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第2章 教育の中期

 人間の一生の自然の経過はまず、幼少期と生みの両親へのこどもじみた依存とを犠牲にすることを青年に要求する。(中略)幼少期の仄暗さから断ち切られることによって、自立的な意識が得られる。

 

 

   ユング『変容の象徴』野村美紀子訳より

 


(1)移すものとなるために

共同体への参入

 

 教育の初期という時期を過ぎると、主体が教育を受ける場は、やがて家庭から共同体へと、その重点を移していくことになる。


 一口に「学校へと」とは言わない。もちろん学校も代表的な共同体の一つではあるが、教育の中期は、学生時代ばかりでなく社会人としての期間をも含んでいるからである。したがって、ここでは"共同体"という大きな括りに甘んじておくほうが、むしろ便利かつ正確なのである。


 つまり、若年層のためのものというイメージがある"教育"という言葉ではあるが、実際には、一生の間、ずっと私が言うところの「教育の中期」に留まる人たちも多いのである。

 

 ゆえに、主体という名称が指す対象にしても、今(初期が終わった時点)は子供であるが、教育に中期にあっては、大人、場合によっては老人にすらなるかもしれないのである。

 

 


移すもの

 

 では、そのように、ときに生涯を貫くことすらある「教育の中期」の内容とは何であろうか。


 すでに語ったところでは、それは「共同体への適応」だった。しかし、それについて詳しく話す前に、もっと抽象的で概観的なものを示しておきたい。読者に、教育の段階の全体を把握してもらうためである。


 教育の段階を、混在的一者(端緒)と自我の確立(終点)の両方に拡大すると、ここに、

 

「混在的一者、教育の初期、教育の中期、教育の後期、自我の確立」

 

 という五つの段階が現れることになるが、この五つの段階のそれぞれに特徴的なことを、次のように図式的に表してみたい。

 

 

(1)混在的一者-与えられるもの(完全なる依存)


(2)教育の初期--過渡期(家庭内における教育)


(3)教育の中期-―移すもの(共同休への適応)


(4)教育の後期--過渡期(自我を獲得するための努力)


(5)自我の確立--与えるもの(自分のもの=自我、を持つ)

 

 

 本節における叙述は、この図式の解説という形で行うことにしよう。

 

 

(1)混在的一者-与えられるもの(完全なる依存)


 自己形成の過程、あるいは成長の過程というものは、意識の発達であるのと同時に、人間が次第に自由になっていく過程でもある。

 

 赤ん坊のとき(混在的一者のとき)には自分白身の自由など寸毫もなく、主体は母親に依存しない限り生命を保つことすらままならない。そこには、すべてを"与えられなければ"生きていけない、まったく不自由な主体の姿があるわけだ。
 


(2)教育の初期--過渡期(家庭内における教育)


 家庭内における教育に与っている主体も、かなり依存性の強い"与えられるもの"としての生き方をしている。

 

 それでも言葉を話すようになるし、そこらを動き回っては自分で情報を集めたりする自由も持っている。また、躾けとして言動を戒められる以外は、何でも試しにやってみていい訳だから、ここにもそれなりの自由があると言えるだろう。

 

 

(3)教育の中期――移すもの(共同体への適応)――《本章の内容


 共同体に参入する頃にもなれば、主体は、誰かに依存するばかりでなく、自分のうちに蓄えたものを誰かに与えることもできるようになる。知識や経験を人に教えることができるし、道徳的なことを相手に教え諭してやることもできる。


 しかし、その自分のうちに蓄えたものが、実質的には、ただ他人から与えられたものに過ぎないならば

 

 ――つまり、与える行為も、ストローのように他人から他人へと、既成の情報を移しかえるだけの意味合いしか持たないならば――

 

 それは本当の意味での"与える"ことにはならない。それはそうであろう。与えるということは、真に持ち主といえる人がこれを与えてこそ正当なものとなるからである。


 あまり良いたとえではないが、どこかで盗んできたサイフを与えられても、良識を持った人間が喜んではならないように、他人の意見を伝えることしかできない人間を"与えるもの"として認めることもまた賢明なことではないのである。


 したがって、この段階にある主体は真の意味での"与えるもの"ではあり得ず、単に情報などを他所に"移すもの"としての立場に甘んじていることになる。


 共同体を流通している情報は、まさしくこの"移すもの"の総体であり、情報の源泉となるのは、すでに伝統となっている過去の文化か、あるいは、ごく少数のオリジナリティを持った人間が発信した内容である。

 

 移すものとしての主体は、まるで自分の意見のように、このような伝統や誰かの意見を伝達しているに過ぎない。

 

 

(4)教育の後期――過渡期(自我を獲得するための努力)      

