殴り続け、麦原の手の皮が捲り上がった頃、麦原は壁時計を見た。

 壁時計は七時三十分を指している。

 無意識のうちに股間を触った麦原は子汚い背広に着替え部屋を出て行った。麦原も「そうしないと死ぬ呪い」にかかっているらしく、アパート中に響き渡る程、力強くドアを閉めた。

 

 麦原の異常な行動で目を覚ました二十代の隣人は、ドアの覗き穴から階段を降りていく麦原の姿を見ると、

「死ね」

 とつぶやく。スマートフォンを手に取り、電話をかける。

「あっ、もしもし。ちょっとまた隣人のことで相談がありまして……」

 

 麦原の日課は毎朝の満員電車に乗ることである。最寄駅である半田駅の券売機で隣の駅までの切符を買い、そわそわしながらホームで電車を待つ。暫く待っていると電車が来た。

 ドアが開き麦原は一瞬で四方八方を見回す。そして若い女がいる方へ行けるように器用な体捌きを見せ、女の後ろに陣取った。麦原の後ろから人が続々と入って来る。その度に乗客は動き、麦原は自分の体を女に押し付けた。

 電車が出発する。勃起した麦原の股間は女の尻に当たっていた。当然女は麦原を見る。

 麦原は下を向いて目を瞑り苦しそうにしている。顔から汗が流れ小汚い背広を濡らす。女は、「まさかこんな老人が」と思い、麦原から視線を外した。女はまんまと麦原の演技に騙されてしまった。恐らく財布か何かが当たっていると考えたのだろう。

「次は篠田ー、篠田ー」

 アナウンスが聞こえ電車は減速する。麦原は下を向いたまま薄眼を開け、ほくそ笑んだ。

 電車がターミナル駅に到着し通勤通学客がぞろぞろと降りてきた。麦原も降りるが、改札には向かわず、すぐに反対側のホームへ行き、帰りの電車を待つ。麦原の表情はまさに恍惚でとろけるようである。

 麦原の被害にあったことに気がつかなかった女は反対側のホームに向かう麦原を訝しげに見ていた。

 帰りの電車に揺られていた麦原は、先ほどのことを思い出し、「もっとうまくやるにはどうしたらいいか」といったことを頭でシミュレートしていた。横には胸元が見えている女が座っているが眠っている。乗客がまばらなことをいいことに、麦原は女の胸元を凝視し続けながら、シミュレートを繰り返していた。

 麦原のそんな姿を強面の男が寝たふりをしながら見ている。

 麦原はずっと女の胸元を見ている。

 

 半田駅の一つ手前である島野駅を降りた麦原は、駅近くのコンビニでエロ本とおにぎりを買うと、レジ近くの募金箱に釣銭の一部の1円を入れた。麦原は心の中で「これで今日は大丈夫だろう」と思った。いいことをすれば自分自身のしたことは、帳消しになると麦原は考えていた。

 麦原が出て行った後、大学生の男性コンビニアルバイト二人が口々に、

「あの爺、またエロ本買っていきましたね」

「飯はろくに買わない癖に性欲だけは異常にあるよな。毎日毎日良く飽きないよな」

「しかも毎回本を変えているんですよ。今日は熟女もので、昨日は制服ものでした」

「年くって、あーはなりたくないよな。あんな人生の敗残者に」

「明日も来ますかねー?」

「来るだろ。それしか能がなさそうだし」

 麦原がコンビニを出て歩いていると、先程胸元を凝視していた女が麦原を指差していた。

 女の横にいた強面の男が麦原に近づく。

「おい、爺。お前自分が何をやったか分かっているよな」

「はっ何がや?」

 麦原は強気である。

「俺の女の胸をジロジロ見てただろ」

 麦原は女を見る。女は唾を吐いて、

「超キモい。死ね」

 と吐き捨てた。

 男は、麦原の肩を強く掴むと、

「そういうことだから、ちょっとこっち来てもらおうか」

 男は麦原を人気がないところに連れて行った。麦原は強気の姿勢を崩していない。

 

 人気がない路地裏で麦原は男に金を渡していた。麦原の目の先にはニタニタ笑っている女。女は麦原が見ていることに気がつくと、心底気持ち悪そうに汚物を見るかのように、麦原に侮蔑の視線を突きつける。金を巻き上げた男は、麦原のエロ本を破り捨て、

「爺よう。そんなに性欲が余ってんだったら、自分とこの奥さんでも抱けよ」

 男と女は去っていく。麦原は破れたエロ本をかき集めながら憤っていた。

「そんな女おらんわ。クソが。社会にまとわりつくゴミ虫が!」

 