    
 かの"移すもの"すなわち、情報のストローを作り出すことを目的とした教育の中期に対して、教育の後期は、本物の"与えるもの"が生まれるための過程である。

 

 それは主体が自主性を持った人間になっていくということだ。真に"自分で"自分のなかに蓄えたもの、真に自分のものと言える何かを、他人に与えられるような人間になっていくということである。

 

 そして、この段階に至らない「教育の中期」に属する人たちは、結局は自主性を持たない人間ということになるだろう。

 

 

(5)自我の確立――与えるもの(自分のもの=自我、を持つ)


 教育の後期において目標としていたことは、この「自我の確立」に至って現実のものになる。つまり、自我を確立した者こそ、真に自分のもの、自分のオリジナルのものを持っている人間なのである。

 

 それゆえ己の自由な意志によって、誰かに何かを"与えることができる"人間でもある。すなわち、ここに遂に"与えるもの"としての主体が現出するのである。

 

 


共同体への適応

 

 教育の段階という大きな括りのなかでの「教育の中期」の意味合い、その"移すもの"としての意味合いが、何となくでもお分かりになっただろうか。


「共同体への適応(※)」という言い方も、特にこれ以上のニュアンスを含んでいる訳ではなく、それはまさしく「共同体を構成する、情報のストローを作り出すこと」を目的とした段階のことなのである。


 この移されるだけで創造されない"固形化された情報"は、流行、常識、社会規範、法律などと呼ばれ、私たちにその枠内から出ることを許さないような性質を持っている。特に日本では、他人と異なることが罪悪視されることが多いようだ。


 とはいえ、このような性質を持った「教育の中期」に完全に順応してしまった人間は、結局は自主性を持たない人間になっていくのである。かかる自主性を持たない人間は、学校ばかりではなく、実社会のなかにも無数にいると思われる。下手をしたら老人ホームにだってたくさんいるだろう。


 周囲と行動を合わせることに躍起になっている人たち、自分でものを考えずに、他人からの受け売りだけを身上にして生きている人たち、自分自身の感情を忘れて他人からの評価にだけ幸福のありかを認める人たち、ただ法律に罰せられるのが嫌だから法律を犯さないだけの人たち、こうした人たちは間違いなく自主性を欠いている。


 私も自分のなかにそういう人間がいるのを感じるし、また、そういう人間でしかない人も多い。

 

 実際、こうした人たちを目にする機会はいくらでもあるだろう。学校でも、会社のなかでも、地域のなかでも、テレビでも。ゆえにこそ私は「教育の中期」の舞台として、学校や実社会を含んだ、より大きな括りとしての"共同体"を提示しなければならなかったのである(※※)。

 

※より正確に言えば「順応」のほうが相応しいのかもしれないが、ここでは、よりプラスの意味合いを持つ「適応」を当てはめる。自己形成の過程が進展するにしたがって、ややもすると「教育の中期」がマイナス・イメージ化しかねないからだ。教育の中期もまた、かけがえのない意義を持つものであり、私としてはその点を強調したいのである。

 

※※この共同体は、最大で国家の規模までを指していると思っていただきたい。世界全体、人類全体ももちろん共同体であるが、この世界全体という共同体に適応することは、自我を確立することと同じだからである。この問題については「自我の確立」の章で説明することになる。

 

 


必要性もあるが嘆かわしい部分もある

 

 ただし私は、この「教育の中期」を不要なものと思っている訳ではない。その反対に、この自主性なき期間は、私たちの成長にとって不可欠である。私たちが目的とするのは共同体に貢献することであって、共同体から分離することではないからだ。


 私たちは共同体に貢献したいからこそ、そこにのめり込む"ばかりではなく"それを高次の視点から俯瞰(上から眺めて大局を知ること)できるような人間になりたいのであり、そのためには、まずは第一段階としての"のめり込み"が必要となるのである。


 泥にまみれるようにして地上のことを知らなければ、俯瞰して地上を見たとき、どこに何かあるのかを把握することができないだろう。それでは的確な判断をすることも、適切な意見を持つこともできない。

 

 つまり私たちは、世間知らずの理想論(=共同体の実情と分離した意見)を吐くために生まれてきたのではないということである。


 嘆かわしいのは、たとえば何十年にもわたって学校に生徒として在籍している人であり、学校そのものが悪いのではない。

 

 それと同じように「教育の中期」は大切だが、死ぬまで教育の中期に留まっている人は、その後の段階を踏んだ人たちに比べれば、どうしても人生の意義が薄いものになってしまうだろう。自分が自分であることの意義を示すことができないというのは、実際何とも寂しいものである。

 


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奥付



【2019-01-21】アルベド② 教育の段階


http://p.booklog.jp/book/125436


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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