 麦原はイライラしながら帰途についていた。

途中、気弱そうな若者が歩いてくるとすれ違いざまに「クソが」と呟き、虚しいストレス発散を繰り返していた。

 家に辿りつき、郵便受けを開けると紙が入っていた。紙には、

「クレーン肝粕園の騒音問題」について苦情があった旨の内容が書かれていた。麦原は一瞥する。

「またか。一体誰やねん」

 さほど気にせず家に入る。麦原はすぐさまトイレに行き今日あったことを思い出した。自然と麦原は自慰に耽る。これも彼の日課である。

 自慰に耽りながら、麦原は自分の性欲の源は童貞だからだという結論にいきついた。麦原は生まれてから一度も女と付き合ったことはない。当然未婚である。風俗で女の局部を見たり触れたりしたことはあるが、それ以上のことはしたことがない。ソープに行こうかと思うことは何度もあったが、知り合いがソープに行って性病になったことを知り、怖くて行かなくなってしまった。それ以来、恐怖心が先立ち風俗にも行っていない。

 

「こらあかん。女を知らずに死ねるか」

 

 麦原は女の視線を思い出した。まるで自分が汚物であると錯覚してしまうような視線。興奮し射精した麦原は立ち上がる。

 すると、とてつもなく大きな音でドアが閉まる音がした。

「じゃかあしーわ! 殺すぞ!」

 麦原は大声で叫んだ。ふいに呼び鈴がなる。

「すみません。麦原さん。すみません」

 麦原はドアの覗き穴を覗く。スーツを着た男が立っている。

「管理会社の者なんですけど、すみません」

 麦原はドアを開ける。

「すみません、麦原さんが大声を出して他のご入居者様の迷惑になっているとの連絡を最近ひっきりなしに頂きまして」

「それはドアを強く閉める奴がおるから。俺はそれに抗議してるだけやし」

「そのことですが当アパートの一部の部屋でドアのたてつけが悪くなっておりまして。もちろん改善いたします。ご入居者様にもドアはなるべく静かに閉めていただくよう言いますので」

「そういうことやったんか」

「ですので、麦原さんもできるだけ静かにお過ごしくださいますようよろしくお願いします」

 管理会社の男は深く頭を下げる。

「あーわかった。わかったから」

 男は一安心した表情を浮かべると、再度一礼し立ち去った。

 

 ドアを閉めた麦原は怒っていた。

「ワシに文句言いやがって。ドアを閉めるガキに言えやボケ!」

 ドアに向かって何度も両手の中指を立てながら叫びまくる。そして壁を殴り、

「うっさいボケ、うっさいボケ、うっさいボケ、うっさいボケ……」

 と、うわ言のように繰り返すと、麦原は今までに来た友人知人からの年賀状を取り出す。子供や孫の写真をプリントしているものを全て切り刻む。切り刻まなかった年賀状の一部は机の上に並べる。それらは全て女性が写っている。

「くそが! くそが! くそがー!」

 叫びまくる麦原は自慰を始めると精液をそれらの写真にぶっかけた。

「どや、クソ共が。お前らの女はワシのもんじゃ。どや、どや、どやー!」

 麦原はティッシュで局部を拭き、

「ワシには何もねー。ワシには何もないんじゃー!」

 麦原はその後も叫び続けた。当然隣人によって管理会社に通報された。

 

 クレーン肝粕園の道路を挟んで向かい側に、居酒屋がある。昼間は居酒屋だが夜になると立ち飲み屋になる店だ。そこの客たちは夜になると大いに飲み、大いに騒ぐ。近所迷惑で通報されてもおかしくなるぐらいに騒ぐのだが、誰も通報しない。なぜならその客連中が、近所の住人だからだ。

 麦原はその立ち飲み屋の客たちにもいらついていた。友人知人は家族に囲まれて暮らしているのに、自分は女に恵まれず童貞でずっとワンルームアパートで無駄な性衝動をたれ流すだけの生活。麦原には近所の住人がまぶしく見えていた。

 ベランダに出て、「うっさい! ボケ!」と叫んでもいいが、そんなことをして居所が特定されると後々面倒だ。ただでさえ管理会社から「要注意人物」として認識されている麦原はこれ以上、「敵」を増やしたくないのだ。しかし麦原はその身勝手な怒りを押さえこみ、叫ぶ代わりに壁をなぐりつけ床を蹴っていた。その間もクレーン肝粕園の躾のなっていない大学生の住人は異常な程の足音で歩き、病的な程強くドアを閉める。

 麦原はその音が聞こえる度に、何度もベランダに出て両隣の部屋と下の部屋を身を乗り出して見る。部屋に明かりがついているか確認してどこの住人が今いるかチェックしているのだ。一定間隔でその動作を繰り返した麦原は、まだ騒いでいる居酒屋を睨みつけ、呟いた。

「くそが……」

 部屋に戻った麦原はひとしきり壁を殴った後、することが何もないため安酒を飲んで寝た。

 

 壁を叩く音に驚いた隣人は、スマートフォンを手に取り管理会社に電話をした。内容はいつも通り、「隣にキチガイがいる」である。


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